
縁起のエッセイ
飛行機雲と、縁起の糸
数年前、青く晴れた空に、まっすぐな飛行機雲が一本、伸びていくのを見た。
あんなふうに生きたい、とそのとき思った。まっすぐ飛んで、やがて美しく消えていく。後に何が残るわけでもないけれど、確かにそこを通った、という軌跡だけが空に残る。私の人生も、そんなふうであればいい。
五十を過ぎてから、自分の来た道をときどき振り返るようになった。振り返ってみて気づいたのは、私という人間の通ってきた軌跡は、自分一人の力で描いたものではない、ということだった。あの飛行機雲だって、空気がなければ生まれない。飛行機と大気がふれあって、はじめてあの白い線が現れる。
私の人生も、たぶん同じだ。
「私」を説明する言葉は、全部「関係」でできている
「縁起(えんぎ)」という言葉がある。日常では「縁起がいい」「縁起をかつぐ」なんて使い方をするけれど、もともとは「人はさまざまな関係の中で生きている」という言葉なのだそうだ。自分という存在は、いつも何かとの関わりの中で成り立っている。
最初にこれを知ったとき、少し不思議な感覚になった。でも、よく考えてみると、本当にその通りなのだ。
「私の名前は朱美です」――この一言でさえ、名前という関係を借りて自分を語っている。「カナダに住んでいます」「日本で生まれ育って、一九九二年に渡りました」――これも全部、住んでいる場所、生まれた土地、時間という枠の中での関係を述べているにすぎない。
自己紹介というのは、自分のことを語っているようでいて、実は「誰と」「どこで」「どんなふうに」関わってきたかの物語なのだ。そう気づいたとき、自分の毎日の考え方や行動が、少し変わったような気がした。
だから、私の物語をするには、出会った人たちの話をするしかない。
母の一言で、空を飛んだ
岩手の田舎で育った。父は地元では名の知れた、はんこ職人だった。私は本と図鑑が大好きな子どもで、誕生日に何が欲しいと聞かれると、おもちゃではなく動物図鑑や宇宙図鑑をねだった。部屋には図鑑が並んでいた。「誰に似て、あんたはそんなに本が好きな子になったんだろうねぇ」と母がつぶやいていたのを、今でも覚えている。
本好きの一方で、やんちゃでもあった。学校が終わると山や川や神社で日が暮れるまで遊び、みんなで遊べる新しいゲームを考え出すのが好きだった。神社をお化け屋敷に作り替えて、夜中に肝試しのイベントをしたこともある。低学年の子を泣かせてしまったけれど、あれは本当に楽しかった。
高校に入ると進学校のプレッシャーに流されて、なぜか理系のクラスを選んでしまった。血を見るのが大嫌いなのに、まわりは医者や看護師を目指す子ばかり。なんで自分はここにいるんだろうと、ずっと戸惑っていた。結局、地元の県立短大に進んだ。
転機は、母の何気ない一言だった。
「あんたもそんな地元に根付いていないで、どっか海外でも行ってみたら?」
ちょうどそのころ、私はウィンブルドンのテニスに夢中だった。ステファン・エドバーグという選手がとにかくかっこよくて、毎日その話ばかりしていた。ウィンブルドンに行ったら、エドバーグに会えるのかしら――そんな動機で、私は留学を決めた。英語を学びたいとか、海外を経験したいとか、立派な理由は何ひとつなかった。
次の日には、夜行バスに乗って渋谷の留学センターにいた。
母は、私の行動力に心底びっくりしていた。あとで聞いたら、まさか本当に行くとは思っていなかったらしい。半分冗談だったのだ。でも私はその冗談を真に受けて、本当に空を飛んでしまった。
縁起というのは、こういうものなのだと思う。母の何気ない一言。私のテニス選手への憧れ。それがふれあって、私の人生はまったく違う方向へ飛び立った。
決勝戦の朝、ボリス・ベッカーに
イギリスでの留学は、刺激でいっぱいだった。
憧れのエドバーグにも会えた。そしてその年ウィンブルドンで優勝したボリス・ベッカーとも、忘れられない出会いがあった。ホームステイ先の近くに彼の別荘があったのだ。決勝戦の当日の朝、別荘から出てきた彼に、私はよくわからない英語で叫んだ。
「ボリス! あなたは絶対勝つわ!」
すると彼は「ありがとう!」と言って、ついでに一緒に写真まで撮ってくれた。決勝戦の朝という大事な瞬間に、今思えばなんて図々しいことをしたのだろう。近くにいた新聞記者が、私たちのツーショットを撮っていた。あの写真、記事になったのかしら。今でも謎のままだ。
その日、ベッカーが優勝した瞬間、私は「ほら! 私がグッドラックを言ったから勝ったのよ」と、勝手に言いふらしていた。
