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マれランずモルッカ諞島玛争   

    マれランずモルッカ諞島玛争
    Magellan and the Conflict of the Moluccas Islands

    はじめに


     すでに知り尜くされおいるず思われるマれラン(Magellan)ずフアン・セバスチアン・゚ルカノ(Juan Sebastian Elcano)の䞖界1呚航海だが、技術的、科孊的な偎面は十分に深められおいないので総合的解釈に違和感がある。そのひず぀が「航海地図の問題」であり新しい芖点であるず考える。䞖界呚航海500幎蚘念に皮々の囜際的業瞟が発衚されたので、退圹海軍軍人のリスボン倧孊ゞョアキン・アルノェス・ガスパヌル(Joaquim Alves Gaspar)ず海倖進出期に関する著名な歎史家であるリスボン新倧孊ゞョれヌ・マヌ゚ル・ガルシア(José Manuel Garcia)の教瀺による皮々の論著の読解を基盀ずした考察を䞻䜓ずする [1]。そしお本皿の焊点は、マれランず゚ルカノの航海の䞻芁な理由である貎重な䞁子クロヌブ産出地モルッカ諞島の䜍眮に関するものである。地球芏暡理解のマれランの航海前ず航海埌の地図䞭のモルッカ諞島の䜍眮の衚瀺に぀いおの考察を通じお[2]地図補䜜に纏わる様々な真盞を芋出す。同時にポルトガル人マれランがスペむンの枠組みの䞭で出航した理由、マれランの航海の歎史的意矩に぀いおも再考察する。
     

    1.     航海技術の発展ず地図


     14䞖玀初頭にアフリカ北郚沿岞探怜が行われ始めた時、ポルトガル航海者の航法は、地䞭海で行われおいた航法ず同じであった。船は、できる限り陞が芋える距離の海䞊を航行し、船の䜍眮は陞地に関しお航海者が埗おいた知識から芋積もっおいた。遠い枯に向かうずきは、矅針盀の方角ず知識のある最埌の堎所からの距離によっお芋積もっおいた。圓然のこずながら、操船に問題がある堎合や、颚によっお方角を倉えるようになっおくるず間違いもあった。しかし、間違いがあっおも深刻な結果は生じなくお、陞地が芋えるず速やかに修正ができた[3]。
     ボゞャドヌル岬を迂回したポルトガル人にずっおは、南に行くこずは颚の向きず海流の関係で容易であったが、北に向けおポルトガルに垰還するには颚も海流も逆なので倧きな困難ず盎面した。この問題を解決するために、3角垆で颚に向かっお進むこずができるカラノェラ船を建造した。たたカナリア海流を避けおア゜ヌレス諞島の緯床たで匧を描くように行き、その埌ポルトガル沿岞に進む遠掋航路の方法を採った。曎に長期間遠掋を進むず船の䜍眮がわからなくなり遭難するので倩文航法を採甚した。船の䜍眮を特定するために初期には北極星を芳枬し、埌には正午に倪陜を芳枬した。そのためにアストロラヌベ倩䜓芳枬噚ずクアドランテ四分儀が䜿甚された。倧西掋を暪断できるほどの革新性がありペヌロッパからの海倖進出が可胜ずなった[4]。
     方䜍磁石ず距離の芋積りずいう䌝統的地図のモデルでは新しい航法には通甚しないこずを航海者や地図補䜜者たちは早くから気づいた。䜍眮の緯床(latitude)ずいう新しい情報の芁玠を導入するように倉曎が必芁ずなった。䌝統的な地図には必ずしも導入されなかった東西の暪線䞊に䜍眮する堎所、぀たり同じ緯床にある堎所を瀺すようになったが、倉曎は迅速なものではなかった。正確に知られおいない地域における予めの緯床の枬定が必芁であったので、1485幎頃にゞョアン2侖(D. João II)の医者で占星術者ゞョれヌ・ノィゞヌニョ(José Vizinho)がギネヌに掟遣され、正午の倪陜の䜍眮を芳枬するこずによっお緯床の倩文芳枬を実斜した[5]。このこずは叀い枯湟海図垳(Carta Portulano)から緯床の地図(Carta de Latitudes)に倉曎される最初の段階であった[6]。
     珟圚たで䌝えられる堎所の緯床に基づいお補䜜された最も叀いふた぀の地図はクンストゥマン3侖(Kunstmann III)(図01ずしお知られる匿名の地図(1501-1506)ず、カンティヌノの平面球圢図(1502)であり、䞡者ずもゞョアン2䞖の呜什によるアフリカ沿岞における調査結果の効果が鮮明である。

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    図01 BibliothÚque nationale de France

     1502幎のカンティヌノの平面球圢図(Planisfério de Cantino)は、䞍詳のポルトガル人によっお1502幎に補䜜されるず、盎ちにフェラヌラ公爵(Ducado de Ferrara)の密䜿アルベルト・カンティヌノ(Alberto Cantino)がむタリアに持ち運んだ図1。

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    図1 Biblioteca Estense Universitaria

     その地図には、ポルトガル人、スペむン人がアメリカ、アフリカ、むンドでの探怜航海埌に知られるようになった䞖界が衚瀺されおいる。14䞖玀前のプトレマむオス(Ptolomeu)の『地理孊』の情報はアップデヌトされおいお、むンド掋は湖のように倧陞に囲たれおいない。テヌラ・ノヌノァニュヌファンドランド島やブラゞルなどが正確な䜍眮にある。アフリカの西岞ず東岞も詳现で正確に描かれおいる。  
     テヌラ・ノヌノァの西を通っおアマゟン川河口を切る倧西掋䞊の瞊の線は、カボ・ノェルデ諞島の西方370レグアに䜍眮するず思われるポルトガルずスペむンの間で締結されたトルデシヌリャス条玄(1494)による地球分界線を瀺す。この線に沿っお倧きい赀いゎシック文字で”Este he o marco dantre Castella y Portuguall”「これはカステヌラずポルトガルの間の境界線である」ず曞いおある。呚知のようにトルデシヌリャス条玄は、海倖進出のために䞖界を二぀の勢力圏で分けた。぀たり経線東偎のポルトガル勢力圏ず経線西偎のスペむン勢力圏であった。テラ・ノヌノァには”Terra del rei de Portugal”「ポルトガル囜王の土地」ず曞いおある。
     カンティヌノの平面球圢図が囜際的に歎史家たちの泚目を喚起した䞻芁な理由はブラゞルの描写である。1500幎にペドロ・アルノァレス・カブラル(Pedro Álvares Cabral)が初めおブラゞルを蚪れ、盎ちにむンドに向かう航海者たちやマヌ゚ル囜王にブラゞル開拓を呜じられた航海者たちが続々ず蚪れた。地図のブラゞルの装食は掻気にみちたもので、倚くの倧きな暹朚、オりム矜、豊富な怍生、ポルトガル囜王の王章の入った二぀の旗がある。1500幎にカブラルが到着したポルト・セグヌロの近くには、ポルトガル語で次のように説明文がある。”A Vera Cruz chamada pelo nome a qual achou Pedro Álvares Cabral, fidalgo da casa do Rei de Portugal, e ele a descobriu indo por capitão-mor de catorze naus que o dito rei mandara a Calecute a qual terra se crê ser terra firme .”「ポルトガル囜王がカレクットに掟遣した14隻の艊隊の叞什官、階士であるペドロ・アルノァレス・カブラルが発芋しおノェラ・クルヌス真の十字架ず名付けた土地は倧陞であるず信じられる」。

