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水鏡に反射して【創作大賞2026 恋愛小説部門応募作品】

    あらすじ

    幼少期、父の暴力から逃れるように予定調和のお笑いや文学を眺めて育った京。大人になった彼は自らの内に潜む男性性への恐怖から、自らが男である現実を常に否定して、既存の文学の世界に当てはめる日々を送っていた。そんな彼が恋に落ちたのは、朗らかだが性的な接触を嫌う女性・綾香だった。 交際一周年を記念した岐阜への旅。モネの池や合掌造りの街並みを巡るなか、平穏だった二人の関係は隠し続けてきた過去の露呈によって崩壊を始める。露わになったのは、救いようのない嗜虐性と被虐性の連鎖。京は彼女を永遠に自分の予定調和な箱庭に閉じ込めるため、究極の愛の形として心中を思いつく。2人で死を選ぶつもりの京を冷ややかな目で見る綾香は、京を裏切り1人夜行バスに乗る



    幼少期、同じお笑い番組を何十回も見るのが好きだった。

    母は私をお笑い好きなのだと思っていたが、今思い返せばきっと予定調和の海で耳を塞いでいただけだったのだろう。知っているボケ、知っているツッコミ、知っているコメント。決して予想を裏切らない画面の中の箱庭は、予測できない現実の世界から私を救ってくれていた。

    それに、父の罵声に怯えて育った私にとって、ツッコミの罵声が享楽として消費されていることも嬉しかった。この苦しい現実を、少しでも笑い飛ばせた気がしたから。40インチの光の束の中にはいつも私の恐れる男性性が渦巻いていた。



    「...ねえ京、話聞いてる?」

    ソファ席に浅く腰かける綾香が、頬杖を突きながらグラスの中でストローをくるくる回す。交際して一年弱も経てば、それが不機嫌な時の癖であることは理解していた。こういう時はおとなしく非を認めて謝るのが早いことも。

    「ごめん、考え事してた。なんだっけ?」

    いつもと同じ笑顔で答えると、綾香は少し頬を膨らませて、深く座りなおして腕を組んだ。これもいつも通りだ。

    「一年記念の話の続き。せっかくだしちょっと遠出しようよ。」
    「ああ、そうだったね。遠出か…岐阜とかどう?モネの池見に行きたい。」

    彼女の顔がパアッと明るくなって身を乗り出す。どれだけ時間を共に過ごしても、その顔に宿る光の魅力は変わらなかった。

    「岐阜いいね!白川郷とかも、一度見てみたかったんだ。」
    「下呂温泉とかも有名だしね。たまには旅館でゆっくりしようか。」

    何とはなしに放ったその言葉に彼女の笑顔が一瞬揺らいだ。

    「あ、、そうだね。でも、お風呂はできれば別々に入りたいな。」

    歯切れは悪いものの、その眼には確かに拒絶の種が植わって見えた。慌てて笑顔を取り繕う。

    「分かってるよ。個室風呂の宿を探して、別々に入ろう。」

    少し話すスピードを下げて、彼女の瞳を見つめる。少しだけ警戒の色が薄れた気がする。

     性的な接触を好まない綾香は、一年たっても私が触れることすら許さなかった。友人からは憐みの目を向けられることもあったが、女としての熱を持たない彼女の光が、いくら近づいても私の醜い翼を溶かさないことに私は安堵していた。

     その後はできるだけ彼女を刺激しないように旅行の計画を立てた。「旅行って計画立ててる時の方が当日より楽しいこともあるよね」なんて、下らない話をする二人の時間がいつまでも続くことを静かに祈りながら。

    *****

     規則的な電子音で目が覚める。いつも通りの灰色の天井でいつもより数時間早く起きた私は、不快を主張する脳をだますかのように片眼を閉じながら身支度をする。何十回と味わったお笑い番組のDVDと文学作品によって作られた予定調和の山をすり抜け、旅行の準備の最終確認に取り掛かった。着替え、お金、携帯、そして薬。確認を終えて目も冴えてきたところでドアノブに手をかけた瞬間、頭の中で声がした。

    『忘れ物は?』
    ―今確認した。
    『確認するために取り出して、戻し忘れてないか?』
    ―そんな馬鹿な。
    『万が一薬を忘れてたら?』

    ――スマホの通知で、意識が現実に引き戻される。綾香からだ。あのあと何回、荷物の確認を繰り返したんだっけ。床に座り込んで乱れた身なりを整え、震える指でメッセージを確認する。
    『ごめん!寝坊しちゃった!!』
    『急げば新幹線には間に合うから、先乗って待ってて泣』
    時計に目をやると、自分にも時間の余裕がないことに気が付いた。かれこれ40分ほど取り乱していたらしい。綾香に軽く返信をして呼吸を整え、急いで家を後にした。

     新幹線の座席についた時、幸いまだ彼女は来ていなかった。スマホを取り出しカメラアプリを開く。いつもの、いつもの笑顔を繕わないと。画面の中でニコニコと笑う人間を見て、ほっと胸をなでおろす。今日も私は男じゃない。私を脅かした、私を呪った男ではないのだ。

     私の息切れも落ち着いたころ、今度は綾香が息切れしながら飛び乗ってきた。細く整った指、滑らかな喉、温かい声。息切れしてても美しいその全てが私の本当の性を明らかにする気がして、少し目を逸らした。

    「セーーーフ!」
    「遅刻した時点でアウトだよ?」
    「ねー、ごめんってば」

    お気に入りの長袖に身を包んだ綾香が悪戯っぽく笑う。

    「それにしても、走るんだったら半袖着るか、袖を捲るかぐらいしなよ。」
    「いーーの!岐阜は避暑地なんだから!」
    「まだ東京だよ?」

    そんな言葉で笑いあう。汗だくで来ることを見越して買っておいたペットボトルを差しだすと、彼女は手を出すことなく口だけをつけて雛のように水をねだった。思わず足に力を入れて、地面の感覚に意識をそらす。この雛が永遠に、私の傍から飛び立たないで欲しいという願いの種が心臓に巣食う前に。

     東京、品川、新横浜を駆けていく。いつもは私たちの全てを内外から食らいつくすように見えた都会の喧騒は、車窓から覗くとやけに小さく見えた。窓側の席で風景を見るのに耽っていた綾香は新横浜を過ぎたあたりから、神奈川県西に広がり続ける田園風景に次第に飽きてしまったようでいつの間にか眠っていた。起こすのも悪いし本でも読んで過ごそう。こんなこともあろうかと何冊か持ってきておいた。予定通りというわけだ。

    男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。

    紀貫之「土佐日記」

    女のふりをした紀貫之が、土佐から都へと戻っていく様子を綴った日記。少しだけ今日の二人にふさわしい気がしてついまた手に取って持ってきてしまった。そういえば高知にもモネの庭があったっけ。またいつか綾香と行けたらいいな。そんなことを考えながら読み進めていく。

