
【2026年創作大賞応募作品】『想い愛』〜あの日の約束と正義〜
【あらすじ】
「10年後の同窓会で、まだ私を愛していたら結婚しよう」
卒業式の日に交わした儚い約束。しかし、その直後、美月は姿を消した。
彼女が背負っていた過酷な過去。そして、父の暴力と母の裏切りに隠された真実とは。
失踪の謎を抱え、離れ離れになっても、二人を繋ぎ止めていたのは、あの日交わした約束と、互いを想い合う心。そして純粋な正義だった。10年越しの再会へ向けて、二人が向き合った激動の青春と、その先に待つ感動の結末…。
【プロローグ】
2035年1月4日、同窓会。
彼はそっと彼女のことを想い出していた。彼女から言われたあの言葉を、ずっと胸の内で反芻しながら。
「その日まで、愛してくれていたら、結婚してね」
「なあ。」
不意に健志から声をかけられた。
「お前、なんで彼女と別れたんだ?」
「いや、別に別れたわけじゃねえよ。まあ、なんていうか、いろいろあるだろ」
「いやー、俺、お前は絶対にあの子と結婚すると思ってたよ」
昔から健志はいいやつだけど、どこか無責任というか、センチメンタル的な部分にズカズカ入ってくるところがある。
彼は「そう簡単にいかないんだよ」と流したが、当時のことは本当に簡単にはいかなかった。
健志は追い討ちをかけるように「喧嘩でもしたのか?」と無神経に聴いてくる。
「いや、喧嘩なんかしねえよ」
「でも、喧嘩もしてなくてお互い両想いだったのに、なんでそのままいかなかったんだ?」
「……約束があったんだよ」
「約束?」
「ああ。約束。」
楽しい思い出、辛い思い出、悔しい思い出、清々しい思い出。何もかもが色鮮やかな記憶となって、この胸に蘇る。
彼女が残した言葉。「その日まで愛してくれていたら、結婚してね。」
何度も何度も頭の中を駆け巡る。
冷たい風が吹く、寒空の下。終電を間近に、彼は忘れられない想いでを反芻しながら、ふぅっとため息混じりの息を吐き出した。
【第一章 】出逢い
山本颯太が初めて彼女を見た時、ただ直感的に思った。
「あの子、いいな」
彼女の名前は、山中美月。
少し背が高くて、ショートカットがよく似合う。ふわっとした柔らかな顔立ちに、優しい口調。頭も良さそうなのに、少しも尖ったところがない。細身で、その爽やかな雰囲気は、男子生徒から絶大な人気を集めていた。
2023年4月 入学式
東高校一年の入学式。颯太と美月は、偶然にも隣同士の席だった。
「はじめまして」
颯太から声をかけた。
「あ、はじめまして。南中学から来ました、山中美月です。よろしく」
美月は少しはにかみながら答えた。
「俺、山本颯太です。よろしく」
一目見た時に感じた胸の高鳴り。ああ、これって一目惚れだなと、この時颯太は思った。しかし、颯太は入学式ではそれ以上話かけることができず、美月にとっても、颯太は「ただ隣だった人」というだけの認識だっただろう。
東高校は、県内でもちょっとした進学校だった。だが、勉強一辺倒というわけではなく、部活にも力を入れる文武両道を掲げ、生徒たちの毎日は充実していた。
颯太は母子家庭で、決して裕福ではなかったが、成績は悪くない。中学校では学年トップ10に入るほどの実力があった。もっと上の進学校も狙えたが、颯太は東高校を選んだ。理由は単純で、家から近いから。なるべく早く家に帰って、自分の時間が欲しかったのだ。
颯太は陸上部に入部した。専門は800メートルや1500メートルなどの中距離。県大会の予選は通過できるが、その先の近畿大会には届かない、そんなレベルの実力だった。朝練がない代わりに自宅近くで自主トレーニングに励み、放課後の練習で全力を出し切る。家が近いこともあり、部活が終わってからも時間があった。陸上部の練習はだらだらと長くやっても疲労が溜まるだけなので、夕方6時頃には切り上げるのが常だった。その後、颯太はすぐに家に帰るか、学校のホールで少し勉強してから帰るのが日課になっていた。
ホールに行く理由は、もう一つあった。美月のことだ。友人から聞いた話では、美月は毎日7時頃までホールで勉強しているらしい。将来はA大学に進学したいという強い意志を持って。A大学といえば、圏内でもトップクラスの難関大学で、この東高校からでさえ、年に一人か二人合格者が出るかどうかという狭き門だ。なぜそこまで勉強に打ち込むのか理由は知らなかったが、目標に向かって頑張っている姿は、颯太の目にとても輝いて見えた。
正直に言えば、颯太が部活終わりにホールへ立ち寄るのは、美月目当てだった。恥ずかしくて話しかけることはできないけれど、いつもホールの端っこで勉強している彼女を、そのまた遠い端っこの席から、背中に向けてそっとエールを送っていた。
美月は一年A組、颯太はF組。美月のいるA組は進学クラスで、授業内容も少し違う。教室は離れており、授業で顔を合わせることはない。美月は部活にも入っていなかったので、彼女の姿を見ることができるのは、このホールだけだった。
「一目惚れって、こういうことなんだな」
颯太は自分の気持ちを自覚していた。そして、その想いはすぐに親友の健志に見抜かれた。
「お前、A組の山中さんのこと、めっちゃ好きだろ」
「え、やっぱバレたか」
「バレるだろ。一歩間違えたらストーカーだぞ。声ぐらいかけろよ」
健志にはよくそう言われたが、奥手な颯太には、彼女の近くに寄ることすらできなかった。
「いや、絶対向こうもお前のこと気づいてるって。いっつも部活終わりにわざわざホール寄るやつなんていねえだろ、普通。ろくに勉強もしてないくせに」
「うるせえな、勉強してるよ!」
顔を真っ赤にして言い返す颯太に、健志は呆れ顔だ。
「青春なのかもしれんけどさ。向こうも案外待ってるかもよ」
「いや、そんなわけねえだろ……」
健志の無神経な物言いに呆れる反面、颯太はどこか期待もしていた。
ゴールデンウィークが明けた頃、美月がホールに来ない日があった。その日もいつも通り立ち寄った颯太だったが、彼女の姿がないことに気づいた。
(あれ、どうしたんだろう。何かあったのかな)
心配になって健志に相談すると、「一日ぐらい来ない日もあるだろ」と軽くあしらわれた。
「そんなに気になるならA組に見に行きゃいいじゃん」
「行けるわけねえだろ! 俺がA組に何の用事があるんだよ」
「じゃあ俺が『美月ちゃんいますかー?』って声かけてやるよ」
「だから! それが一番ダメなんだって!」
「お前、それでも男か? 高校生だぜ? 結構ガチ恋なんだな」
健志はからかいながらも、少し心配そうに続けた。
