
バブル 絶頂から奈落へ 不動産から読み取る社会ー1
第1話 丸の内の熱気と、台湾系銀行からの教訓
――1982年、バブルの導火線に火がついた日
第1幕 異国からやってきた「冷徹な合理主義」
1982年。それは日本の不動産市場が、のちの大狂乱に向けて新たなうねりを上げようとしていた時代だった。
当時、M地所のテナントであった台湾の「中国商業銀行」のナンバー2、李氏が、私たちのもとに仕事の依頼を携えてやってきた。主にM地所ルートの案件を担当していた我がMチームがこれを引き受けることになり、その担当者として私が紹介された。
依頼内容は、目黒区八雲の300坪の土地をはじめとする、計3件の不動産を入札によって売却するというものだった。李氏の要求はきわめて明快。「新聞に入札公告を掲載し、適正なプロセスで処分してほしい」という方針である。
私はさっそく新聞掲載の手配を進め、原案を携えて李氏のもとを訪ねた。同じ丸の内エリアにあるオフィスだったが、一歩足を踏み入れると、そこには外資系企業特有の張り詰めた空気が漂っていた。顧客や職員に対して特別な優遇感を与えるその空間作りに、私はこれから始まる刺激的な仕事への「ときめき」のようなものを覚えたのを今でも記憶している。
カウンターパートである李氏は、非常にフレンドリーでありながらも、仕事に対しては一切の妥協を許さない厳しい一面を持っていた。激動の国際社会を生き抜いてきたビジネスパーソンならではの、タフさとしたたかさが端々に感じられる人物だった。
その李氏から、日本の不動産慣習を揺るがすような驚くべき指示が飛び出した。 「入札価格の20%を預託金として事前に徴収する。落札したにもかかわらず購入しない場合は、全額没収とする」
売買における手付金と同じ扱いだ。しかし、当時の日本の常識からすればあまりに苛烈だった。穏健な三菱グループの流儀に身を浸していた私は、「日本の不動産慣習や法的な観点から見て、本当に大丈夫なのだろうか……」と、言い知れぬ不安を抱かずにはいられなかった。
第2幕 「時間は厳守だ!」――丸の内での一喝
入札情報を2紙の新聞に掲載し、開札日までの間、私は有力と思える不動産業者とコンタクトを取り、情報を拡散させた。
当時は不動産融資に対して一部の銀行が積極的な姿勢を見せ始め、同時に新たな不動産投資プレーヤーが数社台頭してきた時期だった。この入札がどれほどの反響を呼ぶのか、正直誰にも予測がつかなかった。社内での打ち合わせでは、「相場の10%〜15%は上振れるかもしれない」と見込みを立て、本命や穴馬となる不動産会社をあれこれと予想していた。
そして入札当日。私は事前準備として会場を整え、入札箱を用意し、3件の入札資料と開札用の別室を設けた。開始1時間ほど前には李氏も現れ、その時を静かに待った。
30分前になると、会場に応札者が姿を現し始めた。見知った顔、見知らぬ顔。それぞれから緊迫した空気の中で20%の預託金を預かり、札入れを行ってもらう。集まったのは10社以上だったと記憶している。
しかし、入札期限が10分前に迫ったその時、私たちが「本命」と目していた不動産会社がまだ到着していなかった。連絡を入れると、どうやら遅れて向かっているという。
少しでも高く売ることが地主のためになる。私は良かれと思い、李氏に提案した。 「本命がまだ来ていません。開札時間を10分ほど後ろにずらしましょうか?」
その瞬間、李氏は毅然とした態度で私を一喝した。 「だめだ。時間は厳守だ!」
その方が得なのに、と内心では思いながらも、私はその圧倒的な迫力に圧され、指示通り時間を区切ることにした。