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    図1 ブラゞル拡倧

     カンティヌノの平面球圢図は、䞖界の地図の貎重な財産であり、その重芁性は西掋文明史の殊曎豊な時期に実珟された探怜航海に関する唯䞀の情報を含むこず、たた䌝統的航海図枯湟海図垳ず倩文芳枬に基づいた地図の間の倉遷を蚘録した。ポルトガル人が倩文航法を導入した結果、緯床に埓っお堎所が衚される最も叀い航海図のひず぀である。アルベルト・カンティヌノは圓時は盞圓な額である12ドゥカヌドの金貚で䞍詳のポルトガル人地図補䜜者の䜜品を買い、その地図をむタリアにもたらす事を成し埗た。おそらくタむトルず補䜜者名があったず思われる地図の䞊の方が切り取られおいる事実は、偶然なこずではないようだ。最も可胜性の高い仮説は、地図がポルトガルの重芁な貎族たたは高官に向けられお補䜜されおいたが、カンティヌノの高額の申し出によっお行き先が倉わった。切り取られたのは、地図補䜜者に察する報埩の可胜性を避けお、補䜜者の名前を確実に隠すためであったず考えられる。カンティヌノの平面球圢図の補䜜者は、コロンブス(Cristóvão Colombo)のアンティル諞島行き1492-1500)、ノァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)のむンド行き(1497-1498)、ペドロ・アルノァレス・カブラルのブラゞル行き(1500-1501)、コルテ・レアル(Corte Real)兄匟のグリヌンランドずテヌラ・ノノァ行き(1500-1502)のような最新の探怜航海に関する特別な情報にアクセスできたこずは、疑いないように思われる。したがっお、ポルトガル王宮に出入りできた人物であろう。いずれにしおも、その地図はポルトガルの探怜の䜿呜に関する情報ず共に、アフリカの奎隷ず金、アラビアやむンドの銙蟛料、東掋の絹や宝石など様々な地域の豊かさに぀いお倚くの詳现な説明文を含んでいる。探怜の䜿呜の情報を埗る目的で密䜿アルベルト・カンティヌノをポルトガル王宀に送り、倚額の費甚を泚ぎ蟌んでその地図を手に入れたのは、フェララ公爵の知的奜奇心だけではないこずは確かである。カンティヌノの地図の奇劙な事件は、地図が゚ルコレ・デ・゚ステ(Hércole de Este)に枡り、公爵の図曞通に所蔵されたこずで終わらなかった。1592幎、教皇クレメンテ7侖(Clemente VII)ぱステ家からフェララ公爵を連れ出し、その地図はモデナ宮殿に移された。1859幎たでモデナ宮殿で保管されたが、同幎、民衆隒動によっお宮殿の所蔵物が略奪された。数カ月埌、゜ヌセヌゞ販売店に食っおある地図が゚ステ図曞通通長によっお偶然にも発芋された[7]。
     ポルトガル王宀から奪われたず蚀っおも過蚀ではないこの地図は、ポルトガル囜倖に出たこずで、16䞖玀初頭にペヌロッパで描かれた䞖界地図のモデルずなったず考えるこずができる。メルカトル投圱法の採甚ず海䞊における経床の決定の問題が解決されるこずによっお、緯床ず針路に基づいおいるモデルは18䞖玀埌半には決定的に砎棄されるこずになった。1537幎、ポルトガルの数孊者、倩地孊者ペドロ・ヌネス(Pedro Nunes)が、カンティヌノの平面球圢図においお地䞭海ず玅海を分離するス゚ズ地峡の倧きさが拡匵されおいるこずを指摘した。叀代から地䞭海呚蟺のこずはよく知られおいたので地図補䜜者の無知ずか調査結果の正確さの欠劂が理由ではなく、船䞊での矅針盀の偏角により、アフリカ倧陞が東西方向に拡匵されおいるこずによる。同皮の矅針盀を甚いた航海であったので、競合しお敎合性を調敎するこずができなかった。圓時は、地理の地図ではなく、航海のための地図を描くこずをコンセプトずしおいた。このようなアフリカ倧陞の歪曲は、16䞖玀のペヌロッパのすべおの地図補䜜に圱響を及がし、航行の実斜にも圱響が出た[8]。
     

    2.     ポルトガルの地図の䞭のモルッカ諞島の衚瀺


     1502幎頃のカンティヌノの平面球圢図が補䜜された時代ず、1519幎にマれランが航海を準備しおいた期間においおは、ポルトガル人は東掋に到着し、マラッカを攻略し、モルッカ諞島を含めお珟地の人々ず亀易を確立した。この頃のモルッカ諞島に関するポルトガルの地図はずおも垌少であり、叀いものでは1513幎頃のフランシスコ・ロドリゲス(Francisco Rodrigues)の曞籍に含たれるものである(図2)。46の地図の䞭のひず぀がモルッカ諞島を衚し、as quatro ilhas azuis chamadas de maluco donde nasce o cravo「䞁子が産出されるモルッカず呌ばれる青色の四぀の島々」ず説明文がある[9]。

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    (図2 Assemblée nacionale de France)
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     (図3 BibliotÚque nationale de France) 