     『まもなく~岐阜羽島~岐阜羽島~』
    長い列車移動の終わりを告げるアナウンスの後に、列車の遅延を詫びる放送が流れる。。旅の予定を早々に乱されたことへの苛立ちは精一杯隠して、恋人の名前を呼ぶ。

    「寝坊したのにまだ寝るんかい」
    「ん...楽しみで眠れなかったの」

    薄目で笑う彼女を愛おしく思いながら、下車の準備を着々と済ませる。

    「電車遅れちゃったみたい。バスの時間確認しよっか」
    「…もうレンタカー使おうよ、京は大学入ってすぐ免許取ったんでしょ?」
    「...ん~...」

    予想外の提案が返ってきて返答に詰まった。彼女は私の病も、そのための薬のことも知らないから、私が今でも運転できると信じているのだろう。実家を飛び出して自由になった勢いのまま取った免許は、今の私にとっては何の証明にもならない紙切れでしかなかった。どうしよう。どうしよう。たった数秒の沈黙が、これまでの人生と同じくらい長く感じられた。

    「...まあ、久々の運転がレンタカーなのは怖いもんね。調べよっか!」

    私の歯切れの悪さから何かを感じた綾香がわざとらしく明るい声で笑ったことで、静寂は彼女の光に照らされて消えた。静寂が音の不在でしかないように、私の抱える闇は、彼女が持っている光の不在でしかないのだと思い知らされる。

    *****

     田舎のバスは本数が少ない。そういえば私が幼稚園生の頃、地元のバスが廃線になったっけ。父がいなくなった後、車のなくなった母はスーパーに行くのも大変と笑っていた。

    「うげ~~次のバス2時間も待つの~?」
    「せっかくだし、少し予定変更してこの辺も回ってみようか。」

    日はまだ南中前で、時間はいくらでもあるように思えた。こちらで軽く時間をつぶして、向こうでの観光時間を少し巻けばそこまで影響はないはずだ。
    少し喫茶店にでも入って行き先を考えようと、すぐそばにある店に入った。

     少し雰囲気のある、静かな喫茶店。まだ開店時間になったばかりだからか、店内に人はまばらだった。バイトと思しき女性に声をかけ、いつものようにアイスコーヒーとメロンクリームソーダを注文する。

    「…さすが、私の好みわかってるね」
    「一年も一緒にいれば覚えるよ」
    「それって単純な女ってこと?」

    むくれる綾香に笑顔を返して、少しだけ会話を楽しんだ。彼女が寝ている間に通った街の風景のこと、読んでいた本のこと。その間にも頭をフル回転させて、この後のことを考える。喫茶店に入るのは予想外だったから何が起きるかを対策しておかなければ。綾香が頼んだものが先に来た場合。私が頼んだものが先に来た場合。なかなか運ばれてこずに綾香が不機嫌になる場合。
    答えは一番シンプルでありがたいもので、二人の商品は同時に運ばれてきた。アイスコーヒーに口をつけながら、メロンクリームソーダのチェリーを摘まむ綾香を見守る。

    「ベロで結べた~!」
    「…品がないよ」
    「いいじゃん、全然お客さんいないし」

    ジロリとこちらを睨んだウェイターに軽く頭を下げて、次の行き先を考え始める。どこか綾香が喜びそうな場所はないかなんて考えながら、指紋が消える勢いでスクロールしていた親指が、ある文字を見てピタリと止まってた。

    ≪柳ケ瀬商店街≫

    ここから少し歩いたところにある、かつて栄えた商店街。美川憲一の『柳ケ瀬ブルース』の舞台だったか。摩耗したレコード針とノイズまみれの旋律が脳を掠めた。

    父が外に女を作って出ていったあの日から、母は憑りつかれたように何度もあの曲を聴いていた。捨てられず溜まったゴミの鼻を刺すような臭いを思い出す。「母さんは一人じゃないよ」なんて、歯の浮くような台詞を並べ立てれば何か変わっただろうか。塞いだ母に、私が無責任に「頑張れ」なんて言わなければ、母は今も元気だっただろうか。地元と一緒に捨ててきたはずの疑問を、まだ私は捨てきれていなかったらしい。

    「柳ケ瀬商店街?そこに行きたいの?」

    隣からスマホを覗く綾香の声で、意識が現実に引き戻された。

    「あ…うん。商店街だし、ご飯もお土産もどっちも見れるかなって。」

    咄嗟に出たにしてはいい言い訳だった。来てすぐお土産は早いでしょ、なんて笑う綾香と一緒に、商店街へと足を運んでみることにした。

     商店街は意外にも賑わっていた。コロッケのにおい、群衆の雑踏、レトロからモダンまでが入り混じった様相。私の意識を現実に引き留めておくには十分すぎる情報の海に圧倒される。私たちは少しだけ古着屋や雑貨屋などを見て回った後、レトロな定食屋の中に逃げ込んだ。

    「…私、商店街ってもっとシャッターまみれなんだと思ってました。」
    「こら、失礼でしょ。」

    メニューを眺める私の隣で、綾香が店主の女性に向かって不躾に言う。

    「あはは、正直ねぇお嬢ちゃん。でも一昔前までは、ここもシャッター商店街なんて呼ばれてたのよ。」
    「え~意外!じゃあ、何か改革があったんですか?」
    「時代に合わせて商店街も変化してこうってことで、大規模な再開発があったのよ。それで少し客が戻り始めると一気に賑わいが戻ってきて、それで…」

    店主は話し始めると止まらない人だった。途中から綾香が困った顔でこちらをチラチラ覗いてきたので、頃合いを見て注文をして黙らせる。
    「すみません、生姜焼き定食を一つ」
    「あ、メニュー見てなかった。え~と、できるだけ火を使わないもので」
    「なによそれ」
    綾香のいつもの意味不明な注文で話を途切れさせても、店主は「まあ、この商店街も私たちと一緒に常に形を変え続けるってこと」と笑っていた。だって今日暑いじゃないですか、なんて笑う綾香と談笑をしながら店主の言葉をかみ砕く。

    ―「常に形を変える」か。今までの短い人生の間でも、目まぐるしく時代が変わってきたと感じる。社会は男と女以外の性にも寛容になってきて、表向きは私を受け入れてくれていた。じゃあ私は、私と綾香の関係は変わっただろうか。交際して一年、性に怯えて、指の一本も触れないようにしながら顔色を窺って話してきた。いつか彼女の光が、私の内側にも差し込むのだろうか。考え事をしていて、あまり生姜焼き定食の味はわからなかった。

    「ん~美味しかった!日も高くなってきたし、バス停に戻ろっか!しかし暑いね~」

    汗ばんでキラキラと光る首を拭いて笑いながら、いまだに長袖を捲ろうとしない彼女にはもはや独自の美学すら感じられた。

    *****

     「うわ~きれい~~!!」

    岐阜県関市に位置する根道神社。私と綾香はその境内にある名もなき池、通称モネの池を訪れていた。底まで透き通って見える水と、そこから息をするように浮上する睡蓮。その下では、大きな錦鯉が鰓のない睡蓮を嘲笑うがごとく悠々と呼吸していた。

