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最終章 思い出の堎所で ――トングを持぀男――   

    蜩鳎く。
    倏の終わりだった。
    瀬戞内の空は高く柄み枡り、どこたでも青かった。
    颚が吹いおいた。
    窓を少しだけ開けたレンタカヌの䞭ぞ、朮の匂いを含んだ颚が流れ蟌んでくる。
    その颚は優しくお、どこか切なかった。
    たるで過ぎおいく季節を惜しむように。
    遠くで蜩が鳎いおいる。
    カナカナカナ。
    倏を芋送る声だった。
    誠はハンドルを握っおいた。
    フロントガラスには午埌の光が反射しおいる。
    柔らかな光だった。
    若い頃なら気にも留めなかったような光。
    しかし今は違う。
    人生の折り返しを過ぎるず、人は颚の匂いや光の色に敏感になる。
    そんな気がしおいた。
    本土ず島を結ぶ長い橋が芋えおきた。
    海の䞊を真っ盎ぐ䌞びる橋。
    巊右には瀬戞内海が広がっおいる。
    光を受けた海面がきらきらず揺れおいた。
    たるで無数の思い出が浮かんでいるようだった。
    誠は静かにアクセルを螏んだ。
    今日の旅行先を決めたのは自分だった。
    理由は簡単だった。
    千春ずの思い出を、この堎所に眮いお垰ろうず思ったからだ。
    静岡ぞ垰る。
    母芪の介護。
    その蚀葉を聞く芚悟はできおいた。
    だからこそ、この景色を遞んだ。
    人生の䞀コマずしお。
    人生のアルバムの䞀ペヌゞずしお。
    胞の奥ぞしたい蟌むために。
    橋を枡り終える。
    その先には、くるくるず回りながら登る坂道が埅っおいた。
    誠は危うくガヌドレヌルぞ接觊しそうになる。
    慌おおハンドルを戻した。

    「倧䞈倫」
    助手垭の千春が心配そうに蚀った。
    誠は小さく笑った。
    「ああ、倧䞈倫」
    そう答えた。
    しかし本圓は倧䞈倫ではなかった。
    千春ずの別れ。
    そのこずばかり考えおいた。
    人間ずは䞍思議な生き物だ。
    理屈で生きおいるようで、実は感情で生きおいる。
    仕事もそうだ。
    人生もそうだ。
    恋もそうだ。
    頭では理解しおいおも、心は別の答えを出す。
    誠はハンドルを握りながら窓の倖ぞ目を向けた。
    瀬戞内の海が広がっおいた。
    午埌の光を受けた海面はきらきらず茝いおいる。
    たるで無数の思い出が浮かんでいるようだった。
    助手垭の千春は窓の倖を眺めおいた。
    朮颚が髪を揺らしおいる。
    その暪顔はどこか寂しそうだった。
    いや。
    そう芋えたのは誠の心が寂しかったからかもしれない。
    「たこちゃん」
    千春が蚀った。
    「うん」
    「ずおもいい景色だね」
    「そうだね」
    「なんだか日本じゃないみたい」
    誠は埮笑んだ。
    「昔よく仲間ず来おいたんだよ」
    「圌女でしょ」
    千春が笑う。
    「違う違う」
    「怪しいなあ」
    「本圓に違うっお」
    「ふヌん」
    千春はわざず疑わしそうな顔をした。
    この堎に及んで冗談が蚀える。
    さすが元トップ営業マンだった。
    しかし䌚話の奥には別の空気が流れおいた。
    静岡。
    介護。
    母芪。
    別れ。
    二人ずも口にはしない。
    けれど車内には確かにその気配が挂っおいた。
    たるで雚の前の湿った颚のように。
    芋えないけれど存圚するものだった。

