最終話 同じ火曜日を、何度も選び直していた
通話ボタンに触れた瞬間、音が消えた。
呼び出し音は鳴らない。振動もない。
それなのに、繋がっている感じだけが残っている。
恒一は耳に当てなかった。画面を見たまま、動かない。
表示は「通話中」。
相手の名前は「紗季」。
……のはずだ。
どこかが、違う。
「ねえ」
声が聞こえる。
スマホからじゃない。
背後だ。
でも振り返れなかった。
「それ、最後だよ」
声は落ち着いている。いつもの紗季の声のはずなのに、少しだけ遠い。
恒一はやっと口を開く。
「これで終わるのか」
返事はない。
代わりに、視界の端で数字が動く。
残り、三回。
そして。
残り、二回。
減っていく。
「終わるんじゃないよ」
背後の声が言う。
「残るの」
恒一は一度、息を止めた。
火曜日。
あの日。
電話が鳴った。
病院の番号。
その瞬間だけ、やけに鮮明に思い出せる。
立ち上がった。
でもその前、自分は何を見ていた?
スマホを見ていた気はする。
ただ、それ以上は曖昧だった。
「全部、あったよ」
背後の紗季が言う。
「出た火曜日も、出なかった火曜日も」
恒一はすぐには返せなかった。
喉の奥に、言葉が引っかかる。
「じゃあ今は」
小さく出た声だった。
「どれを残すか」
即答だった。
迷いはない。
……はずなのに、指は少し震えていた。
「覚えるか、消すか」
背後の声が言う。
恒一は画面を見る。
病院の番号が、ぼやけて浮いている。
本当にそんな番号だったのか、自信がない。
その瞬間。
右上の数字が変わる。
残り、一回。
息が浅くなる。
恒一は通話終了ボタンに指を置いた。
押せば終わる。
たぶん、全部終わる。
火曜日も。
あの着信も。
立ち上がった理由も。
それでも残るものはあるのか。
分からない。
ただ、このまま持ち続ける方が、もっと怖かった。
指が動いた。
通話終了。
画面が暗くなる。
音が戻る。
時計の秒針。
遠くの車の音。
現実が一気に戻ってくる。
少しだけ、息が詰まった。
恒一は目を開ける。
右上の数字は消えている。
代わりに通話履歴が残っていた。
病院。
そこにだけ、名前があった。
本当かどうかは分からない。
恒一は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
背後を振り返る。
誰もいない。
……いや。
一瞬だけ、何かがいた気がした。
気のせいかもしれない。
スマホを置く。
メッセージは来ない。
既読もない。
ただ静かだった。
恒一は小さく息を吐いた。
画面を閉じる。
火曜日は終わった。
いや、本当に終わったのかは分からない。
ただ、もう選び直せないということだけは分かる。
立ち上がる。
ドアに手をかける。
少しだけ、ためらう。
そのまま開けた。
外の光は、いつも通りだった。
何も変わらないはずの景色。
なのに、どこか少しだけ違って見えた。
恒一は一歩踏み出す。
その違和感の正体を、まだ知らないまま。
解説
この物語は、「何が起きたか」を説明するためのものではなく、
「何を選び、何が残るか」を描いた物語です。
火曜日はひとつではなく、
選択によって分岐していく可能性として存在していました。
ただしその分岐は、世界そのものが変わるというより、
残る記憶や認識の形が変わっていくものとして描かれています。
紗季という存在もまた、外側からの出来事というより、
恒一の内側に生まれた“問い”の形として現れています。
どれが現実だったのかは、この物語では重要ではありません。
重要なのは、その中から何を選び取ったかです。
この物語の終わりは、ひとつの結末ではなく、
選択の積み重ねによってたどり着いた状態にすぎません。