    日は高く上り、水は光を反射してきらめく。本当はもっと早く来て、光の届かないもっと透き通った池を、綾香の光に照らして欲しかったのに、予定が狂ってしまった。その苛立ちを隠さずに鯉を睨みつける。

    『彼女に触れることすらできないくせに』

    口をパクパクとさせて反論するしたように見えたそれに、先ほどまで睡蓮に向けられていた嘲笑が私に向けられたような嫌悪感が全身を走る。違う、私は触れたいなんて望んでない。彼女には触れられない。

    「大丈夫?なんか怒ってる?それともバスで酔った?京は弱いからな~」

    綾香が揶揄うように近づいてくる。けれどもその瞳には本気の心配と、確かな愛着が浮かんでいることが分かった。分かってしまった。

    「知ってる?”鯉”の名前って、”恋”に由来してるって説もあるんだよ?デートにはぴったりの魚だよね~!ほら、もっと近くで見よ!」

    なんて笑う彼女の光はモネの池のように冷たく透き通っていた。それが私の一番の救いで、一番の痛みだった。さっきまでは聞こえなかった蝉の鳴き声がやけに騒がしくて、私の耳を劈いた。

    「…恋に焦がれて 鳴く蝉よりも」
    「ん?なんか言った?」

    そこまで口に出して、この引用は今の状況にはあまり合わないと思いやめた。今の私は鳴かぬホタルなどですらない。私にはホタルの持つ冷たい光すらないのだ。ふと綾香を見つめる。少し照れて首を傾げる彼女の冷たい光は、いつか彼女の身を焦がすのだろうか。

    バスの時間まで少しだけ並んで池を眺めている間、二人の間には確かな温度差があった。この温度は、彼女には移ってくれないのだろうか。そんな思いだけ、鯉の腹の中に堕ちて欲しかった。ふと、後ろから声が聞こえる。

    「パパ~!見て!お魚!!」
    「本当だね~あれは鯉っていうんだよ」
    「ちょっと、ちゃんと前見て歩かないと危ないわよ」

    ―ドン
    腰の高さくらいに重いものがぶつかってよろけそうになっ慌てて手すりをつかむ。後ろへ向き直ると、父親の手を引く子供の後ろを赤子を抱く母親が付いてきていた。

    「だから言わんこっちゃない!すみませんうちの子が。ほら、愛華も謝んなさい」
    「ごめんなさい」
    「いえいえ、全然大丈夫ですよ。愛華ちゃんこそ大丈夫?」

    妻に怒られて萎縮するばかりで謝る気配のない父親の方は見向きもせずに母親に応える。

    「子育て大変ですもんね。ここにはご旅行で?」
    「そうなんです。この子に見せてあげたいって主人が…」
    「へえ~!家族思いのいいご主人ですね。モネも妻や息子のことを何枚も絵に残した家族思いな画家ですし、引かれ合うところがあるのかも」

    実際のモネは妻の妊娠中に入水自殺を図りましたが。なんて言えば、このテンプレートな会話が崩れることを私はわかっていた。ただでさえ旅の予定が崩れている今、他人との会話は順当に終わらせたい。

    「詳しいんですね。美術がお好きで?」
    「あぁ、いえ。ただ観光前に色々調べておかないと気が済まないんです」

    それは決して偽りではなかった。モネの生まれ、経歴、作品、―そして最期。そのすべてに至るまで、いつ綾香に聞かれても答えられるように完璧に覚えられるまで、心音が鳴りやまない程だなんて言う必要もない。

    「おっ、じゃあ彼氏さんに色々教えてもらっちゃおうかな、なんて」
    「…すみません。バスの時間があるので」

    ようやっと口を開いたと思ったら冗談交じりに私を搾取しようとする父親のことは軽くあしらいつつ、いつの間にか脱線して鯉と会話している綾香のもとへ向かった。いつもの綾香と違う、どこか遠くを見るような目な気がした。

    「ごめんね。そろそろ行こっか。何話してたの?」
    「…あの旦那さん、煙草の臭いがして嫌だったねって」
    「ああ、煙草嫌いだもんね」

    話しかけると綾香の顔にパッと光が戻る。確かに綾香の煙草嫌いは相当なものだった。火をつける前に即座に体を反応させていたときのことを思い出して、思わず笑みがこぼれる。

     バスに乗って、目的の宿のある郡上八幡まで移動する。下呂温泉も捨てがたかったが、明日白川郷に行くのであればこっちがベストだという結論になったのだ。

     郡上八幡。「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった宗祇水が湧くこの町は、水の町とも呼ばれていた。宿に行く前に少しだけあたりを回って、湧き水を見に行ってみる予定だ。

    バスを降りると、小高い山の上から郡上八幡城が私たちを見下ろした。城下町として栄えたこの町には、歴史的な街並みも残っている。玉石の敷き詰められた小道の脇には、透き通った用水が流れていた。
     ふと、綾香が看板の前で足を止めていることに気が付く。この町の歴史について書かれているものだ。食い入るように見つめる彼女の眼に、少しだけ母親の面影が重なって見えた。

    「承応の城下町大火…」

    この町が水路を整備したきっかけとなった火事。街の片隅で起きた炎がいつの間にか町全体を焦土に変え、敵の侵入を許さないための入り組んだ構造は、いつしか人々の逃げ場さえも奪ってしまった。良かれと思ってやったことが取り返しのつかない結末を生む、世界の相変わらずの残酷さを少しだけ恨んだ。

    「ごめん、湧き水見に行くんだったね。行こっか!」

    憑き物を落とすように頭を揺らした綾香の髪の甘い匂いが、少しだけ空気中に散らばった。

    宗祇水はどこまでも透き通っていた。歴史の残る街並みを水中で永遠に保存するかの如く、周囲の風景を反射している。

    「きれ~!これって飲めるのかな?」
    「最近は生活用水ではないらしいけど、一応飲めるみたいだよ」

    目を輝かせて湧き水を救って口に運ぶ綾香が妙に艶やかに見えて、慌てて冷たい湧き水を飲んで頭を冷やす。今日は少し変だ。予定外のことが積み重なって、少し判断が鈍っている。そう言い聞かせることにして、宿へと足を急いで運んだ。


    「は~疲れた~~!」
    「こらこら、はしたないよ」

    近くにあった椅子を引いて、大の字になって畳に寝そべる綾香を座らせる。気持ちはわかる。綾香と同様私も早いとこ眠ってしまいたかった。

    「京は?座らないの?」
    「今座ったら立ち上がれなくなっちゃいそうだし、先にお風呂入っちゃおうかな」

    その言葉に、また綾香が硬くなる。約束通り個室で別々に入れる温泉宿を探したつもりだったが、無言で袖を強く握る彼女の表情には少しだけ逡巡の花が咲いていた。やはり部屋も別々の方がよかっただろうかなんて思ったが、今はそれを問いただすのも負担になるように思えた。