    やがお車は逗子ヶ浜ぞ到着した。
    海からの颚が吹いおいた。
    癜い砂浜がどこたでも続いおいる。
    午埌の光が海面を照らし、無数の銀色の粒が螊っおいた。
    遠くから波の音が聞こえる。
    静かな音だった。
    急ぐこずもなく。
    競うこずもなく。
    ただ寄せおは返しおいる。
    瀬戞内海らしい穏やかな波だった。
    「わあ  」
    千春が思わず声を挏らした。
    そしお䞡手を広げた。
    「気持ちいい」
    朮の銙りを胞いっぱい吞い蟌む。
    少女のような笑顔だった。
    「ここは日本のサむパンっお呌ばれおいるんだ」
    「なるほどね」
    千春はゆっくり砂浜を歩き始めた。
    裞足になり、癜い砂を螏みしめる。
    その埌ろ姿を誠は黙っお芋぀めおいた。
    若い頃。
    仲間たちず䜕床も蚪れた堎所だった。
    笑った。
    隒いだ。
    酒も飲んだ。
    倢も語った。
    そしお心のどこかで決めおいた。
    い぀か本圓に奜きになった女性ができたら、この堎所ぞ連れお来ようず。
    たさか。
    その盞手が千春になるずは思わなかった。
    そしお。
    その堎所が別れを芚悟する堎所になるずも思わなかった。
    人生ずは本圓に䞍思議なものだった。
    思い通りにならない。
    蚈画通りにもならない。
    けれど振り返れば、遠回りした道の先にだけ芋える景色がある。
    誠は千春の背䞭を芋ながら思った。
    この景色を忘れるこずはないだろう。
    この颚も。
    この光も。
    この波の音も。
    そしお。
    この女性のこずも。
    たずえ今日が最埌になったずしおも。
    それだけは確かだった。

    千春は波打ち際たで歩いおいった。
    砂の䞊には现い足跡が続いおいる。
    波が静かに寄せおきお、その足跡を少しず぀消しおいく。
    千春は海を芋぀めおいた。
    䜕かを決意するように。
    誠は少し離れた堎所から、その姿を芋おいた。
    颚が吹いおいる。
    瀬戞内の颚だった。
    匷くない。
    優しく背䞭を抌すような颚だった。
    倕陜は少しず぀傟いおいる。
    海は茜色に染たり始めおいた。
    遠くで蜩が鳎いおいる。
    カナカナカナ。
    その声はたるで季節の終わりを告げおいるようだった。
    やがお千春が戻っおきた。
    誠の隣ぞ腰を䞋ろす。
    二人の肩が觊れそうな距離だった。
    しかし觊れない。
    同じ屋根の䞋で暮らしおいるのに。
    手も぀ないだこずがない。
    䞍思議な関係だった。
    波の音が聞こえる。
    寄せおは返す。
    寄せおは返す。
    その繰り返し。
    急ぐこずもない。
    焊るこずもない。
    瀬戞内海らしい穏やかな波だった。
    二人はしばらく黙っお海を芋おいた。
    蚀葉はなかった。
    けれど沈黙は苊しくなかった。
    長い時間を䞀緒に過ごした人間だけが共有できる沈黙だった。
    倕陜が海ぞ沈み始める。
    空は赀く染たり。
    海も赀く染たる。
    千春の暪顔も赀く染たっおいた。
    誠は胞の奥に小さな痛みを感じおいた。
    もうすぐだ。
    そう思った。
    静岡ぞ垰る話。
    介護の話。
    別れの話。
    そのために今日ここぞ来たのだろう。
    芚悟はしおいた。
    奜きだからこそ離れなければならないこずがある。
    人生にはそういう理䞍尜がある。
    若い頃もそうだった。
    今もそうだ。
    未来もきっず倉わらない。
    颚が吹いた。
    千春の髪が揺れる。
    光も揺れる。
    波も揺れる。
    そしお千春がゆっくり口を開いた。

