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不便で愛おしい 子育ちの原風景


    家の鍵を締めたことがなかった。そもそも、生まれ育った家には鍵がなかった。
    築100年以上のかやぶき屋根の家。
    それが私の生家だった。


    朝6時。
    パジャマのまま起きていくと、縁側から声がする。
     「あ、おはよう!」
     「今起ぎだの?遅いごど〜!」
    隣近所のおじさんやおばさんだ。



    一仕事終えた誰かが、日替わりで縁側に座ってお茶を飲んでいる。まるで自分の家かのように。
    鍵がないため誰でも出入り自由。
    いつもの日常光景だった。



    そう。
    私のふるさとは、「ど」がいくつも付くほどの田舎だった。



    買い物は移動販売車だけ。
    最寄りの無人駅までは車で30分。
    水は井戸水、トイレは外で汲み取り式。
    文字通り、「不便」を絵に描いたような環境の中で育った。



    目の前には一面に田んぼがあり、夏には見渡す限りの緑が続く。
    わずか15軒ほどの小さな集落で、ほとんどの家が田んぼを作っていた。


    毎年春になると一斉に田んぼ仕事が始まる。
    物心ついた頃から種植えなどを手伝わされた。


    家族だけで手が足りない部分は、ご近所さん同士で助け合う。
    まだ非力な私が途中で「戦力外通告」を受けると、今度はみんなのお昼ご飯を作る任務が待っていた。
      「パン持ってきたのに〜」
      「何もいらないのに〜」
    と、お決まりのやり取りをした後、みんなで一緒にお昼ご飯を食べる。


    境界線が曖昧で、半分身内のようだった。法事なども自分事のように手伝い合った。


    小学5年生頃から、学校から帰宅すると無性にお腹がすくようになってきた。
    農作業中で家には誰もいない。
    弟たちも「お腹すいたー!」と口々に訴える。
    「ないなら作るしかない」と、晩ご飯支度もするようになった。



    昔ながらの生活では、手伝うことが山ほどあった。



    お風呂は薪を燃やして沸かす。
    裏山の木から自分たちで薪を作った。


    鶏と牛のお世話もあった。
    牛は、隙を見ては昼夜構わず脱走した。
    「ドドドド…」と、家を壊しそうなほどの地響きを立てながら、家の回りをぐるぐると走り回った。
    いつ突っ込んでくるのかと、生きた心地がしなかった。



    家そのものも怖かった。
    日が当たらない納戸は常に薄暗く、まるで暗い闇の世界へと続くトンネルがあるようだった。
    別の部屋には、着物姿のご先祖様たちの絵がずらりと並んでいる。しかも、真顔で白黒。
    部屋に入ると、どこにいてもご先祖様たちと目が合う。
    いつも震え上がり、逃げるようにその部屋を飛び出していた。



    ゴールデンウイークは、毎年田植えと決まっていた。搾乳の仕事もあるため、どこかへ連れて行ってもらったことは一度もない。
    近場へのお出かけですら、夢のまた夢だった。



    休みになるたびに、家族で遊びに行く友達が、羨ましくて仕方なかった。
    私には、決して訪れない時間。
    友達が話す見知らぬ場所は、まるで別世界のように、いつもキラキラと輝いていた。



    中学になった頃から、不便な暮らしへの嫌悪には拍車がかかった。

    薄暗い家。

    夜になると謎の生き物たちが、われよわれよと大合唱を始める裏山。

    暗闇の中、懐中電灯でたどり着く外トイレ。


    その全てが底知れぬ恐怖感を帯び、どんどん田舎に対して否定的になっていった。



    加えて、お手伝いのために自分の好きなことが後回しになる現実。
    爪に入ってきては、洗っても洗っても落ちない泥。
    そして、決定打となる、まとわりつく田舎の匂い──