     脱衣所で服を脱ぐときは、下を向かないようにしていた。それは、嫌でも自分の性を認識させられる行為だったから。斜め上を向いて扉を開ける。無数の星が漂っているのが見えた。あれは確か夏の大三角だったか。ベガ、デネブ、アルタイル。怒りに任せて織姫をその夫から力づくで引き離した、唾棄すべき父親の話を思い出して少しだけ頭痛がした。全てから逃げるように目を瞑って、髪を洗って、体を洗う。指が私の男としての証拠に触れるたび、心臓を黒い虫が這うような不快感が全身を襲った。いつもなら耐えられるこの苦痛は、すぐそこにいる綾香の光に照らされて鮮烈な痛みとなって刻み込まれる。痛い。苦しい。
     一通り洗って、逃げるように脱衣所へ向かう。浴衣に着替えて何度も鏡を見つめた。違う、私は、私は、男じゃない。持ってきた頓服薬を無理やり口に押し込んで、笑顔を取り繕う。これじゃない、これじゃない。顔を掻き毟る。硬くて筋肉質な体。太い血管の通った腕。低くて気味の悪い声。この醜い男は誰だ?

    「母親を殺した男だ」

    どこからか声が聞こえる。違う、殺したのは父だ。私じゃない。
    父が暴力を振るわなければ、父が家を捨てていかなければ、母は今も生きていた。私は母を支えたかった。応援したかった。

    『母さんはもう十分頑張っとる。これ以上頑張れいうたらいかんよ。』

    頭が割れるように痛んだ。祖母に言われた言葉だったか。いや、往診の女医だったか。うまく思い出せない。誰の言葉かなんてどうでもいい。私はこの言葉の意味をちゃんと理解できていなくて、無邪気に母を追い詰めて、母の優しさを吸いあげて、それで、私は、私は、僕は―


    ―母を殺した。

    母が夜中に出かけて行ったきり帰ってこなかったのは、僕のせいだ。通夜の晩、早春の雨に乱反射した祖父の怒鳴り声が何度も反響する。

    『お前のせいだ』
    『お前のせいだ』
    『お前のせいだ』

     認めたとたんに、視界がぐわんと歪んで、言いようのない吐き気が僕を襲った。脱衣所の鏡には父よりも醜い男が映っている。食べるときには味がしなかった定食も、吐き出すときには明確な悪意を伴って喉を焼くのだと知る。全てを吐き終わるころには、もう立っている力も残っていなかった。

     僕は、男になんて生まれたくなかった。それは生まれつき、暴力の種子として生きるということだったから。モネが絵を描くように、僕は暴力性の原因として存在していた。一度認めてしまえば、あらゆる選択肢の中に暴力が入り込み、灼けた頭でそれを否定していくことになる。それなら、人を傷つけるくらいなら、初めから性を否定していた方が楽だ。

     スマホに反射した僕の眼から、透明な心が溢れていった。もうすでに、こんなにも嘘の色で染まってしまったというのに。何かを溢れるほどたくさん持ってなどいないのに。萎れて破けた化けの皮の下には、箱庭で五感を塞いでいたあの頃の僕がいた。

    *****

    「いや~いいお湯だった~!」
    「お帰り、随分と長風呂だったね」
    「京には言われたくな~い」

    実際に風呂に入ってた時間はほとんどないなんて、彼女に言う必要はなかった。例え僕だろうが私だろうが、彼女の幸福を願う気持ちは変わらないはずだったから。

    「そろそろご飯の時間?」
    「そうだね。部屋まで持ってきてくれるはずだから、適当に時間つぶして待ってようか。何が出るかまではサイトに載ってなかった」
    「は~い!何が出るのか楽しみだね!」

    着なれない浴衣の袖をしきりに確認する綾香の幼気さを愛おしく思いながら、徒にテレビを流して2人で時間をつぶすことにした。数日前に東京で見たお笑い番組が、少し遅れてこっちでも放送されているらしい。予定調和の暴力性にまた少しだけ安堵した。

     運ばれてきた料理はいかにもといった感じの和食で、中央の鍋の中では見慣れない肉がぐつぐつと煮えていた。綾香が煮える鍋から思い切り身をそらすので、火が少し熱いのだろうかと思って弱める。彼女は少しだけ安心したような表情を浮かべて体勢を直し、仲居に尋ねた。

    「何ですかこのお肉?」
    「こちらは牡丹肉といって、猪のお肉となります」
    「いのしし!初めてみた~!」

    わざとらしく顔を丸くする綾香に対して、仲居はわずかに相好を崩す。

    「熱いので、お気をつけください」

    ちゃんと監督しておけよ、と言わんばかりにこちらを覗く仲居に軽くうなずいて礼を言って、二人で鍋を囲む。

    「この一年間色んな所に行ったよね~」
    「そうだね。付き合う前も含めたら、二年ぐらいの付き合いだし。」
    「初めて二人で行ったのどこだっけ?」
    「こないだ旅行計画立てたカフェだよ。あそこで綾香が―」

    そんな思い出話に花を咲かせる、時折手を止めて鍋の火を眺める綾香の眼に、少しだけ影が差して見えた。

    「眠い?大丈夫?」
    「…あ、大丈夫。……熱っ!」

    呆けた顔で野菜をとろうとする綾香の右手が鍋に触れた。

    「大丈夫?!」

    初めて出した大声に綾香の顔が怯えていたことなんて、気づく余裕もなかった。慌てて鍋の火を止めて、バックを全部ひっくり返して、念のため持ってきた救急セットから外用薬を取り出した。違う。まずは、冷やすのが先だ。保冷材。これも違う。先に流水を。いつものように、答えだけ綾香に提示することなんてできなかった。ぼろぼろの脳で、必死に途中式を並べ立てていく。洗面台、洗面台で患部を流さなきゃ。強張ったまま「大丈夫だから、やめて」なんて戸惑う綾香の袖をつかんで、猪のようにまっすぐ洗面台へ引っ張る。

    「やめてってば!」

    ―ゴン。
    無理やり振り払った手が壁にぶつかって、ビリビリと痺れたような痛みが走る。

    「あ。ちが、ごめん」

    泣きそうな顔でこちらを見る綾香の浴衣の袖がはだけて、腕を覆う爛れたやけど跡がこちらを覗いた。すぐに目を逸らせばよかった。よかったのだ。呆然と腕を見つめる僕の視線に気が付いた綾香が眉を顰める。その顔からは、一切の光が消えていた。