「まあ、美月ちゃんならモテそうだしな。お前に振り向いてくれるかは分からんけど、一生懸命部活やって勉強してる、そういう誠実なところに惚れる子もいるかもよ」
「健志、お前はモテないだろ。お前のその恋愛哲学、参考にならんわ。」
「うるせえな! とにかく、声ぐらいかけろって。もし知り合いがいたら、会わせてやってもいいぜ」
「毎日会ってんだよ、ホールで」
「声かけてねぇじゃねぇか。いつまでたっても進展しねえぞ」
健志の言う通りだった。颯太は、男子と話している時はお調子者だが、こと女子に対しては本当に奥手そのものだった。
その日から、美月は3日連続でホールに姿を見せなかった。颯太は気が気ではなかった。
「なあ健志、絶対なんかヤバいって。ちょっとA組見てきてくれよ」
「なんで俺が行かなきゃなんねえんだよ」
「友達だろ、頼む!」
結局、健志はA組の様子を見に行ってくれた。
「学校には来てるみたいだぞ」
「じゃあ、なんでホールに……。もしかして、勉強やめたのかな」
「いや、お前がいるから気まずくなったんじゃねえの」
「それだけは言わないでくれ……」
颯太が落ち込んでいると、健志が突拍子もない提案をした。
「陸上部のマネージャーに誘うっていうのはどうだ?」
「あ、それいいな! 誘ってきてくれよ!」
「バカ、お前が行け! 気になってんのはお前だろ。マネージャー探しって口実なら自然じゃねえか。普通に声かけろよ」
でも、いきなり「陸上部のマネージャーやりませんか」と言われて、「はい、やります」と答える人間はいないだろう。それでも、3日間も会えないことで、颯太の心は焦りでいっぱいになっていた。
(もしかしたら、他の誰かとデートしてるのかも)
(俺のこと、めちゃくちゃ気持ち悪がってるのかもしれない)
様々な不安が、頭の中を駆け巡った。
2023年6月1日
「分かったよ」
颯太はついに覚悟を決めた。放課後、A組の教室に乗り込み、声を張り上げた。
「すみません、山中美月さん、いますか?」
教室の中がざわついた。
進学クラスだから、周りは明らかに賢そうな子ばかりだった。
そんな中、教室の奥の方の席で授業の準備をしていた美月が、驚いたように顔を上げた。
「……はい」
驚きだけでなく、少し顔がこわばっているのがわかった。
颯太は彼女の席まで歩み寄った。
「はじめまして、山本颯太です。あの、覚えてるかな? 入学式の時、隣だったんだけど……」
「えっ……と、そう、だっけ? ごめんなさい……」
(ガビーン)
「いや、そうじゃなくて、あの、陸上部のマネージャー、やりませんか?」
「ああ……え、急だね」
「うん、まあ……」
「……考えとく」
「え、考えてくれるの!?」
予想外の返事に、颯太は思わず声を大きくした。
「うん、まあ、そんなすぐに返事はできないけど。マネージャーって、嫌いじゃないしね。何か始めようかなって思ってたところだから。考えとくね」
美月は先ほどの強張った表情からすこし解けて、優しく微笑んで言った。
「えっと、颯太くん、何組?」
「F組だけど」
(…颯太くん?あれ?今そう言った?)
「F組ね、オッケー。F組の颯太くんに誘われたって言って入ったらいいんでしょ?」
「お、おう! また見学でも来てよ」
「オッケー。ところでマネージャーって何するの?」
「分からん! でも、来たら先輩が案内してくれるから!」
「何するかわかんないのに、なんで誘ったの?笑」
ぎくしゃくした会話だったが、颯太のマネージャー勧誘は、ひとまず成功したように見えた。
一週間後、美月は本当に陸上部に体験入部に来てくれた。
「こんにちは、一年A組の山中美月です。よろしくお願いします。あの、F組の颯太くんに誘われて来ました」
部員たちの前でそう挨拶する美月に、颯太は心の中で叫んだ。(やべえ、それ言わないでくれよ!)
「言うって、そりゃ」健志が隣で囁いた。
心の声が漏れていたらしい。
当時の陸上部は3年生5人、2年生3人、1年生5人の全員が男子。マネージャーは3年生と2年生に一人ずついたが、1年生はいなかった。颯太は、健志をはじめとする1年生全員から、盛大にからかわれることになった。
「お前、本当に声かけてきたのかよ」
「初めからそんなゴリゴリいってどうすんだよ。もし別れたら気まずいぜ」
「バカ! まだ付き合ってねぇし、何にも言ってねえよ! 恥ずかしいから俺のことはほっといてくれ!」
「でも、いきなり誘われて美月ちゃんもよく入ってくれたよな。お前に気があるんじゃねえの?」
「だから、そういうことマジで言うなって!」
颯太は毎日部活のメンバーにいじられたが、それとは裏腹に、美月は誰とでも明るく話し、すぐに颯太以外のメンバーとも打ち解けていった。
いつか颯太の気持ちが美月にバレるのは、もはや時間の問題だった。
2023年6月30日。
高校総体が終わり、3年生の引退試合となった。数名が近畿大会へ駒を進めたが、ほとんどの3年生はこの日をもって引退し、本格的な受験勉強へと入っていった。
陸上部に残ったのは、2年生の先輩3人と、颯太たち1年生5人、そしてマネージャーの2年生1人と美月。
「俺たちの時代だ! 来年の総体では全員で近畿大会行くぞ! インターハイも狙ってやる!」
新キャプテンとなった2年生の先輩は、力強くそう宣言した。
3年生が引退し、部活の雰囲気はより一層和やかになった。颯太と美月の距離も、ぐっと縮まった。美月はお茶くみやタイムの記録係など、どんな仕事も熱心にこなした。颯太は、美月が見ている前だと自然と力が入ってしまう。その様子は、顧問の高木先生にもすぐに見抜かれていた。
「山本、お前、マネージャーがいる時といない時でタイムの差が激しすぎだろ」
「いや、俺、いつでも全力でやってるんですけどね」
「バレバレだって。いい格好しすぎなんだよ。これだけタイムに出るってよっぽどだぞ。青春だなぁ」
「先生までそんなこと言うんですか」
からかうような口調だったが、先生は真剣な眼差しで続けた。
「でもな、一生懸命頑張ってるときに、そばに好きな人がいること。辛い時、苦しい時、その時に横にいてくれること。これは本当に大事なことなんだよ」
「……今の、いい話っすね」
(でも、昔どこかで聞いたことがある気がする。)
颯太は心の中で頷いた。確かに、元々は走ることが好きで始めた陸上だったが、練習は単調で、毎日が努力の連続だ。決して楽なものではない。追い込む時は徹底的に自分を追い込み、家に帰ったら食事と風呂を済ませ、夜9時には寝てしまうことも多かった。
そんな日々の中で、美月の存在はとてつもなく大きかった。