いよいよ開札の時間が来た。3件の入札箱を開け、集まった札を束ねた私は、「李さん、別室が用意してあります。そちらで内容を確認してから発表しましょう」と声をかけた。
すると李氏は、再び激昂した。 「だめだ! ここで、全員の眼前で開札して、結果をすぐに発表しろ!」
またしても一喝され、私たちはあたふたしながらも、応札者たちの目の前で手続きを進めることになった。
第3幕 相場を置き去りにした「坪300万円」
そして、結果発表の瞬間が訪れた。読み上げられた金額に、会場は静まり返り、やがて騒然となった。
当時、目黒区八雲の土地相場は坪220万〜240万円ほど。しかし、叩き出された落札額は、なんと「坪300万円」だった。相場を実に30%も上回る、文字通りの破格である。他の2件も順調に値を伸ばし、入札は熱狂のうちにめでたく幕を閉じた。
翌日、私は上司と共に結果報告を携えて李氏のもとを訪ねた。そこには支店長の鄭(てい)さんと、実務担当の張(ちょう)さんも同席していた。二人は李氏とは対照的に、静かで落ち着いた佇まいの人物だった。
結果は申し分ない。支店長も張さんも、満足げな笑みを浮かべていた。そればかりか、「この売却資金をもとに、今度はテニスコート付きの保養施設を作りたいから、良い物件を探してほしい」と、次の新しい依頼まで舞い込んだ。
一連の業務が落ち着いた折、私はどうしても心の内に残っていた疑問を李氏にぶ生けてみた。 「なぜ、あそこまで厳格に開札を行ったのですか?」
李氏は、静かに、しかし重みのある口調でこう答えた。
「私は銀行の、それも海外の支店で、国や組織から指示を受けた仕事をしている。仕事をやる上では、一点の疑念も持たれてはならない。新聞で公に告知し、時間を厳守し、眼前で開札してその場で決定する。別室に持ち込んで相談するなど、疑念の温床になる。論外だ」
では、あの20%という法外に見えた預託金についてはどうなのか。 「失敗しないための、必要十分な方法だ」
私は、頭を強く殴られたような衝撃を覚えた。これが世界を舞台に生き抜いてきた台湾の銀行、ひいては「華僑」の仕事のやり方なのか。自らの甘さと、彼らの合理主義の深遠さに、完全に打ちのめされた瞬間だった。
第4幕 残された教訓と、バブルへの導火線
李氏のこの「卓越した視点」がいかに正しかったかは、後日、思い知らされることになる。
この一件以降、業界では空前の「入札ブーム」が巻き起こった。事業会社も不動産業者も、こぞって入札方式を取り入れ始めたのだ。 そんな中、ある火災保険会社からの入札案件を、我がMチーム(その時、私は別のチームに移っていたが)が担当することになった。
チームのメンバーは、「さすがに20%もの預託金を預かるのはやりすぎだろう」と判断し、日本の慣習に合わせて預託金を取らずに入札を決行した。
結果は、惨愌たるものだった。 なんと、1番札から12番札までが「オールキャンセル」されたのである。結局、13番目の札を入れた業者が落札することになった。
実は、1番から15番までの札は、すべて同じ会社が名前を変えて仕込んだものだったのだ。他社を完全に排除できる最高額まで、自作自演でキャンセルを繰り返すという、悪質な手口だった。「やられちゃいましたね……」と苦笑いする同僚たちを見て、私は李氏の言葉を思い出していた。
「失敗しないための、必要十分な方法」
リスクを徹底的に排除するあの苛烈なルールこそが、プロの仕事だったのだ。私は心から頭が下がる思いがすると同時に、それ以降の外資系企業との取引において、これが生涯の大きな教訓となった。
今にして思えば、あの1982年の目黒八雲の入札こそが、日本全体を巻き込む「不動産バブル」の導火線に火をつけたエポックメイキングな事件だったのではないか、と感じている。