    「…出てって」
    「でも、」
    「出てってよ!!」

    初めて聞いた綾香の怒鳴り声。泣き崩れる綾香を救う唯一の方法が、僕の不在であるという事実がたまらなく苦しかった。


     旅館をでて、行く当てもなく走り出す。僕が綾香を幸せにするなんて、ただの思い上がりでしかなかった。彼女の苦しみから目を背けて、勝手に光の中に押し込んで、助けるつもりで母と同じように追い詰めた。この臆病な自尊心は、走ったところで僕を虎になんて変えてくれやしなかった。似たような状況の文学を思い出せ。彼女には何を言えば正解なんだ。考えろ、正解を。正解を。
     綾香も母と同様、死んでしまうのだろうか。そんな考えが脳をよぎり、旅館に踵を返しそうになる。ダメだ。出て行けと言われた以上、無断で戻るのは彼女を傷つけることになる。一歩、二歩、三歩。一歩ずつ旅館から遠ざかる方向に足を進めた。

    本同根より生ずるに
    相煎ること何ぞ太だ急なると

    曹植『七歩の詩』

    七歩目をついた時に、必死の思いで無理やりひねり出した文学。案外この場面にぴったりの正解だった気もする。僕と綾香は、きっと同じ苦しみを抱えて生きてきたはずなのに。なぜこんなにも傷つかなければいけないのか。

    「…ははっ」

    自分の醜さに、乾いた笑いが出る。無意識にまた、燃える豆がらに綾香の火傷を重ねていた。僕は彼女に煮られる豆なんかじゃない。彼女を傷つけた、一人の男だ。許されるのならば、許されなくても、謝らなくてはいけない。

    ―謝る。何を。傷つけたことをか?それとも、火傷跡を見た瞬間に湧いて出た抑えようのない嗜虐心をか?僕があの跡から目を背けられなかったのは、衝撃ゆえでも悲愴ゆえでもなく、確かな劣情のせいだった。

     闇の中で、1人腰を下ろす。この一年、どれだけ離れても僕の頭の中には常に綾香がいた。彼女に宿った炎はきっと僕の命の灯だ。嫌だ。失いたくない。彼女の死は、どうやって追い払えばいいんだっけ。

    「…アジャラカモクレン テケレッツのパー」

    この期に及んで自分の言葉で綾香を繋ぎ止められない自分を愚かしく思いながら、予定調和の笑いに縋った。それが、どこまでも空っぽで自分の言葉を持たない僕にできる唯一のまじないだった。


    ポケットの中で、スマホが震える。綾香からだ。

    『さっきはごめん』
    『部屋でちゃんと話したい』

    今度こそ踵を返して、旅館に向けて走り出す。文学に当てはめた既存の言葉じゃなくて、僕の言葉で話せるだろうか。僕は変われるだろうか。きっと無理だ。それでも彼女に、向き合わないといけない。


     部屋に戻ると、綾香は袖を捲って隅でうずくまっていた。鍋は仲居さんが片付けてくれたようで、部屋には時計の規則的な音だけが鳴っている。救急セットから取り出したであろう保冷剤で右手を冷やす左腕には、痛々しい火傷跡が滲んでいる。ひっくり返したリュックの中身は綾香が戻しておいてくれたらしい。

    「ごめん。勝手に借りた。」
    「うん。大丈夫」

    二人して黙っていると、消し忘れたテレビから予定調和が襲ってくる。一呼吸おいてテレビを消す。向こうがちゃんと話したいと伝えてきた以上、考えなしに喋るのは聊か無粋に思えた。

    何分、何十分経っただろうか。
    2人の間で何度も無音が鳴る。僕がレコードを隠した後も、母は鳴らないプレーヤーを何度も何度も鳴らし続けていたっけ。

    「…私ね、お父さんに殺されたんだ」

    *****

    綾香の母親は、綾香を生んですぐ亡くなったらしい。中絶すれば助かる病気を夫に隠して、無理をして綾香を生んだそうだ。

    「物心ついたときから、いつも『お前のせいで』ってお父さんから言われた。」

    静かに、でも確実に彼女は言葉を紡いだ。無理やり後から辻褄を合わせるようないつもの適当さはどこにもなく、ゆっくりと言葉を足し合わせていく。

    「お父さんはね、お母さんのこと大好きだったの。私がだんだんお母さんに似てくるのを見て、それで、それで―」

    言葉を詰まらせて喉を抑える綾香にエチケット袋を差し出す。彼女の生理的反応が、父親の所業を何よりも雄弁に語っていた。一通り吐いた後、差し出された水を飲んで彼女はつづけた。

    「お父さん、どんどん荒んでいって。最後には『一緒にお母さんのもとに行こう』って。それで、家に、」

    遠くで消防車のサイレンが鳴った気がした。彼女は少しだけ窓の外に目をやって、捲った腕を見せびらかすようにして続ける。

    「…私だけ辛うじて助かったけど、一生消えない火の跡が残った。」

    私だけ。そう語った綾香の眼には、救いと孤独が同居しているように思えた。羊水の蒸発した世界で一人、彼女も不安を抱えて生きていたのか。

    「葬式で聞いた親戚たちの声、いまだに覚えてる。ぼろぼろにやつれたお父さんの顔を見て、『あの娘が誑かしたんじゃないか』『あの女は悪魔だ』って。いつだって生きてる方を悪者にして、馬鹿みたい」

    吐き捨てる彼女の語尾は涙で滲んでいた。

    「それに、私を、引き取ろうとする、親戚の男の人も何人かいて、その、目が」

    嗚咽交じりの彼女の声を、その一文字も聞き逃さないように寄り添う。
    彼女も僕と同じで、性の熱を病的に隠してきたのだ。

    「本当はね、さっきも長風呂してたわけじゃないんだ」

    深い深い悲しみの中で、彼女は取り繕うかのように悪戯っぽく笑った。
    母が最期に出かけた時も同じ顔をしていた気がして胸が詰まった。

    「火傷の跡、腕だけじゃなくて全身にあるから…顔だけは移植したけど。大きな鏡で見たら、気持ち悪くなっちゃった。」

    そういって、少しだけ浴衣をはだけさせる。その痛々しさに思わず目を逸らしそうになる。透き通るように真っ白だと思っていた彼女の肌は、赤黒い苦しみで全身を覆われていた。

    「…引いたよね」
    「…そんなことないよ」
    「無理しなくていいよ」
    「…そうじゃなくて」

    遮るような速度で彼女を黙らせる。引いたのは、彼女の苦しみを知らなかった僕の弱さにだ。彼女のことを自分の理想に重ねて、目の前にある醜い現実から目を逸らしてきた。
     自分も話さなければならないことがあると伝えると、綾香は困ったように笑った。

    「僕は、母親を殺したから。」

    ―自分の言葉で、綾香に向き合う。無邪気な言葉で、母親を追い詰めたこと。母が出かけてくるといったきり、生きては戻ってこなかったこと。何気ない言葉や変化が悲劇を生み出しかねないことが、堪らなく怖くなったあの日のこと。

