
【ゲーム感想_51】ドラゴンクエスト4
原作とリメイクのどちらがドラクエ4か、未だ議論が巻き起こるナンバリングです。ピサロとの共闘を認めない方もいれば、原作未プレイでリメイク版ストーリーしか知らない方も存在し、その意味で令和版リメイクが望まれる作品の1つです。
私は過去の記事でリメイクと原作に対する自身のスタンスを表明しましたが、それは本作においても変わりません。ただ原作をベースとしたリメイクは一見、プレイヤー=主人公とするドラクエの根源を否定したシナリオ構成のように見えたのも事実です。
何故リメイク版のシナリオが忌避されるのか。この記事は私がドラクエ4の現状を自分なりに整理するために書いてみることにしました。
なお今回はPSのリメイク版を再プレイしましたが、DS版もシナリオ構成やゲーム性はPS版とほぼ同じのため、2作まとめて同じリメイク版として見なしています。
■ゲーム性における原作とリメイクの共通点
この感想を読まれる方には今更ですが、前提として大事なことなので。
本作は全5章(リメイク版は6章)のオムニバス形式で構成されています。1~4章はドラクエ1~3のように、メインキャラ全員の行動をプレイヤー自身が決定する戦闘方式です。
仲間の人数は最大3人まで。シナリオも短めとすることで初心者でも段階を踏んでRPGのお作法を覚えることができます。本番である5章の準備として、4章までが用意されているイメージです。

4章までの方が緻密にデザインされています。
特にFC版は、今まで段階を踏んでゲームデザインを複雑化していった3までと異なり、5章でAI戦闘という新しい試みを導入していました。新しいことを覚える前に、4章まででドラクエのいろはに馴染んでもらうために、このような構成にしたのかもしれません。
以上を踏まえて、まずはFC版から振り返っていきます。
■FC版のゲーム性
5章でようやく、自分で名前を決めた勇者が主人公として登場します。前半は4章までの仲間と合流する流れとなりますが、仲間達は4章までと異なり戦闘時における行動をプレイヤー自身が指示できません。大まかな作戦だけを与えて、後はNPCのように各キャラが自身で行動を考えて実行します。
この戦闘システムは仲間の行動を1人1人考えなくて済むため、特にRPG初心者には遊びやすいシステムです。一方で行動を細かく指定できないためプレイヤーが作戦を立てづらく、旧作に比べて戦術性がだいぶ薄まりました。プレイングスキル以上に、仲間キャラのレベルや装備が勝敗に大きく影響するシステムです。
ゆえにボスが強すぎて難しすぎて突破が困難にならないよう、ロトシリーズ3作に比べるとゲーム的な難易度はだいぶ抑えられました。レベルさえ上げれば、仲間達がオートバトルでボスを倒してくれるようになったのもこの頃からです。
またレベリングのやりやすさもシリーズ随一でした。聖水ひと振りでメタル系の敵を一撃で倒せるだけではなく、出現率や逃走確率も他シリーズよりプレイヤー有利な調整がされています。コナンベリー周辺、王家の墓、架け橋の塔は絶好のレベリングスポットです。

自然とゲームの難易度を下げざるを得なかったのでしょう。
ドラクエ5に並ぶ、最も簡単なドラクエの1つです。
このようにゲーム的には初心者を意識した、歴代でも手軽に遊べるドラクエです。またプレイヤーが仲間達の行動を指定できなくなったことで、仲間達を主人公ではない他人として意識しやすいデザインでもありました。
■FC版のシナリオ
ドラクエ4はナンバリングタイトルとして初めて、受動的に読ませるシナリオが導入されました。ドラクエ3までは主人公側の冒険だけがフィーチャーされ、自身が能動的に行動した結果の体験が物語として描かれていました。
また旧作はプレイヤーに、仲間達の事情や敵対勢力の思惑はほとんど開示されません。仲間の事情が語られたのはドラクエ2内のごく僅かのみですし、敵方の事情もプレイヤーに共有されません。物語のほぼすべてが、プレイングによる結果として提供されていました。
対してドラクエ4は敵方の事情がプレイヤーに対して一方的に開示されます。なぜ人間の敵対勢力が人間を滅ぼそうとするのか、大切にしているものが何なのか、人間にどのような感情を抱いているのか等、敵側の都合がイベントを通じてプレイヤーへ共有されます。
1~4章の物語も、各章をプレイしている最中はライアンやアリーナが主人公です。しかし5章になると、各章の主人公達は勇者から見た他人へと立場を変えます。ライアンやアリーナ、マーニャがプレイヤーの分身ではなく他者になります。
これが、ドラクエ4から読む物語としてのストーリーラインが明確になった理由です。物語をプレイヤー側へ一方的に押し付けるため、想像でプレイヤー専用のストーリーを考える余地は旧作に比べて少なくなりました。
一方で受け身で物語を楽しめるようになったことで、プレイヤーに強いる負荷や要求スキルも大幅に減じました。ゲームのプレイ結果から物語の仔細を組み立てる想像する必要がなくなり、書籍や映画などで用いられる馴染みの深い手法でストーリーが理解できるようになりました。この方針転換により、ドラクエはより多くのファンを獲得したように思います。
最新タイトルの11に至るまで、多くのプレイヤーがドラクエのストーリーに感じる「ドラクエらしさ」は、この4から生まれたものでした。