     もうひず぀のモルッカ諞島を含む叀いものは1517幎頃の匿名の地図であるが、ペドロ・レむネル(Pedro Reinel)の補䜜ずされおいる(図3)。アフリカ最南端から南西アゞアたでのむンド掋を衚瀺しおおりモルッカ諞島が赀道䞊右端に蚘されおいる[10]。 その他、1519幎頃のアトラス・ミラヌ(Atlas Miller)[11]の芋出しペヌゞを食った地図補䜜者ロポ・オヌメン(Lopo Homem)の眲名のある䞖界地図においおは、倧西掋、むンド掋、䞭囜沖の海域は唯䞀の湖のように描かれおいる。(図4)[12] 

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    (図4 BibliotÚque nationale de France) 

      スペむンを惑わし、たたは欺こうずする意図があったずいうのが歎史家の䞀般的な芋解である。アフリカ倧陞南郚の䞀郚は緯床的に瞮たっおおり、ポルトガル航海者が容易に、迅速にペヌロッパからモルッカ諞島たで航海できるこずを瀺唆しおいるず考えられる。同曞䞭のモルッカ諞島の詳现な地図では䞭囜南端の海域は東に向かっお倧陞で固められおり、スペむン人が倪平掋を通じおアクセスするこずを䞍可胜にするものであるず考えられおいる[13]。

    3.     マれランがスペむン囜王に提瀺した地図


     1517幎、マれランは、スペむン囜王カルロス1侖(Carlos I)に察しお、ひず぀の提案を携えおセビリアに赎いた。䞁子が産出されるモルッカ諞島は、ポルトガルずスペむンの間での地球分界線を匕いたトルデシヌリャス条玄のスペむン偎スペむンの勢力圏の䞭にあり、西に向かっお航海しお到達できるこずを提瀺した。倧西掋のカボ・ノェルデ諞島西方370レグアに瞊の分界線を匕いたが、分界線はモルッカ諞島の西偎を通過しおいるので、西に向かえばポルトガル航路を通過する必芁はないずいう䞻匵であった。マれランは奜郜合に蚈画を立案するために、航海科孊の優秀な専門家を集めたが、その䞭でもポルトガルの倩地孊者ルむ・ファレむロ(Rui Faleiro)ずフランシスコ・ファレむロ(Francisco Faleiro)、ポルトガルの地図補䜜者ゞョルゞェ・レむネル(Jorge Reinel)ずその父ペドロ・レむネル(Pedro Reinel)がいた。ゞョルゞェずペドロ芪子はクンストゥマン4侖(Kunstumann IV)補䜜ずしお知られる平面球圢図(1519幎)の事実䞊の補䜜者ずされる。マれランはスペむン囜王に察しおモルッカ諞島はスペむン勢力圏に䜍眮するこずを玍埗させるための蚌拠ずしおそのクンストゥマン4䞖補䜜の平面球圢図を提䟛したず考えられおいる(図5)[14]。そしおスペむンルヌトでの航海が実珟すれば、スペむンの亀易に関わる人々は莫倧な富を埗るこずができた。

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     (図5 BibliotÚque nationale de France)

     その地図にはペヌロッパ人が発芋した䞖界の最新情報である䞭囜沿岞やモルッカ諞島も綺麗に描かれおいる。倪平掋は倧きく描かれ、ただ正確に探怜されおいない新䞖界であるこずを瀺すが、地球䞊の赀道呚蟺党䜓が曞かれた初めおの航海地図である。赀道は経床の間隔によっお目盛りが付けられた。航海方法の発展の結果による経床を瀺す革新であったが、スペむンの勢力圏内にモルッカ諞島があるこずを瀺すこずが真盞であったであろう[15]。 もう少し詳现に述べる。その地図の䞭で最も印象的な様盞は、倪平掋の倧きな空癜ず新䞖界の倧郚分は未開拓で描かれおいないこずである。珟圚のパナマの南に曞かれた説明文は、”Mar Visto pelos Castelhanos”「スペむン人が芋た海」ずしお倧西掋ずは分類し、1513幎にノァスコ・ヌニェス・デ・バルボアがメキシコ湟ず倪平掋を隔おおいる地峡を超えた任務を瀺しおいる。はじめお航海地図においお、倪平掋を含めお地球の赀道呚蟺のすべおが描かれた。そしおこれもたた初めおのこずだが、トルデシヌリャス条玄の子午線の東に向けお183床、西に向けお183床、赀道が経線床ず぀分割された。この革新は堎所の経床か航海法の䜕らかの発展を衚す意図に繋がっおいるかず思われるがそうでない。最も有力な理由は、モルッカ諞島がトルデシヌリャス条玄の子午線の西180床以内のスペむン勢力圏偎にあるこずを描き出す意図である。トルデシヌリャス条玄の子午線ずモルッカ諞島の間の赀道䞊の距離を慎重に蚈枬するずおよそ175床を確認できるので、モルッカ諞島をスペむン勢力圏に眮くこずができる。ポルトガル人レむネルはこの件に぀いおポルトガル王宀の立堎を正確に認識しおいたずしおも、その地図はスペむン人によっお発泚されおおり、レむネルはセノィリアでその地図を完成させた。クンストゥマン4䞖の地図では、モルッカ諞島は1500キロ以䞊も西に䜍眮しおいるが、偶然な歪曲であるはずがない。その歪曲には二぀の意図があった。①トルデシヌリャス条玄の子午線前の東偎にモルッカ諞島を眮くこず、②モルッカ諞島に向かうスペむン船が航行する距離を最倧限短くするこず地図を芋た段階では短く芋えるようにするこず。このようにしおマれランの提案が匷化されたのだった。コロンブスも同様の操䜜を行い、地球が極端に小さく、むンドに向かっお西に航行する距離も短い行皋にしおカトリック䞡王を説埗したのだった。豊かな装食、簡朔な沿岞郚の圢状が描写、ラテン語説明文、距離の目盛の欠劂などは、船䞊で利甚されるものではない。クンストゥマン4䞖の平面球圢図の真実の意図は䜕であったであろうか。それはスペむン囜王に泚目させお喜ばせる目的であった。クンストゥマン4䞖の平面球圢図は、スペむン囜王カルロス1䞖に提瀺するためにマれランの芁求で描かれたのであった[16]。

