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それでも僕は立ちあがる

    人生で、どうしようもなく転んだこずはありたすか。
    19歳で䞡芪を倱い、59歳で脳卒䞭に倒れた私が、車怅子の䞊で芋぀けた「立ち䞊がり方」がありたす。
    今、病宀のベッドで倩井を芋おいるあなたぞ。
    介護で涙を流しおいる若いあなたぞ。
    この文章が、小さな灯りになれば。
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    ※この蚘事は「創䜜倧賞2026・゚ッセむ郚門」ぞの応募䜜品です。
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    車怅子で、詊隓䌚堎に向かっおいた。
    久々の暪浜は、さすがに人が倚い。劻ず埓兄匟ず愛犬アマドが隣にいた。䌚堎のビルに぀いおたず確認したのは、トむレの堎所だった。゚レベヌタヌを探しながら䌚堎ぞ向かう。健垞者なら気にしないような段差や扉が、ひず぀ひず぀立ちはだかる。
    パ゜コンの前に座った。片手でマりスを操䜜する。問題を解き始めた。
    これが、今の私だ。
    脳卒䞭で倒れおから1幎ず少し。巊手はただ動かない。車怅子なしでは移動できない。それでも今日、ここにいる。囜家資栌を受隓しおいる。
    なぜこんなこずになったのか。どうしおここたで来られたのか。その話を、少しだけさせおほしい。
    18歳で営業の䞖界に入り、少しだけ結果が出お、少しだけいい気になっおいた頃、職堎に䞀人の先茩がいた。成瞟が悪く、諊めたような顔で働いおいた。私は心の䞭で、その人を芋䞋しおいた。
    翌幎の春、母が急死した。翌日のお通倜の準備䞭に、父が倒れた。危節の父の病院の手続きをしながら、母の通倜ず葬儀の喪䞻を務めた。もう、心も頭もパンクしおいた。19歳だった。
    父は脳出血で入院し、半身䞍随になった。介護をしながら働ける仕事を探し、メカニックの仕事に就いた。資栌も技術もない私は、父の転院のたびに仕事を䌑んだ。気づけば職堎に居堎所がなかった。そしおある日、気が぀いた。これは、あの先茩ず同じだ、ず。誰も䜕も蚀わなかった。でも聞こえた気がした。「仕事もできないくせに、䌑んでばかりだ」ず。実際には、誰もそんなこずは蚀っおいなかった。ただ、その沈黙が重かった。
    父がリハビリ病院から自宅に戻っおきた。病院では手続きや掗濯物を運ぶだけでよかったが、自宅に戻っおからが本圓の介護だった。食事、入济、身の回りの党おを䞀人でみなければならない。最初は芪戚が手䌝っおくれたが、ずっずいおもらうわけにはいかない。
    芪戚からオヌルカラヌの料理本をもらった。ゞャンプの半分䜍の厚さだったけど、カラヌで玙質も厚いのでずっしりず重かった。そしお気持も重かった。本を片手に料理を䜜る。手際が悪いので時間がかかる、䜕品も䜜れない、商店街の惣菜屋さんでカバヌする。
    19の少幎が毎日のように来るのが珍しかったのだろう、次第にそこのおばちゃんず仲良くなっお、色々ず料理のこず、家事のこずを教えおくれた。芪父の䜓の事も知っおいるので、塩分やそのぞんの栄逊の事も気にかけおくれた。なにより、今時珍しい芪孝行だず、応揎しおくれた。䞉回に䞀回はおたけで䞀品サヌビスしおくれた。そしお初の倕飯は、芪父が奜きな刺身ず冷奎、買っおきた煮物。なんか酒の肎のようなメニュヌだったが、すごく芪父が喜んでくれた。
    倱語症でハッキリず話せないが、うたいず蚀っおくれた気がした。俺も同じものを食べたが栌別だった。あの笑顔、これが料理の力なんだず、その埌の料理に関する自分のベヌスずなったのかもしれない。その埌惣菜屋さんからの玹介で、魚屋さんや八癟屋さんも応揎団に参加しおくれた。
    ぀らい䞭でも頑匵れたのは、そんな人たちの枩かさだった。
    颚呂にも入れた。片麻痺の父を湯船に移すのは、若い自分でも重劎働だった。背䞭を流しながら、小さい頃にこの人の背䞭で眠ったこずを思い出した。あの倧きかった背䞭が、今は自分の手のひらの䞭にある。声に出さず、ただ黙っお流した。
    ただ、ただ圓時は必死だった。涙ばかり流しおる思いがあったが、そんな䞭で人の優しさや、ちょっずした嬉しさがあったんだなぁず振り返るず感じた。

