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横向きのGについて — 垂直に戻る朝

    朝の電車は海流に似ている、と私は思う。
    誰もがそれぞれの目的地を持ちながら、しかし個人としてではなく、大きな流れの一部として運ばれていく。吊革につかまる手の群れ、少し湿った上着の匂い、スマートフォンの白い光。車両全体が一匹の生き物のように呼吸している。

    今朝の車内は、押し潰されるほどではないが、身体の輪郭を互いに意識せざるを得ない程度には混み合っていた。

    電車がカーブに差しかかったところで、横向きの力が不意に身体をさらっていく。右隣の人がこちらへ傾き、その腕が私の肩に触れた。私も踏ん張りきれず、今度は左隣の人へ寄りかかる。三人の身体が、将棋倒し寸前の駒みたいに、危うく連鎖する。

    けれど誰も倒れなかった。
    足の裏を、車両の床にこれでもかと押し付け、膝がかすかに震え、それぞれがぎりぎりのところで重心を取り返し、垂直に戻る。

    すみません、と誰かが小さく言った気がした。
    いや、言葉ではなかったかもしれない。軽く頭を下げ合うだけの、通勤電車特有の無言の会話だったのかもしれない。

    悪いのは横向きのGであって、人ではない。
    そのことを私たちは皆知っている。

    ふと右隣を窺い見た。
    寄りかかってきたその人を男性だと思っていたが、実は中年の女性だった。長すぎない髪と地味な色のチェックのシャツ、少し草臥れた感じの肩の線が、最初は男性の輪郭に見えていたのだ。

    あぁ、と思って左隣も盗み見る。若い男性だと勝手に思っていたこちらも、スッとした背筋のある、おそらく私と同世代の短髪の女性だった。

    そうして私は、自分の格好を思い返す。
    紺色のパーカーのフードを被り、リュックを背負っている。仄暗さのある地下鉄の車内で、きっと私も、性別の曖昧な誰かに見えていたはずだ。

    中年を過ぎると、人は少しずつ「男」と「女」から遠ざかっていくのかもしれない。

    生まれたばかりの赤ん坊も、男の子か女の子か判断に迷うことはよくある。
    逆に、歳を重ねた老人たちも、服装や髪型を取り払ってしまえば、どこかよく似た存在になる。

    たぶん人間は、恋をして、相手を見つけ、子どもを残す時期だけ、強く性を必要とするようにできている。
    その季節を過ぎれば、身体はゆっくりと中性的な岸辺へ戻っていく。

    電車は次の駅に着き、一定の割合の人の塊がまた入れ替わった。
    私は垂直を意識しながら、見知らぬ中年たちと小さな平衡を保っている。
    それは妙に静かで、少し可笑しく、そしてどこか安心する空間だった。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    料理と写真と茶道と着物。あと、猫。 英語は細々と勉強してはいるもののなかなか上達せず。それでも50年くらい生きてきて今が1番マシに使えていると思う。いや、使わざるを得ない環境になってしまっただけか。

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