    4.     マれランはなぜモルッカ諞島にスペむンルヌトで行きたかったか

     
     マれランは東掋の幅広い地域で獲埗した知識を持ったポルトガル人であった。ノァスコ・ダ・ガマが最初にむンドに到達しおから間もない1505幎3月25日には東掋に向けおリスボンを出航した。ポルトガルのマヌ゚ル1䞖囜王(D. Manuel I)はむンドやアゞア地域の珟状を知る目的で倚くの艊船を掟遣しおいた。したがっおマれランはポルトガル王宀のもずでポルトガル勢力圏の東掋に赎いた。しかしマれランはスペむン囜王の支揎のもず、スペむンの勢力圏にあるず䞻匵しながら、銙料を産出するモルッカ諞島に向けお倪平掋を暪断するこずになる。マれランがなぜポルトガルの支揎を埗おポルトガルの東偎ルヌトでモルッカ諞島に行こうず思ったのか。重芁であり耇雑でもあるので、以䞋にリスボン新倧孊ゞョれヌ・マヌ゚ル・ガルシアの論考をたずめる。 

    「マれランがモルッカ諞島に行きたいず思い始めたのは1516幎3月から4月頃。その理由は、①ポルトガル囜王マヌ゚ル1䞖がマれランに察しおのモラディア俞絊増額を拒吊したこず。②マれランの友人フランシスコ・セランず共にモルッカ諞島にポルトガルの東偎ルヌトで行くこずもマヌ゚ル囜王に拒吊されたこず。この二぀の芁因によっおマれランは自分の名誉を傷぀けられたず感じた。そこで、マヌ゚ル囜王が瀺した吊定的態床ず悪意に察しお仕返しでできるかもしれない蚈画を打ち立おるようになった。1506幎から1513幎にかけお東掋においおマれランず䞀緒にいた貎族ルむ・デ・ブリト・パタリン(Rui de Brito Patalim)による1523幎8月25日の䟛述がある。パタリンは1512幎1月から1514幎のはじめたでマラッカ指揮官を務め、1515幎䞭頃にリスボンに戻ったので、1511幎から1514幎の間にマラッカずモルッカ諞島での出来事に぀いお粟通しおいた。1523幎8月25日、モルッカ諞島の発芋に関する審理に召喚されお答えるこずになった。調曞によるず、モルッカ諞島に関しおマれランは尋垞でなく平穏でない態床をずった。1515幎にリスボンに戻っお玄幎間、マれランは穏やかであり、その時はマヌ゚ル囜王の利益に関しお問題を起こす兆候はなかった。したがっお、1516幎たではマれランは西偎ルヌトでモルッカ諞島に行きたいずいう蚈画を立案するこずを考えおいなかった。1515幎、パタリンはマラッカから1514幎にテルナテにいたフランシスコ・セラン(Francisco Serrão)が曞いた曞簡を運んだ船で垰っおきた。その曞簡の䞭には自分ず䞀緒にマれランがモルッカ諞島に行くように勧めるものがあった。マれランはそのような曞簡を読んだこずによっお、モルッカ諞島ぞ赎く意志が生じ、結論ずしお、1516幎3月か4月頃、マれランがモロッコのアれンムヌルからリスボンに垰還埌のこず、あたり平穏でない態床を取り始めた。぀たり、モルッカ諞島はスペむン囜王に垰属するので、西偎ルヌトでモルッカ諞島に行くこずを固執するずいう、ポルトガルのマヌ゚ル囜王には無瀌な蚈画を準備し始めた。1517幎10月、マれランはセビリアに向けおリスボンを出発したが、マヌ゚ル囜王に察しお埩讐をする欲望があった。マれランには関係が悪化したポルトガル囜王からポルトガルを远い出されたず感じられた[17]。」 

    5.     マれランの航海埌の航海地図 


     マれランは死亡し、セバスティアン・゚ルカノがセビリアに1522幎9月に垰還した埌、スペむン通商通の地図にはモルッカ諞島がスペむンの勢力圏の䞭の䜍眮で描かれ続けた。1527幎、サラゎサ条玄によっおスペむンはモルッカ諞島が ポルトガルに垰属するこずを認めた。条玄締結埌、ペドロ・フェルナンデス(Pedro Fernandes)の1545幎頃の地図においお図6、

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    (図6 Österreichische Nationalbibliothek)

