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じいがいなくなったら、誰に包丁を研いでもらえばいいんだろう。

    『じいがいなくなったら、誰に包丁を研いでもらえばいいんだろう。』

    とろとろと流れる水に太陽の光が反射してキラキラと光っている。その向こう側に、砥石の上をすべっていく包丁。

    「シャコシャコシャコシャコ」

    小さい頃からずっと聞き慣れた音が頭の中を抜けていく。

    30代後半になってもいまだに「孫」をやっているわたしは、手に緑色のホースを持ち、包丁を研ぐ祖父の手元に水を流しながら、じっとみつめる。

    「シャコシャコシャコシャコ」

    ずっと変わらないその音を、いつまで聞くことができるのだろうか。



    母方の祖父母は、わたしが生まれたときからそばにいた。

    わたしの両親は若くして結婚したこともあって、わたしが生まれたタイミングで、母の実家の敷地内に、新築の家を祖父が建てた。
    かわいい娘や孫に家を、というきれいな話では決してなく、いろんな事情が重なって新築の家が建つことになったと聞いている。

    わたしはその家で生まれ育った。
    同じ敷地内に新築一軒家、と書くと大層な資産家のように聞こえるかもしれないが、ただの田舎の農家だ。周りのご近所だって同じように広い土地を持っている。

    ちなみに、祖母の弟が大工だったことも家を建てたひとつの大きな要因である。

    そんな背景があり、祖父母とは一緒の家で暮らしていたわけではないけれど、同じ敷地内に互いの家があったから、いつも近くにいる存在ではあった。

    ちょっと他の家族とちがうところは、祖母が極端な潔癖症(強迫性障害)なので、祖父母の住む家にあがることはできなかったこと。孫どころか、わたしの母を含む実の子どもたちも、一度家を出たあとは“実家”にあがることが許されない環境だった。
    「ばあちゃん、ただいま〜!」と家にあがったことなんて一度もない。
    おとなになって改めて思うが、かなりおかしな家庭環境である。

    そんな風変わりな部分はあれど、祖父母はいつも近くにいた。

    だけど、普通じゃないのは祖母だけで、祖父はとても働き者でまじめな人だ。祖母が“病気”だから、祖父はずっと祖母のことを支えてきた。

    躁うつ病も患っているから、躁状態が激しくて、強迫観念が最高潮になると、祖父に向かってとんでもない暴言を吐くし、家を追い出したことも一度や二度ではない。
    ただ、どんなことをされようとも、祖父は決して祖母のことを見捨てなかった。
    家族みんなが思っている。祖父でないと祖母とは続かなかったことを。よく離婚しなかったと、孫のわたしですら思う。

    ワガママをひとまとめにしてできあがったような祖母と、文句ひとつ言わずに朝から晩まで農作業をする祖父は本当に対照的だ。

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    わたしの祖父は生粋の農家である。時代が時代なので、子どもの頃から畑仕事に勤しんでいた。学校に行く前の農作業は日常で、昔は馬を飼っていたから、馬の餌になる草を朝早くに近くの山まで刈りに行って、たっぷりと肩に担いで家まで帰ってきていたんだという話を何度か聞いた。
    近所の人もみんな行っていたから、子どもながらに担ぐ量が少ないと恥ずかしい思いをしたようで、無理してたくさん担いでいたんだと笑いながら話してくれる。
    そして曾祖母(祖父の母)からは、あいさつをしっかりするように言われていたようで、すれちがう人には「はえねぇ」とあいさつをしていたらしい。
    朝早いね=おはよう、という意味とのこと。

    学校から帰っても、まずは農作業の手伝いがあって、それが終わらないと友だちと遊べなかったと話していて、平成生まれのわたしはこれらの話を聞くたびに本当に頭があがらない思いがする。

