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「春に、間に合わなくても」


    #創作大賞2026  「#恋愛小説部門」


    あらすじ
     
     老親と同居するため、都会を離れて地方の運送会社で働き始めた梨恵。そこでアルバイトドライバー・川端と出会う。
     無骨だが世話焼きの彼は、公私混合で少しずつ梨恵の日常に入り込んでくる。既婚者でありながら、「一緒にいられるところまで」と気持ちを向ける川端。
     慣れない土地と仕事、病に侵されていく母、老いた父との生活に奮闘するなか、年の功と地元の事情に明るい川端になにかと手助けしてもらい、彼の生活能力と優しさに救われる。
     一方で、彼なしの生活を想像すると、不安が募る自分に戸惑う。
     人生の残り時間を知る大人同士が、ときとして幼稚なほどふざけ、ときとして静かで切実に「今」を寄り添う物語。

     
      
    「春に、間に合わなくても」
     
     
     
     「生まれ変わったら、今度はもうちょっと早く出会おうね」
     人生でこのセリフを聞くのは2度目。私は返事をせず、視線を宙に浮かせた。
      
     電車の駅から斜陽を浴びる家々が見える。40年前に造成されたニュータウンに人が押し寄せたころ、私の両親もここへ来た。
     両親は高齢者施設は言わずもがな、ヘルパーを利用することさえ嫌悪感を隠さない。
     しかし、よる年波には勝てない。なのに決して「助けてほしい」とは言わなかった。
     
     高齢夫婦二人の生活が少しずつ荒れてきているのを、気づかないふりでここまで来たが、母に病気が見つかったと父が言ってきた。いよいよ残り時間が少なくなっているとも告げられ、とうとう腰を上げることにした。
     ――さようなら、ヒートアイランドの街。ありがとう、忙しくもユーモアあふれる職場。
     
     地方での職探しは困難をきわめた。
     「早期退職する年齢ですもんね」
     ハローワークの担当者も、肯定しかけて、あわててかぶりを振り、曖昧に笑った。
     それまでの経験や資格を活かすことなく、紹介されるがまま。
     「あなたがいちばん若い会社です。」
     とりあえず希少な事務職で入職が決まっただけで、肩から力が抜けた。
     
     いくら事務職ウン十年でも、運送業は初めて。
     前任者は既におらずワンオペ。散らかり放題のパソコンのデスクトップを、ひとつずつ開けてみる毎日。
     ――めまい。
     こめかみを揉んだ。
     そこへ軽トラがやってきた。アルバイトドライバーの川端さんだ。
     「うぃす」
     川端さんはイガグリ頭に白タオルを巻きつけ、大股で事務所に入ってくるなり、充電スタンドからバッテリーを取り外している。
     「今日はお仕事ない日ですよね」
     「草刈りに来た」
     ――そういう仕事もあるんだ。
     川端さんは私の脇を抜けて、奥の薄暗い納戸へ入った。なにやら重そうに両手いっぱい抱えて出て行った。
     ふと、心拍がはねた。昼間ひとりで留守番は気楽だが、仕事を教えてくれる人がいない。「事務員の掃除」の範囲に、草刈りも入るとか……。川端さんのうしろ姿を追った。
     川端さんが草刈機のスイッチを入れ、私の声はかき消される。近寄ると、手の甲で追い払われた。
     外が静かになったので席を立った。広々とした駐車場にみずみずしい草の匂いが満ちている。思わず、息を大きく吸った。
     「本当は私の仕事なのかもしれません。ありがとうございます」
     「無理無理。都会育ちが草刈機振り回したらジェイソンだし」
     ――確かに。
     「好きでやってるから、放っておいて。仕事、大変でしょう。何もわからんだろうし」
     手伝ってあげられないから、こっちも手伝わなくていいと、川端さんは草刈機を金属でできた箒に持ちかえた。
     「今、何時かな」
     「11時ちょっとすぎです」
     「草集め、手伝ってくれる?」
     私は納戸へ回った。竹箒を見つけた。隣には砂埃にまみれた決算書と履歴書の紙ファイル。目が点になった。
     川端さんも草刈機を置きに納戸へやってきた。
     「みが、この辺にあったはず……」ごそごそしている。
     「み?」
     「み」
     こんなところに隠れてたと、引っ張り出されたのは持ち手のないちりとり。
     「これが“み”ですか?」
     「うん。み」
     川端さんの口元がゆっくり上向いて、八重歯がちらりと見えた。
     「社長、急に11時半頃来ることがあるんだってな」
     どうしてそれを知っているのか不思議だったが、私の話を聞いてほしかった。
     「そうなんです。基本、おいでになるのはみんなが帰ってきはじめる3時前後なんです。お弁当持ってきてるのでって言っても、昼飯一緒に行こうって……」
    川端さんの笑い声がはじけた。
     「まあ、分かるけどな」と、こちらを見た。
     「急ごう。これ、俺が勝手にやってるから、社長に見つかるとうるさい」
     2人で草刈機がまき散らした草を集め、従業員の車の間を縫うようにすり抜けて、焼却炉脇に積み上げた。うぐいすがすぐそばで鳴いた。きょろきょろしても見つけられない。
     「うぐいすが珍しいのか」
     そう言い残し、逃げるように川端さんは帰っていった。
     何時からと決まっていない、ひとりの昼休憩。12時を回った。今日はもう社長は来ないとみた。一つ伸びをした。
     背もたれに体を預け、きりのいいところまでと、帳簿をめくった。
     外線電話が鳴る。画面には「川端携帯」と表示されている。
     受話器を取った。
     「一人?」
     「……はい」
     「昼飯とか一緒に行ける?」
     笑った方がいいのか。
     「だから、お弁当持ってきてるので」
     「社長に駄々こねられたときは、付き合ってやるんでしょ」
     「それは……最初はありがたくごちそうになりましたよ。でもお弁当捨てるのがだんだん嫌で最近は……」
     「うそうそ、冗談だって。さっき、草刈機からバッテリー外すの忘れたからさ。充電しといて」
     納戸の草刈機に目をやった。
     「じゃあ、明日行こうよ。社長に捕まる前に、坂の下のホームセンターまで出てきてよ」
     ――うそうそって、それがうそだし。
     いくら外出も休憩も、自由なタイミングで許されているとはいえ、社長が来そうな時間帯に席を外すのは気が引ける。それを伝えようとしたら、既に回線は切れていた。
     開いた口がふさがらなかった。
     また着信。ファックスだった。
     川端さんが担当の取引先から、明日の臨時便の依頼だった。
     ――仕事に行ってくださいな。
     プリントアウトして社長のデスクへ。川端さんに連絡するのは社長の仕事。自席で池と新緑を眺めながら、お弁当のふたを開けた。BGMを取り入れるため、窓をもう少し大きく開ける。ホケキョ。
     
     臨時便を走り終えた川端さんが帰社したのは最後だった。
     事故渋滞で遅くなっているのを気遣い、彼が帰り着くまで、ほかのドライバーも事務所で待っていた。
     「ただいま~」「どこで詰まった?」「お疲れ」
     社長がエナジードリンクを差し出す。川端さんは受け取ってすぐ、ポケットにしまった。
     「社長。俺の臨時便の連絡、不定期だからできるだけ早く知りたい。橘さん来てくれたことだし、彼女に仕事してもらってよ」
     社長は私にそれでいいか?と言うので頷いた。
     「よし。じゃあ連絡先交換してよ」
     スマホを向けてくる川端さん。ドライバーたちが笑いをかみ殺している気配がした。
     「臨時便の依頼書がファックスで来たら、連絡すればいいんですよね」
     「依頼書を写真に撮って送って欲しい」
     ――なんなの?それ。
     社長はそうかそうかと川端さんの味方で、ドライバーたちがニヤニヤしているのが気になる。
     液晶画面をなでるが、なかなか「友だち」になれず、顔を突き合わせ続けた。ドライバーたちは「お先に」と帰っていった。
     その日の夜。
     >>もしもし
     もしもしというメッセージを初めて見た。お疲れさまでした。と打って返信した。
     間髪入れず、音声通話の着信音。
     「あー、忙しいところごめんね」
     柔らかすぎる口調に、ゾクッとした。
     「明日、昼飯……お昼ごはん行けたりする?」
    「あの……」わざと声を低くした。
    「明日は土曜日で全員お休みですよ」
    「だから、 昼、出てこれるかなって」
     ため息が漏れた。
     断ろう。でも一回行くまでこのやり取りが続くのは思いやられる。
     どうしても行きたくない人でもないか。
     ずいぶん沈黙が長くなってしまったらしい。
     「お昼ご飯じゃなくてもいいよ。午後からちょっとお茶とかならどう?」
     お茶って昭和。私も昭和だけど。折れることにした。
     「じゃぁ、一緒に同じ店に行くんだし、迎えに行くよ」
     眉間に力が入った。
     「昨日言ってた、ホームセンターで待ち合わせでいいですか」
     
