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【小説】永遠の後ろ姿(完結済み)

    あらすじ


    昭和55年の夏、山梨県甲府市に流れる荒川のほとりに建つ甲府第二高等学校。
    美術部部長の青柳聖二は焦っていた。文化祭に出品する絵の題材が決まっていないからだ。夏休みの初日、急いで題材を決めようと美術室に行くと、部外者の少女が佇んでいた。その少女は3年生の雨宮祥子と名乗った。美しいが影のある祥子に惹かれた聖二は、モデルになって欲しいと頼み込む。祥子は予想外に喜び承諾した。美術室で二人だけの夏休みが始まる。聖二はひたむきに祥子の姿をキャンバスに描く。二人は惹かれ合い、少しずつ距離を縮めていく。だが、永遠に続けばと願った夏休みは、やがて終わりを迎える。

    本編


    『昭和56年度卒業生 青柳聖二 寄贈 「ある少女との夏」』
    50号の油絵の下に付けられた金属板に、そう刻まれている。
    甲府第二高等学校の北館。最上階の4階へと続く階段は、3階から4階天井まで吹き抜けで、踊り場の西側の高大な白い壁に、その絵は掛けられている。南側の中庭を望めるガラス窓からは、柔らかな日差しが降り注いでいる。
    絵の中の少女の名は、雨宮祥子。
    この絵を前にすると、私のこころは昭和55年のあの夏に帰る。
     
                      *

    夏休みが始まった日、学校に向かってがむしゃらに自転車を漕いでいた。世間は、山口百恵の引退は惜しいだの、モスクワ五輪をボイコットするだの騒いでいたが、その時の私にはどうでも良い事だった。
    とにかく、暑い。
    真昼の太陽が肌をジリジリと焼き、額から背中から、汗が流れ落ち制服が肌にへばり付いた。しかも自転車を漕げば漕ぐほど、甲府盆地の湿気をたっぷり含んだ熱風が襲ってくる。
    学校へ行くには、必ず荒川に架かる橋を渡らなければならない。学校に一番近い橋は、「ぶどう橋」と呼ばれていた。欄干が紫色に塗られ、葡萄をかたどった飾りがあるからだ。橋の上では、太陽を遮るものがなく、刺すような日差しが容赦なく照りつける。猛烈な太陽と熱風から逃れるには、早く学校に着くしかなかった。
    私が焦っていたのは暑さのせいだけではなかった。絵の題材が全く決まっていなかった。10月には文化祭、11月には高文祭(全国高等学校総合文化祭)がある。文化祭は美術部員全員が出品できるが、文化庁主催の高文祭は、部の中から選ばれたものしか出品できない。美術部部長の面子にかけて、選抜されなければならない。
    いや、本当は面子など二の次だ。
    いい絵が描きたい。静物画によく使われるオブジェなら美術室に沢山ある。テーブルの上に牛の頭蓋骨とガラス瓶とリンゴ、いいバランスの三角形がつくれる構図だ。展覧会で必ず見かける。だが、それらに何の魅力も感じない。どうしても描きたい衝動に突き動かされるほど、私が魅入られるものを探していた。
    しかし時間がない。この日は学校の中で強引にでも決めようと思ってきた。
    私は駐輪場に自転車を停めて一息つき、その屋根の下で、メガネをはずして顔をぬぐい、ワイシャツをバサバサとあおいで汗を乾かした。いつもは、駐輪場の奥まで見渡しきれないほどびっしりと自転車が並んでいるが、この日はまばらで閑散としていた。美術部員は誰も来ていないだろうと思った。もともと自宅で描いている部員も多く、個人主義な気風の部活だから、夏休みに来る部員など私一人ぐらいのはずだ。

    美術室のある芸術棟は、校舎から独立して建っている。芸術を造り出す建物は、芸術的デザインであるべき、と偉い方は考えたのだろう。音楽室と美術室はそれぞれ六角形という珍妙な形をしており、二つの教室の出入り口が廊下で繋がれ、その中央に玄関がある。
    部長の特権で合鍵をもっていた私は、職員室へ寄らずに美術室へ直行した。

    美術室のドアに手を伸ばしたとき、中から、かすかにハミングする声が聞こえた。耳を澄ますと、それは「翼をください」だった。
    私は、入るタイミングを失ってしまった。ドアの窓からそっと覗くと、女子生徒はこちらに背を向け、室内に雑然と置かれた描きかけの絵やイーゼル、石膏像を指でなぞりながら眺めていた。
    ハミングが止まり、ぽつりとこう呟くのが聞こえた。
    「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよう」
    すぐに、それが若山牧水の短歌だと分かった。
    「若山牧水だね。」
    私は内心の照れと緊張を隠す為にメガネの位置を直すふりをしながら、ドアを開けて言った。少女はビクッと肩を震わせ、振り返った。少女の顔には見覚えがあった。音楽室で練習している合唱部の伴奏をやっている子だ。
    「俺は美術部の部長だけど、ここに何か用か?」
    「すみません。勝手に入って・・・あの、鍵が開いていたので、その・・・ちょっと中を見てみたくて・・・・すみません。」
    か細い声でそう言いながら、彼女は何度も頭を下げた。彼女に悪気がないのは伝わってきたが、無断侵入をあっさり許してしまってはいけないと思った。私は腕組みをして、しかめ面を作った。
    「鍵が開いていたのはこちらの不手際だが、勝手に入られては困るよ。」
    「すみません。」
    「美術室の中を見たかったって、入ったことなかったのか?芸術の授業は何を選択してる?」
    「はい、あの、ずっと音楽でした。あの、厚かましいお願いですが・・・わたしがここに勝手に入ったこと、誰にも言わないでもらえませんか?」
    私は、恐縮しきっている侵入者を、少しからかってやりたくなった。
    「いいよ。黙っててあげるよ。その代り、君にデッサンのモデルをやってもらおうかな。」
    「ええ!?わたしが、モデルを?そんな・・・」
    彼女の返事も聞かず、私は机をぐいぐいと教室の端に寄せて、空いたスペースにパイプ椅子をトンと置いた。
    「さあ、座って。時間は取らせないから。3ポーズ10分ずつで。最初は、そうだな、少し右側へ体ごと向けて。」
    「は、はい・・・。」
    ギクシャクと彼女は椅子に座り、言われた通りにポーズをとった。

    スケッチブックを広げながら、ふと、互いに名乗っていなかったことに気が付いた。
    「そうだ。お互い自己紹介をしていなかったね。君、何年何組?」
    「3年2組、雨宮祥子です。」
    私は動揺した。彼女は上級生だった。知らなかったとはいえ、さっきまでの横柄な態度と口のきき方はまずい。彼女がとても華奢なので、同級生か下級生と思い込み、名札を確認しなかった自分を悔やんだ。何とかして非礼を詫びたかったが、急に態度を変えるのも滑稽だ。
    スケッチブックから目を離さないまま言った。
    「2年4組、青柳聖二です。・・・失礼しました。」
    「いいえ。」
    スケッチブックに鉛筆を走らせた。

    無言の時間が流れた。
    グランドで野球部員が張り上げる掛け声、金属バットで球を打つ甲高い音が、校舎に反響していた。
    開けた窓から風が吹き込み、カーテンを膨らませた。

    細部の描き込みに移り、彼女を観察した。白い半袖のブラウスに濃紺のベスト、同じく濃紺のビザ丈のプリーツスカート。小さい顔、華奢ながら長い手足。透き通るような白い肌、伏せて潤んだ瞳、薄桃色に上気した頬。肌と対照的な、漆黒の艶やかな髪は胸の前へ垂らされている。
    私は、鼓動が早まり、顔が熱くなるのを感じた。彼女を引き止め、モデルを依頼したことを後悔した。それを彼女に悟られたくなかった。
    「では、もういいですから。今度は後ろ向きでお願いします。そう・・・斜め左を見る感じで。」
    彼女はその通りにしてくれた。ほっと安堵した。彼女も、安心したように、大きく肩で一つ息をした。

    彼女の後ろ姿は、美しかった。やわらかな曲線の頬、斜め後ろからでもわかる長いまつ毛、正しいS字を描く背筋。きちんと揃えられた脚。
    頭の先からつま先まで、凛とした空気をまとっていた。

    彼女を描きたい、心からそう思った。

    「どんなふうに描いてくれたの?見せてもらってもいいかな?」
    デッサンの終わりを告げると、彼女は振り返ってそう言った。
    「わあ、さすが美術部部長!上手いわね。」
    「いや、そんなこと、ないですよ・・・。」
    私は勇気を振り絞って言った。
    「あの、雨宮先輩。」
    緊張で喉がカラカラに渇き、声がかすれた。
    「あなたをモデルに、絵を描きたいです。こんなデッサンではなく、油絵を、全力をかけて描きます。突然こんなこと言ってすみません。でも・・・協力していただけませんか?週に2回・・・いや、1回でいいです。モデルになっていただけませんか?」
    息もつかずに一気にそう言い、自分の鼓動を聞きながら、彼女の反応を待った。
    彼女は、キョトンとし、やがて事情を理解すると両手で口を覆った。
    「ええ!?それって人前に出す絵よね?わたしを・・・」
    暫く言葉を失っていたが、次第に彼女の瞳がキラキラと輝き始めた。
    「・・・わたしを絵にしてくれるのね!どうしよう。嬉しい!」
    驚くのは、私の番だった。こんなに喜んでくれるとは思わなかった。次の彼女の言葉に、更に驚かされた。
    「ね、制服じゃなくてもいいかしら?夏休み中だから大丈夫よね。わたし、お気に入りの洋服を着てきたい!ねえ、いい?」
    「え・・・私服ですか?うちの高校は風紀ゆるいから大丈夫だと思いますけど、どんな服装ですか?」
    彼女の目が楽しげに微笑んだ。
    「それは、まだ秘密。」
    最初に見た怯えた表情からは想像できない、屈託のない笑顔に私は一瞬、見とれてしまった。
    「・・・はい。いいですよ。」
    モデルをしてもらう日は彼女の都合に合わせて週に1~2回にすることと、次に会う日を決めて、その日は別れた。