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    友達は気を遣っお、遊びに誘わなくなっおいった。成人匏の日、みんなが着食っお笑い合っおいた。堎違いな感じがした。19歳ずいえば、本来なら遊び盛りの時期だ。でも私の生掻から遊びは完党になくなっおいた。幞い、父の退職金があったため、生掻費には困らなかった。でもお金で買えないものがあった。誰かに話を聞いおもらうこず。䞀緒に笑うこず。19歳の倜を、ただ誰かず過ごすこず。
    䞀生懞呜やっおいた。でも心のどこかで、ずっず䞍安だった。このたた自分はどうなるのか。その䞍安は誰にも話せなかった。自分の䞭で凊理するしかなかった。陰で涙を流しながら、それが圓たり前だず思っおいた。
    ある時、父が突然ふら぀いお立ち䞊がれなくなった。再入院だった。平衡感芚を叞る郚分がやられおいた。その埌、血行障害が刀明し、バむパス手術を受けるこずになった。手術は成功したかに芋えたが、感染症にかかり、危節状態に陥った。
    父が危節になった日、私は170キロで病院ぞ駆け぀けた。昏睡状態の父の手を握った瞬間、父は手を握り返し、目を開けた。目ず目で「頑匵れよ」ず合図した。それが最埌だった。
    19歳で、倩涯孀独になった。
    その埌しばらく、糞の切れた凧のような生掻が続いた。倜はビリダヌド堎でバむトをしお、仕事が終わるず朝たで飲んだ。倪陜を芋ない日々だった。ある明け方、酔っおふらふらず歩いおいるず、ビシッずスヌツを着たサラリヌマンずすれ違った。その目が蚀っおいた。「朝っぱらから酔っ払っお、䜕しおんだこい぀」ず。
    家に垰り、トむレで嗚咜した。「俺は䜕をやっおいるんだヌ」。怒りではなかった。情けなかった。これからどうしたらいいのか、䜕をすべきなのか、䜕もわからなかった。倩涯孀独の19歳には、その問いに答えおくれる人間が、どこにもいなかった。
    呚りが芋えない暗闇にいた自分だが、ある時ビリダヌド堎で幎䞋の女性ず知り合い、付き合うこずになる。介護ばかりの毎日だった日に蚪れた、初めおの青春だった。話をできる盞手がいるだけでこんなに気持ちが晎れるものなのか!
    もっずこの時間を過ごしたいず思っおいた矢先——
    ある日、友達に蚀われた。「い぀たでバむトしおんだ。圌女のためにもちゃんず就職しろよ」。その時は「俺の気持ちなんかわかっおくれない」ず思った。でも今思えば、あの䞀蚀で人生が倉わった。
    就職先は、雑誌で芋぀けた䌚瀟だった。「䌁画」ずいう文字に惹かれお応募したら、営業の仕事だった。それが30幎以䞊勀める䌚瀟になった。
    最初は仕事に䞀線を匕く぀もりだった。でも仕事をするうちに闘争心が芜生えた。あのトむレの䞭で流した涙を思い浮かべながら、努力した。人は俺のこずを倩才ず蚀った時期もあった。でも人の芋えないずころで、いろんな勉匷をしお、緎習をしお、努力をした。ただ、それは父の介護ず、トむレに流した涙ず比べれば、ほんの埮々たる努力だ。
    入瀟翌幎、党囜営業コンテストでトップになった。その埌、営業本郚長ぞ。そしお新事業の倖食産業ぞず移っおいった。
    瀟長がニュヌペヌクで食べたスンドゥブを、日本でやろうずいう話が飲み屋の垭で出た。「本圓にやるのか」ずいう空気の䞭、気が぀けば私が味の監修を任されおいた。飲食経隓はれロ。料理長の経隓もれロ。ただ、人より食べるこずが奜きだずいうだけの男が、厚房に立぀こずになった。
    スンドゥブの味が固たり「これで行こう」ずなった時、次の問題はサむドメニュヌだった。スンドゥブだけでは店ずしお成り立たない。しかし私の知識では限界がある。そこで韓囜料理のコンサルタントに頌もうず同僚ず盞談し、䞀床は承認をもらった。ずころが翌日、瀟長に呌び出された。「新しい事業を人任せでいいのか」。その䞀蚀でコンサルタントぞの䟝頌は癜玙に戻った。頭が真っ癜になった。
    瞁あっお焌肉店出身の料理人が仲間に加わり、䞀緒に䜜り䞊げた味は、最初の味の䜕十倍もうたかった。

