メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byvoice_watanabe

『「私の顎は長くない」――中2の頃の僕がスピーチコンクールで奇跡を起こした原稿全文』

    中2の時(一年前)、学校の「私の主張コンクール」で優勝した。当時の原稿が今見返してもなかなか傑作(?)だったので、ここに公開してみる。
    ※中2の時に書いたものなので、今見返すと文章として少し不自然だったり、回りくどいところもあるかもしれませんが、そこは勘弁してください。↓↓↓↓

    僕は昨年、講堂において「陰キャ・チー牛の尊厳」について論じました。しかし、1年が経過した今、僕の尊厳は新たな、そして極めて非論理的な脅威にさらされています。それは、一部の諸君による「アゴ長」とかいう大変遺憾なラベリングであります。
    中1の頃も、音楽の授業でロングロングアゴーという歌が出てきた時、みんなが一斉に僕を見つめ罵ってきました。中2になってもそのような煽りは止まることを知りません。非常に由々しき事態です。

    あまりにも遺憾であったため、僕は昨晩、怒りに震えながらGoogle検索を繰り返し、美しい顔がなんたるものかを突き止めました。
    かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチは、理想的な顔面の比率について、鼻の下から顎の先までの長さが顔全体の3分の1であることを提唱しています。ダヴィンチのデッサンと僕の顎には驚異的な適合が見て取れるはずです。つまり、僕の顎が長いという諸君は、未熟な認知能力で、脳内の処理が追いついていないだけという訳です。ですので僕はそんな真実を理解できない諸君に哀れみの気持ちさえ感じます。それでも僕は大人なので、そんな無礼な人も笑顔でしばき倒します。

    ​​​​さて、このように僕と一部の人とのアゴの長短の攻防​がギリギリ遊びとして成立しているのは、実は私たちの人間関係の境界線が守られているからなのです。
    そこで、今から皆さんと一緒に、話題は変わりますが「いじり」というものについて、少しだけ真面目に考えてみたいと思います。

    いじりにおいて、大きな要素を占めるものにルッキズムがあります。
    そもそも、「ルッキズム」は外見や容姿を基準に人を評価・判断し、差別的な扱いをすることです。判断自体は人間の本能でもあるので仕方ない部分があります。しかし人間はその判断を「理性」で制御できます。たとえ心でどう思ったとしてもいい。しかし相手が自分の言葉をどのように受け取るかが不確かならあえて口に出さず、態度には出さない。それこそが、知性ある人間としての最低限の作法であり、そうした理性の積み重ねによってこそ、お互いに信頼ができ、良好な人間関係は保たれます。
    こうして僕が一部の諸君、後輩と顎の長短の攻防を繰り広げられているのも、その裏に絶大な信頼関係があるからです。
    いじりは相手のコンプレックスや弱点を突くことで笑いに変える非常に難しい遊びです。だからこそ、相手が傷つかない絶妙な境界線を見つけなければいけません。その過程で、一線を越えそうになってしまった場合には、当然一度ブレーキをかけなければいけません。そして、こんな遊びをするために1番重要なものが、先ほど言った信頼です。日頃から積み上げた信頼があれば、多少ブレーキを踏み間違えても受け止めてもらえる。つまり信頼というセーフティーネットがあるからこそ、僕たちは境界線の際で笑い合うことができるということです。

     みなさんが何気ないいじりで放つ言葉、それは本当に相手にとって笑えるものとして届いているでしょうか。
    「いじり」という遊びが成立するのは、互いに​「​一線を越えない」という理性のブレーキを持っていて、境界線を守っているからです。そのブレーキを離した瞬間、それは友好的な交流ではなく、ただの野蛮な暴力へと成り下がります。
    また境界線は、人によって、そして同じ人でも状況によって簡単​に​揺れ動きます。たとえ言った側には一瞬の冗談でも、相手には一生の傷にもなり得ます。だからこそ、相手の視点にたって、その境界線を見極めることが重要なことだと思います。

    ​​​​今日はたまたま僕の顎を例に挙げていますが、これは外見の問題に限った話ではありません。相手の成績、性格、趣味、家族。人をいじるあらゆる場面に、全く同じことが当てはまるはずです。

    最後に、色々真面目なことを話しましたが、やはり忘れてはいけないことは、僕の顎は長くないということです。異論は認めません。



    あなたへのおすすめ