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【自分について】

    Rumi

    自分について

    東北の田舎生まれの田舎育ちですが、
    会社員を経てから30年ほど、家業、農業、主婦業、子育て、介護、と日々邁進してきました。

    やっと子供たちを大学に送り出し、
    すこしは自分と向き合える時間を
    もてるようになりました。

    そんな中、
    いままでを振り返ってみると、
    一生懸命ではあったけれども、
    全て(仕事や日々の生活、家族、子供たち、周りの人達)に対して、

    真摯に丁寧に向き合えていたのか、
    そして
    私らしく生きてきたのか、

    と考えるようになりました。

    これまでの
    ヒエラルキーな社会においていえば、

    学歴も職歴もなく、
    ましてや学力も
    文章力も話力も全くなし、、

    気づけば
    せま〜く、あさ〜く、ゆる〜く
    生きてきたようなので(あえて他人事)、
    この歳(50代)で、
    自分すら確立していないことに
    気づきました。∑(゚Д゚)

    バブル世代末期、
    昭和後半に生まれ育ち、
    同調圧力、みんな同じ、、

    でもなにか違うと、
    みんなと同じはイヤ、
    自分は違う、、

    と思いながらも、
    ただ流されるまま〜〜、、

    いつからか社会の枠にハマり、
    自分を置き去りにして、
    周り優先が当たり前として
    生きてきたからかもしれません。

    ですが、
    これからは個の自由と尊重が重要視される風の時代といわれています。

    わたしは、
    風のエレメントで不動宮の
    水瓶座なのですが、

    ここらで一念発起、

    改めて

    自分が好きな事は何か、
    やりたい事は何なのか、
    これから何をしたらいいのか
    、、

    迷いながらも
    残りの人生を全うするべく
    もがくことに決めました
    🥹(弱目の決意)

    とはいえ、

    自分のどんなところをどんなふうに
    表現していったらいいのか、
    悩むところですが


    自分が確立していないのも、
    変わってるね、と言われるのも、
    全部ひっくるめてのわたしということ(にします)

    なので、

    あまり考えすぎず、
    わたしらしく気ままにやっていこうと思います。


    養老孟司先生によれば、

    自己言及すると矛盾が発生する、

    と。




    『Geminiにきいてみた』

    養老孟司先生(解剖学者)が指摘する「自己言及の矛盾」は、主に**「脳(主観)」が「脳(客観)」を捉えようとする際に行き止まりにぶつかる現象**を指しています。


    これを論理学的な視点と、養老先生らしい解剖学的な視点の両面から解説します。


    1. 論理学的な「自己言及のパラドックス」

    まず、基本的な概念として「自分自身を指し示す言葉」には構造的な欠陥が生まれることがあります。最も有名なのが「嘘つきのパラドックス」です。

    「この文章は嘘である」

    もしこれが本当なら、文章の内容通り「嘘」になります(矛盾)。

    もしこれが嘘なら、内容は「嘘ではない=本当」になります(矛盾)。

    このように、システム(文章)の中からそのシステム全体を定義しようとすると、答えが一つに定まらず、ぐるぐるとループしてしまいます。

    2. 養老先生の視点:脳が脳を語ること

    養老先生は、人間が「自分とは何か」と考えることを、このパラドックスになぞらえています。

    「見る側」と「見られる側」の一致
    本来、認識というものは「私(主観)」が「リンゴ(客観)」を見るように、対象が外にあるから成立します。しかし、「自己言及」は**「脳が、自分自身の仕組みを解明しようとする」**行為です。

    情報のズレ
    脳が自分を観察しているとき、その「観察している状態」自体も脳の活動です。その活動を含めて理解しようとすると、さらに「理解しようとしている自分」を観察する自分が必要になり、永遠に終わりが来ません。

    3. 「意識」という鏡の限界

    養老先生は、意識を**「鏡」**のようなものだと表現することがあります。

    鏡は周囲の景色を映し出しますが、鏡自身を鏡で映すことはできません。(もし映そうとして別の鏡を持ってくれば、合わせ鏡の中に無限の像が続くことになります)。

    4. なぜこれが問題なのか

    養老先生がこの話をするとき、しばしば**「言葉(意識)」への過信**に対する警告が含まれています。

    意識の傲慢: 私たちは「自分ですべてをわかっている」と思いがちですが、意識(自己言及する部分)は脳全体の活動のごく一部(いわば出力画面)に過ぎません。

    身体の不在: 自己言及に陥ると、理屈のループ(ああ言えばこう言う)にハマり、動かせない事実である「身体」や「自然」を忘れてしまいます。

    まとめ

    養老先生が言う「自己言及の矛盾」とは、**「分析する道具(脳・言葉)を使って、その道具自体を完璧に説明することは不可能である」**という限界を指しています。

    「自分探し」をして答えが出ないのは、まさにこの自己言及のループに入り込んでいるからだ、というのが先生の鋭い洞察です。


    thank you  Gemi👏🏻

    ということですが、

    改めて、

    自分というのは
    正体がはっきりしないもの、
    変わっていくものである。

    変わらないのは、
    その人の1部分を切り取ったもの、
    社会の中での約束事として
    変わっては困る情報としての自分
    である。

    社会における自分というものは、
    相手が変わらないと言う前提
    で成り立っているだけであって、

    自分が同じ自分であると
    確信する必要はない、


    と。

    ※言いたいこと、いえてますかね~

    なので、

    そんなに深掘りしない難しくない
    哲学的なこと(笑)から、
    雑学などに至るまで、
    全般的に
    ひろ〜く、うす〜く、ゆる〜く
    興味があるため、
    一貫性がないかもしれませんが、

    確立していない流動的な私こそが自分、

    と開き直って、
    らしくマイペースに
    五感で楽しむことを
    大事にしながらいきます!✨✨



    最後までお付き合いいただき
    ありがとうございます😊


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    Rumi

     
     
    「みんなと同じ」に違和感を抱きながら流されてきた半生。気づけば確固たる自己もまだ「未完成」。でも「確立していない流動的な私」、こそが私。 簡単な哲学的な問いから日々の雑学まで、五感が動く方向にアンテナを立て、テーマに拘らずマイペースな日常と思考の断片を気ままに綴っています。

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