ブーイングくらい、自由でいいじゃない
試合後のブーイングをめぐって甲府サポのあいだで言い合いが続いている。タイムラインには「誹謗中傷はやめよう」というポストもちらほら流れてくる。
気になって探してみたけれど、少なくとも僕の目に入る範囲では、選手個人への誹謗中傷は見当たらなかった。見えないところで起きているなら、それはもちろん論外だ。ただ、話はどうもそこではないらしい。ブーイングまで誹謗中傷の仲間に数えられているようなのだ。
僕の結論は、ブーイングくらい、自由でいいじゃないか、というものだ。たかが「ブー」の一音でこれだけ言い合いが起きるのだから、たいした影響力ではある。お茶でも飲みながら、ゆっくり考えてみたい。
はじめに言っておくが、僕はブーイングをしたことはないし、したいと思ったこともない(この前の大宮戦のブーイングはゴール裏で歌い続けた人たちの思いとして受け止めた)。それでも、ブーイングくらいいいじゃないの、ということを書いていくよ。
ブーイングは誹謗中傷なのか
誹謗中傷とは、ざっくり言えば、根拠のない悪口で人をおとしめたり、人格を攻撃したりすることだ。一方、ブーイングが向かう先は、その日のプレーや結果、クラブの判断への不満である。しかも中身は「ブー」の音だけ。この語彙で誰かの人格をおとしめるのは、かなりの難作業だと思う。
それでも誹謗中傷と一緒くたにされてしまうのは、世の中が「やさしく」なってきたことと関係があるのだろう。人を傷つけてはいけないという感覚は、この十数年でずいぶん強くなった。おかげで守られるようになった人はたくさんいて、そこは素直に良いことだと思う。
ただ、やさしさにも副作用はある。傷つけることを恐れるあまり、ネガティブな気持ちを外に出すこと自体が、なんとなく悪いことのように感じられてくる。ブーイングが誹謗中傷扱いされるのは、そのやさしさが少し行き過ぎたところに出た、副作用の一例ではないか。
実は海外の人たちも同じことで長年もめている。少し様子を見にいってみよう。
海外の線引きは「abuseかどうか」
海外でも自分のチームへのブーイングはたびたび議論になっているようだ。ただ、ブーイングそのものを禁止しようという話はなかなか見つけられない。むしろクラブのほうが、ファンの肩を持つことさえあるということがわかった。
2021年、MLBのメッツでブーイングされた選手たちが仕返しにファンへサムズダウンをしてみせた。これに怒ったのは球団のほうだった。球団社長のサンディ・アルダーソンは声明でファンには不満を表明する権利があると明言し、選手たちは謝罪した。ブーイングされて謝ったのが選手のほうだというのだから、なかなか味わい深い。
Booing is every fan's right.
(MLB.com、2021年8月30日)
線引きの言葉として、よく出てくるのがabuse(罵倒・虐待)だ。アメリカのプリンドル倫理研究所のコラムは、批判や不満の表明と罵倒は別物であり、試合中に文句を言うことと、帰宅途中の選手にまで踏み込むことは話が違う、と整理している。
…criticism and displeasure is one thing, abuse another.
(The Prindle Institute for Ethics、2022年)
言われる側も同じところに線を引いている。ノリッジ・シティのスポーツダイレクターだったスチュアート・ウェバーは、2023年のインタビューで批判はいくらでも受けるし、耐えられないならこの仕事はやめたほうがいいと認めたうえで、abuseにははっきり反対だと語っている。
We've got to make a difference between criticism and abuse.
イタリアにもわかりやすい例がある。今年4月、ミランがホームでウディネーゼに0-3で敗れた試合でスタンドは選手たち、とりわけレオンに激しい口笛を浴びせた。試合後、ラビオはファンの口笛は理解できるが、レオン個人に向けられたものには失望したと語っている。
イタリア語はさすがにそのまま載せたらわからないので日本語訳も書いておく。
Capisco i fischi dei tifosi, ma quelli a Leao mi hanno deluso.
