
O.Figes, 言葉だけでも-009。第二章①。
第二章①。
(01) レフは、3台のトラックとともにモスクワを出発した。そのトラックは、クラスノプレスネンスカヤ(Krasnopresnenskaia)義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
ドイツの第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
何が進行しているのか、誰も知らなかった。
至るところに、混乱があった。
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(02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、Viazma の方向に運転した。
暗くなり、地図もなかった。
トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツ軍の戦車は、森林から出て路上に現われていたのだ。
まもなく、ソヴィエトの砲兵たちは、砲台を捨てた(弾薬を残さなかった)。ドイツ軍の戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
オー・デ・コロン(eau de Cologne)の香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷のための消毒剤として彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が一発の弾丸で壊れたのだ。幸いにも、彼は負傷していなかった。
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(03) レフは、森深く入り込んだ。
部隊を見失った数百人のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用の背袋(Knap-sack)だけだった。
昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わることを期待して。
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(04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
二人の兵士がいた。レフの頭を殴った男は銃剣で彼を刺し、生きているのか死んでいるのかを確かめた。
レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。
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(05) レフは一人ではなかった。
10月の第一週に、ドイツのViazma 包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
レフは、スモレンスク(Smolensk)郊外にある通過収容所、Dulag〔Durchgangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
そこでレフは、他の者たちと同様に、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
数百人が寒さと飢え、またはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。
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(06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の捕囚者グループの一人となった。
その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練された、と口をすべらした。
彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
数日後に、Katyn へと出立した。
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(07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、Katyn のスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り返す。
レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないか、と怖れた。
それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。
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(08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
大尉は何も言わなかった。
レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されていたかもしれない。
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(09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってSmolensk に連れて行かれた。
運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
トラックは、曲がって森に入っていった。
レフは、射殺される、と思った。
彼は、思い出す。
「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
十分に自己抑制できるだろうか?
自殺した方がよくはないか?
トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃してきても、その方がましではないか。」
レフは飛び降りる準備をした。
だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れる努力を、一緒になって行なった。
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(10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク=アム=オーデル(Fürstenberg-am-Oder)近くにあった。
病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
レフは、ドイツ人所長と二人の将校から尋問を受けた。
ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを、彼らは尋ねた。
レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、彼らはようやく、ユダヤ人ではないと納得した。
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