    トルデシヌリャス条玄で認められた範囲内の䜍眮にモルッカ諞島が䜍眮しおいる。この地図で特筆すべきこずは、アフリカ倧陞が以前の地図よりも小さめに描かれおいるこずであり、モルッカ諞島の䜍眮が正確になったこずである。それたでは、航海地図、地理関係の地図、それらが囜際政治や野望の間においおは、均衡ずいうものを保぀こずは困難であった[18]。
     1542幎頃、ドン・ゞョアン・デ・カストロ(D. João de Castro)が、ポルトガル囜王ゞョアン3䞖宛の曞簡の䞭で、地図補䜜に甚いられた方䜍磁石が理由でモルッカ諞島の経床の䜍眮が間違っおいるこずを指摘した。ペドロ・ヌネスは、氎先案内人、航海者らの無胜が理由でリスボンずむンドの距離が拡匵されおいるずした。ペドロ・ヌネスが1542幎に䞻任倩地孊者に就任し、ディりに䜿節を掟遣し、倩地孊から経床を枬定し王宀基準を修正するず、すべおの航海地図はそれに倣うこずになった。これに察しおロポ・オヌメンは、新しい航海地図によっお倚くのむンド行き艊船が倱われおいるず王宀に曞簡を出した。ロポ・オヌメンによるず、新しい芏栌は、堎所の経床を限定するために日食ず月食を利甚しながら準備されたものであり、リスボンからむンドずモルッカ諞島ぞの実際の距離は、航海地図に瀺された距離よりも短い。この基準に埓っおできた航海地図を甚いおむンドぞ行くず、船は遭難し、倚倧な損害が出たので、氎先案内人や航海者は航海地図をスペむンに発泚したず蚀うのであった。その曞簡が曞かれた時期には、氎先案内人たちは、リスボン・むンド間の航海地図の距離は拡匵されおいたこずを完党に知っおいた。圓時はただ倩文芳枬の経床決定にはかなりの誀差があった[19]。     
     圓時のポルトガルの地図においおはすべおが新しい基準を採甚しおいるわけではなかった。16䞖玀の䞀連の平面球圢図のアフリカの経床の拡匵は顕著である。アフリカ東岞の経床はほずんど同じであるが、地䞭海の幅が拡匵しおいる。意図的に東に拡匵され、玅海ずス゚ズ地峡の倧きさを瞮小する目的であった。結局、ペドロ・ヌネスの新しい基準は消滅した[20]。ロポ・オヌメンは海掋地図の補䜜者であり、ペドロ・ヌネスは数孊者、倩地孊者であったので双方の専門の分野が違った。「地理の地図」は地球䞊の地理を瀺すものであり、「海掋の地図」は航海のために利甚される目的であった。新しく発芋された土地に関しおは「地理の地図」からの情報であり、皆がそれを芋お驚嘆しお、亀易に携わる人々は倢を抱いおいたが、航海甚ではなく盞容れないものであった。したがっお航海地図におけるモルッカ諞島の䜍眮や地䞭海の幅の調敎、操䜜は「様々な䞍䞀臎」を最小限にする手段でしかなかったが[21]「䞍䞀臎」ず蚀うよりも、政策的「䞍郜合」を調敎、曎には操䜜したず蚀っおも過蚀でなかろう。
     ゞョれヌ・マヌ゚ル・ガルシアは、マれランの航海埌の航海地図ず航海の意矩に関しおスペむンを織り亀ぜお次のように述べる。匕甚の䞭の図の挿入は筆者によるものである。「マれランの航海埌に地球がどのように理解され䞖界認識が行われるようになったのか。地球のすべおの範囲を瀺すものである1522幎以降に生産されたスペむンの地図補䜜を芳察するこずができる。しかしながら政治的思惑によっお地球の倧きさなどに歪曲や制限をかけられおいた。1522幎のヌニョ・ガルシア・デ・トレノ(Nuño García de Toreno)の最初の地図は、゚ルカノが垰還埌に盎ちに補䜜された(図7)1519幎のレむネル芪子の平面球圢図を基本ずしおフィリピンずモルッカ諞島を付け加えおいる。マラッカをスペむン偎に入れるなど地理の珟実を倉造しおいる。ヌニョ・ガルシア・デ・トレノが、1523幎ず1525幎に、倪平掋の広倧さを明らかにしお地図を描いたずされおいる。

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         (図7 Biblioteca Reale di Torino) 

     マれランの航海の結果を最もよく反映し、モルッカ諞島に関しおスペむン囜王カルロス1侖(カヌル5侖)の奜郜合に地図を描いたのは、ポルトガル地図補䜜者ディオゎ・リベむロ(Diogo Ribeiro)である。ディオゎ・リベむロは、1519幎にセビリアに行っおおり、ゞョルゞェ・レむネルずペドロ・レむネルが平面球圢図を準備しおいるずきに、それに準拠した航海地図をマれランに察しお䜜った。ディオゎ・リベむロはカヌル5䞖に仕え、1525幎補䜜の平面球圢図の責任者であった。マれランず゚ルカノの航海埌の最も厳栌な地図であるがスペむンに察しおモルッカ諞島の嘘の垰属を瀺しおいる。そしおこの地図で初めおフェルナン・デ・マガリャン゚ス海峡ず蚘された(図8)。モルッカ諞島をスペむンに垰属する巊端の䜍眮に描かざるを埗なかった。その埌、レむネル芪子の1519幎の地図を基本ずしお地図の粟床の完成を継続した。ポルトガル人ペドロ・フェルナンデスの1545幎頃の地図(図6)は、マれランのために働いたディオゎ・リベむロずは党く違い、1529幎のサラゎサ条玄埌のモルッカ諞島をポルトガル偎に入れおフィリピンや䞭囜も描いおいる。ポルトガル囜王ゞョアン3䞖がスペむン囜王に献呈する思惑があったずされる。南米プラタ川から倪平掋なども詳现に描いたポルトガルずスペむン垝囜の地球を眺めるこずができる。マれランの航海の文化的むンパクトは、䞖界をどのように芋るようになったかずいう面においお果おしなく倧きい。[22]」

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    (図8 Biblioteca Estense Universitária 

     したがっお、地球の圢が理解されお、モルッカ諞島の䜍眮も明確になったマれランず゚ルカノの航海埌には、すべおが「発芋」されたので、科孊の発展をもたらしながらも冒険ず思惑に満ちたポルトガルずスペむンの倧航海時代・海倖進出期は終焉に向かう。

    6.     慎重な操䜜


     16䞖玀の間、ポルトガルずスペむンの地図は慎重に操䜜されおいた。それぞれの王宀の利益を守るこずを目的ずしたこの操䜜はトルデシヌリャス条玄を芁因ずするものである。マれランの航海前の党おのポルトガルの地図においおモルッカ諞島の䜍眮が東の端であったので、マれランはもしかするずモルッカ諞島がスペむン偎に䜍眮しおいるず考えるようになった。しかし、すでに考察したようにマれランにはポルトガルのマヌ゚ル囜王ずの確執もあったこずから、地図の圱響が党おであるずは蚀い切れない。いずれにしおも、1522幎以降、そのような意図的歪曲はスペむンで補䜜された地図に反映され暡範ずなるこずもあった。倖亀的な問題か、それずも科孊技術ず知識の問題があったずしおも、南米でも歪曲があった。カンティヌノの平面球圢図においおはブラゞル沿岞が慎重に倧きく東に突き出お描かれ、ポルトガルの勢力圏を栌段に過倧にした。マれランの航海埌、ポルトガルの地図ではプラタ川はポルトガル勢力圏に入るように東に移動しお描かれ、スペむンの地図では正確な䜍眮に描かれおいる。1520幎、マれランの航海に同行しおいたアンドレス・デ・サン・マルチンス(Andrés de San Martins)が、マれラン海峡北郚のサン・ゞュリアンにお実斜した正確な経床の芳枬によるものである。プラタ川、そしおモルッカ諞島の慎重な䜍眮の操䜜から、ポルトガル王宀もスペむン王宀もトルデシヌリャス条玄による珟実に盎面しおフラストレヌションを抱いたず考えられるが、経隓に基づいたデヌタが蓄積されるにしたがっお、地図におけるプラタ川やモルッカ諞島の䜍眮も正確に理解されるようになり、歪曲をしなければならない政治的操䜜は埐々に䞍芁ずなった。16䞖玀を通じお行われた地図の政治的操䜜ず歪曲は、尋垞ではない問題を起こした。そのひず぀は「航海地図」であり、ほかのもうひず぀は倖囜の顧客や暩力者に向けたプロパンガンダの道具ずしおの優矎な装食を斜した「茞出甚地図」[23]である。それぞれ、航海ず亀易に䜿われるのだが、これらの二面性こそが、ある皮の危険を䌎う海倖進出期の倧冒険を誘発させた。そのひず぀がスペむンから出発したマれランのモルッカ諞島ぞの航海であった。 

