はいってくる
近所に本格的な石窯で焼くピザが名物の素敵なイタリアンのお店がある。ある雨の日、仕事の合間のランチタイムにふとその店に行きたくなり一人で訪れた。
この日は珍しくお客が少なく、私と初老の夫婦が一組だけだった。落ち着いた雰囲気の中で、良いランチタイムになる予感がしていた。
パスタランチとピザランチがあったが、迷わずピザランチを選んだ。最初に運ばれてきた前菜のサラダは、木の実や根菜、なすやトマトなどの多くの野菜が使われており、ドレッシングがなんとも不思議な味わいで「来てよかったな」と純粋に食べることを楽しんでいた。
お待ちかねのピザがやってきた。分厚い生地が香ばしく焼かれ、ゴロゴロ野菜とチキンが乗ったボリューム満点のピザだ。ピザに手をかけたときに、若い女性スタッフがボードに挟んだA4サイズの紙をテーブルに置いた。
「このピザについて書かれているのでぜひ読んでください」
差し出された紙には店主がイタリア修行中に出会った、ある土地特有のピザ生地の製法について説明されており、それをヒントにいかに自分のオリジナリティを入れながら独自の生地を開発したか、が書かれていた。
生地の開発秘話が手書き文字でびっしりと書かれており、店主の熱い思いが伝わってくる。実際に食べてみると、もっちりとした食べ応えのある生地でこれまで食べてきたピザとは一味違うなと感じた。と同時に、これだけ苦労して開発したのだから、美味しいと思わないといけないような義務感が沸き上がってきた。
それ以降、私はピザを純粋に味わうことができなくなってしまった。隠し味にとあるフルーツが使われているそうだが、そのフルーツの味がするような気もするし、事前に情報として知っていたからそう感じただけな気もしてくる。もし、友人と一緒に食べていたら、お喋りしながら情報も含めて味わうことができたかもしれない。
しかしこの日の話し相手は私自身で、自分の味覚との対話を邪魔するように、「本当においしいと思っているのか」「さっきのサラダの方がよっぽど美味しかったのではないか」と思考はうるさくなっていった。味覚と情報は喧嘩しつづけ、この日のランチはサラダを頂いた時間が一番豊かな時間だった。
情報に左右されて、どこまでが自分の感覚なのか分からなくなることは多い。私は年齢を重ねるにつれて事件や事故などのニュースをテレビで見られなくなってきている。自分の中に、悲しみが流れ込こんでくる感覚がいたたまれないのだ。ピザの情報に味覚が邪魔をされるのとは少し違う。浸食されるという表現が一番近いかもしれない。さわやかな朝が一気に曇り空になるような感覚だ。
情報を単なる事実として受け止めるのか、感情も含めて受け止めるのか、感情が自分の中に入ってくるのか、人それぞれなのだろうか。私は感情が入ってきやすいタイプのような気がする。
最近、母が体調を崩し私がしばらく看病していたことがあった。すっかり弱っていた母は、不安や心細さを口にした。目に力はなく、顔はうつむきがちで、一気に10歳くらい年老いたように感じた。
私は母の気持ちが自分に流れ込んでくるような感覚に悩まされた。母が目の前にいないときも、母の不安や寂しさが私の中に居座っている。
自分の感情と母の感情との境目が分からなかった。これは悲しいニュースが私を浸食するのとも違う。心が混ざり合うような感覚だ。
今は母の体調も回復し、すっかり元気になった。私は以前より、少しだけ柔らかく穏やかに母と接している気がした。心が混ざり合って少し違う私になったのかもしれない。そして母との関係性もほんのりと変化を感じた。言葉にしなくても何かが通じ合えているような暖かさを覚えることが増えた。母の中にも私が混ざり合わさったのだろうか。
あのピザ屋さんとの関係性にも少し変化が起きた。次にランチに行くときは、絶対にパスタランチにしようと決めている。どうか壮大な開発秘話がありませんように。