美月が部活に入ってくれたことで、颯太がホールに通う理由はなくなった。今では週に一度行くか行かないかだ。美月も、もうホールで勉強することはなくなったようだった。その理由を聞いていいものか、深入りして嫌われたらどうしようか。颯太は何も聞けずにいた。
それでも、美月の成績は非常に優秀で、進学クラスの中でもトップクラスを維持していると聞いた。一方の颯太は、普通クラスの中では上位だが、学年全体で見れば真ん中より少し上くらい。毎日部活に明け暮れる颯太にとって、美月は勉強の面でも、そして何より心の支えとしても、大きな存在となっていた。
入学式の時に感じた、胸を射抜くような一目惚れの衝動。
(冬までには告白する。今年のクリスマスは、美月と過ごしたい)
そんな淡い期待を胸に抱きながら、颯太はかけがえのない青春の日々を駆け抜けていた。
【第二章 】山中美月
高校一年生の秋、颯太にチャンスが巡ってきた。文化祭だ。
毎年、東高校の文化祭では、屋台、創作作品、そして演劇、この三つの中からクラス単位で一つを行うことが通例となっている。颯太のクラスは屋台で焼き鳥を焼くことになった。
颯太はクラスで目立って率先して委員などをするタイプではない。けれども協調性はあって、頼まれた仕事は確実にこなす。誰からも頼られるような存在だった。
焼き鳥の買い出しや焼く作業は、売るときに女子に声をかけるから他の男子たちがこぞってやってくれる。そのため、颯太は一人黙々と、焼き鳥を置く取り皿やテーブルの準備、クラスの店の看板の設置作業などを率先して手伝った。
ある日、颯太は美月に尋ねた。
「美月は何するの?」
「え、私? 私たちのクラスは演劇」
「へぇ、どんな?」
「なんか、学園もの…っていうのかな。ちょっとコメディを挟んだ恋愛ものみたいな。そんなことを委員さんたちが考えてくれてるみたい」
「へぇ、そうなんだ。え、美月は何役?」
「内緒。気になるなら見に来てよ」
「お、おう。見に行くよ」
颯太は、美月がきっとヒロイン役をするのだろうと想像し、顔が明るくなるのを必死に抑えようとした。もちろん、抑えることなんてできはしなかったが。
文化祭当日、颯太は焼き鳥の準備を済ませると、こっそりとクラスを抜け出した。美月の舞台が迫っていたからだ。
体育館の電灯が消え、ブーッとサイレンが鳴る。薄暗い黄色いスポットライトが舞台を照らすとともに、演劇は始まった。
物語は、入学したての高校一年生の女の子が、野球部の先輩に恋をするという、青春物語の王道ともいえる内容だった。彼女は練習を見に行ったり、試合で活躍する先輩の姿に心を奪われていく。
颯太は美月がヒロインだと思っていたが、実際はヒロインの相談に乗るマネージャー役だった。
(ヒロインの友達か…。美月ならヒロインでもいいのになぁ。俺も野球しようかなー。)
颯太はそんなことを思いながら、美月の演技に見入っていた。
物語が進むにつれ、主人公の女の子は先輩への想いを告げられないまま、ついに先輩の引退の日を迎えてしまう。
「好きです。付き合ってください」
主人公はついに告白する。先輩は驚くというより、ある程度察していたのか、「ありがとう」と落ち着いた様子で言った。
しかし、次の瞬間、颯太が予想もしなかった展開が訪れる。
「俺、実はマネージャーのことが好きなんだ」
(え…それって、美月のことじゃんか)
同級生ながらに、颯太は思った。こんな土壇場でのどんでん返し、観客が期待したストーリーと違う展開をわざわざ用意しなくてもいいのに、と。それと同時に、何よりもその相手が美月だったことに、颯太は少し腹が立った。いや、腹が立ったというより、嫉妬だったのかもしれない。
その先輩役を演じていたのは、A組で一番イケメンと言われる近藤友哉だったからだ。背が高くて筋肉質。野球部所属の人気者。あいつがなぜ進学クラスなのか、わからない。
(確かに、友哉なら美月のことを好きになっても仕方ないな…)
颯太はやるせない気持ちになった。
舞台は、実は美月自身も昔から先輩のことが好きで、それでいてガツガツせず、ずっと陰ながら先輩の姿を見守っていた、という結末で大成功を収めた。先輩は、そんな彼女の縁の下の力持ちのような誠実さ、真面目さに純粋に惹かれたのだ。このストーリーは、かえって観客の心を打った。
舞台が終わり、颯太は焼き鳥屋台に戻った。しばらくして、美月が焼き鳥を買いに来た。
「颯太、私の演技、いけてたでしょ? てか、あの展開読めてた?」
美月は何気なく尋ねた。颯太は力なく答える。
「…ああ、面白かったよ」
「何それ! え、ほんとに見てた? 見に来てくれるって言ったじゃん」
「見てたって」
「そんなの誰でも言えるセリフだよ。颯太、見に来てないでしょ!」
「見に行った、見に行ったって! 何怒ってんの…」
「別に怒ってないけど…」
「友哉、いい奴なんだよな。俺、中学の同級生なんだ」
「あ、そうなんだ。友哉くん、演技上手でしょ。もう体も大きいし、なんか本当に先輩って感じ。颯太も憧れてるしね」
(憧れる?俺が?あいつに?憧れるという言葉に、颯太は行き場のない憤りを感じた。抑えろ。抑えろ。美月の前だ。でも、俺はできなかった。)
「…もういい。俺、今日はもう帰るわ。練習、休むから」
颯太は吐き捨てるように言った。
「先生に言っといて」
颯太は踵を返し歩き出した。美月は追ってこなかった。
家に帰って、颯太はひどく後悔した。
(俺、ダサすぎだよな…)
思わず、健志に電話で事情を説明した。
「颯太、それはダメだぜ。美月ちゃん、あのあとめちゃくちゃ気にしてたぞ。『お前ら、なんで喧嘩なんてしたんだよ』って聞かれた」
「いや、俺は喧嘩したつもりじゃ…今言った通り、ただ悲しかったんだよ」
「美月ちゃん、別に悪気があって言ったわけじゃないだろ」
「分かってるけど…。やっぱりこういうのってセンシティブな問題だろ。しかも相手は友哉だぜ。きついよな…」
「なぁ、美月ちゃんって誰かと付き合ってるとか、誰かが好きとか、そんな話してないのか?」
「してるわけないだろ! てか聞けるわけないだろ。そんなこと聞いたら、俺の気持ちがバレバレじゃないか」
「お前は文句ばっかりだな。あの時、マネージャーになってくれって誘った勇気はどこ行ったんだよ」
「いや、勇気の問題じゃないだろ。気持ち悪がられるだけだろ」
颯太は思わず叫んでいた。
「好きだよ! 俺は美月のことをめちゃくちゃ好きなんだ! だから大事にしたいと思うんだよ!」
「それが大事にしてることになってるのかよ。一人でやさぐれて、嫉もして。相手が自分より背が高くて、ちょっと筋肉質だからって、それが美月ちゃんの好きな相手とは限らないだろ。颯太のことが好きかもしれないぞ」