あの入札からしばらくして、街ではひとつの噂が流れた。 「タモリが八雲で、坪300万円で自宅を買ったらしい」
その噂を呼び水にするかのように、不動産業界と金融機関は結託し、一気に不動産相場を煽り立てていった。日本中が狂乱のバブルへと坂道を駆け上っていく、まさにその最初の一歩を、私はあの丸の内のオフィスで目撃していたのである。
第2話 総会屋との一年 ―ファミレスの決戦 🏛️
~昭和と平成の境界線で戦った男たちの記録~
第一幕 広島弁が、事務所に緊張を走らせた日 😤
「吉野おるかー。」
東京駅丸の内口一階。その声が響いた瞬間、事務所の空気が固まった。
再開発前の丸の内は、まだ古い時代の匂いが残っていた。天井の高いカウンター式の銀行建築。裏口などない。逃げ場もない。現れたHは、ゆったりと足を組み、カウンター越しに微笑んでいた。
物腰は柔らかい。声も穏やかだ。
しかしその笑みの奥には、見下しと威圧が、静かに、確実に、込められていた。
総会屋——昭和という時代が生み出した、ある種の「制度」の中で生きてきた男だ。企業の株主総会に介入し、情報と沈黙を売り買いする。彼らの武器は暴力ではなく、「ネタ」だった。一度つかまれたら、もう逃げられない。
私は親会社の指示の下、総会屋との縁を静かに切るための、最後の窓口を任されていた。部長経由で素性と注意点は聞かされていた。しかしそれ以上は知らされていない。大事な役回りだという自負があった。だからこそ、慎重に、慎重に、情報のやり取りをした。
「ネタ」だけは、絶対につかませない。
第二幕 部長の「おみやげ」という名の爆弾 💣
そんなある日、出先から戻った私に、隣の課のA課長が声をかけてきた。
「吉野さん、大変なことになりましたよ。」
C部長が、知人から持ち込まれた複雑極まりない案件——国立の土地——を、私の不在中に訪れたHに紹介してしまったというのだ。
私は一瞬、言葉を失った。
その案件は、社内でひっそりと「お蔵入り」にされていた代物だった。国・都・地方自治体から税金未払いによる差し押さえが複数入り、所有者の兄弟間で訴訟が係争中。どこをどう触っても棘が刺さる、まさに「触らぬ神に祟りなし」の物件だった。
それをよりによって、Hに渡してしまった。
A課長の思惑も分からないではない。不動産の世界は取引が成立してなんぼだ。歩合制でもなかったわが社においても、大型案件を仕切れる者が上を目指せる。Hとのパイプを持ち、こうした複雑案件を絡めることは、野心ある課長にとって抗いがたい誘惑だったのだろう。
しかし爆弾は、もう転がり始めていた。
第三幕 「N証券が買う。まとめろ。」 📋
数日後、Hから連絡が入った。
いつものカウンターへ向かうと、いつもの鷹揚な表情ではなく、Hは珍しく嬉々としていた。
「N証券が国立を社員寮として買うことになったからまとめろ。」
そうだろう。両者をつなぎ、数千万の金が転がり込む。浮き立つのも当然だ。
こいつは大変なことになったぞ。
私はC部長と緊急協議し、A課長には手を引かせ、この案件を一手に私が取り仕切ることにした。N証券はいまだ総会屋との縁が完全には切れていないようで、Hが伝えた言い値でそのまま買うという。
購入申込書を早期に提出させ、当方も早急に取りまとめに入ると伝えた。
第四幕 二人の弁護士と、問題の深さ ⚖️
係争中の弟・妹の代理人、T弁護士と会った。
若手だが、歯切れがよく、なかなかの切れ者だ。買い手がついたので話を進めたいと申し入れると、彼はゆっくりと、しかし確実に、問題の全貌を語り始めた。