    祖父は事実上の長男でもあったので、そのまま家業である農業を継いで、20代前半で祖母と結婚した。4人の子どもがいて、唯一の娘がわたし母である。

    あんまりちゃんと話してくれたことはないけれど、これまで聞いた細切れの話をまとめると、2人はおそらく恋愛結婚で、祖父が祖母のことをまちで見かけて、かわいいと思ったらしい。

    きっと祖父はそのときからずっと、ずーっと、祖母のことがかわいくて仕方がないのだ。

    その証拠に、数年前に祖母が足の手術で入院した日の夜のこと。
    祖父がわたしと母に泣きながら電話をかけてきた。もう寝る前でパジャマ姿だったけど、急いで車に乗り、祖父のもとへ向かった。

    祖父が泣くことなんてないもんだから驚いたけど、わたしと母の顔を見て落ち着いたのか、泣き止んだ祖父は布団に入った。
    あんなに毎日うるさい祖母がおらず、一人、静かな夜を過ごしていたら、どうも不安に襲われたらしい。

    日頃から祖父は、祖母に怒鳴られることしかない。
    あれをしろ、これをしろ、昨日言ったあれをやってない、これはちがう、それはダメ。
    慣れている身内が聞いていても、それは命令口調だし「召使いじゃないんだよ!」と言いたくなるし、実際に毎回わたしは「もう!もっとじいに優しく言ってよ!」と叫んでいる。

    だから、たまにそんなうるさいのがいなかったら、なんてせいせいするだろう、と思わない…?いや、思うだろう、普通は思うはず。

    たまのひとり時間だから、自分の好きなように時間を使えるし、怒鳴ってくる人もいない。

    入院は1週間だから、のんびりできるぞー!って。

    それが、その日の晩には泣いて電話をしてくるもんだから、わたしも母もそれはそれは驚いたのだった。

    あんなにワガママなのに、しんどいことも多いはずなのに、それでもいないとダメな存在なんだと…。

    金婚式なんてとっくに過ぎている夫婦のことはわたしにはさっぱりわからないし、いくら外からは大変に見えて「よく捨てられなかったな」といつも思うけれど、きっとふたりにしかわからないなにかがあるのだろう。



    農業一筋のところに話を戻すと、祖父に鍬を持たせたら右に出る人なんていなくって、鍬なんて小学生になる前から使っているから、身体の一部分みたいに、さくりさくりと自然に鍬で畑を耕していく。
    草だらけだった場所も耕せば土が見えくる。掘り返された土の中から、雑草をかき集めて、鍬で整えたら、あっという間に畝が完成する。

    畝ができあがったらやっとわたしの出番で、カラフルな袋に入った小さな野菜の種を、祖父のまっくろな手のひらにのせる。
    種を植えるとき「種の大きさの2倍の深さで植えるとよ。」と言いながら、これまたサッサッとまいて、さらさらと流れるように土をかぶせていく。わたしが種を3個植えようかという頃に、祖父は10個くらい進んでいる。
    「早くせんと、終わらんよ。」と、役立たずな孫に笑いながら言ってくる。


    あるときは、レモンの樹の異変に気づいて、根を掘ったこともある。
    「ムシクソがある」と謎の言葉を急に発して、根っこを掘り出した。
    相変わらずわたしはなんの役にも立たないけど、小さな黄色いスコップを持ってきて、祖父の作業を眺めていた。
    少し掘って根を見たら、祖父の読みは当たっていて、レモンの樹の根っこの中に、白くうねうねした虫が入っていた。
    「うえーっ…」とわたしが思っていたら、あっというまに祖父はその虫を退治していた。一匹いたらまだいるかもしれないということで、更に根を掘ったり、虫が根を食べでできた穴に針金を通し続けるけど、なかなか他には出てこないから、わたしは「またあとでやろうよ」と言ったんだけど、これがまた聞かない。いや、聞こえないのか。
    こういうときに祖父はAB型を発揮していると思う。
    でもそうしたら、やっぱり他にもいて、親子みたいなのが数匹いたけど、それらも全部退治してしまった。
    祖父が気づかなかったら、祖母が大好きなレモンの樹は根っこが腐って枯れてしまっていたはずだ。

