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Photo bykoukichi_t

R. Pipes,ロシア革命/第二部-119。Michael殺害。

     第17章・皇帝家族の殺害⑥。

     第六節/観測気球としてのMichael 殺害。
     (01) 1918年の春、ニコライとその家族をEkaterinburg に、残りのロマノフ一族をPerm 地方の別々の町に幽閉したとき、ボルシェヴィキは、彼らを、安全だと見える場所に置いたはずだった。ドイツの前線と白軍から遠く離れており、ボルシェヴィキの本拠地の真ん中だったからだ。
     しかし、チェコ軍団による反乱が勃発して、この地域の状況は劇的に変化した。
     6月半ばまでに、チェコ軍団は、Omsk、Cheliabinsk、Samara を支配した。
     チェコ人の軍事行動によって、これらの都市のすぐ北に位置するPerm 州は危険にさらされた。ロマノフ一族がいる場所は、ボルシェヴィキが後退している戦場の近くになった。
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     (02) 皇帝家族をどう扱うべきか? トロツキーは6月に、見せ物的(spectacular)な〔革命審判所での〕審理をまだ支持していた。
     「私がモスクワを訪れた何度かのうちの一つで—ロマノフ家の処刑の数週間前だったと思う—、政治局へ行っていたとき、Ural の悪い状況を考えて、皇帝の裁判を急ぐ必要があることに気づいた。
     私は、〔前皇帝の〕治世の全体像(農民政策、労働者、諸民族、文化、二つの戦争等々)を提示することができるよう、公開による(open)審判を提案した。
     審判の経緯は、ラジオで全国土に放送されるだろう。
     〈Volosti〉では、審理の過程に関する記事が、毎日、読まれ、論評されるだろう。
     レーニンは、実現できるととても良い、という趣旨の答えをした。
     しかし、…時間が十分でなかったかもしれない。…
     私は提案に固執せず、別の仕事に集中していたので、議論は起きなかった。
     そして、政治局には、3-4人しかいなかった。私自身と、レーニン、Sverdlov、…。思い出すと、カーメネフはいなかった。
     レーニンはその当時、むしろ陰鬱で、赤軍の建設に成功することができるかどうか、自信をもっていなかった。…」(注49)
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     (03) 1918年の夏までに、前皇帝を審判にかけるという考えは、現実的でなくなった。
     レーニンは、チェコ人の蜂起のすぐあとに、チェカに対して、「逃亡」が仕組まれていたとの言い分を使って、Pern 州にいるロマノフ一族全員を殺害する準備をする権限を与えた。
     レーニンの指示にもとづいて、チェカは、3つの都市で、手の込んだ挑発(provocations)を準備した。ロマノフ一族は、その3都市、Perm、Ekaterinburg 、Alapaevsk で、監禁されているか、監視されつつ生活しているか、のいずれかの状態にあった。
     計画は、Perm とAlapaevsk ではうまくいった。
     Ekaterinburg では、計画は放棄された。
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     (04) 皇帝とその家族の殺害の予行演習が、Perm で行なわれた。Perm は、Michael 大公が追放された場所だった。(注50)
     Michael は、3月に秘書である英国人のNicholas Johnson と同行してPerm に到着したとき、監獄に入れられた。
      しかし、彼はすぐに釈放され、Johnson、侍従、運転手とともに、ホテルに住居を構えることが認められた。そこで彼は、比較的に快適かつ自由に生活した。
     彼は、チェカの監視下にあったが、かりに逃亡しようと思ったならば、大した困難なくできただろう。自由に街の中を移動することが許されていたからだ。
     だが、彼は、他のロマノフ一族と同じく、服従の意向を示した。
     妻は、復活祭の休日期間に彼に会いに訪れた。彼の望みに従って、彼女はペテログラードに戻り、後にそこから逃亡して、イギリスへ行った。
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     (05) 6月12-13日の夜、5人の武装者が、三頭馬車に乗ってMichael のホテルに入ってきた。(注51)
     彼らはMichael を起こし、衣服を身に着けて、従うよう告げた。
     Michael は、彼らの身分証明を求めた。
     彼らが何も提示できなかったとき、Michael は、現地のチェカの長と会うことを要求した。
     この時点で(と、処刑される前に、侍従は仲間の在監者に語ったのだが)、訪問者たちは我慢できなくなり、実力行使に訴えてMichael を威嚇した。
     一人がMichael かJohnson の耳に何かを囁いて、二人は疑いを解消したように見えた。
     彼ら3人が、救出の使命をもった君主制主義者を装ったことは、ほとんど確実だ。
     Michael は服を着て、Johnson に付き添われながら、ホテルの正面に停まっていた訪問者たちの車に入った。
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     (06) 三頭馬車は、Motovilikha の産業居留地の方向へと過ぎ去った。
     町を出て、森の中に入り、停まった。
     乗っていた二人は、外に出るように言われた。彼らは、指示に従って外へ出たとき、銃弾で撃ち倒された。おそらくは、この当時のチェカの習慣だったように、背後から射殺された。
     遺体は、近くの溶鉱炉(smelting furnace)で焼かれた。
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     (07) この殺害のすぐ後で、Perm のボルシェヴィキ当局は、ペテログラードと地域の諸都市に対して、Michael は逃亡しており、探索中だと伝えた。
     同時に、Michael は君主制主義者に誘拐された、という噂を拡散した。(注52)
     地方新聞紙の〈Permskii Izvestiia〉は、事態について、つぎの報告記事を掲載した。
     「5月31日[6月12日]の夜、偽造の命令書をもった白軍の組織立った一隊がMichael Romanov とその秘書のJohnson が住むホテルに現われて、二人を誘拐し、不明の目的地へと連れ去った。
