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【note創作大賞2026】羽ペンにコーヒーを添えて

     架空世界「ミラクリス」を舞台とした連載をnote創作大賞向けに再編集した作品です。この記事だけで完結します。

    ・あらすじ

     人類と異種族が暮らすミラクリス世界にある国家、ラルマディア共和国ででボルグレン種族ミィナは編纂者を目指して孤児院から独立する。しかし補助金で買った家は整備されておらず、屋根に穴が開いてしまう。

     そんな中、近くに住むシャロンが助け船を出してくれたお陰で、ミィナは最初の仕事完遂することができた。その後、著名な歴史家ルーベンの仕事を手伝うのだが、仕事で調べている歴史に翻弄された孤児たちと遭遇する。歴史が未来を決めてしまうと実感したミィナは、孤児を助け、これから書く本に未来へ問いかける内容を書く。

     そしてルーベンに認められて、ミィナは新人編纂者として歴史を紡ぐ新しい生活を始めて行くのだった。


    羽ペンにコーヒーを添えて


    0.新しい家

     目の前の門の向こうには、可能性が広がっている。門の前に立つ少女がそう思うと、彼女の中で期待と不安がふつふつと湧き上がっていく。

    「もう行くのかい? こっちはもう手続きを申請したから、そのまま向かえば大丈夫だからね」

     少女が後ろから声を掛けられる。振り向けば、ずっと自分を世話してくれた女性職員だった。

    「ありがとうございます……本当に、お世話になりました」

     声掛けられた少女が職員の方に振り返って、丁寧なお辞儀をする。少女にとって、ずっと過ごしてきた場所を去るのは名残惜しい。それでも、進んでいくと決めていた。

    「あなたなら大丈夫。もし何かあったら、遠慮なく頼っていいからね。ほら、荷物だよ」

     職員はいつもと変わらぬ笑みで、荷造りの終わったトランクを少女に差し出した。それを受け取って、少女は心の中に残っていた未練を断ち切るように、大きく深呼吸する。

    「ああそうだ。仕事ができないと困るから、白紙の紙束を入れておいたよ」「そんな、良いんですか? 紙はいつも足りないって……」

     思いがけない贈り物に少女は慌てるが、職員は心配ないと笑って見せた。

    「大丈夫だって! 院長に経費でたんまり要望しておくから。昨日の送別会に来なかった分、それくらいはしてもらわないと」

     そこまで言われると、少女からはもう何も言えなかった。こうやって、いつも誰かに支えられて生きてきたんだということを、少女は改めて実感する。  

     でも、自分はこの場所を出て自分で生きることを選んだ。誰かの為に、自分の能力を活かして仕事をすれば、みんなが喜んでくれる。そう信じて、ここまで来た。

    「じゃあ時間だね……元気でね、ミィナ」
    「はい……ありがとうございました」

     ミィナと呼ばれた少女は、トランクを強く握りしめて、ゆっくりと門を開く。

     門の向こうには、一度だけ抜け出して入ったことのある森と、その向こうに都市が見える。 山の斜面に沿って縦に伸びる住宅街、広くない平地には議会などの重要な建物が建ち並び、人類も、それ以外の異種族も大通りを自由に歩いている。そこが、彼女の新しい家になる場所だ。

    「さあ、行きましょう」

     そう自分に言い聞かせて、彼女は背中の翼を大きく広げる。

     ミィナ・サルヴィアラーネ・ラヴァルテンシュレーヴェンという少女が、初めて外の世界へ向けて歩き出した瞬間だった。


    1.前途多難な歓迎

     施設を出て、ミィナは新しい住まいとなる家に向かっていった。現地には既に役所の人間が待っており、ミィナの到着と同時に家の最終確認をしに家へ入っていく。

    「時間が掛かりますのでそのままお待ちください」

     担当する初老の男性はそう言いながら、やや面倒くさそうに家のドアを閉める。残されたミィナは邪魔にならないよう、家の壁に背中を預けながらトランクを開ける。

     そして年季の入ったくたびれた歴史書を、ミィナは丁寧に取り出してそれを開いた。顔も見たことがない、事故死した両親が残した唯一の遺産でもあるその歴史書を、ミィナは愛おしく眺める。

     この本があったから、彼女は歴史を学ぼうと決めていた。
     この本があったから、彼女は絶望しなかった。
     この本があったから、編纂者を目指そうと思った。

     手に持った歴史書は、それだけミィナにとって大切な本だった。

      ●

      本を読みながら待っていたミィナだが、1時間が経っても出てこないので少し落ち着かなくなってきた。

     「まだかなぁ……」

     そんなことを呟きながら、ミィナは背中の翼をそわそわと動かしていく。何かあったのかと思うと緊張してしまい、横から生えるふわっとした耳も少し逆立っていた。ボルグレン種族である彼女は、感情が翼や耳の動きに出やすく分かりやすい。

     いつ終わるんだろうと、ミィナは本を仕舞って家の前で歩いたり立ち止まったりし始める。

     うっかり足元のトランクを蹴りそうになって慌てて立ち止まった時、家のドアが開いてやっと男性が外に出てきた。服に付いた埃を手で払いながら彼は少女の方へ歩み寄り、彼よりも背の高いミィナを見上げる。

    「内部の確認は終わりました。問題ないので、これで引き渡しとなります」

     家の状態を確認していた男性は淡々とした口調で報告するが、ミィナの方は随分と待たされたのもあり、それを聞いて途端に顔が明るくなっていく。

    「ありがとうございます! これが新しい家になるのね……」

     ミィナは感謝を述べながら、目の前の家を見上げる。やや年季の入った2階建ての小さな家だが、補助金で買うことができる貴重な物件でもあった。

     この家が今日から彼女の住まいになると思うと、期待と興奮が収まらなかった。

    「最後に書類を確認をします。えーと……ミィナ・サルヴィアラーネ・ラヴァルテンシュレーヴェン様……でよろしいですね?」
    「はい、間違いありません」

     書類に書かれている名前を、男性がたどたどしく発音すると、ミィナははっきりと返事をする。それに合わせて、背中の翼が少しだけ広がった。

    「白世紀パクス・エラ730年6の月、赤の3日……ラーマディア西区23番通りの402番地。確かに引き渡しました。こちらに印か署名を」

     男性が目を通し終えると、ミィナの方に板に挟んだ書類を差し出す。受け取った彼女はそこに自分の署名をすらすらと書き込み、それを返した。

    「契約完了です。こちらが鍵と、書類の控えになります。事前の通達通り、これ以降に発生する問題は保証外となります。それでは」「ありがとうございました!」

     書類を見て問題ないと判断した男性は書類の控えと、腰に付けていた鍵をひとつ、ミィナへ手渡す。彼女がそれを受け取ると、男性は仕事は終わったとばかりに、足早に去って行った。彼の姿が見えなくなると、ミィナはもう一度自分の家を見上げた。

    「ここからが大変ね。編纂者、私にできるかな……」

     ミィナはこれからのことを考えると、少しだけ耳が震えた。孤児院を出た彼女は、これから自分の力で、自ら決めた本の編纂を仕事して生きていかないといけない。

     でも、こうして自分の仕事場になる場所を手に入れられたという幸運にも恵まれた。そう考えて、ミィナは暗い気持ちを振り払い、翼を静かに畳む。

     ミィナの新生活はこうして幕を開けるのだった。

      ●

     ミィナが新居の扉を開けると、こじんまりとした玄関が出迎えてくれた。しかし長く掃除されていないせいで、部屋の空気はとても湿っている。どこを見ても埃が目立ち、先ほど中を見ていた男性の足跡もうっすら見える程だった。

     奥に進もうと翼を畳むが、その時の風で舞った埃がミィナの顔に掛かってしまい、何度か咳き込んでしまった。

    「こほっ……ひどい埃。現状渡しって条件だし、仕方いなけど」

     ミィナはため息を付きながら、書類の条項に目を通す。そこには『必須となるものを除きいかなる清掃、整備は行わない。契約後に発覚した問題については保証外』としっかり書かれていた。

     その代わり破格ともいえる安値で売られており、これが孤児院を出たばかりのミィナでも、最初の補助金で家を買えた理由だった。

     ミィナは埃まみれの薄暗い廊下を進み、奥の部屋の戸を開ける。部屋は暗く、窓の隙間から差し込む光だけが光源だった。

     慎重に窓に近づき、それを開け放って部屋に光を灯すと、彼女の居る部屋がその全貌を映し出す。

    「わぁ……」

     部屋にはいくつかの本棚と、執筆のための作業机が鎮座していた。棚に本は無く、作業机も触れたら壊れてしまいそうで、長く放置されていたことがよく分かる。そんな部屋の惨状に、ミィナの心では重く沈みそうな不安な気持ちと、ざわざわと波立つ期待感が混ざり合っていた。

     この先、自分がここで本を編纂するという未来への希望と、それが成功するかという不安が彼女を惑わせている。ミィナは一度翼を広げて、決意するかのように一度だけ羽ばたかせた。その決意を祝福するかのように、風で舞った埃が光を受けて微かに輝いていた。

    「まずは掃除ね。先のことより今の問題だわ! ……くしゅん!!」

     ミィナは目の前の問題に向き合うべく、声を出して宣言する。同時に、舞った埃を吸って盛大にくしゃみも披露した。

     ミィナは玄関に戻り、トランクと一緒に予め用意していた掃除用具を部屋に運び込むのだった。

      ●

     運び込んだ掃除道具を手に、ミィナは家を掃除し始める。まずは水道を通し、水を使えるようにした。次に家中の窓を開けて換気し、埃を外へ追い払いながら、部屋中の汚れを拭き取っていく。

     居間には床にこぼれたコーヒーの染み。仕事部屋には机に垂れたインクの染みと、その部屋特有の汚れからかつての持ち主の生活が想像できた。 しつこい汚れは完全に取れないが、それでもミィナはごしごしと力を込めて拭き取っていく。そうすることで、自分が使う物になっていく感覚が心地よかった。

    「よし、この部屋は終わり!」

     最後の汚れを拭き取って、ミィナはやり切ったという解放感あふれる笑顔で宣言する。数時間前は埃と煤にまみれた部屋が、きれいに磨かれた床と壁に生まれ変わり、入ってくる空気も綺麗に感じる。

     この空間が、自分の居場所になる。その気持ちはミィナの中でどんどんと上昇し、掃除への意欲を高めてくれた。

    「さぁ、次は2階よ!」

     高らかな気分と共にミィナは2階への階段を上がる。2階の部屋には、おそらく運べなくて放置されていた大きな家具が残されていた。

    「これは……まだ使えそうね」

     埃に覆われたベッドを触り、状態が良さそうだと判断したミィナは思わぬ掘り出し物に翼をぱたぱたと動かす。

     その時、ミィナとは別の翼がはためく音が聞こえた。音の方に目をやれば、小さな鳥が窓際に巣を作っていたらしく、突然の来訪者に驚いて部屋中飛び回る。

    「きゃ!?」

     ミィナは飛んでくる鳥を避けるように慌てて逃げ回る。埃が舞い上がる部屋の中で暴れていると、突然ギシギシと木材の軋む音が部屋中に響いた。その音を聞いて、ミィナはすぐ立ち止まる。直後、屋根を支えていた梁が1本、衝撃に耐えられなくなってぽきんと折れて部屋に落ちてきた。

    「ええぇ!?」

     ミィナは咄嗟に避けて直撃は免れたが、梁が落ちた部分は穴が開いてしまい、陽の光がスポットライトのように差し込んでいた。

     突然のことに呆気にとられたミィナはしばらく立ち尽くしていたが、理解が追いつくと状況を確認するために、窓を開けて外へ飛び出した。

     外に出たミィナはすぐに背中の翼を広げ、そのまま空へ飛び上がって家の上空で静止する。眼下には屋根の一部が崩落して穴が開いているのがはっきりと見て取れた。

    「これは……掃除どころの話じゃないわね……」

     ミィナは額に手を当てて思考停止するしかなかった。

    『必須となるものを除きいかなる清掃、整備は行わない。契約後に発覚した問題については保証外』

     どうやら屋根の補強は必須ではなかったらしく、安物買いの怖さを身を持って知ることとなった。


    2.苦もあれば助けもある


     屋根の穴を見下ろしながら、ミィナはこれをどうするべきかを必死に考えていた。 

     地上では音を聞いた近所の人たちが集まっていて、家と上空のミィナを交互に見やっている。 

     ミィナの思考は目まぐるしく回り続けていた。 修理するにも材料が必要だし、工具も買わないといけない。家の掃除もまだ途中で、生活用品の買い出しもしていない。どれから手を付けるべきか、ミィナには分からなくなっていた。

    「考えるのよ……歴史的には……」

     ミィナはぶつぶつと呟きながら、空中で思考を整理し始める。孤児院で歴史を学び、誰かに解説していくうちに染み付いた口癖を何度も声に出していく。この口癖が、ミィナの思考を纏める手助けになっていた。

    「おーい、お嬢さん! ちょっといいかい?」

     地上からミィナへ向けて、誰かが声を上げた。考えるのに夢中で、ミィナが慌てて下を見ると、色白い肌に、陽の光を受けて輝く白い髪を持つエリーファ種族の女性が手を振っていた。調理服を着ているので、料理人だとすぐに分かる。

    「あっ……すぐ降ります!」

     ミィナは急いで姿勢を変えて地上へ降下する。翼で浮力を維持しながら、手を振っていた女性の前に滑らかな動作で着地する。

    「何でしょう……あ、その前にすいません! 掃除していただけなんですけど……」
    「謝らなくていいよ。あの家は長く使ってなかったし、いつかは壊れるってみんな思ってたさ」

     ミィナは騒ぎを起こしたと思い、頭を下げて謝罪する。しかし女性は気さくな口調でミィナに非が無いと言ってくれた。

     それを聞いてミィナは頭を上げて、初めてちゃんと目の前の女性を見る。色白い肌からは儚げに見えるが、纏っている雰囲気はとてもフランクに感じられる。

    「えっと……ありがとうございます」
    「来たばかりで災難だねぇ……あたしはシャロン。向こうで料理屋をやってるんだ。困ってるなら手伝うよ」

     シャロンと名乗る女性は、見た目とは裏腹に快活な口調でミィナの肩を叩いてくる。初対面でいきなり距離を近づけられて、ミィナはどうしたら良いか分からず強張ってしまった。

    「ご厚意はとても嬉しいんですが……こういう時、どうしたら良いか分からなくて……ごめんなさい」 

     ミィナはどう答えたら良いか分からないことを正直に口にする。物心ついた時からずっと孤児院で過ごしてきたので、対人経験があまりにも少ないことは彼女も自覚している。こういう時に、上手く対話できないことにもどかしさを感じていた。

    「おっと悪かったね。あたしらエリーファ種はこういう性分なんだ。でも、困った時はお互い様ってね。だから遠慮なく頼りな」

     ミィナの心情を察したのか、シャロンは少し距離を取る。戸惑っていたミィナも、様々な人たちの好意でここまで来れたことを思い出すと、少しずつ気持ちを整理して冷静さを取り戻していく。

    「シャロンさん……私、どうしたら良いですか? 私は孤児院を出たばかりで何も分からなくて……」

     ミィナの素直な訴えを聞いて、シャロンはどこか腑に落ちたのか、ポンと手を叩く。

    「孤児院ってことは、『ナルヴァの家』から来たのかい?」
    「はい。私はボルグレン種なので、16歳で満期です」

     ミィナが自分の出自を説明すると、シャロンは顎に手を当ててなにやら考え始める。

    「あそこには歴史に詳しくて、編纂者として独立する為に頑張ってる子が居るって聞いたけど、それがあんたかい?」
    「多分……私のことだと思います……」

     シャロンは何か思い付いたのか、唐突にミィナに質問をぶつける。いきなり聞かれたので、ミィナはつい自信なさげな声で答えてしまう。

    「なら、修理代の足しにひとつ仕事をしてみないかい? ちょうど歴史の知恵が欲しかったところでね」

     シャロンはそう言ってミィナに笑いかける。ミィナも思いがけない仕事の依頼に、数秒間は理解が追い付かなかった。

    「仕事ですか……? どうして、そこまでしてくれるんですか」

     理解が追い付いたミィナは、期待と不安の両方を抱えながら仕事について尋ねる。そんな彼女の心を読んだかのように、シャロンはミィナの手を握った。

    「不安になるのも無理はないね。お前さんを見てると、右も左も分からなかった頃の自分を見ている気分になってね。そういうやつに必要なのは、ちょっと強引なお節介を焼ける人だと思ったんだ。それに、ナルヴァの家には一度だけ仕事で行ったことがある。だから放っておけなくてね」

