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Photo bykunpan0802

タンポポ(1)

    (あらすじです)
    朝陽新聞社の社会部記者の佐伯彰二は夜討ち朝駆けしかできない堅物だったが、粘り強さから現場の警察官からの信頼は高かった。そんな佐伯が陰謀に巻き込まれ、記者職を外される。    

    (本文です)
     桜田門にそびえ立つ警視庁の無機質な庁舎は、冬の湿った霧に包まれて、巨大な墓標のように見えた。その重苦しい威容を仰ぎ見ながら、朝陽新聞社会部記者の佐伯彰二は、いつものように規則正しい歩調で玄関をくぐった。彼の歩幅は常に一定であり、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐ伸びていた。五十二歳という、男としても記者としても円熟の境地にある彼は、この巨大な権力の迷宮を、畏怖の念を持って見つめ続けてきた。
      佐伯が所属する記者クラブの一室は、一見、銀座の水商売のクラブと見紛うような厚化粧をした女たちやチャラチャラとしたタレントのようなテレビ局の記者たちで地上波のバラエティ番組のような喧騒だった。しかし、その喧騒の中でも、佐伯の周囲だけは、冷たい氷の壁に囲まれているかのような静寂が漂っていた。彼のデスクの上には、他社の記者のように読み散らかされた新聞や、乱雑な資料の山は存在しなかった。そこには、数本の鉛筆が鋭く削り揃えられ、独自の速記記号が整然と並ぶ取材手帳が、主人の帰りを待つ忠実な猟犬のように置かれていた。佐伯は桜田門で咲く春の桜よりも、その道路脇で生え花を開かせる小さな黄色のタンポポを美しく感じた。
     「佐伯さん、また朝一番の夜回りですか。あんたの粘り強さには、一課の連中も閉口していますよ」
    そう声をかけてきたのは、警視庁捜査一課の係長を務める老練な刑事、田端であった。田端は、幾多の凶悪犯を追い詰めてきた鋭い眼光を、今は隠居間近の柔和な笑みの下に隠していた。
    「刑事さんが口を割らないのは、私の聞き方が悪いからでしょう」
    佐伯は微動だにせず、静かな口調で返した。彼は、相手がどれほど高圧的な態度を取ろうとも、あるいは親愛の情を見せようとも、決して自分の土俵を崩さなかった。相手の言葉の裏にある一文字の嘘、あるいは一瞬の視線の揺らぎを見逃さないために、彼は常に自身の感情を零度まで冷やしていた。
     ある日、部内の若手記者である猪瀬が、血相を変えて佐伯のもとへ駆け込んできた。
    「佐伯さん、特ダネです。世田谷の資産家殺傷事件で、近所に住む前科のある男が任意同行されました。他紙はすでに逮捕へ、の原稿を準備しています。うちも今すぐ打たないと、完全に出遅れます」
    猪瀬の瞳には、功名心と焦燥が混ざり合った、若手特有の濁った光が宿っていた。しかし、佐伯は手帳を閉じることさえせず、ただ静かに猪瀬を見つめた。
    「その情報は、誰からだ?」
    「捜査本部の若い刑事です。現場で遺留品が見つかったと、興奮気味に話していました」  佐伯は、短く息を吐いた。
    「猪瀬君、興奮しているのは刑事ではなく、君の方だよ。捜査が佳境に入れば入るほど、警察は世論を味方につけるために、未確定の情報を流すことがある。もしその男が犯人でなかったとき、君の書く一行が、その男の人生をどれほど無惨に切り裂くか、想像したことはあるのか」
     佐伯は自ら立ち上がると、コートの襟を立てて再び冬の街へと踏み出した。
    猪瀬が持ってきた特ダネを確認するために、裏付け取材を開始した。その手法は、気が遠くなるほど地道なものであった。佐伯はいわゆる、地取りを徹底した。納得がいく情報が得られるまで何度でも話を聞く。相手に嫌がられても、警察に通報されてもあきらめない。
    容疑者とされた男の自宅周辺を、一軒一軒歩いて回った。住民たちの証言を丹念に拾い上げ、男が事件当夜に何をしていたのか、その空白の数時間を埋めるための欠片を探し続けた。足の裏の皮が剥け、寒さで指先が動かなくなっても、歩みを止めなかった。
     佐伯が見つけ出したのは、男が事件発生時刻、数キロ離れた場所にある深夜営業の薬局で、病気の子供のために薬を買っていたという、決定的なアリバイであった。防犯カメラの映像という動かぬ証拠を突きつけられた捜査本部は、男の釈放を余儀なくされた。朝陽新聞だけが、誤報という名の奈落に落ちるのを免れたのである。
     デスクに戻った佐伯は、称賛を浴びることもなく、ただ淡々と翌日の紙面のための予定稿を書き進めていた。佐伯による筆致は、感情を排した事実の積み重ねであり、そこには一切の装飾も、主観的な断定も入り込む余地はなかった。一文一文を丁寧に結ぶその文章は、石橋を一つ一つ確実に叩いて渡る、佐伯の生き方そのものを象徴していた。
    しかし、佐伯を持ってしても自分の中に潜む魔物の存在を、完全には制御できていなかった。過去の未解決事件に対する執着という名の、暗い情熱であった。夜、記者クラブの窓から見える東京の夜景を眺めながら、佐伯は無意識に、十年前の地方局時代に扱った事件の記事をなぞっていた。未完の物語を完結させたいという、記者としての本能的な渇望。微かな心の隙間に、冷徹な理性を狂わせる罠が、静かに忍び寄ろうとしていたのである。(続)

     
     
    拙い文章をお読みくださり感謝いたします。勤め人をしながら、小説家への道を目指しています。

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