    約束の日、私は目を見張った。
    彼女は真っ白なワンピースを着て現れた。まるで映画「ウエストサイドストーリー」のマリアのようだ、と思った。
    広めにあいた胸元。ちょうちん袖。赤いベルトできゅっと絞られたウエスト。ふんわり広がった膝丈のギャザースカート。高い位置で結われたポニーテールには赤いリボン。少しかかとの高いサンダルも赤だった。
    「これね、デパートのショウウィンドウに飾られていて、ずっと憧れてたの。綺麗だな、着てみたいなって。青柳君が描いてくれるっていうから、思い切って親にねだって買ってもらっちゃった。お母さんは、よく似合うってすごく褒めてくれるけど、親バカよね?この服装で学校に来るのは、やっぱり勇気がいるわ。芸術棟が職員室から見えなくてよかった。」
    彼女はうつむいて肩をすくめた。
    「いや、・・・良いですよ。俺も、良いと思います。」
    照れくさくて、そう言うのが精一杯だった。
    「ありがとう。」
    彼女は顔を上げ、笑顔になった。

    しかし、私は大事なことに気が付いて、頭を抱えた。彼女の装いに、いつも生徒達が使っている無機質なパイプ椅子は不似合だ。
    「しまったな。合う椅子を探さないと。」
    慌てて、それらしい椅子がないか部屋中を探し始めた。彼女が、一角に置かれた椅子を指差した。
    「これ、ちょうど良いんじゃないかしら。」
    背もたれのない、木製の四脚の丸椅子だった。
    「でも、長時間モデルで座っていてもらうのに、背もたれがないのは疲れてしまいますよ。」
    「平気よ。背もたれがない方が、背中がよく見えるでしょ?」
    「そうですね。ではご厚意に甘えて、それにしましょう。」

    彼女と約束した日が来るまでの間、私は一人で構図を練っていた。ポーズは、あの日と同じ、後ろ向きで斜め左を見ている姿勢と決めていた。彼女の凛とした佇まいを際立たせるために、窓辺を背景にすることにした。
    ポーズを後ろ向きにしたのは、彼女の後ろ姿の美しさに惹かれたというのが理由だが、長時間向き合っていることに耐えられる自信がないことも、多分に影響していた。
    私の指示通りにポーズした彼女はそのままで一幅の絵のようで、自信を喪失しかけたが、自分を奮い立たせた。
    「では、始めます。」
    私はスケッチブックと鉛筆を取り出した。
    「あら?油絵じゃなかったの?」
    「まずは、紙に下書きをして、構図を決めます。その後で、キャンバスに油絵の具で写します。油絵の具は、簡単に消したりできませんから。」
    「へえー。そういうものなのね。」
    「でも、もうキャンバスは買ってありますよ!」
    私は傍らに置いてあった、真新しいキャンバスをポンと叩いた。
    「えっ!そんなに大きいの?」
    50号で、私にとって今までで最も大きいサイズだ。大奮発だった。
    「見たままを、写し取りたいからです。」
    「・・・嬉しいわ。」
    一瞬、彼女が泣きそうな眼をした。
    私にはその理由が分からなかったが、慌てて雰囲気を変えようとした。そこで、50号のキャンバスを自転車にくくり付けて、繁華街の画材屋から学校まで運んで来た珍道中を話した。彼女は小さな事にも笑ってくれた。本当によく笑う人なのだと思った。

    翌日、私は居てもたってもいられず、学校へと向かった。一日でもはやく、昨日のスケッチブックの下書きをキャンバスに写したかった。
    鍵を開けて美術室に入り、着古した白衣を羽織った。腰や袖口周辺に様々な色の油絵の具がこびりついている。油絵道具の入った木製のケースを開く。その中からパレットを取り出す。絵の具の中から、下絵に使う「イエローオーカー」を取り出し、パレットの上に絞り出す。テレピン油を油壺に入れ、筆をそれに浸す。パレットの上の絵の具を、筆先のテレピン油と混ぜる。
    私は、油絵道具の臭いを含んだ空気を大きく吸い、長く吐き出した。一気に、キャンバスに縦と横の中心線をスーっと引いた。
    魅入られたものを描ける喜びが胸に溢れ、筆を走らせた。

    ひどく暑い日のことだった。
    美術室の窓を開けても、湿気を帯びた熱風が吹きこみ、彼女も私もまいってしまった。
    「暑いわね。」
    「暑いですね。」
    二人が同時に言い、顔を見合わせて笑った。
    「何か飲み物を買ってきます。何がいいですか?」
    「わたしも一緒に行きたいわ。」
    校門の目の前に、保坂屋という飲食品から文房具、雑貨まで生徒が必要な物を何でも売っている店がある。しかし、運動部やガラの悪い連中がたむろしている可能性がおおいにあった。そんなところに、白いワンピースで着飾った彼女を連れて行くのは、いろいろな意味で問題だ。
    「茅場屋にしませんか?」
    私は、荒川を超えた先の駄菓子屋を提案した。
    彼女は少し首をかしげたが、
    「うん。いいわよ。」
    「じゃあ、俺の自転車で行きましょう。」
    しかし、二人で駐輪場に来て、自転車を目の前にしたとき、悩ましい想像が私の頭の中を駆け巡った。彼女は、自転車の荷台にどんな風に乗るだろう。私の腰に手をまわしてくるのだろうか。彼女の体が私の背中に触れるのだろうか。私は鼓動の高鳴りを感じつつ、おそるおそる自転車にまたがった。
    彼女は、拍子抜けするほど自然な動作で荷台に横向きに乗り、荷台の縁を掴んで上手に姿勢を安定させた。
    私は、がっかりしている自分に気付き、己の頬をパンと叩いて発進した。

    学校を出て間もなく、荒川の土手へ上がる坂道に差しかかった。急に二人分の重さがずっしりと脚や腕にかかり、速度が徐々に遅くなってハンドルがふらついた。必死にペダルを動かそうとしたが、とうとう、足を地面に着けてしまった。
    「わたし降りて、歩くわ。」
    「いいえ。」
    私は、メガネを外して胸ポケットへ入れて、顎の下に滴った汗をぬぐった。
    「大丈夫です。そのまま乗っていてください。」
    立ち上って、渾身の力を振り絞って漕ぎ、坂を上りきった。
    「やったー!」
    二人で声を揃えて言った。
    軽快にぶどう橋を渡り始めた。
    「ねえ、知ってる?松田聖子の『青い珊瑚礁』。」
    彼女がハミングした。
    「ああ、そんな新人いますね。テレビで何度か見ましたよ。」
    「ああー 青い風 切って走れ 駄菓子屋へー。」
    「ぷはあっ。」
    私は思わず吹き出してしまった。

    駄菓子屋で、二人そろってサイダーを買った。
    太陽はますます勢いを増し、アスファルトの上に逃げ水がゆらゆらと揺らめいた。
    「すぐにでも、飲みたいくらいですね。」
    「そうね。河原に下りて飲みましょうか。」
    「いいですね。」
    土手から河川敷へ続く斜面の、橋の影になっている所を選んだ。
    しかし、そのまま座っては、彼女のワンピースを汚してしまう。私は、何か敷くものは無いかと、あたふたとポケットを探ったが、もともと持っていないハンカチが出てくるはずはなかった。
    「大丈夫よ。」
    彼女はふわりとハンカチを敷き、優雅に座った。私も隣に、適当にすわった。
    二人同時にプシュッと缶を開けた。炭酸が心地よく喉を刺激して、渇きを潤してくれた。
    ザアザアと流れる荒川の対岸の土手には満開の向日葵が立ち並び、その遥か彼方には南アルプスの青い峰が連なっていた。さらにその上には、雲一つない空が、宙を想像させる深い青色をしていた。
    彼女も空を見上げていた。ポニーテールの赤いリボンが川風に揺れた。
    「ねえ、『翼をください』って曲、知ってる?」
    「はい、よく合唱曲に使われていますよね。」
    「あの曲、ずっと好きだったの。でもね、最近、好きじゃなくなったわ。」
    その意外な言葉に、私は思わず彼女へ振り向いた。彼女は、否定的な言葉とは相反して、晴々とした表情だった。
    「どうしてですか?」
    「気付いたのよ。『悲しみのない自由な空』なんて、わたしには必要ないって。自由に生きていいれば、思い通りにならなくて悲しいこともあるわ。でも、悲しみを感じるってことは、生きている証そのものよ。悲しみから逃げたら、夢も、大切な人も諦めてしまうことになるわ。」
    初めて聞く彼女の強い言葉に気圧されて、返す言葉が見つからず、
    「そうなんですか。」
    としか言えなかった。
    「それに、『大空に飛んでいきたい』なんて、誰も必要としないで孤独を選んでいるみたいだわ。わたしは、そんなのいや。大切な人たちのそばに居たい。」
    「そう、・・・ですね。」
    上手く言葉をつなげられず、話しが途切れた。
    ただふと、美術室で最初に会ったときに彼女がぽつりと呟いた短歌、
    『白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよう』
    を思い出した。

    タタン、タタンと、数キロ先を走る中央線の列車の音が風に乗って聞こえてきた。
    彼女はくるりと私に振り向き、明るく言った。
    「青柳君は、将来の夢はある?志望大学はもう決めた?」
    「いいえ、まだです。俺、理系科目が苦手なので文系を選んだだけですから・・・。雨宮先輩は、もう決めたんですか?」
    「うん。看護学校が第一志望よ。看護婦になりたいの。患者さんに寄り添って、治して、癒す仕事がしたいの。」
    私は内心、よかった、と思った。山梨に大学は多くないため、県外の大学へ進む者が多い。看護学校なら、市内にある。彼女は卒業しても遠くへ行かないのだ。ナースキャップをきりりと付けた彼女の看護婦姿を、想像した。
    「素敵ですね。雨宮先輩なら、きっと、いい看護婦さんになりますよ。」
    「そう?ありがとう。」
    彼女は微笑んだ。
    「そうだ!青柳君、あんなに絵が上手なんだから、絵を描く仕事はどう?」
    「そう・・・ですか?・・・実は、美大を受けてみようかと思ってます。将来、絵にかかわる職業に就きたくて。でも、どんな職業が良いのか、まだ分からないんです。」
    「いいじゃない!青柳君なら、きっと美大に行けると思うわ。夢は大きい方がいいもの。」
    「ありがとうございます。」
    互いに顔を見合わせ、ふふっと笑った。
    「じゃ、学校にもどりましょ。」
    「そうしましょうか。」
    私たちは、勢いよく立ちあがった。
    荒川の水面が、真夏の日差しを受けてキラキラと輝いていた。