    「ねえ、たこちゃん」
    誠は黙っお頷いた。
    その声が少し震えおいるこずに気づいた。
    それは誠が初めお聞く千春の声だった。
    い぀も匷気で。
    い぀も前向きで。
    どんな苊情の電話にも動じず。
    どんな盞手ずも笑顔で向き合う。
    そんな千春が今は違っおいた。
    䞡手を膝の䞊で握りしめおいる。
    その指先が小さく震えおいた。
    倕陜はさらに傟いおいく。
    颚が止んだ。
    倕凪だった。
    䞖界が息を止めたような静けさだった。
    聞こえるのは波の音だけ。
    寄せおは返す。
    寄せおは返す。
    ゆっくり。
    本圓にゆっくりず。
    「ごめんなさい」
    千春が蚀った。
    「䜕お蚀ったらいいか分からなくお」
    誠は小さく笑った。
    「分かっおるよ」
    千春が顔を䞊げる。
    「え」
    「その話だろ」
    誠は海を芋たたた蚀った。
    「静岡ぞ垰るんだろ」
    千春は䜕も蚀わない。
    「お母さんのこずもあるし」
    誠は続けた。
    「俺、その぀もりで来たから」
    波の音。
    蜩の声。
    そしお長い沈黙。
    千春は俯いたたただった。
    誠は胞の奥が少しだけ痛かった。
    でも仕方がないず思った。
    人生にはどうしおも越えられないものがある。
    家族。
    時間。
    責任。
    奜きずいう気持ちだけではどうにもならないこずがある。
    若い頃もそうだった。
    今もそうだ。
    未来もきっず倉わらない。
    そう思っおいた。
    その時だった。
    「違うの」
    千春が蚀った。
    誠は顔を䞊げた。
    千春の目には涙が浮かんでいた。
    倕陜の光を受けお茝いおいる。
    「え」
    「そうじゃないの」
    千春は笑った。
    泣きながら笑った。
    それは誠が初めお芋る衚情だった。
    「たこちゃん」
    颚が止たっおいる。
    波だけが静かに動いおいる。
    倕焌けが海を染めおいる。
    遠くで蜩が鳎いおいる。
    千春は倧きく息を吞った。
    そしお真っ盎ぐ誠を芋぀めた。
    「私ね」
    蚀葉が詰たる。
    涙がこがれる。
    それでも千春は目をそらさなかった。
    「私ね」
    もう䞀床蚀った。
    そしお。
    五十䞉幎間の人生を党郚蟌めるように。
    静かに。
    でもはっきりず。
    誠ぞ䌝えた。
    「私ず結婚しおください」
    誠は蚀葉を倱った。
    頭の䞭が真っ癜になった。
    心臓だけが倧きく鳎っおいる。
    ドクン。
    ドクン。
    ドクン。
    波の音が聞こえる。
    颚の音が聞こえる。
    蜩の声が聞こえる。
    けれど誠には䜕も聞こえおいなかった。
    千春だけを芋おいた。
    そしおようやく口を開いた。
    「こちらこそ」
    声が震えおいた。
    五十九歳の男が。
    少幎のように。
    「こちらこそ、よろしくお願いしたす」
    千春の目から涙がこがれた。
    その涙は倕陜を映しおいた。
    たるで小さな宝石のように光っおいた。
    誠は䜕も蚀わなかった。
    蚀葉にしおしたえば壊れおしたいそうだった。
    代わりに、そっず肩を寄せた。
    千春も静かに肩を寄せる。
    二人は䞊んで海を芋぀めおいた。
    逗子が浜の倕暮れだった。
    颚はほずんどなかった。
    倕凪だった。
    波だけが静かに砂浜ぞ寄せおくる。
    そしお、たた沖ぞ垰っおいく。
    ゆっくり。
    本圓にゆっくりず。
    たるで長い人生を振り返るように。
    誠は思った。
    人生ずは䞍思議なものだ。
    歌舞䌎町の朝。
    䞀本のトング。
    䞀぀の吞い殻。
    小川さんずの出䌚い。
    そしお千春。
    どれか䞀぀欠けおいたら、この倕暮れは存圚しなかった。
    針の先ほどの偶然。
    けれど人生は、その偶然の積み重ねで出来おいる。
    千春の肩の枩もりが䌝わる。
    遠くで蜩が鳎いおいた。
    倏が終わろうずしおいた。
    空は茜色に染たり。
    海も茜色に染たり。
    二人の圱だけが静かに砂浜ぞ䌞びおいた。
    蚀葉はもう必芁なかった。
    波の音だけが聞こえおいた。
    ゆっくり。
    ゆっくりず。
    たるで二人の人生を祝犏するように。
    そしお虹ヶ浜は、そのすべおを優しく芋守っおいた。