     理由を尋ねると、シャロンは屈託の無い笑顔で返してくれた。少なくとも、ミィナには嘘を言っているようには見えない。そして彼女の言ったとおり、ミィナに必要なのはお節介を焼いて助けてくれる存在だった。

    「分かりました。お仕事の内容を聞いても良いですか?」
    「なら、あたしの店で話そうか。美味しい料理と一緒にね」

     話を聞くと決めたミィナを手を引いて、シャロンは通りを歩き出すのだった。

      ●

     シャロンに連れられてやって来た店――『ボルナーチェ』に入ったミィナは、有無を言わさず席に着かされた。

    「すぐできるものを作るから、そこのラジオでも聞いて待っててよ」

     シャロンはそのまま厨房に入ると、コンロの火を付けて料理を始める。ミィナがテーブルの端を見ると、彼女が言った通りラジオが置いてあった。スイッチを入れてダイヤルを回していくと、ノイズがアナウンサーの声に切り替わった。

    『――ラルマディア共和国議会の公式発表によると、ファルケレン大陸からの製紙原料価格引き上げを理由とした出版税の引き上げを検討しているとの……』

     あまり聞きたくない話題だったので、ミィナは無意識にダイヤルを回す。国土の7割が山岳地帯のラルマディア共和国では、紙は貴重な資源だ。その分、本の価値がとても高い。

     当てもなくダイヤルを回してノイズと声を交互に聞いている内に、シャロンが皿を持って戻ってきた。皿からは食欲を掻き立てるような、香辛料の香りが漂っている。

    「お待たせ。カルトール・トチニだよ」

     表面がカリッと揚げ焼きにされたガレットのような芋料理がふたつ、皿に乗せられていて、シャロンは見せつけるように、ミィナの前に皿を置く。黄金色の表面から沸き立つ湯気が、香辛料の香りと共にミィナの鼻腔をくすぐった。

    「遠慮しないで、まだ営業前だからその下準備みたいなものよ」

     そう言いながら、シャロンはミィナの向かいに座って料理を食べ始めた。それに合わせて、ミィナもフォークを手に料理を口にする。油の香ばしさと芋の素朴な甘みが一気に広がり、ミィナの表情は自然と柔らくなった。

    「美味しい……! こんなトチニは初めて食べます!!」

     ミィナは目を輝かせながら、ゆっくりと味わうように噛み込んでいく。噛むほどに味わいを増しているかのような錯覚が襲い掛かり、気づいた時には半分食べ終わっていた。

    「そんなに嬉しそうな顔で食べてもらえると嬉しいねぇ……実は仕事もそのトチニに関係してるんだ」

     幸せそうなミィナの顔を見ながら、シャロンはおもむろに仕事の話を始めると、テーブルに1冊の古い本を置いた。

    「あの……この本は?」

     ミィナは口の中を空っぽにし、食器を置いて手を拭いてから本を手に取る。触れた感触から、相当古い本だと分かった。

    「それは黒世紀の伝統料理に関する本だ。あたしが頼みたいのは、その本の中身を読める形にして欲しいってことさ」

     そう言われてミィナが本を開くと、今の時代では使われていない文字の羅列が書かれたページが目の前に飛び込んできた。


    3.古代の文字と古代の遺産

     手に取った本のページに書かれていたのは、ついさっき食べたカルトール・トチニらしき料理の絵と、今は使われていない古い文字で書かれた文章だった。

     他のページにも、料理の絵と文章が並んでいて、これが料理に関する本なのは一目で理解できる。

     ミィナは食い入るように本の文章を見つめて、頭の中の知識と照らし合わせていく。その様子を、シャロンは料理を食べながらじっと眺めていた。

    「これはラルマティカ古文ですね。どこで手に入れたんですか?」
    「2年前にここに来た行商人から買った。よく知らずに買って、読めないと分かった時にはそいつは消えてたよ。だから詐欺師だったのかもね」

     シャロンは当時を思い出したのか、苦虫を潰すような顔で語ると、落ち着くためにコップの水を飲み干した。

    「今までは読まなくても別に良かった。でも最近、伝統の作り方がなってないって文句が多くてさ……ボルグレン種じゃない私に分かるかっての」
    「それで、この本を読みたいということですか?」

     シャロンの話から、どうしてこんな依頼をしてきたのかが見えてきた。見たところ、この本は料理のレシピを書いた本で間違いない。彼女は本に書かれているであろう作り方を知りたいようだった。

    「あたしも料理人だ。料理にケチを付けるなら、それを上回る料理で見返してやる。だがその知識がない。だからその本にも頼りたい気分なのさ……読めるかい?」
    「少し時間は必要ですが、読むことはできます」

     ミィナがシャロンをまっすぐ見つめて、確信を含んだ口調で答える。その表情を見て、シャロンは立ち上がってミィナの方へ歩み寄る。

    「よし、お前さんに任せよう……そいや名前を聞いてなかったね」
    「私は、ミィナ・サルヴィアラーネ・ラヴァルテンシュレーヴェンです」
    「ミィナ・サルヴィアーネ……あーとりあえず、みさらちゃんでどう? あたしには覚えにくい名前だわ」

     名前を繰り返そうとして断念したシャロンは、それぞれの頭文字を取って勝手に「みさらちゃん」というあだ名を作ってしまった。ミィナはそれを聞いて、くすくすと笑い出す。

    「みさらちゃん……そんな呼び方、初めてされました。ふふっ」
    「あー、気に入らなかったら謝るよ」
    「いえ。ミィナでも、みさらちゃんでも大丈夫です。お仕事、しっかりとやらせて貰いますね」

     ミィナも立ち上がり、シャロンと握手を交わす。こうしてミィナの最初の仕事が決まるのだった。

      ●

     仕事の契約をした後、穴の開いた家で暮らすのは大変だろうと、シャロンが一時的に店の空き部屋を貸すと言ってくれた。その好意を受けて、ミィナは屋根の穴にシートを掛けてから、荷物を持って再びシャロンの店に戻ってくる。

    「あたしの仮眠室みたいな場所だったけど、家が直るまでは好きに使っていいよ」
    「ご親切にありがとうございます。すぐに準備しますね」

     通された部屋は小さかったが、質素なベッドと机が置いてあり、一時的に生活するだけなら問題なさそうだった。

     中に入ったミィナはお礼を言うと、持ってきたトランクを開けて中から紙の束、インク壺、羽ペンの入った小さな箱、そして使い古された分厚い本を机に広げていく。

    「ラルマティカ古文の辞書がありますから、これで現在のラルマティカに翻訳していきます」

     ミィナは取り出した本の中から、一番分厚い本をシャロンに見せる。辞書であることは彼女にも分かったが、開かれた中身についてはあまり理解できず、つい渋い顔をしてしまう。

    「移住するときに勉強したつもりだったけど……知らない単語もいっぱいあるよ」
    「シャロンさんは移民だったんですか? あっ、すいません……」

     シャロンの言葉に、ミィナはつい質問を飛ばしてしまうも、それが良くないことだと気付き慌てて謝罪する。

    「気にすることないよ。あたしは2年前にハルシネラからこっちに来た。ここの料理に感銘を受けてね、店を開きたくなったんだ」

     シャロンは気にするでもなく、ここに来た理由を教えてくれる。それで彼女が料理屋をしている理由もはっきりと理解できた。

    「そうだったんですか……そこまで気に入ってもらえると、ボルグレン種としては嬉しくなりますね」

     異種族なのに、自分たちの料理を気に入ってくれたことを、ミィナは自分のことのように嬉しく感じる。そして、その気持ちに応えたいという使命感が湧き上がってきた。

     自分の知識で、誰かの為に仕事ができたら――それがミィナが編纂者を志した理由である。その機会に早速巡り合えた幸運に、感謝してもし切れなかった。

    「あたしは店を開くから、その間は休んでて。何かあったら呼んでね」

     シャロンが懐中時計を見ながら部屋を出て行くと、部屋の静寂がさっきよりも強く感じられる。ミィナは少し休もうとベッドに腰掛けると、無意識のうちに溜め込んだ疲れが一気に噴き出してしまい、気付かぬうちに眠りについてしまった。

      ●

     ミィナの意識が戻ってきたのは、扉をノックする音が耳に入ってきてからだった。ノックの音に反応するように耳がピクンと跳ね、直後に意識が戻っていく。

    「おや、寝てたのかい? 起こして悪いね」

     ドアを開けて入ってきたシャロンは料理の乗ったトレイを静かに机に置いた。ミィナが眠い目をこすって窓を見ると、空はすっかり群青色に染まっている。

    「今何時でしょうか……」

     ミィナはトランクに手を伸ばし、そこから小さな機械を取り出した。手の上に収まる大きさの箱で、ガラス張りにも見える上面が目立つ。それを机に置くと、シャロンは不思議なものを見るようにそれを観察し始める。

    「なんだいそれは?」

     あちこち見ながらシャロンが尋ねると、ミィナは答えを見せるかのように、箱のスイッチを押す。すると透明な面から光が漏れ出して、今の時間を示すホログラムの立体映像が浮かび上がってきた。

    「これは先史遺産フェローレンの技術を使った時計です。孤児院を出る時の餞別としてもらいました」

     机に置かれたホログラムの時計は、すっかり夜の時間であると伝えてくれている。無機質だが、どこか優しい雰囲気を与えてくれるホログラムの映像に、ミィナとシャロンは少しの間何も言えなかった。

    「本当は孤児院でそのまま働かないかって言われてたんです。私なら良い職員になれるって皆が言ってくれて……でも、私の両親が残してくれた歴史書を見て、この仕事をしたいと決めたんです」

     ベッドに座ったまま、ミィナはぽつりと自分のいきさつを語りだす。シャロンは黙ってそれを聞きつつ、ミィナの隣に腰かける。

    「少し不思議に思ったんだ。みさらちゃんみたいな子なら、誰かが迎え入れてくれたんじゃないかって……でも、あえて残ってたんだね」

     シャロンの推理を肯定するように、ミィナは頷いた。物心つく前に両親と死別し、出生記録の名前と、1冊の歴史書だけが残された彼女に、家族との生活は想像できない。だから、孤児院で同じ境遇の者たちの面倒を見ることが多かった。そうすれば、少しでも家族との生活を知れると思っていた。

    「私は……残った方が良かったのかもしれません。もし、私が本当に必要だと思ってくれていたなら……私はそれを反故にしたのではないかって、不安で……」

     ミィナはうつむいて、震える声を絞り出すように語った。シャロンから表情がはっきり見えなかったが、涙を浮かべていることは容易に想像できる。

    「そんなことないさ。あんたは自分の意志で出てきたんだろ? むしろ自分の為に生きていくと決めてくれたことを喜んでるさ。あの時計だって、自分の時間を大切にしろっていう想いが込めてあるかもしれない」

     シャロンはミィナを自分の方に引き寄せて、優しく背中を撫でる。背中越しの温もりがミィナの葛藤を溶かしていくかのように広がっていた。

     しばらく背中をさすっているうちに、気持ちが落ち着いてきたミィナは立ち上がる。その表情にはもう後悔の色はなかった。

    「ありがとうございます……恥ずかしいところを見せてしまいました」「誰にだって迷いはあるさ。あたしも生まれて150年ほどだけど、そういった悩みを持ったやつはたくさん見てきたし、自分の答えを見つけて進んでいったよ」

     シャロンは目を閉じて、昔に出会った人たちのことを思い出していた。まだ16歳のミィナには、彼女がどんな人と出会ったか想像もできない。それでも、自分だけが悩んでいた訳じゃないと分かっただけで、とても救われた気持ちだった。

    「あ、その時計で思い出したよ! たしかあの商人、おまけとか言ってあれを渡してきたんだ」

     シャロンは突然目を開き、そのまま部屋を出ていった。遠くで乱暴に物を漁る音がしたかと思うと、小さな機械を抱えて戻ってきた。

    「なんでも、最高の料理を作るのに必要不可欠だとか言ってたね。もっとも、これが何なのかは言わなかったけどね」

     そう言って、机にどんと置いた機械は、今のラルマディア共和国では見かけないデザインだった。しかしミィナは、驚いたように目を見開いて機械を観察し始める。

    「シャロンさん……もしかしたらこれ、未発見の先史遺産かもしれません」


    4.何事にも理由はある

     机に置かれた機械――見た目は金属の筒で構成されていて、蓋らしき場所にはいくつかのボタンが付いている。少なくとも、ミィナがこれまで見たことのない機械であることは確かだった。

    「シャロンさん、これを使ったことはありますか?」
    「いや、全然動かないからずっと放ったらかしだったね」

     動かないと聞いて、ミィナは慎重にその機械に触れてみる。金属の冷たい質感と、蓋の合成樹脂の感触が指から伝わってくるが、危険は感じない。そのまま持ち上げて全体を見てみるが、金属の筒みたいな機械であること以外に分かることはなかった。

    「てっきりここで作られた機械かと思ってたけど……まさか先史遺産だったなんて……あとで世界調整機構ミレティアルに怒られないと良いけど」

     シャロンは今日一番のしかめっ面で頭を抱える。先史遺産は世界調整機構によって一括で管理されていて、未発見の物は届け出るのが決まりとなっていた。

    「明日、街の研究所に持って行きましょう。それで何か分かると思いますから」
    「はぁ……それが一番だね。店も閉めてあるし、今日はもう寝ようか」

     ミィナは機械を先史遺産専門の研究所へ持ち込むことを提案する。他に異論も無かったシャロンも、小さくため息を吐きながら同意する。

     明日の予定が決まり、2人はそれぞれの部屋で眠りにつく。ミィナは明日のことと、先ほどの葛藤の余韻から眠るのに時間が掛かってしまっていた。

      ●

     翌朝、ミィナとシャロンはラーマディアの大通りを歩いていた。謎の機械の入った箱を抱えながら、2人は通りから少し外れた場所に建つ、無機質な建物に入る。入り口の看板には『先史遺産研究機関ミラ・テクーリス』の文字が、着飾ることのない文字で描かれていた。

    「一般の方ですか? ご用件をお伺いします」
    「えっと、先史遺産らしき物を見つけたので届けに来ました……」
    「対応しますので、そちらでお待ちください」

     ミィナたちが中に入ると、正面の受付にいた女性が声を掛けてきた。ミィナが自信なさげな声で用件を伝えると、受付係は入り口近くのソファを指し示しながら電話を取って連絡を取り始めた。

     受付係がやり取りをしている間に、ミィナとシャロンは言われた通りソファに腰掛けて待つことにした。

    「ハルシネラにも同じ建物はあったけど、入るのは初めてだね」

     興味深そうに、シャロンは建物を見回している。遺産の研究施設は各国に設置されているが、こうして何かを届け出る以外で訪れる者は稀だった。ミィナも釣られて辺りをきょろきょろと見回していると、不意に声を掛けられた。

    「おや、ミィナちゃんかい!? 久しぶりだねぇ!」

     聞き覚えのある声に驚いて振り向くと、そこには自分と同じ、ボルグレン種族の男性が立っていた。老年の男性は装飾の多いラルマディア共和国軍の軍服を着ていて、胸には勲章も付いている。誰が見ても将軍か、それ以上の存在であると分かる姿だった。

    「ジグルトさん、お久しぶりです! どうしてここに?」

     相手が分かると、ミィナは慌てて飛び上がり頭を下げる。その慌てぶりを見たシャロンも目の前の老人を見て、胸の記章から誰なのかを理解した。

    「ナルヴァ家の当主様か……」

     シャロンは聞こえないような小声でつぶやく。胸に付けたナルヴァ家の記章が、彼が現当主のジグルト・イエラシェン・フォン・ナルヴァであることを示していた。彼こそがミィナの育ったナルヴァの家の創設者であり、運営者でもあった。