    おわりに


     マれランがスペむン囜王カルロス1䞖に察しお提瀺した目的は完遂されなかった[24]。しかし蓄積された航海法、造船技術などを総合的に結集させたマれランが率いたスペむンの船団には、倧勢のポルトガル人技術者が関わり乗船しおいた[25]。ポルトガル人はリスボンだけを商業重芁拠点゚ントレポストずせずに地球䞊の様々な堎所に散圚しおいた[26]。マれランはセビリアを䞻ずするポルトガルの専門の技術者ず共に最新の地球理解の業瞟(図9)を遺し[27]、スペむン囜王の支揎のもずに海に身を投げ出したポルトガル人フェルナン・デ・マガリャンむス(Fernão de Magalhães)であった。

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      (図9)レむネル芪子の地図(1521-1524頃) (Topkapi Sarayi MÃŒzesi KÃŒtÃŒphanesi)

    図泚䞋郚から䞭倮の南極に向かっお南米倧陞が䞊に䌞びる。「マれラン発芋の土地」ず赀字で蚘されおいる。360床の目盛付きの赀道は円圢で描かれおいる。䞭倮に瞊のトルデシヌリャス条玄の分界線があり、分界線䞋郚巊偎(ポルトガル領に)ブラゞルが、分界線䞊郚巊偎ポルトガル偎に銙料諞島が䜍眮しおいる。最南端倧西掋偎を調査した艊船サン・アントニオが、マれラン海峡発芋前に調査結果を携えお倧西掋を北䞊し、セビリアに垰還した情報から地図が補䜜され、゚ルカノの䞖界1呚航海埌ではないずされおいる。したがっおマれラン海峡や倪平掋偎に関しおも蚘述がないが、地球の球状を瀺した。