若いというのは、それだけで力だ。怖いもの知らずで、図々しくて、根拠もなく自分は運がいいと思っている。実を言うと、私は今でも自分のことを「運がいい」と思っている。あるとき知ったのだけれど、運がいいと感じる人は、もともとの期待値が低いのだそうだ。だからちょっとしたことで「私、めちゃくちゃ運がいい」と思えてしまう。まさに私のことだった。期待していないから、何が起きてもありがたい。この性分のおかげで、私はずいぶん幸せに生きてこられた。
一枚の布団から始まった、もう一つの人生
イギリスから帰って短大生活を送っていたが、頭はもう一度海外に行きたいという思いでいっぱいだった。そんなとき、通っていた短大がカナダの短大と姉妹校になるという話が舞い込んだ。英語担当の助教授が「朱美さんは英語も話せるだろうし、カナダの先生に会ってみない?」と声をかけてくれた。
バンクーバー? 名前も聞いたことのない土地。でも、とりあえず行くと決めた。短大を卒業して、私はカナダ行きの飛行機に乗った。
着いたのはバンクーバーではなく、バンクーバー島。今まで乗ったこともない、揺れまくる小型飛行機でナナイモに降り立った。延々と森が続く道を眺めながら、私はいったいどこに来てしまったんだろうと啞然とした。同時に、未知の世界に心が躍っていた。
たどり着いた学生寮で、私を待っていたのは一つの問題だった。ベッドにマットレスはあるけれど、シーツも布団も枕もない。寮母さんに聞くと「自分で買ってきて」と言われ、私は途方に暮れた。
そこに現れたのが、同じく日本から来ていたK君だった。
「先週までここにいた子がこれを置いていったから、使いなよ」
彼は布団セットを持ってきてくれた。そして「お腹すいてない? これからみんなでご飯食べに行くから、一緒においでよ」と。なんて優しいのだろう。荷物を置いて、彼の運転する車でダウンタウンの小さなショッピングモールへ向かい、みんなでご飯を食べた。
このとき手渡された一枚の布団が、私のカナダ生活の出発点だった。あの布団がなければ、あの優しさがなければ、私はあの最初の夜をどう過ごしただろう。縁起の糸は、こんなにも具体的で、あたたかい。
サーモンの照り焼きが、結婚になった
ナナイモでの四年間は最高だった。
英語の環境にどう馴染むか、どう友達を作るか。大きなきっかけは、バレンタインデーだった。私は前日に手作りした小さなチョコを、寮に住む全員に配った。日本でいう義理チョコだ。これが大うけして、「面白い子ねぇ」と寮じゅうから声をかけてもらえるようになった。
夫との出会いも、この寮だった。
当時の私には、週末の習慣があった。サーモン釣りが好きなグループが毎週末釣ってくる鮭を、私がさばいて照り焼きにして、みんなにふるまうのだ。BC州の小さな町から来ていた、まだ十七歳だった彼も、その照り焼きを食べに来るようになった。日本人を見たことがなかったらしく、興味を持ったようだ。
そのうち彼は、サーモンだけでなく、私の作る日本食を「これは何だ、あれは何だ」と食べに来るようになり、いつの間にか付き合っていた。そして、結婚した。
結婚を迷っていた私に、友人が言ってくれた言葉が忘れられない。
「ダメになったら別れればいいのよぉ」
そのひと押しで、私は結婚を決めた。結婚なんて勢いだ。振り返れば、そんなものかもしれない。勢いで結婚して、カナダ永住に至る。人生なんて、案外そんなものだ。
照り焼きサーモンが、結婚になり、永住になった。あのとき鮭をさばいていなければ。あの友人がひと押ししてくれなければ。縁起の糸を一本でもたどれば、今の私はいない。
失った友が、空にいる
楽しい話ばかりではない。
イギリス時代、私は韓国から来た美しい青年と恋をした。彼は日本のオフコースが好きで、今でもオフコースを聴くと彼を思い出す。そして同時に、もう一人を思い出す。高校時代に亡くなった友人だ。
中学の吹奏楽部からずっと一緒で、絵を描くのがとても上手な子だった。私は彼女の絵が大好きで、二人で小説を書いては交換して読み合った。でもある日、体に細菌が入ってしまい、たった二日であっという間にいなくなってしまった。
夜、真っ暗な部屋の中で、もし幽霊というものが存在するなら出てきて、とずっと泣いていた。命なんて、いつどうなるかわからない。あのとき、骨身にしみて分かった。