    「仕事の一環だよ。それはそうと、君が家を出る時に立ち会えなくて済まなかった。娘がちょっと問題を起こしてしまってね」
    「レミューに何かあったんですか!?」

     ミィナが頭を上げると、今度はジグルトが頭を下げる。直後にミィナは彼の言葉にあたふたし始めた。話を聞いていたシャロンは、彼女が孤児院を出る時に立ち会えなかったことを詫びているように見えた。

    「大したことじゃない。新しい部隊を任されて張り切り過ぎただけさ。今頃は新しい部下を覚えるのに苦労してるだろう」

    「そうですか……レミューはいつも真面目ですね」

     ジグルトが自分の娘のことを思い出して苦笑すると、それが想像できたミィナもつい笑ってしまう。知った者同士の会話に割り込むのは無粋だと思ったシャロンは黙ってそれを眺めていた。

    「おっと、あまり話していると遅れるな。もし娘に会ったらまた仲良くしてやってくれ」

     腕時計を見てジグルトは名残惜しそうに、足早に建物から出て行ってしまった。ミィナも久々に会ったのか、もう少し話をしたそうな雰囲気でそれを見送る。それに合わせるように、控えていた受付係がミィナたちの方に近づいてきた。

    「お待たせしました。担当部署へご案内いたします」

     少しミィナに聞きたいことがあったシャロンだったが、受付係の有無を言わさない空気を感じ、ミィナの後に続いて歩き出した。

      ●

    「――電気を使う調理機械ですね。類似の機械は何度か回収したことがあります」

     機械を検分し終えた職員の男性は、ややがっかりした素振りで答える。既に何回か説明したことがあるのか、慣れた手つきでここに電池が入る、これを押せば起動すると使い方を説明してくれた。

     抑揚のない説明だったが、これが外でお湯を沸かしたり、入れた物を保温したり蒸したりと、熱を利用する野外用の調理機械であるのは十分に理解できた。危険な物かもと焦った昨日の自分の姿を思い出して、ミィナは少し恥ずかしくなってしまう。

    「電池はあるのかい?」
    「再現技術で製造した電池が使えます。引き取りを希望しますか?」
    「あー、なら引き取るよ」
    「では申請書を用意するのでお待ちください」

     電池さえあれば使えるということで、シャロンは少し考えて自分が引き取ることにした。それを聞いて職員は書類を取りに部屋を出て行く。

    「なんか……恥ずかしいです……」

     ミィナは頬を赤らめて椅子に座ったまま沈み込む。それに合わせるように、耳は垂れて翼は縮こまっていた。

    「まあ危険じゃないことが分かったから良いじゃないか! それにあの商人も歴史の本と、それに合った技術を一緒に売ってくれたって知れて安心した。ずっと詐欺師だったんじゃないかって気がかりだったんだ」

     シャロンは励ますようにミィナの肩をばしばしと叩いた。少し力を入れ過ぎたのか、ミィナは椅子からずれ落ちそうになって慌てて立ち上がる。

     歴史の本と、その中身に合った機械。それを一緒に売ってくれたということは、それらが繋がっていると分からなければできない。繋がりを知ることが世界の理解となることを、ミィナは肌で実感することができた。

    「ちょっとシャロンさん……!」
    「いつまでも辛気臭い顔はやめなって。とにかく、料理に使える物なら貰っておいて損はないだろう? むしろ得した気分さ」

     その言葉は彼女の本心だった。エリーファ種族特有のポジティブさと、シャロンの励ましに、ミィナも少しばかり元気が戻ってくる気分だった。

     職員が戻ってきて必要な書類を書き終わると、2人は引き取った機械と共に研究所を後にした。

      ●

     店に戻る道中、シャロンは気になっていたことをミィナに投げかけた。

    「さっき言ってたレミューって誰だい?」
    「レミューはジグルトさんの娘さんです。本名はレミュラって言うんですけど……私の親友でもあります」

     ジグルトとの会話である程度察していたシャロンだったが、直接答えを聞けて満足できた。足下を小鳥が歩いてきたので、シャロンがひょいと足下をずらすと、今度はミィナの方へ駆け寄ってくる。ミィナもやや大げさに回避して小鳥から離れた。

    「貴族のお嬢様とお友達とは驚いたね。仕事はしてるのかい?」
    「義勇兵連隊ミラ・ヴォスデントで軍人をやってます。去年の紛争にも参加してたみたいで……」
    「それは大変だったね。無事だったなら何よりだよ」

     ありきたりな返事で、シャロンはこれ以上の詮索をやめた。去年発生した国境紛争はかなりの激戦であったと伝えられていたからだ。

     世界調整機構と義勇兵連隊の影響力で、世界中の国家は安易に戦争を起こすことはできないが、地域紛争までは止められない。それが今の世界の限界でもあった。

    「はい。レミューは強いですから……私なんかよりも、ずっと強いです」

     ミィナは親友を思い出しながら、胸の前に持ってきた手をぎゅっと握る。それに合わせて翼が少しだけ開いた。この仕草は思い悩んでいると、シャロンには分かった。

    「そんな友達に憧れるのも分かるよ。そういった憧れは、誰だって持つものさ。……よし、店に着いたよ」

     シャロンは軽い励ましをするに留めて、店のドアを開ける。思い悩む相手に励ましよりも共感を示すというさりげない彼女の気遣いに、ミィナはまだ気付くだけの経験がなかった。

    「あたしは店を回さないといけない。お前さんは好きなように過ごしてくれて良いよ」
    「なら、お店のお手伝いをしても良いですか?」

     開店時間が迫る中で、シャロンは迷いの無い動きで開店準備を進めていく。ミィナも自分にできることがあればと手伝いを申し出たが、シャロンは手を横に振るだけだった。

    「気持ちは嬉しいけどね。料理できるのかい?」
    「あ……難しいです。でも、お皿洗いとかなら……」
    「そんなにお客は来ないから手は足りてるよ。あんたはまず、誰かの為じゃなくて、自分の為に動くことを勉強するんだ。あたしのことは気にしなくて良いから、今は自分に何ができるかを見極めな」

     突き放したような言い方だったが、ミィナにはどこか応援されているような感情が湧いていた。シャロンも単身で移住してきた身であることを考えれば、自分にできることは何かを知るのが大切であると、そう言ってくれているのだと分かった。

    「分かりました。私は部屋で仕事を始めます」「頼んだよ。あんたにしかできないことを、しっかりやっておくれ」

     意図が伝わったのが分かり、シャロンは笑顔でミィナを送り出す。それに応えるように、ミィナも自信を込めた瞳で彼女を見返してから、自分の仕事を始めるために部屋へ向かうのだった。


    5.解読、ラルマティカ古文

     部屋に戻ったミィナは机に向かうと、古文の辞書とシャロンの本を並べて広げる。その下に2枚の白紙を置き、羽ペンとインクを準備して仕事の体制を整えた。

     椅子に座って深呼吸し、初めての仕事に取りかかる緊張を和らげると、ミィナは本の文章に目を通し、それを紙へ書き写していく。書き損じは大きな損失となるので、自然と書く手も緊張で強ばってしまう。

     ラルマディア共和国では紙資源を輸入に頼る為、紙は貴重な資源であり、無駄遣いは避けるべきものだった。

    Dem Kartor-t aqua-val lavarni, ĂŠs tenuis-an secarni.Dem RaigawĂ­t-pulvis-vel miscerini.Dem cilindrum-on papaver-olajt fortis-ignisel sĂźtni.Dem cremor-herba-t super-on ungerni.

    ラルマティカ古文で書かれた原文

     書き写した文章を見て、ミィナは辞書を引いて分かりそうな単語を調べる。何度か出ている単語から、一般的な動詞を推測し、それを調べて現在の言語に照らし合わせる。

     書き写した文章を見て、ミィナは仕事を始めたという実感を持てた。自分のペン先から紡がれるものが、これから解明されようとしていると思うと、昂ぶる気持ちが彼女をより集中させる。

     文を見て、辞書を引いて分かりそうな単語を調べていく。何度も出ている単語を見つけ、一般的な動詞を推測し、それを調べて現在の言語に照らし合わせていく。

     現在の文型や文法を確認し、原文との違いを比較しながら文の構造を読み解いたり、主語となっている名詞を見極めて、文章が何を伝えているのかを考えながら、ミィナはもう片方の紙に訳文を書き連ねる。

    Mossa meg a Kartort vĂ­zzel, ĂŠs vĂĄgja vĂŠkonyra.
    (カルトールを水で洗い、細く切る)

    Keverje Ăśssze RaigawĂ­t liszttel.
    (ライガウィートの粉と混ぜ合わせる)

    Süsse erős tűzzel a cilindrumon, Paparece olajjal.
    (鉄板の上に油を引いて、熱くなったら焼く)

    Kenje meg tejfĂśllel ĂŠs fĹąszerrel.
    (クリームと香草を全体に塗る)

    ミィナが翻訳したラルマティカの訳文

      文章を読み直し、問題なさそうだと判断したミィナは小さく息を吐く。

    「やった、私でもできた……!」  

     ミィナは達成感から、耳がぴくんと跳ねている。白紙に自分の文字で世界を描いているような感覚が、彼女を興奮させていく。

     最初の訳で勢いづいたミィナは、そのまま次の文章に取りかかっていく。頻繁に出てくる単語は別の紙でリスト化し、調べる手間を省きながら訳を書いていく。未知の存在が自分の手で解明されていく度に、ミィナの心に達成感が積み重なっていった。

     今のミィナには机の上の世界しか見えていない。紙に書かれる世界だけが、今の彼女の全てになっている。頭の中でできあがったモノが、羽ペンを通して紙という大地へ注がれていく。

     文章で紙が埋められていく幸せを噛みしめながらも、ミィナは書いた文をこまめに読み直していく。これが仕事であることも忘れないように、書き出す文に間違いがないように、書き間違いがないようにペンを踊らせる。  

     時間の流れからも隔離されたミィナは、何時間も経っていることにも気付かず訳を書いた紙を積み重ねていった。

      ●

     ミィナが気付かないうちに、夜になっていた。シャロンの店はもう閉店になり、星とふたつの月が空に浮かんでいる。  彼女がそれに気付いたのは、シャロンが料理を持って部屋に入って来て肩を叩かれた時だった。ずっと本と紙の世界に入り込んでいたミィナは、ようやく現実の世界に戻ってくる。

    「凄い集中力だね。その様子だと順調そうだけど、少しは休みなよ」

     シャロンは机の空いている場所に料理を置こうとするが、ミィナがそれを手で止める。

    「待ってください。こぼれたら大変なので」

     ミィナは手早く本を閉じて、書き上げていった紙の束をまとめると端の方に片付ける。机が広くなってから、彼女は料理を受け取った。

    「これは……見かけないスープですね」

     受け取ったスープには野菜と肉団子が入っていて、肉の香りと香草らしい香りが入り交じっている。異なる香りなのに、どこか食欲を刺激してくるスープに、ミィナの空腹感が増していた。

    「それはハルシネラでよく食べてたスープだよ。鶏肉と香草を混ぜた団子が疲れに効くんだ」
    「ひっ……!?」

     シャロンが何の料理か教えてくれた直後、ミィナは顔を真っ青にして椅子から転げ落ちてしまう。そのまま起き上がったと思ったら、スープから距離を取るようにベッドの方へ後ずさり、シャロンに背を向けてしまった。

     あまりに突然のことで、シャロンも理解が追いつくまで何もしゃべれなかった。その間ミィナは羽も翼も含めて、体中が小さく震えていた。

    「一体どうしたんだい!? もしかして……スープに何かあるのかい?」

     シャロンはミィナに近づいて震える肩に手を置く。それで少し落ち着いたのか、ミィナは彼女の方に振り返る。目には涙が溜まっていて、どこか恐怖で引きつっているようだった。

    「ごめんなさい……私、小さい頃に……」
    「いいよ。落ち着いて深呼吸しな。無理に話さなくてもいい」

     ミィナが何かを言おうとしているが、上手く言葉が出てこない。シャロンは急かさずに、静かにミィナの言葉を待つ。少し経って、彼女は少しだけ迷う素振りを、耳を上下に動かして示していたが、小さな声で過去を語り出す。

    「一度だけ、孤児院を抜け出して森に行ったことがあるんです……その時に、綺麗な鳥を見つけて、綺麗だなって見上げてたら……その鳥は目の前で撃ち落とされました」

     ミィナは心の奥に眠る傷を押さえながら、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。その話を聞いて、シャロンは何が悪かったのかすぐに理解できた。

    「それから、急いで鳥が落ちたところへ行ったんですけど、その鳥は猟師の人たちが捕まえていて……それから、鶏肉を見ると怖くなって……あの森が猟区だと知ったのは、抜け出したのがバレて怒られたときでした……」

     シャロンはここまで聞き終えて、彼女が深いトラウマを背負っていると十分に理解できた。そして何も言わずにスープを片付ける。しばらくして戻ってきたときには、昨日食べたカルトール・トチニが乗った皿を持ってきてくれた。

    「悪かったね。まさか鶏肉がトラウマだとは思わなかったよ」
    「いいんです……私こそ、せっかく作ってくれたのに……ごめんなさい」「謝らなくていいよ。代わりにこいつを食べてくれれば良いさ」

     シャロンに促されて、ミィナは料理を口に入れる。最初に食べたときと変わらない味に、今は安心感を覚えることができた。料理を食べ終えた頃には、羽や翼の震えも収まって少しばかり元気になっていた。

    「ありがとうございます、シャロンさん」
    「今日は遅いし、風呂を沸かしておくからゆっくり休みな。続きは明日でもできる」

     シャロンが空になった皿を持って出て行くと、ミィナは机の上の紙束に目を落とす。トラウマは根深いが、今はやるべきことがあると、自身を奮い立たせるのだった。


    6.初めての経験は成長になる

     夜が明けて、ミィナは窓から入り込む陽の光を受けて目を覚ます。昨日の鶏肉のトラウマで寝付けないかと心配したが、逆にすぐに眠ってしまっていた。

    「今の時間は……」

     ミィナはまだ重い瞼を擦りながら、机の時計を起動する。立体ホログラムが今の時刻を映し出すと、正午まであと少しという時間だった。一度シャロンが入って来たらしく、布が被せられた料理が机に置かれている。

    「こんなに寝ちゃったんだ。シャロンさんはもうお店の準備中かな?」

     ミィナが窓から外を見てみると、通りの向こう側に自分の家が少しだけ見える。穴の開いた屋根に掛かる応急処置の布は健在で、シャロンの計らいで警官が時々見回ってくれている。遠目から異常が無いことに安心しつつ、ミィナは身支度を整え、シャロンの料理を食べてから仕事を再開した。

      ●

     お昼の喧騒が、扉越しにミィナの部屋にも伝わってくる。シャロンは店の対応中だが、時々豪快な笑い声が聞こえてくる。

     人々の雑談や笑い声を心地よい環境音として、ミィナは残る仕事を片付けていく。日が暮れる頃には、本の訳が書かれた紙を丁寧に整えて、端の方に穴を開けていた。

     位置がずれないように、慎重に専用の針で穴を開け、最後に木製のクリップを穴にはめ込む。製本ができない時に使われる手法で、紙がバラバラになるのを防ぐ以外にも必要なページだけ開きっぱなしもできた。この簡易製本で、ミィナの最初の仕事は完了する。

    「できた……初めての本……!」

     目の前にある本を見て、ミィナの耳が跳ねて翼が喜びを示すようにぱたぱたと動く。ちゃんとした製本ではないが、間違いなく自分の手で作り上げられた本が目の前にある。ミィナはその本の表面をそっと指をなぞり、紙とインクの感触を確かめる。