    その日の夜、風呂から上がると、東京の大学から帰省している兄が、居間で洋楽のレコードをかけていた。窓を開けて、リズムに乗って聞き入っている兄を、母がたしなめた。
    「浩一、もう夜遅いんだから、音を小さくしろし。」
    「はい、はい。」
    「あんたが昼間から音楽かけてるから、聖二は毎日のように学校に行って勉強してるじゃんけ。」
    「母さんが俺のいない間に、俺の部屋を物置にしたからじゃんか。真夏に男二人が同じ部屋なんて拷問だよ。なあ、聖二。」
    「ん、まあな。」
    私は、母と兄の誤解を喜んで受け入れた。
    「そうけ?・・・浩一、ちゃんと勉強してるずらね。あんた、帰ってきてからレコード聞いたり、エレキ弾いたりして、ずっとダラダラしてるけんど。」
    「大丈夫だって。ちゃんと単位とって、卒業しますよ。」
    「本当け?」
    母はため息交じりに言った。
    このところ、兄は洋楽に凝っていた。クイーンやマイケル・ジャクソン、エルトン・ジョンなどのレコードをかけたり、それらの曲をエレキギターで弾いたりしていた。
    「It's a little bit funny this feeling inside・・・」
    レコードからエルトン・ジョンの「Your Song」が流れた。私はこの曲に、今の自分を重ね合わせた。
    「How wonderful life is while you're in the world」
    「君がこの世界にいる人生は、なんて素晴らしいんだろう」
    酔いしれた気分で布団に寝転び、心地よく眠りについた。
     
    私はキャンバスに向かい、色を重ねていくことに没頭した。
    言葉を交わさなくても、彼女と二人きりの時間は心地よかった。
    夏の風が、運動部の掛け声やセミの声を運び、カーテンをなびかせた。
    ふと我に返ると、美術室の中が薄暗くなっていた。
    「あれ、もうそんな時間かな。」
    時間を確認したが、夕暮れにはまだ早かった。開け放した窓から見える空の彼方には、黒い雲が低く垂れこめていた。ひんやりとした風が土の臭いを運んで来て、遠くでゴロゴロと雷鳴がした。
    「夕立が来そうね。」
    「そうですね。少し早いですけど、今日はここまでにして、帰りましょう。」
    「わたし、傘を持ってこなかったわ。」
    「俺も持ってません。急ぎましょう。」
    校門を出ると大粒の雨がパタパタと降り始めた。二人とも走ったが、ぶどう橋に辿り着くまでには、バケツをひっくり返したような土砂降りになってしまった。
    雨音に負けぬよう、声を張り上げた。
    「ともかく、雨宿りしましょう!橋の下に!」
    押していた自転車を放り出し、彼女と橋のたもとの下へ駆け込んだ。そして、私はハンカチを取り出し、彼女の足元に敷いた。
    「どうぞ、座ってください。」
    「やだわ。青柳君のハンカチが汚れてしまう。」
    「いいんです。使ってください。俺が熱中しすぎて、雨の気配に気づくのが遅れて、こんなことになったんですから。使ってください。」
    「青柳君のせいじゃないわ。・・・でも、折角だから、使わせてもらうわね。」
    彼女は、おずおずと腰を下ろした。私も、その隣に座った。
    彼女は自分のハンカチで、濡れた髪や肩、腕などを拭いた。濡れたワンピースの背中が透け、彼女のスリップが目に入った。私は慌てて目を反らし、メガネを外してワイシャツで拭いた。
    二人とも沈黙し、雨粒が橋の欄干やコンクリートに叩きつけられる音が響いた。濡れた土の臭いが、いっそう濃く漂ってきた。

    沈黙に耐え切れず、私は思いついたことを口にした。
    「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよう。」
    彼女は、はっと顔を上げた。
    「初めて美術室であった時、雨宮先輩、この短歌を口にしてましたよね。」
    「やだ、覚えていたの?」
    彼女はふっと目を伏せた。
    私はメガネをかけ直し、橋から滴る無数の雨垂れに目を移した。
    「不思議です。歌の中には、白鳥が何羽いるか詠まれていないのに、何故か一羽だけが飛んでいる姿を想像するんです。」
    「わたしも。白鳥がかわいそう。たった一羽で、寂しいでしょうね。」
    「俺は、あの歌には二つの意味があると思うんです。」
    「えっ、そうなの?」
    「原文の『かなしからずや』は、平仮名で書かれています。古語の『かなし』は含みの多い言葉なんです。ひどく心が痛む意味で『悲し』とも読みますけど、愛情の『愛』を当てて『かなし』とも読みます。でも、それは『いとおしい』という意味です。それに、美しいの『美』を当てて『かなし』とも読むと、何かの本で読みました。」
    「そう・・・。」
    「ひどく心が痛む『悲し』だとすると、白鳥の孤独に共感する歌です。歌の意味は、『白鳥は悲しくないのだろうか。空の青にも海のあおにも染まらずに、孤独に空をさまよっている。』」
    「そういう意味だと思っていたわ。もう一つの意味は?」
    「『かなし』を『いとおしい』または『うつくしい』と解釈するなら、白鳥の純粋な強さへの賛美の歌になると思います。歌の意味は・・・『孤高に飛び続ける白鳥はいとおしいではないか。空の青にも海のあおにも染まらずに悠然と空を舞っている。あの姿を私は美しいと思う。』・・・なんて、これは俺の勝手な解釈なんですけど。俺は、この意味の方が好きです。」
    彼女の方を向いて驚いた。彼女は泣いていた。
    「ありがとう。・・・ごめんなさいね。うれしくて。」
    私の肩に、彼女が額をトンと柔らかに当てた。
    その感触で、私は脳がフワフワと浮き上がるような感覚になり、彼女の涙の訳を聞く言葉も、どこかへ消えてしまった。
     
    夕立が止み、私たちは橋の上へ出た。
    低く暗い雲は、散り散りになって流れ去ろうとしていた。私は何となく気まずく、無言のまま自転車を押し、彼女と並んで橋を渡り始めた。自転車のハンドルを握る手に目線を落としながら、気の利いた言葉を探しあぐねた。
     
    橋の半ばまで来たとき、一陣の川風が濡れた服を通り抜けた。彼女は風で膨らんだワンピースの裾を押さえて立ち止まり、ぽつりと言った。
    「・・・すごい夕焼け。」
    私も立ち止まって西の空を見上げ、思わず息をのんだ。
    空一面が鮮烈な赤に燃えていた。
    夕陽が川面を染め、暮れかかる町に緋色の帯が横たわっていた。
    「・・・こんなことだったら、美術室で夕立が過ぎるのを待てば良かったですね。」
    「そうね。ずいぶん濡れてしまったわね、わたし達。」
    「すみません。」
    「青柳君が謝ることないわ。おかげで、青柳君から素晴らしい古文の授業を受けられたもの。」
    私は、彼女の額の感触を思い出した。
    「あ、あれは・・・自己流の解釈なので、正しいのか、分かりませんが・・・。雨宮先輩の言う通り、かなしみを感じることは大切なことかもしれませんね。」
    「土手で話したこと、覚えていてくれたのね。」
    「俺、記憶力はいいんですよ。」
    「ありがとう。わたしも、青柳君の言葉なら、よく覚えてるわよ。」
    彼女は腕組みをして、顔をしかめ私の声色を真似て言った。
    「『勝手に入られては困るよ。』ってね!」
    「あ、あれは、その・・・雨宮先輩が年上に見えなくて、あんな態度を・・・すみません。」
    当時を思い出したように、彼女はふっと微笑んだ。
    「でもあの時には、こんな風な夏休みになるとは思わなかったわ。」
    「俺もです。」
    どこからかヒグラシのカナカナカナと鳴く声が流れてきた。
     
    山際に沈みかけた夕陽は少しずつ光を弱め、空は鮮烈な緋色から深紫色へと移り変わろうとしていた。絶え間なく吹く川風が、いつしか服を乾かしてくれた。
    「家へ着く前に、真っ暗になってしまいますね。俺、送ります。」
    「いいの?」
    「はい。後ろに乗ってください。」
    「わあ、ありがとう!」
    彼女の家は近かった。住宅街の平坦な道ばかりで、あっという間に着いてしまった。
    彼女が自転車を降り、では、また来週・・・と、言おうとした時、家の玄関のドアが開いた。
    「あれ、祥子、お帰り。夕立に降られなかった?傘持って行かなかったでしょ?」
    出てきたのは彼女の母親だった。背丈と目元が彼女と似ていた。
    「あ、うん。ちょっと降られちゃった。」
    「あれ、その子は、もしかして・・・。」
    「そう、青柳君よ。送って来てくれたの。」
    私は最敬礼で挨拶した。
    「はじめまして、お、お嬢様には、いつも、お世話に・・・。」
    彼女の母親は、ぱっと目を輝かせて、両手を胸の前で握りしめた。
    「まあっ!あなたが、青柳君なのね!送ってくれて、ありがとう。祥子が、いろいろお世話になって・・・。会えてよかった・・・。そうだ、青柳君も降られたでしょ?そのまま帰ったら風邪引いてしまうわよ。お風呂、入っていって。夕飯も食べていかない?」
    「い、いえ、自分は、結構です。」
    私は両手を振って、辞退を表した。
    「あら、遠慮しないで。」
    「お母さん、無理に引き止めちゃ悪いわ。」
    「で、では、失礼します!」
    私はそそくさと自転車を漕いで、逃げるように家路についた。
    「気を付けて。」
    「また来てね。」
    彼女と、彼女の母親の声が背中から聞こえてきた。
     
    それからも、私は美術室で彼女と二人きりの時を重ねた。冗談を言って笑い合い、私が好きなバルビゾン派の画家について熱っぽく語ると、彼女はそれを嬉しそうに聞いてくれた。沈黙さえも心地よかった。
    一瞬、一瞬が、まばゆかった。この夏休みが永遠に続けばと思った。
     
    大きな入道雲が、青空に威圧感を放ちながらそびえ立っていた。
    私は筆からペインティングナイフに持ち替えて、色を重ねていった。
    光を吸い込んで自ら輝く黒髪。
    柔らかな曲線を描く薄紅色の頬。
    血汐が透ける手足の肌の白さ。
    ワンピースの滑らかな白。
    ポニーテールのリボンの軽やかな赤。
    ウエストのベルトの艶やかな赤。
    サンダルの鮮やかな赤。
    背後の古ぼけた木製のイーゼルとテーブルと、その上のガラスの花瓶。
    窓辺から差し込む午後の日差しが、それらを照らして生れる陰影。
    私の眼を通して見えるすべてを、キャンバスに描こうと意気込み、没頭した。
    その間、彼女は一輪の花のように、姿勢を崩すことなく、凛として座っていた
     