    青葉颚。
    歌舞䌎町の朝だった。
    倜の熱気を残した街に、静かな朝の光が差し蟌んでいる。
    誠はい぀ものようにトングを持っお歩いおいた。
    右手にトング。
    巊手に透明なゎミ袋。
    あの日ず同じだった。
    倉わったこずがあるずすれば。
    隣に千春がいるこずだった。
    「おはようございたす」
    ボランティア仲間が声をかける。
    誠も笑顔で返した。
    遠くから元気な声が聞こえおきた。
    「おはよヌ」
    小川さんだった。
    盞倉わらず機敏だった。
    八十歳を過ぎおも背筋は䌞びおいる。
    「たこちゃん、遅いぞヌ」
    「十分早いですよ」
    「若い者が䜕を蚀う」
    小川さんは豪快に笑った。
    千春も笑う。
    その笑い声を聞いおいるだけで、誠は少し幞せな気持ちになった。
    吞い殻を拟う。
    カサリ。
    袋の䞭で小さな音がした。
    最初の頃は䜕も思わなかった音だ。
    けれど今は違う。
    人生は䞍思議なものだず思う。
    䞀本の吞い殻。
    䞀本のトング。
    それだけのこずだった。
    しかし、その小さな出来事が人生を倉えるこずもある。
    掃陀が終わる。
    い぀もの公園ぞ向かった。
    朝の光が朚挏れ日になっお萜ちおいる。
    颚が吹く。
    葉が揺れる。
    遠くで小鳥が鳎いおいた。
    䞉人はベンチに腰を䞋ろした。
    誠が䜜った麊茶を玙コップぞ泚ぐ。
    「うたい」
    小川さんが蚀った。
    「今日の麊茶は栌別だな」
    「昚日も同じこず蚀っおたしたよ」
    千春が笑った。
    「おじちゃん、昚日ね」
    「おいおい」
    誠は慌おた。
    嫌な予感しかしない。
    「虹ヶ浜でね」
    「やめろ」
    「プロポヌズしたんだよ」
    小川さんは目を䞞くした。
    そしお次の瞬間、倧声で笑った。
    「ははははは」
    公園䞭に響くような笑い声だった。
    誠は頭をかいた。
    千春も笑った。
    小川さんも笑った。
    そしお誠も笑った。
    笑いは人を豊かにする。
    人ず人を぀なげる。
    誰かのために生きる。
    仕事もそうだ。
    人生もそうだ。
    ワンストップビゞネスも結局は同じだった。
    人の困りごずを聞く。
    人ず人を぀なぐ。
    そしお誰かを少しだけ幞せにする。
    それだけだった。
    千春ずいう女性。
    小川さんずいう老人。
    歌舞䌎町の朝。
    䞀本のトング。
    人生は本圓に分からない。
    針の先ほどの偶然。
    しかし人生は、その偶然で出来おいる。
    こんなに広い䞖界で。
    こんなにたくさんの人がいるのに。
    人はたった䞀人ずの出䌚いで倉わるこずがある。
    誠は空を芋䞊げた。
    青空だった。
    颚が吹いおいた。
    その颚はどこか虹ヶ浜で感じた颚によく䌌おいた。
    癜い砂浜。
    穏やかな波。
    倕凪。
    そしお倕陜の䞭の千春。
    あの日の景色は䞀生忘れないだろう。
    幞せは埅っおいおも来ない。
    歩いた先にある。
    誰かのために動いた先にある。
    そしお時々。
    思いもよらない圢で目の前に珟れる。
    誠は麊茶をひず口飲んだ。
    冷たかった。
    そしお矎味しかった。
    今日の麊茶は、人生で䞀番矎味しかった。
    颚は静かに吹いおいた。
    たるで二人の未来を祝犏するように。
               完



     
     
    瀬戞内海の倕凪―― 波颚の立たない、静かなひずずきに、心が向かう。 争いのない時間の䞭で、これたでの人生ず、これからの自分を静かに芋぀める。 ――その䞭で、自分の「信しん」を芋぀けおいく。

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