     自分の本が存在する――それがミィナにとって、最大の達成感と、未来への自信となっていた。

     感動に浸っていると、閉店作業を終えてシャロンが夕食と一緒に部屋に入ってきた。

    「夕飯だよ。調子はどうだい?」
    「はい、完成しました!」

     シャロンが尋ねてくると、ミィナは自分の成果を彼女の前で披露する。そこにはラルマティカで書かれた、ボルグレン種族の伝統料理のレシピがしっかりと記録されている。

     差し出された本を受け取って、シャロンはページを捲って中身を確かめていく。その様子を、ミィナは緊張した面持ちで眺めていた。

    「これは……あたしでもちゃんと読める形だ。すごいじゃないか! これで口うるさい客も黙らせられるってもんだ!!」

     シャロンは興奮のあまり腕を振るい上げそうになって慌てて止める。それくらい、ミィナの仕事ぶりに喜びを隠せなかった。

     一方でミィナも、シャロンの様子から自分の仕事を評価してくれたことが分かって顔が明るくなっていた。

    「ありがとう、みさらちゃん。とても良い仕事だったよ」
    「いえ、私もシャロンさんにお礼を言わないと。自分の為に頑張ることを教えてくれたおかげで、私も成長できましたから」

     ミィナはそう言って、懐から小さな手帳を取り出した。それを片手で開くと、ラルマティカ古文の単語と、現在のラルマティカの単語が並んだ変換表が書かれていた。

    「シャロンさんに言われなかったら、私は自分の為にこの手帳を作るのを考えなかったかもしれません。だから、私の方こそ、ありがとうございます」「何だい、頭を下げることはないだろう。あたしが困っちゃうよ」

     ミィナが軽く頭を下げてきて、シャロンは慌ててやめさせる。お互いに納得のいく結果を得られたことで、その後の夕食はとても楽しい時間となっていた。

      ●

     楽しい夕食時間も終わろうとしていた時、シャロンはふとミィナに声を掛けた。

    「なぁ、お前さんの本で作れるようになった料理。作ってみるかい?」「えっ、料理ですか……私が?」

     皿を片付けようとしていたミィナは動きを止めて考え始める。思えば料理はいつも作ってもらっていたので、自分で作ろうという意識が抜け落ちていたことに気付き、良い機会だと思い直す。

    「今後の為にも、いい練習になる。どうだい?」「はい、ぜひやらせてください!」

     ミィナのやる気に溢れる返事を聞いて、シャロンは「良い返事だ」と返しながら急いで厨房へ向かって行った。

     後からミィナが厨房へ入ると、シャロンは最初にあった時のような調理服の姿で立っていた。

    「あたしの予備だけど着替えておきな。何かあって服が汚れたらいけない」「はい。すぐ着替えてきます」

     そう言って渡された服を受け取って、ミィナは部屋で服を着替えようとする。

    「シャロンさん、ちょっと……ああっ!」
    「どうした?」

     着替えを待っていたシャロンに、ミィナが慌てた声で呼びかける。その口調から、何かあったのかと思い部屋のドアを開けてみれば、ミィナが調理服を着ようとしてもがいていた。

     しかし、背中の翼が邪魔をして、袖を通す事ができず悪戦苦闘している。恥ずかしい姿を見られて、ミィナは翼も耳もしおれるように小さくなっていた。

    「あー、悪い。やっぱりそのままでいいよ。汚れたらあたしが洗うから」「はい……すいません」

     全くの予想外に、シャロンもそれ以上のことは言えず、部屋を出てミィナを待つことにした。

      ●

     元の姿に戻ったミィナは、エプロンだけを付けて調理台に立った。目の前にはカルトール・トチニの材料と調理器具が揃っていて、後ろに立つシャロンが指示を飛ばす。

    「じゃあまずはカルトールを切ってみるか。包丁持ってみて」

     シャロンに言われて、ミィナはゆっくりと包丁を握る。初めて握るのか、少しだけ震えていた。

    「そうやって持つとケガするよ。ほら、こうやって……」

     シャロンは包丁を握るミィナの手を包むように、自分の手を添えて指導する。そうやって持ち方を正して実際に切ってみるが、大きさは不均等で形も崩れているので、ミィナの顔が少し暗くなる。

    「最初はこんなもんさ。次は麦を潰してみよう」

     落ち込むミィナを励ましつつ、次の工程に進んでいく。細く切られたカルトールと、ライガウィートの粉を混ぜて生地を作っていくが、力加減を間違えてボウルから飛び出したり、うっかり水の量を間違えて生地が崩壊してしまったりと四苦八苦の様相だった。

     それでも何とか生地ができ、いよいよ焼くところまで進めた。

    「この鉄板はトチニを作るのに最適だが、火加減が難しい。焼き加減に注意しな」

     そう言って、シャロンは手本として生地の塊をひとつ乗せる。少し経つと、生地の色が段々と狐色に変わっていき、火が通ったタイミングでひっくり返す。そして焼き上がったのは、見事な焼き色を持ったトチニだった。

    「さあ、やってみな」
    「はい……それっ!」

     ミィナは見様見真似で生地を鉄板に置く。その時、緊張のあまり翼をはためかせて風を送ってしまった。

    「バカ、火が強くなる!」

     シャロンが慌てて止めるが、火は勢いよく燃え出してあっという間に鉄板の上を灼熱地獄に変えてしまった。さっきよりも倍近い速さで、生地は狐色から炭のように変色していく。慌てて生地を取り出したが、既に生地は黒い塊となっていた。

    「私……料理はできないかもしれません……」

     失敗続きで、ミィナは落胆するように屈みこんでしまう。初めてであることを除いても、翼などの身体的特徴から難易度が上がっているのが分かり、シャロンも火を消してから考え込む。

    「うーん、あたしのやり方では難しいか……でも、もしかしたら……」

     シャロンは何か思い立って厨房の奥へ行くと、引き取ってきた先史遺産の調理機械を抱えて戻ってきた。

    「こいつを使えばいけるんじゃないか?」

     そう言ってシャロンは調理機械を起動させて、もう一度ミィナとトチニを作り始めた。

      ●

     結果として、機械があれば作ることはできた。先史遺産の機械は材料を入れれば、すり潰したり、加熱したりできたので、材料さえ切ってしまえば後の過程をすべて任せることができた。そのお陰で、ミィナは初めて自分の手で料理を作ることに成功する。

    「これが、私の初めての料理……」

     皿に乗ったトチニは、シャロンの作ったものに比べれば見た目は劣るが、十分に食べれそうだった。

    「どれ、あたしが試食を担当しようじゃないか」

     そう言いながら、シャロンはミィナの料理を口にして、味わうようにゆっくりと噛んでいく。嚙み終わって喉に通し終えると、少しだけ眉間にしわが寄っていた。

    「味は悪くない。ただ……機械に任せるとどうしても加減が狂うね。レシピ通りの味にはまだ遠いか」

     シャロンの評価を聞いて、ミィナはどう反応したらよいのか分からず固まってしまった。

    「別に悪く言ってるんじゃない。料理人がこれを使うのはちょっとやめた方が良いってだけさ。これはお前さんが持ってた方が良い。追加の報酬ってことにしておくれ」

     シャロンはそう言って調理機械をミィナの方へ差し出す。特に拒否する理由も無かったミィナだが、まだ浮かない顔をしていた。

    「自分で全部できるのが最善だとは思うけどね。世の中どうしてもそうはいかない。料理のためにその翼を捨てる覚悟があれば別かもしれないが、自分を犠牲にし過ぎても良いことなんてないさ。お前さんだって、辞書や時計に頼るだろ? これはそれと一緒さ」

     シャロンは個人でできることに限界があるのをよく知っていた。身体的な特徴であればなおさらで、できないなら別の力に頼るのも大切であると分かっていた。

    「これに頼りたくないなら、それを必要としないところまで精進あるのみだよ」
    「そうですね……何かに頼るのも、大切なこと」

     自身の心情を察した言葉を聞いて、ミィナはまた前向きな思考に切り替えようとする。言われてみれば、孤児院でも今でも、頼れるものには助けを求めた。それも、自分ができないことを助けてもらう為だった。

     自分だけでは全てを解決できない。それを自覚すると、ミィナの心にあった重りがすっと消えるような気分だった。

    「ありがとうございます。いつかちゃんと作れるようになったら、私からご馳走しますね」
    「そいつは楽しみだ。その時はいつでも呼んでおくれ。何があっても完食してやるから」
    「ふふ、約束ですよ」

     ミィナが可笑しそうに返すと、シャロンは「ああ、約束だ」と言いながら厨房を片付け始めていく。初めてのことが多すぎて大変だったけど、それでも悪くない夜だとミィナは思っていた。


    7.新しい仕事は突然に

     初めての納品から4日が経ったが、シャロンから修理代の足しにと渡された金額ではまだ修理代には届かず、ミィナは新たな仕事を見つける必要があった。

     シャロンの方も、できれば修理代のすべてを出してあげたい気持ちだったが、そこまでの資金を持っているほど裕福ではない。しかし、応急処置だった布の覆いを、彼女の伝手で近所の大工が無償の範囲で補強してくれた。

     そのお陰で、2階を使わなければ住める状態になったので、ミィナは自宅に戻ることができた。初日に中断された家の掃除をしつつ、時々シャロンの店に手伝いや相談に行くようになった。

     今は昼の内に屋根の電灯を交換したいという、シャロンからの頼みで手伝いをしている。

    「よっと……これでいいですか?」
    「よし、いい感じだ! 降りておいで」

     ミィナは翼で滞空しながら、シャロンの店の屋根に電灯を取り付ける。地上からそれを見上げていたシャロンは満足そうに頷き、それを見てミィナも地上に降り立った。

    「飛べるのは便利だねぇ。わざわざ梯子を持って行かなくて済むし」
    「万能じゃないですよ。風が強すぎたら飛べないし、そこまで高く上がれるわけでも……」

     謙遜するミィナだが、シャロンは「畏まることないよ」と言いながら肩を叩いてくる。ミィナもこのやり取りにはもう慣れてきたが、心の隅には次の仕事を見つけないとという焦りが燻っていた。

    「早く終わって大助かりだよ。ちょうど昼時だし、なにか食べていきな。お代はいらないよ」
    「はい、ありがとぅございます」

     予定より早く終わって上機嫌のシャロンはミィナを昼食に誘う。断る理由もなかったので、ミィナも了承して店へと入って行った。

      ●

     シャロンの店は正午に開くので、ミィナが昼食を取っている最中に客が入ってきた。大半は彼女と同じボルグレン種族の者だが、それ以外の種族もちらほらと見受けられる。

    「最近ここのトチニが良い味になったんだ」
    「やはり伝統を感じる香りがないとな」

     奥のテーブルに座るボルグレン種の男たちがそんなことを言いながら、出されたカルトール・トチニを平らげている。

     それを見てミィナは、自分の仕事が確かに活かされていることを実感する。心なしか自分が食べている料理も普段より美味しく感じられた。

     そうして料理を楽しんでいると、来客を告げるベルが鳴って店のドアが開く。すると、料理を楽しんでいた客たちが一斉に静まり返ってしまった。

     ミィナもどうしたのかと思い、入り口の方に振り向くと、そこには見知った姿が見える。

    「ジグルトさん……!?」

     庶民向けの店に似つかわしくない、綺麗な軍服を着たジグルトの来訪に誰もが驚いていた。

    「何だい急に静かになって……って、ナルヴァ家の当主様じゃないか!?」

     シャロンの方も、予想外の来客に目を見開いてしまう。そんな客たちの反応を他所に、ジグルトはミィナの姿を見つけると、そちらに近づいて行った。

    「君を探していたら、ここによく来ていると言われたんだ。元気そうで良かったよ」

     まるで親しい友人に交わすような挨拶で、ジグルトはミィナの向かいの椅子に腰かける。軍の将官、それも貴族軍人に気さくに話しかけられたことで、客たちの視線はミィナに注がれていく。

     周りがひそひそとミィナが何者なのかと囁き合っているのが聞こえて、ミィナの耳が恥ずかしさで垂れてしまう。

    「ジグルトさん、何もこんな場所で……」
    「気にするな。私が誰に対しても変に気遣わないことは分かってるだろう? 変な噂を立てる者など、気にすることはない」

     ジグルトはそれが当然であるかのように、周りに聞こえるように大きめの声でそう言うと、囁き声が消え去った。それが良いタイミングだと判断して、シャロンがミィナたちのテーブルに近づく。

    「さて当主様、ご注文はいかがしますか?」
    「あなたが店主ですか? 初めて見るような気がしないが……」

     わざとらしい口調で注文を聞くシャロンを見上げて、ジグルトは不思議そうに首をひねる。エリーファ種族は皆が同じような見た目で、外見だけで個人を判別するのは難しい。

    「ナルヴァの家に一度だけ行きました。エリーファ種の食事について意見を求められて」

     答え合わせをするようにシャロンが答えると、ジグルトも思い出したかのように軽く手を叩く。 

    「なるほど。あの時は貴重な意見を貰えて助かったよ。確かシャロン……と言ったかな? エリーファ種は名前だけと聞いていたが……」
    「その通りです。あたしはシャロンが本名ですが、ここでは『シャロン・オーギュスト・ヴァースティン』で通してますよ」

     本来は性を持たないシャロンがこの国でのフルネームを述べると、ミィナの耳がぴくんと跳ねる。同時に顔が少しだけ明るくなった。

    「それって、ラルマディアの伝説の料理人だったリラン・オーギュストと、それを支えた貴族のヴァースティン家の組み合わせですか!? 歴史的にはこの人の登場で歴史が区分されていると……」

     歴史要素を見つけてミィナは突然語り出しそうになってしまうが、ジグルトがそれを静かに手で制する素振りを見せる。それを見てミィナはまた恥ずかし気に顔を伏せてしまった。

    「相変わらずのようだな。できれば聞いてあげたいが、それは仕事の時に取っておきなさい」
    「仕事……?」

     ミィナの性格を知っているジグルトは気にする様子もなかったが、仕事という言葉にミィナとシャロンは同時に反応して彼の方を見る。

    「どうも困っていると聞いてね。本来なら個人にそこまで肩入れするのは良くないのだが、友人の悩みを一緒に解決できるかもしれないと思って探してたんだ」

     そう言いながらジグルトは懐から手帳を取り出して、あるページを丁寧に切り取ってミィナに手渡す。受け取ったそれを見ると、名前と連絡先、住所が記されていた。

    「ルーベン・フェレト・アル・ヤノーシュカ……学術貴族の歴史学者……」「やはり知っているか。彼は長年の友人なんだが、最近身体が優れなくてね。今書いている本の手伝いを探してるんだが……」

     黒歴史の時代を研究する代表的な人物として、ミィナは何度か歴史書の著者名に、その名前が記されていたのを覚えていた。ジグルトがそのような人と友人だったのは初耳だったが、彼の言い方から次に出てくる言葉がなんとなく分かってしまう。

    「私に、その手伝いを……?」
    「ミィナちゃんなら、頭の固い彼でも納得してくれるだろうと思ってね。執筆補助として採用されれば、印刷権で何割かの収入は貰えるだろう」

     突然舞い込んだ仕事に、ミィナはすぐ答えられなかった。学術貴族は歴史や文化に多大な貢献をした者に与えられる称号であり、その知識量や教養の高さはミィナとは比較できない。そんな人物の手伝いをするだなんて、何をすればいいのか全く想像できなかった。

     しかし、今抱えている問題の殆どを解決できる仕事なのは確かであり、やりたい気持ちと不安がせめぎ合ってなかなか言葉を出せなかった。

    「私に……できますか?」
    「できると思うから頼んでるんだ。彼が心配だったからいい機会だし、ミィナちゃんにも良い学びになると思っている」

     ミィナはなんとか言葉を出してみるが、ジグルトにできるとはっきり言われてしまい、逆に不安になってきた。もし期待に応えられなかったどうしよう――そんな気持ちが、所在なさげに動く耳と翼に表れていた。

    「良い話じゃないか。貴族様の手伝いなんて早々できるもんじゃない。これで家だって直せるんだ、受けない理由はないと思うよ」

     シャロンはそう言って、ミィナを鼓舞するようにそっと肩に手を置く。ここまで支えてくれた彼女にそう言われて、ミィナは冷静さを取り戻して考え込む。少なくとも、断る理由は見当たらない。しかし確認しないといけないことはあった。

    「採用されればということは、何か試験があるということですか?」「その通り。彼は自分が認めた者にしか手伝いをさせないんだ。既に何度か試験を受けた者は居たが、全員追い返された」