    私たちは自然と、一緒に帰るようになっていた。いつも、私が自転車を押しながら彼女と並んで歩き、ぶどう橋を渡り終えたところで、次に会う日を確認して、それぞれの家路につくのが習慣だった。
    ある日の帰り道、彼女の様子がいつもと違った。学校を出てから、会話が何となく上の空で、ぶどう橋を渡り始めてからは、彼女元が何かを言おうとしては口をつぐむ気配を感じていた。橋を渡り終えると、彼女は突然立ち止まった。
    「・・・雨宮先輩?」
    彼女は私の方へ向き直り、頬を紅潮させながらこう言った。
    「青柳君、今度の土曜日、空いてる?」
    「はい。」
    「あの・・・よかったら、・・・一緒に、市川の花火大会へ行かない?」
    「いいんですか!?」
    彼女は、はにかみながら頷いた。
    「はい!是非!」
    私は天にも昇る気分だった。その反面、自分から誘えなかった不甲斐無さも同時に感じた。

    当日、白いTシャツにジーパン、この日のために買った真新しいコンバースを履き、マディゾンバッグを肩にかけ、目一杯格好をつけて、真昼、木造平屋建ての甲府駅舎の前に立った。約束の時間より大分はやく着いてしまった。駅の横にある、甲府城跡を取り囲む森で蝉がミンミンジワジワと大合唱していていた。
    目の前のロータリーに、白いライトバンが停まった。
    ドアが開き、浴衣姿の彼女が降りてきた。紺地の絞りの浴衣に赤い帯を締め、赤い巾着をちょこんと下げ、髪をまとめ上げて鼈甲のかんざしをしていた。
    「待たせてしまって、ごめんなさい。着付けに時間がかかってしまって・・・。」
    彼女がいつもより大人に見え、緊張した。
    「大丈夫です。俺も、今来たところですから。」
    「母が、どうしてもお祖母ちゃんの鼈甲のかんざし着けなさいって。わたし、いらないって言ったのに・・・わたしがお婆ちゃんっぽくなっちゃった。」
    「いや、そんなことないです。良いです。すごく、良いです。」
    「そう?ありがとう。」
    二人でモジモジしていると、
    「ん、んー。」
    と咳ばらいが聞こえた。ライトバンの運転席からだった。彼女が紹介した。
    「父です。」
    「は、はじめまして!自分は、青柳聖二といいます!」
    私は直角に最敬礼をした。
    「祥子、10時には帰って来なさい。青柳君、・・・その・・・あれだ、娘をよろしく。」
    「はい!」
    最敬礼のまま答えた。
    私たちは身延線に揺られ、市川大門駅へ着いた。
    駅から花火会場の笛吹川の河川敷へ続く道は、屋台が立ち並び、人でごった返していた。あちらこちらから、何かを焼く香ばしい臭いがして、威勢のいい掛け声が飛び交っていた。
    「何か買いますか?」
    私は軍資金を詰めた財布をにぎって言った。
    「それより、早く行って、良い場所をとりましょうよ。」
    彼女は、カラコロと私の先を急ぐように歩いていった。彼女が人混みにかき消されそうで、思わず彼女の手を掴もうとした。しかし、二人の隙間を人が横切って、それは遮られてしまった。

    早めに来た甲斐あって、笛吹川の土手の、見晴らしがいい場所を確保できた。
    土手の一面に草が茂り、行き交う来場者に踏まれた草の青々とした匂いがした。
    座ろうとして、ハンカチを取り出しかけた彼女を制し、
    「大丈夫です。今日はこれを持ってきましたから。」
    私はマディソンバッグから、ビニールシートを取り出して広げた。
    「まあ、用意が良いのね。ありがとう。これなら座りやすいわ。」
    私は心の中でガッツポーズをした。
    「俺、何か食べ物買ってきますよ。かき氷、どうですか?」
    「そうね。お願いするわ。わたし、レモン味がいい。」
    「わかりました。任せてください!他にもいろいろ買ってきますよ。場所取り、お願いしますね。」
    「ええ。いってらっしゃい。」
    手を振って見送ってくれた。
    私は、人混みに揉まれながら、ベビーカステラ、爪楊枝2本付きのたこ焼き、かき氷を買った。かき氷は、彼女のリクエストのレモン味と、私の好きなブルーハワイの二つにした。
    戦利品を両手に抱え、汗だくになりながら土手を上った。
    彼女は、白いレースの日傘を差して待っていた。
    「お帰りなさい。」
    日傘越しに、彼女は振り向いた。
    その瞬間、私は言葉を失った。
    川面の反射を集めた眩しいその姿を、何年、いや何十年後の自分なら描ききることができるだろうか。
    「ありがとう。大変だったでしょう。」
    呆然とする私に、日傘を差しかけてくれた。ふっと、いい香りがした。
    「半分、払うわ。おいくら?」
    私は、はっと我に返った。
    「いいです、いいです。ここは、俺が奢ります。」
    「まあ・・・ありがとう。お言葉に甘えて、ごちそうになるわね。」
    二人並んで、かき氷をサクサクつついた。
    「わたしね、今、とっても楽しいの。モデルになって、本当に良かったわ。」
    彼女の瞳が私を見た。
    「・・・こうして、一緒に花火大会にも来ることができて。」
    顔が火照るのを感じた。
    「俺も、すごく、楽しいです。」
    彼女はふっと目線を下げ、長いまつ毛が影を落とした。
    「ねえ・・・青柳君、どうして私をモデルにしてくれたの?」
    「えっ?・・・」
    全く考えたことがない質問に、言葉が出なかった。
    「どうしてって・・・先輩を描きたかったから・・・、あれ?答えになってませんね。・・・すみません。」
    自分のあまりの愚かさに頭を掻いた。初めて会った日に、どうしても描きたいと思うほど貴女に魅入られたとは、とても口に出せなかった。
    「ううん、いいの。ごめんなさいね、変な事聞いて。」
    彼女の表情が曇ったように見えた。
    「いえ、そんな・・・。」
    気まずくなった雰囲気を振り払うように、彼女が明るい声で言った。
    「それより青柳君、あの絵はいつ頃、出来上がりそうなの?」
    「ええと、実は、あの絵を文化祭に出品しようと思ってます。」
    「え!文化祭?・・・良かった・・・あ、でも、全校生徒に見られるのよね。恥ずかしいわ。」
    彼女は手で頬を押さえた。
    「大丈夫です。自信を持ってください。俺、今までの中で一番いい絵が描けていると思ってます。」
    「青柳君がそう言ってくれるなら・・・。」
    「だから、文化祭に間に合うように、俺、頑張ります。」
    「わたしも協力するわ。完成した絵を、見たいの。」
    彼女は笑顔でそう言った。
    「はい。絶対、完成させます。」
    それから、たこ焼きやベビーカステラをほくほくと食べながら、彼女が飼っている犬のこと、私の兄のことなど、他愛もない話をし、笑いあった。

    花火大会が始まった。
    打ち上げる音が腹に響き、暮れかけた空に色とりどりの花火が開いた。
    徐々に宵闇となっていく空に、何千発もの色とりどりの花火が打ちあがった。
    その間、私はチラチラと彼女の横顔をみた。花火に照らされた彼女の笑顔は、輝いて見えた。
    打ち上げが一旦止み、煙が川風に流れていった。煙幕が晴れ、束の間、夜空は闇と静けさを取り戻した。
    ドン。体全体に轟く音が静寂を切り裂き、天空高く大玉が打ち上げられた。
    夜空いっぱいに火の花が広がり、咲き誇り、巨大な滝のように流れ落ち、迫ってきた。私は、体が花火に包まれていくような錯覚をおこした。
    彼女は歓声を上げながら、花火をその目に捉えようと精一杯見上げ、背を反らせた。
    その瞬間、彼女の肩が私に触れた。視線が合い、どちらともなくうつむいてしまった。

    花火大会が終わり、観客が一斉に市川大門駅へ向かい始め、私たちもその流れの中に入っていった。
    まだ屋台は煌々と電球をつけ、帰り客を呼び込んでいた。
    「何か、買いますか?」
    「ありがとう。でも、いいわ。・・・わたし、少し、疲れちゃったみたい。」
    彼女の声が弱々しく聞こえた。
    「あっ。」
    彼女が人波に押され、よろめいた。
    私は意を決して彼女の手を取り、人をかき分け彼女の前に出て、先を歩いた。彼女の手が、私の手をそっと握り返した。

    帰りの電車では、何とか彼女の席を確保し、私は傍らの吊革を掴んだ。
    先ほどの自分が取った行動に動揺し、それを隠すようにぎこちなく言葉を探した。
    「・・・最後の大玉、すごかったですね。・・・俺、あんなに間近で見たのは、初めてです。あれは、三尺玉・・・かな。」
    「そうね。たぶん、三尺玉ね。・・・とても、綺麗だった。」
    彼女は、伏し目がちに、一つ一つの花火を思い出しているかのように言った。
    その時、彼女の白く細いうなじが私の目に入った。まとめ上げた髪に鼈甲のかんざしが重たそうだった。ふと何故か、不安が心を過ぎった。
    私は、思わず言った。
    「来年も一緒に見に来ましょう。」
    言ってから、はっとした。大胆なことを言ってしまった。
    彼女は柔らかく微笑み、
    「そうね。一緒に来たいわ。」
    と答えてくれた。
    甲府駅で、彼女を乗せたライトバンに最敬礼し、見送った。
    「来年も・・・。」
    一人、繰り返し言った。

    家に帰ると、居間で兄がニヤニヤしながら出迎えた。
    「俺のアドバイス、役に立っただろ?コンバースの代金は出世払いな。」
    「うるさいな。わかってるって。」
    「うまくいくといいな。ま、人生経験豊富な俺に何でも聞きたまえ。」
    「よく言うよ。今、彼女がいないから家でゴロゴロしてるくせに。」
    「なんだと?」
    「浩一、聖二!どっちでもいいから早くお風呂入れし!」
    「はーい。」
    「はい、はい。」
    その夜は、目を閉じても、まぶたに鮮やかな花火と彼女の笑顔が焼き付いて、なかなか寝付くことができなかった。
     