     ちょっと息苦しかった。
     ホームセンターの立体駐車場で行先を決めた。
     私がネットで調べたチェーン店は、川端さんは行ったことがないという。なのに、2台で行く必要はないと言い張り、私は川端さんの乗用車に同乗させてもらった。密室だった。
     コーヒーショップで、川端さんは注文がなんでこんなに難しいんだと口を曲げた。
     彼を宥めながら、窓際の席へ腰を下ろした。
     私が引っ越してきた理由と、この会社に就職する過程などを話した。
     「俺はここで生まれ育って死んでいくけど、いいところだと思ってる」
    私はハッと川端さんの顔を見た。
     充実していた都市生活に未練たらたらで、映画館が遠すぎ、スニーカーしか置いていない靴屋への不満と、家の事情で引っ越してきたものの、求人の質と量に絶望し、車通勤だと本が読めないなど、ひたすら愚痴っていた。
     変な汗が出てきた。地元民の前でこの土地を誹ったようなもので、調子に乗りすぎた。でもそれが私の本心。
     口ごもっていると、川端さんは薬を飲むかのように一気にコーヒーカップを空にした。慌てて私もストローを吸った。
     店を出て、再び車に乗り込む。
     「とはいえ。うぐいすは気に入ってるんだろ」
     「環境の良い立地の職場にいる特典ですね」
     ようやく前向きなことが言えて、胸をなでおろした。車が動き出した。
     「ちょっとドライブしよう」
     は?私の反応を無視して、川端さんは来た道とは違う方向へ指示器を出している。
     「どこへ?」
     「ちょっと、そこら辺」
     ドライブにしては狭い旧道を行く。昼間とはいえ、大きな道にぶつかるまで気が気でなかった。
     「ここ、トラックのディーラー」
     続いて、広い田んぼを突っ切る。
     「これ、タイヤ屋さん」
     「この前、電話がありました。こんなところなんですね」
     それだけ言うので精一杯だった。シートベルトをつまんで少し緩め、窓の外のタイヤ屋さんを目で追った。
     ホームセンターまで帰ってきて、私の車の隣に川端さんは停車させた。
     「連れ回して疲れさせたね」
     私は頭を横に振ってから下げた。
     「ありがとうございました」
     私が降りると、川端さんも降りてきた。
     自分の車のドアを開ける。運転席に収まると、川端さんが閉めてくれた。
     「また来週。気をつけて」
     ――いい歳して、自意識過剰。
     窓を全開にして、下り坂を帰った。
     
     週明け。出勤してきてすぐ、私のスマホが鳴った。
     「全員出払った?」
     「はい。今しがた」
     「ちょっとそっち行くわ」
     「何しに?」
     やや間があった。
     「なんか、普通に喋ってくれるようになってきた」
     スマホの向こうで、八重歯を見せている川端さんが浮かぶような声音だった。
     3分もしないうちに、軽トラがやって来た。
     ――どこで待機してたんだか。
     川端さんは、茶色い紙袋とレジ袋に入ったみかんを私のデスクに置いた。
     私が仕事をするスペースはなくなった。
     「みかんは嫁さんの親戚からいっぱい送ってきたから。ドーナツはなんか行列ができてたから並んでみた。どっちも美味しいかどうかはわからん」
     私は紙袋をのぞき込み、一口サイズのドーナツを一つつまみ上げた。
     「今食うのか?」
     わざと大げさにドーナツを紙袋に戻して、川端さんをにらんだ。
     「いや、せっかく買ってきたから食べていいよ」
     紙袋ごと川端さんに差し向けた。
     「お味見どうぞ」
     八重歯を見せて、ドーナツを二本指でつまみ上げた。宙に浮かせたまま、私がつまむのを待っている。
     「いただきます」
     私が口に運ぶのとタイミングを合わせて、川端さんの口も開いた。
     「もちもち系ですね。おいしい」
     「また買ってきたら食べる?」
     2個目を取ろうとしていた手を止めた。買ってきてくれるのは嬉しいが、
     公休日に事務所へ来る口実づくりの匂いがする。ここは、うやむやにしたい。
     「コーヒーでも入れましょうか」
     私は水屋棚へ立って、引き違いのガラス戸を横に滑らせる。
     「お茶でいい。冷たいので」
     インスタントコーヒーの瓶に伸ばした手を引っ込め、冷蔵庫へ体の向きを変えた。
     「あー、橘さんがホットコーヒーなら同じでいい」
     冷蔵庫の扉を開ける。
     「いいってば……」
     開けた扉をわざわざ閉めに来た。
     「私は冷たいお茶でも全然構わないので」
     「ホットでいい。ホットがいい」
     コーヒーの細粒をお湯で溶かし、スティックシュガーとポーションタイプのフレッシュが2個ずつ入ったかごもお盆に載せた。私の席のすぐ隣に丸椅子を持ってきている川端さん。
     せせこましくないですかと、従業員と来客兼用のソファーを目で勧めたが、川端さんは動かなかった。
     私がブラックで飲み始めると、隣はまだ調整中。かごが空になった。
     「2個ずつで足りないですか?」
     「大丈夫」
     「甘党なんですね」
     「コーヒーあんまり得意じゃないから」
     あわや吹き出しそうになった。
     ――昨日、どんな顔してコーヒーショップに行ったっけ?
     やっぱりお茶に入れ直そう。立ち上がる私の袖が、川端さんにグイッと下向きに引っ張られた。
     「いいの。これ飲むから」
     一気に飲み干すと、すぐ納戸へ消えていった。
     「枝払いするから手伝ってよ」
     熱いのを我慢してコーヒーを喉へ流し込み、川端さんがはしご、私は高枝バサミを持って外に出た。
     林を切り開いて建てたような会社。足元の草が茂ってくると同時に、頭上の枝も伸びてくる。トラックは背が高く、斜面から枝が出っ張ってくると車体に当たる。
     「俺、登るから、念のためにはしご押さえといて」
     頭に白タオルを巻くと浅黒い肌が際立った。
     高枝バサミ片手に、はしごをしならせ、川端さんは登っていく。ハサミの高く乾いた音が響き、私の左右に枝葉が投げ落とされる。
     一旦降りて、はしごを1メートルほど移動させ、また登る。枝葉が落ちてくる。何回もこれを繰り返し、2人とも首を揉んだ。
     「とりあえず、こんなもんでいいだろう」
     切り落とした枝を掴んで集める。
     「サライ取ってきて」
     「サライ……」
     「昨日も使ったやつ」
     「……」
     「銀色の熊手みたいなやつ」
     ああ、あれか。納戸へ行くのに事務所を通ると、不在着信一件ありと点滅していた。
     ――まずい。
     ドライバーの大野さんからだった。ドライバーから昼間に連絡が入るというのは、基本良い話でないことが多い。車両の不具合か、事故ではありませんように……。
     折り返そうと受話器を上げると、重たそうなエンジン音が池の下から上がってきた。大野さんのトラックが姿を現した。
     「早いな。ちゃんと働いてきたのか、あいつ」
     舌打ちしながら、川端さんは急いで大野さんのトラックの駐車スペースに散乱している枝を、脇にざっと抱えた。
     枝払い中の川端さんとサライを手にしている私を、大野さんは高い位置の運転席から笑っている。
     「一か所、荷物が出来上がってなくてキャンセルになったから」
     電話は、だからもう今から帰るという連絡だった。その程度の内容で良かった。
     枝払いをねぎらう大野さんに、川端さんは形だけの返事もせず、
    「そんな電話、いる?」
     大野さんは運転席から地上に降りたところで、怪訝そうに川端さんを見下ろした。
     「まあ、一応。と思っただけ」
     大野さんがタバコに火をつけながら事務所に入ろうとしている。
     ――冷たいコーヒーだったな、あの人は。
     私は一旦サライを手放そうとした。川端さんの目尻が鋭く上がっていた。
     「飲み物くらい自分でやるって」
     「ドライバーさんにお茶を淹れるのは私の仕事なので」
     「昼前にもう帰ってきて、疲れてるわけないって」
     川端さんは抱えていた枝をフェンス際へ放り投げた。私はあとずさりした。
     ――川端さんと大野さんって仲が悪いのか。
     「痛っ」川端さんが左手を振りながら軍手を外した。
     「とげ、刺さりました?」
     「何もいらないよ、絆創膏とか。事務所へ取りに行かないで」
     「はあ」
     川端さんの手の平から視線を外して、顔をあげた。
     「ほかの人に盗られたら嫌なんだ」
     靴の中にも何か入り込んだのか、足を踏み鳴らしている。私は目をしばたたいた。
     ――盗られるって、私以外全員既婚者でしょうが。正気で言ってるのか、悪い冗談か。二の句が継げない。
     「俺、一番だったよね」
     「はあ。まあ」
     ――さっきのは地団駄だ。60歳を超えても踏むものなんだ。それに、適当に相槌を打ったが「一番」は何の先着順なのか。
     大野さんが外へ出て来た。
     「せっかく早く終わったし、帰るわ」
     「おう。そうしろ」
     川端さんが即、反応した。
     「腰、痛いし手伝えなくてごめん。社長によろしく言っといて」
     そう言い残し、大野さんの車は坂を下りていった。
     「手伝ってくれるなっての」
     川端さんは左の手の平をベロベロ舐めている。
     「私もたいして役に立ってないんですけど」
     窺うように川端さんを見やった。
     「いてくれたらそれでいいの」
     汚れた軍手を再びはめた左手から、私は目をそらせなかった。その手は再びせっせと動き、みるみるうちに枝がひもでまとめられていき、葉っぱの類もかき集められた。
     ふうっと川端さんが息を吐くと、しんとした駐車場に、うぐいすの一鳴きが響いた。
     