今でも私は、彼女を守護神だと思っている。亡くなった祖父母も、可愛がってくれた先生も、思い出せば思い出すほど、みんな私を見守ってくれている気がする。だから生きている間に私ができることは、思い出すこと。ディズニー映画の『リメンバー・ミー』ではないけれど、誰かに思い出してもらえるというのは、幸せなことなのかもしれない。
去年、地元に帰ったら、彼女のお墓が移動になっていた。お母様も亡くなったらしく、どこに移ったのかわからなかった。だから私は、空を見上げてお参りした。お墓がなくても、空を見上げればいい。それからは、ときどき空を見ては、彼女に手を合わせている。
あの飛行機雲も、もしかしたら、彼女が引いてくれた線だったのかもしれない。
子どもが教えてくれた、「当たり前」の問い直し
若くして結婚したので、子どものことはあまり考えていなかった。でも30代になって、夫が子どもを欲しいと言い出した。
それがなかなか授からなかった。
ちょうどそのころ、夫の稼ぎはどんどん増えて、家のローンもなく、お金は増えていく一方だった。好きなものを買い、外食をし、クルーズ旅行にも行きまくった。「ラブラブでいいわね」と言われながら、でも、子ども連れの家族を見ると、辛くて辛くてたまらなかった。
あのとき思い知った。お金で幸せは買えない。
そして、ようやく長男を授かった。世の中にこんな幸せな人間がいるんだろうかと思うくらい、毎日が幸せだった。子どもができなくて悲しい日々があったからこそ、あそこまで幸せだったのだと思う。
長男は、三歳のときに自閉症と診断された。
診断を聞いたときの気持ちは、正直、うまく言葉にできない。戸惑い、不安、そして「私はこの子をちゃんと育てられるのだろうか」という怖さ。
でも、彼と歩んできた年月が教えてくれたのは、「人と違う」ことは決して劣っていることではない、というシンプルで深い真実だった。
私はいつしか、「息子を直す」のではなく「息子の世界を理解する」ことを心がけるようになった。彼との会話は沈黙が多く、思うように進まないこともある。でも、彼の目線に立って、待って、耳を傾けると、そこには本当に大切な声がある。
あるとき、息子が「今日は友達とランチを食べた」と報告してくれた。人との関わりが苦手な彼にとって、それは大きな一歩だった。誰にも気づかれないかもしれない小さな進歩。でもそれは、彼の中での大きな挑戦と達成だった。私は心の中で、彼に拍手を送った。
他人と比べない。昨日の自分より前に進んでいるか。結果よりも、そこに至る小さな一歩を喜ぶ。息子が教えてくれたこの視点は、後に私の仕事の土台になっていく。
そして気づけば、息子の自閉症をきっかけに、私の世界には新しい人とのつながりがどんどん増えていった。同じ思いを持つ親たち、支えてくれる人たち。一人ひとり違っていい、それを尊重し合う社会こそが本当に豊かなのだと、今では心から思う。
「違い」は、怖がるものではなく、知りたくなるもの
カナダに来て30年。最初に直面したのは、「常識が通じない」という感覚だった。
時間の感覚、挨拶の仕方、人との距離感、仕事の進め方。最初のころは「なんでこうしないの?」「日本ではこうなのに」と思うたびに、ストレスを感じていた。
でも、ある日ふと気づいた。相手にとっては、それが普通であり、正解なのだと。
そこから私は、「違いを否定する」のではなく「違いを面白がる」ように意識を切り替えた。この小さな心の変化が、その後の人生を大きく変えたと思う。
もう一つ、カナダが教えてくれたことがある。日本では、空気を読む、察する、言わずとも伝わることが美徳とされる。でもカナダでは、それが通用しない。黙っていては「問題ない」と受け取られ、遠慮しているつもりが「関心がない」と解釈されてしまう。
言葉にすることの大切さを、私は何度も学んだ。
「いい商品です」だけでは、何も伝わらない。「なぜこれを届けたいのか」「どこが魅力なのか」を、自分の言葉で語ること。それが信頼を築く第一歩だと知った。この学びが、のちに私のビジネスの核になる。
コロナ禍の声と、一通のラブレター
ホームステイの仲介、旅行とクルーズの手配。私は人と人をつなぐ仕事を重ねてきた。お客様がホストファミリーになり、ホストファミリーがお客様になる。すべてが縁起の連鎖だった。
そしてコロナがやってきた。旅行業もホームステイ業も、全キャンセル。ボロボロだった。
そんなとき、「クラブハウス」という音声SNSを通して、日本のたくさんの声が聞こえてきた。「日本を元気にしたい」という声が、あちこちから。ある中小企業の社長さんの、こんなつぶやきも聞こえた。「海外で売りたいけれど、うちには英語を話せるスタッフも、海外営業をする資金もないんです」
