役払い/金髪を落とした0906
逃げてきました。
5日の夜行バスで、Dr. Holiday Laboratoryの次の公演に向けてのプレ稽古を終え、24:20発のバスタ新宿の三列シートの夜行バスに乗って、東京から逃げるために?あるいは今この生活、生活にまとわりついている思考や身体を一回、遠くから見直すために香川県は瀬戸内海の小豆島まで来ました。例え遠くまで来たって僕はこのことを考えざるを得ない。そして一回ちゃんと考えるためには距離が必要だろうと思って、ここまで来た。あと単純に休みたい。というわけで僕は今、小豆島にいます。
この夏は、「ゾンビの演劇」で直面した問題が大きすぎて、次のクリエーションあるいは元の生活になだれ込むように進んでいくよりかは、ほぼ2週間休みという時間をとって、回復しながら、どうにか文章を書けたらいいなと思って、日記のように書くことをやってみたいと思っています。なので、これは、振り返ると同時に今の小豆島、あるいは3日後くらいから高松から松山まで歩こうと思っていて、そこでのことが書かれるものになるだろうと予感しています。とにかくその日あったことなどを記録して公開していきたいです
夜行バスは嫌いじゃないです、むしろ好きまであります。そして今回の夜行バスはかなり快適でした。どこかのパーキングにつきトイレに行って外の空気を吸って戻ってくるたびに、バス前列に均等に並べられた心地の良いとまでは言えないが、それぞれに休めための適切な形を見つけた中年の男性の顔たち、ぐっすり眠っている。僕もその中の一人で前方の席、東京から逃げるために、アイマスクと耳栓、その上からヘッドホンをしてyoutubeの本当に適当な音楽をかけて僕は寝ました。よく寝ました。
高速道路の均等に並んでいる明かりが均等な速さで僕の目を、暗くなったバスの車内を照らして過ぎていくという村上春樹の海辺のカフカという小説に書かれた一説を見て、そこからなお夜行バスに何かしら特別な気持ちを抱いています。そして、確か、その小説の中で僕と呼ばれる海辺のカフカの田村カフカも夜行バスで家出して、香川県の高松に向かっていた気がします。記憶違いかもしれません。
もう4列シートは、たとえゆったりめでも耐えきれないのでここ数年は3列にしています。4列にするともう次の日のパフォーマンスが明らかに下がっているのを感じるし、そもそもそんなに疲れたくない、ただでさえつかれる移動で。でも移動は好きなんですけどね。
フランスに行くための長い飛行機も僕にとっては、これから行くところへの思いを巡らせる時間にもなるし、これまでいたところからの過渡の橋渡しの時間にもなったりするので、僕は移動の時間が好きです。
朝8時半の到着予定より少し早めに三宮について、空地文庫の小松菜々子さんに会って、朝パンを食べて、フェリーに乗った。僕は今あの頃のノスタルジーでしか、このフェリーの時間や、遠くに見える淡路島を眺めることができないんだなぁとなんとなく思ってしまった。懐かしいというよりも、あのころはもっと、この風、とか遠ざかる景色に感動していた気がする。
いまからほとんど10年前に小豆島にはじめて来ました。大学の柴さんやら大石さんのつてで瀬戸内芸術祭の期間の小豆島坂手港の喫茶ままごとというところで働いていた。日給は1000円。瀬戸芸期間中で忙しかったけれど、僕は給料のことも特に気にならず、すごく楽しく充実した日々を過ごしていました。あの頃は自分に才能があるのかどうかということ、それしか気になっていなかった気がする。そういうことしか気にしていなかったほとんど。随分それは今の状況と違うなぁと思います。
よくよく考えると、このころはじめて岡田さんの作品を見ました。
「in a silent way」という、それは小豆島ではなかったけれど、直島のベネッセがやっている美術館があって、この時確か、森山未來の一人パフォーマンスで6000円、これ喫茶ままごとのバイト日給の6日分じゃん、え、さすがに無理か、だって往復のフェリーとバス代合わせたら多分一万円超えるし、それじゃ日給10日分じゃんって思っていた。「せっかく」というのはすごい言葉だ。せっかく小豆島にいて岡田利規の作品見れるんだったらせっかくだし見とくか。という風なって見ることにした気がします。