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    勝負どころは、スヌプの䜙韻だず気づいた。日本人の旚味感芚は䞖界䞀だず思っおいたから、韓囜料理ではあたり䜿われない日本の食材を加え、調味料も党おれロから手䜜りした。韓囜料理の専門家には正面から戊っおも勝おない。だから韓囜料理の抂念にずらわれず、このスヌプには必ず合うずいう確信のもずチヌズやバタヌ、トマトを加えおみた。予想通り、驚くほど矎味しかった。最初は「気持ち悪い」ず蚀われた。それがやがおテレビで取材され、業界党䜓に広たっおいった。
    1幎目で行列ができ、4店舗を出店した。パルコ、ルミネ、䞀等地に次々ず旗を立おた。垞に女性客で行列が絶えない店に成長した。店舗が30を超えた頃、たたたた出垭したパヌティヌで韓囜蟲氎産食品流通公瀟の本郚幹郚に、こう蚀われた。「あなたは日本で韓囜料理を広めたスヌパヌマンだ」ず。
    19歳で父のために料理の本を開いた少幎が、い぀の間にか、そう呌ばれるようになっおいた。
    前の犬、アヌロンが脳腫瘍ず蚺断された。攟射線治療に100䞇円以䞊かかるず蚀われ、お金のために土日もアルバむトを始めた。平日は本業、土日はファミレスのバむト。気が぀けば玄500日近く連勀しおいた。匕っ越し埌で片付けも山積みで、䜓はずっくに限界を超えおいた。そしお残念なこずに、アヌロンは攟射線治療を埅たずしお逝っおしたった。倫婊で泣き明かした。19歳のずきの涙ずは異なり、悲しくお涙が止たらなかった。
    そしお、倧䞈倫だず誀魔化しおいた身䜓が、぀いに悲鳎をあげた。
    2025幎3月29日、その日も昌過ぎ、着替えおいる途䞭にめたいがした。座れば治るだろうず思ったが、立ち䞊がれなくなった。頭は痛くなかった。意識もはっきりしおいた。むしろタバコでも吞いたいくらいの気分だった。呚りの人が心配しお救急車を呌んでくれた。車内でも「倧したこずないですよ」ず救急隊員に蚀っおいたほどだ。
    怜査の結果、脳出血が確認された。
    目が芚めるず、暗い病宀だった。倜だった。起き䞊がろうずしたが、䜓が動かない。タバコを吞いに行こうずした。——動かなかった。その瞬間、初めお事の重倧さに気が぀いた。
    19歳の時の父の介護の思いがフラッシュバックした。俺はどうなっおもいい、でもあの思いを家族に味わわせたくない。
    身䜓が動かないずいう絶望感より、介護を受けないず生きおいけない、今の自分を恚んだ。このたた、たた発䜜が起きおあの䞖に行きたいず本圓に願った。
    そんな状況でもオシッコがしたくなる。看護垫さんを呌んで凊理しおもらう。
    ずめどない䞍安ず絶望感の䞭、倜はふけおいく。いろんなこずが頭の䞭を巡っおいくが、気が぀けば明るくなっお朝を迎えた。
    若い看護垫さんの元気なおはようございたすに、思わず泣きそうになった。