「いい加減なこと言わないでくれよ! 俺に勝てる要素、ねぇだろ!」
「なんでお前があの近藤と張り合う必要があるんだよ! 何も言われてねぇだろ!」
「…そこがお前の考え方の間違ってるところだぜ」
「…そうだよな。悪かった」
「まぁ、また美月に謝るっていうのも違うけど、明日は普通にしろよ」
「…うん。健志、今日はだいぶ走ったのか?」
「走ったよ」
「すまん。」「まぁ、気にすんなよ。また明日」
健志との電話が終わってからも、颯太の心はムズムズしていた。今日の美月の一つ一つの表情、仕草、すべてが頭の中を駆け巡る。俺を見る悲しそうな目、何を考えているか分からないというような疑問の眼差し…。颯太は悔しさとやるせなさを抱えたまま、文化祭を終えた。
2023年12月。
『12月になったら美月に告白しよう』
確か6月、美月がマネージャーになってくれた時にそう決意したはずだった。だが、文化祭が終わってからも、颯太は美月に一歩近づくきっかけを見つけられなかった。勇気が出なかったのだ。
(次またあんなことになったらどうしよう…)
そればかり考えてしまい、悔しく歯がゆい気持ちがずっと胸のうちでぐるぐる回っていた。
一方、美月は文化祭のことなど何も気にしていない様子で、これまで通り部活の記録を取ってくれるし、マネージャーとしての仕事はすべて完璧にこなしてくれていた。
ある時、部活が終わった後、颯太がホールへ行くと、美月の姿があった。
(あれ、美月だ)
しかし、やはり二人きりになるのは恥ずかしくて、颯太は美月とは反対の端っこの席に、背中を向けて座った。
次の日、美月から声をかけられた。
「颯太、なんで昨日ホールにいたのに無視するの?声くらいかけてよ。勉強してたでしょ?」
「あ、美月も勉強してるんだなーって」
颯太は白々しく答えた。4月からずっと美月の姿を探してホールに立ち寄っていたなんて、今更言えるはずもない。
しかし、美月はそれを知ってか知らずか、普通に言った。
「そう。私、A大学に入りたいから勉強してるんだ。颯太も、たまには勉強しに来た方がいいよ。今度はそんな端っこに座らないで、普通に近くに座っていいからね」
「…なんか、そう言われると逆に気ぃ使うわ」
少し冗談を言える余裕が出てきたところで、颯太は尋ねた。
「美月って、なんでA大目指してるの?」
「私、将来、検察官になりたいんだ」
「検察官? 警察官じゃなくて?」
「そう、検察官。なんか、法律を勉強して悪い人を捕まえて、それを裁判で…大体のイメージ、わかる?」
「いや、知ってるけど、それって警察じゃなかったっけ?」
「警察官は検察官に書類を送致したりするけど、実際に裁判で戦うのは検察官でしょ」
「そうち…? 」
「うん、あ、颯太、あんまり法律のこと詳しくないんだね」
「まあな…」
「でも、颯太、ちょっと警察官になりそう」
「え、俺が?」
「うん。正義感強いし、誰とでも仲良くできるし。人の悪いところ見たら許せないって顔するじゃん。なんか警察官になりそう」
「あー、そうかな。そんなこと考えたこともなかった。」
「あっ、昔、小学校入る前くらいはちょっとなりたかったかな。同じ保育園の女の子に、『警察官になって私を守ってね。』って言われてさ。」
「……。」
一瞬、美月の顔が曇ったように見えた。
だが、美月は続けた。
「颯太が刑事さんになって犯人を捕まえたら、私が法律で裁いてあげるよ」
「おお…裁く、法律で裁く…。難しい言葉、高校生なのによくそんなことまで知ってるな。なんで検察官になりたいんだよ?」
「うん、それは…まあ、私にも色々あるんだよ。颯太だって、いろいろあったりするでしょ?」
「ああ、うん。まあ、言われてみれば、今までの人生いろいろあるわな。もう俺たち16年、17年生きてるんだし」
「でしょ? まあ、私も、この高校に来る前に色々あってね。だから、高校では絶対に勉強するって決めてるんだ。また颯太も、勉強する時はホールにおいでよ。一緒に勉強しよう」
「お、おう…」
何か意味深な言い方だったが、颯太にとっては、美月から誘われたことで頭の中にファンファーレが鳴り響いた。
(文化祭のこと、もう気にしてないんだ。よかった…)
安堵のため息が、心の中で漏れた。
クリスマスまであと2週間を切っていた。
12月20日、クリスマスまで残り5日。颯太は部活終わりにホールへ立ち寄った。美月がいた。
この間、「隣に座ってもいいよ」と言ってくれた、と颯太は思い込み、3つ席を空けて彼女の横に座った。普通に考えれば、3つも席が空いていれば真ん中に誰か座れてしまう。だが、この状況でそんなところに座ってくるような奴はいないだろうと踏んだのだ。
しかし、空気の読めない奴がいた。
先輩だろうか、大柄でろくに勉強もしなさそうな男が、そんな時に限ってジュースを片手に参考書だけ持ってきて、ドーンと美月と颯太の間に座った。
颯太は「ちくしょう」と声に出して言ってやった。もちろん、美月や間の男に聞こえないようにしたつもりだったが、美月がクスッと笑ったように感じた。
勉強が終わり、颯太がホールを出て家に帰ろうとした時、ふと美月から声をかけられた。
「颯太、勉強終わった?」
「終わったよ」
「ちょっと駅まで送ってくれない?」
「あ、いいよ」
美月から誘ってくれて、二人きりで駅までの1kmくらいの道を歩くことになった。
二人きりで。
(おいどうした、何が、何が起こったんだろう…)
颯太の頭の中では、様々な気持ちが入り混じっていた。
「ねぇ、颯太。前に私、昔いろいろあったって話、したよね?」
「ああ、そうだね」
「颯太も色々あるって聞いたけど、颯太から話してくれない? 私の話も、後でするから」
「あー、まあ、でも俺の話って結構単純だぜ。うち、母子家庭なんだけど、親父がおふくろに手を出して。で、警察が来て、俺も児童虐待がどうとか言われて、服の下にあざがないかとか確認されて。しばらくして、親父は警察署に連れて行かれて、それを機に二度と戻ってこなくなった」
「…それ、いつぐらいの話?」
「俺が確か、小学校5年ぐらいの時だったかな」
「そうなんだ…。お母さん、何かその時言ってなかった?」
「うーん、覚えてるのは、親父が会社の人と浮気したかなんかで、それをおふくろが咎めて喧嘩になった、みたいな話だったかな。あ、思い出した。そうだそうだ。確か相手の家に謝りに行くことになったんだけど、なんでか分かんないけど俺もその時連れて行かれて。多分、俺は車の中で待ってたと思うんだけど。親父と母親と、相手の女の人の3人で言い合いになって、修羅場になってたな。その様子を確か車の中で見てたっていう話があったな」