土地は男兄弟三人と妹の相続案件だった。父は存命中に、死後の適正な配分を願い、複雑に土地を分筆し、それぞれに持ち分を持たせていた。全員の合意なしに、この土地は動かせない。
しかし長男が、この土地を担保にM銀行から多額の融資を受け、事業に失敗して焦げ付かせていた。国・都・地方自治体から差し押さえが連なり、兄弟間の係争へと発展していた。
物件評価と負債を足し合わせると、どうにか不良債権は免れる水準だった。しかし時間が経てば、債務超過も現実となる。
そして目の前には、Hという名の大きなニンジンがぶら下がっている。
急がなければならない。
第五幕 ボンクラ弁護士と、暴君の構図 👊
長男の代理人K弁護士と会った。
案件処理能力が低く、顧客との折衝時給で食いつないでいるタイプの弁護士だ。ひとことで言うなら——ボンクラ、だ。
しかし彼との会話を重ねるうちに、この案件の本質的な構図が浮かび上がってきた。
良家の長男にたまにある、限りなくプライドの高い人間——それが長男だった。自分の不始末がもたらす迷惑を、弟妹に一向に詫びようとしない。父が残した土地に差し押さえが入り、このままでは大変なことになると心配した常識人の弟妹が、やむなく係争に打って出た。
これが、この案件の本当の姿だった。
第六幕 Hの無理難題と、時代の変わり目 🔄
Hに状況報告のため会う。
案件処理が長期化することを伝えると、Hは即座に言った。
「手数料をお前のところが立て替えろ。」
昭和と平成の切り替わり——1989年。企業が総会屋との縁を切り始めたその時代、Hの所属する会社も一般企業であり、無理な利益供与を言い出せなくなっていた。不動産の世界は取引が成立して初めて手数料が発生する。よって、Hの申し出は受け入れられないと丁寧に説明した。
Hもやむなく矛を収めた。
それからも彼は頻繁に現れた。遅々とした進捗を聞いては顔を曇らせ、他の案件の紹介を求め、時間をつぶしては帰っていった。その姿には、かつての総会屋の威勢はなく、どこか時代に取り残された男の哀愁が漂っていた。
第七幕 気位の高い長男と、平行線の話し合い 😤
双方の弁護士を交え、長男のメインバンクであるM銀行の支店で、ついに長男と対面することになった。
背筋を伸ばし、顎を上げ、上から見下ろす目線を崩さない。自分の不始末がもたらした迷惑を、弟妹の前でも一向に詫びようとしない。
問題解決の道はひとつしかなかった。長男が自らの不始末を認め、兄弟・甥・姪の合意の下、父の残した国立を売却し、すべての債務から抜け出すことだ。しかし長男は、自らの会社の存続のために法外な資金を残すことを求め続けた。
最初の話し合いは、完全な平行線で終わった。
その後も協議を重ね、時間だけが流れていった。
一年と三ヶ月が、過ぎようとしていた。
第八幕 バブル崩壊と、最終手段 📉
時はバブル崩壊が近づいていた。
日銀・三重野総裁が総量規制を発表した途端、不動産市況は一気に悪化し始めた。N証券に確認を取ると、取引金額に変更はないという。総会屋の影響力は、まだ残っていた。
しかし弟妹の不安は隠せず、一定の妥協はやむを得ないという声が上がり始めた。T弁護士と相談し、私は最終手段を決断した。
債権者であるM銀行から、長男に引導を渡してもらう。
M銀行を訪ね、不動産市況の変化と、地価下落が起こった場合の債務超過の懸念を伝えた。支店長以下、担当者たちは懸念を示し、対応を探ると答えた。
第九幕 目黒の事務所と、私の土下座 🙇
翌々日、長男から電話が入った。
「すぐに来い。」
嫌な予感を抱えながら、私は一人で目黒の事務所を訪ねた。手狭ではあるが、ビロードの緑の椅子、手の込んだ机、高価そうな備品——すべてに長男のプライドが滲み出ていた。