     ミィナの予想は的中し、この仕事を得るには試験という大きな試練を乗り越えなくてはいけないようだった。歴史については周りより詳しいと思っているが、果たして専門家に認めてもらえるのか。新たな不安が彼女の心に舞い降りて判断を鈍らせようとする。

    「試験と言っても、いくつか質問に答えるだけだ。紙の試験みたいな大仰なものじゃない。その気になったら、彼を尋ねてみなさい。私の紹介であることは先に伝えておこう」

     ジグルトはそれだけ言うと席を立つ。シャロンが「注文はないのかい?」と、少しだけ嫌味っぽく言ってみると、彼は店内を見回して何かを思いついたように笑みを浮かべる。

    「では、ここのテーブルすべてに我がボルグレン種の伝統料理、カルトール・トチニを振舞ってくれるかな? 代金は第1空中機動旅団司令部宛てで請求書を送ってくれれば良い」

     突然の奢りに、店内の客たちは一斉に歓喜の声を上げる。想定外の注文に唖然とするシャロンに、ジグルトは悪戯っぽく笑って見せると、そのまま店を出て行った。

     周りから料理を催促する声が響く中で、ミィナだけは渡されたページをじっと凝視している。

    「今すぐ決めることはないさ。じっくり考えて、そこで納得できる結論を出しな」

     シャロンは耳元でそれだけ言うと、大量注文を捌くために厨房へ駆けこんで行った。ミィナはページを見るのをやめて深く息を吸ってから、ゆっくりと息を吐いていく。それに合わせて、翼もゆっくりと広がっていく。

    「よし……!」

     ミィナは小さくも、力強い意志を持って呟く。そして、自分の手帳に渡されたページの情報を書き写していった。


    8.なぜ歴史を知りたいのか

     ジグルトが店を訪れた翌日、ミィナはラーマディア市街の空を飛んでいた。眼下に広がる街の通りでは、人々が自由に過ごしている。

     買い物客を相手に気前よく話す、狐のような耳とふさふさの尻尾を持ったフォクサナ種族の商人が居れば、仕事上がりなのか集団で食堂へ入って行く小柄なグリュンド種族の姿も見える。

     別の場所では人間がコーヒーを飲みながら談笑し、同じボルグレン種族の郵便配達員が飛びながら手紙を運び、生真面目そうな緑肌のモルカン種族の男性がそれを受け取っている。

     見た目も思想も違う者たちがそれぞれ自由に過ごす姿は、ある意味ではこの世界の姿を映したようにも見える。

     そんな街の様子は、緊張が抜けきらないミィナの心を少しだけ落ち着かせてくれた。飛んでいる時に受ける風はいつも心地良いのに、今は何も感じない。

     これから向かう先のことを考えると、どうしても余裕が出てこない。行き先はラーマディア郊外にある閑静な住宅街。しかし、その場所は貴族が多く住む場所であり、ミィナにとってこれまで縁のなかった場所だ。

     これから向かうルーベン・フェレト・アル・ヤノーシュカの屋敷も、そこに建っていた。市街地を通り越し、のどかな平地の中に大きな屋敷がいくつか建っている場所に着くと、ミィナは視線を地上に移して目的の屋敷を探し始める。

    「ラーマディア東地区、ブリア通り1404番地……あれかな?」

     手帳に書き写した住所を見て、目的地である屋敷の手前で降り立つ。2階建ての屋敷は思ったより大きいものではなく、外見に派手さもない。貴族の住まいとしては質素に感じてしまうほどだった。

    「ここで間違いないみたいね……よし!」

     間違いが無いことを確認し、ミィナは自分を鼓舞するように、力を込めて小さく翼を広げる。それから、門の呼び鈴を鳴らして相手を待つ。

     少し待つと、屋敷の方から誰かがやって来た。同じボルグレン種族の女性で、服装から女中であることが伺える。

    「アル・ヤノーシュカ様にご用でしょうか?」
    「はい。ジグルト・イエラシェン・フォン・ナルヴァさんからの紹介で……」

     女中の毅然とした態度にミィナは押されてしまい、声が少しずつ小さくなっていく。しかし女中はジグルトの名前を聞くと、纏っていた雰囲気が柔らくなった。

    「ラヴァルテンシュレーヴェン様ですね。お話は伺っておりますので、どうぞお入りください」

     既に話は伝わっていたらしく、女中は慣れた動作で門を開けてミィナを招き入れる。あっさりと中に入れてもらえたことで、ミィナは戸惑いつつも女中に従って屋敷の門を潜った。

      ●

    「こちらでお待ちください。主人はすぐに来ます」

     古風な調度品で整えられた応接間に通されると、女中はミィナをソファに座らせてから部屋を出る。ひとり部屋の中で待たされる間、部屋の中を見回してみる。

     1000年以上前の貴族が使っていたとされる翼に着ける派手な装飾品。かつて王国だったラルマディアが共和国へ移行した瞬間を描いた絵画。本棚に敷き詰められた無数の歴史書――ミィナがこれまで写真などでしか見たことがない、本物の歴史を伝える物たちが、まるで彼女を見定めるかのように見つめているとさえ感じる。

     その中で特に彼女の気を引いたのは、本棚の傍にあるガラスケースに入れられた短剣だった。

     最低限の装飾が施された鞘に納められているが、その短剣にミィナは既視感を覚えていた。ソファから立ち上がり、ガラスケースに近づいてその短剣をまじまじと眺める。まるで誘われたかのように、ミィナは短剣に釘付けになってしまう。

    「それは黒世紀に起きたロント事変の首謀者、アルトゥーラ・ロントが蜂起に用いたとされる短剣だが……なぜ彼は国を裏切ったと思うかね?」

     急に声を掛けられて、ミィナの翼と耳はぴくんと跳ね上がった。慌てて振り返ると、いつの間にか壮齢のボルグレン種の男性が後ろに立っていた。片方の翼が妙な方向に曲がっていて、杖で身体を支えている姿はかつて新聞で見た写真の記憶そのままで、彼がルーベン・フェレト・アル・ヤノーシュカであることはすぐに分かった。

    「あっ……すいません! 来ているのに気付いていませんでした!!」 

     ミィナはあたふたしながら頭を下げる。夢中になっていたとはいえ、入ってきたことに気付かなかったのは失態だと感じ、ミィナはほぼ放心状態になってしまう。

    「そんなに畏まることはない。座ってゆっくりと話し合おうじゃないか」

     ルーベンは不機嫌な様子も見せず、諭すように話しかけてミィナにソファへ戻るよう、仕草で促してくる。少しだけ冷静さを取り戻して、彼女はソファに戻った。

    「さて、ミィナと言ったかな? ジグルトから話は聞いている。あのお節介が寄こしたんだから、歴史には詳しいとお見受けするが……」  

     向かい合って座るルーベンは、お節介と呼んだジグルトへの呆れを示すように、小さくため息を付いてみせる。それと同時に、先ほどの女中がコーヒーの乗ったトレイを持って入ってくる。

     無言でテーブルにコーヒーカップと砂糖の瓶、ミルクポットを置くと、女中は一礼して部屋を去る。部屋にはミィナとルーベンだけが残され、周りの物たちが観客のように、2人をじっと眺めている。

    「ボワンで採れたばかりのアーカンゲル豆だ。私はこれがないと生きていけないよ」

     ルーベンはミルクと砂糖を入れたコーヒーをかき混ぜる。少しだけ迷ってから、ミィナもミルクを入れてコーヒーをかき混ぜる。歴史の香りの中に、苦みのあるコーヒーの香りが混ざり合って部屋を満たす。

    「では早速だが、先ほどの質問についてどう考えるかい?」
    「えっと……なぜロントは国を裏切ったのか、についてですか?」

     ミィナの質問に、ルーベンはコーヒーを一口飲んでから静かにうなずく。それが肯定を示していた。

     ミィナはすぐに答えず、コーヒーカップを持ったまま頭の中を整理する。ルーベンは何も言わず、ただ答えを待っていた。その様子を見ると、早く答えないとという焦りが、ミィナに重くのしかかってくる。

    「私は、国を裏切ったとは思いません。国を良くする為に考えて、考え着いたのがあの蜂起であったと思います。もし、違う考えになっていたら、あの事件は起きなかった……そう、思います」

     とにかく早く答えようとして、考えがまとまらない状態で答えてしまい、声が徐々に小さくなっていく。彼女が答え終わるまで、ルーベンは何も言わなかった。

    「確かに、その見方は重要だ。歴史に記録されることにはそれだけの理由がある。問題なのは、何を理由としているかだ」

     思いのほか肯定的な答えが返ってきて、ミィナは驚いたように耳が跳ねる。それを気にせず、ルーベンはコーヒーカップを置くと、立ち上がって本棚から2冊の本を取り出し、そのまま2冊の本を並べてテーブルに置いた。

     置いた本をそれぞれ開き、向きを変えてミィナの方に見せる。

    「この2冊にはロント事変の項目がある。しかし、それぞれの見解は全く異なっている。君はどちらの主張を信じるかね?」

     そう言ってミィナの前に押し出された2冊の本を、交互に読み比べる。片方には国を裏切った大罪人であるかのように、糾弾する内容が記されていて、もう一方は国の未来を憂い、必要悪となって国民に外敵の危機を示した真の愛国者であるように書かれている。どちらの内容も、ミィナがこれまで本で読んだことがある見解でもあった。

     同じ事件を扱いながら、全く異なる見解を示す2冊の本。この質問が自分を試すためのものであることは明らかで、同時に試験でもあった。

     この質問への回答が、全てを決める。そう思うと、ミィナの額から少し嫌な汗がにじみ出てしまう。

    「すぐに答えなくても良い。君自身が納得できる回答を聞かせてもらえれば、それで十分だよ」

     そんな心情を察したルーベンは再びコーヒーを飲みながらソファに深く背を預ける。その様子が、逆にミィナに焦りの感情を生み出してしまう。自分は歴史に強いと思っていたが、自分が思いも付かない視点がまだ無数にあると、目の前の本が教えてくれている。

     ――いったいどう答えるべきか。 ミィナの思考はコーヒーミルに入れられた豆のように、ぐるぐると巡っては砕けていく。他のページも見ながら、ミィナは砕けた思考を拾い集めて答えを見つけようとした。

     その中で、あるページにミィナは注目する。内容とは無関係に見えたページだが、そこに答えが眠っているような感覚が彼女の身体を駆け巡る。

    「……」

     ミィナの橙色の瞳が、文字を必死に追っていく。その真剣さにルーベンは何も言わず、静かに答えを待っている。5分程度の沈黙の末、ミィナは深呼吸で気持ちを整える。それに合わせて翼も静かに動いていた。

    「どちらの主張も読んだことがあります。その上で考えましたけど……どちらの主張も正しくないと、私は思います」

     ミィナの回答は先ほどとは違い、大きな声ではないが強い意志を感じさせる。その答えを聞いたルーベンは興味深そうに「ほぅ」と声を漏らしてから、ミィナの方をまっすぐ見つめる。

    「では、そこに書いてあることは間違いであると?」「間違いではありません。まだ結果が出ていない状態だと考えます」

     ルーベンの問いに、ミィナは差し出された2冊の本の奥付を開く。それぞれの本は作られた年代が50年以上違っていた。

    「時代が流れれば、考え方も変わります。かつては英雄だったのに、今は悪人として記録される人も居ます。本の歴史はその時代の答えであって、今この時の答えではありません。歴史の正しいは常に存在するし、同時に存在もしない……私はそう思いました」

     ミィナの主張に、ルーベンは顎に手を当ててなにやら考え込む。まるで品定めされているようで、ミィナはまったく動けなかった。

    「では、君はなぜ歴史をどうして知りたいと思うのかな? 答えの出ないものを知る理由はあるのかね」

     質問と同時に、ルーベンの青い瞳がミィナの内面を探るように深く突き刺さる。主張に対する反論が来ると思っていたミィナは、予想外の質問に少し驚く。しかし、その質問は彼女にとって幸いだった。

    「歴史は、私たちの未来を決める為の選択肢だからです。過去の歴史があるから、その選択をした時にどうなるのかが分かります。歴史を知ることは、自分の選択肢を広げてくれる。自分を形作るために必要になる……だから、私は歴史を知りたいと思っています」

     その答えは偽りのない、ミィナの本心だった。顔も知らない両親の遺した1冊の歴史書が、歴史を学ぶ選択肢になったように、世界の歴史は自分の未来を決めてくれる存在であると、彼女は信じていた。

    「……なるほど。ジグルトが推薦しただけのことはある」

     ルーベンは満足したように、先ほどの鋭い目線を引っ込めるとテーブルのベルを鳴らす。少しすると、先ほどの女中が部屋に入ってきた。

    「終わりましたか?」
    「終わったよ。彼女を書斎に案内してくれないか」
    「分かりました」

     短いやり取りをすると、ルーベンは立ち上がってミィナの前に立つ。状況の理解が追い付かず、ミィナも釣られて立ち上がることしかできない。

    「良い答えが聞けた。ぜひ、私の執筆を手伝って欲しい」

     そう言って差し出された手を見て、ミィナはやっと状況を理解する。

    「は、はい! よろしくお願いします!!」

     慌てて手を出し、ルーベンと固い握手を交わす。仕事をさせてもらえると分かると、緊張から翼が小刻みに震えていた。

    「そこまで緊張しなくても良いだろう? メルヴァ、何か落ち着けるコーヒーでも淹れてくれ。あと、女中の真似事はもういいぞ」「分かったわ。エティリネージのコーヒーでも淹れましょう。あと、人を睨みつける癖をいい加減やめなさい」

     メルヴァと呼ばれた女中が、急にフランクにルーベンと話し始める。これにはミィナも驚きを隠せなかった。

    「メルヴァは私の妻だ。普段は来客対応をしてくれてるから、間違えるのも当然だろう」

     ルーベンにそう言われて、メルヴァは「ごめんなさいね」と言いながらコーヒーカップを片付けている。

    「明日から私の書斎で手伝いを頼みたい。詳しい話はメルヴァから聞くと良い。これからよろしく頼むよ」

     優しい眼差しに戻ったルーベンは、それ以上何も言わずに静かに部屋を後にする。

     ここに来てミィナの麻痺していた感覚が、とても大きな仕事に携わることになったと、やっと実感できるようになっていた。


    9.表の歴史、裏の歴史

     ルーベンの屋敷を後にしたミィナが、そのまま新しい仕事ができたことをシャロンに伝えると、彼女は喜んで閉店後に祝いの席を設けてくれた。

    「良かったじゃないか。これでようやく家が直せそうで」

     酒を開け、まるで自分のことのように喜んでいるシャロンの姿を見ると、どちらが祝われているのか分からなくなりそうだった。

    「シャロンさんには本当にお世話になりました。ありがとうございます」「そんなに感謝することはないって。お前さんも飲んだらどうだい?」

     目の前のトチニを食べながら、ミィナは何度目かになる感謝の言葉を投げる。しかし、シャロンはもう十分とばかりにミィナに酒を勧めてきた。

    「酒はもう飲めるだろ?」
    「ええ、一応は……」

     人間の基準で見ればミィナは16歳になるが、寿命が違うボルグレン種族の視点では成人である。法的に飲酒は可能だが、ミィナは未知の飲み物に警戒心を拭えない。

    「まずは一口だけ試してみな。合うかどうかは、それで決めたらいい」

     シャロンは空いたグラスに、少しだけ酒を注いでミィナの前に置く。差し出されたグラスを持って、恐る恐る口元に運んでみる。酒特有の、つんとした香りが鼻を突き抜ける。

    「そんなに強くないよ。初めて飲むにはちょうど良いくらいだ」

     シャロンは見守るように、ミィナの方を見つめている。少しの躊躇いの後、少しだけ翼を広げながらミィナはグラスの中身をゆっくりと口に注ぐ。

     初めての感覚と味が流れ込んで、彼女の身体を刺激する。喉の奥で焼けるような感覚が走るが、直後に甘い香りが喉から広がってくる。初めての味と感触に、ミィナはどう評価すべきか分からなかった。

    「これがお酒……思ったより甘く感じます……」
    「それはマルームの果実酒だよ。初めて飲むには最適な酒だ。明日からの仕事、頑張りな」
    「はい、頑ります!」