すると、その時、美月が割って話し始めた。
「それでコンビニに行って。退屈だからコーラ買って、その場にいた女の子に声をかけて、『お互い大変だよね』って渡した、みたいな話でしょ? どうせ」
「えっ…」
颯太は言葉を失った。
「なんでそんなこと知って…あ…え、でもお前、え、美月って…『やま…山中美月』でしょ?」
「ううん。まあ、私は今はそうだけど。それは今の姓。昔は…『佐久夜美月』。私の名前は、佐久夜美月です」
「ええっ!? そういうことか…!」
颯太の中で、点と点だった話が一つの線につながった。
『佐久夜』。
確かあの時、父と母が言い争っていたその場にいたのは、颯太の父、母、そして相手の女性。そこに子供も一緒にいたはずだ。状況を見かねたのか、その女の子がコンビニの方へ歩いて行った。颯太は同じような境遇の可哀想な子だなと思って、その後を追いかけたのだ。
そこで、泣いている女の子に「名前は?」と聞いた。
「さ…く…」
ちゃんと聞き取れなかったが、確か「さく」と言ったか、「づき」…。そんな名前だった。颯太はコンビニでコーラを買って、その女の子に渡して少し話をした。
『お互い色々あるよね。でも、こういう辛い時って、きっといつか終わるんだよ。だから、その時までじっと耐えてれば、きっと誰か助けてくれるから』
『…ちょっとカッコつけすぎかな?』
『ううん、そんなことない。ありがとう』
その女の子は言った。『それと、こういうしんどい時にそっと側にいてあげること、一緒に乗り越えられること、そういうことができる人、私はそういう人にずっとついていきたいと思う』
その女の子の眼差しは強く、ちゃんと未来を見据えている、すごくしっかりした子だと颯太は思った。
佐久夜美月…。
思えば、一度あっただけとはいえ、ショートカットでふわっとした、優しそうな雰囲気。今の美月にあの頃の面影があった。
「いつから気づいてた?」
「最初から。入学式の時、颯太は私の隣だったでしょ? その時に結構感じたんだよね、『あ、この人どこかで会ったことある』って。後で『山本颯太』って名前聞いて、『颯太』っていう名前でピンときちゃった」
「…」
「『私たち昔会ってるよ』って、ずっと言おうと思ってた。でも、颯太がいきなりクラスの中に入ってきて『マネージャーやって』なんて言うから、私、最初、颯太は私のことに気づいて話しかけに来てくれたと思ったんだけど、全然そんなことないし、ただ単にマネージャーをやってくれって言うし…。これどんな巡り合わせだよって、あの後、家に帰って吹き出して笑っちゃった」
「…」
「でも、私の中で『佐久夜美月』はもう忘れたい名前だし、今はもう『山中美月』だし、ずっと黙っていようかなとも思ったの。颯太が、私が勉強してるのをずっとホールで見てたのも知ってたんだ。でも、私から声をかけるのもなんだかなと思って、ずっと待ってた」
「待ってた…」
颯太の中で、何かが弾けた。今しかないと思った。
「ねぇ、颯太。私たち、昔からそんなことがあって、これからもずっと何か目標に向かって頑張っていく時に、一緒に支え合っていけると思わない? 私たちなら…。私、颯太のこと…」
「待ってくれ」
颯太は美月の言葉を遮った。
「こういう時、俺に決めさせてくれ。美月、俺と付き合ってくれ。」
「…うん」
「颯太の、いざという時に男気を出せるところ、好きだよ。」
ちょうど通り過ぎていく、一本乗り遅れた電車の明かりを背に、颯太は美月をきつく抱きしめた。
【第三章 】高校総体
クリスマスを前に、颯太と美月の交際は始まった。お互いの気持ちを打ち明けてから、それぞれが新たなモチベーションを胸に、充実した日々を送っていた。陸上部のメンバーも二人の交際を知ると、最初は颯太をからかっていたが、やがて美月が彼女になったことを羨ましがるようになった。
高校二年生になると、颯太は陸上部の中心人物として頭角を現していく。1500m、800m、400mと複数の種目に打ち込む彼の姿に、周囲からは「颯太のスタミナはえげつないな。スピードもあるし、近畿大会も狙えるんじゃないか」と囁かれるほどだった。
しかし、現実は厳しく、秋の新人戦では1500mで予選を突破したものの、決勝で上位6位に入ることができず、近畿大会出場を逃していた。
もう一つの目標は、4人で走る4×400mリレー、通称「マイルリレー」での近畿大会出場だった。東高校は、タイム上、松永高校、中野高校、芝野高校と熾烈な出場権争いを繰り広げていた。
高校総体、決戦の火蓋。
2024年6月30日、高校総体決勝。近畿大会へ進めるのは、6チーム中わずか3チーム。東高校のオーダーは、一走・松坂斗真(二年)、二走・浅野陸(一年)、三走・野尻慎吾(一年)、そしてアンカーの四走・山本颯太(二年)だった。親友の健志は怪我のため、一年生の野尻にその座を譲っていた。
「位置について、用意」
号砲一発。一走の斗真は、クラウチングスタートから滑らかに上体を起こし、カーブを抜けた直線で一気にスピードを上げた。前日の400m個人決勝で5位に終わり、近畿大会を逃した悔しさが彼を突き動かしていた。
「絶対に抜かれるな!」
レース前にチームに檄を飛ばした言葉通り、斗真は序盤から全開で飛ばす。第二コーナーを回り、順位は3位。観客席から「行け!」という声援が飛ぶ。最後のコーナーでさらに加速した斗真は、前の選手を一人抜き去り、2位で二走の浅野陸にバトンを渡した。
一年生ながら落ち着きのある陸も、安定した走りで2位をキープする。しかし、後方から猛追してきた芝野高校のエースに抜かれ、3位で三走の野尻慎吾にバトンを託した。
大舞台のプレッシャーか、野尻の表情は硬い。「一つも順位を落とせない」という緊張が、彼の走りをぎこちなくさせていた。体が硬く、前半からスピードに乗れない。第三コーナーを曲がる頃には、すでに肩で息をし、顎が上がっていた。
「慎吾、足回せ!」怪我で走れない健志が、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
颯太も祈るように叫んだ。「慎吾、帰って来い! 抜かれても俺が抜き返してやる。早く俺に渡せ!」
しかし、野尻は順位を二つ落とし、5番手でアンカーの颯太にバトンを渡した。
射程圏内だ、と颯太は直感した。目の前には中野校と芝野校の選手。斗真が2位で帰ってきた。陸も慎吾も、決して諦めなかった。
「俺が諦めてどうする!」
この足がちぎれてもいい。絶対に前の二人を抜く。颯太はスタートから全力で飛ばした。最後のコーナーを曲がり、残り100m。心臓が破れそうなほどの苦しみの中、彼は無我夢中で腕を振り、足を回した。