    祖父がいなくなったら、どうやってレモンの樹の状態に気づくことができるんだろう。

    毎年当たり前に収穫していたレモンだから、なくなるなんて考えたことがなくて、はじめて「レモンの樹がない未来」を意識したできごとだった。


    うちの畑や庭が維持できているのは、祖父がいてこそだ。

    あるときは「ブルーベリーの樹が倒れているから起こさないといけない」とお昼ご飯を食べながら言ってきたから、食べ終わってすぐにわたしは準備をした。
    普段はワンピースしか着ないから、汚れてもいい作業用の服に着替えて、腕抜きをはめて、母に『赤ずきんちゃん』と呼ばれる、THE農家の女性みたいな赤い小花柄の帽子をかぶり、あごの下で紐をくくって、首にタオルを巻く。玄関で長靴を履き、軍手をはめて、急いで祖父の元へ向かう。

    相変わらず役に立たない孫だけど、わたしがブルーベリーの樹を起こして支えているあいだに、祖父は鎌で草をサッと刈って、そのへんにある適当な紐でブルーベリーをくくりつけて起こしていく。
    祖父がすると、なんでも一瞬のできごとでおわる。

    本業は花卉農家なので、わたしとやるような作業はあくまでも片手間農業に他ならなくて、一日の大部分は本業に時間を使いながら、あいまのちょっとした時間に他の農作業をやっているだけなのだ。

    そうやって、片手間でしかやっていないのに、ちゃんとどの季節も野菜は立派に育つし、紫陽花は10本以上あるけど毎年きれいに咲くし、レモンもみかんも豊作だから不思議だ。

    うちには数え切れないくらいの植物がある。花も樹も野菜も果物も。いったいいつくあるのか数えてみようと思ったこともあるけれど、数え切れないほどにある。

    小さい頃からそれが当たり前という環境で育ってきた。祖父や祖母の作業をみているのが好きだった。

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    そんなわたしも中学校への進学のタイミングで親元(祖父母元ともいうか)を離れることになり、おとなになってからは東京にも住んでいたので、それなりに祖父母と離れる時間もあった。

    東京を離れ、地元に戻ってきてから、すぐにというわけではないけど、祖父母が歳を重ねたこともあいまって、しばらくしてから祖父母との生活がわたしの日常に戻ってきた。

    会社員として働くわたしは、祖父母の家からは車で1時間半ほどのところで一人暮らしをしているが、ほぼ毎週末、祖父母と過ごしている。もともとは母一人だと大変だからという理由だったけれど、いつしかわたしも加わった。

    5年ほど前に祖母が半年ほど入院したことをきっかけに、祖父母2人だけではもともと住んでいた古い家での生活を続けることが難しくなり、いまはわたしが生まれたときに建てた家に2人は移り住んでいる。
    祖母は退院時、要介護4だった。しかし、母の献身的な介護のおかげで驚くほど回復し、いまではびっこを引きながらではあるが、歩くことができている。

    もうずっと、潔癖の影響で娘も孫も「家にあがれない」状態だったが、わたしや母が家にあがってサポートをしないと生活できなくなったことや、もともと住んでいた家ではなく、“別の家”に移り住んだことが、祖母の中の妥協ポイントになり、わたしと母は「家にあがって」祖母のお世話をしている。

    ちなみに、前の家はまだ残っているし、そこに荷物の大半も置いてあるけど、そこにはいまだにわたしと母はあがることはできない。祖母にとっての聖域だから。


    現在の祖父母との日々は、介護一歩手前の日常のお世話。買い出しに行ったり、お掃除をしたり、祖母と一緒にお料理を作ったり、爪を切ってあげたり。そんなことをして週末を過ごしている。
    これまでの人生で「家の中で祖母と一緒に料理をする」「家の中で一緒にテレビを観る」「家の中で祖父母と一緒にご飯を食べる」ということをしたことがなかったので、30代になってある種の新鮮さを味わっている。

