
大久保翻訳15歳、未来は空白のまま #20
翻訳は帰宅して自室でタブレットを手に取った。なんとなく、以前に書き込んでいた匿名掲示板「Bee Sting」を開くと、画面には受験に関するスレッドが乱立していた。書き込みをスワイプすると、手が止まった。
『derry:derryね、魔法使いさんに会ったの。derry、魔法使いさんの言うことなら、なんでもできる気がするの。受験もがんばれるよ!』
『Re:どんな魔法使うの?』
『derry:英語の先生だよ!derry英語が苦手だったけど、楽しくなってきたの!』
「……derry?」
私はその文字列を小さく口の中で転がした。ロンドンデリー? 違うな、英語の先生か…。
ノートの隅で、英語の綴りに苦戦していた彼女の姿が脳裏をよぎる。「b」と「d」を混同し、泣き出しそうになっていたあの子。
「bとd」derry……berry……イチゴ。
もし彼女が、本来の「berry」という綴りを間違えて打ち込んだのだとしたら。
彼女の指先は「b」を打ちたかったはずなのに、キーボードの上で迷い、対の「d」を選択したのだ。ディスレクシアの名残りとも言えるその書き損じは、紛れもなく彼女そのものだった。
掲示板の向こうで無邪気に踊る「derry」という記号。
「苺ちゃん……」
魔法使い。そう呼ばれることに、くすぐったさも覚えたが、それ以上に胸の奥が熱くなった。
翻訳は「Lemon」のハンドルネームで返信を打とうかと指を動かしたが、すぐにその手を止めた。この関係が壊れてしまうような気がしたからだ。
代わりに、光る液晶「derry」の5文字に向かって、そっと唇を寄せた。
「……これからも頑張ろうね」
誰にも届かない言葉が、暗い部屋の空気に溶けていく。彼女への独占欲は確かにあった。けれど、それを強制力で縛り付けたいという支配欲は、もうどこにも残っていなかった。
光る液晶から目を逸らし、私はカーテンを開けた。窓の外では季節が歩みを進め、街路樹の葉はすっかり落ちて、冷たい冬の匂いが入り込んでくる。
暦は12月を指していた。世間は受験シーズンも佳境に差し掛かり、張り詰めた空気が街を覆い始めている。
私と苺には「推薦枠」という名の緩やかなレールが敷かれている。周囲の喧騒とは無縁の場所にいるはずなのに、それでもなぜか、この季節特有の寂寥感が胸を締め付けた。暖房の音だけが響く静かな部屋で、私は苺を思う。
真冬の入り口で、私はようやく、本当の意味で彼女に触れられるような気がしていた。