    夏休み最後の日、美術室で一人、私は積分の問題と格闘していた。
    ほぼ毎日絵に没頭するあまり、数学の課題が終わらなかったのだ。そのため、彼女との約束の時間より早めに来て、終わらせてしまおうと目論見んだ。しかし、問題が後半になるほど難易度が上がり、苦戦した。
    「もう、今日で夏休みは終わりよ。」
    彼女の声がして、はっと顔を上げた。目の前に、白いワンピース姿の彼女がふわりと立っていた。問題を解くのに集中しすぎて、ドアの開く音に気付かなかったようだ。
    彼女はくすくす笑いながら言った。
    「それは、課題でしょ?大丈夫?」
    「大丈夫です。あと、ほんの少しです。」
    「そう?なら、青柳君が解き終わるのを待つわ。」
    「いや、雨宮先輩を待たせる訳にはいきません。残りは、家でやります。」
    机の上に広げたノートなどを急いで片付けようとした。
    「いいのよ。続けて。待つのは全然構わないわ。それに、約束の時間よりかなり早めに着いちゃったから、今日は時間があるわ。」
    そして彼女は私の隣に座り、頬杖をついていたずらっぽく言った。
    「教えてあげましょうか?」
    「いえ、大丈夫です。自力で、解きます。」
    「そうね、『考える楽しみ、解く喜び』よね。」
    「楽しくは、無いですよ。」
    「ふふっ。今のは、担任の先生の受け売りなの。・・・数学をやってる青柳君って、とても新鮮だわ。」
    「か、からかわないで下さいよ。必死なんですから・・・。」
    「ごめんね。頑張って。」
    「はい。」
    沈黙が流れ、私は再び課題に集中した。
    しかし、最後の積分の証明問題で行き詰ってしまった。頭を抱えて、懸命に考えたが、どうしても証明にたどり着けなかった。自力で解くことを観念し、彼女に助けを借りることにした。
    「雨宮先輩。」
    彼女の方を向いた途端、唇が、触れ合った。
    私は、何が起こったのか、すぐに理解できなかった。
    「ご、ごめんなさい!」
    彼女はうつむいて手で顔を覆い、泣きそうな声でそれだけ言い、美術室を駆け出ていった。
    私はしばらく、阿呆のようにただ茫然とした。私の顔や耳は、先日の夕焼けのように赤かっただろう。
    それから、
    「うわあ・・・。」
    と、声を漏らし、机に伏した。
     
    翌日の2学期の初日、全校集会が行われた。
    1年生から3年生まで各9クラスが一斉に体育館へ向かって大移動し、廊下は生徒でごった返した。その中で、懸命に彼女の姿を探した。周囲の女子生徒の顔を注意深く見ながら歩いたが、なかなか見つからずにあきらめかけた時、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下で、前方を歩く彼女を見つけることができた。
    しかし、何と声をかけたらいいか分からず、頭が空回りして言葉にならなかった。
    不意に、彼女が友人らしき女子生徒の方へ振り返った。その瞬間、目が合った。
    「あ、あ、雨宮先輩。」
    声を上擦らせながら、呼びかけた。彼女はさっと表情を硬くして目を逸らし、何も聞こえなかったかのように友人と話し始めた。彼女と同じクラスらしい男子生徒達が私をジロジロと遠慮なく見てきたため、私も視線を逸らした。
    彼女は、まるで別人のようだった。
    目の前にいるのは、髪を下ろし、紺色の制服を着て、私に微笑み返すことのない彼女だった。夏休みの甘い時間がもう戻らないことを悟り、心に大きな穴がポッカリ開いたようになってしまった。
     
    2学期2日目、実力テストが行われたが、私は集中力を欠き、散々であった。
    その翌日から校内は一気に文化祭ムードが高まった。空虚な私の心情とは裏腹に、廊下のそこかしこに大きなポスターや看板などの材料がにぎやかに溢れ出してきた。この甲府第二高校の文化祭は、伝統的に「青峰祭」と呼ばれ、その文字があちらこちらに見えた。それらを避けながら、廊下を歩いていると、後ろから、陽気な声で呼ばれた。
    「やあやあ、部長!久しぶり。」
    振り返ると、日焼けした顔をニヤニヤさせた副部長の中村がいた。中村は、天然パーマでヒョロリとした長身に撫で肩、真顔でも何故かにやけているように見える。同学年のくせに、慇懃無礼な態度で私を名前でなく「部長」と呼び、何かと私にちょっかいを出してくる、気心の知れた仲だ。
    「どうしたの?魂抜かれたような顔して。」
    「そうか?なんでもないよ。」
    「部長、青峰祭の準備、始めようよ。もう材料は揃ってるんだからさ。」
    「・・・ああ、そうだったな。」
    私は夢から覚めたように、夏休み前のことを一気に思い出した。
    模擬店では、団扇と粘土ブローチを売ることになっていた。その材料は休み前に既に買っている。正確には、その手配は中村がやってくれた。一見頼りなさげだが、意外と仕事ぶりは気配りが行き届いていて、私は一目置き、会計の一切を任せていた。展示は講堂で、写真部と合同で行うことが決まっていた。そして、顧問の篠原先生の言葉を思い出した。
    「模擬店は、あなたたちが思うようにすればいいです。ただし、展示には、いい加減な出来のものを出すのは許しません。」
    ふくよかな体型から発せられた言葉には、威圧感があった。
    「明日、部員を招集して打ち合わせしよう。」
    「了解!部長。」
     
    美術部には、決まった活動日はない。自宅で描いている部員も多く、20人近い部員を招集する最も手っ取り早い方法は校内放送だ。部長に就任してから、もう何度もやっているので手慣れていた。
    放送部の許可を得て、休み時間にマイクの前に座った。
    「美術部員のみなさん、明日の放課後、美術室に集まってください。青峰祭の展示と模擬店についての打ち合わせを行います。なお、出品予定の作品も持参してください。」
    雨宮先輩にも、この声は届いているだろうか・・・そんな淡い期待を抱いた。
     
    翌日の放課後、最初に美術部に来たのは私と中村だった。
    「美術室、久しぶりだね。」
    「そうだろうな。夏休み中、誰も来なかったからな。」
    「と、いうことは、部長、夏休み中よく来てたってこと?」
    「ああ。」
    「何を描くか決まらないって言ってたけど、もう決まったの?」
    私はうつむき、ずれたメガネを直した。
    「決まった。」
    「夏休み中、描いてたの?」
    「・・・描いてた。」
    「へえ、何を描いてるの?見せてよ。」
    私は、とうとうこの時が来たか、と思った。2学期が始まれば、あの絵を部員に見られてしまうのは当然のことだ。
    しかし、いつの頃からか、あの絵を他の誰かに見られたくない気持ちがふつふつと湧き上がっていた。夏休みの間の、まばゆい時間を、二人だけの秘密にしておきたかった。特に、中村のような勘のいい奴には、一目で私と絵のモデルの関係性が露見してしまうだろう。
    私は昨日、あの絵を美術室の目立たない片隅の壁に向けて、こっそり置いておいた。結局、私は自ら校内放送して、各部員の作品の進み具合を確認する場を設けておきながら、自分の絵を隠そうと無駄な抵抗を試みているのだ。自分でも滑稽なことだと分かっている。
    「どうせ後で見せるんだから、いいだろ。もうすぐ打ち合わせ始めるぞ。」
    中村は、私の抵抗を見透かしているように、ニヤニヤしながら言った。
    「まだ全員集まってないじゃん。部長、俺の絵はとっくに見てるのに、自分の絵は見せてくれないの?」
    「ああ、もう、わかったよ。」
    私は無駄な抵抗を諦めて、中村に絵を見せた。
     
    「ほう、ほう、ほう、へえー、へえー。意外だな。部長は風景画が好きそうだったのに。女性を描くとはね。俺はこういうのも好きだよ。それにしても随分、仕上がっているじゃん。抜け駆けだなあ。」
    「抜け駆けじゃない。夏休み中に遅れを取り戻そうと必死だったんだ。」
    「ふーん。ねえ、ところで、雨宮先輩って、どんな人?」
    私は、心臓を射抜かれた。
    「な、なんで?どうして、その名前を・・・?」
    「だって、この前の全校集会のとき、部長が渡り廊下で呼んでたから。」
    「お、俺、そんなに大きな声出してたか?」
    「気付かなかった?俺、あの時、部長のすぐ近くにいたんだよ。雨宮先輩って人も、この絵と同じくらい華奢だよねえ。」
    「頼む、誰にも言わないでくれ。」
    「え?何を?」
    中村は両手を頭の後ろに組みながら、わざとらしく言った。
    「中村、お前ってやつは・・・。」
    「ははっ、大丈夫、人の恋路を邪魔するような野暮じゃないよ。」
    中村は私の肩をポンポンと叩き、ニヤリと笑った。私は漸く、鎌を掛けられたことに気が付き、天井を仰いだ。そして、こいつには敵わないと思った。
     
    ほとんどの部員が集まったところで私が教壇に立ち、打ち合わせを開始した。
    「今回、集合してもらった目的は、出品者名と作品とその題名を申告してもらい、目録を作ること、作品の出来具合を篠原先生に確認してもらうこと、また、模擬店で売る団扇と粘土ブローチづくりの分担を決めることです。それから、紙を2枚回します。1枚には出品者名と作品とその題名を記入してください。もう一枚は、展示の受付と模擬店の当番表です。自分の希望時間帯があれば記入しください。特に希望がなければ、こちらで適当に割り振らせてもらいます。2枚とも全員書いたら私のところに戻してください。その間に、模擬店の商品づくりの役割分担を決めます・・・・。」
     