    家の中の作業が落ち着けば外にも出る。祖父の手伝いだ。
    出荷する花を束ねる作業や、野菜や花の世話。祖母が「あれを植えろ、これを手入れしろ」と毎日のように祖父に言ってくるので、それを一緒に作業する。

    そうやってわたしは、祖父の金魚のフンを長いことやっているのだが、特にここ数年で、改めて祖父の一連の行動すべてに毎回感動するようになった。小さい頃から当たり前だった風景だけど、わたしも少しおとなになったからなのか、そのすごさに気づくようになった。

    祖父の動きをみていると、いかに自分が弱いかを思い知らされる。
    わたしなんて、毎日空調の効いた部屋で、カタカタとPCで仕事をして、鳴り止まないチャットに返事をしては、WebMTGのオンパレード。理不尽なことはあるけれど、汗はかかないし、寒くもないし、手も服もきれいなままだし、泥にまみれることなんてない。Wi-Fiが繋がらなかったり、電気が止まれば、わたしの仕事はなんの意味もなさない。
    毎日ご飯を食べるのに、鍬も鎌も使えないなんて、本当に弱すぎる存在だと思う。

    祖父は80代後半になったいまも、朝から晩まで仕事をしていて、休むという概念を知らないのか、一日たりとも休んだことはない。お昼寝だってしないから、ご飯を食べたらすぐに外に行ってしまう。
    年中日焼けをしているし、ごつっとした手はいっつも真っ黒で、爪やシワのあいだには土やアクが染み込んでいるし、毎日泥だらけになって帰ってくる。

    これからの時期は特に危険な暑さだから、本当にいつ倒れるのかと心配だ。でも、仕事自体が生きがいのようなものだから止めることはできない。とはいえ、やはり身体にもガタが来ていて、毎日身体のどこそこが痛いと言う。筋肉がだめになってしもたのかねぇと。
    「じいは働きすぎ!でも、同級生と比べたら一番元気だから、すごいんだよ!」
    と言うのは簡単で、この歳まで働かなくていい人生だったら、こんなことにはなっていない。

    だけど、それでも身体のあちこちが痛いというから、こないだ有休を取って祖父を整形外科に連れて行ったけど、結果は「年齢相応」だった。
    むしろ、年齢に対して骨も筋肉も丈夫な方だと。ただ、筋肉を使って回復しきらないうちにまた筋肉を使うから、それが追いついてなくて身体が痛むんだとドクターは説明してくれた。
    「仕事を休めたらいいですけどねぇ。そういうわけにもいかないんですもんねぇ?」と優しい困り笑いで祖父に言葉をかけていた。

    もう80代後半だもん。そんなに毎日働いたら、そりゃあ限界が来る。

    しかしこれだけ働くのになぜかうちの家は貧乏だ。農業は叔父と祖父とでやっているが、いっつもお金はないし、なんなら農業による借金は膨れ上がっている。
    農家あるあるではあるけど、さすがに見ていて苦しい。
    叔父も祖父に似ていて、まじめに働くタイプなので、寝る時間もなくずっと働いている。

    そんなわけで、わたしの知っている祖父は自分のほしいものを買ったことがない。自分のことはいつも二の次だ。一方、祖母が言ったものはすぐに買って来る。仕事をしていても真っ先に。

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    貧乏ながらも、年によっては花の値段が高いときもあって、余裕があったのか、小さい頃は年に2回、わたしと弟を連れて隣県まで旅行に連れていってくれた。
    日産のマニュアル車で片道120km超の運転。祖母も免許は持っていたが、運転が上手ではないから、往復ずっと祖父の運転だ。
    わたしは酔いやすいから助手席。祖母と弟が後部座席というのがお決まりだった。
    助手席から、ギアを変える祖父の手をいつも見ていた。たまに、わたしがギアに手を伸ばすもんだから、祖父はわたしの手の上からギアを変えてみせたりする。のちに、わたしはもちろんマニュアルで自動車免許を取得した。

