
小説5 『鳥』 全10話 第10話 最終話 「サンダルの足跡と、海辺のエンターキー」
東京から西へ向かう新幹線を降り、さらに伊豆の海岸線を走るローカル線に揺られること一時間。
結城誠は、再びあの小さな終着駅のホームに降り立った。
約一ヶ月前、すべてを放り出して逃げるようにこの駅に降り立った時の誠は、息苦しいダークネイビーのスーツに身を包み、革靴の中に容赦なく入り込んでくる砂の不快感に顔をしかめていた。
しかし今の誠の格好は、東京から戻ってきたばかりだというのに、すでにすっかりこの町に馴染んでいた。ヨレた白い無地のTシャツに、紺色のハーフパンツ。足元は、あの寂れた洋品店で買った千円のビーチサンダルだ。
改札を抜けると、むせ返るような真夏の緑の匂いと、強い潮の香りが全身を包み込んだ。
「……帰ってきたな」
思わず、独り言が口をついて出た。その匂いは、過去から逃げ出した誠を匿ってくれた時の匂いではなく、自分の足で戻ってきた誠を「おかえり」と温かく出迎えてくれているように感じられた。
駅から海沿いの道を歩き、ツタの絡まる古い日本家屋——ゲストハウス『海風』の門をくぐる。
庭では、麦わら帽子を被ったスタッフのソラが、誠がペンキを塗ったウッドデッキに水を撒いて掃除をしているところだった。
「あ! マコトさん!」
足音に気づいたソラが、ホースを持ったまま満面の笑みで振り返った。
「お帰りなさい! 東京、どうでした?」
「うん。ちゃんと、全部終わらせてきたよ」
誠はサンダルを脱ぎながら、ごく自然に、心からの笑顔で応えた。
「ただいま、ソラくん」
ここがもう、一時的な避難所(シェルター)ではないことを、誠は深く実感していた。自分の意志で選び取った、新しい日常の始まりの場所なのだ。
数日後。
誠はゲストハウスの共有スペースの一角に、小さな作業デスクを設けていた。隣町で買った型落ちのノートパソコンを開き、地域の個人事業主をITで支援する「フリーランス」としての活動を本格的にスタートさせたのだ。
まずは、先日立ち上げた連携システム『海風ドットコム』の保守運用と、キヨの食堂や五郎の海産物を販売する通販ページの拡張作業である。
その日の午後、キヨが手提げ袋を提げてゲストハウスにやって来た。
「誠の兄ちゃん、いるかい。これ、今月のシステムの管理代だよ。大した額じゃなくて悪いねぇ」
そう言って誠のデスクに置かれたのは、使い古された茶封筒と、発泡スチロールの箱だった。
「キヨさん、お金はいいって言ったじゃないですか」
「馬鹿おっしゃい。仕事にはきちんと対価を払う。それが商売の基本だろう? あと、これは五郎からの差し入れ。今朝上がったばかりの特大の金目鯛だよ。煮付けにでもして食べな」
誠は茶封筒の中身をそっと覗き込んだ。そこには、シワの寄った千円札が数枚と、小銭が入っていた。
東京のオフィスにいた頃、誠は数億円という莫大な予算を動かし、毎月当たり前のように数十万円の給与がデジタルデータとして銀行口座に振り込まれていた。それに比べれば、この茶封筒に入っている現金は微々たるものだ。
しかし誠は、手渡された数枚の千円札のザラザラとした質感と、氷の入った発泡スチロール箱のズッシリとした重みを両手で受け取りながら、これまでの人生で一度も味わったことのない、深く、温かい「労働の喜び」に震えていた。
顔の見える誰かのために働き、感謝の言葉とともに、生きていくための糧を直接受け取る。そのシンプルな行為が、誠の魂を強く揺さぶった。
「キヨさん、五郎さん……ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
誠の目頭が熱くなるのを見て、キヨは「なんだい、大袈裟だねぇ」と笑いながら誠の背中をバンバンと叩いた。
誠の新しい生活が順風満帆に滑り出したかに見えた矢先、この町に小さな試練が訪れた。
季節外れの小さな台風が、伊豆半島を直撃したのだ。
丸一日、暴風雨がトタン屋根を激しく打ちつけ、海は大荒れとなった。
そして悪天候による倒木の影響か、町の通信回線に障害が発生し、誠が管理している直販のサーバーが一時的に完全にダウンしてしまったのである。