     シャロンからの応援を受けて、ミィナは翼を半分ほど広げて強い意志を示すが、シャロンから「興奮し過ぎだ」とからかわれてしまう。

     それから料理がなくなるまで2人は談笑を楽しみ、ミィナは明日からの仕事に期待を膨らませながら家路に着いた。

      ●

     翌日、ミィナは再びルーベンの屋敷を訪れた。前回と違い、メルヴァは畏まった態度を見せずにミィナを入れてくれた。

    「夫は本を書く時は何でも自分でやりたがるの。気持ちは分かるけど、自分の身体のことも考えて欲しいわね」
    「えっと、そうですね……」

     呆れるように言いながらミィナの前を進んでいくメルヴァに、彼女はただ相づちを打つことしかできない。それを気にするでもなく、メルヴァはとある部屋の前で立ち止まり、ドアを2回ノックする。

    『入ってくれ』

     部屋の方からルーベンの声がすると、メルヴァはそのままドアを開けて中へ入って行く。それに続く形で、ミィナも部屋の中へと足を踏み入れた。

     部屋の中はミィナが夢見ていた、理想の仕事部屋そのもだった。窓の光を避けるように並べられた本棚と、そこに保管されている本たち。しっかりした造りの執筆机に、休憩用のソファとサイドテーブル。そして綺麗に保管されている白紙の束――ミィナが憧れていた夢の光景の中に、自分が迷い込んだ気分だった。

    「こっちに来てくれないかな? そこで立ってても仕事はできなからね」「あっ……はい!」

     憧れの光景につい立ち尽くしてしまったミィナに、ルーベンが優しく声を掛ける。慌てて我に返った彼女は、すぐ彼の元へ駆け寄る。

    「今書いているのはラルマディアの歴史でも特に重要な事件についての本だ。君も知っているであろう、『ヘトニックの悲劇』だよ」

     執筆机の前に来ると、ルーベンは書きかけの本を示しながら、今書いている本について説明する。ミィナもちらっと書きかけの本に目をやると、いくつか見たことのある単語が見えた。

    「ヘトニックの悲劇は知っています。当時は世界で最大の爆発事故だったと聞いてますし、世界調整機構が船に関する国際規定を作るきっかけにもなったと……」

     ミィナはヘトニックの悲劇について簡単に述べると、ルーベンは手を上げて解説を止める。

    「基礎知識はあるようだね。君にはこの事件に対する異なる見解を集めて欲しい。当時の新聞や雑誌のような、民間の記事は見つかりにくいんだ。いくつかの店には既に依頼を出しているから、それの引き取りも頼みたい」

     そう言いながら、ルーベンは机の引き出しにしまっていた小さな手帳を取り出し、そのままミィナへ差し出す。それを受け取ると、中には住所とその場所の名前らしい一覧が数ページ分記されている。

    「見ての通り、私は外に出るのが難しくてね。普段はメルヴァの仕事だが、今ははここに居てもらう必要がある、だから君に資料を回収してきて欲しい。その後で、どう記録するか話し合おう」
    「分かりました。資料を集めてきます」

     曲がった片翼と、椅子に立てかけてある杖を見せながら、ルーベンは仕事を頼む。ミィナにそれを断る理由はなく、二つ返事で了承する。そのタイミングで、メルヴァがお金の入った袋を渡してきた。

    「費用はそれで足りると思うが、もしもの時は連絡してくれ。この家の番号も書いてある。頼んだよ」

     その言葉を最後に、ルーベンは机に向き直って執筆を始めた。ミィナとメルヴァも静かに部屋を後にして、そのまま玄関へ戻っていく。

    「それじゃあ頼むわね。帰ってきそうな時間に合わせて、コーヒーを淹れて待ってるから」
    「ありがとうございます。それでは行ってきますね」

     メルヴァに見送られて、ミィナは翼を広げて少しだけ助走し、思い切り地面を蹴り上げて空へ飛び上がる。彼女の出発を見届けてメルヴァも屋敷へ戻り、ミィナは最初の目的地へ向けてラーマディア市街へと飛行していった。

      ●

     ラーマディア市街は首都だけあり、多くの店が建ち並ぶ。喫茶店から筆記用具専門店、コーヒー豆専門の卸問屋……その中に、ミィナの目的地である貸本屋があった。

     紙資源の貴重なラルマディアでは本が高価であり、貸本業界が活発である。その店の近くにある離着陸用の広場に降り立ち、徒歩でそこへ向かう。店は少し暗い雰囲気だが、年季の入った看板がその店が老舗だと教えてくれている。

     静かにドアを開けて店内に入ると、来客を告げるベルが鳴り響く。外見に反して店内は明るく、本棚には本が詰められている。どの本もくたびれており、ここで多くの本が貸し出されていたことを伺わせる。

    「いらっしゃい。何を探してるんだい?」
    「あの……ルーベンさんに頼まれて、資料を探しに来たんですが……」

     カウンターから、店主らしき高齢のボルグレン種の男性が出てくる。ミィナはその人に事情を話すと、ルーベンの名を聞いて納得するようにうんうんと頷いた。

    「理解した。ヘトニックの資料か……随分前に頼んできたが中々取りに来なくて困ってたんだ」

     店主はそう言って店の奥へ引っ込んでいく彼が戻るまで何もできないので、ミィナは本棚を見て回ることにした。

     ジャンル毎に本が分かれていて、歴史書から娯楽小説まで一通りの本が揃っている。中には国立図書館では扱えないような、やや過激な本も含まれていて、始めて見る本はミィナの興味を引く。

    「お待たせ。これが頼まれてた資料だ。全部で2アースと1デイルってところだな。きっと他にも行くだろうと思うから、鞄はおまけしておくよ」

     戻ってきた店主が革の鞄をカウンターに置いて中身を見せる。記事の複写らしき紙が10枚以上入れられていた。金額を言われると、ミィナは袋から金貨2枚と銀貨1枚を渡した。

    「毎度あり。もしその辺りの本に興味があったらいつでも来ると良い」「ありがとうございます。では失礼しますね」

     資料を受け取ると、本の誘惑に負けそうだったので足早に店を出る。外に出て、資料の入った鞄をしっかり握ってから、ミィナは次の目的地へ歩き出した。

     2時間ほど掛けて、ミィナは手帳に記された場所の半分を訪れた。貸本屋で本を調べたり、特定の資料を集める専門店から資料を受け取ったりしていく内に、最初に渡された鞄はずっしりと重くなっていた。鞄をおまけしてくれた店主の心遣いが、とてもありがたかった。

     それでも、疲労はミィナの身体に溜まっていく。仕事を早く終わらせたいという気持ちもあったが、その為の休憩をすると決めた。

    「あそこの喫茶店が良いかな」

     小休憩を挟もうと、ミィナは目に付いた喫茶店に入る。店は雑談をする客で賑わっていて、店主はミィナをカウンターの席へ案内する。

    「アーカンゲルを砂糖なし、チョコひと切れでお願いします」

     注文を出すと、店主は静かに頷いてコーヒーを淹れ始める。待っている間に、受け取った資料を確認しようと、鞄を開けて資料を呼んでみる。

    『ヘトニックで船が爆発 被害は港湾全域に』

     そんな見出しで始まる新聞記事の複写が目に入る。他にも『爆発の原因は岩油か? 船舶の実態調査へ』、『グレマディア公国を世界司法裁判所に提訴 ヘトニックの事故責任追及』、『ヘトニックの悲劇は反世界勢力の陰謀か? 隠された不都合な真実』などと言った見出しの資料が続々と出てきた。

     公式の報告書や歴史の教科書とは違った切り口で書かれている資料に、ミィナは目を奪われる。先日、自分が示したように歴史の評価は常に変わっていく。しかし、それを意図的に誘導しようという思惑が滲み出た記事も見受けられ、それが彼女にとっては理解が難しい点であった。

    (歴史は都合の良い道具じゃないのに……)

     歴史は未来への選択肢であり、今を評価するためのものであると思うミィナにとって、歴史を自己主張の道具にしか使わない態度は嫌悪感を抱かせる。同時にそれが多様な考えであり、強く否定することもできないと理解していた。

     いつの間にか置かれていたコーヒーカップに気づき、ミィナは添えてあったチョコレートの欠片をコーヒーに入れてかき混ぜる。渦を描くコーヒーの様子が、まるで自分の思考が代弁しているようだった。

     よく知られている表の歴史と、あったかも知れないという不確かな裏の歴史。ミィナはそれらが相対したとき、どうやって本に書き記すべきなのか、まだ答えを出せない。ルーベンの仕事は、それを学ぶ機会でもあった。

     チョコが溶けきったコーヒーを一口飲んで、ミィナはほっと息を吐く。コーヒーが身体の中を流れていく感覚に浸りながら資料を読み、飲み終わると休憩は終わりとばかりに会計をして店を出る。

    「うーん……良い休憩にはなったかな」

     腕を上げて身体を伸ばし、仕事を再開しようと思った時、目の前を影が素早く横切った。

    「逃げるぞ!」

     そんな言葉と共に、子供らしき者達が通りの向こうへと走り去っていく。その中の1人が、あの鞄を抱えているのがはっきり見えた。

    「えっ……ちょっと!!」

     足下にあった鞄が消えているので、ミィナは何が起こったか理解した。突然のことで、ミィナもどうすべきかすぐ答えが出ない。ルーベンに連絡するべきか、警察に行くべきかと思考が渦を巻いて動けないでいる。

    「早く追いかけた方が良いよ。あいつらはこの辺じゃあ有名な悪ガキだからね!」

     現場を見ていた見知らぬ女性が、たまらずミィナに声を掛けてくれる。それを聞いて冷静さが戻ってきたミィナは、何をするべきかようやく決まった。

    「ありがとうございます。すぐ追いかけます!」

     ミィナは早口で礼を言いながら素早く翼を広げ、子供たちが走り去った方へと飛び上がっていった。


    10.歴史の世界、現実の世界

     翼を広げて飛び上がったミィナは、上空から子供たちを探し始める。地上からでは見にくい裏路地でも、上空から見下ろせば全体を把握できる。

     ミィナは子供たちが消えた方角へ飛び、小さな路地を見渡していく。すると、先ほどの子供らしき影が走っているのを見つけた。最初は分からなかったが、子供たちは4人おり、みんな種族が違うように見える。

    「待って!!」

     ミィナは叫びなが急降下し、子供の進路に先回りして着地する。退路を塞がれたことで、子供は一瞬迷うが、すぐに横のさらに狭い道へ飛び込んだ。

    「逃げられる訳には……!!」

     ミィナは再び上空へ飛び上がり、再び捜索を始める。相手は上から見られていることを意識したのか、屋根の多い場所へ逃げていく。屋根の隙間から辛うじて姿を見つけながら、ミィナは追跡を続ける。

    (確か、この通りって……)

     追っていく内に、ミィナは眼下の通りがどう作られたのかという歴史を思い出す。その記憶を辿り、ひとつの可能性を見出すと、ミィナは進路を変えて姿を消した。

      ●

     少し経って、地上では追跡を振り切ろうと必死だった子供たちが人目に付かない細い路地を走っていた。

    「おい、もう大丈夫じゃないか?」

     子供のひとりがそう言うと、先頭を走る、鞄を持っていた子供が立ち止まる。上空を見て、誰も居ないのを確認すると、ほっと安堵の息が漏れた。

    「なんとか逃げれたな。この先で休もうぜ」

     追跡を振り切って安心した子供たちは息を整えながらも、隠れやすい場所に移ろうと路地を曲がる。曲がり角に入った途端、抱えていた鞄がすっと持ち上げられて子供たちの手から離れた。

    「やっぱりここだったのね」

     曲がり角で待ち構えていたミィナが、予想が当たって安堵した表情で鞄を取り返していた。突然のことで理解が追いつかなかった子供たちだったが、状況を分かると振り返って逃げようとする。

     しかし、背後には既にミィナに呼ばれたボルグレン種族の警官がふたり立っており、退路を断たれていた。

    「この通りはね、人が増えた時に道を増やそうとして作られたの。でも、工事現場で遺跡が見つかったから中止になって、この先は行き止まりになっているのよ」

     ミィナは首都ラーマディアの歴史を思い出して、市街の拡張工事に関する記述から逃げた先が行き止まりであると判断し、先に警官に協力を頼んで先回りしていた。

    「くそっ……」

     退路を断たれて子供たちはどうしたら良いのか分からなくなり、その場に立ち尽くすしかなかった。鞄を奪った年長らしき少年が、仲間を守るように前に立って威嚇するようにミィナたちを睨み付ける。

    「ねぇ、あなたたちは孤児なの?」

     ミィナは静かに、優しく少年に問いかける。予想外の問いかけに一瞬戸惑った少年は、無言で頷いた。

    「そうなのね……私もそうなの。施設で暮らしてて、今はひとりで生活している。あなたたちはどうして施設に入らないの?」

     ミィナは自分も孤児だと言い、少しでも子供たちに寄り添おうとする。だが、その言葉で少年の顔に怒りの色が見え始めた。

    「入れるならそうしたいさ! でも……俺たちは市民じゃない……」

     最初に怒鳴るが、その後の言葉は段々と小さくなっていく。その口調から、彼らが正規の手続きを受けていない密入国者であることが、ミィナには分かってしまった。

    「ごめんなさい……じゃあ、どこから来たの?」

     ミィナは謝ってから、彼らの出自を聞こうとする。少年は頭に生える耳から、フォクサナ種のように見える。後ろで固まっている子たちも、カタマーラ種族、ドグイット種族、グリュンド種族とみんなバラバラで、繋がりはないように見える。

    「グレナディア……」

     ぽつりと呟いた少年の言葉に、ミィナの翼は衝撃を受けたかのようにバサッと広がる。

     グレナディア公国は今彼女が調べているヘトニックの悲劇で、爆発事故を起こした船の船籍があった国で、同時にラルマディア共和国が国際提訴して多額の賠償を払わされたことで財政破綻した国でもあった。

     そして、数年前に国内で紛争が発生した国でもある。その原因も、長く尾を引いた財政問題だった。

    「俺たちは国から逃げた……移民に優しいって聞いたから、ここに来たけど……手続きに必要なお金はなかった」

     少年が思い出したくないような顔で、過去を語り出す。ミィナは何も言わず、黙ってその話を聞いていた。

    「何が移民に寛容なんだよ……結局金が無かったら助けてくれないんだろ? 仕方ないから、俺たちは隠れ住んだ。生活はどんどん厳しくなって、俺たちは親に捨てられた……中には親が死んでひとりになった奴も居る」

     そう言いながら、背後に居る子たちにちらっと振り返る。身を寄せ合っている子供たちの姿に、ミィナはその話が本当であると確信していた。

    「だから、あんなことをしたのね……」

     生きるために汚いことでもする――その動機は生存という点においては正しいかもしれない。しかし、法が整備された今の時代では通用しない。

     ミィナはどうすべきか悩んだ。通常なら、密入国者として強制送還となる。だが戦場になっている国へ返すのが正しい選択かと言われたら、間違っていると言いたかった。

     同じ孤児として、彼女は何が最適な選択かを考えていると、後ろにいたカタマーラ種族の少女が咳き込み始めた。

    「どうしたの……?」
    「やばい!!」

     異変に気付いたミィナと少年が咳き込む少女を見ると、口を押さえていた、肉球の見える掌に血が付いている。吐血しながらも咳は激しくなり、少女は立っていることもできなくなって倒れ込んだ。

    「ケーレ! しっかりしろ!!」

     少年が駆け寄ってケーレと呼んだ少女の背中をさする。突然のことで、今度はミィナが動揺してしまい、翼と耳が硬直したように固まっている。

     彼らは密入国者だが、その原因を作ったのはヘトニックの悲劇という、過去の事件――もし、ラルマディア共和国が裁判を起こさなかったら、彼らは今もグレナディア公国で普通に暮らしていたかもしれない。