    「『こんな冬に3日も見つからないなら、もう生きてないだろう』って、大人たちが話してたのを覚えてる」

    その二日後、海面で母が浮いているのが見つかった。
    それ以外の言葉で、彼女の死を飾る必要などなかった。泣き崩れる祖母と、真っ赤な顔で父の実家に乗り込んだ祖父。そこで適当にあしらわれた彼の怒りが、その後どこに向いたかなんてものは想像に容易かった。

    「…そっか。京も独りぼっちなんだね。」

    掻き毟られて血が滲みだす僕の体を見て、綾香がつぶやく。いつも分かりやすい綾香の表情は、なんともわからない微妙な表情をしていた。

    「うん…僕は綾香が怯えてきた、人を殺す男なんだよ。」

    言ってから、噛み合ってない返事をしてしまったと思う。今の僕はどんな顔をしているだろうか。

    「…私ね、京のことを光だと思ってた。触らないでって約束も一年間守ってくれるし、いつだって私を一番に思ってくれてた。」

    綾香の返事も噛み合わない。一呼吸おいて、噛み合うように、でも本心で、まっすぐと目を見た。彼女の眼が、僕の深淵を覗いてる気がした。

    「僕も、綾香を光だと思ってた。綾香に触らないおかげで、僕は男じゃなくいられたから。」
    「…お互い、ずっと逃げてたんだね。」
    「…うん」
    「仲直り、しよっか」

    そう言って綾香が震える小指を差し出す。その覚悟を受け止めて、優しく小指を結んだ。僕たちはお互い絶望を抱えて生きてきた。彼女を焼いた火が例え私の翼も溶かしても、ただ地獄で綾香のそばにいれることにたまらなく安堵する。綾香の指先も、もう震えてはいなかった。

    彼女の手が僕の手を包む。まっすぐと注がれた視線に昂る己の欲求をもう見ないふりはせずに、彼女の柔らかくて小さな手をぎゅっと握り返す。もうこれで、彼女はもう僕の手から逃げ出すことはない。もう片方の腕で綾香を抱き寄せて、唇を落とす。何度も、何度も、僕たちは、接触でしか存在を確かめられない不確かな夜の獣にすぎなかった。

    「…京が出て行ってる間に、仲居さんがお布団敷いてくれたみたい」
    「…うん」

    それ以上の言葉を交わす必要はなかった。これ以上、過去に怯える必要もなかった。私たちは常に変化する生き物なのだから。

     傷だらけの体を曝け出して、綾香のことを八つ当たりのように貪る。彼女の体は、どんな炎よりも熱く火照っていた。綾香の父は何回、何十回この美しい体に傷をつけたのだろうか。そんな考えが頭に浮かぶほど、僕の中の嗜虐性が牙をむいていた。でも、この火傷だらけの体を愛せるのは僕だけだ。彼女を離さないように、握った手に必死に爪を立てた。

    「…ふふっ。痛いよ、京」

    そう笑う綾香の言葉とは裏腹に、彼女の顔と手は僕の爪を受け入れていた。
    ―ああ、そうだ。僕と綾香が自分の性から逃れた本当の理由。内在する嗜虐性と被虐性の巨大さを、もう一度認めたら戻ってこれないと心のどこかで分かっていたからだ。綾香も本当は、もう変われないところまで壊されてしまっていたんだ。悪魔のような考えが頭をよぎる。それはいつもの病が僕にささやいたものか?わからない。きっと違うだろう。それはきっと肥大した嗜虐性の塊だった。

    光の絶えた部屋、グラグラと熱く煮える布団の中で、爛れた皮膚を慈しむ。上気した顔で赤子のように僕に縋りつく綾香を、このまま僕の箱庭に閉じ込めたいと願ってしまった。ああ、この傷ついた雛を、いつまでも僕の手元に置いておくにはどうすればいいんだろう。彼女が飛び立たないようにはどうすればいいんだろう。全身を廻る血に支配欲が混ざって、僕の思考を支配する。母の死や父の記憶の毒が消えて思い出せなくなるまで、無我夢中で綾香の血清を取り込んだ。

    ―ふと宗祇水の反射が頭をよぎる。水の中なら、この二人の温度を、痛みを、愛を遺してくれるだろうか。

    綾香の熱でドロドロになった脳みそで、そんな考えが頭に浮かぶ。僕の中の悪魔が、甘い言葉で僕を唆した。

    『静寂に沈めば、これ以上予想外なことは起きないぞ。』

    呆けた頭には、死神を追い払う呪文なんて意味がなかった。
    彼女の最も奥深く、もう僕以外に触れられることのない聖域を壊す勢いで綾香に笑いかける。それは、どこまでも慈愛と支配に満ちた祈りだった。

    「明日、二人で死のう」
    「…」

    当惑した目で綾香がこちらを見る。当然だ。当然か?そんなことさえ分からない。

    「僕は、綾香を失うのがたまらなく怖い。綾香との関係が変わることも、綾香がいつか消えちゃうかもしれないことも。このままここで、綾香との関係を固定してしまいたい。二人で、二人で、」

    ―天国で幸せになろう。

    そんな空虚な祈りを、彼女は黙ったまま聞いていた。冷たいようでどこまでも熱い水音が鳴り響く。遠くからでもはっきりと聞こえる彼女の鼓動が僕のそれと共鳴する。彼女のそんな静寂は、僕から注がれる熱に蕩けて笑顔に溶けた。彼女の奥底の被虐性の蕾が、花開いた瞬間に見えた。

    「…嬉しい」

    ほら、やっぱり。僕の首裏に手をまわして抱き寄せるこの女も結局は僕と同じ悪魔なのだと認識した夜は、きっと湧き水よりも純粋で、炎より熱くて、海よりも冷たかった。

    夕食後に飲まなくてはならなかった薬のことなど、とうに忘れてしまっていた。

    *****

    朝日の温もりで目を覚ます。ふと隣に目をやると、生まれたままの姿の綾香がいる。彼女の母はこの姿を見ることなく亡くなったのだろうか、なんて考える僕の心には、憐憫ではなく確かな優越感が浮かんでいた。

    服を着て窓を開けて外の空気を取り入れる。昨日肺を刺した岐阜の清廉な空気は、今となっては僕の支配の炎を燃やす酸素でしかなかった。
    しばらくひとりでぼうっとしていると、昨日の子供よりも高い位置に何かがポスンと寄りかかってくる。

    「おはよ~」
    「…おはよう、重いよ」
    「失敬な!」

    いつものように軽口を叩き合う二人はおおよそこれから死を選ぶものの顔には見えなかった。

    「朝ごはん、食べに行こうか。下の階に食堂があるから」
    「…最後の朝餐ってやつ?」
    「まあ、そんな感じ」

    その冗談にはどんな顔で返せばいいのかわからなかった。甘えてくる綾香の手を取って服を着せ、二人で食堂へと向かう。

    朝食はバイキング形式で、昨日の和食とは打って変わってパンやパスタも揃えられていた。僕が最低限の量をとる傍らで、綾香はスキップしそうな勢いで皿の上に大量の食事を盛りつけた。パン、サラダ、スープ、肉、魚、そしてデザートにジュース。フルコースを一皿に盛り付けたようにも思えるその皿は、存外作品としての造形を保って見えた。

