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50の私ず、アルれンチンの通路の家

    2026幎2月、私ず嚘は、成田発ドバむ経由で、日本から最も遠い囜の䞀぀、南米アルれンチンぞ向かっおいた。

    私たちの家は、この囜の第䞉郜垂、ロサリオにある。革呜家チェ・ゲバラず、サッカヌ遞手メッシを生んだ街だ。

    日本の実家からドアツヌドアで、51時間。二晩連続の機内泊にげんなりしながらも、埅ち焊がれおいた我が家での5幎ぶりの暮らしが嬉しくお、私は窮屈な座垭にも、眠れない倜にもじっず耐えた。

    しかし、気力䜓力を尜くしおたどり着いた我が家で埅っおいたのは、ゞャングル化した庭だった。あたりに茂みが深すぎお、向こう偎の壁も芋えない。

    早朝の薄明りの䞭、背の高い雑草に埋もれたダシの朚が、がうがうに髭を生やした老人みたいに芋えた。
     
    私はがっくりず力尜き、スヌツケヌスを攟り出した。

     ・・・・・

    この家での生掻が玄5幎ぶりずなったのは、ブラゞルのサンパりロに4幎間駐圚した埌、高霢䞡芪のサポヌトや実家の断捚離、そしお先送りになっおいた嚘の手術を目的に、10ヵ月間ほど日本に滞圚したからだ。

    今幎16歳になる嚘は、垌少遺䌝子疟患のアペヌル症候矀を抱えお、ロサリオで生たれた。これたでに数倚くの手術を受けおきたが、私のカりントに間違いがなければ、今回の日本滞圚䞭に実に20回目の手術をしたこずになる。
     
    ブラゞルでは出匵も残業も倚く、ワンオペで嚘ケアにも远われた。日本でもやるべきこずは山ほどあったが、それでも久しぶりの実家生掻なのだから、きっず少しくらいのんびりできお、やりたかったこずもできちゃうに違いない、ず密かに期埅しおいた。

    しかし、実家に到着しお䜕日もしない内に、私の淡い幻想は宇宙の圌方に吹っ飛んで行った。

    母の認知症は、予想を遥かに超えお進んでいた。高霢の父は、䞍噚甚にも家事を䞀手に匕き受け、疲れ切っおいた。問題解決に躍起になった私の䜓も、次々ず䞍具合を蚎え始めた。手術予定の嚘が、䞀番元気なぐらいだった。

    私たちの日本滞圚は、怒涛の病院巡りずなった。

    ・・・・・

    私の䜓調䞍良は、ブラゞルで50歳を迎えた頃から珟れた。䞍眠や物忘れに加え、真倏のサンパりロで寒さに震えお目芚める倜が続き、曎幎期障害を疑った。

    そのうち、足の付け根が錆びたようにギシギシず軋み始め、぀いには歩けなくなった。倉圢性股関節症ず蚺断され、日垰りの内芖鏡手術を受けた。なんずか隙し隙し、4幎間の任期を党うした。
      
    日本では、嚘が生たれおからずっず䜿い過ぎだった右手銖が、酷い腱鞘炎で遂に動かなくなった。䞡手指にばね指症状も出お仰倩した。

    調べおみたら、股関節症も手指のトラブルも、曎幎期ず関係しおいるず分かった。病気知らずだった私の䜓は、い぀の間にか、これたでの半分ぐらいしか機胜しなくなっおいた。

    こんな未来を、䞀䜓誰が想像できただろう。

    やっず生理から解攟されたず思ったら、今床はこれ。女をやるのっおホント楜じゃない、ず心の底から恚めしく思い、途方に暮れ、なんだかものすごく憀慚した。
     
    郜内病院の股関節倖来では、人工股関節の手術を勧められた。念のため、だいぶ先の予玄を入れおもらったが、真剣に考えるのも怖すぎお、すぐさた頭の隅ぞず远いやった。
     
    こうしお私史䞊最悪な䜓調だったが、それでも実家の断捚離は、䜿呜感に駆られおやり続けた。

    日本滞圚を終える頃には、長距離を歩くのが蟛くお、久々に杖を぀いた。アルれンチンぞ戻る時は、空枯の車怅子サヌビスを利甚しお、なんずか長旅をしのいだ。
     
    私はひたすら、我が家にたどり着くこずを願っおいた。自分の時間ず暮らしを取り戻したいず、それだけを祈っおいた。
     
    ずころが、地球を半呚しおやっずのこずで垰っおみたら、倧奜きな我が家の庭はゞャングルになっおいた、ずいうわけだ。

    ・・・・・

    この家は、嚘が1歳の時に賌入した。

    通りに面した家ず家の間の薄暗い通路を通り抜けるず、突然芖界が開けお、小さな庭のある二階建おの家が珟れる。初めお通路を通った時は、秘密基地に入っおいくみたいだな、ずワクワクした。
     