     会社の一か月の流れ、決算月の要点もつかめるようになった。それを待っていたかのように、母があちこち痛むと訴えだした。普段から自由に段取りしてよい職場だが、度々母のドクターショッピングに付き合うため、遅刻や早退を許してもらった。
     その後も、仕事のない日に「顔を見に来た」などと言っては会社へ忍んでくる川端さん。遅刻や急な休みを社長に連絡したなら、川端さんにもメールを入れていた。
     ――この手順、一体何?全くもう。
     そんなある日。仕事中の川端さんから電話がかかってきた。
     「来週休むの、またお母ちゃんか」
     「そうです。紹介された病院が遠いので、一日仕事になりそうなので」
     川端さんは、大学病院の名前を出した。
     「そう。そこです。」
     「最終はあそこしかないからな。お父ちゃんも行くのか」
     最初から見透かされているような会話に戸惑った。
     「運転は?」
     「私でしょう」
     「休みだから俺、車出すよ」
     私はのけぞった。
     川端さんはトンネルに入ったらしく、雑音が増すなか続ける。
     「あそこ、朝行くの大変なんだ。俺の親父の時もまいった。そこからどうせ散々待たされて、行って帰ってくるだけでも大仕事だ。慣れない道を走って、橘さんの体力を消耗しない方がいい。それに俺の車、後部座席フラットになるから、お母ちゃん寝転んで行けるし。橘さんの車はそうならないだろう?」
     ありがたいの一言だったが、冷静に考えると即答できない。
     「悪いことは言わない。そうしろって」
     そう言い切られて、頼る腹が決まった。
     「すみませんが、お言葉に甘えてお世話になります」
     机におでこをつけた。
     「家、知りたいから、今日の帰り、橘さんの後ついて行くからね」
     展開の早さに、あわあわとして言葉が出てこなかった。
     「鍵つけっぱなしだから、俺の車の後部座席、倒してみてくれていいよ」
     従業員駐車場に停まる、川端さんの乗用車に黙礼した。
     
     受診日の早朝。我が家のガレージに川端さんの車が入ってきた。
     「親切な人がいてくれて。いい会社なんだな」
     「5分前にちゃんと来てくれた。うちの父さんとは大違い」
     川端さんに頭を下げる両親は、遠足に行くかのようなうかれ方だった。特に母は近所を散歩する日課も、このところよほど調子のいい日だけに減っていた。久しぶりの遠出なのは間違いない。
     マットレスを後部座席を倒したスペースに広げた。私が呆れた顔をしていたのだろう。川端さんがささやいた。
     「あちこち痛いんだろ?気を使わせないように明るく振る舞ってるんだよ。お父ちゃんだって心配だろうに、隠してるんだ。いい親御さんじゃないか」
     川端さんは、そそくさと乗り込んだ母の靴を車内へ入れてくれた。
     一時間以上かかる道中。助手席の父とうしろで横になっている母はよくしゃべった。
     ここは昔、こうだった……と、地元で生まれ育った川端さんの話に食いつく2人。川端さんも、私と話すときには使わない方言を前に出す話し方。
     ――わざとだ、きっと。
     両親の硬さはすでにほぐれている。私にはできない芸当だ。
     途中で止まったドライブインではトイレの真ん前に。病院についても、玄関ギリギリまで車を寄せてくれた。
     
     ――こんな人が夫だったら。
     私は頭を振って、車椅子を借りに走った。
     
     待ちに待って、診察のあげく急な検査オーダー。何度か途中経過を川端さんに知らせた。すべて、OKの絵文字が返ってきた。病院を出るころには、日が傾いていた。
     「車の中で寝てたから」八重歯を見せる川端さん。
     7時間も寝ていられるはずがない。私は唇を固く閉じた。それに、もし私の運転で来ていたら、帰りがどれほど荷が重かったことかとゾッとした。
     川端さんは、診察はどうだったかなどと、一切口にしなかった。
     「お疲れさま。みんな寝てていいですよ」
     診察内容は、母の今後を明るく照らすものでもなかった。末期なのだから仕方がない。しかも車内でも横になり、診察までの長い待ち時間も、ナースにお願いして処置用ベッドを借りてなんとかやり過ごした。ある程度元気でないと、大学病院の外来へ来るのは無理だと痛感した。
     母が唐突に張りのある声で川端さんに告げた。
     「朝に寄ったドライブイン、寄って欲しい」
     「寄りますよ。あそこトイレきれいですもんね」
     「トイレじゃない。肉まん食べたい」
     車内は一瞬しんとして、笑いに満ちた。朝は開店していなかったのに、目ざとくチェックしていたなんて。カラ元気だとしても、母のおかげで空気が変わった。
     
     「昨日は本当にありがとうございました」
     「いや、こちらこそ。俺まで肉まんご馳走になって」
     帰社した川端さんのトラックに駆け寄って、ほかの人に悟られないよう頭を下げた。
     ドライバーが全員帰ってくるまで事務所で待ち、一斉に退社。その足で、私と川端さんはホームセンターで落ち合った。コーヒーショップへ行って以来、 2度目の川端さんの助手席。
     ガソリン代としてお礼を渡そうとしたが、「出すな、そんなもん」と手ごと鞄に押し込められた。
     「それより俺の車、まだ肉まん臭くないか?」
     「ひっ」
     私は、自分の車に消臭スプレーが積んであることを思い出した。取りに行こうとして右腕を掴まれた。
     「どこ行くの」
     立体駐車場の薄暗さに脈が早まった。地団駄を笑えない。こんなことで動揺している私もどうかしてる。
     「で、次はいつ受診?」
     私は現実に戻った。
     「それが。……とりあえず、 1週間後にもう一度だけ」
     「じゃあ、休みになるように臨時便入れるなって向こうに言っとくよ」
     「取引先にそんなこと言うんですか」
     ――川端さんて何者なのか。うちの社長はわかっているんだろうか。
     「田舎はこんなもの。知り合いだらけ。あそこの配車係は俺が言えば融通利く」
     ならば、というわけでもないが、結局、
     「すみません。もう1回だけお願いします」
     手術は部位的にできないので、放射線治療が可能かどうかを聞きに行く。幸か不幸か、昔は入院してやる治療が外来でできてしまう。
     私としては、2、3日に一度、あの距離を通院するのは正直言って、厳しい。
     「母は放射線治療やりたそうなんですけど。私は申し訳ないけど……」
     母の希望する治療が叶わない、地元の病院で療養してもらうことに同意してもらうしかなかった。
     「うん。お母ちゃんだって、うしろで寝てるだけでも通院はしんどいと思うぞ」
     私も頷いた。
     「来週、行くには行くけど、放射線治療できるって言われても、父も私も答えは決まってるんです。その父は細々と続けている自営の店の仕事を盾にとって逃げ回るし。ちゃんと母に言わないといけないんですけど」
     口に出していると、目が潤んできた。
     「お父ちゃん、そうか。まあ、仕事って都合いいところあるからな」
     川端さんは薄く笑って、私の肩に手を置いた。
     「できる範囲しかできない。けど、後悔がないように自分の為に最後までお母ちゃん大事にしてやれ。俺が手伝えることはなんでも言ってこい。てか聞き出すけどな」
     私の肩を揺らす川端さんの手は温かかった。
     ――家族だったら、もっと遠慮なく頼れるのに。
     「ってことは。お父ちゃん、昼間はお店にいるんだ。土曜日も仕事?」
     私は眉をひそめた。
     「何を企んでるの」
     「いや、別に」
     八重歯が出ていた。
     
     2回目の大学病院受診の2日前。
     メールの着信音。事務所の外回りをざっと掃き掃除して戻ってくる頃に着信するのは、川端メールで間違いない。
     >>明日、お弁当持ってこないで
     まだお昼ご飯にこだわっていたのかとうなだれたが、続きを読んで背筋が伸びた。
     >>あさっての早朝の仕事が出てきたって、配車係のお兄ちゃんが先に連絡くれた。俺のほうで次の日に振り替え済み。ただ、それに配車係の上の課長が絡んでいるらしいから、ちょっと挨拶に行こう。
     また、会社に内緒で裏取引させてしまった。ただ、挨拶に行くのに昼ごはんは関係なさそうなのが引っかかる。でも私がらみで起きている裏取引なので、断らなかった。
     どこかで見張ってたかのように、スマホから目を離した途端、ファックスが動き始めた。
     3日後の依頼書だった。
     再びスマホを起動し、カメラで撮って、川端さんに送信した。すぐ既読がつき、電話がかかってきた。
     「すみません。お手数おかけして」
     「しょうもないご飯で悪いけど、明日うどん屋行くから」
     うどんは、どうでもいい。早口で声高に話す川端さんに、私ごときが会ったこともない取引先の課長に挨拶などしていいのかと尋ねた。
     川端さんは、挨拶っていうか……と前置きした。
     「課長と俺も前から知り合いで。昔、喧嘩したこともあってさ」
     ――どんな知り合い?
     「課長、俺が今この便のトラックに乗ってるの知ってて、他社に回さずに日程変えていけるんならそうしてやれって、配車係に指示したらしい」
     「それはお礼に伺わないと、ですね。」
     「けどな。俺、あいつ嫌いで」
     「それで私を巻き込もうっていうんですね」
     がははと笑う川端さん。
     「あいつ、混む前の11時半ごろに昼飯行くんだって。配車係のお兄ちゃん曰く、毎日フライング昼休憩に出て行くのは社内公然の秘密らしい」
     「で?」
     「だから偶然を装ってうどん屋で張って、ちょっとだけ礼言っとこうかなと」
     「私が喧嘩にならないようにクッション役ってことですね」
     「まあ、そう言うなよ」
     軽々とプランを披露しているが、必ずうどん屋に現れるのだろうか。
     「それで、この件もうちの社長には報告なしですか」
     「隠すことでもないけど、必要ない。ワシもうどん屋行くとか言いだしたら面倒……」
     「やめときましょう」
     