    旅行中も、祖父の楽しみはビールくらいで、買い物することもなかった。旅館やホテルの夜ご飯でビールの飲む祖父の笑顔を幼いながらに眺めていた。


    買い物についてのエピソードがひとつだけある。まだダイソーがいまほどの全国区になる随分前の頃、旅先で寄ったスーパーの隅で展開していたダイソーのバケツを見つけた祖父は、その丈夫さを確認し、大量に購入した。
    車のトランクにパンパンに積んで帰ったのを、なぜだか鮮明に覚えている。青、赤、黄。カラフルなバケツたちだった。
    花卉農家だから、バケツはたくさん使う。だからと言って、まさか旅先で100円のバケツを買うとは。
    旅行先でも仕事のことが頭から離れないのだ。

    本当に農業だけの人生。
    わたしが知らないだけで、そこには祖父の幸せがあったのだろうか。

    けど、きっと、なにげない日常が祖父にとっての楽しみであり幸せなのではないか。
    欲がない人だから、きっと本人はそんなことすらも考えてもいないと思うけれど。

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    祖父は祖母の顔を見てよく笑う。
    ここまでに書いてきた祖母のエピソードだけだと、祖母は悪人に思われるかもしれないが、実は祖母には祖母にしかない魅力がある。

    まず、嘘をつかない。いや、つけない。
    全部が全部、真っ直ぐにものを言う。
    これが取り繕えるわけもないから、外でも同じ。
    そのストレートすぎる発言に、わたしたち家族はよく笑う。
    よくもまあそんなことまで言うわね、という笑いが多い。

    ケアマネさんや、デイサービスや病院のスタッフの方々も、祖母の発言で笑っているのをよく見かける。

    家族からするとワガママ星人だけど、外からのウケはよくて友だちも多い。


    祖父と祖母は隣同士に座ってご飯を食べる。決まって祖母が左側、祖父が右側である。孫のわたしはふたりの斜め前に座ってご飯を食べる。

    祖父は耳が遠いのと、祖母は生まれつき声が大きいから、2人の会話の音量は相当大きい。祖父が聞き取れないことも多いから、会話が噛み合っているのかわからないときもよくあるが、なんだかんだ通じ合っているみたいだ。

    祖母は、祖父にはすぐにあまのじゃくなことを言うから、それを聞いて祖父はいつも笑っている。左を向いて、祖母の顔をのぞきこんで「あっはっは!なにを言うかぁ!」みたいな感じでひたすら笑っている。

    80歳を超えて、夫婦どちらも元気に生きているだけでもすごいのに、笑いあえるなんてさぞかし幸せな人たちだ。

    祖母の強迫性障害や躁うつ病には、祖父も、わたしや母も参ることが多い。心はすり減るし、傷つくし、投げ出したくもなる。そんな日々の中で、とれているかわからないバランスをなんとか保ちながら、きっと我が家はまわっているんだ。

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    わたしは祖父母になにかあったら、少なくとも会社を1ヶ月休む。と、同じチームメンバーには常日頃から宣言している。もしも万が一、両親だったら3ヶ月は休職するだろう。

    そのくらい、わたしの日常には家族が溶け込んでいる。
    30代後半で、独身で、子どももいないけれど、わたしには生まれ育った家族がいる。それぞれに難点はあるし、お金もないけれど、かけがえのない存在。