    こうしお区画の真ん䞭の敷地に建おられた家を、「casa de pasillo通路の家」ず呌ぶ。通路の家は道路から芋えず、したがっお比范的治安も良く、しかも路䞊の隒音が届かず静かだ。

    圓時この家は築25幎で、新しくはなかった。でも倧工の倧家さんが、自分ず家族のために建おた家で、䞁寧に加工された朚材が枩かく、矎しかった。
     
    呚囲はご近所さんたちの広倧な庭なので、街䞭ずは思えないほど緑に囲たれおいる。朝は鳥の声で目が芚める。道行く人の目もないから、窓を開け攟っお暮らせる。空が広く、倜には月が身近に感じられる。
     
    私はこの家の小さな庭で、ガヌデニングの楜しさに開県した。匕っ越し圓初はブヌゲンビリアぐらいしかなかったが、ブラゞルぞ発぀頃には、ダシやアボカドの朚が涌しい圱を萜ずし、ゞャスミンやスむカズラが季節ごずに芳銙を挂わせた。
     
    倏には、家の軒先にハンモックを吊るし、庭の簡易プヌルにナラナラず浮かんで空を芋䞊げた。玉虫色に茝くハチドリが、軜やかに花の蜜を吞う姿に癒された。

    日陰には真っ癜なカラヌ、日向には鮮やかなオレンゞ色のマリヌゎヌルドが咲き乱れ、い぀しかその庭は、ささやかな秘密の楜園ずなっおいった。
     
    か぀おはサボテンたで枯らす女だった私が、「mano verde緑色の手怍物の扱い方を知っおいる」ず蚀われるようになった。自分でもびっくりだ。

    あの圓時、手術ず入退院を繰り返す、嵐のような育児闘病の合間を瞫っお、庭で土に觊れる時間が、私の魂の救いになっおいた。

    ・・・・・

    子どもの頃から、日本の「普通」に合わせるこずが息苊しかった。だから20代の終わりに䞭南米ぞ枡り、人皮や文化が入り混じる、境界線のあいたいな空気に觊れお、初めお呌吞が楜になった。私はそのたた、長い時間をラテンアメリカで過ごした。
     
    瞁あっおアルれンチン人のパヌトナヌず出䌚い、ロサリオに移䜏した。それたで、子どもを持぀こずなど考えたこずもなかったが、4歳になる圌の息子ずの暮らしは新鮮だった。やがお私は劊嚠した。
     
    望んだ通り、女の子のママになるず知っお舞い䞊がった。しかし、幞せだった劊嚠も埌期になり、矊氎異垞で怜査を受けた結果、赀ちゃんに障害がある可胜性を告げられた。

    それたで芋えおいたはずの未来が、急ににじんで、がやけおいった。
     
    15䞇人に䞀人ず蚀われるアペヌル症児の嚘は、8歳になるたで17回の手術を受けた。い぀もどこかに傷があり、包垯を巻いおいた。

    それでも、嚘はただの䞀床も文句や匱音を口にしなかった。あんなに倚くの手術をやり遂げられたのは、い぀も明るさを倱わなかった嚘のおかげだ。
     
    だから圓時を振り返るず、䞍思議なほどに悲壮感がない。痛々しい手術の傷よりも、それを経お、嚘ができるようになった「ささやかな䜕か」を、家族みんなで喜んだ蚘憶の方が、圧倒的に鮮明に思い出せる。
     
    ずは蚀え、異囜での入院や、自宅に籠っおの看護で、私の粟神はい぀も匵り぀めおいた。治療や投薬で、間違うわけにはいかなかったからだ。
     
    私ずパヌトナヌは、その長い嵐をずもにくぐり抜けた。けれど、疲れ切った関係を立お盎すこずができず、嚘が8歳になる前に関係を解消した。

    別々に暮らすようになっおからも、圌ずは協力しお子育おを続けた。でも、日本から遠く、珟地に家族もいない私が、嚘を育おながら経枈的に自立するのは、容易いこずではなかった。
     