     「あいつだ」
     果たして11時半きっちりに、取引先の社屋から道路を渡ってくる男性。まっすぐうどん屋に入って行った。コンビニと共用の駐車場で待機していた川端さんと私は、顔を見合わせた。
     「本当だったんですね」
     「気楽な仕事してるな」
     「私も11時過ぎからエスケープしてるんで、なんとも」
     「挨拶は仕事だろう」
     ――非公認の仕事だし。川端さんの能天気さが恨めしかった。
     店内の課長の位置を確認して、普通の客として振る舞った。少しして、課長が食べ終わる直前に「今、気づいた」ふりをして、中座した。
     課長のテーブルへ近寄ると、おや?という表情で箸が止まった。
     「ご無沙汰してます。また、お世話になってしまって」
     川端さんの八重歯の効用を垣間見た。私も続いた。
     「いつもありがとうございます。この度は、ご配慮くださったと伺っております」
     いやいや、そんな……と視線を合わさず、手で制して、課長は退店して行った。本当に挨拶だけだった。
     さてと。と改めて座り直して、うどんの続きをすすった。
     セルフサービスで取った天ぷらが一つの皿に盛られて、 2人の間に置いてある。
     「かき揚げ、半分食べる?」
     「いいえ。私はちくわを取ったので」
     「ちくわ、半分ちょうだい」
     ――切りにくい。
     新しいお箸を取ろうとした。
     「かじった残りでいい」
     新しいお箸へ手を伸ばす。
     「いいや。全部食べていいよ」
    私 がちくわを出汁に沈めていると、川端さんはかき揚げを自分の箸を一本ずつ両手に持って、引きちぎっている。
    あ っけに取られている間に、その半分を私の器へ放り込んだ。
     「俺、揚げ玉いっぱい入れたから、揚げ物こんなに要らないし」
     ――ちくわまで欲しがってたのに。
     切り口が不格好なかき揚げを、ちくわでつついた。川端さんはすでに一滴残らず飲み干そうとしている。
     私はほとんど噛まずにうどんを喉に通した。考え事をせずにかき揚げとちくわを胃に落とした。
     「まあまあ、うまかったね」
     おなかを撫でながら、次々と車が出入りする駐車場を横切るのに、私の二の腕を軽くつかんできた。
     「うまかったですね。まんまと昼ご飯をご一緒する羽目になりました。私、いなくてもよかったですよね」
     川端さんは、歩調を緩めた。
     「そういうこと言う?会社に迎えに行ったら、スーッと俺の車に、当たり前みたいに乗ったの、誰よ」
     「当たり前って言い方」
     コンビニ前の灰皿に集っていた人がこちらを向いた。
     「明日また朝から大変だから。今日は手抜きで仕事しとけよ」
     戦意喪失。黙って川端さんの車のドアを開けた。
     
     翌日、午前中で受診は終わった。
     母は前夜から、痛み止めが効かないと過剰服用した。定期通院でも大変なのに、急に診てもらいたいとき、この大学病院までの距離と時間はネックであると、身に染みて分かったようだった。地元の病院で、痛みだけ取ってもらえたらそれでいいと若い医師に伝えて、診察は終わった。
     会計窓口が混雑していて、列が遅々として進まない。
     車椅子の母と隣の父はテレビを眺めているが、焦点がテレビに合っていない。かといって夫婦の会話もない。川端さんに診察終了の報告メールをした。
     >>早かったね。今、うどん食い終わったとこ。今日もうどん(笑)すぐそっちへ戻る
     ほどなく、川端さんは院内に入ってくるなり、私を見つけた。
     「処方箋、ファックス送ってきてやるよ」
     「それだったらこの会計の列に並んでて欲しい。私、直接薬局行ってくる」
     「おう」
     私は現金の入ったポーチを川端さんに預けた。
     薬局の待合に、川端さんが現れた。
     「こっちも混んでて」
     川端さんがポーチを返してくる。
     「中身見てよ。盗ってないけど。領収書もそこに入れたから」
     「ありがとう。っていうか、なんでいっぱい門前薬局あるのに、ここってわかったの」
     「先週、ここの薬局の袋持ってただろ」
     「いつ見たの?」
     「見えた」
     「地元で疼痛コントロールだけしてもらうことになった……」
     薬剤師に呼ばれて、私はカウンターへ立った。
     薬局を出ると、川端さんは車を回してくるために左へ。私は待合いの両親の元へ戻るため右へ。
     「じゃあ、ゆっくり玄関へ出てきといて」
     「うん」
     「……その選択も一つだと思う。あとな、お父ちゃんもお母ちゃんも、帰ってきてくれたお前には感謝してると思うぞ」
     私は首を傾げた。
     「俺には分かる」
     川端さんのまなざしを受けて、鼻の奥が痺れた。
     「あのさ」「ん?」
     「“お前”はイヤ」「じゃ梨恵」
     「呼び捨て?」「梨恵……ちゃん?」
     「気持ち悪い」「ほら、みろ」
     川端さんが私の後ろに回り込み、2回肩をもんで左方向の駐車場へ小走りしていった。
     
     川端さんは、小さな道路のくぼみもこまめに避けて走ってくれた。
     「プロにお任せできて、安心ですわ」父が言った。
     「いえ。サラリーマン定年退職して、免許持ってるからアルバイトでトラック乗ってるだけですよ」
     母が起き上がってきた。
     「元々はどんなお仕事を?地元の会社で?」
     「もう、お母さん」
     川端さんはルームミラーに八重歯を映し、
     「機械メーカーで設計してました。市役所の裏の……」
     「トイレ行く人は?」
     私は割り込んだ。誰も行くと言わなかったので素通りした。この後、山間部に入ってトンネルをいくつも抜けた。そのトンネルの一つ一つに、母は、長い、明るい、すごいカーブと弾んだ声を上げた。平地になると横になり、いびきをかきはじめた。
     
     自宅まで送り届けてもらい、マットレスを車から降ろした。
     「お疲れさん。腹空いてるだろう。早くなんか作ってやれ」
     頷いた。
     「じゃ、また明日会社でな」
     ポンと肘を叩かれた。角に川端さんの車が消えるまで見送ったが、気が回らずあっさり帰したことに頭を抱えた。
     
     翌日、私が出勤すると、川端さんはすでに早朝からひとっ走りして、すでに帰社していた。
     「昨日はありがとう。なんかろくにお礼も言えてなくて」
     「梨恵、天気いいし洗車しよう」
     川端さんが手を差し出すので、キーボックスからトラックの鍵を出そうとした。
     「違うって。これの」
     私の車を指している。
     「いい。そんなの」
     「汚いのに」
     「うるさいわ」
     「早く。ほら」
     差し出した手を上下に振る川端さん。本当は、川端さんの車を私が洗うのが筋だろうに。
     「私も呼び方決めた。ミッチー」
     「了解」
     すんなり決まりすぎて拍子抜けした。
     キーホルダーを渡しながら一緒に外に出ると、そっちは仕事してろと押し戻された。アルミサッシの窓の向こうでは泡だらけの私の車と鼻歌。そこに、うぐいすの一鳴き。
     うぐいすは春しか鳴かないと思っていた。泡を流す水の音が心地いい時期も終わりに近い。
     
     平日のうち、川端さんの出勤する週3日は朝に昼にどうでもいいメッセージや電話が来て、夕方事務所で顔を合わせる。そして会社を出たら、ホームセンターの立駐で缶紅茶片手にちょっと喋ってから帰る。
     出勤日じゃない日の彼は、朝遅くにやってきては何か一仕事して昼前に帰る。
     「あ、それでさ。週末、草刈り行くわ」
     「どこへ」
     「梨恵んち」
     ――両親に顔を知られたことだし、堂々と来るつもりだ。
     「今まで、庭はお母ちゃんが世話してきたんだろう」
     「私、興味ないもん」
     「でもお母ちゃん、あれだし。草ぼうぼうだったじゃないか」
     ぐうの音もでない。
     週末、頭に白タオルを巻いて川端さんはやってきた。
     軽トラの荷台には、会社の納戸にあった草刈り道具一式が揃っていた。
     「借りてきたのね」
     「全部、俺の私物だって」
     私は声を上げて笑った。笑い声につられて、母が庭に面した和室の掃き出し窓から顔を出した。
     「お母ちゃん、ちょっとうるさくするよ」
     「ついでに、そこの南天も剪定してほしい」
     「おっ、これな」
     刃が回転しながら地面スレスレを這う。草が飛び散る。
     それは切るな、切った方が新芽が出ると、母と川端さんは張り合っている。
     指図している母に陽が当たっている。沓脱石に足を投げ出し、あったかくて気持いいと目を細めている。
     「あら。みじゃない。懐かしい」
     「ほら、お母ちゃんは知ってる」
     私は口を尖らせた。
     みを使って草集めまで完了させると、母はうたた寝していた。微笑んでいるように見えた。家で過ごす最後の時間だった。
     