自分事として捉えていた2章、4章とは異なる視点でアフターエピソードを眺めることになります。

人間の汚れた一面を物語へ反映させたのもドラクエ4がシリーズ初でした。最もインパクトがあるのはロザリーが人間に殺されるシーンですが、他にも4章では弱い立場にある女性が生きるために自らを差し出したり、あるいは心ない男性に強いられたりといった描写が。
ドラクエ3でもジパングで、モンスターの生贄として捧げられる女性は書かれていました。しかしその表現はあくまでテキストで状況を書いただけであり、そこから女性の絶望感や切羽詰まった感情が伝わってくることはありませんでした。ゲームのイベントとして書かれただけといいますか。
対して4章モンバーバラの描写は、メインストーリーに関わる話ではありません。しかし町全体が女性を売り物として商売する地域で、領主への献上物として捧げられかけている女性や、夜半に2階の個室で待機している女性の表現が。特に後者は直接的な表現ではないだけに、モンバーバラに住まう力のない女性の立場が明確に伝わってきました。

力無き女性が印象的な物語でした。

突き放した物言いが住まう世界の違いを現しており、
それだけに人間社会の仄暗さを感じ取れてしまいます。

状況が与える冷たさをだいぶ和らげています。
万人向けにしては暗すぎると判断されたのかもしれません。
恐怖を与えるドラクエを初めて提供したのも4でした。例えばアッテムトはネットミーム的に様々な場所で曲と共にネタにされていますが、それだけあの光景と5章の顛末、そして「レクイエム」の破滅的なBGMがプレイヤーの心に負の光景として残り続けた証拠です。
ロザリーが殺された際のピサロの心情を現した演出も強烈でした。戦闘で被弾した時のSEと共に画面が鮮血色に染まる光景はあまりにも刺激的。ピサロがどれだけの悲しみと怒りを背負っていたのか、視覚的に感情へ訴えかける表現でした。
他のナンバリングタイトルでも、例えばドラクエ6のサンマリーノで犬が毒にのたうち回るシーンや、アモールで川が赤色に染まるシーン。ドラクエ7における各シーンの凄惨な描写は、プレイヤーが目を背けたくなるような刺激的な演出が盛り込まれていました。
ネガティブな感情を与えたい場面においてドラクエ原作は、文章や状況だけではなく目や耳からも刺激を与えることで感情を揺さぶる表現を用いていました。だからプレイヤーの心に今も残り続けています。その試みの端緒となったのがこのドラクエ4でした。

住人も疲弊していて、夜に神父様が仕事できないのも印象的です。
そこにきてあのBGMで、同情より恐怖の感情が先行します。


ロースペックなFCゆえ表現が生々しくなった可能性もありますが、
恐怖と人間に対する嫌悪感で目を背けたくなるシーンだから
プレイヤーの心に今なお残り続けています。
FC版の長所は、ネガティブなシーンの表現が直接的かつ刺激的な点です。オブラートに包まず(あるいは技術的に包めなかったため)プレイヤーに忌避感や恐怖の感情をぶつけたからこそ、印象づいたゲームとして今なお遊んだ人の心に残り続けています。
またネガティブな表現が刺激的だから他の感情にもより印象を深く抱くことができます。4章最後と5章の冒頭でネガティブが続いた後、5章でマーニャがスロカス化しているシーンは心を軽くしてくれますし、3章トルネコのどこか緩い空気も、2章のラストで無人のサントハイムに薄気味悪さを覚えた後の良いクッションとなっています。
そうやってゲームが全編を通して喜怒哀楽を刺激的に伝え続けるから、プレイヤーは最終盤でエビルプリーストが明かす真実と、それに翻弄されたロザリーとデスピサロの末路にも複雑な感情を抱くことができます。
ピサロは本当に滅ぶべき存在だったのか。人とか魔物とかではなく、ロザリーを殺したゴロツキやエビルプリーストのような私欲にまみれた悪人がこの悲劇を引き起こしたのではないかと。
一方でピサロは勇者の故郷と人々を焼いた仇そのものです。行動の善悪ではなく、純粋に勇者個人が大切にするものを壊した以上、その憎しみが易々と消えることはありません。