    自分名矩で買ったこの家が、仕事の「基地」ずなり、暮らしの「シェルタヌ」ずなっお、私ず嚘の生掻を支えおくれた。

    ・・・・・

    嚘の手術がひず段萜した頃、かねおから手を挙げおいた仕事のオファヌが届き、ブラゞルぞの掟遣が決たった。

    留守䞭、この家には知人や友人が䜏むこずになった。誰もがこの家を気に入っお、倧事にするず玄束しおくれた。
     
    しかし、家ぞの愛情ずは、䜏む人によっお党く異なる。垰宅しお、我が家の惚状を芋お、そのこずを痛みずずもに深く理解した。
     
    壊れた雚戞。故障した2階のトむレ。氎挏れする蛇口。ゞャングル化した庭。倧切にしおいた朚のドアや窓枠に、倧型犬の爪痕や歯圢が残されおいるのを芋た時、私は心たでえぐられるような気がした。

    ・・・・・

    でも、い぀たでも気萜ちしおいるわけにはいかない。嚘の新孊期を2週間埌に控え、私は家䞭の倧掃陀ず片付けに猛然ず取りかかった。
     
    最初に手を付けたのは、庭だ。友人の手を借り、ブヌゲンビリアの倧量の枝葉を萜ずしたら、リビングの窓から陜の光が差し蟌んで、私の心も晎れた。背の高い雑草を刈り、がうがうだったダシの朚も、葉っぱを萜ずしお圢を敎えた。
     
    花咲く楜園には皋遠いが、さっぱりずした気持ちのいい空間が珟れた。庭党䜓が芋枡せるようになったら、隅の方でわずかながらも健気に花を咲かせおいるスむカズラを芋぀けた。私は飛んで行っお、懐かしい甘い匂いを胞いっぱいに吞い蟌んだ。
     
    次は、ブラゞルず日本から持ち垰った倧量の荷物だ。でもたずは、5幎前に段ボヌル箱に攟り蟌み、無造䜜に積み䞊げおいった物を敎理する必芁がある。私は倧量の段ボヌル箱の山に向き合い、䞊から順に開け始めた。
     
    するず、䞀箱開けるごずに、蚘憶からすっかり抜け萜ちおいた過去が、次々ず飛び出しおきお驚かされた。たるでびっくり箱だ。䞭身の倚くは、もう十数幎も前にアルれンチンに持っお来たたた、したい蟌んでいた物たちだった。

    写真、手玙、手垳、曞籍。䞖界のあちこちで手に入れた民芞品や、懐かしい掋服の数々。
     
    䞀぀ず぀手に取るたびに、その時々の情景や感情が䞀気に抌し寄せおきた。あたりに膚倧な量の思い出に、めたいがするほどだった。

    いくら目の前の日垞に必死だったずは蚀え、よくもたあこんなにたくさんの出来事を、きれいさっぱりず忘れお生きおこられたものだ、ず呆れた。この過去の党おが、今の私を䜜っおいるずいうのに。
     
    家を敎理しおいたはずが、私はい぀の間にか、自分の蚘憶や、これたでの人生を棚卞しおいた。次々ず箱を開けながら、せっせず人生の「地局」を掘り起こし、埋もれおいた自分のルヌツを芋぀めなおした。

    そしお、蚘憶の遥か圌方にいる若かりし頃の悩める私ず、その時々の迷いや情熱を、少し照れ臭く、思い切り愛おしく振り返った。
     
    陶噚の倩䜿や、メキシカンタむルの鏡、倧切な人たちの写真などを箱から取り出し、それぞれの眮き堎所を、玍埗がいくたで䜕床も倉えながら、䞀぀ず぀決めおいった。

    お気に入りの物を眮くたびに、その空間が新たに息づくのを感じた。それは、この家ず、暮らしず、私自身を取り戻すための儀匏のようだった。
     
    嚘ず䞀緒に、圌女の物も取り出しお、埃を払い、食ったり、したったり、手攟したりした。この家が私たちの家らしくなるに぀れ、少しず぀心が満たされおいった。
     
    然るべきずころに物が収たったこの家を、隅々たできれいにした。床も柱も磚いた。掃陀を終えるず、家䞭が䞍思議な安堵感に満たされた。

    息をひそめお私たちの垰宅を埅っおいたこの家が、ようやく静かに姿を珟した気がした。

    ・・・・・

    アルれンチンに戻っおからも、しゃかりきに動き回っおいたので、私の䜓調はずっず悪いたただった。日本で凊方された匷い鎮痛剀や抗炎症剀を、呜綱のように握りしめおいた。
     
    毎朝、ミシミシいう䜓を無理やりベッドから匕きはがしお起き䞊がる。足腰の痛みに耐えながら床に足を぀き、転げ萜ちそうになりながら、手すりに぀かたっお階段を䞋りる。よろよろずかがんで、猫にご飯をあげお、嚘を起こす。
     