「勝手に取引先の銀行に何て話をしたんだ!」
すごい剣幕だった。こめかみに青筋が浮かんでいる。私は問題解決のために長男がしなければならない対応を説明したが、聴く耳は持たなかった。
実はこれが効いたとは思っている。知らぬところで動かれた怒りもあるだろうが、銀行にも追い詰められていく中、自分が取りうる可能性を確かめたかったのだろう。
そして長男は言った。
「そこに土下座して謝れーー!!」
ここまで来た案件をつぶすわけにはいかない。私は一人だった。何の躊躇もなく、頭を下げた。
心の中では、別の声が静かに燃えていた。
いつか取引が終わったら、こいつの頭をたたいてやりたい。せめて傷など証拠が残らないように、本でも丸めてこいつの頭を——。
しかし私は、黙って頭を下げ続けた。
第十幕 海を越えた部下の「武勇伝」 ✈️
数日後、T弁護士から連絡が入った。
兄弟間の調整がつき、和解することになった。取引に応ずると。
気が変わらぬうちに動かなければならない。
海外在住の次男については、直筆のサインとサイン証明が必要だった。私の部下が出向くことになった。
翌日、部下から連絡が入った。
「T弁護士の話と違い、次男は完全に納得していない。今日は一旦別れたが、明日の帰路の便までに何とか説得する。」
一難去ってまた一難。
翌日、やっとうまくいったと連絡が入った。
後日、部下に話を聞くと、英語が不得手な自分が「パスポートを持っている」というだけでアメリカに送り込まれ、入国時に「目的はビジネス、明日帰国」と告げたら別室に連れて行かれ、麻薬の運び屋の嫌疑をかけられたという。日本語のわかる職員がいてどうにか解放された。
ホテルでは朝食の手続きもわからず、外に出るとヒスパニック系の地区で英語も通じない。メニューはスペイン語で読めず、指差して注文したらバカでかいパンケーキが出てきた。
訪米中に口にしたのは、そのパンケーキだけだったという。
それが彼の、不格好で愛すべき「武勇伝」だった。
第十一幕 ファミレスの決戦 🍽️
取引当日。
M銀行をはじめとする複数の債権者、当事者、双方の弁護士、司法書士——気づけば三十人を超える人数が集まった。法務局近くでの取引が必須だったため、やむなく午前中は空いているというファミレスの一角で進めることになった。
司法書士が債権抹消書類を一社ずつ丁寧に確認していく。
そのうちファミレスにも一組ずつ客が入り始め、我々の一角は、異様な景色を生み出していた。スーツ姿の男たちが、山積みの書類を囲んで真剣な顔で座っている。隣のテーブルではランチのパスタを食べるOLたちがいる。
十一時を過ぎた頃、店長が声をかけてきた。
「そろそろランチタイムでお客さんが増えますので、終わらせていただけますか?」
ごもっとも。しかし「もう少しで終わりますので、お願いします。」
そこへ長男が口を開いた。
「私は忙しいので十二時までには戻らなくてはならない。」
誰がこんな事態を招いたんだよ。お前だろ。何を言ってる。
心の声を奥に収め、私は静かに宥め、すかした。
第十二幕 完了の声と、忘れられた一人 📱
「書類が確認できました。これから法務局に持ち込みます。」
司法書士の二人は、両手に大量の書類を抱えてファミレスを後にした。
部下の一人を同行させ、私は肩掛け式の携帯電話で各所と連絡を取り続けた。今のような通信環境はない。自治体・地裁・現場に出向いた部下と、小切手を持ったN証券の担当者——すべてを、この電話一本でつないでいた。
「抹消完了です。不審な差し入れもありません。」
法務局から連絡が入った。私はすかさず国税と地方税の担当に連絡を入れる。
「こちらも抹消受け付けられました。」
完了だ!!!