     川端さんの草刈りが落ち葉掃きに変わった。川端さんの仕事がない日の午前中は、彼が現れて落ち葉掃きが終わるまでに、慌ただしく事務仕事をこなす。
     彼が事務所へ入ってきたときに、その存在を無視して仕事に集中していると、捨てられた子犬のような顔をする。それが不憫でならない。
     毎日、乗用車1台分ぐらいの嵩の葉っぱが落ちてきていた。
     「焼き芋できそう」
     「そんな悠長なこと言ってられない」川端さんは焼却炉に葉を砕きながら詰め込んで着火した。立ち上る煙を目で追った。
     「おっ。あれは」
     川端さんが斜面を指さす。
     「あけびだ。いい色だし熟してるんじゃないかな」
     私には土も木も葉も、全部茶色にしか見えない。
     「あそこ」私の背後にぴったり立ち、耳ギリギリに腕を伸ばしてきた。
     「俺の指先見て」
     つるにぶら下がる、うっすら紫色がかった実がわかった。
     「大きい。あれ、デパートなら木箱入りで売られてるやつ」
     「あほか。こんなもの、このあたりの山にいくらでもあるわ」
     「あほって何。私にとっては垂涎の品なんだから」
     「難しいこと言うな。俺あほだからわからん」
     「採れない?」
     「ちょっと高すぎるな」
     「母が好きだから、こっそり差し入れたい」
     腕組みして押し黙る川端さん。
     「よし」
     川端さんはウイング車のトラックに乗り込み、エンジンキーを回した。何度か切り返して、斜面ギリギリまで寄せた。運転席から身を乗り出し、 荷台の上へ上がった。
     「届きそう。高枝バサミ取ってきて」
     私は納戸へ走った。
     わずかに割れ目の入ったあけびは食べ頃だった。
     「あほじゃない。知恵ある」
     「こういうことは任せておけ」
     通勤かばんの底にあけびを隠した。
     
     ベッド横にしゃがみ、かばんの底へ手を入れた。
     「一つ毒味してみたから大丈夫」
     会社のティースプーンも拝借してきた。柔らかい殻を割ると、白と黒のコントラストに母の目は丸く大きく開いた。
     「野生で手に入るなんて、あんた、どんなところで働いてるの」
     「だから、林の中の運送会社」
     「子供の頃、おやつこれだった」
     「いくらでもあるみたい。また採ってくるね」
     「採るの、あんたじゃないでしょ」
     「あ、外泊の許可、先生くれたよ」
     母の目がさらに大きくなった。
     
     週末ちょっとうちにおいでと言われて、頬がひきつった。
     「うちに」って、どういう……。自宅に川端さんが迎えに来るのも慣れたものになっていた。
     「うち」は川端さんの生家だった。同じ市内だが、会社がある林とはまた違う山際の集落で、極狭の道を抜けた先にあった。
     「せっかくお母ちゃん、外泊してきてるんだからさ」
     そこにはゆずの木があった。家屋の裏に回ると、店が開けそうなほどあけびがぶら下がっていた。
     「あけびとゆず持って帰れ。で、ゆず風呂で温まってもらえ」
     「あんまりもてなして、病院に戻りたくないって言われたら困る」
     「してやればよかったって、後で言うなよ」
     川端さんは、まっすぐ私を見ていた。
     ――最初で最後の外泊。
     「ゆず、すごく好きなはず」
     トゲに何度もやられながら、特大のレジ袋2枚がパンパンに膨らんだ。
     家まで送ってもらい、玄関で荷を下ろすと、母が四つん這いで和室から出てきた。
     「お母ちゃん、お邪魔します。また来ました」
     母は、川端さんと大量のあけびとゆずに、口をあんぐり開け、元気だった頃のように歓声を上げた。
     川端さんは目で頷いて帰っていった。
     あけびは食べ過ぎると便秘になるから。と制しても母はどこ吹く風。
     「好きなもの食べて、戻るわ」
     週明け、ポケットに3つゆずを入れた母を病院へ送り届けた。
     
     「えっ?病院食にゆず絞ってるってこと?」
     川端さんは笑いを抑えきれない。
     「ううん。消毒液の匂いがうっとうしい時、ちょっと爪立てて嗅ぐんだって。没収されなきゃいいんだけど」
     「そんなに気に入ってくれたか」
     「本当にありがとう」
     「照れるから、そういうのいらない」
     川端さんは背を向けてストレッチを始めた。
     「さあ、昼飯何に行く?」
     「なんかさ……。週6日も顔を合わせるって、ちょっと多くない?」
     両手をあげたまま、ぐるりと川端さんの頭だけが回る。
     「どこが」
     眉が段違いになっている。
     「はいはい、なんでもない。今日はポカポカ陽気だから外がいい。でもお客さんが来るから1時までには戻らないと」
     「じゃあ、親水公園に何か買っていくか」
     「いつもの洋食屋さん、テイクアウトしよっか」
     「決まり」
     私が事務所のドアを施錠するのを待ちきれず、左手が引っ張られて、余計に手間取る。当たり前のように川端さんの車に同乗した。
     人口の小川で水遊びする人影はなく、貸切状態。ピクニックのような昼休憩。なんてのんきなんだろう。川端さんが仕事のない日の昼ごはんは、共にする率が上がってきていた。
     いつでも連絡がつくようにしておいてくださいとナースから連絡が来てからというもの、トイレやお風呂にもスマホを連れて行っている。父が母に最後に着せる和服の準備をしておけと丸投げもしてきている。
     なのに私は……。穂を出し始めているすすきが、一斉に同じ向きになびいた。
     「残される方は、できるだけいつもどおりに生活するべきなんだ。別に、自分を正当化しようとしてるんじゃないよ」
     川端さんは、俺は芋虫じゃないからと、レタスの類を私に押し付けてきた。
     「でもな。昼とか夕方少しとかしか一緒にいれないんだから、週6でも、トータルの時間としてはちょっとだ。梨恵は家事全部引き受けてるから俺より忙しいし、早く帰さないといけないのもわかってるよ」
     毛を短く刈り込んでいる頭が、小春日和にテカっている。一本のペットボトルのお茶を、代わるがわる口をつけた。
     「頭、暑いでしょ。毛がさみしいし」
     「失礼な。ハゲてないぞ俺は」
     頭をごしごし擦る川端さんに、私も加わった。想像よりチクチクした。
     デザートのミニパイのラッピングをはがせずにもたもたしている川端さん。
     「むいてあげる」
     「できる。ちょっと待て」
     アップルパイとパンプキンパイ。それぞれ好みのものを買うのに、食べる時には結局半分ずつする。
     自分の好きなものだけれど、相手が食べることも考慮に入れて選ぶ。
     「なんか薬臭くないか」
     「シナモンでしょう」
     残りのアップルパイを引き受け、パンプキンパイを差し出した。
     ふいに手を取られる。
     「食べ終わったからもう、手いらないでしょ」
     私も軽く指を曲げる。川端さんの皮の分厚い手の平に力が入る。
     「なあ。温泉行かない?」
     ぎょっとして手を離そうとした。離してくれなかった。
     川端さんが空いている手でポリポリあごを掻いた。
     「1時間以内で行ける日帰り温泉、いくつかあるからさ。昼飯も食えるし」
     温泉というワードに私が過剰反応しただけだった。温泉は大好き。引っ越してきてからは遠ざかっていた。渡りに船。
     「貸切風呂も予約できるところあるよ。でもそれは違うだろ?え?」
     「1時になる」
     私は立ち上がった。
     
     会社へ戻ると、社長の車が停まっていた。
     「おかんむりかも」
     車はあるのに本人がいない。私は身を固くした。
     事務所に入ると、社長は怪訝な顔で私たちを迎えた。
     「川端君、今日は仕事ないよな?」
     「はい。トラック洗おうと思って、洗剤買いに行くのに経費のお金持ってる橘さんを連れて行きました。俺がお願いしたんです」
     社長が眼鏡をはずして、拭きながら問う。
     「川端君」
     「はい」
     「そういうことは今までもあった?」
     「……はい」
     「あのな」
     つばを飲み込んだ。
     「言ってくれよ。焼却灰を掻き出してくれたのも君だろう」
     社長は私に鋭い視線を向けた。
     「橘さん。川端君、今日は出勤扱いにしておいて」
     川端さんは一歩前へ出た。
     「社長、いらないですって。年金減らされたり、税金増えたり困るんです。トラックに乗ってる分の給料で充分です」
     社長の頬がこわばった。
     「好きでやってることなんです。俺、この会社好きなんで」
     八重歯に社長の頬が一気に緩んだ。
     「そしたら」
     社長は尻ポケットから財布を取り出し、人差し指を舐めて紙幣を何枚か引っ張り出した。
     「何もなし、というわけにはいかん」
     川端さんは一瞬だけ私のほうを見て、お札の隅に両手を添えて受け取った。
     来客予定の時刻が近づいてきて、社長は使い終えたマイカップを流しに置いた。それを合図に、私は湯呑みと茶托の準備に入り、川端さんは外へ出た。
     退勤してすぐ、ホームセンターの洗車用洗剤のコーナーへ向かった。領収証の時刻を確認されたらアウトだが、話の辻褄を合わせておかねばならない。レジで支払っている間、川端さんは大容量の洗剤を抱えて待っていた。
     「危なかったね」
     「そうか?何とかなるって」
     川端さんの足取りは弾んでいるように見えた。
     「明日仕事あるから、朝一番で納戸の分かりにくいところへ置いておくよ。あとこれ……」
     胸ポケットに折り畳んだお札。
     「つばのついた金、財布に入れたくないし、早く昼飯で使ってしまいたい」
     グータッチしてそれぞれの車に乗り込み、私は面会時間の門限が迫る病院へハンドルを切った。
     
