ダンバートン60年
ダンバートン60年
夕陽ヶ丘の外れ。
午前0時のカウンターバー。
バーになる前は、和風の居酒屋だったのかもしれない。隅のトイレの前には、今も竹の袖垣が残っている。
こんな小さな店で商売を続けるのは難しいのだろう。
流行ってはいない。それでも損得を気にしなければ、なんとか食べてはいける。
七十近いマスターが洗い物を済ませ、閉店の準備をしていた。もう客はいない。
愚痴を聞くのが仕事とはいえ、聞けばやはり感情移入してしまう。客の戯言だと割り切れるほど、まだ人間が乾いてはいない。
だが、今日のことを明日に引きずることもない。
洗い物と一緒に忘れるだけだ。
グラスを磨いて棚に納める。
きれいに並べ終えれば、今日も終わる。
良い一日でも、悪い一日でもなかった。
その時、ドアが開いた。
「まだ、いいかな」
グレーのコートを着た男が立っていた。
「どうぞ、お掛けください」
閉店まで、あと一時間。
断るのも気の毒だった。
男はコートを脱ぎ、隣の椅子に丸めて置いた。
「ジャックダニエルのロック。つまみは、サラミでもあれば嬉しいんだが」
「ありますよ」
マスターはグラスを出し、氷を入れ、酒を注いだ。それからサラミを薄く切って皿に並べた。
「どこかで飲んでいらしたんですか」
「分かるかい。実は追い出されてさ。行き場に困ってたんだ」
「追い出された?」
言った瞬間、余計なことを聞いたかなと思った。
しかし男は、嫌な顔もせずに答えた。
「隣に座った女の子が可愛かったもんで、ちょいと尻を撫でただけなんだけどな」
「そりゃ、追い出されますよ」
「女の子が『やめてよ、スケベ爺い』なんて大声を出しやがってさ。ママに放り出された」
「ウチには女の子はいませんから、安心して飲んでください」
「嬉しいね。歓迎されると俺は居座るタチだぜ。構わないかい」
マスターは、あと一時間で閉店ですとは言えなくなった。
――しょうがない。少し付き合ってやるか。
「サラミ、どうぞ」
男は一枚つまみ、口へ運んだ。
「これ、山形豚の黒胡椒サラミじゃないの、これサラミじゃ高級品だぜ」
「よく分かりましたね。ウイスキーには、これが一番ですよ」
男は嬉しそうにうなずいた。そして何気なく棚を眺め、最上段の一本に目を止めた。
「マスター、あれ……ダンバートンか」
「お客さん、よくご存じで。しかも六十年です」
「あるところには、あるもんだねえ」
「店を始めた時から置いてあるんですが、まだ誰も注文したことがないんですよ」
「よし、俺も変える」
「何をです?」
「酒だよ。ダンバートンをくれ。磨かれたオークの香りが欲しくなった」
「正直、値が張りますよ」
「構わねえ。たまには本物を飲まなきゃ、ウイスキーの神様に申し訳ない」
「嬉しいなあ。お客さんが最初ですよ」
マスターは棚から慎重にボトルを下ろした。封を切り、グラスに注いで男の前へ置く。
男は香りも確かめず、一気に飲み干した。
「グハーッ。いける」
そしてサラミをつまむ。
マスターも思わず笑った。
「いけますか」
「いける、いける。もう一杯」
男は続けて空けた。
こんな上客に巡り会えるとは。
マスターは嬉しさで言葉を失った。
「それ、効きますよ」
そう言うのが精いっぱいだった。
男は心の中で呟いた。
――俺が妖怪「酔い知らず」だなんて、この親父には言いづらくなったな。
それより、もっと言いづらいことがある。
男は一文無しだった。
――さあて、どうする。
マスターの笑顔は止まらない。
男はしばらく考え、腹を決めた。
――ええい、面倒だ。どうせ払えねえんだ。この店の酒、全部飲み干してやれ。親父、悪く思うなよ。
妖怪「酔い知らず」は、空になったグラスを差し出した。
「はい、喜んで」
棚の酒が一本、また一本と空になっていく。
マスターは、こんな上客は見たことがないと夢見心地だった。
いつの間にか、ドアの向こうから夕陽ヶ丘の気配が消えていた。
それでもマスターの笑顔は止まらない。
夕陽ヶ丘の場末のバーは、妖怪「酔い知らず」を乗せたまま、店ごとゆっくり夜の深淵へ落ちていった。
by Konoe73