    母はわたしに言う。

    「じいは、ふみさんとおるときが一番うれしそうよ。」と。

    わたしは返す。

    「孫やからね。かわいいに決まってるじゃん。でも一番かわいいのはばあだし、その次がママたちだよ。」って。

    母は笑う。

    わたしのことを「じいの金魚のフン」と呼ぶのは母だ。
    わたしが祖父のそばにいつもいるからだろう。

    毎週末、祖父のご飯を作る。仕事を終えた祖父が帰ってくると、夏は着ている肌着が汗でボダボダで、身体が痛い祖父はうまく脱げないから、わたしが肌着をめくって脱ぐのを手伝う。そうして、祖父がお風呂をあがったら、湿布の時間。冬場は湿布が冷たいから、ストーブの前で湿布を温めておく。たまに温めすぎて「あちぃっ」と言われてしまうけれど、自分だと手が届かない肩甲骨のところに湿布を貼ってあげて、湿布を貼りすぎてかぶれてしまっているところに保湿クリームを塗る。
    それが終わったら、祖父の大好きなビールをコップに注ぐ。
    いつもいつも、おいしそうに飲む。

    それを見て祖母は
    「じいはすぐ、ふみさんに甘える。」とやきもちを焼く。
    でも、どちらかというと圧倒的に祖母のお世話の方に時間を使っているんだけどね。あれして、これしてって、ばあはすぐ言うじゃん。

    なにげないこの毎日が、いったいいつまで続くのだろう。


    ーーーーー「シャコシャコシャコシャコ」

    祖父が包丁を研ぐとき、小さい頃から決まってわたしは「水をかける」のがお手伝いだった。
    本当は、かけ続けていなくっても、たまに水をかけていれば包丁を研げることを、おとなになったわたしは知っている。

    でも、幼いわたしに祖父は
    「ふみさん、ここに水をかけといて。」とホースを持たせた。

    ただ、水をかけるだけのその作業で、わたしはたいそう手伝っている気持ちになった。

    刃を覗き込んでは「ほら、白く光ってるところがあるじゃろ?これやと、まだ研げてないところが残ってるとよ。」と教えてくれる。

    包丁研ぎのやり方を手取り足取り教わったことはただの一度もないし、わたしが実際に包丁を研いだこともない。

    けど、わたしには包丁を研ぐ流れが沁み込んでいる。


    「シャコシャコシャコシャコ、シャコ」



    研ぎ終わったら、祖父は必ず包丁の刃を向こう側へ向けて、そのへんに生えている雑草をシュッと切る。その切れ味で、研ぎ具合を確認するのだ。

    雑草が切れたら
    「よし、いいじゃろ。」と言って、わたしに包丁を渡して、仕事に向かう。

    小さいときにはそんなことはしなかったけど、わたしもおとなになったということだろう。

    そして、わたしは包丁を持って家の中に戻る。

    「ばあ!じいが包丁研いでくれたから、流しに置いとくよ!」


    こないだ、いつものように一緒に研いでいたときに気づいた。
    砥石が薄くなっていることに。
    真ん中が凹むようして、なでらかなカーブを描いた砥石。
    もう少ししたら、割れてしまうんだろう。

    昔からそこにある「包丁研ぎ場」。
    研ぎ場と言っても、ただ、外にある水道の近くに砥石が置いてあるだけ。
    でもそこにはわたしの思い出がたくさん詰まっている。

    触るとサラサラな白い砥石と、灰色でザラザラした砥石と、二つ、置いてある。

    包丁だけではなく、鎌も鍬も、なんでもそこで研ぐ。


    わたしは今日も祖父にお願いする。

    「じい!包丁研いで!」


    ああ。じいがいなくなったら、誰に包丁を研いでもらえばいいんだろう。


    「シャコシャコシャコシャコ」


    水をかける祖父の手元が、ぼやけて見える。





     
     
    あめなし ふみの 30代独身、会社員、結婚願望なし。 一人暮らし13年目。 週末は祖父母のお世話と農作業。 読むことと書くことが好き。 日常での気付きを書き綴ります。 📷FUJIFILM X100VI

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