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小説『雨の匂いがする』第11話「雨の終わりを知らない」

    九月になった。

    朝晩の風が少しだけ涼しくなった。

    それでも雨は少なかった。

    相変わらず、朝起きるとカーテンを開ける。

    晴れの日が続くたびに、胸の奥が少しずつ静かになっていく。

    あの街を思い出さない日は、一日もなかった。

    ⸻

    十一日ぶりに雨が降った。

    傘を手に取る。

    玄関を出る前に、一度だけ立ち止まった。

    雨の日が嬉しい。

    その気持ちは変わらない。

    でも今日は、それだけではなかった。

    「今日も、あの街がありますように。」

    そう願っている自分がいた。

    ⸻

    路地を曲がる。

    雨の日だけ現れる街は、今日もそこにあった。

    ほっと息をつく。

    その安心が、以前よりずっと大きくなっていることに気づいた。

    ⸻

    花屋では、女性が鉢植えを店先に並べていた。

    「こんにちは。」

    「こんにちは。」

    いつもの挨拶。

    いつもの笑顔。

    けれど店先は、以前より静かだった。

    花は咲いている。

    でも、並ぶ鉢植えは少しずつ減っている。

    「寂しくなりましたね。」

    思わず口にすると、女性は桔梗に水をやりながら微笑んだ。

    「季節が変わると、咲く花も変わりますから。」

    それはきっと、本当のことだった。

    でも、それだけではないような気がした。

    ⸻

    雨宿りへ向かう。

    ベルが鳴る。

    珈琲の香りが私を迎えてくれる。

    窓際の席へ座る。

    店主が湯気の立つカップを置いた。

    「ありがとうございます。」

    カップを両手で包む。

    温かい。

    その温もりが、少しだけ心を落ち着かせた。

    ⸻

    「最近、よく空を見るようになりましたね。」

    店主がぽつりと言った。

    私は驚く。

    「分かりますか。」

    「ええ。」

    店主は穏やかに笑う。

    「以前は街を見ていました。」

    私は窓の外を見る。

    雨が降っている。

    それでも私は、雨雲の向こうを見ようとしていたのかもしれない。

    次はいつ降るだろう。

    また来られるだろうか。

    そんなことばかり考えていた。

    ⸻

    店を出ると、雨燕時計店へ向かった。

    店内では今日も時計たちが時を刻んでいる。

    けれど、止まっている時計が一つ増えていた。

    私は何も聞かなかった。

    店主も何も言わない。

    ただ、時計の音だけが静かに響いている。

    しばらくして、店主が口を開いた。

    「雨宮さん。」

    初めて名前を呼ばれた。

    私は少しだけ驚く。

    「はい。」

    「もし。」

    店主は言葉を選ぶように間を置いた。

    「もし、次の雨の日が最後だとしたら。」

    私は息を止める。

    「あなたは何をしますか。」

    ⸻

    答えられなかった。

    花屋へ行くだろうか。

    雨宿りで珈琲を飲むだろうか。

    時計店へ来るだろうか。

    少女に会いに行くだろうか。

    全部だった。

    全部行きたかった。

    ⸻

    「決められません。」

    ようやくそう答える。

    店主は小さく頷いた。

    「それでいいんですよ。」

    私は顔を上げる。

    「大切な場所ほど、一つには選べませんから。」

    ⸻

    店を出ても、その言葉が頭から離れなかった。

    ⸻

    広場へ向かう。

    東屋には今日も少女がいた。

    本を閉じて、雨を見ている。

    私は隣に立った。

    しばらく二人とも何も話さなかった。

    屋根を叩く雨音だけが聞こえる。

    ⸻

    「ねえ。」

    少女が口を開く。

    「この街、好き?」

    私は迷わなかった。

    「うん。」

    少女は少しだけ笑う。

    「私も。」

    それだけ言うと、また雨を見つめた。

    ⸻

    帰る時間になった。

    街をゆっくり歩く。

    石畳。

    花屋。

    喫茶店。

    時計店。

    広場。

    今まで何度も歩いた道なのに、一歩一歩を確かめるように歩いていた。

    ⸻

    夜。

    日記を開く。

    今日も街へ行けたことを書く。

    店主に聞かれたことを書く。

    そして最後に、こう書いた。

    「もし、次の雨の日が最後だとしたら。」

    今日、その言葉を何度も思い返した。

    私は答えられなかった。

    まだ終わってほしくないと思った。

    もっと歩きたい。

    もっと話したい。

    もっと雨の日を待っていたい。

    そんなふうに思える場所ができたことが、少し嬉しかった。

    そして、それを失うのが怖いと思う自分がいた。

    日記を閉じる。

    窓の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。

    その音に耳を澄ませながら、眠りについた。

     
     

    璃雨

     
     
    無職/ADHD/鬱病/25歳

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