勇者は暗い感情を抱き愉悦に浸っていたかもしれません。

アンドレアルが印象的でした。
魔物が必ずしも悪い心を持つ世界ではありません。
エンディングにしても、人間に殺されたロザリーを思えばお世辞にもハッピーエンドではありません。ピサロ個人に向ける感情も使命感や憎悪だけではない、憐れみを含んだものになったプレイヤーもいるかもしれません。様々な感情が心中を交差しながら迎える結末でした。
様々な感情を与えてくれた道中だから、最後の顛末にも感情を向けることができるRPG。それがFC版ドラクエ4だと私は思っています。そうやって感情や思索を突き詰めていくと、最後にシンシアが生き返った理由もなんとなく想像は付くと私は思うのです。
死んだ人間を生き返す芸当など、それこそ神にしかできない所業です。ゆえにシンシア蘇生はマスタードラゴンからの餞と考えることも可能ですが、私は本作のラストに対し、もう少しメタ的な読み方をしています。
ドラクエ4の仲間達はすべてが終わった後、みんな帰る場所があります。父親を喪ったマーニャ達にしてもオーリンは存命ですし、故郷のコーミズ村は彼女たちを温かく受け入れてくれるはずです。何よりエンディングではモンバーバラの劇場で再び舞台に立つマーニャの姿がありました。
しかし勇者には誰もいません。故郷は焼かれ、育ての親はピサロに殺され、生みの親はマスタードラゴンから素性を明かすことを許されていません。ドラクエ5や10の主人公が歴代でどん底の不幸を体験しているとよく聞きますが、彼らはエンディング後は大切な人々に囲まれ幸せを手にします。何も残らないドラクエ4の主人公が歴代で一番の不幸者です。
主人公=プレイヤーとみなすドラクエにおいて、使命を果たした後の勇者の末路としてはあまりにもあまりではないか。シンシアの蘇生は、そのように感じた製作者側からのプレイヤーに対する贈り物だったのではないかなと。
それにシンシアが復活することで、憎悪に呑まれかねない環境にありながらも使命を全うし世界を救った勇者と、憎悪に呑まれその身を滅ぼしたピサロが対照的な存在として浮かび上がります。似たような環境と状況に晒された2人ですが、戦いを終えた後の結末ははっきりと明暗が分かれました。
もちろん現実では人は生き返りません。憎悪に呑まれず正しいと思われる行いを続けた結果、正直者が馬鹿を見て誰かの踏み台にされかねないのが現実です。ですがドラクエはゲームであり娯楽。せめてゲームの中だけでもと、作者は最後にシンシアを蘇らせたのだろうなと。
科学的根拠や世界観ではなく、遊んでくれた人がどのような気持ちを抱くかを考えた末にたどり着いたのが、シンシアの蘇生と最後に駆け寄ってくる仲間達の姿なのだと私は受け取りました。ゲームを通して喜怒哀楽の感情を与え続けたドラクエ4の結末だからこそ、最後に製作者の感情を想像し見出すことができたのです。

作り手からの心尽くしを私は重視します。
■リメイク版のゲーム性
リメイク版の戦闘では、戦闘時における仲間の行動をプレイヤーが直接指示できます。FC版で採用された思考ルーチンの成長システムも影を潜め、各作戦はオート戦闘における行動傾向を指定するだけのものとなりました。リメイク版リリース当時のJRPGのスタンダードをそのまま採用した形です。
ドラクエ4がドラクエ4であるがためのゲームシステムをオミットしたことにより、ドラクエ5以降のシステムに慣れているプレイヤーが遊びやすくなりましたが、同時にゲームとしての特色を持たない平凡な作品となりました。