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    図 ブラゞル拡倧


     泚 


    [1] 本皿執筆に際しリスボン倧孊ゞョアキン・アルノェス・ガスパヌルの指導を埗た。Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, pp105-121.䞊びにJosé Manuel Garcia, Lisboa, o Descobrimento do Mundo e Fernão de Magalhães, Câmara Municipal de Lisboa, Lisboa, 2021.から倚くの瀺唆を埗た。同時にLuís Miguel Cardoso Pércio Bessa Pacheco, A Carta-Portulano, Dissertação de Mestrado, Faculdade de Letras da Universidade de Lisboa, Lisboa, 2017.は倚倧な参考ずなった。Joaquim Alves Gaspar / Å ima Krtalić, A Cartografia de Magalhães / The Cartography of Magellan, Tradisom, Vila Verde, 2023. は、欧州委員䌚Horizon研究プログラム2020の助成を埗おポルトガル語ず英語を䜵蚘した論著である。わが囜においおはマれランに関しお様々な読み物が刊行されおきおいるが、合田昌史(2006幎)『マれラン䞖界分割を䜓珟した航海者』(京郜倧孊孊術出版䌚)が孊術ずしお最も詳现である。筆者の専門はポルトガル語でありポルトガル語文献や論文読解からの考察にならざるを埗ないが、本皿の「地図」を通じおの考察は新芏性があるず考える。本皿における地図画像はリスボン倧孊理孊郚MEDEA-CHART Databaseのもの(2024幎6月4日蚱可取埗枈み)を筆者が適所に挿入し各画像䞋に所蔵堎所を蚘した。
    [2] Luís Miguel Cardoso Pércio Bessa Pacheco, A Carta-Portulano, Dissertação de Mestrado, Faculdade de Letras da Universidade de Lisboa, Lisboa, 2017.
    [3] Luís Miguel Cardoso Pércio Bessa Pacheco, Ibidem, pp.19-20.
    [4] António Barbosa, Novos subsídios para a história da ciência náutica portuguesa da época dos descobrimentos. I Congresso da História da Expansão Portuguesa no Mundo, Lisboa, 1939, pp.80-105; Luís de Albuquerque, “Astronomical Navigation”, in Armando Cortesão, History of Portugueses Cartography, Vol.II, Junta de Investigação do Ultramar, Lisboa, 1971, pp.221-442; Armando Cortesão, História dos Descobrimentos Portugueses, 5.ª edição, Europa América, Lisboa, 2001, pp.185-293.
    [5] História Papae Pii (Veneza,1447); Raccolta di Documenti e Studi Publicati della Comissioni Colombiana. Autografi di Cristoforo Colombo, Parte I, Vol. III, Tav. LXX, n.º 23, Roma, 1892.
    [6] Luís Miguel Cardoso Pércio Bessa Pacheco, Ibidem, pp.30-59.
    [7] Joaquim Alves Gaspar, “Planisfério de Cantino: Um mapa para o mundo (quase) inteiro”, in A Redondeza da Terra e Outras Histórias da Ciência e da Cartografia, coordenado por Joaquim Alves Gaspar e por Henrique Leitão, Gradiva, Lisboa, 2019, pp.38-41.
    [8] Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, pp.112-113.
    [9]  Ibidem, p.113.
    [10] Ibidem, p.114.
    [11] Alfred Pinheiro Marques, Luís Filipe Tomás e Bernardo Sá Nogueira, Volume de Estudos à edição facsimilada do Atlas Miler, Edições Moleiro, Barcelona, 2003.
    [12] Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, pp.114-115.
    [13] Ibidem.
    [14] Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, pp.115-116.
    [15] Ibidem, 116-117.
    [16]Joaquim Alves Gaspar, “O mapa de Fernão de Magalhães”, in A Redondeza da Terra e Outras Histórias da Ciência e da Cartografia, coordenado por Joaquim Alves Gaspar e por Henrique Leitão, Gradiva, Lisboa, 2019, pp.60-61.
    [17] José Manuel Garcia, Lisboa, o Descobrimento do Mundo e Fernão de Magalhães, Câmara Municipal de Lisboa, Lisboa, 2021, pp. 144-150.) 以䞋、モルッカ諞島に向けおのマれランの航海に぀いお蚘しおおく。「1519幎9月20日にサンルカル・デ・バラメヌダを出航するず、9月26日にカナリア諞島のテネリフェに到着し、氎、薪などの補絊の他に、艊隊の人員敎理をした。10月2日から3日にかけおの倜に南に向けお出航し、カボ・ノェルデ諞島を通過し、シ゚ラ・レオネの近くに到着した。マれランはそれから南西に方角を倉えたが、乗組員の最初の抵抗、反乱に遭遇した。赀道通過前埌の航海の困難を乗り越え、11月29日にブラゞル北東郚サント・アゎスティヌニョ岬に近づいた。その埌、南に向かい、12月13日にはリオデゞャネむロに到着した。リオデゞャネむロは、1502幎以降、ポルトガル人が開拓しおきおおり、1511幎から1516幎にかけお流刑によっお䜏んでいたゞョアン・ロペス・デ・カルノァヌリョが氎先案内人を務めた。リオデゞャネむロ寄枯は、利点をよく知っおいるその氎先案内人の提案で行われた。先䜏民ず友奜的に過ごし、鶏や他の動物、氎、サツマむモ、果物などを補絊した。1519幎12月27日、マれランは出発の呜什を出し、南に向かった。1520幎1月10日、プラタ川が始たる珟圚のりルグアむのプンタ・デ・デル・゚ステ、圓時のサンタ・マリア岬を確認した。プラタ川では「南の海掋」に通じる箇所を探したが、川であるこずが蚌明されたので䞍可胜であった。1520幎2月3日、プラタ川を暪断し始め、2月7日に完遂し、続けお南に向かった。艊隊はアルれンチン沿岞を航行したが倪平掋ぞの入り口が芋぀からないうえに、悪倩候に芋舞われたので、3月31日にプ゚ルト・デ・サン・ゞュリアンず名付けた堎所に寄枯した。マれランがアンダルシアを去っおから6カ月11日が経過し、そこで4カ月24日間停泊するこずになった。サント・アントニオ号、ノィトリア号、コンセプシオン号で反乱が始たったので、マれランは4月1日に陞地でミサを行うように呜じた。艊船の修理、食料補絊などを行い、乗組員の維持、確保もできた。倩地孊者アンドレ・デ・サン・マルティンは、プ゚ルト・デ・サン・ゞュリアンがセビリアの西61床の経床にあるずこずを調べた。3月1日、マれランはサンチアゎ号を南郚探怜に行かせ、倪平掋に行くアクセスを探しおくるように呜じたが、途䞭で沈没した。8月24日、出航したが倩候に恵たれず、26日に発芋したばかりのサンタ・クルヌス川近くでたた停泊した。10月18日に再び航行を始めた。10月21日、倧西掋ず倪平掋を結ぶ海峡を芋぀けた。マれランは、圓時トヌドス・オス・サントスすべおの聖人海峡ず名付けた。雪に芆われた山々が芋える海峡を艊隊は進んで行った。コセンプシオン号ずサント・アントニオ号を海峡の探怜に呜じたが、サント・アントニオ号で反乱があり、1521幎5月8日に55人の乗組員がセビリアに垰還した。マれラン海峡からグアムたでの1侇8千キロの倪平掋暪断には98日かかった。1520幎11月28日に倪平掋に入るず、マれランはチリ沿岞を北に向かうよう呜什を出した。広倧な倪平掋を航行するず、比范的理想的で平穏な航行ができたので、マれランは「平穏な」を意味するpacíficoパシフィコ海ず名付けた。1521幎2月13日に赀道を通過した。赀道を西に向かえばモルッカ諞島に到着するず信じおいたが、颚を探しお北緯13床に向かった。1521幎3月6日、マリアナ諞島を芋た。3月16日朝、マれランがサン・ラザロ諞島を発芋した埌にフィリピンず名付けられた。サンルカル・デ・バラメヌダを出航しおから1幎5カ月24日経過しおいた。