「まだ終わってない。俺なら抜ける!」
自らにそう言い聞かせた瞬間、颯太は極限を超えた潜在能力を引き出した。残り50mで前の二人に追いつき、三人が横一線に並んだ。ここから近畿大会へ行けるのは、たった一校。
「うぉぉぉ!」
颯太が雄叫びを上げる。
「行けー、颯太!」
不意に、美月の声が聞こえた気がした。次の瞬間、ゴールラインを駆け抜け、歓声が沸き起こった。
「どこの高校が3番だ!」
誰かの声が響く中、颯太はその場に崩れ落ちた。息もできず、ただ空を見上げる。そこに、健志が駆け寄ってきた。
「颯太、やったぞ! 近畿大会出場だ! 俺たち、やったんだよ!」
「おっしゃー!」
斗真、陸、慎吾が颯太を抱きかかえ、部員たちが駆け寄り、颯太の体は宙に舞った。
「東高校、4×400mリレー、第3位。近畿大会出場決定!」
【第四章】それぞれの道
高校総体が終わり、颯太はより一層練習に励んだ。近畿大会では予選敗退に終わったものの、チームとしての目標は達成できた。その一方で、颯太の心には一つの迷いが生まれていた。
検察官を目指し、A大学合格という明確な目標を持つ美月。それに比べ、自分は将来を何も考えていない。陸上に明け暮れる日々は充実しているが、その先は? 母子家庭で育った颯太にとって、大学進学は簡単な選択ではなかった。奨学金という道もあるが、将来に借金を背負う覚悟はまだ持てなかった。
そんなある日、颯太は美月との会話を思い出す。
「検察官になりたい」
「颯太は警察官になればいいのに」
警察官か……。調べてみると、高校卒業者を対象とした採用試験が来年の9月にあることを知った。
「まあ、ちょっと勉強してみるか」
市販の問題集を買い、颯太は陸上の練習と並行して、少しずつ公務員試験の勉強を始めた。
年が明け、高校二年の冬。ホールで勉強していると、美月がやってきた。
「あれ、颯太。それ公務員試験の勉強? もしかして警察官になるの?」
「ああ。美月がなれって言ったからな」
「私、そんなこと言ってないよ。でも、颯太なら向いてると思う。頑張ってね。来年、絶対二人で合格しようね」
「ああ。それぞれの道で頑張ろう」
二人の関係は良好で、共に勉強に励み、休日には映画や水族館へ出かけ、幸せな時間を過ごした。
高校生で、お金はあまりないから、颯太は美月にジュースを奢るくらいしかできなかった。美月は
「コーラで!」といつもコーラの泡くらい弾けたような顔で言った。
颯太は「その顔、反則だわ。」と、胸の奥をギュっと掴まれる。そんな、幸せな日々が続いた。
最後の夏。
高校三年生、最後の高校総体。颯太は800mとマイルリレーに種目を絞った。800mは準決勝で敗退。残るはマイルリレーのみとなった。
今年のオーダーは、一走・斗真、二走・勝野健志、三走・陸、そしてアンカー・颯太。怪我から復帰した健志が加わり、チームはさらにパワーアップしていた。周囲も「3位は確実」と東高校を高く評価していた。
決勝レース。一走の斗真は安定した走りで2位でバトンを渡す。しかし、二走の健志に異変が起きていた。レース前から足に軽い痙攣があり、異常なほどの汗をかいていたのだ。脱水症状だった。第三コーナーを過ぎたあたりから健志の足は動かなくなり、順位は4位に転落。
三走の陸が必死に前を追うが、差は縮まらない。4番手のまま、アンカーの颯太にバトンが渡った。
(これが俺の最後の走りかもしれないんだ。なんとか近畿大会に繋げたいんだ!)
颯太はありったけの力を振り絞り、前の3人を追った。最後の直線、得意のラストスパートで猛然と追い上げる。しかし、願いは届かず、結果は4位。
颯太たちの3年間の陸上生活は、ここで終わりを告げた。
「ここまでやってくれてよかったよな」
「いい陸上人生だった」
全員が涙する中、颯太は仲間たちに、そしてマネージャーとして支えてくれた美月に感謝を伝えた。
「ありがとう」
その言葉に、それまで堪えていた美月の涙が一気にあふれ出た。
「みんな、本当にありがとう。みんなのことが大好きです!」
感動的な場面だったが、健志が横から「大好きなのは颯太だろ」と茶化し、最後は全員の笑顔で大会を終えた。
引退後、颯太は9月の公務員試験に向けて猛勉強を開始した。朝7時に登校し、夜8時まで勉強。自宅に帰ってからも勉強。美月もまた、1月のセンター試験に向けて隣で勉強に励んだ。
9月、颯太は警察官採用試験の一次試験に見事合格。二次試験の面接では、陸上で培った体力を高く評価され、「その体力をぜひ公務に活かしてほしい」という言葉をもらった。そして12月、颯太は警察官合格の通知を手にした。
一方、美月もセンター試験で実力を発揮し、目標としていたA大学の二次試験に臨んだ。
合格発表日。颯太は美月と共に、大学の掲示板の前に立っていた。
「手ごたえはどう?」
「やりきったから、悔いはない」
発表までの1分が、永遠のように長く感じられた。そして、時間が来る。掲示板に表示された番号の中に、美月の受験番号「1134」はあった。
「やったな、美月!」
美月は、半泣きになりながら、颯太に笑ってみせた。
「颯太、ありがとう。支えてくれて、本当にありがとう」
2026年3月1日、卒業式。隣同士に座った二人は、入学式の頃を懐かしんでいた。
「颯太、私に一目惚れしたんだってね。」美月がからかうように言った。
「なんでそんなこと…」
「健志くんから聞いたよ。本当はちょっと気づいてたけど」
「あいつ、なんでも言うやん。もう、やめてくれよ」
「なんで関西弁なん?笑」
二人の間に、穏やかな笑いがこぼれる。
「これでしばらくは、ずっと一緒にいられるのも終わりだね」美月が少し寂しそうに呟いた。
「…うん」
「でも、颯太は絶対にいい警察官になると思う。私はそれを隣で支えてあげられないけれど…でもね」
美月は真剣な眼差しで颯太を見つめた。
「2035年の同窓会で、その時まだ私のことを愛してくれていたら、結婚しようね」
「2035年って、まだ10年も先じゃないか」
「うん。でも、2035年だよ。約束だからね」
「…ああ、わかった」
そうして二人は、東高校を卒業した。
しかし、その2週間後、美月との連絡がぷっつりと途絶えた。
卒業式の日の意味深な会話が頭をよぎる。
「一緒に支え合っていくんじゃなかったのかよ…」
不安で胸が押しつぶされそうになった。
健志に相談しても、「A大学に合格したんだろ? 実家から通うって言ってなかったか?」と首を傾げるばかり。だが、その実家にも彼女の姿はなかった。
更に2週間経っても、美月からの連絡はない。
そして、2026年4月1日。颯太は不安を胸に抱えたまま、警察学校の門をくぐった。