ドラクエ4としての特色は薄れました。
一方でドラクエ5~7に慣れた方には親しみやすいデザインです。
6章で仲間に加入するピサロが異常に強いことに対し、嫌悪感を抱くプレイヤーもいました。ただ私としては、元々8人がかりで倒そうとしていたほどの強大な相手が、仲間になって急に弱体化するよりは妥当な調整であったように思います。
またシナリオ的にも6章はピサロと勇者の物語であり、仲間達はフィーチャーされることもなく脇役に徹します。その点から鑑みても、ピサロが仲間達を圧倒する力を有しているのは妥当かなと。(戦闘での特色に欠けるライアンに特技ぐらいつけてあげて、とは思いましたが)
難易度はスタンダードなJRPGへ回帰したことで、原作よりも更に易化しました。デスピサロや真エビルプリーストは体力が多くスタミナ的な意味で強敵ではありましたが、それでもレベルを上げて殴れば労せず討伐が可能。シナリオを見せるためだけに用意されたゲームデザインでした。
■リメイク版のシナリオ
FC版との差異として、まずネガティブな感情の表現がだいぶ柔らかくなりました。アッテムトも、ハバリアの西にある岬のお告げ所でシスターが殺されるシーンも、ロザリーを殺されたピサロが憎悪に満ち溢れるシーンにも、恐怖や忌避感を覚えませんでした。
5章までのストーリーは原作とほぼ同じです。しかし演出や表現からネガティブな感情を抱かないよう、プレイヤーが嫌な感情を抱かないよう配慮した表現がなされています。
プレイヤーに嫌な感情を押し付けないといえば聞こえは良いのですが、物語はポジティブな感情だけではなく、嫌な感情も併せて体験することで作品により深く入り込むことができます。特にネガティブな感情が核となる作品では重要です。
ゲーム内で恐怖や嫌悪感を覚えるから記憶に残り続けますし、エンディングでの顛末にも感情を向けることができます。ですがリメイク版は嫌な感情を物語から排除してしまいました。結果、物語への没入感が薄れてしまったように感じました。
繰り返しますがシナリオの流れはどちらも同じです。リメイク版でも「ピサロはロザリーを殺されて激怒した」という事実はテキストとグラフィックから理解はできます。けれど心に憎悪や恐怖が伝わってこないため、出来事として以上の感慨は得られませんでした。
感情移入をしづらくなったことにより勇者=主人公として捉えることが難しくなったリメイク版は、物語を第三者の視点から眺めるようなスタイルへ移り変わったように受け取れました。FC版のような、自身が当事者として物語に介入する感覚は薄れたように思います。
とはいえ、FC版ではアッテムトが怖いからプレイを止めてしまった方もいたでしょうし、ピサロが激怒する紅色反転の演出に怯え眠れなくなった方もいたはずです。怖いや気持ち悪いを取り除いたリメイク版は、そのようなプレイヤーでも安心してドラクエ4を楽しめるよう調整されたのでしょう。

ほんのり赤くなるだけ。まったく怖くありません。
BGMが差し替えられたことでも凄みが減じています。

できれば町に入りたくないあの感情を抱くことはできません。
(原曲イメージをより再現できているのはリメイク版なのですけどね)
また仲間会話システムの実装により、仲間達の思惑や感情がより理解しやすくなりました。FC版ではピサロを倒すまで物言わず付き従うだけだった仲間達が、作中の出来事に対し思うこと感じたことを隠すことなく話してくれます。
これによりFC版でも意識されていた、勇者=主人公と仲間達が他者であることがより明確になりました。ピサロを倒す理由や救う理由にも言及しており、それが勇者の思惑とは必ずしも一致していないのがとても興味深かったです。
一方でゲームシステム的には戦闘で仲間達に直接指示が出せる分、仲間達も主人公=プレイヤーな感覚が残っていました。
勇者と仲間達の間に明確な線引きがなされていたFC版に対し、リメイク版は仲間達を主人公と同列に置きたかったのか、はたまた仲間として主人公とは一線を引いた存在にしたかったのか、作品コンセプトに一貫性が見られませんでした。

答えなき問いに対する、それぞれの考え方と決意を聞くことができます。

割り切ってみせるトルネコのセリフが一番好きです。

個人的に好きなのがブライの毒舌。
誰にでも毒を吐くとんでもないキャラ付けですw
6章エンディングはロザリーもピサロも生存したまま諸悪の根源を討伐できる、一見トゥルーエンドのように見えます。ですが私的には、原作以上に勇者が不憫な結末を迎えた印象を抱きました。
理由はただ一つ。殺された同郷の仇を討つことなく物語が幕を閉じるからです。ロザリーが殺されたのは不憫ですし人間の所業ではありました。最愛の人を殺されたピサロの怒りも理解はできます。
ですがピサロがロザリーを取り戻し大切なものを守りきれたのに対し、勇者は自分達の家族すら守れずピサロ達に惨殺されました。シンシアが生き返ったとはいえ、この所業を許すどころか仇の救済までやらされて、挙句ピサロからは謝罪の言葉もありません。