心が、静かに揺れた。喜びというより、長い戦いが終わった者だけが知る、あの独特の脱力感だった。
部長の了解を得て、祝杯を挙げた。一時間ほど経つと、抹消に出向いた部下がひとりずつ戻ってくる。
「みんなご苦労!」
そこへ一本の電話が入った。
「吉野さん、まだかかりますか?」
——しまった。
現地で占有の見張りをさせていた一人を、すっかり忘れていた。
「ちょうど終わったとこだ。ご苦労さん。ファミレスに向かって。」
最後まで笑わせてくれる案件だった。
終幕 割り戻しと、時代の終わり 🌅
こうして物件売却の仕事は終わった。
総会屋に連絡を入れ、彼らが立てる不動産業者を介することになった。わが社は両者からの仲介手数料を受領し、指定された広島の不動産業者に割り戻した。
一年三ヶ月にわたる苦闘が、静かに幕を閉じた。
今思えば、この案件は不良債権処理における先駆けとなっていた。この後、国税・地方税担当も取引場所まで出向くようになり、手続きは簡便なものへと変わっていった。商法改正も進み、Hも近づかなくなっていった。
ただ、親会社ではその後もしばらく関係が続いていたようで——やがて刑事事件へと発展するのだった。
あの日のファミレスは、もうない。 丸の内も、再開発で生まれ変わった。 しかし私の記憶の中には、今もあの広島弁が響いている。
「吉野おるかー。」
時代が変わっても、あの声と小ばかにしたような笑みだけは消えない。
#総会屋 #バブル #不動産 #昭和平成 #ビジネス #サラリーマン #土下座 #ファミレス決戦 #note
第3話 都銀の存在意義―その変化と終焉 🏦
~バブルの光と影、そして魂を売った日~
第一幕 支店に「王国」があった時代 👑
昭和の終わりごろ、都銀の支店はひとつの王国だった。
支店長は地域の顔役であり、商工会議所の重鎮たちと膝を交えて酒を飲み、地元企業の社長たちが頭を下げて訪ねてくる存在だった。彼らは単なる金融機関の出先ではなく、地域経済の司令塔として、その街の未来を静かに設計する役割と能力を有してしていた。
私が所属していたMエステートは、M銀行と長く良好な関係を築いていた。銀行の情報開発部署から各支店の売買情報が提供され、私たちは貸付担当課長を訪ね、本社・事業所・開発用地の情報を得ながら動いていた。毎週のように顔を合わせ、情報を交換し、ときに一杯やりながら、地域の鼓動を読んでいた。
当時の都銀には、明確な「顔」があった。
支店長は大卒エリートで、複数の支店を渡り歩き、45歳前後には本店役員か取引先の役員へと転じていった。次長は地方出身の優秀な高卒人材が多く、支店を実質的に支えていた。貸付課長は融資の要であり、取引先の財務状況から社長夫人の誕生日まで把握していた。業務課長は内部コントロールの番人として、職場の空気を隅々まで管理していた。
ある日、支店長の運転手からこんな話を聞いた。
「支店長になった者は、皆、一度は自宅まで送らせていましたよ。家族に錦を飾って、ってね」
その言葉には、時代の誇りのようなものが滲んでいた。いや、誇りというより、ある種の「神話」の匂いがした。そしてその神話は、まだ誰も疑っていなかった。
第二幕 育成と共存という、失われた哲学 🌱
取引先との関わり方の基本は、育成と共存だった。
地元企業の動きを担当者と貸付課長が一体となってフォローし、融資ニーズ、商品開発の動き、人材ニーズを丁寧に聞き取る。企業が安定してくると、担保不動産の購入を勧め、関係をさらに深めていった。そして45歳前後の支店長経験者を取引先の専務や経理部長として送り込み、人的なつながりをも織り込んでいく。
銀行は企業の成長とともに歩み、企業は銀行のお墨付きを得る。