でもこのころは岡田利規????、僕は完全に野田さんに心酔していて、野田さんになりたかったので、あまり野田さん以外にはほとんど興味を持てずにいた大学時代でありました。まぁ見といてよかったなぁと今では思っています。フェリーで島から島へ渡る途中、瀬戸内海のたくさんの小島を見る。人はおそらく住んでいないであろう小島、大きさでいうと多分ドラえもんに出てくる裏山くらいの大きさの小島。その島たちを僕が見るとき、その島たちも僕を見ている。と言いながらそこそこ広い円形の部屋で観客にコンタクトインプロのようなものをしながら一人でマイクを持ちテキストを喋る森山未來をよく覚えている、あ、たくさん森山未來に肩で触れてもらえてうれしかったなと、そのくらいの感想でした。直島から帰りのフェリーに乗っているときに、明らかに島がこちらを見ているような感触を得た。劇の言葉、パフォーマンスの言葉がこのように作用することを僕はそれまであまり知らなかった。これが僕の岡田さんの作品のはじめての体験でした。
ゾンビの演劇の稽古中盤、7月のはじめ、spacのハムレットを静岡まで見に行って、その次の日「急に具合が悪くなる」を見たら、本当に急に具合が悪くなり、起きれなくなりました。次の日も稽古があるので稽古場に行くのですが、稽古場に怖くて入れず、水天宮pitの裏にある公園で、何も出てこない嘔吐が止まらず、震え、パニックが止まらない。稽古も不安だ。でも稽古場に行って、あのテキストを喋る想像をすると、嘔吐してしまう。そういうような身体の状況になってしまいました。その日は気圧やらなんやらであちこちの人たちが相当にしんどかったという話を聞いたので、ここまでの過労と緊張とプレッシャーとというのが低気圧と映画と演劇とというあらゆるコンディションのなかで、あのような状況になったのだろうと今は想像できますが、本当にきつかったです。自分の身体に何が起きているのか本当にわからなかった。おそらく休むしかない。でも不安で脳や心自律神経はギンギン休めない。稽古を数日休むことにしましたが、それでどれだけ休むことができたのか。
壊れちゃった。
と油井さんに泣きながら言いました。
自分の身体が壊れてしまったことを確信しました。おもちゃが壊れたり、iPhoneが壊れたりするように、僕の身体が壊れたと感じました。そしてもうこの身体を使った上演芸術は出来ないと思いました。そしてその相談を芸劇のプロデューサーや演出助手の方にしました。降板する可能性があることも伝えました。
結果的には、「映画を撮りたいゾンビの演劇」を降板せずに走り切ることができました。小屋入りのときもとてもきつかったし、本番前ぜんぜん眠れない日があって、そのことでさらにパニックを起こしてしまうこと。この上演が無事に一旦終幕できたのは、皆さんのおかげです。
上演は待ち合わせである。
でも、その待ち合わせに遅れずにきっかりに来ることってどのくらい可能なのでしょうか?そして待ち合わせしてからの一緒に過ごすいくらかの時間、健康でい続けることってどのくらい可能なのでしょうか?そしてその待ち合わせが解散した後は?
ゾンビの演劇は、僕が心酔していた野田秀樹からの岡田さんへの芸術監督のバトンが渡されたその第一作目、これは単なる上演・待ち合わせでないことは誰もが知っています。初デートとか、入学式とか、初めての海外旅行とか、そういったものが持つ特別感、それが今回のこの上演にはあった。と思う。それを受け取るのは何も俳優の身体だけじゃない、お客さんスタッフさんすべて含めて。そういうものを受け取るし、そういう空気がきつくて劇場に来ない人だっているだろうと思う。演劇の上演に居合わせることの難しさ、僕は今更ながら分かった。わからざるを得なかった。この身体がこういう事態になって。そして僕はこれから俳優としてこのことを考えないで活動することはできないと思っています。
変更はすでに加えられてしまった。
その変更を僕はどうやって無視して、それ以前の活動のようにやっていくことができるでしょうか?
僕にできる唯一のことといえば、その加えられた変更に対して常に後手に回って、それへの対応として受動的に何をしていくかを選択することしかできない。その受動的な後手の選択はそうせざるを得なかった結果、そうさせられてしまった、ともいえる。今回のゾンビの演劇で、朝起きて全身の皮膚が凍るように冷たかったり、冷房を避けるために長袖長ズボンで基本はこの夏を過ごしたこと。自分がどういうコミュニケーションを取っていたかわからなくなること。いまドトールでもらってきたストローが誰のために持ってきたストローなのかわからなくなること。本番の何日かはカイロを貼りながら舞台上にいた、とにかくたくさん不安定さとともにこの本番をやり終えました。
死なないためにできる限り後手の努力をする。そして僕はいったん死なないために小豆島に来たともいえる。そうしていったん死んでいないなと自身の身体を確かめて、僕が今こうして書いているのもその正体を探し、そのこととともにうまく生きるためかもしれないです。
今日はこんなところで。また明日かきます。