場合によってはまだ人間を滅ぼそうとしているのはいいとして、
勇者の故郷を焼いたことへの釈明はありません。
(DQM3は本編とは別の世界線として解釈しています)

それだけで溜飲が下がるかと言われると……
更に勇者を孤独に追いやるのが、6章では脇役に徹していた仲間達の存在です。5章の時点では勇者と仲間達の目的がピサロ討伐で一致していました。サントハイムの住人はピサロを倒さないと戻ってきませんし、何より彼は人間を滅ぼそうとしています。討伐しないと人間が絶滅する危険な存在です。
しかし6章ではエビルプリーストを倒せばサントハイムの人々は戻ってきますし、人間がロザリーに害を成さなければピサロが人類の滅亡を企てることはありません。仲間達のピサロを討伐する理由がなくなってしまうのです。
しかし勇者にとってピサロは仇。ゲーム内で明示されていませんが、一介の人間であれば故郷を滅ぼした諸悪の根源が何食わぬ顔で、大切な人を取り戻せてよかったよかったとしている姿を見て何も思わないわけがありません。
そんな勇者に対し、仲間達が気遣いを見せることはありません。ピサロが仲間になって事の真相が明らかになり「さぁ諸悪の根源を倒そう!」と口を揃え、仇を取れない勇者の感情に寄り添ってくれる仲間はいません。特にマーニャとミネアは、自分達が旅立った理由を考えれば勇者に寄り添っても良いはずです。