    打ち合わせが終わると、篠原先生はじっくりと生徒の作品を見回り、次々と容赦ない批評と指導をしていった。ただ、私の絵には「いい題材ね。」とだけ言われた。私は、ほっと胸をなで下ろしたが、何か見透かされている気がして恥ずかしくなった。
    その後、私は中村と、模擬店の売り物に使う材料の数をかぞえ、揃っていることを確認していた。そこへ、一年生の女子生徒二人が寄ってきた。池内と渡辺だ。部室にはよく来るが、いつも漫画や、挿絵の多い小説などを回し読みして、きゃっきゃと喋りあっていた。
    しかし、この時は互いをつつき合って、なかなか用件を言い出さなかった。
    「何?」
    渡辺が口を開いた。
    「青柳先輩の絵、さすがにお上手ですね。」
    「ああ、ありがとう。」
    私は、素っ気なく答えた。
    「あのお・・・。」
    池内が、ためらいがちに言った。
    「青柳先輩の、あの絵のモデルって誰なんですか?」
    「えっ、あれは、その・・・。」
    思わず口ごもってしまった。渡辺がたたみかけてきた。
    「もしかして・・・。」
    「おやー?池内さんの絵のモデルは誰なのかな?」
    中村が会話に割り込んできた。
    「あ、あれは、自画像ですよ。」
    「いやあ、ごめん、ごめん。実物の方が可愛いから気付かなかったよ。」
    「えっ、そんなことないですよ・・・。」
    「本当だよ。青柳もそう思うだろ?」
    中村が目配せしてきた。
    「そう・・・だね。」
    「きゃあー!青柳先輩がかわいいって!あっちゃん、よかったね。」
    渡辺が池内の肩を揺すってはしゃいでいる間に、私はそっとその場から逃げた。
     
    夏休みが明けてから毎晩、私は布団の中で煩悶していた。
    あの夏休み最後の日が、どういうことを意味するのか考えていなかったことを激しく後悔した。あの楽しい日々が終わることから目を背けて、これから先も白いワンピース姿の彼女と会えることを願っていた自分を呪った。
    彼女は、私とは真逆に、甘美な夏が終わることを真摯に受け止めていた。そして、精一杯の想いを私に向けて表してくれたのだ。それなのに、私は、応えることができなかった。自責の念が押し寄せ、胸を締め付けた。
    そして、なぜ始業式で彼女が私を無視したのか考えた。友人の前での照れ隠しだと思いたい。しかし実際は私の不甲斐無さに愛想を尽かされたのではないかと、希望と絶望の間で大きく揺れて、答えが出ないまま何度も寝返りを打ち、夜は更けた。
     
    絵の前に座っていても、ほとんど手が動かなかった。思わずため息をついた。
    その時、篠原先生が横に立った。
    「どうしたんですか?スランプかしら?」
    「はい、まあ・・・。」
    私は力なく答えた。
    篠原先生は、絵の中の彼女を指して言った。
    「このお嬢さん、綺麗だけど人形みたいだわ。」
    それは非常にショックな言葉だった。
    「人形、ですか?」
    「そう。」
    「どうしてですか?どこがダメなんですか?」
    「それは、自分で考えてみなさい。」
    先生は突き放すように言った。
    「はあ・・・。」
    ペインティングナイフを握りしめた手元を見つめた。
    「あなたの絵、高文祭に出そうと思ってるの。そのつもりで、頑張りなさい。」
    「本当ですか?」
    篠原先生を見上げると、ゆっくりと頷き、去って行った。嬉しさと重圧感が入り混じり、複雑な気分になった。

    「綺麗だけど人形みたい」という先生の言葉の意味が、私にはどうしてもわからなかった。目の前にいた彼女を、そのまま写し取って描いたつもりだった。
    一晩悩んだ末、彼女にもう一度モデルをやってもらおうと思い立った。そして、自分の想いを伝えようと決心した。

    放課後、校門で彼女を待った。そのあいだ脳裏には、夏休みに微笑みかけてくれた彼女と、始業式の時の硬い表情の彼女が、交互に浮かんだ。
    友人と並んで現れた彼女は、私を見つけると瞳を曇らせた。
    そのまま通り過ぎようとする彼女を、必死の思いで呼び止めた。
    「雨宮先輩!お話したいことがあります。」
    「・・・。」
    彼女は戸惑った表情を浮かべたが、心を決めたように友人に告げた。
    「ごめん、先に帰って。」
     そして、私と向かい合った。
    「雨宮先輩、もう一度モデルをしてくれませんか。制服のままでもいいです。いま、絵の仕上げで行き詰っていて、どうしても必要なんです。お願いします。」
    彼女は一度、ぎゅっと唇を噛んだ。そして私を見ずに、しかし、キッパリと言った。
    「もうモデルはできないの。」
    「・・・そんな、どうしてですか?」
    私は崩れ落ちそうになった。
    「わたし、受験生なのよ。もう時間がないの。夏休み遊んでいた分を挽回しなきゃ。」
    私は返す言葉が見つからなかった。茫然とし立ち尽くす私の横をすり抜け、彼女は去って行った。

    彼女に振られたのだ。自分の気持ちをきちんと伝えられないままに。
    寝ても覚めても、その苦しい思いにとらわれた。
    美術室にいても、絵を見ることすら辛くなってしまった。

    私は気分転換に、展示目録を刷ることにした。もともと、わたしの役割だ。サボりだと言われることはない。
    美術室の隣の準備室に、ろう原紙、鉄筆、ヤスリ、インク、ローラー、などの道具と、わら半紙100枚ほどを持ち込み、木製の机の上にドカドカと置いた。まずガリ切りに取り掛かった。ろう原紙をヤスリの上に乗せ、鉄筆で出品者名と作品とその題名をガリガリと書いていった。
    そうした作業の間にも、頭に去来するのは彼女と絵のことだった。上の空になっては、はっと我に返り、振り切るように黙々と準備室の片隅で作業をした。
    そこへ、池内と渡辺が準備室にやってきた。声をかけてきたのは渡辺だった。
    「あの、青柳先輩。」
    「何かな?」
    私は手を止めた。
    「あっちゃんが、・・・あ、池内さんが、どうしても、先輩に聞きたいことがあるって・・・。ほら、あっちゃん。」
    渡辺が池内のわきをつついた。
    「わたしやっぱり、だめ。ゆうこちゃん、言って。」
    「大丈夫だよ、あっちゃん、わたしがついてるから。」
    「でも・・・。」
    そんな二人の押し問答がいつまでも続きそうで、作業に戻ろうとした時、渡辺が口火を切った。
    「あのっ!先輩とあの絵のモデルさんは、どういう関係なんですか?」
    その質問は、予想通りであり、一番聞かれたくない質問でもあった。できるだけ平坦な口調で答えた。
    「・・・ただの知り合いだよ。」
    今度は池内が声を詰まらせながら言った。
    「本当ですか?でも、わたしの友達が、ふたりでぶどう橋を歩いてるのを見たって・・・楽しそうに話しながら、並んで歩いてたって・・・。本当に、ただのお知り合いですか?」
    「ああ。そうだよ。」
    渡辺が顔を紅潮させ、前に乗り出して聞いてきた。
    「あのモデルの人って、どんな人なんですか?!」
    ドンと胸を突かれた気がした。
    「どんな人って・・・。」
    3年2組の雨宮祥子という人だと言えば良かったのだろうが、その時は言葉にならなかった。だた、脳裏に彼女との夏休みの日々が次々と映し出された。
    初めて会った時の佇まいの美しさ。
    自転車ではしゃぐ無邪気さ。
    朗らかな微笑み。
    心弾んだ会話。
    夕立の橋の下で流した涙。
    花火大会の日の儚げなうなじ。

    私は思わず立ち上がり、ガリ版の道具を放り出して美術室へ向かった。
    「青柳先輩!」
    池内と渡辺の声を背中で聞いた。
    「ごめん。」
    キャンバスに飛びつき、夢中でパレットの上で絵の具を練った。
    彼女は決して人形ではない。簡単には計り知ることのできない様々な感情を持っているのだ。彼女の様々な表情を見るたびに、私は惹かれていった。それを表現したいと強く思った。

    10月になり、文化祭の数日前、再び美術部員に向けて招集の校内放送をした。文化祭当日の展示の受付と模擬店の店番の当番表を配布して、皆に確認するためだ。
    美術室に最初に来たのは、また私と中村だった。美術室には、模擬店で売る色とりどりの団扇や粘土ブローチが置かれ、展示する作品のほとんどが美術室に持ち込まれていて、いつもより狭く感じた。
    中村の作品は、文鳥を描いた水彩画だった。羽一枚一枚まで描き込まれた細密な絵だった。
    「羽の細かいところまで、よく描き込んだな。」
    「うん。細かい事、大好きなんだ。0号の細い筆で羽を一枚、一枚描いてると、時間を忘れるんだよ。」
    「お前らしいな。」
    中村が私の絵に向かって言った。
    「部長はしばらくスランプだったみたいだけど、復活してからだいぶ手を加えたね。」
    「ああ。篠原先生に、人形みたいだって言われてさ。」
    中村は両手を腰に当てて、50号の絵を上から下まで眺めた。
    「女の子が、あでやかになったね。全体的に陰影を深くして、背景のイーゼルやガラス瓶の輪郭をぼかして陰に溶け込ませたんだね。女の子に焦点が当たって光の中に浮かび上がるように見えるよ。俺はこの方が好きだな。」
    「ありがとう。」
    「モデルの人には、もう見せた?」
    「いや、まだ・・・。」
    「じゃあ、青峰祭でお披露目だね。」
    「いや、それが・・・。」
    額が汗ばみ、前髪をかき上げた。
    「ん?彼女と何かあった?」
    核心を突かれてしまい、誤魔化すことを諦めた。
    「実は・・・夏休みが明けてから、・・・避けられていて、見に来てもらえそうにないんだ。」
    「うーん。どうしたんだろうねえ。でも、彼女に見てもらいたいよね。」
    中村は腕組みをして、空を見つめたかと思うと、当番表を見て言った。
    「展示と模擬店の当番を、こう変えよう。」
    中村は当番表をサラサラと書き変えてしまった。それを見ると、私と中村の両方が必ず展示か模擬店のどちらかに居ることになっていた。
    「こうすれば、部長か俺のどちらかが、雨宮先輩を見つけて展示に連れてこれるだろ?」
    「おまえ、それじゃ自由時間が無くなってしまうぞ。」
    中村はカラリと笑いながら言った。
    「俺は、どこに居たって自由だよ。」