第五章 【颯太へ】
拝啓、颯太様。
本当にごめんなさい。私は颯太に全てを打ち明けることができず、この場を去ることにしました。
颯太のことは、本当に大好きです。でも、私の過去に颯太をこれ以上巻き込みたくはありません。私は、颯太に隠していることがいくつかあります。
私が検察官になりたいと言った時、颯太は「なれない」なんて言わなかった。むしろ、その仕事がどういうものか詳しく知らない様子だったけど、それでも私の夢を真っ直ぐに応援してくれた。あの時、私を助けてくれたあなたの優しさと正義感は本物だと信じています。いつか、警察官になった颯太が扱った事件を、私が検察官として裁判にかけ、犯人を罰してやりたい。その気持ちは、今も変わりません。
でも、私には許せない人間が三人います。
一人目は、父、佐久夜拓磨です。
父はトラック運転手だったと思いますが、私が小学校5年生の頃にはもう働いている様子はなく、毎日酒を飲んでは母の山中香澄や、時には私にまで暴力を振るいました。顔に大きなガーゼを貼らなければならないほど叩かれ、物を投げつけられることも日常茶飯事でした。警察に助けを求めようとも思いましたが、もしそれがバレて、もっとひどい目に遭うかもしれないと思うと、恐怖で足がすくんでしまいました。
どうすれば父を罰することができるのか。そう考え、調べた末に、警察官か検察官になる道を見つけました。私は、検察官になろうと決心しました。そのためには大学へ行き、必死に勉強しなければならない。中学校に入ってから、私は一心不乱に勉強に打ち込みました。
そして高校で颯太と再会した時、運命だと思いました。颯太は私にとって、ずっとヒーローでした。私のヒーロー。警察官という夢を、あなたが代わりに叶えようと勉強してくれたこと、本当に嬉しかった。颯太なら、絶対に警察官になれると信じていました。「美月、俺合格したよ」と報告してくれた時、あなたは私の夢を一緒に叶えてくれる人なのだと、心からそう思ったのです。
母と父が離婚して以来、父と会うことはありませんでした。しかし、高校一年生の4月、街中で偶然、父の姿を見かけてしまったのです。パチンコ屋から出てきた父と、ばったりと目が合いました。小学生の時以来でしたが、私の面影に気づいたのでしょう。
「美月か」
父はそう声をかけてきました。
「ちょっと話をしようや」
そう誘われ、私は父と駅の喫茶店に入りました。そこで父は「あの時は悪かった」と謝り、これからはお前たちの生活には関わらず、見守るだけだと約束しました。そして、連絡先だけ交換してくれないかと言われ、私は自分の携帯電話を渡してしまったのです。
その翌日、父から電話があり、会うことになりました。少し古い軽自動車で迎えに来た父の車に、私は乗り込みました。「ちょっと一緒に行こうや」と言われ、車は走り出しました。しかし、父はずっと無言で、私は嫌な予感がして「もう家へ帰るから」と車を降りようとしました。その瞬間、父は突然私の右腕を掴みました。
「待てよ。お前、高校生になったんなら」
そう言って、父は私の体を引き寄せてきたのです。
これ以上のことは、お話ししたくありません。力強い男性にされるがまま、「助けて」という声も出せませんでした。これ以上は嫌だと思った矢先、私は夢中で父の腕に噛み付きました。父がひるんだ隙に車のドアを開け、私は走って逃げました。
頭の中はパニックで、自分に何が起ころうとしていたのか、想像するだけで吐き気がしました。なんとか家に帰り着きましたが、母にこのことを話せるはずもありません。そもそも父と連絡先を交換したこと自体、知られてはいけないのですから。これからどう生きていけばいいのか。検察官になるという夢も、あの暴力的な力の前では無力なのではないか。私は人生を諦めかけました。
でも、その次の日、本当に偶然だったのかもしれませんが、颯太が私に陸上部のマネージャーにならないかと誘ってくれました。まるで暗闇に差した一筋の光でした。私は父との連絡を一切絶ち、「颯太と一緒に生きたい」――その一心で、もう一度勉強を続けることに決めたのです。これが、私が検察官を目指した理由の一つです。颯太、本当にありがとう。
まだ二人、私には許せない人がいます。
その一人は、母、山中香澄です。その理由を話す前に、颯太と私は、実はもう一人、共通の知り合いがいたことを伝えなければなりません。
私には、美織という双子の妹がいました。私とは直接の接点がなかったので、颯太は気づかなかったかもしれません。美織は病気がちで、病院に近い別の保育園に通っていました。そこで、颯太と美織は一緒だったようです。私は違う保育園だったので颯太のことは全く知りませんでしたが、美織が時々「颯太くん、かっこいい」と話していたのを覚えています。
美織は私とは正反対で、思ったことをズバズバ言い、負けん気の強い子でした。母ともよく喧嘩をしていましたが、颯太にはぞっこんだったようで、「颯太くんと同じ小学校に通いたい」と母にねだっているのを聞いたことがあります。
でも、美織は小学校5年生の時に病気で亡くなりました。病死とされていますが、本当は、母が治療費を払えず、適切な手当てを受けさせられなかったからです。
父の暴力が支配する恐怖の家で、母もみるみる憔悴していき、そして、ある男性と不倫関係に陥りました。そのことが父に発覚し、母は父と不倫相手の妻から多額の慰謝料を請求されました。それまで、美織のために貯めていた治療費は、その支払いですべて消えてしまったそうです。
そんな最中、美織が倒れ、手術が必要だと宣告されました。母親なら、借金をしてでも娘の命を救おうとするはずです。私はそう信じていました。しかし、母は医師にこう言ったのです。
「これまでできることは尽くしてきました。あとは先生の意向にお任せいたします」
美織を見殺しにしたのです。
美織が息を引き取った夜。私は母を殺してやろうと思いました。でも、その時同時になぜ私も彼女を救えなかったのだろう。私にもできることがあったのではないかという感情が芽生えたのです。日が経つにつれてその思いが強くなり、私も美織を見殺しにした一人なのだと、自分を許せなくなりました。
母の不倫相手が颯太の父親だったと知るのに、そう時間はかかりませんでした。
そう。私が生涯許せない人物の三人目は、颯太。あなたの父親です。
私は母を殺してやりたいほど憎みました。そして、その原因を作った颯太の父親も同罪で、美織を殺したのも同然だと思いました。その子供である颯太のことも、一時は憎みました。いつか、自分の父親、母親、そして母の不倫相手、この三人に天罰を下すため、私は正義の使者として、検察官として鉄槌を下す。そう心に誓って生きてきました。