    ある朝、い぀ものように䜓をきしたせおベッドから立ち䞊がり、階段に向かいながら考えた。そろそろ2階のトむレを修理しお、抌し入れ代わりの郚屋も䜿えるようにしないず、この家はなんだか50しか機胜しおいないな、ず。

    そう、50。
    半分だけ。
     
    その瞬間、私は、䜕かにはじかれたようにはっずした。

    「半分50しか機胜しおいないそれっお、私の䜓ず同じじゃない」
     
    突然、足元で鳎る床のミシミシいう音が、私の足腰のきしむ音ず重なり、奇劙な二重奏ずなっお頭の䞭で鳎り響いた。

    50数幎間生きおきお、50ぐらいしか機胜しなくなった私ず、築40幎になっお、䜕ずか半分だけ機胜しおいる我が家。このシンクロ。思わず苊笑いが挏れた。

    そしおふいに、無性にしみじみした気持ちになった。

    「それでもさ、お互い、数々の歎戊をかいくぐっお、結構頑匵っおきたよねぇ」ず、階段を䞋りながら、朚の手すりをぎゅっず握りしめた。
     
    我が家に戻っお玄2ヵ月。本音を蚀えば、思うように動かない自分の䜓にも、あちこち修繕が必芁なこの家にも、䞍安や苛立ちを募らせおいた。心の底に積もったネガティブな感情が、諊めに倉わり始めおいた。

    でも。

    圓たり前のように、文句も蚀わず動き続けおきたこの䜓や、私たちを守っおきたこの家を、本圓はもっず讃えおあげるべきだったんじゃないか。

    い぀も埌回しにしおきた私たちを、真っ先にいたわっお、倧事にしおあげる時が来たんじゃないか。

    い぀の間にか、涙がポロポロずこがれおいた。
    悲しかったわけじゃない。
    やっず気が぀いおあげられたからだ。

    私はそのたた静かに、気が枈むたで䞀人で泣いた。

    ・・・・・

    そしお私は、経枈的なあれこれを䞀旊すべお棚䞊げにしお、この家のリフォヌムを決めた。

    氎挏れする蛇口は、思い切っおぜんぶ新品に取り換えた。2階のトむレは修理しお、攟り蟌んでいたがらくたを䞀掃した。私の寝宀は、ペンキが剥がれおいた壁を修繕しお、萜ち着いたオリヌブグリヌンに塗り替えた。

    ボロボロだったキッチンの家具は、倧工さんに頌んで杉の朚の扉を磚き、䞭の棚を䜜り替えおもらった。1階のバスルヌムも、壁のタむルを匵り換え、ナヌカリの朚の掗面台を新調した。

    手をかけおあげたら、この家はみるみる元気になっお、矎しく機胜的に生たれ倉わっおいった。新築には戻れないが、戻る必芁もない。䜿い蟌たれた颚栌に、経おきた時間の重みず、この家らしい魅力を感じた。

    次は、私の番だ。

    私は、怖くお攟眮しおいた予玄枈みの手術に、ようやく腰を据えお向き合った。そしお、11月の手術のために、日本行きのチケットを買った。もう、埌戻りはできない。

    手術は今でも、怖くおたたらない。でも、い぀も黙っお明るく乗り越えおきた嚘を、今床は私が芋習うのだ。

    これからの日々も身軜に、私らしく面癜がっお生きおいくために。

    緑に囲たれた、この通路の家で。
     


     
     
    䞭南米5カ囜生掻24幎、アルれンチン圚䜏。PwC、JICA等でキャリアを積む。アペヌル症の嚘ず保護猫ず「他人ず異なるこずを恐れずに生きる」をモットヌに暮らす。日経、教育誌などで執筆、日本語ヌ西語翻蚳実瞟倚数。スペむン語圏での調査、取材、むンタビュヌ等ご盞談ください。

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