     探索隊は、夜のため痕跡が分からない、と発表した。探索は継続している。」(注53)
     これは、連続したウソだった。
     Michael ら二人は、実際には、白軍に誘拐されたのではなく、元錠前屋で職業的革命家であり、Motivilikha ソヴェトの議長であるG. I. Miasnikov が率いるチェカによって誘拐された。
     彼を手伝った4人の共犯者は、同じ都市の親ボルシェヴィキの労働者だった。
     「白衛軍」の陰謀という神話は、翌年にMichael ら二人の遺体の場所がSokolov 委員会によって突き止められると、維持することができなくなった。
     そのあとの公式の共産党の見解は、〔チェカの〕Miasnikov と共犯者たちは、モスクワからも現地のソヴェトからも権限を与えられることなく、自分たちで勝手に行動した、というものだった。—これは、最も騙されやすい者ですらその軽信さを疑問に感じるであろうような説明だ。(脚注1)
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     (脚注1) Bykov, Poslednie dni, p.121. Miasnikov はのちに労働者反対派の一人になり、そのために党を1921年に追放され、1923年に逮捕された。1924-25年にパリに現われ、Michael 殺害を叙述する原稿を売り歩いた。それを1924年にモスクワで出版した、と言われている(Za svobodu!, 1925)。
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     (08) 6月17日、モスクワとペテログラードの新聞は、Michael の「行方不明」を報告し、ニコライはIpatev の居宅に押入った一人の赤軍兵士によって殺されている、との風聞が同時に広がっている、と伝えた。(注54)(脚注2)
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     (脚注2)例えば、NVCh, No.91(1918 年6月17日), p.1. 1ヶ月後にSovnarkom のプレス局は、Mihael はOmsk へと逃亡し、おそらくロンドンにいる、との声明を発表した。NV, No.124/148(1918年7月23日), p.3.
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     この風聞は、もともと自然発生的にでも生まれ得た。しかし、つぎのことの方が、はるかに大いにありそうだ。すなわち、ボルシェヴィキが、ニコライの殺害とそのために進行している準備に対するロシア民衆と外国諸政府の両方の反応を試してみるために、意図的に流布した。
     このような仮説に信憑性を付与するのは、レーニンの異常な行動だ。
     レーニンは、6月18日に、日刊紙〈Nashe slovo〉のインタビューを受けて、こう語った。すなわち、Michael の逃亡を確認することはできるが、政府は前皇帝が死んでいるか生きているかを決定することができない、と。(注55)
     レーニンが〈Nashe slovo〉のインタビューを受けたのは、きわめて異例のことだった。この新聞紙はリベラル派で、状況が許す範囲内でボルシェヴィキ体制に批判的で、ボルシェヴィキは、これとは通常は接触しなかった。
     同様に不思議であるのは、前皇帝の運命についての無知を弁明していることだった。なぜなら、政府は簡単に事実がどうであるかを確定することができたからだ。6月22日、Sovnarkom(人民委員会議)のプレス局は、Ekaterinburg と毎日交信していることを認めつつ、ニコライの運命に関してはまだ分からない、と述べた。(注56)
     政府のこうした行動によって、企てている前皇帝の殺害に対する公衆の反応を試すためにモスクワが風聞を流布した、という仮説は、強く支持される。(脚注3)
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     (脚注3) P. Bulygin, Segodnia(Riga), No.174(1928年7月1日), p.2-3. ようやく6月28日、ソヴィエト当局は、ニコライとその家族は安全に生存していることを確認した。その際、Ekaterinburg にいる北部Ural 戦線の最高司令官から、6月21日にIpatev 邸を調査して、生存している居住者たちを見つけた、という電信を受けた、と表向き主張した。NV, No.104/128(1918年6月29日), p.3. つぎを参照。M. K. Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi, sem’i i chlenov doma Romanovykh na Ural e, I(Vladivostok, 1922), p.46-48. この情報が一週間遅れたことは、意図的な偽装という文脈を除外しては、説明が不可能だ。
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     (09) 貴族制や君主制に親近的な者たちは別として、ロシアの民衆、知識階層、「大衆」はいずれも同様に、ニコライの運命に関して、一方のあるいは他方の立場を示さなかった。
     外国の諸見解も、混乱したものではなかった。
     London の〈Times〉紙のペテログラード特派員が6月23日に送り、7月3日に公にされた通信文は、不吉な暗示を伝えていた。
     「ロマノフ一族がこのように公的に名前を知られるようになるときはいつでも、人々は何か重要なことが起きている、と考える。
     ボルシェヴィキは、退位があった王朝に関して頻繁にこのような驚きが生じることに、ますます我慢できなくなっている。そして、きっぱりと問題を処理してしまうために、ロマノフ一族の運命を解決することの賢明さに関して、問題が再び提起されている。」
     もちろん、「ロマノフ一族の運命の解決」とは、彼らを殺害することのみを意味している。
     このむしろ粗雑な問題提起は、すげなく無視された。
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     (10) ロシアと外国での、風聞へのこのような無関心さによって、皇帝家族の運命の問題は封印された、と思える。
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     第六節、終わり。

     
     
     
    あきづき・えいじ。急性心筋梗塞、頚椎管狭窄、高血糖値症。

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