     母は夢の中にいることが増えた。手を握ると反応があるが、目を開けようとしても開かない、もどかしい感じだった。
     「昼間は暖かい一日だったよ。明日から師走とは思えないね」
     一方的に話しかけて部屋を出た。詰所前でナースに呼び止められた。
     「もう下着類は必要なくなりました」
     病衣の下まで気づかなかった。
     「自分でトイレに行くのも難しくなりました」
     お世話になりますと、腰を折った。
     「あと、棚にお荷物がたくさんありますので、置時計とか写真立て、スリッパ。少しずつ持って帰られてはいかがでしょう」
     ――退院時に大荷物だと難儀するのは確か。
     「スリッパも、もう履くことはないんですね」
     ナースは静かに頷いた。
     「眠っている時間が増えていくと思います。起きていると痛みますから」
     私は言い聞かせるように何度もあごを引いた。
     
     帰宅して夕食の用意をしていると、スマホが鳴った。
     >>帰ってる?話せる?
     >>うん
     呼び出し音。
     「お母ちゃん、どうだった」
     「眠る時間が増えていくって」
     「そうか」
     「置時計とかスリッパとか、ちょっとずつ引き上げたらって……」
     声が震えた。
     「明日、一緒に行くよ」
     「ううん。そんなに多くはないから」
     「眠ってても耳は聞こえてるって言うぞ。いっぱい話しかけてやろうぜ」
     
    1 2月に入ると交通量が増える。読み通りに走行できずに気を揉むことも増える。私はドライバーが全員帰社するまで待たず、契約している定時で退勤した。
     退院の際に着せたいものを持ち込んでおいてくれたら、エンゼルケアのあと着せますのでと告げられた。
     時計やスリッパを引き上げる時、目は閉じたままなのに、眉をしかめた気がして手が止まった。意味がないと知りつつ、音を立てないようにそっと棚に手を伸ばした。母から顔を背けて紙袋に詰めた。
     そのうえ、最後の服を持ち込むなど、胸を抉る行為だ。
     その和服は、その日が来るまで、自宅から出さないと決めた。
     掛け布団の中に手を差し入れると、異様に熱かった。まぶたは開かないが、眼球が動いた。
     背後で気配がした。
     「下の受付簿の時間見たら、あと5分あると思って」
     息を弾ませた川端さんは、母に八重歯を見せた。
     「お母ちゃん、道が混んでてさ、娘さんに置いてきぼりにされるんだよ」
     紙袋を持ってくれた川端さんは、病院の駐車場でも、隣同士に車を停めていた。
     「電話で声は聞けるけどさ。やっぱり顔見とかないと」
     いつもどおりの川端さんに、力んでいた肩がおりた。
     「お母ちゃん、確かに急に落ちた感じがするな」
     「貸し切り温泉は行っちゃだめって、言ってるのよ」
     「……そうだな。でもな」
     川端さんの人差し指が私を指す。
     「俺らを引き合わせたのは、お母ちゃんだと、俺は思ってるんだ」
     指先を見ていると、視界が滲んだ。
     
     「今週は買い物行こう」
     「どこへ」
     「知り合いのタイヤ屋。梨恵の車、冬タイヤに履き替えよう」
     「雪が積もったら欠勤って、社長と話がついてる。雪道なんか不慣れだし」
     「違うって。いつお母ちゃんのところへ走らないといけないか、わからないだろう」
     「……」
     週末。タイヤはすでにお取り置きがされていて、すぐに店を後にした。
     自宅のガレージにいろんな金属音が鳴った。川端さんの車のトランクからいろんな工具が出てきて、次々とタイヤが入れ替わっていく。川端さんの額に汗が光る。私にできることがあまりない。外したタイヤにクリーナースプレーを吹きかけて、とりあえず拭いてみた。川端さんは夏に草刈りした際、タイヤを積んでおく敷地の隙間に見当をつけていたのだと胸を張る。
     「そんな頃から……」
     遠い目で、川端さんを見た。
     近所の人が通りかかり、うちもそろそろ履き替えよう、と川端さんに会釈して去った。
     「よし、終了。空気圧調整しに、ガソリンスタンド行くよ」
     何もかもお任せ。ガソリンスタンドに行くと、この作業は数千円かかるものと看板に書いてあった。タイヤの代金も、払っていない。
     「俺ができるうちはやるから」
     ――“俺”ができなくなったとき、私は己の生活能力の低さに打ちのめされるのだろう。
     そう思うと失意に沈んだ。
     
     エアコンのフィルターのヤニ臭さが尋常でない。川端さんと私以外みんな喫煙者で、いまだに屋内でタバコを吸う。コピー機の後ろからは干からびたゲジゲジが出てきた。年末だし、掃除くらいするかと言い出したのは私だが、実際にそれを実行しているのは、ほぼ川端さん。私はたびたび手に負えないと白旗を揚げ、サボった。
     「家の正月の準備はしているのか」
     一応始めていた。ただ、どうなるかわからないので、重箱は出したが、松飾りや紅白かまぼこは買わず、年賀状も出さないことにしていた。
     「俺のとこ、毎年カニお願いしてるところがあってな」
     一瞬、相槌が遅れた。
     「あー。いいですね」
     「週末一緒に見に行って、良さそうだったら、ついでに頼んでおかないか」
     返事が遅い私は置いてきぼりにされた。
     「俺が取りに行く役目だから、梨恵んちに届けてやるってば」
     山の中の鮮魚店は大盛況で、水槽内のカニは足がもつれないのかと心配になるほどだった。店主が川端さんに片手をあげた。
     「まあまあの形だろ。値段もこんなもんだし」
     カニをはじめとして、刺身用のマグロ、ウニと次々注文し、店主がペンを走らせた。
     「で、それプラス」
     私の顔を見た。
     「うちはカニ3杯で充分なんだけど……」
     消え入りそうな私の注文に、
     「プラス、カニ4」
     「あざっす」
     「30日、来るわ」
     活気に気おされて、息が詰まってきた。
     店の出口を目指すが、なかなか人波をうまくかき分けられない。川端さんは私の手を取った。手がつながるとカニ歩きになって歩きにくい。でも離さなかった。
     
     クリスマスの夜遅く。聞きなれたナースの声。
     「急がなくても大丈夫ですが、来てください」
     暖色の着物をトートバッグに入れ、うとうとしている父を起こした。車の鍵を手にするので、
     「晩酌したところでしょう」と、鍵を取り上げた。
     川端さんの声が脳内で再生される。
     「いつもどおり生活するべき」
     いつもどおり晩酌ができない精神状態だったら、この先が思いやられるところだった。
     信号待ちの隙に、川端さんにメールした。朝が早いかわり、布団に入るのも早いと聞いていた。でも、しないわけにはいかない。
     病院への面会は、父が週1回だった。残り4回の私の次によく見舞ってくれたのは川端さんだった。
     病院の夜間通用口から入るときに返信が来た。
     >>気をつけてな。また連絡くれ
     日付が変わるのを待っていたかのように、医療機器の液晶画面の波形が水平になった。
     着物をナースに託した。父が葬儀社に電話している間に、母の荷物を車へ運んだ。2往復で済んだ。母のしかめっ面が脳裏に浮かんだ。
     >>旅立ちました。本当にお世話になりました
     >>さみしくなったね。朝、また連絡ちょうだい
     親族の誰よりも先に伝えていた。
     家族葬会館の控室で母と短い夜を過ごした父。
     数時間でも、自宅へ戻った私は深く眠れた。
     ――長い2日間になる。
     朝食とお風呂の支度を整えて、父と交代しに行った。
     線香の煙で燻された控室のドアを開放した。
     >>父には午前中、家で休んでもらいます
     >>会場どこ
     >>前に行ってあんまりおいしくなかったラーメン屋さんを左折したところ
     >>行く
     すぐに駆けつけてきた川端さんは、白い布を浮かせた。「お疲れさんでした」高めの声で、手を合わせた。
     「今日お通夜、明日葬儀だな」
     「うん。そう」
     「来さしてもらうよ。両方」
     「明日は仕事納めよ」
     そんなもん、来年に回させる。そう言って出勤して行った。
     
     関係の近い血縁者だけのお通夜、末席に川端さん。葬儀も同じ。川端さん以外はマイクロバスに乗り込んだ。ゆず入りの棺を乗せた霊柩車を、川端さんだけが外から見送った。
     ――川端さんはこれを承知の上で来てくれた。
     