    どれをとっても、思春期真っ盛りの子が、田舎に嫌悪感を抱くには十分すぎる理由だった。
    対照的に都会への憧ればかりが膨らんでいった。


    「早く、ここから逃げ出したい」


    結婚して家を出た時、その念願はやっと叶った。


    街中にある2LDKの小さな部屋で、都会的で綺麗、便利で効率的な生活が始まった。私は憧れの暮らしをようやく手に入れたのだ。



    やがて、子どもが産まれた。



    夫の休みには、家族で出かけた。行き先は、キャンプ、川遊び、広々とした山中の公園など。
    自然な所が多かった。


    ある時、手にした育児書にこんな言葉があった。


    『子育てとは、自分の人生をもう一度生きること』


    子どもの目を通して見た世界。
    そこに、自分自身の子ども時代を重ねて見ている───



    キャンプをすれば、あの不便だった日々と重なる。

    川に入れば、昔、夢中でザリガニを捕まえたあの夏を思い出す。

    子どもと一緒に自然体験をするたびに、記憶の奥に埋もれていた「あの頃の何者でもなかった私」が、ひょっこりと顔を出した。

    ずっと眠っていた小さな自分と、また出会えたような感覚だった。



    そして、気付いた。


    あの頃、あれほど逃げ出したかった田舎の暮らし。親になった今、それこそが「子どもに一番体験させたい暮らし」だったのだと。



    大人は忙しく、手伝いにしても細かなことは教えてはくれなかった。
    失敗しながら、自分で考え工夫していくしかなかった。
    その環境が、自律や自立につながっていた。


    子ども同士の遊びに、大人が介入してくることは一切なかった。
     「もうご飯だよー!」
    その声が遠くから聞こえるまで、自然を味方につけ、自分たちで作ったルールの中で、それぞれが自分の責任で暗くなるまで遊んだ。


    洪水で米が不作だった年もあった。
    牛の死産もあった。
    どんなに頑張っても、人間の力だけでは抗えない現実が、あの場所にはたくさんあった。
    良いも悪いもなく、ただ事実として受け入れる。
    「当たり前のことなど何もない」ということを、私はあのふるさとの自然から教わった。



    いつでも、ふるさとの光景がありありと目に浮かぶ。


    一面に続く青々とした田んぼ。

    優しく流れる川の音。

    動物や虫たちの声。

    柿の木のごつごつとした手触り。

    口いっぱいに広がる桑の実の甘酸っぱさ。

    あの頃は嫌だった、田舎の匂い。



    あの場所で、五感の全てを使い、大地に溶け込むようにして生きていた。自分も大自然の一部に過ぎず、いつしか土に還る存在なのだということも肌で感じていた。
    「生かされていた」の方が正しいのかもしれない。




    あの暮らしには物が少なかった。けれど、目には見えない豊かさが確かにあった。

    人と人とが生きていくうえで本当に大切なことを、私はあの不便な生活の中から学んでいた。
    それは、学校の勉強でも、どんなにお金があっても、とうてい手に入らない「私の土台」として、今の私を支えてくれている。



    そして、親としての目線に立った時に、もう一つ思うことがある。
    子どもは、環境さえあれば、自分で遊び、自分で考え、その子らしく育っていく力を持っているということだ。
    最低限の手と目さえかければ、子どもは自分自身で育つ。
    私はそのことを、あの不便な暮らしを通して身を持って教わったのではないだろうか。



    私の原風景の地は、帰るたびに温かく出迎えてくれる。
    かやぶき屋根のあの家は、今はもうない。
    けれど、あの場所の景色も、匂いも、人のぬくもりも、私の中ではずっと生き続けていく。






     
     
    HSP(INFJ-T)50代、2児の母。  🍀書きたいこと🍀 暗黒期のワンオペ育児→子育てが楽しくなった過程 持病の化学物質過敏症の無料相談窓口からの気づき など 不登校の子、どんな人でも気軽に行ける居場所を作りたい🌈 保護猫ボランティア🐱 本ドラマ音楽好き/独り時間必須⚠️

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