    文化祭は金曜日と土曜日の2日間にわたって行われた。
    初日の金曜日は、体育館に1日中すし詰めだった。著名な人の講演を聴き、各クラスの演劇や合唱を延々と鑑賞した。正直、退屈した。
    2日目の土曜日は、一般に公開され、周辺住民や他校の生徒が訪れた。各クラスでお化け屋敷や喫茶店をしたり、各部活が中庭で模擬店を開いたり、体育館で演劇部や吹奏楽部が演奏して、校内は派手な音と色とりどりの看板で溢れかえった。生徒たちが競い合って呼び込みをして、昨日とは打って変わり校内いっぱいに活気が満ちていた。美術部も中庭に模擬店を出し、体育館の隣の講堂では、写真部と共同で作品の展示を行った。
    「じゃ、店を頼んだよ。」
    「はいよ。まかせとけ。」
    中村が景気よく答えた。
    私は、模擬店の店番を終え、展示の受付となるため講堂に向かった。講堂の受付の席に行くと、当番のはずの生徒はおらず、池内が座っていた。
    「吉田は来てない?」
    「代わってもらいました。」
    「そう。」
    何気ないふりをして、横に座った。
    受付といっても、来場者に目録を渡し、作品に手を触れないよう監視するだけだ。手持無沙汰になりながらも、視線を合わせず、口をつぐんだ。池内から、何度か投げかけられる視線には、気づかないふりをし続けた。
    沈黙が続いた。
    池内が膝の上で手を握りしめ、何か言いたげに唇を噛む気配がした。
    「青柳先輩。」
    「うん。」
    「もう、気付いていると思いますけど、わたし、真剣なんです。」
    「悪いけど・・・。」
    「お願いです。最後まで聞いてください。新入生歓迎会で、部活の紹介のとき、青柳先輩がステージで堂々と美術部の紹介されてるのを見て、すごく気になりました。入部の申し込みに行ったとき、『よく来てくれたね』って、わたしに笑顔で言ってくれました。その時の先輩の笑顔がすごく素敵で、わたし、青柳先輩を好きになったんです。」
    「・・・うれしいよ。ありがとう。冷たい態度をとって、悪かったね。でも、俺にも、真剣に好きな人がいるんだ。」
    「あの絵のモデルの人ですか?・・・きっと素敵な人なんでしょうね。」
    「うん。そうなんだ。」
    「わたし、もう行きます。」
    池内は涙声でそういうと席を立ち、出ていった。
    こういう風に、きちんと告白され、きちんと返事したのは初めてだった。こんなにも辛く、しかし、じんわりと心の底が温まるものなのだと知った。
    元々当番だった吉田が来た。
    「すみませんでした。池内さんに頼まれて・・・。」
    「いいよ。分かってるから。」

    「青柳先輩いますか!?」
    美術部の一年生が講堂に飛び込んできた。
    「中村先輩に、大急ぎで青柳先輩を呼んで来いって言われて。」
    「吉田、悪いけど、ちょっと行ってくる。」

    中村が、模擬店の前で彼女とその友人らしき女子生徒をうまく引き止めていてくれた。
    「雨宮先輩。」
    彼女に後ろから声をかけた。彼女はビクッと肩を震わせて振り向いた。美術室で初めて会った時を思い出した。
    「展示を見に来てください。」
    「でも・・・。」
    「見てほしいんです!」
    私は、思わず彼女の手を取った。
    周囲の視線が一斉に私たちに注がれた。
    彼女の友人は小さく
    「えっ!」
    と小さく叫んだ。
    中村は
    「やるねえ。」
    ニヤリと言った。
    目の前で店番をしていた渡辺は、気色ばんで立ち上がり、
    「どういうことですか!?青柳先輩!」
    と騒いだ。
    彼女は真っ赤になりうつむいた。
    隣でフランクフルト屋をやっているラグビー部の連中が一斉にやんやとはやし立てた。
    「行きましょう。」
    私は彼女の手を握りしめ、講堂に向かって走り出した。
    すれ違う生徒たちが振り返って私たちを見たが、構わなかった。それらを振り切るように、加速した。しめき合う生徒達をかき分け、中庭の木々の間をすり抜け、渡り廊下を駆け抜けた。
    私の手にあらがって重かった彼女の手が、徐々に軽くなり、私の手を握り返した。
    講堂の入口の階段を駆け上がり、私の絵の前までたどり着いた。
    漸く彼女の手を放した。私も彼女も、肩で大きく息をしていた。
    「す、すみません。つい・・・。」
    彼女は顔を上げ、半ば諦めたように微笑んだ。そして、私の絵に向かって言った。
    「きれい。・・・わたしがこんなに綺麗に描かれてるなんて・・・。」
    私は、自分の鼓動を聞きながら、彼女へ伝える言葉を懸命に探した。
    「俺は、ずっと、絵の題材を探していました。どうしても描きたいと思えるほど、心惹かれるものを。そしてあの日、雨宮先輩に会えて、心からこの人を描きたいと思いました。それほど、雨宮先輩は、綺麗でした。だから、つまり・・・俺は・・・初めて会った時から、あなたのことを・・・好き・・だったのかも知れません。」
    思うように格好よく話せず、言葉に詰まってしまった自分が歯がゆかった。
    彼女は、耳まで紅く染まりながら、私の方へ振り返った。
    「よっ!ご両人!ほら写真部、写真撮ってやってよ。」
    いつの間にか中村がそこにいた。
    私達は照れながら並んで、写真に写った。その時、私は小声で彼女に言った。
    「今日、一緒に帰りましょう。」
    彼女は小さく頷いた。

    午後4時に閉幕となり、片付けに取りかかった。5時からは後夜祭で、フォークダンスをやることになっていた。講堂の展示品の搬出は週が明けてからでもいいので、中庭の模擬店の解体が優先であり、その指揮を執っていた。解体で出た廃材は、校庭中央に運び、それらを使ってやぐらを組んでいった。
    そこへ、雨宮先輩の友人が来て、硬い表情で私に告げた。
    「祥子が、倒れたの。いま、保健室に居て、君に会いたいって。」

    保健室に入ると、彼女が一人、ベッドに寝ていた。
    「ちょっと、ふらついちゃっただけなんだけど、大げさなことになっちゃって・・・。」
    彼女は上体を起こし、苦笑いしながら言った。
    「そうなんですか、良かった。」
    私はホッと胸をなで下ろし、ベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろした。
    「養護の先生は?」
    「フォークダンスの救護の方に行っちゃったわ。」
    「一緒に帰る約束だったのに、ごめんなさい。できなくなってしまったわ。家に連絡が行ってしまって、6時に父が迎えに来るの。」
    彼女が声を落として言った。
    「そうですか。仕方ないですね・・・。」

    保健室の灯りを点けそびれたままに、静かに夕暮れが訪れた。校庭では、煌々と照明がつけられ、校庭中央に組まれた廃材のやぐらに点火されて炎が上がった。生徒の歓声が響き、フォークダンスの音楽が流れ始めた。カーテン越しに、その明かりと音が入ってきた。
    「青柳君までフォークダンスに参加できなくなってしまったわね。」
    「いいんです。雨宮先輩と、こうして一緒に居られるだったら。」
    彼女は、はにかんだ。
    「あの。」
    「はい。」
    「わたし、ひどい態度をとって、ごめんなさい。夏休み最後の日にあんなことをしてしまって、恥ずかしかったし、・・・私が一方的に想っているんだと・・・。」
    「いえ、俺が悪いんです。」
    膝の上で手を握りしめ、精一杯の言葉を振り絞った。
    「俺から先に、ちゃんと言わなきゃいけなかったんです。」
    彼女は、顔を上げて私を見つめた。
    「もう一度、言わせてください。雨・・・祥子さん、あなたが好きです。初めて会った時から。」
    「わたしも、好きよ。・・・聖二君。」
    宵闇が忍び寄る保健室の中で、彼女の右手にそっと触れた。彼女の指先はひんやりと冷たかった。白いシーツの上で彼女の右手に私の左手を重ね合わせ、体温を通わせ合った。

    私は、彼女へ伝えたかったことを思い出した。
    「祥子さん、高文祭は、知ってますか?」
    「うん、知ってるわよ。」
    「高文祭に、あの絵を出品させてもらえることになしました。」
    「すごいわ!あの絵が、全国から集まった絵と一緒に展示されるのね。やっぱり聖二君には才能があるのね。」
    彼女は、顔を輝かせた。
    「モデルが良かったんですよ。もう、あれほど絵に没頭できることは、ないかもしれません。」
    「そんなこと言わないで。聖二君の世界は、これからどんどん広がっていくのよ。素敵なものにいっぱい出会えるわ。」
    彼女の目に、強い光が灯っていた。
    「これからも、描きつづけて。」
    「はい。」
    私は彼女を見つめ返した。
    「祥子さん、これから受験勉強、大変でしょうけれど、時々は、俺と一緒に帰ってもらえますか?」
    「うん。うれしいわ。」
    言葉とは裏腹に、彼女は悲しそうな表情を浮かべた。
    「・・・迷惑ですか?」
    「そんなことないわ。」
    彼女は頭を横に振り、笑顔になったが、私には泣いているように見えた。私は胸に、漠とした不安が霧のように漂った。
    思いがそのまま口からこぼれた。
    「祥子さん、俺の手の届かない所へ行かないでくださいね。」
    「どうしたの?藪から棒に。私はどこにも行かないわ。」
    「・・・そうですね。俺、おかしいですね。」
    「おかしいわ、聖二君。」
    彼女は、ふふっと笑った。

    やがて夜の帳が下りた。
    校庭からコロブチカが流れていた。
    校庭の照明とやぐらの炎の光が、カーテン越しに保健室の中を照らし、室内のあらゆる金属製の備品が反射して、濃い影を作り出していた。
    「もうすぐ、6時ですね。」
    「・・・そうね。」
    彼女の肩を抱き寄せ、そっと唇を重ねた。熱い血潮が頭からつま先まで駆け廻り、このまま、連れ去ってしまいたい衝動にかられた。それは許されないことだと十分に分かっていた。彼女は何も言わずに、そっと私の背中に手を伸ばしてくれた。

    放送部が文化祭の終了を告げた。
    「これをもちまして、青峰祭を終了いたします。先生方のご尽力、生徒のみなさんの団結力が実を結び、青峰祭を成功させることができました。生徒のみなさんは、この後繁華街に繰り出さずに、粛々と家路について・・・。」
    その頃、私は裏門で、彼女を乗せた白いライトバンに最敬礼した。彼女は助手席で微笑み、
    「またね。」
    と手を振った。
    「はい。」
    私も手を振り返した。
    その夜、体を駆け巡った血潮がなかなか引かず、彼女の肩の細さ、唇の柔さが蘇っては何度も寝返りを繰り返し、なかなか寝付くことができなかった。