     過去の歴史という記録でしかなかった世界が、現実の世界に影響を与えていることを、肌で感じざるを得なかった。歴史の非情な顔が、今のミィナにははっきりと見えている。

     歴史は未来を決めるための選択肢である――ミィナはこの言葉の意味を、初めて理解した気分だった。

    「ケーレ……しっかりしてくれ!」

     その間も、少女は咳き込んでいる。このままでは命の危険であることは明白だったが、ミィナも、そして警官たちもまだ動けない。

    「……この子たちの歴史を変えないといけない」

     ミィナは拳を握りしめて、決意したように一歩前へ歩み寄る。倒れている少女の横にしゃがんで、持っていたハンカチで血に塗れた口元を吹いてあげる。

    「病院へ行きましょう」
    「でもお金なんて……」
    「私がなんとかするから。あなたたちは警察の人に連れてきてもらって。私はこの子を先に連れて行く……ここから一番近い病院はどこですか?」

     そう言ってミィナは少女を抱き抱えて、警官たちに最寄りの病院の場所を訪ねる。

    「ここからなら南へ行ったところに大きな病院がある。他の子たちは俺たちが運ぶ。病院には連絡しておくから、早く行ってくれ」

     ミィナが決めたことを察して、警官たちも動き出す。それを聞いて、ミィナは翼を広げて勢いよく飛び立った。

      ●

     ミィナが病院に着くと、連絡を受けていた医師たちがすぐに治療を始める。後から来た子たちは、廊下のベンチで治療が終わるのを待っていた。

    「――そうです。私の支援金の残りを治療費に回したいんです。お願いできますか、ジグルトさん」

     一方で、ミィナは公衆電話越しに自分の自立支援金の引き出しについて、ジグルトに相談していた。

    『それで良いと言うなら、私は構わない。だがミィナちゃん、その後の生活はどうするんだい? ルーベンの仕事があると言っても、大変になると思うが……』

     ジグルトの懸念はもっともだったが、今のミィナは子供たちを助けることが全てにおいて優先されてしまっている。

    「大丈夫です。私はまだ恵まれていますから……それを少しでもあの子たちに分けてあげたいんです」

    『分かった……治療費は心配しなくても良い。それから、難民保護申請についても手配しておこう。それが済めば、私の所で預かってやれる』

     ジグルトは治療の了承と、自分の孤児院に子供たちを受け入れるための準備を約束してくれた。それを聞いて、ミィナは今まで感じたことのない、不思議な充足感を得ていた。

     自分の選択で、子供たちの歴史が変わった――それが実感として彼女を包み込んでいる。

    「ありがとうございます! それでは失礼します」

     お礼を言って電話を切り、ミィナは子供たちの元へ戻る。まだ治療が終わっていないらしく、落ち着けなくてそわそわしていた。

    「治療費は私がなんとかしたわ。それと、私が居た孤児院があなたたちを引き取るための準備をしてくれるって」

     年長の少年にそう伝えると、驚きのあまりぽかんと口を開けてしまっていた。

    「本当に……?」

     恐る恐るといった風に少年が尋ねると、ミィナは微笑んで頷く。それを見た少年は、何かが切れたかのように涙を流し出した。

    「俺たちにも、家ができるんだ……良かった……」

     皆を支えていかないとという気持ちを見せないように、ずっと隠してきた辛さが爆発したように、少年は泣きじゃくっている。話を聞いていた他の子供たちも喜びながら、少年の元に集まってきた。

     ミィナは、自分の選択が正しかったのだと思いながら、子供たちをベンチに座らせて一緒に治療が終わるのを待つのだった。


    11.歴史の上に生きている

     病院での治療が進む中で、ミィナは孤児たちを囲んで話を聞かせていた。孤児院に居た時にやっていた、下の子たちへの読み聞かせを思い出しながら、ミィナは色々な話を聞かせている。

    「これがラルマディアの三大星と言われる星の由来なの。歴史的には……」

     ミィナが星についての話を語ると、孤児たちは興味深そうにその話を聞いてくれている。しかしやや難しい話になると、小さな欠伸が何度か上がってくる。

    「それでね、この時代の伝承だと――」「すいません、保護の要請を受けてきたのですが……」

     眠そうになっている孤児たちに気付かず話を続けるミィナに、ジグルトが連絡してくれたのか警官がやって来て声を掛ける。ここでようやく自分の世界に入り切っていることに気付いたミィナは、恥ずかしそうに耳を垂らした。

    「あ……はい。この子たちです、お願いします……」

     急に縮こまってしまうミィナの姿に、孤児たちもどこか微笑ましく見えてしまう。警官に移動することを伝えられた孤児たちは、最初はケーレを置いていくことに戸惑っていたが、治療後に送ってくれると聞いてようやく動き出す。 

     警官に付いて病院を去る姿を見送っていると、孤児たちがミィナの方に振り返る。

    「ありがとうお姉ちゃん。また話を聞かせてね!」「次はもっと面白い話をしてよね」

     口々にそう言ってから、手を振ってミィナに別れを告げていく。それを見て、自分がやったことが正しかったのだと、ようやく心から実感できるようになった。

     誰も居なくなった廊下で、ミィナは取り返した鞄を見つめる。中に入っていた記事の中身、それぞれの視点で見た正義、その歴史に翻弄されてしまった者たちの姿――ミィナには歴史の正しさが少し分からなくなってしまっていた。

      ●

     騒動が収まり、ルーベンの屋敷に戻ったミィナをメルヴァが出迎えてくれた。疲れた顔をしているミィナを書斎まで連れていき、その後に冷たいお茶とお茶菓子を出して労ってくれる。

    「なんだか大変だったみたいね。夫は今別の仕事で手が離せないから、その間はゆっくり休んでちょうだい」

     メルヴァはそのまま書斎を出て行き、ひとり残されたミィナは乾いた喉にお茶を通す。さっきまでの興奮が冷めていくのを感じながら、彼女はずっと心に残っている疑問と向き合う。

    ――歴史は本当に未来を明るくしてくれるのだろうか。

     過去の歴史によって困窮し、孤児になってしまった子供たちを目にしたミィナには、以前のように歴史が未来を良くしてくれるとは思えなくなっていた。

    (過去の歴史に記された出来事は、未来の歴史を決めてしまうことだってある……。それは分かっているけど、その流れを止めるのことなんてできない……)

     その時の結果が未来の歴史を決めるとしたら、その未来を生きる人たちには結果を変えることができない。自分が唱えた、歴史を知ることは未来を良くするための選択肢であるという考えは間違っていないと今も思うが、歴史がその選択肢を奪うこともあると知ってしまい、自分の信念が揺らいでいくのを感じ取れる。

    「私たちは歴史を作っているし、その歴史の上で生きている……でも、歴史は時に私たちを試すような意思を持っている……というべきなのかな?」

     ぶつぶつと呟きながら考えをまとめていたミィナだが、書斎のドアが開く音で現実に引き戻される。振り向けば、仕事を終えたらしいルーベンが入って来ていた。

    「すまないね。ジグルトから電話で資料を寄こせと言われてたんだ」「ジグルトさんが?」
    「ああ、何でも先史遺産の管理に必要らしくてね。急いでまとめて、今メルヴァが郵便局へ飛んで行ってるよ」

     そう言いながらルーベンは書斎の仕事机に向かい、椅子に座ると紙とペンを準備する。

    「頼んでいた資料をくれないか。一度読んでみるよ」

     そう言われてミィナが鞄から受け取った資料を手渡すと、ルーベンは目を細めてそれらを見つめる。

    「この事件を直に見た訳ではないが、世界の在り方を変えた事件なのは確かだろう。そのような歴史的事件について、君はどう思うかね?」

     急に質問を振られてミィナは耳が跳ねるが、何とか冷静さを取り戻してさっきまで考えていたことを思い出す。

    「私たちは歴史を作って生きています。でも、時にその歴史は私たちでは扱えなくなることがある……そう思いました」

     それを聞いてルーベンは満足そうに微笑むと、資料を机に置いてから真っ直ぐミィナと向き合う。

    「その通りだ。我々は確かに歴史を生んでいるかもしれないが、私は歴史そのものがひとつの生き物だと思っている。だから思うようにはならないし、望んだ歴史を生み出すことはとても難しい」

     ルーベンの言葉は、人間よりは寿命が長いボルグレン種族の思想がよく表れていた。長く生きれば歴史と向き合う時間は自ずと増える。だからこそ、歴史が自分たちの思うように進まないことを理解できていた。

    「私たちは歴史という生き物が敷いた地面の上で生きている。それは時に恩恵を、時には破滅を生み出す。だが歴史はいつも敵ではない。歴史を知っていれば、間違った道を教えてくれる。裁量ではなくても、最悪の道へ進むことは避けられる……君が病院でそうしたようにね」
    「えっ……!?」

     まだ言っていない病院での一件を言われて驚くミィナだが、ジグルトと連絡を取っていたのを思い出して納得する。

    「君は過去の歴史で不幸が決まってしまっていた者に希望を与えた。それこそが、君が言っていた歴史は明るい未来への選択肢と言えるだろう」

     嬉しそうに頷くルーベンがミィナの選択が間違ってなかったことを強調してくれる。

    「その上で聞きたいんだ。私はこの事件について、どのように書けばよいと思うかね?」

     その質問はミィナには厳しい質問だった。自分の考えすらまだはっきりしていないのに、自分よりも遥かに知識がある専門家に何を書けと言えば良いかなど分かるはずがなく、しどろもどろになって目も泳いでしまう。

    「すぐに答えなくていいよ。期限はまだあるし、難しい質問なのは分かっている。ただ、私も長く生き過ぎたからね……時には若い子の意見も聞いておかないと」

     ルーベンの言葉は彼の本心がそのまま出てきていた。寿命の長い存在故に、いつの間にか自分の考えが固まってしまい、そうなると歴史が見えなくなってしまう。だからミィナという、自分に見えていない場所が見える者の意見が欲しかった。

     ミィナの方は委縮してしまっていたが、ルーベンの言葉で何を望んでいるるのか分かったが、ますますどう答えるべきか分からなくなってしまう。

     自分なんかの意見を本当に述べていいのかという不安と、期待してくれている気持ちに応えたいという想いが、ミィナの中でせめぎ合う。

    「――次の時代に問いかければ良いと、思います」

     ようやくミィナが口にできたのは、その一言だった。


    12.ひとりの編纂者として

     次の時代に問い掛ければ良い――そんなミィナの答えに、ルーベンは特に驚く様子は見せなかった。

    「なるほど……今は結論を出すべきではないということかね?」

     ルーベンの言葉には少し期待外れのような気持ちが見え隠れしているようだった。それにめげずミィナは言葉を続けていく。

    「いえ、結論は必要です。でも……それは今の時代の結論としてです。それから、次の時代がこの事件をどう見るべきかを問いかけるんです。今の結論は、未来への選択肢にするんです」

     そこまで言うと、ルーベンは顎に手を当てて思案する。ミィナには彼が自分の意見を言い通せるのか見極めているように見えた。

    「今の本は今の時代の記録として書きます。ロント事変がそうだったように、その時代の人たちが下した結論を書いて、次の時代の人たちがそれを読んだ時にどう見ていくかを決めてもらう……その人たちが間違った選択をしない為に、今の私たちが良い選択を残すように書いていくべき……です」

     途中まで頑張るも、最後の方ではどうしても声が小さくなっていくミィナを見て、ルーベンは理解したようにひとつ頷くと、それ以上は何も言わなかった。

     沈黙する彼の姿を見て、ミィナは不安で背中の翼が縮こまってしまう。もしかして、何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか――そんな気持ちが一気に溢れだしてきて、ミィナは泣きそうになってしまうのを必死に堪える。

     そんな空気を変えたのは、ルーベンの小さな拍手だった。手を叩く小気味よい音が、室内に響き渡る。

    「良い判断だ……私もはっきりした結論は出すべきではないと思っていた。しかし、次に問いかけるという点は面白い視点だ」

     ルーベンは満足したかのように微笑むと、資料の束をミィナの方へ差し出してきた。

    「君が問いかけたいと思う部分を教えてくれないかね? それを元に執筆を始めようじゃないか」
    「は、はい! よろしくお願いします!!」

     威勢の良い返事をするミィナにルーベンも、お茶を持ってちょうど入ってきたメルヴァも微笑んでいた。

      ●

     ルーベンの執筆補助を始めてからのミィナは毎日屋敷に通っていた。最初は資料の整理と何を伝えたいかを話し合う形で進んでいたが、数日経った時にルーベンはミィナに問いかけてきた。

    「ミィナ、始めの方に入れる事件の概要と、その後の影響についての部分を書いてみるかい?」「ええっ!? 私が書くんですか!」

     唐突に執筆のチャンスを与えられ、ミィナはつい大きな声を上げてしまうと、ルーベンはおかしそうに笑ってくる。

    「はは、そんなに驚くことじゃないだろう? 君が最初の草稿を書き、それを私が手直しする方が齟齬が無くて良いからね」

     ルーベンの意図を聞いて、ミィナは少し安堵するように息を吐く。そして彼に促されて椅子に座り、目の前の紙を見つめる。

     文字が記されるのを待っているかのように、目の前の白紙もミィナを見つめているようだった。ペンを持ったミィナは深呼吸し、思考を整理していく。頭の中で本を棚に片付けるように、必要なものだけを残して何を伝えるべきかを見定めていく。

    「……」

     何も言わず、緊張した面持ちでミィナはペンを紙に近づける。一度書き始めたら、後には戻れない。それが彼女の手を引き留めていたが、ペンを強く握ってそれを振りほどくと、ミィナはペンを紙の上で走らせた。

     へトニックの悲劇――白世紀288年に起きた爆発事故として、500年近く経とうとしている今でも語り継がれる悲劇である。 この事故はひとつの港湾を破壊し、多くの死傷者を生んだという点で今も世界最大の爆発事故として記録され、後に『船舶輸送に関する国際規定』が定められたきっかけとなっている。 この事件は世界を動かした大事件であることは周知の事実だが、光の当たらない面が今でも存在する。例えば、事故を起こした船舶を所有していたグレナディア公国――事故後の賠償が原因で財政破綻し、後の内戦の原因となった。この結果、この国に住む今の人々は苦しい立場に置かれている。 これは歴史が未来の選択肢を決めてしまった例と言うことができる。しかし、これはひとつの角度から見た視点であって唯一の真実ではない。 歴史はより良い未来を選択する為の選択肢を示してくれる。だからこそ、本書ではこの時代での事実を示し、将来この事件を評価する時に選択肢が潰えないようにすことを目的としている。

    ミィナの草稿

     余計なことを考えないように、ミィナは一心不乱に手を動かす。思考が逸れたら、そこで止まってしまうという恐怖とも戦いながら、ひたすらペンを動かしていく。

    「……ふぅ。お、終わりました」

     大きな息を吐くとミィナの緊張が解けて、今度は力が入らなくなってペンを取り落としそうになる。慌てて受け止めてペン立てに戻すと、ふらふらと立ち上がってルーベンに椅子を譲る。

    「はは、そんなに必死な形相で書く人を見るのは初めてだよ」

     ルーベンはミィナをソファに座らせて、自分の定位置へ戻る。そこにタイミングを見計らったかのように、メルヴァがコーヒーを持って入って来る。

    「あらあら、夫にいじめられたの? これまで弟子を何人も持ってきたけど、いつも逃げられたのよ」
    「おいメルヴァ、冗談が過ぎるぞ」
    「半分は事実でしょう? その睨みつける癖でみんな怖がってたじゃない」