私は海外に住んでいて、英語も話せる。クルーズやハワイを売るのも楽しいけれど、日本の商品を売れたら、もっと楽しいかもしれない。そう思ったとき、胸がワクワクした。
正直に言うと、私はそれまで、日本の商品にあまり興味のない人間だった。日本は便利だけれど、カナダで買えるもので十分だと思っていた。日本という国は、どこか自分とは関係ないとさえ感じていた。
でも、日本の商品を本気で探し始めて、専門店にも足を運ぶうちに、思ったのだ。ああ、日本って、宝の山だ。
そうして始めた物販で、私はある掃除道具メーカーと組み、カナダの小売店から三万個の引き合いを受けた。条件は「パッケージを英語に変えてほしい」。ところがメーカーからの返事は、「上と確認するのに半年はかかる」。結局、その話は消えてしまった。
壁は大きい。でも、その壁が私に次の道を教えてくれた。自分でパッケージを作れるOEMはどうだろう、と。そうやって検索しているとき、画面に現れたのが――こんにゃくスポンジだった。
実は私は、13歳のころからこんにゃくスポンジを愛用していた。日本に帰るたびにドラッグストアでまとめ買いして、カナダに持ち帰っていた。でもここ数年、日本製のものが店頭から消え、海外製ばかりが並ぶようになっていた。ずっと、寂しかった。
だからその出会いの瞬間の感動は、忘れられない。私はそのメーカーに、ラブレターを送った。「あなたの商品を、売らせてください」と。
それが、群馬県の山本農場さんだった。
返事は、翌日に来た。
物語を、自分の言葉で
山本農場さんとのZoomで、私はこんにゃくスポンジの歴史を教わった。海外製の商品が世界に広がる一方で、なぜ日本が遅れをとってしまったのか。その過程を聞いたとき、悲しかった。そしてその悲しさが、私の中に大きな火を灯した。
私はアマゾンのセラーだったけれど、こんにゃくスポンジだけは、なぜかアマゾンに並べる気になれなかった。価格で競争させたくなかった。この商品には、物語を伝える特別な場所が必要だと、直感が告げていた。
カナダで学んだ、あの教えがよみがえる。「いい商品です」だけでは伝わらない。なぜ届けたいのか、どこが魅力なのかを、自分の言葉で語ること。
だから私は、世界観を語れる自分のお店を作ることにした。さんざん調べて選んだのが、Shopifyだった。サイトができあがったとき、心からワクワクした。
価格ではなく、物語で売る。これは、息子が教えてくれた「受けとめる力」とも、どこかでつながっている。売りたい、伝えたいの前に、まず相手を受けとめる。商品の背景にある作り手の思いを受けとめ、それを私の言葉で、海を越えて届けていく。
縁起は、未来への贈り物
去年、私のささやかな活動は、住んでいるBC州を越えて、アルバータ州にまで届いた。しかもそれは、私のアイデアではなく、一緒に活動してくれる若いメンバーのアイデアだった。
一人で始めたはずの活動が、いつの間にかチームになっていた。応援してくれる人が増え、私が「ありがとう」と言うだけでは追いつかないほどの縁に囲まれている。
宿命は、変えられない。私の宿命は、日本人として生まれたこと。かつての私は、その宿命から目をそらしていた。でも今は、日本人として生まれたことに感謝し、その宿命を大切にしながら、日本に恩返しがしたいと思っている。
私がカナダで送ってこられた幸せな暮らしは、日本で懸命に働いた両親や、祖父母や、その前のご先祖さまのおかげだ。その恩を、今度は私が、次の誰かに送りたい。
縁起というのは、偶然ではない。日々の選択の積み重ねだ。私たちは毎日、大小さまざまな選択をして、その一つひとつが新しい縁を生み、やがて自分という存在を形づくっていく。
だから私は、自分が作っている関係を、丁寧に選び、育て、感謝することを心がけている。今日結んだ縁は、未来の自分への贈り物になる。
母の一言。布団を差し出してくれたK君。ひと押ししてくれた友人。空にいる親友。世界を問い直させてくれた息子。クラブハウスの向こうの声。翌日に返事をくれた山本農場さん。アルバータへ車を走らせてくれた仲間。
私という飛行機雲は、この人たちとの出会いがあって、はじめて空に描かれた。
まっすぐ飛んで、いつか美しく消えていく。そのときに残るのは、私が誰かと結んだ縁の、あたたかな記憶だけでいい。
そしてもし、いつか私が空の側になったなら、今度は私が、誰かの飛行機雲を引く風になりたいと思う。