    「綾香、これも食べる?」
    「くれるの!?食べたい!」
    「はい、あ~ん」

    そういって差し出すと、綾香はいつかのように手を添えずにスプーンに口をつけた。左手で綾香の頭をなでると、綾香は目を細めて笑った。

    「なんか京、機嫌いい?…やっぱり昨日のことがあったから?」

    綾香は少し顔を赤らめながら、肉を頬張る。華奢な体をした綾香の服の下の曲線を思い出し、ゾクゾクとした支配欲がまた顔を出す。

    「うん。昨日のことでもっと綾香のこと好きになった。」

    ―脳内で組み立ててた言葉が、どこからか先に発された。綾香はわざとらしく得意げに笑う。

    「いつもの京ならこうやって言うかなって、当たり?」
    「…さすがだね」

    この温い温度が変わってしまう前にすべてを終わらせてしまおうと、心にまた一つ刻んで食事を終えた。食べ終わるタイミングを無理にそろえようとする僕を笑う綾香の眼には、少しだけ冷たい諦念があった気がした。


    バスに乗って白川郷に向かう。どれだけ傍にいても触れられなかった綾香の温度が、今の私の手の中にはあった。

    「白川郷って、合掌造り以外何があるの?」
    「昔は養蚕が盛んだったらしいよ」
    「養蚕か~、シルクのドレスとか、一度着てみたかったな~!」

    そう笑う綾香に少しだけ胸が痛む。まだ僅かに彼女に生への執着が残っているように思えた。

    「…シルクのスカーフとか、軽い雑貨とかなら買えるかもね。最期の思い出に買っていこっか。」
    「最期…うん、最後だもんね。お揃いの可愛いの買おう」

    お金払うのは京だけどね、なんて悪戯に笑う彼女の表情からは何を思うのかが読み取れなかった。


    「わ~…絶景だね~!」

    白川村にある荻町城跡。そこに位置する展望台から、二人で世界を見下ろした。奇麗に形の整えられてたくさんのカゲロウが飛ぶ田園風景の中に、茅葺の屋根がぽつぽつと顔を出している。

    「あそこにあるのって、ダムかな?」
    「御母衣ダムだね。もともとあそこにも村があったから、建設の時は結構揉めたみたい」

    ダムによる水の貯蔵と引き換えに大勢の人々は家が水没し、移転を余儀なくされたことを語る。住民たちは反対期成同盟が組まれるほど強く反発したことや、数年にわたる交渉の結果水没を受け入れたこと。数百年にわたってきて人々が生活をしてきた証が、今もダムの水の中にはひっそりと沈み込んでいる。語っているうちに自分の中で今日の死が少しづつ現実のものに近づいている気がして、少しだけ声に熱がこもる。

    「僕たちも一緒に水没しよう、ね?綾香」

    そう笑いかける僕に綾香は無言で頷いた。少しづつ、少しづつ蜘蛛の糸を引っぱって空へ向かう。あの日の母はどんな気持ちで海に沈んだのだろう。またそんなことを思い出す。考えても仕方ない。残る事実はただ、目の前にいる綾香は母と違って予定通りに死んでいくということだけだ。死ぬのは何時にしようか、どこで死のうか、僕たちが生きた証はどんな風に沈めて残そうか。そんなことを考える僕の顔は、きっと昨日の綾香より上気していた。

    「…おいてくよ?」

    少し冷めた綾香の言葉に僕の熱も冷まされ、慌てて手を取って案内を再開しようとした時だった。

    「あれ、昨日の?」

    声をかけられて振り返ると、モネの池でぶつかった父娘がいた。

    「やっぱり!また会いましたね」
    「ああ、お久しぶりです。奥様と下のお子さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
    「えっと…恥ずかしい話、昨晩喧嘩しちまいましてね。ここまでは私の運転できたんですが、ついてからはしばらく別々に観光しようって」

    久々に大声出しちまってと、父親は困ったように喉をさすった。喧嘩、か。また少しだけ、無理やり意識が昔の世界に引きずり込まれる。

    *****

    眠れない夜。母の声が寂しくて階段を下りていたら、父の声が鳴り響いた。どうせいつも通りのことを言っているのだろうと思い、警戒もせず扉の隙間から覗き込むと、予想通り父はビール瓶を逆さまにして叫んでいる。

    「おい!酒がなくなったぞ!買ってこい!!」
    「…あなた、飲みすぎよ」

    瓶の先端からわずかに零れた液体をふきながら、珍しく母親が言い返した。それは僕にとっても父にとっても予想外なことで、しばらく時間が止まる。

    「京も大きくなってきたし、将来を考えたら節約もしないとでしょう…?」

    跪くような姿勢で恐る恐る語り掛けるそれは、おおよそ対等な夫婦の対話ではなく主人に許しを請う奴隷の陳情のようなものだった。怒号、悲鳴、食器の割れる音。血のにじんだ手を下ろす気配のない父と、顔を抑えてへたり込む母親。数ミリの隙間から覗いた世界が何度もフラッシュバックする。

    あの後は結局警察がきて、しばらく親戚の家に隔離になったんだっけ。父が次の交際相手を見つけたのもその時期だったのだろう。目の前を飛ぶ白川郷のカゲロウに、そっと過去の記憶を重ねる。

    うたがはし ほかに渡せる ふみ見れば ここやとだえに ならむとすらむ

    藤原野道綱母『蜻蛉日記』

    他の女のもとへ通う兼家に、私のもとへは戻ってこないのかと恨み言をつづった手紙。あの頃の母は、父に何か伝えたのだろうか。何を伝えたら父は戻ってきて、暴力も振らないと約束しただろうか。

    ―何をしたら、僕は愛してもらえただろうか。

    数秒の間、そんな意味のない押し問答が頭を支配していた。

    *****

    「旦那さん、奥さんは出産と子育てでストレス溜まってるかもしれないんだから、多少向こうが悪くても受け入れてあげなきゃだめですよ」

    そう笑う綾香の声で意識が元に戻ってくる。妊娠出産は命懸けなんですから。そう笑う彼女の眼は、父親よりももっと遠くのどこかを見つめている気がした。妻と同じ女性の立場としての綾香の意見を聞いて、父親は少しだけ態度を軟化させる。

    「いやぁ面目ない…」
    「愛華ちゃんも、ママとパパが仲良いほうが嬉しいよね?」
    「…うん!」

    不安げに父の手を握る娘にしゃがんで語りかけると、純粋無垢な2文字が返ってくる。そう、子供にとって必要なのは両親がいつまでも仲良くしてくれて、愛を注いでくれることだけなのだ。他にはモネの池の清廉も、白川郷の静謐も何もいらないはずだった。