ファンの口笛は理解できる。でも、レオンに向けられたものには失望した
(2026年4月11日)
チームへの不満は受け止める。でも、一人を狙い撃ちにするのは違う。選手本人がほぼ同じところに線を引いている。
線を引くときの物差しは、整理すると三つある。
• 対象:プレーや判断に向かっているか、人格や属性に向かっているか。
• 場:スタジアムで完結しているか、SNSのDMや私生活にまで入り込んでいないか。
• 形式:誰のものでもない集団の声か、特定の誰かを名指しして繰り返すものか。
試合後のブーイングは、どの物差しで測ってもだいたい批判の側に区分される。もちろん、ブーイングに紛れて罵声を飛ばす人がいるなら、それは良くない。ただ、責められるべきはその罵声だ。一人の罵声のせいで数百人のブーイングが禁止されるのでは割に合わない。
効かなくても、声は声
「ブーイングしても選手は奮起しない。むしろ逆効果だ」という意見もある。たしかに、ブーイングでプレッシャーがきつくなると語る選手はいる。一方で、拍手とブーイングがあるからこそプレーの質が保たれる、という見方もある。効くのか効かないのかは、正直よくわからない。
ただ、ブーイングは効果を狙ってやるものだっただろうか。「逆効果だからやめよう」という発想はサポーターの声をチームを勝たせるのに役立つかどうかだけで採点している。サポーターは12番目の選手、というあれだ。いい言葉だけれど、裏を返せば「勝利の役に立たない声は出すな」にもなる。12番目の選手というのは、意外と窮屈なポジションである。
サポーターは、選手である前にお金と時間を払ってスタジアムに来ている観客だ。「いまの状態には納得していない」と伝えるのに、選手を奮い立たせる効能は要らない。ブーイングは処方箋というより診断書に近い。治すのは受け取った側の仕事で、中身が気に入らないからといって、「書くな」とは言えないだろう。
経済学者のハーシュマンは、『離脱・発言・忠誠』で、組織に不満を持った人がとれる道を、ざっくり「出ていく」か「声を上げる」かに分けた。サポーターはそう簡単によそのクラブに乗り換えられない。だから残るのは声を上げることで、ブーイングはそのなかでいちばん手軽な方法だ。
そして、これはクラブにとっても悪い話ではない。ブーイングは「いまの状態には納得していない」という、いちばん手っ取り早いフィードバックだ。クラブにとって本当にまずいのは、何も言われないまま去られてしまうことのほうだろう。ブーイングが聞こえているうちはまだ期待されているということでもある。
ここを塞げば、残る道は二つ。黙ってスタジアムから足が遠のくか、行き場をなくした不満がSNSで個人攻撃に化けるか。ブーイングを誹謗中傷として封じた結果、本物の誹謗中傷が増えました、では笑い話にもならない。
嫌なら「嫌だった」でいい
ここまで書いておいてなんだけど、ブーイングが苦手な人の気持ちもよくわかる。負けた夜でも拍手で選手を送り出したい人はいるし、前向きな言葉だけを口にしていたい人もいる。それはそれで、まったく自由だ。
だから、ブーイングを聞いてモヤッとしたなら、「ちょっと嫌だったな」と言えばいい。それで立派な意思表示になる。「誹謗中傷だ」「選手のためにならない」「サポーターたるもの」といった理屈や正しさの服を、わざわざ着せなくていいと思う。
服を着せたとたん、個人の「嫌だった」は、みんなが守るべき決まりごと、硬い言葉でいえば「規範」に化ける。「自分はブーイングが苦手」は自分の話だが、「ブーイングはすべきでない」は他人の振る舞いの話だ。見た目は似ていても、二つのあいだには意外と距離がある。しかも、無理に着せた服は、たいていサイズが合っていない。
これは反対側にも当てはまる。最近は「ポジティブに応援するのが良いサポーター」「いや、厳しく批判してこそ本当のサポーター」という応酬まで見かける。ただ、どちらも自分のやり方をみんなの正解にしようとしている点では、よく似ている。どちらが正しいサポーターかは決着がつかないだろうし、つける必要もない。
スタジアムは、歌い続ける人も、黙って腕を組む人も、ブーイングする人も、みんなが共存している場所だ。帰りの車で延々と愚痴る人もいる。全員、同じクラブが好きな人たちである。この多様性が美しさを構成していると僕は思う。
おわりに——これもカルチョ
イタリアのスタジアムでは不満はたいてい口笛で表されるそうだ。もちろん、自分たちのチームにも遠慮なく吹く。それでも次の試合には、同じ人たちがまた声を枯らして歌っている。
ただ、これは水に流して忘れたということではないと思う。忘れることは楽観主義ではない。負けた夜の悔しさをちゃんと覚えたまま、それでも次の試合に足を運ぶ。そういう人たちのことを、楽観的と呼びたい。
負けたときに批判してもいいし、前向きに次へ向かうのだっていいし、励ますのもいい。ブーイングを聞いて胸が痛むのも、たぶん同じところから来ている。どれも、このクラブが好きだから出てくる気持ちだ。どれかを正解にして、ほかを黙らせる必要はない。
abuseでない限り、みんなばらばらでいい。人生と同じで、サッカーもいいことばかりではないから面白い。
というわけで、決まりごとにはせず、各自ご自由に。これもカルチョである(突然のイタリア語だが、なんかカルチョが合う)。