     夫婦のやり取りを見て、ミィナもつい笑みがこぼれてしまう。そのままメルヴァが出したコーヒーを一口飲むと、心の底から安堵の気持ちが沸き上がってくる。

    「……ふむ、最初の草稿としては申し分ない。少し表現を変えるだけで良いだろう」

     草稿を見ながら、ルーベンは満足そうにうんうんと頷いている。憧れの存在に自分の文を褒められて、ミィナはどう返したらよいかすぐに思いつかず、翼が忙しなく動いている。

    「もっと自信を持ちなさい。それができれば、君は良い編纂者になれるだろう」

     ルーベンの励ましを聞いたミィナの耳がぴくんと跳ねる。しかし、それは彼の励ましというよりも、幼いころに自分に向けられた言葉がそのまま発せられたからだ。

     ――もっと自信を持ちなさい! あなたは凄いことをしてるんだから、もっと自分を誇りに思っていいのよ。

     幼い自分に向かってそう叫ぶ、自分と同じボルグレン種族の少女の姿がフラッシュバックする。陽の光を反射した金髪が、今も記憶の中で輝いていた。

     自分が編纂者を志すきっかけをくれた、ひとりの親友の姿が浮かび上がると、ミィナの中で沈みかけていた自信が浮き上がってくるように感じる。

    「はい、ありがとうございます!」

     急に元気な返事が飛び出してきて、ルーベンたちは一瞬だけ驚くも、彼女の変化に気付いていた。

      ●

     執筆が始まって2週間近くが経った頃、ようやくすべての原稿が書き上がった。誤字などが無いように、ミィナ、ルーベン、メルヴァは3人で交互に原稿を見直していく。

    「……大丈夫そうね。お疲れ様」

     最後の確認を担当するメルヴァが読み終わり、問題が無いことを告げる。その言葉を聞いて、ミィナとルーベンは息を吐きながらソファに深く体重を預けた。

    「ふぅ、いつもながらこの瞬間は緊張してしまうな」
    「本を書き上げるって、想像以上に緊張します……」

     2人揃って緊張が解けた姿を見て、メルヴァはくすくすと笑う。

    「まるで孫と祖父みたいね。なんだか私もそう見えちゃう」
    「おいおいメルヴァ……そこは父親にしてくれないか?」
    「あらまぁ、自分の歴史を見間違っているわね」

     メルヴァの冗談に、ルーベンも冗談で返す。他愛ない談笑から、この夫婦の仲の良さがよく伝わってくる。同時に、心の奥で小さな針がミィナをちくちくと刺している。

     ――もし、私の両親が生きていたら……。

     時々思ってしまう、叶うことのない願望がミィナを揺さぶってくる。顔すら分からない自分の家族を思うと、どうしても胸が張り裂けそうになってしまう。それを悟られないように、ミィナは合わせるように軽く笑って誤魔化した。

    「よし、後は出版社に原稿を預けるだけだな。メルヴァ、明日一番に持って行ってくれ。今日はもう遅いし、完成を祝って外で食事しようじゃないか」

     ルーベンがそう言って立ち上がると、メルヴァは「準備しておくわ」と言って部屋を後にする。ミィナも立ち上がって後に続こうとするが、先にルーベンが引き留める。

    「ミィナ、ちょっとだけ話をしよう」
    「あ、はい」

     唐突にそう言われ、ミィナは曖昧な返事をしながらもう一度ソファに座り直す。ルーベンもミィナの向かいに座り直すと、残っていたコーヒーを飲み干した。

    「ミィナ、今回はとても良い仕事をしてくれたと思っている。今回の本は私だけでは書けないものだっただろう」
    「いえ、私はそこまで……でも、ありがとうございます」

     急に褒められて、ミィナは戸惑いながらも感謝する。それを見てから、ルーベンは一枚の書類を差し出してきた。

    「これは……?」
    「今回の報酬だが、追加報酬として私の資料の一部を譲渡しようと思う」

     そう言われて書類を見ると、それはルーベン自身が書いた譲渡の契約書だった。

    「そんな……私には受け取れないです……!!」

     全く想定していなかっただけに、ミィナは大慌てで手をぶんぶんと振って謙遜を示すが、ルーベンは気にもとめずに契約書にサインを書いていた。

    「謙遜もやり過ぎるのは良くない。ここは私の資料整理を手伝うつもりで貰ってやってくれないかな」
    「そう言われてしまったら……はい、ありがたく頂戴します」

     そう言われてはミィナも抵抗できず、おずおずと譲渡を受け入れることに同意してサインする。それを確認したルーベンは書類を封筒に入れ、外出用の鞄にしまい込んだ。

    「さあ、出かけようじゃないか。メルヴァはああ見えて待たされるのが好きじゃないからね。急がないと」
    「はい、行きましょう」

     用は済んだとばかりに、ルーベンはさっさと立ち上がって部屋を出て行こうとする。周りに巻き込まれてばかりのミィナは、もういちいち気にしていたらダメだとようやく理解したのか、前向きな返事で答えるのだった。

      ●

     外食はミィナの提案でシャロンの店に行くことになった。飛べないルーベンの為に、メルヴァが車を用意してくれたお陰で夕方の混雑前に店に着くことができた。

    「ミィナちゃん、その顔だと良い結果になったみたいだね?」
    「はい、シャロンさんのお陰でもあります。ありがとうございます!」

     元気の良い返事で頭を下げられて、シャロンは少し照れくさそうに頭を掻く。それを見ていたルーベン立ちも微笑ましい表情になっていた。

    「あたしは特別なことはしてないよ。ただ最初の仕事という、以外と難しい壁を壊すきっかけを作っただけさ……」

     シャロンはミィナの肩に手を置くと、次の瞬間彼女を自分の元に引き寄せた。いきなり抱きつかれる形になり、ミィナはわたわたと翼を動かして混乱を表現していた。

    「良くやったよあんたは。あんたのお陰で、あたしもこの店を続けようって思えるようになったんだ。実を言うとね、口うるさい連中に飽き飽きして店を畳むつもりだったんだ。でもね……あんたがレシピを読めるようにしてくれて、また続けようって思えるようになった。感謝するのはむしろあたしの方さ、ありがとうね」

     シャロンの告白はミィナにとって衝撃的だった。そんな振る舞いを一度も見せなかった彼女もそうだが、それ以上に自分がシャロンの役に立っていたことが嬉しくて堪らなかった。

    「シャロンさん……私こそ、屋根が壊れたときに手を差し伸べてもらえなかったら、私はもう諦めていたかもしれません。私こそ、ありがとうございます」

     感謝を示すように、翼の先で優しくシャロンの身体を撫でる。それがボルグレン種族が最高の敬愛を示す仕草だった。

    「こほん……感動的だけど、その辺にしないと見世物になるわよ」

     メルヴァの咳払いで我に返ったミィナとシャロンは、ようやく店の入り口で抱き合っているのを周囲に見られていることに気付く。その瞬間、2人はぱっと身体を離したが、ミィナは恥ずかしさのあまり耳が終始動いてしまっていた。

      ●

     それから数日が経ち、ミィナとルーベンが書いた本が出版された。

     今だと少しだけ文体が違うルーベンの著書はすぐ話題となり、ミィナの名は少しだけ有名になった。しかし、それだけですぐに仕事が来ることは無く、ミィナは自宅で譲渡された資料を整理していた。

    「グリマディア戦争史……これは2階かな」

     ルーベンが譲渡してくれた本はかなりの数で、仕事部屋の本棚に全て収まりそうになかった。その為に、優先度の低い資料を選んで2階へ運ぶ作業に追われている。上へ持って行く本を箱に積めていき、溜まったものから運び出す。

     何度目かの往復を終えて、ミィナはふと2階から窓を見る。いつの間にか陽が傾いていて、夜の世界を照らす2つの月が昇ろうとしていた。

    「もうこんな時間……今夜はシャロンさんのお店に行こうかな」

     夕食のことを考えながら、換気のために窓を開ける。完全に修理された屋根は、窓以外から光が漏れることもなくミィナを家の中に包み込んでいる。

     屋根の崩落から始まった初仕事と、自分がどうして本を書きたいのかを問われた大仕事。そのどちらも、今のミィナにはかけがえのない体験となっていた。

    「歴史は未来への選択肢を残す……私の本も、そうなれば良いなぁ……」

     まだ新人でしかないミィナには、この先にどんな仕事が待ち受けているのかを知ることはできない。それを知っているのは歴史だけなのも分かっていた。

     だから、ミィナは希望が持てている。歴史が巡る限り、未来への選択肢は消えないと分かっているから。

    「よし、空腹の歴史を変えてしまいましょう……!」

     お腹が空いてきたミィナは着替えてから外に出ると、夜の蚊帳が降りようとしている市街へと舞い上がっていった。

    -了-


    ●人物設定

    ミィナ・サルヴィアラーネ・ラヴァルテンシュレーヴェン

    誕生日:白世紀714年7の月、赤の1日
    年齢:22歳(人間換算による)
    身長:171.7㎝
    髪型:セミロング
    瞳の色:橙色
    出身:ラルマディア共和国
    種族:ボルグレン種族
    好きなこと:本読むこと、本を書くこと
    嫌いなこと:親しい者が傷つけられること

     ラルマディア共和国にするボルグレン種族の女性。

     物心付く前に両親が事故死したことで孤児院で育つが、両親が唯一残した歴史書を読んでいく内に歴史に関わる仕事を志すようになり、年齢満期による退所に合わせて独立して編纂者を目指す。

     幼少期に好奇心で潜り込んだ猟区で見上げていた鳥が猟師に撃ち落とされるのを見て以来、鶏肉と銃を撃つことにトラウマを抱いている。

     いつもはのんびりしているが、やるべきことがある時はしっかり頑張る。親しい者が傷付く姿や、どうしても許せないものを見てしまうと感情が爆発することがある。

     歴史を調べることから、複数の言語に詳しい。


    シャロン(シャロン・オーギュスト・ヴァースティン)

    誕生日:白世紀672年13の月、青の3日
    年齢:29(人間換算で)
    身長:162.2㎝
    髪型:ウェーブの掛かったセミロング
    瞳の色:紫
    出身:ハルシネラ王国
    種族:エリーファ種族
    好きなモノ:強い酒、流行りもの、可愛いもの
    嫌いなモノ:弱い酒(15度未満)、過度に形式に拘る伝統など

     ラルマディアで飲食店を営むエリーファ種族の女性。

     種族の特徴から名前しか持っておらず、必要な時は「ヴァースティン」を姓として名乗る。

     元々ハルシネラ王国で料理店をやっていたのだが、ラルマディア共和国の料理を気に入って店を畳んでまで移住した経緯を持つ。しかし次第に伝統にうるさい客にうんざりするようになり、伝統料理の作り方を学ぼうとするも文字が読めず立ち往生していた。

     ミィナと出会ったのはその時で、駆け出しで何も分からない姿に自分を重ねて協力することを決める。

     かなり豪快な性格で自然とグループのリーダになるようなタイプ。気に入った者にはサービスしたり親身になったりとエリーファ種族特有の世話焼きも持ち合わせる。重度の酒好きで料理に酒を入れる事は当たり前。閉店後は普通に飲んでいたりと酒には目が無い。ただし仕事中の飲酒はしない節度も持っている。


    ルーベン・フェレト・アル・ヤノーシュカ

    誕生日:白世紀634年14の月、白の4日
    年齢:79歳(人間換算による)
    身長:185.4㎝
    髪型:短いオールバック
    瞳の色:薄い青色
    出身:ラルマディア共和国
    種族:ボルグレン種族
    好きなこと:歴史について思慮すること
    嫌いなこと:力による現状変更

     ラルマディア共和国でも有名な歴史家であり、学術貴族「アル」の称号を得た貴族でもあるボルグレン種族の男性。

     元は軍人だったが、過去の国境紛争で翼を負傷して退役。その後は好きだった歴史の本を書いて成功する。思慮深い考察から多くの名著を生み、その功績で学術貴族となった。

     歴史にはその時の顔があると思っており、その時代の答えを探るのを楽しみとしている。コーヒーには強い拘りがあり、特定の産地のコーヒーしか飲まない。


    メルヴァ・フェレト・アル・ヤノーシュカ

    誕生日:白世紀650年8の月、黄色の1日
    年齢:64歳(人間換算による)
    身長:167.1㎝
    髪型:お団子ヘア
    瞳の色:黄色
    出身:ラルマディア共和国
    種族:ボルグレン種族
    好きなこと:他人の観察、コーヒーを淹れること
    嫌いなこと:夫の悪口

     ルーベンの妻で女中も兼任するボルグレン種族の女性。

     退役後に駆け出しの編纂者をやっていた頃のルーベンと出会い、ふたりで支え合いながら今の地位を手に入れた。ルーベンとは出会って20年後に、彼の方から婚約されている。

     コーヒーに拘るルーベンの為にコーヒーの淹れ方を学んでいく内に趣味になっていった。仕事ではルーベンの為に資料を集めたり、飛べない彼に代わって代理として赴いたりしている。

     最近は客人に対してメイドを装って様子を伺いながら、小さな悪戯をするのが好き。


    ジグルト・イエラシェン・フォン・ナルヴァ

    誕生日:白世紀640年3の月、青の2日
    年齢:73歳(人間換算による)
    身長:180.5㎝
    髪型:ショート
    瞳の色:金色
    出身:ラルマディア共和国
    種族:ボルグレン種族
    好きなこと:国を守ること、家族と過ごすこと
    嫌いなこと:差別、過度なイデオロギー

     ラルマディア共和国でも有名な軍功貴族ナルヴァ家の現当主であると同時に、共和国軍第1空中機動旅団長でもある現役軍人。

     ナルヴァ家は黒世紀に起きた紛争で功績を上げて貴族になった非常に歴史ある貴族の家系で、常にラルマディア共和国を守る軍人として仕えてきた。ジグルトは家訓である「誰に対しても平等であれ」を強く意識しており、これは貧富の差に関係なく手を差し伸べるべきと捉えて孤児院「ナルヴァの家」を設立した。

     現在は軍の職務と並行して院長としての仕事にも取り組んでいる。一人娘のレミュラ・イエラシェン・フォン・ナルヴァには甘く。その影響か彼女と仲の良いミィナも実の娘のように可愛がっている。


    ●世界設定

    ・「ミラクリス世界」概要

     かつて人類だけが生活していた世界だったが、突如として異界と繋がってあらゆる異種族が攻め込んできた異界戦争を通じ、最終的に人類が放った最終兵器「A.F.A.P.S」によって異世界との繋がりを遮断して隔離された世界である。

     最終兵器によって帰る道を失った異種族たちと、戦争で疲弊しきった人類が共に新しい歴史を歩み始め、およそ1000年の動乱を経て国際機関「世界調整機構ミレティアル」を設立して平和を獲得する。

     世界各国は常備軍を制限される代わりに、「国際編成義勇兵連隊ミラ・ヴォスデント」が各国に駐屯して世界を見守っている。

     ミラクリス世界では1年は350日であり、1ヶ月は25日であり、1週間は5日間である。さらに1年は14の月に分けられている。

     14の月にはそれぞれ赤、青、緑、黄色、白の5週がある。それぞれの週の5日目は一般的に休息日とされている。


    ・簡単な歴史

    『偉大な世紀ギルデ・エラ』
    ・異界戦争が始まるまでの時代。
    ・人類のみが存在し、宇宙開拓ができる程の高度な科学技術を有していたとされている。
    ・この時代の技術の名残は「先史遺産フェローレン」と呼ばれ、後の世界で研究対象になったりする。
    ↓
    『異界戦争』
    ・別次元・並行世界からの侵略戦争。
    ・突如空間に開いた「穴」を通じて異種族が大挙して襲来。
    ・22年続き、最終的に人類が「A.F.A.P.S」と称した最終兵器を使用して「穴」を消滅させる。
    ポ
    この戦争は神話のよう語られており、詳細は歴史の闇に埋もれている。
    ↓
    『黒世紀ダグル・エラ』
    ・異界戦争後に約1,000年続いた混乱の時代。
    ・人類と異種族による争いが絶えなかった。
    ・数々の動乱を経て世界中の国家が団結した国際機関「世界調整機構ミレティアル」が設立され世界の秩序を保つ役目を担う。
    ↓
    『白世紀パクス・エラ』
    ・ミラクリス世界の現在の時代。
    ・世界調整機構ミレティアル及び国際編成義勇兵連隊ミラ・ヴォスデントによって比較的平和な世界となっている。
    ・国家間の全面戦争は無いが、地域紛争や反世界勢力との抗争は続いている。
    ・現在は白世紀742年となっている。


    見出し画像:
    キャライラスト:もふに様【@mmmofuni】
    それ以外は自作


     
     
    色々なことを試しては失敗したり上手くいったりを繰り返す人。 主に創作世界「ミラクリス」を造っています。それ以外も時々やります。 何事も経験してみるをモットーにしながら、今日も何かしています。 こちらで使用している文章・イラスト含む画像はすべてAIによる学習も加工も禁止です。

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