パソコンの画面に『接続できません』というエラーが表示された瞬間。
かつての誠であれば、血の気を引かせ、「すぐに復旧させないとクライアントから損害賠償を請求される!」と過呼吸を起こし、パニックに陥っていただろう。
しかし今の誠は、深く一度だけ深呼吸をすると、慌てることなく雨合羽を羽織り、暴風雨の中を歩いてキヨの食堂へと向かった。
「キヨさん、五郎さん。ごめんなさい」
食堂の土間に立ち、雨だれを滴らせながら誠は深く頭を下げた。
「台風の影響でシステムがダウンして、今、ネットからの注文が一切受けられない状態になっています。天候が回復するまで、復旧の目処が立ちません」
誠は、どれほど厳しく叱責されるだろうかと身構えた。
しかし、カウンターでキヨのおでんをつつきながら昼間から熱燗を飲んでいた五郎は、不思議そうな顔をして誠を見た。
「なんだ兄ちゃん、そんなことでわざわざ雨の中を謝りに来たのか?」
「え……?」
「表の海を見てみろ。こんだけ荒れ狂ってるんだ、漁にだって出られねえ。人間様が休んでるんだから、機械だって休みたいわな」
五郎がガハハと豪快に笑うと、キヨも熱いお茶を誠に出しながら頷いた。
「そうだよ。注文なんて、明日でも明後日でもいいじゃないか。直るまで、ゆっくりおでんでも食べて待ってるよ。さあ、濡れた体をお拭き」
その言葉に、誠は全身の力が抜けていくのを感じた。
完璧でなくてもいいのだ。予測不能なエラー(バグ)が起きても、この世界は終わらない。誠実に頭を下げ、状況を説明し、雨風が落ち着いてから自分の手で丁寧に直せばいい。
この町のおおらかな空気が、誠の心に根付いた「丸太橋の哲学」を、さらに強固で揺るぎないものにしていった。
翌日の夕暮れ。
台風が一過し、嘘のように澄み切った空が広がっていた。
通信回線が復旧したことを確認した誠は、ノートパソコンのエンターキーを静かに、しかし確かな力強さで叩いた。
ターン、という小気味良い音とともに、サーバーが再起動し、直販システムが無事にオンラインへと復帰する。画面にはすぐさま、台風明けを待っていた顧客からの注文がピコン、ピコンと入り始めた。
誠はパソコンを閉じると、一人で漁港の防波堤へと散歩に出た。
消波ブロックに腰を下ろし、視線を上げる。そこには、燃えるようなオレンジ色から、深い藍色へとグラデーションを描く、息を呑むほど美しい夕暮れの空が広がっていた。波の音が、規則正しく、優しく鼓膜を揺らしている。
誠は、ハーフパンツのポケットから、昨日新しく契約したばかりのスマートフォンを取り出した。
必要最低限のアプリしか入っていない、安価な端末。会社から支給されていた、あの呪いのような黒い板ではない。自分自身の生活を豊かにするためだけの、新しい道具だ。
誠はカメラアプリを起動し、目の前に広がる美しい夕焼けの写真を一枚撮影した。
そして、メッセージアプリを開き、「母さん」という宛先を選択する。あの雨の日の郵便局以来の連絡だった。
キーボードの画面をタップし、写真とともに、短い文章を打ち込む。
『母さん、東京の会社は辞めて、しばらくこの町で暮らすことにしたよ。心配かけてごめん。でも、ここはとてもいい所なんだ。今度、美味しい金目鯛を送るよ』
送信ボタンを押す。
シュッ、という小さな電子音とともに、画面の向こう側へとメッセージが飛んでいった。
それは、デジタル社会からの完全な逃避ではない。自分の確固たる意志とペースで、もう一度社会と繋がり直すための、新しく、そして健康的な「ログイン」だった。
心地よい海風が吹き抜け、誠の白いTシャツを大きく揺らした。
もう、見えない重圧に追われることも、過去から逃げることもない。スマートフォンをポケットにしまい、誠はサンダル履きの足で立ち上がると、夕日に向かって大きく伸びをした。
空気を胸いっぱいに吸い込む。潮の香りが、生きているという実感となって体の隅々まで染み渡っていく。
結城誠の、本当の人生が、ここから静かに始まろうとしていた。
第10話(最終話)
完