こうして都銀は、国とともに静かに「土地本位制」を確立していった。
それは今から思えば、ひとつの完成された生態系だった。捕食者もなく、天候も穏やかで、すべての生き物が自分の役割を知っていた。銀行は水であり、企業は根であり、土地は大地そのものだった。
誰もその生態系が、ある日突然崩壊するとは、思っていなかった。
第三幕 バブルという名の嵐の前夜 🌪️
しかし昭和の終わりとともに、空気が変わりはじめた。
SU銀行・SA銀行をはじめとする積極派は、なりふり構わず融資を拡大した。100%担保評価を超える転売・地上げ業者にも迷いなく融資し、「実績」を積み上げていった。銀行全体が前のめりになり、まるで彼らのビールのように「スーパードライ」になっていった。
M銀行にも変化が現れ、中央区を中心に空中店舗の展開が始まった。新たな業態で基盤のない地域に切り込んでいくにはそれなりの苦労あったことは想像に難くない。すでに2店舗構えていた銀座に進出したSK支店には、我々とすでに取引のあるエース級のF支店長が送り込まれた。我々もバックアップで取引で生じた大型預金を紹介したりといい関係を結んでいた。
1年ほど経つと異例の人事異動があり、F支店長は実績が評価され役員として転出していった。後任として送り込まれたのは従来のM銀行の支店長とはだいぶ異なる神経質そうでピリピリとした印象を与える刈麦氏であった。抜擢された高揚感とバブル絶頂に向かう内外の競争の中でやらなければという思いが強かったのだろうと思う。グループ外にも活路を求める刈麦氏は平然と他社との競合を求めはじめた。「ラガー」から「スーパードライ」へ変化したのだ。
そんな頃、私はある老舗料理店のオーナーを紹介された。
彼の名をOさんといった。
銀座の旦那衆らしく、軽妙な語り口。白髪交じりでそのまなざしは友愛に満ちていた。
支店での話が始まった。親の代から長く商売を続けてきたが、後継者もおらず、年齢からくる商売の限界も感じるようになり。とそろそろ妻にも楽をさせてやりたいという話だった。
第四幕 老舗料理店のオーナーと、私の迷い 🍜
土地は約20坪の狭小物件だった。しかし坪5,000万円を超える評価可能な物件だ。1階を中華料理店に貸し、上層階で自ら和食店を経営し住まいも兼ねていた。後継ぎはなく、長年先行きを案じていたという。
刈麦支店長からの提案はこうだった。
「テナント付きだと価値が半減する。1階の中華料理店を立ち退きさせて、周りとまとめれば坪1億は行くのでは?」
その言葉は、澄んだ水面に石を投げ込んだように、私の内側に波紋を広げた。
バブルはもうピークを過ぎかけているのではないか。
しかし、様々な思いが渦巻いていた。案件をうまく売れれば手数料が入る。競合のT社に負けたくない。年間手数料目標の達成。そうした欲望が、懸念をじわじわと押しつぶしていった。
人間とは、かくも都合よく自分の不安を黙らせることができる生き物だ。
結果、立ち退き料は銀行が1億円融資するでまとまり、話は進んでいった。
第五幕 売れない日々と、罪の意識 😔
しかし日銀の融資規制が始まり、ババ抜きの様相を呈し始めた市場の反応は薄く、物件はなかなか売れなかった。
数カ月、売れない苦しみの時が続いた。Oさんの不安は増すばかりで、面談は1時間が2時間、そのうち4時間にも及ぶようになった。彼は話し続けた。戦後から積み上げてきた商売の話。父親の代から守り続けた土地の話。妻に心配させたくない話。
私は彼の前から去ることができなかった。
それは義務感ではなかった。罪の意識があったからだ。
夫唱婦随で付き添った奥さんの顔。心配で途中から「父には内緒で。」と連絡を入れてきた娘。板前に立った時は彼の心にどんな思いがよぎっていたのだろうか?