罪を憎んで人を憎まずといわんばかりですが、
バルザックを殺したお前が勇者にそれを言うのかと。

おそらくリメイク版の作り手は、憎しみに憎しみをぶつける泥仕合に終止符を打ち、お互いがお互いを思いやれる世界を作ろうという気持ちが大事だといいたいのだと思います。
また、ドラゴンクエストにおける勇者とは世界を救える唯一の存在であり、それが使命です。個人の感情に流されることなく世界を見据えて最適解を選ぶべきだという主張なのでしょう。
答えのない問題に心が苛まれるFC版に対し、リメイク版6章は人間の善性を最大限に押し出した物語でした。誰かが憎しみによる争いをやめ敵を赦さなければ真の戦いは終わらない。その最初の一歩を勇者が担う物語でした。
■リメイク版が原作ファンから忌避される理由
以上を踏まえて、リメイク版が忌避されドラクエ4のリメイクとして認められていない理由について考えてみました。1つ目は仲間になるピサロが強すぎるから。これは上述したため省略します。
2つ目は、物語のテーマに対するアプローチが原作とリメイクで真逆のように見える点です。
FC版は人間の罪を問う物語です。しかしその回答は作中で表すことなく、プレイヤーの思考と想像に委ねる形で幕を閉じました。変えられない悲劇の結末に対し何を思うのか。それが物語の余韻として多くのプレイヤーの心に残り続ける作品です。
対してリメイク版6章は人間の善性を勇者が見せる物語です。自分自身がどんなに不憫になろうと、憎しみの連鎖は断ち切らなければいけない。それが勇者だからという、正しい行いを勇者が担う物語です。その献身によりピサロは救われ、勇者は仇を撃てずに幕を閉じます。
答えなき問いに対し、FC版は答えをプレイヤーに委ね、リメイク版6章は答えを一方的にプレイヤーへ押し付けた。そのように解釈し、原作との差異に違和感を抱いた方も少なくなさそうです。ドラクエ4の問いかける物語が好きなプレイヤーは、コンセプトが真逆なリメイク版を遠ざけても不思議ではありません。
3つ目の理由は、主人公=プレイヤーの前提をゲーム側が破棄したように見える点です。
ドラクエは第1作目から、主人公はプレイヤー自身であるとしてきました。「あなたは旅の果てにラダトーム城にやってきた若者です」「あなたはローレシア国の王子です」といった具合に、プレイヤーが主人公に憑依するような形で物語を読ませる作品です。
勇者は作中人物に登場する自分以外のキャラではありません。FC版はそのことを意識させるためにAI戦闘システムを導入し、勇者と仲間達を明確に線引きしました。
主人公は自分自身なのだから、その考え方はプレイヤー自身に委ねられるのが当然であり他者が決めつけるものではありません。だからFC版では、答えなき問いに対する回答はプレイヤー自身に委ねられています。
ですがリメイク版6章は、ロザリーを生き返した後の勇者の行動をゲームが一方的に決めつけます。それも自らの感情を犠牲にして周りの幸せを優先させる、それこそ人間離れした聖人的な振る舞いを余儀なくされます。勇者が登場人物の一人となったように見えるのです。
ドラクエの主人公はプレイヤー自身である。なのに主人公の行動をゲーム側で決められたのであれば、それはもうドラクエではない。そう感じてリメイク版に嫌悪感を抱いたプレイヤーもいたのだと推測します。
以上から私は、リメイク版が一部プレイヤーから忌避される理由を
仲間になるピサロが強すぎて勇者以外のメンバーが霞むから
物語の主題に対するアプローチが原作と真逆のように見えるから
主人公=プレイヤーの前提をゲーム側が破棄したように見えるから
の3点であると考えます。
■プレイヤー側の選択肢
理由のうち項番1はゲームデザインに関する問題であり、ドラクエ4に対し物語を求める私の遊び方とは異なります。よって「ピサロが強すぎてゲームとして面白くない」という主張に関しては同意はしませんが理解はできます。
ですが項番2と3を主張する方に対しては反論します。プレイヤーにはロザリーを生き返さない権利が与えられているからです。それも5章で物語を読み止める方法ではなく、6章で世界樹の花を獲得したタイミングでロザリーを蘇らせずデスピサロを討伐する選択肢が残されています。
ロザリーを生き返せばピサロが元の姿に戻り、討伐できなくなる展開になるのは明らかです。それを承知の上で、プレイヤーは自らの意思でロザリーを蘇らせます。勇者=プレイヤー自身が、ピサロに抱く憎しみを抑えて在るべき正しい道を選択しているのです。
ピサロが気に入らない、仇を撃ちたいのであれば、6章で世界樹の花を手に入れたタイミングで彼を討伐すればいい。ロザリー復活の可能性を勝ち得てなおその芽を摘む行為は、ピサロからすれば最悪の展開以外の何物でもありません。(もっともデスピサロは、その事実も理解できなくなっているのでしょうが)

それがドラクエ4の、主人公=プレイヤーである理由です。
自らの意志で選ばなかった結果を他責にするのは違うでしょう。
その行為は敵討ちを成し得た一時の満足感を得られるかもしれません。ですがその判断は本当に正しかったのか、エンディングでも悩むことになるでしょうし気持ちも完全には晴れきらないはずです。FC版の物語に対するアプローチである、答えをプレイヤー自身が考える形が成立します。
そして主人公=プレイヤーとするドラクエの大前提も変わりません。勇者の行動はすべてプレイヤーの意思によるものです。ピサロに憎しみを抱き、多くの人が幸せになれる選択肢を得てなお一個人としてピサロを誅することを、ゲーム側は選択肢として明確に残しています。
リメイク版はピサロ生存ルートを、トゥルーエンドとしてプレイヤーに押し付けてはいません。FC版の物語に対するアプローチもそのまま残されています。ピサロに対し更なる意趣返しの機会すら設けています。リメイク版は、少なくともストーリー的には原作に準じた上でもう一つの結末を用意しているように見えました。
だから私はPS/DS版を、FC版の意志を受け継いだリメイク版として高く評価しています。感情移入度こそ原作から減じましたが、一方で6章はプレイヤーに選択肢を与えることで新たな悩みをもたらしました。正しくドラクエ4のリメイクであると思うのです。
あえてリメイク版の不備を指摘するなら、このエンディングに至る道筋が酷く限定的でゲーム側からも示唆されないこと、5章エンドルートと世界樹の花を得てなおピサロを倒すルートの結末に、大きな差分がないことでしょう。別のエンディングであることをゲームとして明示した方が親切ですし、物語を読み違える方も少なくなったはずです。
そのあたりの追加要素は、今後リリースされるであろう令和のドラクエ4に期待します。FC版のように5章で幕を閉じるのか、はたまた6章をそのまま移植するのか、あるいはHD-2D版のロトシリーズみたく新たな天空シリーズの幕開けとなるのか。その内容に期待しています。