颯太に悪気がないことは分かっています。でも、当時の私は、誰かを憎まずには生きていけなかったのです。それがいつか、颯太のことにまで及んでしまうかもしれない。それが怖かった。
颯太がコーラを差し出してくれた時、私はあなたを睨みつけてしまったかもしれません。でもこの時、あなたが掛けてくれた言葉に私は救われ、正しい道を歩もうと決心することができました。
司法試験に合格し、司法修習を経て一人前の検察官になるまでには、今から10年近くかかるでしょう。私は颯太を憎みたくない。颯太には立派な警察官になってほしい。歩む道は違っても、私たちは正義のために生きると誓った同志であり、そしていつまでもあなたは私にとって愛する恋人です。
颯太を愛しています。
10年後。2035年の同窓会で、もしあなたがまだ私のことを好きでいてくれたら、愛してくれていたら、結婚してください。
身勝手な私を、どうかお許しください。10年後まで。
美月。
美月からの手紙は、警察学校の外泊禁止期間が終わったゴールデンウィーク、実家に郵送されていた。
佐久夜美織…。
鮮明に憶えている。目のパッチリとして、颯太の手を引っ張って毎日鬼ごっこやお飯事をした。身体が悪いらしく、喘息のような症状で時々保健室で休んでいた。
ある日美織は颯太に言った。「私のパパ、意地悪なんだ。機嫌が悪くなると叩いたり物投げたりする…。私やお姉ちゃんのこと好きじゃないみたい。」
颯太は、美織が受けている仕打ちについて、衝撃を受けた。
颯太は目の前の傷ついた友達を救いたい一心で
「僕が、美織ちゃんを守ってあげるから。」と言った。
「颯太は優しいね、颯太、将来警察官になって私を守ってよ。」
「私、将来颯太君と結婚したい。」と言った。初めての告白に颯太は赤面し、「おう。俺絶対警察官になるよ。約束する。」と、格好つけた。
ただ、小学校が別々になったこともあって、その後美織と会うことはなかったし、警察官になるという目標は次第に薄れていった。
それでも、颯太の心の中に彼女の面影はずっとあった。そして、儚い約束も…。
手紙を読み終えたところで、全身に鳥肌が立ち、気づけば涙を流していた。
美月の両親を、実の父を、責め立ててやりたかった。しかし所在のわからない今となってはそのやり場のない怒りの矛先を何にぶつければいいのか。誰が憎き汚き大人裁いてくれるのか。誰か教えてほしかった。
美月…美月…美月…
嗚咽のような声が漏れた。
そして、「ごめん。」と心から謝罪した。
俺はお前のこと何も知らなかった。辛かっただろう。苦しかっただろう。
でも、俺達は何をしたのだというのか。大人たちに俺たちの心を踏み躙る権利なんてあったんだろうか。大人は、子供を助けるんじゃないのか。
付き合っていた2年少しの間、いつだってこの気持ちを分かち合うチャンスはあったのだ。颯太自身が踏み込むことを恐れて、腫れ物に触るように避けてきた話題だった。でも、それを美月は抱えたまま、自らで制裁しようと決めたのだ。颯太のために。その深く悲しい心遣いに、颯太はやるせなさを隠せなかった。
颯太は、身の張り裂けるような胸のうちを、決して誰にも打ち明けることができない真実を、時がくるまで、心の底に沈め重い蓋をすることにした。
【エピローグ】
颯太は警察学校、地域警察官、機動隊を経て、刑事課第一課強行犯係に配属された。
現場では、気の毒な被害者を目の当たりにし、事件解決に奮闘する日々。しかし、美月からの手紙を読んだ時、これほどまでに残酷な被害がこの世にあるのかと、颯太は怒りに震えた。何も知らずに青春を過ごし、社会人になった今、自分に課せられた使命を痛感した。世の中から、辛い思いをした被害者のために戦うこと。そして、自分が捕らえた犯人を、美月のような検察官が法で裁いてくれる。それを心強く思い、いつか美月に胸を張って「刑事になった」と報告できるように、颯太は日々を懸命に生きた。
2035年1月4日、同窓会。
少し早めに、颯太は会場に赴いた。だが、そこに美月の姿はなかった。健志や仲間たちと部活時代の昔話に花を咲かせながらも、誰もが腫れ物に触るように美月の話題を避けた。颯太も、仕事に高い意識を持ち、生活は充実していると自負していた。それでも、心にぽっかりと空いた大きな穴が埋まることはなかった。自分が一番辛い時、苦しい時、そばにいてくれる人のために生きたい。支えるでも、支えられるでもなく、ただ共に生きたい。それを今日伝え、約束を果たすはずつもりだった。
店の外に出ると、冬の星空が広く澄み渡っていた。冷たい北風が吹き、身体の芯から冷える感覚がした。今晩から雪が降るらしい。
最寄駅の前で颯太は空を見上げ、ふぅーっとため息混じりの息を吐いた。
その時だった。
「私のこと、まだ愛してくれてますか?」
懐かしい声がした。
ショートカットで、自分より少し背の高い、優しい瞳の持ち主。スーツ姿のその女性の胸元には、検事バッジが輝いていた。
すぐに話出せず、颯太は震える唇を噛み締めてその名前を読んだ。
「美月…。」
「ねぇ。乾杯しよう。」
寒空の下で、彼女は冷たいコーラを2本差し出した。
少し、沈黙があった。
でもそれは、互いに歩んだこの10年の成長を確かめ合うような時間だった。
約束を果たす決心をした。
「なぁ。美月。」
「なに?」
「約束。憶えてるよな。」
「うん。でも私颯太に…」
言葉を遮った。
「俺と一緒に生きてほしい。俺はお前の全てを受け入れる。俺を支えようとしなくていい。ただ、君のその重い心の蓋は、もう外していいんだ。悲しい思い出と真実は俺の底にいれて蓋をしたよ。だから…」
これ以上、声が出ない。伝わったわからない。でも、言葉にならない言葉を、気持ちを…どうか、彼女が過去の呪縛から、妹を救うことができなかった後悔の念から解放されますように。
祈る気持ちを込めて、颯太は言った。
「ありがとう。何でも話す。信じてるから。だからもういちど…」
私も、伝えたいことがある。言わなければならないことがある。謝らないと。でも、どう伝えたらいいかわからない。美月も、次第に声にならない声となり、嗚咽とともに涙が頬を滴る。
颯太は、もう一度名前を呼んだ。
「美月。」
「はい。」
「愛してる。」
「私も。颯太を愛してる。」
二人は、冬の夜空の下で、乗り遅れた電車を背景に静かに抱きしめ合った。
― 終わり ―
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