銀行が仕掛けたこととは思ってみるが、自分が背中を押したことへの、言葉にならない後ろめたさ。Oさんが話し続けるかぎり、私はそこに座っていなければならなかった。それは私なりの、不格好な贖罪だった。
第六幕 バブル崩壊という、血の引き潮 🌊
やがて日銀がさらに動いた。
不動産向け融資を抑え、バブルの軟着陸を図ろうとした。しかしその手法は、外科医のメスではなく、大斧となった。
融資枠が突然縮小され、担保を外しながら新たな枠を設けない「荒治療」も行われた。血液(資金)を止められた市場で、不動産比率の高い企業が次々と失血死していった。
倒産。夜逃げ。担保物件の競売。そして静かな自殺。
私は今でも思う。日銀・三重野総裁の「資金流通を止める」やり方は、本当に正しかったのか。
資金を止めるのではなく、利益への100%課税による抑制こそが正しい選択だったのではないか。それであれば、企業は一定の利益を上げながら、金利等の損失を負担しつつ、ゆっくりと不動産事業から手を引く選択肢があったはずだ。
しかし歴史に「もし」はない。
引き潮は、すべてを砂浜に置き去りにして、静かに、残酷に、遠ざかっていった。
第七幕 M銀行の決断と、私の原罪 ⚖️
混乱の中、M銀行はSK支店のやり過ぎを認め、問題案件を銀行預かりとした。
Oさんの件も銀行に収められた。正直、ほっとした。しかし同時に、慚愧に堪えない思いも同時に心を巡った。
俺は魂を金で売ったのか。
夜中に目が覚めることがあった。Oさんの疲れた目が、暗闇に浮かぶ。
やがて、M銀行はディスカウント・ペイ・オフ(DPO)という手法でOさんの債務を処理したと聞いた。銀行の責任として、内々に再生の道が開かれたのだ。
日本の深い傷は、こうした非公式な手法を通じてしか回復できなかった。そしてこの出来事だけは、私の仕事人生における唯一の、後悔から離れられない原罪となった。
第八幕 支店から「判断」が消えた日 🏚️
バブル崩壊後、M銀行は大きく変質した。
かつて支店を支えていたたたき上げの次長・課長たちが消え、合理化が進んだ。支店の決済権限は最小化され、権限は本部に集中した。本部の決裁は事業評価もなく、不動産評価に頼るだけになった。支店は「案件を取り次ぐだけ」の組織へと変わっていった。
王国は、ただの出張所になった。
取引先からは何度も同じ言葉を聞いた。
「担当者に相談しても、課長、支店長と上がるだけで、結局何も決まらない」
その言葉の裏に、かつての銀行への期待と、その期待が裏切られた深い失望が滲んでいた。
このビジネスチャンスを見逃さなかったのが外資系銀行だった。プライベートバンキングとして多様なコンサルティングを提供し、投資手法を多様化させ、富裕層個人を取り込んでいった。都銀から富裕層が、静かに、しかし確実に、離れていった。
第九幕 山一証券破綻が変えた、日本の魂 📉
1997年11月、山一証券が自主廃業を宣言した。
社長が泣いた。テレビの前で、カメラの前で、声を上げて泣いた。あの涙は、一つの時代の終わりの涙だったと、今は思う。
山一の破綻とともに、日本の経営に新たな指標が導入された。
自己資本比率・利益率の重視。企業統治・コンプライアンスの強化。株主重視の経営。四半期決算による短期利益の追求。
その結果、企業はデフェンシブになった。新たな投資を抑え、人員・人件費を削減し、利益を抑えて安価に提供し、身を削り、安全を求めて徐行する経営へ。
かつて銀行が企業とともに夢を語った夜は、もう来なかった。
これが、長く続くデフレ・守り・非成長の40年の始まりだった。
終章 7,500円の朝食と、失われた魂 🌅
先日、テレビでなおみがアメリカの高級ホテルの普通の朝食で7,500円取られて驚いたというエピソードが紹介されていた。
この間、日米の賃金格差は2.5倍に達している。一流ホテルの朝食が3,000円換算なら、2周半遅れの日本では——まあ、そんなものかな、と。
しかし私の脳裏には、別の景色が浮かんでいた。
あの頃、支店長と取引先の社長が、夜の料理屋で杯を交わしながら、地域の未来を語り合っていた。そこには算盤もなく、コンプライアンス研修もなく、四半期決算もなかった。ただ、人と人が向き合い、この街をどう育てるかを、真剣に語り合っていた。
都銀はかつて、地域と企業と人を育てる存在だった。
その魂はどこへ行ったのか。
そして私自身も、あの時、何かを失った。Oさんの疲れた目の前で、私が失ったもの——それは、おそらく、商売人としての誇りと、人間としての誠実さの、ある一部だった。
レクイエムは、今も静かに鳴り続けている。 あの王国の廃墟の上で、風だけが吹いている。