    「愛華ちゃんのためにも、仲直りしてあげてください。…取り返しがつかなくなることもありますから。」

    自分でもどんな顔をしているかがわからなかったが、心の中では子供の自分が泣いている気がした。それにしても、昨日モネの池で見た時は仲睦まじそうに見えた夫婦も一日の間に険悪になるのか。やはり生きた人間のコミュニケーションは何が起きるかわからなくて怖くなる。僕の顔を見た父親が、一瞬ぎょっとした顔をした気がした。

    「…そうですよね。もう一回、ちゃんと話し合ってみようと思います。」
    「ぜひ、そうしてあげてください」

    今度こそ、ちゃんと笑顔が作れていたと思う。

    「なんだかお二人とも不思議ですね。若いのに達観してるっていうか、カゲロウみたいだ。」
    「カゲロウ?」
    「たくさん飛んでるあの虫、カゲロウっていうんですよ。すごく短命で、儚さの象徴っていうか…すみません、失礼でしたかね」

    母の顔を思い出しそうになるのをぐっと堪えて、笑顔を作る。

    「いえいえそんな。僕たちはただ、目の前の子供に辛い思いをして欲しくないだけです。」

    戻りかけた過去への執着を全部殺す。それはきっと綾香も同じだろうと信じて、望んだ幸せを愛華ちゃんに託して展望台を降りた。笑顔で手を振る愛華ちゃんの命は、まだ僕らの命よりましな価値を持つはずだった。

    村内の雑貨屋で、二人でお土産を買う。もう会えるはずもない母親の好みを語りながら。来るときに約束した通り、二人でお揃いのシルクのスカーフを買った。細い首を絞めてしまいたくなる欲求を必死に隠して、彼女の首に巻き付ける。

    「…向こうに行って離ればなれになっても、これを形見にしてお互い大切にしようね」

    …そう言って眼に涙が浮かべて笑う、どこまでも弱くて愛おしい雛を慰める。

    「離れ離れになっても、絶対探し出して会いに行くから。」

    死に場所にはもう迷わなかった。

    「…二人で遺書を書いて、モネの池に戻ろうか」

    あの清廉な池の中で、母を殺した因果に報いるように鯉の腹の中に堕ちてしまいたかった。冷たい綾香の手を引いて喫茶店に入って、軽い昼食といつもの注文をする。

    「…あ、やっぱり私もアイスコーヒーで」

    今まで一度もそんなことはしなかった綾香が口を挟むと、店員は面倒くさげにメロンクリームソーダの文字に二重線を引いた。

    「…コーヒー飲めるの?」
    「飲めないけど、最後くらい京と同じ感覚を味わいたいなって」

    少し恥ずかし気に笑う彼女への支配欲が、育ち切った希死念慮にこれでもかと水をやる。とっくに腐れ切った僕の心が根腐れなんて起こすはずもなかった。持ってきた紙とペンを取り出して、無言で綾香に渡す。

    「こんな時まで準備良いんだね、」

    なんて言う彼女に返す言葉の正解はわからなかった。コーヒーはやっぱり苦いね、なんて笑う綾香と一緒に読む人のいない遺書を書き上げる。生きてても誰にも届かなかった僕らの声は、死んだところで何も変わらないのだと思う。


     綾香の筆があまり進まなかったこともあり、モネの池に戻ってくる頃にはあたりは暗くなっていた。二人で池の傍に腰を下ろす。昨日昼過ぎに来た時と違って空の光を受けない池は一層美しく見えた。

    「…でもここ浅いよ?本当に死ねる?」
    「…顔を埋めるだけの深さがあれば、洗面台でだって死ねるよ」

    背中に手をまわして、肌を重ねる。お互いの本性を確かめ合うように、彼女の眼から怯えの火が消えるように祈って。彼女の裾を無理やりまくって、絶望に満ちた傷跡を拝む。思わず息を飲むほど生々しくて婀娜っぽいそれに跪くようにして、彼女の懐にもぐりこんだ。

    「今ならわかる気がする。綾香のお父さんが死んだ理由」
    「…」
    「綾香。君の魅力のせいだ。」

    どこまでも身勝手で、最も暴力的な言葉。彼女の表情を窺う必要なんて、もうどこにもなかった。全身をまさぐって、彼女の被虐性を証明するかのように指で跡をなぞっていく。

    「…京はひどい人だね…」

    少し冷たく笑って見せながら、僕の首に爪を立てて離さないこの女のことなど、この瞬間の私にとってはもはやどうでもよかった。僕の眼は、まっすぐと天上を見つめていた。ああ、いままでこの女を大切に愛した報いで、僕は母のもとへ行けるのだ。また少し、蜘蛛の糸を手繰り寄せる。光の消えた熱っぽい二人の心を、ただ月だけが冷たく照らした。


    はだけた服を直しながら、彼女がこちらを向き直る。

    「今までありがとう」
    「…こちらこそ」

    彼女が近づいて、そっと唇を重ねた。

    「何の味がする?」
    「アイスコーヒー…」
    「せいかーい!」

    死の間際にあっても楽しげに笑う彼女を哀れに、でも愛おしく思い、そっと手を重ねて強く握った。足元に宛先の無い2枚の遺書を置く。巻いたスカーフを二人の間で結んで、池に顔を近づけた。口の中はまだ少し苦い。池に反射する二人の顔が何を思っているのか、それはきっと最上の幸福であろうと強く自分に言い聞かせ、冷たい水に顔を押し込んだ。


    ―池の水が、穢れた僕を拒むかのように体内へ侵入する。身体中を襲う激痛に耐えながら、天上を目指す。ああ、あと少し、あと少しだ。意識の薄れる中、二人の間に結ばれた蜘蛛の糸が解けていることなど気づけやしなかった。


    *****

    夜行バスの片隅で、一人の女が外を眺める。

    ―ああ、まただ。自分の欠落を私で埋めようとする男が、また一人死んだ。自分の人生を他人の文学と歴史でしか飾れない、衒学的で妄執的な下らない男だった。父が私に母を重ねていたように、彼もまた私に母の姿を重ねていた。愛に飢えた男はどこまでも単純で、馬鹿だ。そんな人間を愛してしまう私も、取り返しのつかない愚か者なのだろう。

    私はいつ、本当に生への執着を断ち切れるだろうか。次は誰が私を殺すのだろうか。父を投影した男を殺し返したところで、過去の私はいつか本当に救われるのだろうか。

    ―いつになったら、この予定調和の喜劇が終わるのだろうか。

    彼のバックの中にあった土佐日記を思い出す。娘をなくした貫之は、どんなことを思って都に返ったんだっけ。しぶとい自分を嘲りながら、シルクのスカーフを巻いた女がどこまでも被虐的に笑った。

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