    11月初旬、あの絵を高文祭に出品した。そして、1週間ほど後に、私の絵が入賞したと連絡が入った。上位ではなかったが、好きになった人を、全力で描き上げた絵が評価されたことは、大きな喜びだった。真っ先に彼女に伝え、この喜びを分かち合いたいと思った。
    しかし、文化祭の後、彼女に一度も会えず、保健室で交わした約束も実現できずにいた。あの時の彼女の泣きそうな笑顔を思い出し、不安が霧のように胸に湧き上がった。

    彼女がいるかと合唱部の部活を覗いてみたが、ピアノの伴奏は別の人がやっていた。3年生だから引退したのだろうと思った。
    勇気を出して、昼休みに3年2組へ行った。教室前の廊下をウロウロしていると、遠慮のない視線が突き刺さった。
    「青柳君だよね?祥子に会いに来たの?」
    彼女の友人が声をかけてくれた。
    「はい。そうです。雨宮先輩はいますか?」
    「それが、文化祭終わってからずっと休んでるのよ。」
    私は息もつかずに聞いた。
    「何故ですか?風邪ですか?」
    彼女はため息をついて答えた。
    「2,3日前に電話してきて、『しばらく学校来られない』って。それしか、わたしも分からないのよ。かなり前から、休むこと多かったし。」
    「・・・そうですか。」
    背中に大きな気配を感じた。
    「おい、2年。」
    振り返ると大柄な男子生徒だった。
    「何の用だ。文化祭のときは派手なマネしやがって。お前、雨宮の何なんだよ?」
    上から睨みつけてきた。
    「あなたに言う義務はありません。」
    負けじと睨み返した。
    「なんだと?」
    グイッと胸倉を掴まれた。
    「彼女と付き合っているんだ!」
    男子生徒は腹の底から嘲笑した。
    「そんなのお前の勘違いだ。片思いだよ!」
    私は胸倉を掴む手を振りほどこうと、もがきながら叫んだ。
    「そんなことはない!」
    「飯野君、もうやめて。きっと、青柳君の言う通りよ。」
    「ふん!どうだか!」
    ドンと突き飛ばされ、廊下の反対側の壁に背中を打ちつけた。

    痛みを堪えながら教室に戻ると、写真部員が
    「はい、文化祭の。」
    と言って、封筒を手渡してきた。
    中を見ると、講堂で彼女と並んで撮られた写真が2枚入っていた。
    「ありがとう。」
    急いで鞄にしまった。

    学校から帰ると、2階の自分の部屋に駆け上がった。西日の差しこむ部屋の中で、ドサッと鞄を下ろし、写真を取り出して抱きしめた。あの日の二人の、唯一の証に思えた。

    彼女に会いたい気持ちと不安は、日に日に増していった。
    学校からの帰り道、ふと気づくと彼女の家の前に来てしまった。自分でもどうしたいのか分からなかったが、何か彼女について分かるかもしれないという期待で、玄関の前から離れることができなかった。
    いっそ、チャイムを鳴らしてみようかという考えが湧いては、家人に会う緊張がそれを拒んだ。そうした逡巡を繰り返していると、不意に玄関のドアが開いた。出てきたのは彼女の母親だった。
    「あら・・・青柳君。」
    「と、突然お伺いしてすみません。祥子さんが学校を長く休まれていると聞いて、どうしているのか、気になって、来てしまいました。」
    彼女の母親は、私から目を逸らして言った。
    「事情は言えないんですけど、祥子は今、遠い親戚のところへ行っていまして、うちにはいないんです。せっかく来ていただいたのに、ごめんなさいね。」
    「・・・そうですか。・・・そうだ、これを祥子さんに渡していただけないでしょうか。」
    文化祭のときの写真が一枚入った封筒を渡した。
    「あと、祥子さんを描いた絵が、コンクールで入賞しました。祥子さんのおかげです。感謝してますと、お伝えください。」
    「まあ・・・、きっと、あの子喜ぶわ。ありがとうございます。」
    彼女の母親は眉を寄せ、涙ぐんだ。
    「では、失礼します。」
    くるりと背を向け、ガチャンと自転車のスタンドを跳ね上げた。自転車をぐんぐん加速させながら、濃さを増した不安を振り払おうとした。

    それからも彼女の音沙汰は無く、私はいつの間にか、女子生徒の中に彼女の姿を探す癖がついてしまった。背丈や髪型が似ている生徒を見つけると駆け寄り、正面に回り込んで確認せずにはいられなかった。その度に、女子生徒に怪訝そうな目で見られ、落胆した。

    秋は深まり、季節は冬へと移り変わったが、クリスマスも正月も呆然と過ごした。

    2月の休日、雲が厚く低く空を覆い、午後になっても寒さが厳しかった。私はベッドの上で本を広げていたが、内容など少しも頭に入ってこなかった。
    電話が鳴った。
    家族の誰かが取るだろうと、ぼんやりベルを聞いていたが、誰も取る気配がないので仕方なく起き上がり、受話器を上げた。
    「はい、青柳です。」
    「・・・」
    受話器の向こうで息を吸う気配がした。
    「雨宮先輩ですか?!」
    「・・・青柳君。」
    「どうしてたんですか?今、どこにいるんですか?」
    「ごめんなさい。でも、どうしても声が聴きたくて。」
    「ずっと探してました。」
    「本当に、ごめんなさい。」
    「謝らないで。今どこにいるんですか?」
    「言えないの・・・」
    そのとき彼女の声の向こうから聞こえた。
    (内科の○○先生、内線〇番をお取りください)
    「病院?中央病院にいるんですか?」
    「だめ、会えない。」
    「会いたいんだ!」
    「だめ。」
    すすり泣く声がした。
    「・・・会いたいよ。」
    「待ってて!すぐ行くから。部屋は?」
    「403号室」
    受話器を置くと、急いで自転車にまたがり中央病院へ飛ばした。

    駐輪場に自転車を乱暴に止め、病院のエントランスに駆け込んだ。
    「走らないでください!」
    叱りつけてきた看護婦を捕まえ、病室の位置を聞いた。
    病室の番号を告げると、看護婦は態度を和らげた。
    「急いでいいけれど、静かにね。」

    403号室のドアの前で呼吸を整えて、ノックした。
    「青柳です。」
    彼女の母親がドアを開けた。
    「青柳君、ちょっと・・・」
    母親は後ろ手にドアを閉め、声をひそめた。
    「来てくれてありがとう。あのね、落ち着いて聞いてね。祥子はずっと入院してたの。多発性骨髄腫で、もう全身にガンが広がってしまって、どうすることもできないのよ。祥子もわかっている。痛みもひどくて、明日モルヒネを打つと意識を失ってしまうから、あの子と会えるのは、これが最後と思って。」
    母親の目は、泣きつくして覚悟を決めていた。
    「わかりました。」
    病室に一歩入ると、彼女の母親は入らずにドアを閉めた。
    小さな個室だった。彼女はパジャマ姿でベッドの上で座っていた。高熱のせいか、目が潤み、頬は赤く、肩で大きく息をしている。夏よりずっと細くなった体から、彼女の母親が言ったことが本当のことなのだと思い知らされた。私はベッドの横のパイプ椅子に腰かけた。
    彼女はまっすぐに私を見て、懸命に笑顔を作ろうとしたが目に涙が溜まり、上手くできなかった。きっと、わたしも同じ表情だっただろう。
    どのくらいの時間、そうやって見つめあっていただろうか。
    「なんだか、保健室の時みたいね。」
    彼女の声はかすれていた。
    「写真、ありがとう。・・・絵が入賞したんですって?おめでとう。」
    「ありがとうございます。祥子さんが俺にあの絵を描かせてくれたんです。」
    「嬉しい。・・・青柳君に会えて、本当に良かった。」
    「俺も、祥子さんに会えて良かった。」
    彼女は一呼吸置いた。
    「本当は、初めて会った日、死のうと思ってたの。」
    「そんな・・・。」
    「病名を知って、絶望して。でも、あなたに会えたから、すごく楽しかったから、もっと生きたいと思えた・・・自分の境遇を嘆くより、今を精いっぱい生きようって・・・。」
    彼女の感情が咳を切ったように溢れ出た。
    「死にたくない、もっと生きたいよ!」
    肩を揺らして嗚咽した。
    「青柳君ともっと一緒にいたい。」
    私は思わず彼女の肩を抱きしめた。
    「だめ・・・、髪も洗ってないし・・・。」
    「かまわない。」
    抱く手に力を込めた。
    「好きだ。」
    「好きよ。」
    「祥子さんは、死なない。ずっと、俺の心の中にいるから・・・」
    「ああ、嬉しい・・・」
    急に彼女の体から力が抜けた。
    「・・・祥子さん?」
    目を開けない。
    「すみません!誰か!祥子さんが・・・」
    部屋に駆け込んでくる彼女の母親、看護婦、医師、すべてがスローモーションに見えた。
    どうやって家まで帰ったのか、記憶にない。ただ、腕の中の彼女の温もりを何度も何度も思い返した。

    彼女の死を告げる電話があった日は、朝からから季節外れの粉雪が舞っていた。粉雪はやがて牡丹雪に変わり、夜中までしんしんと降り積もった。
    春の夜に、音のない暗闇が広がった。

    *

    「青柳先生、また、あの絵の前で呆けてる。」
    「もうすぐ昼休み終わっちゃいますよ。」
    女子生徒のグループに話しかけられ、我に返った。
    「ああ、そうだね。」
    「『昭和56年度卒業生 青柳聖二 寄贈』・・・この絵って先生が描いたんですか?先生って、うちの学校の卒業生?」
    「ああ、そうだよ。」
    「この絵の女の人、後ろ向いてるけど、どんな顔?可愛い?」
    「青柳先生とは、どういう関係なんですか?」
    「君たちの想像に任せるよ。」
    「えー!?それって、やっぱり・・・。」
    「さあ、授業が始まるぞ。教室へ急げよ。」
    「はあーい。」
    爽やかな風が吹き抜けた。また夏が巡ってくる。もう、女子生徒の中に彼女の面影を探すことはない。
    今も美術室の窓辺には、彼女の座っていた丸椅子が置いてある。

    #創作大賞2026   #恋愛小説部門

     
     
    オリジナル小説書いてます。 小説「永遠の後ろ姿」(完結済み)1980年の山梨を舞台に高校生の青春のまばゆい光と影を描く。

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