     忌引き休暇から、そのまま年末年始の連休に突入していた。川端さんほどではないが、ある程度前倒し、後ろ倒しできる仕事を選別して備えていたが、年始にバタバタするのは目に見えていた。月末、年末の事務処理を少しばかり片付けておこうと、こっそり出勤した。
     >>内緒でちょっとだけ仕事しに来てます
     >>カニ貰いに来て帰るとこ。家じゃなくて会社へ行くね
     息を呑んだ。慌てて財布のファスナーを開ける。
     たいして仕事がはかどらないうちに、発泡スチロールを2段抱えた川端さんが到着した。
     「どれ、持って帰る?」
     蓋を取り、事務所内に潮の匂いが充満する。
     「いくらだった?」
     「金の話はしなくていいって言ってるだろ」
     これ足太いから焼きガニできるぞと、甲羅を掴んでいる。
     「うちはお鍋だから、大きくなくてもいい」
     カニを分配。それぞれの家族団らん用に。
     各々、車へカニを積み込み、川端さんは茶色の紙袋を手にして戻ってきた。
     「おやつ。あのドーナツの新しい味」
     仕事は諦めた。一つの蛇口で、四つの手を同時に洗った。
     私は紙袋に手を突っ込み、ドーナツを一つ取り出した。そのまま川端さんの口元に近づける。大きく開いて奥の虫歯まで見えた。
     あっという間に空になった紙袋を小さくたたんだ。私の指先についた砂糖を、川端さんが舐めとった。
     「うわーっ」
     少しの間、まばたきを忘れて親指と人差し指を見ていた。
     「仕事なんかするの?年明けでも余裕だろ」
     川端さんはウェットティッシュで私の指先をぬぐった。
     「ここで一緒にいるのも楽しいけど、生ものあるし、もう帰ろう」
     「カニとミッチーが来てから、仕事へのモチベーションはとっくに崩壊」
     川端さんはクシャっと笑った。
     「こんなカニでも役に立てて、疲れとってよ」
     指先がまだ生ぬるく湿っていた。
     「いっぱいお世話になりました。よいお年をお迎えください」
     最敬礼した。
     「えっもう?明日、まだあるよ。明日も、メールも電話もするからね」
     大きく息を吐いた。いつもどおり、か。
     「じゃあ、またね」
     2台連なって坂を下り、ホームセンターを過ぎた信号で隣り合う車線に横並びし、手を振りながら、左右に分かれて曲がった。
     ――喪中なのに、こんなに笑ってる私。
     
     松の内が過ぎて間もなく。昼過ぎのルーティンの入電。いつもなら、「予定通り出発。2時間で帰るよ」
     その日は違った。
     「会社についたら、すぐ帰る」
     背もたれから背を離した。
     「はい。そのつもりで段取りしておきます」
     「嫁さんと娘、どっちもインフルエンザってメール来た」
     自分は家族まるごと世話になっているのに、川端さんの家族となると何も手出しできない。
     口の中が苦くなった。
     「それは早く帰ってあげないと」
     「情けない」
     怒気すらはらんでいる。
     「そんな、仕方のないこと……」
     「違う」
     一段と声がとがった。
     「移ってるとしたら、俺はもうすでにもらってると思う。昨日も会ってるから、梨恵に移してしまっているかもしれない。ごめん」
     「どうしようもないことだし」
     「今日から何日かは近寄れない。それが情けない」
     「電話できるよ」
     「顔見ないと。手つないで、喋らないと」
     3日間我慢した川端さん。妻と娘が二階の一室に籠り、川端さん一人が一階で生活して、しゃべる人も顔を合わす人もいないとぼやいた。私はどうコメントすることもできなかった。
     結局、川端さんには移らなかった。私にも。
     ただ、私は考えに沈んでいた。
     同居家族は、病気を移し移される覚悟ができている。仮に川端さんが患って、気づかないうちに私を経由して高齢の父に移すようなリスクをとってでも、私は川端さんと会うことをやめない覚悟はあるのだろうか。
     
     毎月、月命日の前日にお供えのお菓子を渡された。
     また、うぐいすの季節が巡ってきていた。
     「お菓子だと買うしかないからさ。ちょっと変わりネタ、やっとくかと思ってるんだけど」
     「カニっていうのが前にあったけど」
     川端さんの細い目が丸くなった。
     「川端さんからもらったものは全部一旦、お仏壇へ行くから」
     うちのあけびポイント周辺が竹林だっただろう。と言われたが記憶にない。
     「たけのこを掘りに行こう。そろそろ出てきてる」
     母が生前、長い時間、鍋の様子を見ながら茹でていたのを思い出す。
     「母が面白がると思う」
     川端さんは親指を立てた。
     
     敷地の境界があいまいな川端さんの生家付近で車を降りた。
     「ちょっと、こっち」
     あけびポイントとは違う方向。きれいに草が刈られた山道を少し上ると、こぢんまりした墓地に出た。
     「このあたりの人しか入ってないんだ」
     「川端家」の文字も見える。
     それを通り過ぎて、何も彫られていない墓石の前で歩みを止めた。
     「これ、俺の。もう建ててあるから、あと入るだけ。娘には頼んである」
     「気が早いね」
     それだけ言って黙って石を見つめる私に、川端さんは続ける。
     「歳からいって、俺は先にいなくなるし、いつまでこうしてつながっていられるかもわからない。だから……」
     手が伸びてきた。
     「生まれ変わったら、今度はもうちょっと早く出会おうね」
     昔、似たようなことを言った芸能人の顔が浮かんだ。
     昔、私に似たようなことを吐いた人がいたが、顔はもう出てこない。
     私は返事をせず、視線を宙に浮かせた。
     「あ、ここに会いに来てって言ってるんじゃないよ」
     ――来にくい。所詮、私は……。
     俯いて唇をきつく結んだ。つないでいた手がキュッと締めつけられた。
     「死なないと、生まれ変われないからさ」
     「急がなくても全員必ず死ぬよ」
     できるだけ語尾を上げた。
     「俺、本当は去年、仕事辞めるつもりだった」
     私は顔を上げた。
     「もともとドライバーだったわけじゃないし、知り合いが話をつないだから無下にできなかったんだ。けど、体はきつい。事故起こす前にやめとこうって、社長にも伝えてたんだ」
     ――ところが、だよ。
     急に声のトーンが上がった。
     「やめるのやーめたって、一瞬で決断した」
     川端さんはまじまじと私の顔を見て、顎が私の肩に乗った。息づかいが耳元でする。手の平のぬくもりが背中に伝わってきた。
     「梨恵に出会ってなかったら、今生きてなかったかもしれない」
     「大げさな」
     「定年になってさ、家族は仕事に出て、ひとり家でじっとしてたら死にそうだった。それでバイト始めたけど、視力も注意力も落ちていくのにさ、時間に追われながらトラック飛ばすって……」
     ――私ですら環境の変化に四苦八苦なのに、定年後に新しい仕事を始める大変さ。
     「でも、梨恵が待ってるっていう目標ができて、ちゃんと会社までは生きて帰ろうって思うようになった」
     「ミッチーの前世はマグロなんじゃないの。止まったら死ぬっていう」
     同時に笑って、ふたつのおなかが揺れた。
     「あの、たけのこは」
     そうだったなと川端さんの体が離れ、ニッと笑って墓地を後にした。
     
     ――お墓に納めないのなら、その八重歯が、欲しい。
     
     竹林で川端さんのお眼鏡にかなう2本のたけのこを掘り出し、足早に車へ戻った。
     「せっかく柔らかいのが採れたから、一刻も早く茹でろ」
     猛スピードで私の自宅へ取って返している。
     「じゃあ、私は家でお湯沸かして待って、ミッチーが掘って持ってきてくれたらよかったのに」
     「一緒にいるのがたけのこより大事」
     私の手を引き寄せた。車体が右にぶれた。
     
     私が玄関の鍵を開けているそばから、川端さんはたたみかけてくる。
     「包丁の入れ方、知ってるか」
     「皮むいて茹でろ。皮は俺がまた山に戻す」
     気がつくと、キッチンまでたけのことジッパー付きの袋を抱えた川端さんがついてきていた。
     ジッパー付きの袋には、ぬかが詰まっていた。
     和室からおりんの音がもれてきた。我が家で一番大きな鍋に水を張ると、和室から戻った川端さんの大きな手で、ぬかが投入された。
     「そんなに入れる?」
     「いっぱいあるから入れろ。うちのコメから出たぬかだ」
     私は皮むきを急いだ。
     そうだ、と知った家かのようにガスを点けながら言う。
     「コメあるか?」
     米びつを勝手にのぞいている。
     「3キロずつ買ってる」
     「うちにストックあるから、もう買うな」
     代金を払うと言ったらまた逆襲されそうだ。
     「ミッチーに食わせてもらうってこと?」
     「お父ちゃん、元気だけど梨恵は自分で身を守らないといけない。お米買わなくていい分、ちょっとでも蓄えておけ」
     ――それ、完全に父親目線。
     「お母ちゃんに、うちの新米、食わせてやればよかったな」
     「お仏壇にあげるよ」
     「生きてるうちに食わなきゃ」
     「それで昼ごはん、ストーカーするんだ」
     肘で私の首を絞めてきた。
     「そこの砥石貸して。包丁研いだら帰るから」
     ――生まれ変わって出会っても、私が川端さんを選ぶ目を持っているだろうか。
     ドロドロと鍋の中で対流するぬかを眺め続けた。
     