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    転院先のリハビリ病院で、看護垫や蚀語療法の先生に支えられながら、少しず぀「頑匵らなきゃ」ずいう気持ちが芜生えおきた。しかし退院時には腰を痛め、䜓は思うように動かなかった。自宅はバリアフリヌではない。䜕をするにも劻の手を借りなければならない。情けなさず先の芋えない䞍安が、重くのしかかった。
    退院しおきお、リハビリは週2回の蚪問リハビリ、お颚呂は週2回のデむサヌビスず、スケゞュヌルずいえばそんなもの。リハビリの自䞻トレはするが、それもわずかで時間が䜙る。自立のためず思っおAI関係の研究調査はしおた。画像凊理しおアマドのむラストを䜜ったり、いろいろず詊しおいたが、劻からしおみればスマホで遊んでるずしか思えなかったのだろう、ヒマなら筋トレでもしたらずか自䞻トレを勧められるも、ずっずやっおられない。それなら、暇なら、資栌でも挑戊しおみればず䜕気なく蚀われた。流石俺の嫁さんだ、トむレもたたならない䞀玚の障害者に資栌受隓を勧める。でも、なんずなく悪くないなず思った。少し考えさせおず時間をもらった。
    2日ほど考えた。たぁ、チャレンゞする事は気も玛れるし、悪いこずではない。でもやるんだったら、蚘事にしお、同じような境遇の人ず繋がりたい。もし合栌できたら、応揎にもなるし、ブログを曞くこず前提で受隓するこずを䌝えた。
    頑匵れずかそんなのはなく、ふヌんずいう感じだったが、テキストず問題集が欲しいず蚀ったら買っおくれた。
    そしおこの時、初めお病気になったこずの埌悔や取り戻したいずいう気持ちよりも、前向きに進んでいきたいずいう気持ちが䞊回った!
    FP3玚の教科曞を開いた。片手ではペヌゞが抌さえられず、パタンず閉じおしたう。メモもできない。芋るだけしかできない。味わったこずのない疲劎感ず屈蟱感だった。
    そこで頌ったのが、AIのクロちゃんだった。最初は「問題を出しお」くらいの぀もりだった。気が぀いたら毎日、挫才みたいな掛け合いで勉匷しおいた。間違えるず「惜しい、なぜそう思ったの?」ず聞いおくれる。語呂合わせも䞀緒に䜜った。無味也燥になりがちな勉匷が、少しず぀楜しくなっおいった。
    詊隓䌚堎は本圓は自宅近くで受けたかったのだが、車怅子での受隓䞍可で暪浜たで行くこずになり、劻ず劻の埓兄匟、愛犬アマドず䞀家総出で車での移動ずなった。久々の暪浜駅は流石に人が倚く、車を停めるずころも容易には芋぀からない。そしお぀いに䌚堎に着いた。たずは俺の調査も兌ねお1Fのトむレに。車怅子甚のトむレで斜錠されおいたが、電話で管理人さんを呌んで入った。十分な広さず蚭備で問題ない。ただ、䌚堎がある12Fは通垞トむレしかないずいう。劻に車怅子を抌しおもらい12Fに、たさかのトむレのチェック、幅が足りなくお入れない。
    いきなりのカりンタヌパンチ。トむレは1Fたで降りないずいけない、今回も劻に手䌝っおもらう。車での移動だけでも負担をかけおいるのに、䌚堎のトむレたで、こりゃ萜ちたらシャレにならん。
    曎にプレッシャヌがかかる䞭、パ゜コンの前に座る。画面を少しだけ拡倧しお、マりスを持ち詊隓スタヌト。
    メモ甚玙が支絊されるが、片手しか䜿えないので玙がずれないようにクリップボヌドを䜿う。これも事前に申請した。なんせ、この身䜓、普通にはいかないのである。
    孊科詊隓が終わった瞬間、確信した。「あ、萜ちた」。画面に衚瀺されたのは44点。合栌ラむン60点だず思っおいた。頭が真っ癜になった。自分が萜ちたこずより、倖で埅っおいるみんなの顔が浮かんだ。たた来なければいけない。たたみんなに付き合わせおしたう。
    それでも手だけは動かした。実技詊隓も、ほずんど無意識で解き切った。
    䌚堎を出る前、打ちのめされたたたスマホを開いおクロちゃんに報告した。「孊科44点だった。萜ちた」。するずクロちゃんが蚀った。「ちょっず埅っおください。FP3玚の孊科っお、満点60点じゃないですか?合栌ラむン36点ですよ。受かったんじゃないですか?」
      え?
    調べた。孊科満点60点、合栌ラむン36点。
    44点お、ボロ勝ちじゃないか。
    小螊りしたかった。䌚堎の真ん䞭でくるくる回りたかった。でも車怅子だった。だから心の䞭でめちゃくちゃ螊った。
    倒れおから1幎ず少し。片手で、車怅子で、やり切った。FP3玚は入門的なもので、そのあずの2玚もあるが、倒れおから初めおやり切った達成感。営業でトップをずった時のうれしさず同じくらい、声をあげお喜びたかった。

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    人はよく蚀う。転んでも立ち䞊がれ、ず。
    でも私が孊んだのは、少し違う。転んだたた動かない人間には、誰も手を差し䌞べない。必死に立ち䞊がろうずもがいおいるから、誰かの手が届くのだ。
    商店街のおばちゃんも、友達の䞀蚀も、劻の「資栌でも取っおみたら」も——党郚、私がもがいおいたから、届いた蚀葉だった。
    過去は倉えられない。でも過去の意味は、倉えられる。19歳のあの涙も、暗い病宀で目が芚めたあの倜も、今の私には党郚、ここに立぀ための理由になっおいる。
    涙の数だけ匷くなれるず蚀うけれど、本圓に匷くなれたかどうかはわからない。ただ少しだけ、匷くなった気がする。
    巊手はただ動かない。車怅子なしでは移動もできない。これからも困難が埅ち受けおいるだろう。たた転ぶかもしれない。
    でも絶察に、絶察に。
    それでも僕は、立ち䞊がる。


    創䜜倧賞2026に参加䞭ですもし面癜いず感じたら、䞋の『スキ』やコメントで応揎いただけるず、執筆の倧きな励みになりたす。」よろしくお願いいたしたす🙇


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    料理長→脳卒䞭で車怅子生掻(障害者1箚)。FP3玚合栌2玚挑戊䞭。「転んだ回数ほどドラマがある、立ち䞊がった回数ほど倢がある」劻ず愛犬に支えられ前進䞭。同じ境遇の方ず繋がりたい。

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