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レモンの香りがするあの場所で エピローグ

    トントントン。裏木戸を叩く音がした。
    実里が窓からそっとのぞくと、スーツ姿の奏が、少し寒そうに立っていた。

    ドアを開けると、奏がティーポンドの紙袋を無造作に差し出した。

    「仕事で近くまで行ったから」
    「えっ、いいの?すぐ淹れるね」
    実里はうれしそうに紙袋を受け取り、紅茶の支度を始めた。

    奏はカバンをカウンター席に置くと、レモンの木が見える窓辺へ歩いていく。ライトに照らされたレモンの木を眺めながら、母から何度も聞かされた、あの昔話を思い出していた。

    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモンの香り」

    高校生だった母.みどりが、同級生の康平(こうへい)とばったりり出会った日のことだった。

    始発電車に乗って町まで野菜を売りに来たおばあちゃんが、重そうな籠を脇に置き、道端でひと休みしていた。康平は、その籠の中から、小さなレモンの苗木を見つけた。珍しいなと思って、苗木を買うと、自分の母の畑の端へ植えることにした。

    ちょうどそのとき、みどりが自転車で通りかかった。
    「康平、何してるの?」
    「幸せの実のなる木を植えてるんだ」
    そう言って笑う康平につられるように、みどりは自転車を脇に置いた。気づけば二人で土をかけ、小さな苗木はあっという間に畑へ根を下ろした。

    「野菜売りのおばあちゃんがね、『レモンの木だよ。黄色いまるい実が、いっぱいなってね。幸せを運んでくれるんだよ』って教えてくれたんだ」

    康平は植えたばかりの苗木を見つめながら、少し照れくさそうに笑った。
    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモンの香り」
    と言って、植え終わると、康平は口元に人差し指を添えてた。
    「ここに俺が植えたこと、秘密だぞ」
    目元だけで笑う康平につられ、みどりも同じように人差し指を口元へ添える。
    「わかった。秘密にしといてあげる」
    二人は顔を見合わせて笑った。その笑顔は、どこか甘酸っぱい香りのように、みどりの心に残った。

    そんな思い出も、いつしか時の流れに溶けて、みどりは忘れかけていた。ある日、幼い奏(かなた)の手を引いて、その道を歩くまでは…。

    畑の端には、大きく育った一本の木が立っていた。
    みどりは葉にそっと触れると、レモンの香りがふわりと漂った。「あっ…。やっぱり、レモンの木だ」
    懐かしさが胸いっぱいに広がる。

    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモンの香り」
    みどりは、あの日と同じように小さくつぶやいた。

    不思議そうに見上げる奏へ、レモンの香りの昔話をゆっくり聞かせた。

    それ以来、奏もまた、そのレモンの木が気になっていた。幼い頃は母と一緒に見に行った。そして一人で自転車に乗り行くようになっていた。ふと思い立つと、その木に会いに行った。季節がめぐり、何度か白い花が咲いているのも見た。けれど、幸せの黄色い実は、いつまでたっても実らなかった。

    高校入学を間近にしたある日のことだった。
    いつものように、奏はふらっと自転車に乗り、レモンの木を見に行った。

    枝先には、小さな蕾がふくらんでいる。
    ーー今年こそ、実になるかな。
    そう思いながら近づくと、一人の男性が静かにレモンの木を見上げていた。

    奏は自転車を押しながら、その横を通り過ぎようとした。そのときだった。
    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモン…。なんだけどな」独り言のような声が聞こえた。

    奏は足を止めた。
    その言葉は幼い頃から、母に何度も聞かされてきた言葉だった。「…康平さんですか?」

    男性は驚いたように振り返り、やがて静かに頷いた。
    奏が母.みどりのことを話すと、男性は懐かしそうに目を細めた。
    「そうか…。みどりの息子か」少し笑って、
    「目元が、みどりによく似ている」
    そう言った。その笑顔は、不思議と人の心をやわらかくする笑顔だった。

    初めて会ったはずなのに、奏はどこか懐かしい気持ちになった。こんな大人になれたらいい。なぜか、そんなことを思った。

    ずっと、奏は知らずにいた。あの日、レモンの木の下であった康平が、実里の父だったことを。そして今、すべてが静かにつながっていた。

    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモンの香り」
    思わず口をついで出たその言葉に、実里は茶葉を量る手をとめて、「いい言葉。」
    そう言って、実里は少し照れたように笑い、同じように口ずさんだ。

    「黄色いまるい実は、幸せの実。レモンの香り」
    実里は、自然とその言葉を繰り返した。まるで、ずっと昔から知っていた言葉のように。

    その笑顔が、奏には康平さんと重なって見えた。

    ーーいつか話そう。

    康平さんのことも。
    レモンの木のことも。

    あの日、康平さんと交わした「秘密だぞ。」の約束も。
    いつか、実里だけには話そう。
    「実里、秘密だぞ。」
    康平さんと同じように、白い歯を見せて笑える日がきたら、話そう。

    実里は、紅茶を丁寧に淹れ、採れたばかりのレモンをやさしく布で拭いていた。
    ふわりと広がった紅茶の香りに、レモンの香りも重なり、実里の表情はそっとほころぶ。

    まだ話せなくても、今はそれでいい。
    奏はそう思った。

    窓の向こうでは、やわらかな灯りに照らされたレモンの木が、静かに揺れている。枝先には、季節外れの白い花が、一房だけ咲いていた。


    終わり

     
     
    思いつくままに、暮らしの気づきや思い出、好きな本のこと、エッセイ、小説などを書いてます。

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