4月27日、マれランはマクタン島の先䜏の人々を埓わせようずしお、その抗争の䞭で死亡した。フアン・セバスティアン・゚ルカノが残りの航海を続け、1522幎9月6日にサンルカル・デ・バラメヌダに垰還した。」José Manuel Garcia, Lisboa, o Descobrimento do Mundo e Fernão de Magalhães, Câmara Municipal de Lisboa, Lisboa, 2021, pp.161-177. マれランは途䞭で死亡し、䞖界呚航海をせず、゚ルカノがセビリアに戻るこずによっお、マれラン艊隊が䞖界呚航海を成し遂げたずするのが真実である。しかし、マれランは2回に分けお、違うルヌトで地球の裏偎たで行き、「間接的方法」で䞖界を呚したずいうこずもできるであろう。「マれランは、ポルト生たれでポルトガル宮廷の貎族であった。1480幎頃の生たれずされおいる。1505幎3月25日、フランシスコ・アルメむダのむンド行き艊隊に乗り蟌みリスボンを出航した。1513幎たで東掋に滞圚し、同幎にリスボンに戻った。たた同幎、マれランが参加したポルトガル人による1511幎のマラッカ攻略ず、1512幎の南モルッカ諞島の発芋の知らせがリスボンに届いた。マれランの東掋での掻動で最も顕著なものは1509幎のマラッカの発芋ず、1512幎の南モルッカ諞島の発芋である。アントニオ・デ・アブレりが指揮する艊隊の䞭でマラッカずモルッカ諞島に行ったこずは事実ずされおいる。圓時、マれランは䞁子を産出する北モルッカ諞島には到達しなかった。1512幎、マラッカに戻っおいたアントニオ・デ・アブレりの艊隊の2隻の船ず䞀緒に航行しおいたゞャンク船が遭難し、乗っおいたフランシスコ・セランずその仲間たちが到達した。マれランは1506幎から1507幎たでアフリカ東郚、1509幎にディりの攻防、15010幎にゎア攻略、1511幎にマラッカ攻略。むンドのコヌチン、カナノヌルを通過し、15010幎にラクシャドりむヌプ近くで遭難しおいる。このように、倧西掋を南䞋し、喜望峰を迂回し、むンド掋、倪平掋を航行し、倚くの掻動を行った。すべおのポルトガル支配の東掋の沿岞を巡ったこずになる。」José Manuel Garcia, “O Significado de Grandes Viagens de Fernão de Magalhães para a História Universal”, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, n.º 137, Lisboa, 2019, pp. 1-3. したがっお、マれランは、ポルトガルルヌトでマラッカずモルッカ諞島ぞ、その埌スペむンルヌトでフリピンに行っおいる。このようなこずから、マれランの二぀の航海を考察するこずができる。
    [18] Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, p119.
    [19] Joaquim Alves Gaspar, “Pedro Nunes e a distância de Lisboa à Índia”, in A Redondeza da Terra e Outras Histórias da Ciência e da Cartografia, coordenado por Joaquim Alves Gaspar e por Henrique Leitão, Gradiva, Lisboa, 2019, pp.50-51.
    [20] Joaquim Alves Gaspar, “A Cartografia Náutica no Tempo de Magalhães e a Questão das Molucas, in Boletim da Sociedade de Geografia de Lisboa, 137,11-12, Lisboa, 2019, pp.120-121.
    [21] Ibidem,121.
    [22] José Manuel Garcia, Lisboa, o Descobrimento do Mundo e Fernão de Magalhães, Câmara Municipal de Lisboa, Lisboa, 2021, pp.185-186.
    [23] Joaquim Alves Gaspar / Šima Krtalić, A Cartografia de Magalhães / The Cartography of Magellan, Tradisom, Vila Verde, 2023. pp.29-30.。
    [24] Max Justo Guedes, “O planisfério de Jorge Reinel e as ideias geográficas de Fernão de Magalhães”, in Mare Liberum, n.º 15, Lisboa, 2000, pp.7-16.
    [25] ヌノ・ノィラ・サンタは、地図補䜜者ディオゎ・リベむロ、航海者゚ステノァン・ゎメスずシモン・デ・アルカ゜ノァ、倩地孊者ルむ・ファレむロ、フランシスコ・ファレむロの名を挙げお、ポルトガルの技術者や知識人のスペむンぞの流出があったこずを述べる。そこから曎に流れおフランス、むギリス、オランダで教えられるようになった。このこずによっお「海のグロバリれヌション」が起こったず論じる。Nuno Vila-Santa, “Uma Consequência da Expedição Magalhães-Elcano? A Circulação de Pilotos, Cartógrafos e Cosmógrafos Portugueses para Espanha”, in Magalhães e Elcano, Coordenação de Vítor Gaspar Rodrigues / Ana Paula Avelar, Academia de Marinha, Lisboa, 2023, pp.205-207.
    [26] Daviken Studnicki-Gizbert, A Nation Upon the Sea, Oxford University Press, 2007, p.95.
    [27] José Manuel Garciaはマれランの航海の意矩に぀いお締め括っおいる。「マれラン海峡から倪平掋に出るルヌトは、実際的でない理由で1525幎に利甚されなくなった。マれランはモルッカ諞島がスペむン偎に䜍眮するこずを蚌明できなかった。しかし、南アメリカの基本的な地圢を発芋し、理論的には数䞖玀前にすでに確立されおいた地球が球状であるこずをマれランが実際に蚌明するこずになった。地球は呚するこずが可胜であるこず、地球の海掋郚分は陞地よりも遥かに倧きいこずが理解された。」José Manuel Garcia, “Fernão de Magalhães o homem que descobriu o mundo tal como ele é”, in Mátria XXI, Número Especial Evocativo Em Memória do Professor Doutor Joaquim Veríssimo Serrão Herança Cultural e Património, Lisboa, 2021, p327.  最埌にコロンブスずマれランに関しおゞョアキン・アルノェス・ガスパヌルの芋解を匕甚しお締め括りたい。「二぀のロヌマ教皇勅曞によっおボゞャドヌル岬以南のポルトガル王宀の支配ず独占的商業を確立させおいたので、1497幎から1499幎にかけおノァスコ・ダ・ガマが始めた日垞のむンド航路は、スペむン人に察しおは通行犁止ずなっおいた。代替は、地球の球状ず航行可胜を利点ずしお西ぞ向かっお航海するこずであった。しかしそのようなこずは、航行距離が極端に倧き過ぎなければ可胜であった。コロンブスは巧みにその問題に取り組んだ。コロンブスは、自身の理論に郜合の良くない、圓時知られおいた地球のモデルを利甚する代わりに、東ぞの航路よりも西ぞの航路の方が短く芋える、実質的に小さい地球を提案した。コロンブスは間違えたこずを私たちは知っおいる。想像を絶する地球の倧きさに぀いおだけでなく、むンドに到達しおいなかった事実に぀いおも間違っおいた。その巚倧な間違いは、西掋文明に超絶な重芁性がある新䞖界の発芋ずいう結果をもたらすこずになった。(
)マれランはコロンブスず同じような提案を、玄25幎埌にスペむン囜王カルロス1䞖に察しお提瀺しおいる。マれランはもう䞀床西に向かっお航海し、貎重なクロヌブの産地であるモルッカ諞島に到達し、そのモルッカ諞島がスペむンの勢力圏に䜍眮するこずを蚌明するこずを提瀺しおいた。小さな地球が自分の理論に奜郜合であるこずずしおも、スペむン囜王を玍埗させるためにマれランが甚いたKunstmann IV平面球圢図1519幎頃では、倪平掋が実質的に短瞮されおいたのは偶然なこずではない。珟圚では、私たちは、圓時は蚌明するこずがずおも困難であったずしおも、スペむン人がモルッカ諞島はスペむンの勢力圏にあるず申し立おする理由がないこずをわかっおいる。」Joaquim Alves Gaspar, “Seria a Terra redonda em 1500?”, in A Redondeza da Terra e Outras Histórias da Ciência e da Cartografia, coordenado por Joaquim Alves Gaspar e por Henrique Leitão, Gradiva, Lisboa, 2019, pp.28-30.

    NB:本皿は未刊行です。

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    リスボンに行きたい。 本にならない私の曞いたものを読んでほしい(AIは䜿っおいたせん)。 倧䜿通で通蚳や翻蚳をしおいお、その埌、倧孊で教えたり執筆しおきたした。 京郜府出身。東京郜に䜏んでいたす。

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