     隣の市の町中華を目指して出発していた。バイパス道に出たところで、急に進路変更した。
     「知り合いが反対側にいた」
     隣の市に入ったところで、給油に立ち寄った。
     「下向いといて」
     静かにため息をついて、足元に落し物でもしたかのように頭を下げた。
     少ない人口、狭いコミュニティ。 2人が一緒に車に乗っているところを誰かに見られていても不思議じゃない。私はともかく、知り合いだらけの川端さんは。
     休日に出かけるときは、暗黙の了解で少し遠出してきた。でもしょっちゅうホームセンターの立駐や私の自宅ガレージに同じ車がいる。隠すそぶりは、気休めでしかない。
     胸のつかえが取れないまま、店についた。人気があり、順番に呼ばれるまで車内で待った。
     川端さんが財布からキャッシュカードを抜いた。
     「もし、2人でいる時に俺に何かあったら、そのときは」
     カードを私にかざす。
     「俺と車はそのまま放っておいて、財布からこのカードを持って、電車かタクシーで帰ってくれ」
     「そんなことする人がタイプなの?」
     目を閉じて、足を投げ出した。
     「そもそも、こんな監視カメラだらけの世の中で、そんなことしたら捕まるって。ちゃんとミッチーを病院か家まで連れていきます」
     もう一度、カードを私の目の前に持ってくる。
     「暗証番号は、梨恵の誕生日。この口座の存在は2人しか知らない」
     店員が客と一緒に出てきた。
     「期待するな。そんなに入ってない。でも俺が死んだら家族には保険金が下りる。けど梨恵には……」
     順番が回ってきた。車外に出て、手をつないで入店する。
     カウンター席に案内され、横並びの時はいつも私が左側なのに、左隣りの
    男性をちらりと見た川端さんは、私を右へ押した。 
     さあ何いく?と、いつもの川端さんが腕まくりした。
     「メニューの字が小さくてよく見えない。カレーある?」
     「中華だって」
     「わからないだろ」
     めくりにくいメニューに目を通す。最後のページにスパイシーカレーの文字。
     「まさか。ある」
     「俺、それ」
     彼は箸立てから一膳ずつセッティングして、キャッシュカードを財布の元どおりの場所に差し込んでいる。
     私は意識をメニューに集中させた。
     
     >>今日は行けない
     ――仕事が休みなんだから。本来来ないのが当たり前。家庭の急用でもできたのだろう。
     >>了解
     出勤してすぐに手早く仕事を片付け、時間に余裕を持たせるリズムが板についてしまっていた。
     ぽっかりあいた時間はぼーっと過ごし、あまりの事務所の静けさに、小さな虫が窓に当たる音に肩がはねた。
     昼過ぎ。
     >>夕方、ホームセンターで待ってる
     立駐のいつも停めているあたりに、川端さんの車はいた。
     隣のスペースへ滑り込むと、後部座席で川端さんの上半身がぬっと起き上がった。スーッと窓が下がる。
     近寄って、腰をかがめた。
     「寝てたの?」
     「今日、朝から腹が痛くて」
     「そんな日は、家でおとなしくしててよ」
     「午前中、救急車呼んで、もう峠越えた」
     あきれた。
     「もう、帰ろう」
     私は自分の車に戻ろうとした。
     「せっかく顔見に来たのに。ちょっと座って」
     シートを叩いている。
     ――やれやれ。
     車内で手をつなぐ。
     「救急車って、入院とかしなくて大丈夫なの」
     「痛いのだけ薬出してもらった」
     ――痛いのだけって。母のときと同じようなフレーズに肩が硬くなる。
     「病院行ったら病気見つけられて治療が始まるだろ。次々検査予定入れられて、大きな病院行けとか習慣を変えろとか言われても、どうせ断るからさ。いつも通り、落ち葉集めとかして、ちょっとでも役に立って、納得して死ぬ」
     私に顔を近づけ、八重歯を見せた。
     「でも痛かったら会いに来れないから、それは薬もらう」
      お互い小さく笑った。
     「平均寿命より早くてもいい。死なないと生まれ変わらないから」
     また始まった。私はつないだ手を軽く振り払い、あまり出ていないおなかをさすった。
     「初めてじゃないから分かってる」
     腹はいいから、と手をつなぎ直す。川端さんは眉尻を下げた。命がけで顔を見に来た人に、私は笑みを返せていない。仮にこれが最後の逢瀬だったら後悔する。
     「わかったけど、急いで死なないで。それに生まれ変わったらって言うけど、人間に生まれ変わるかどうかわからない よ。私は来世は何も考えなくていい、社会性を問われないモノがいいと思ってる」
     「それって、例えばどういうの?」
     「便座とか」
     「腹痛いのに」
     前のめりになって大笑いする川端さん。
     「じゃあ俺、便器になる。いつもつながっていられる」
     来てよかった、元気になったとハグしてきた。川端さんの脂っぽい首の皮膚が触れる。
     私は体が硬いので、真横に体をよじれない。
     けれど、それぐらいでちょうどいいのかも。もう一度おなかをさすった。
     「一緒にいられるところまで、な」
     体勢を元に戻した。
     「梨恵に捨てられたら仕方ないけど」
     ――自分は私を置いて早々に逝く気のくせに。
     「母を送るのも、喪主じゃなかったけど、それなりに大変だった」
     スマホが鳴るといちいち心臓に堪え、服を着たまま寝た日々。
     「父を送るのはもっと大変。それまではいて」
     「ナントカ目当てとかいくつかあるけど、葬式目当てってか?」
     顔をほころばせる川端さんの口元が徐々に締まった。
     「梨恵、一人だから心配ってのは、あった。お母ちゃんもそれは同じだったと思うぞ」
     切り替えるように八重歯を見せた。
     「けど、それ以前に笑ったら可愛いし、ハートがいい人だろうって思ったから、声掛けたんだよ。正解だった」
     ふーんとだけ返した。
     川端さんは頭の上で両手を組み、真正面を向いたまま言う。
     「梨恵のお父ちゃんの方が元気だよ。たぶん俺、負ける。お父ちゃん、梨恵が心配だから、俺に負けないように頑張ってる気がする」
     「何それ。で、80代に負けるわけ?」
     鼻で笑う川端さんの横顔は、薄暗さでよく見えなかった。立駐を出ると、今にも雨が落ちてきそうだった。
     
     軽トラのエンジン音が坂を上がってきて停まる。
     「おはよう」
     私は振り返ったが返事ができない。電話中だった。
     川端さんは石油ストーブのパーツを雑巾で拭き始めた。
     「いいえ。少なくとも昨日まではそんな話、聞かされていません」
     「毎日午後からしかおいでにならないので、今日はまだ」
     川端さんが丸椅子を持って、私の隣に座った。
     メモには「変な電話なら代わる」
     頭を横に振った。が、指をまぶたに当て、泣きまねをした。
     川端さんのスマホが大音量とともに震え、外へ出て行った。
     受話器を置くと、川端さんも中に入ってきた。
     「なんか。うち、やばいのかも」
     「みたいだな」
     「え?」
     「電話、どこからだった」
     「信用情報会社。買収の噂があるが聞いてるか、今月の給料は出たか、社長を今日見たかって」
     「たぶん同じ件だ」
     がっちり視線が交わる。
     「こっちは配車係のお兄ちゃんからだった。うちから何か言ってきてないかとか、契約してる仕事は納品されてるかって聞かれたって」
     「きっと、ほかの取引先にも電話、かかってきてるんだろうね」
     「間違いないな」
     「買収だったら給料出たかとか、社長見たかとか言わないよね」
     「飛んだと疑われてるな」
     顔を見あったまま、力なく笑った。
     「実際どうなんだ。あまり儲かってないのはみんな知ってるけど」
     「大野さんのトラックの修理と、ミッチーのトラックの車検が同月になってしまうので、今月はお金足りない」
     川端さんは腰に手を当てて目を閉じ、肩を震わせた。
     「終わってるじゃないか」
     「そうかな」
     一時的な資金ショートは社長の個人口座から充填して、そのうちまた戻す。そういった会計処理は前にもあった。
     今月給料出んのかなと、天井を仰ぐ川端さんは、私ににじり寄った。
     「給料なんか、どうでもいい」
     声量を落とした。
     「会社が潰れたら」一呼吸入れる。
     「梨恵んちに行ったら顔見れる?」
     固まって動かない私をゆする。
     「庭の草刈り、行っていい?ドーナツ、持ってっていい?」
     ゆっくりと目を合わせた。
     「いつまで生きてくれるの」
     「生きられるところまで」
     誰でもそう。そしてそれは未知。私一人で草を刈る姿が映像として立ち上がってこない。けれど、母のことがそうだったように、彼がいないなら、いないなりに、なるようになるのだろう。
     一緒にいられるところまで。それって、どこまでなんだろう。
     勢いをつけて立ち上がった。
     「ストーブ片付けよう。残った灯油、ポリタンクに戻すね」
     「そんなこと梨恵はしなくていい。俺がやる」
     ――その優しさが、親切さが、いなくなった時にどれほど私にダメージを与えるか。
     「空焚きしとくか」
     川端さんがストーブを持ち上げたので、ドアを開けた。
     手持ち無沙汰で、ただ背中を追って外へ出る。脇をしめたくなる風と、頼りないながらも包み込むような日差し。
     点火したストーブに2人で当たった。
     うぐいすが一鳴きした。

     
     
    好物 : たき火🔥 路面電車🚃 タスマニアデビル🍖 バンクシー🎈 ハードパン🥖 ピニャコラーダ🍸 ガラスペン🖋 畳🌾

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