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夫語録⑬|苦しさは、頭を止める装置なのかもしれない

    ゆら乃|しずくのあいだ

    こんばんは、しずくのあいだです。

    忘れようとしているのに、ぜんぜん忘れられないことってありませんか。

    もう気にしない。
    考えても仕方ない。
    はい、この話は終わり。

    そう決めたはずなのに、気づけばまた同じことを考えている。

    忘れよう、忘れようと思っている時点で、むしろ忘れたいことを頭の真ん中に置き続けているような気もします。

    先日、夫と修行について話していました。

    あ、別に夫婦で修行僧を目指しているわけではないですよ。

    どういう流れでそうなったのか、話はあちこち飛んでいたのですが、夫が言うには、修行には辛さが必要なんじゃないか、と。

    私は最初、我慢する力を育てるためなのかなと思いました。

    苦しくても耐える。
    途中でやめない。
    弱い自分に負けない。

    修行といえば、なんとなくそういう感じがします。

    ところが、夫が言っていたのは、少し違いました。

    たとえば山を登っていて、

    「あとどれくらいあるんだ」
    「まだ着かないのか」
    「もう帰りたい」

    となっているとき。

    あるいは走っていて、

    「苦しい」
    「あと何秒だ」
    「早く終わってくれ」

    と思っているとき。

    その瞬間は、さっきまで頭の中をぐるぐる回っていたことを、考えていられなくなるだろう、と言うのです。

    忘れようとしたわけでもない。
    気分転換しようとしたわけでもない。

    ただ、苦しくて、それどころではない。

    でも、その「それどころではない時間」に、ずっと考えていたことが一度途切れている。

    夫は、そこに修行の意味があるんじゃないか、と考えているようでした。

    テレビを見たり、お酒を飲んだりして、嫌なことを忘れようとすることはあります。

    それで気がまぎれることもあるし、楽になることもある。

    ただ、心のどこかで「忘れたい」と思っているうちは、忘れたい相手も出来事も、まだ頭の中にいるんですよね。

    テレビを見ながら、ふと思い出す。
    お酒を飲みながら、また腹が立ってくる。

    忘れているようで、あんまり忘れていない。

    でも、体が本当にきついときは、少し事情が違う。

    息が上がる。
    脚が重い。
    もう止まりたい。
    あと何秒なんだ。

    そんなときに、昼間の会話を丁寧に振り返ったり、誰かに言われた一言の意味を分析したりする余裕はありません。

    「あと30秒もあるのか」

    たぶん、その30秒は、それしか考えていない。

    夫は、運動のあとにすっきりする理由の一つは、そこにあるんじゃないかと言いました。

    もちろん、体を動かした爽快感もあるでしょうし、やり切った達成感もあります。

    アドレナリンがどうとか、脳内物質がどうとか、そういう説明もたくさんあるんだと思います。

    今は、何を調べても脳の話が出てきますからね。

    でも夫は、そういう説明を先に持ってくるよりも、自分が実際にどうだったかを考えていました。

    (というか、常に感覚重視なので、学術的なことは気にも留めません…)

    マスボクシングをしているあいだ、ずっと引っかかっていたことを忘れていた。

    忘れようと頑張ったわけではないのに、本当に一度、頭から抜けていた。

    だから終わったあと、脳がすっきりするんじゃないか。

    もしかしたら、寝ているときより頭が休んでいることもあるんじゃないか。

    そんなことを言っていました。

    ✦ ✦ ✦

    たしかに、横になっていても、頭がまったく休まらない日はあります。

    眠ろうとしているのに、昼間の会話を何度も再生したり、まだ起きてもいないことを心配したり。

    体は布団の上にあるのに、頭の中だけ会議中。

    しかも、なかなか閉会しない。

    休んでいるようで、全然休んでいません。

    それなら逆に、体のほうを本当に走らせてしまったらどうなるんだろう。

    夫の話を聞きながら、頭に浮かんだのは河川敷でした。

    山にこもるわけでもない。
    滝に打たれるわけでもない。

    私に現実的にできそうな「辛さ」といえば、河川敷を走ることくらいです。

    じゃあ、ダッシュしてみようか。

    歩くことなら、ときどきしています。

    空を見たり、水路を眺めたり、田んぼをのぞいたりしながら歩く時間は、かなり好きです。

    ただ、歩いているあいだの頭は、わりと自由なんですよね。

    あれこれ考えられるし、歩いているうちに、むしろ考えが深まっていくこともあります。

    問いは歩く速度で育つ、なんて言ってきたくらいです。

    では、そこから急にダッシュしたらどうなるのか。

    息が切れる。
    脚が思ったほど前に出ない。
    胸がバクバクする。

    さっきまで考えていたことなんて、たぶんどうでもよくなる。

    「苦しい」
    「もう止まりたい」
    「どこまで走るんだ、私」

    頭の中は、それだけになる気がします。

    でも、その時間こそ、夫の言う「忘れている時間」なのかもしれません。

    忘れようとしても忘れられなかったことが、ダッシュしているあいだだけ、どこかへ消える。

    そして走り終わって、ゼエゼエしながら、また同じことを思い出す。

    ただ、そのときには、少しだけ見え方が変わっているかもしれない。

    何かが解決したわけでもないし、答えが出たわけでもない。

    それでも、ずっと同じところを回り続けていた頭が、一度だけ外へ放り出されている。

    その違いは、意外と大きいのかもしれません。

    苦しさなんて、できれば避けたいです。

    わざわざ辛いことをするなんて、正直、面倒でもあります。

    でも、苦しさには、我慢を覚えるとか、自分を鍛えるとか、そういうこととは別の働きもあるのかもしれない。

    考えすぎている頭を、いったん黙らせる。

    悩みを解決するのではなく、悩み続けている状態を一度切る。

    頭でどうにもならないなら、体に出てもらう。

    そう考えると、河川敷でのダッシュも、ただの運動ではなくなってきます。

    次に河川敷へ行ったら、ダッシュしてみようか。

    走りながら私は何を忘れて、走り終わったあと、何を思い出すのでしょう。


     
     
     
    介護の現場に立ち、田んぼに入り、日々の問いを記しています。老い、暮らし、自然、ことば、夫との対話。いろいろな場に身を置きながら、人が少し呼吸できる場所を探しています。

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