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当事者ではない私が後始末を引き受ける:「ごめんね」のあとで

    【はじめに】

    私はオーストラリア・ビクトリア州に住んでいます。
    Kさんとは、オーストラリアでの最初の職場で出会い、その後30年以上にわたり友人関係が続きました。
    やがて、ご主人のHさんとも知り合いました。

    Kさんは毎年、日本へ一時帰国していました。
    多くの場合、Kさんが一人で帰国し、Hさんはオーストラリアの自宅で彼女の帰りを待っていました。

    2025年5月、Kさんは日本へ出発しました。
    Hさんはいつも通り、自宅でKさんの帰りを待っていました。

    6月16日の夜、Kさんから私の携帯電話にメッセージが届きました。
    日本で家族と旅行中に体調を崩し、彼女の出身地の病院で検査入院している、しばらくオーストラリアに戻れそうにない、結果が分かったら連絡する、という内容でした。

    6月23日の夜、再びKさんからメッセージが届きました。
    検査の結果、末期がんであることが分かった、もうオーストラリアには戻れないだろう、ということが書かれていました。

    6月26日、Kさんから携帯電話に着信がありました。
    かけ間違いだったそうですが、声は弱く、もう今日か明日かという状態だと教えてくれました。

    6月29日、Kさんは入院先の病院で亡くなりました。

    最初に連絡を受けてから、わずか3週間後のことでした。

    それまで体調不良を口にすることもなく、元気な印象しかなかったため、現実を受け止めるのは簡単ではありませんでした。

    葬儀は夫であるHさんの帰国を待ち、7月5日に行われる予定だと、ご遺族から連絡がありました。

    私はオーストラリア在住の友人たちと連名で花を送ることにし、その手配のため、7月3日にKさんのご遺族へ連絡を取りました。

    その際、ご遺族からHさんの状況について尋ねられました。
    Hさんから「飛行機を予約してすぐに日本に行く」とメールがあったものの、その後まったく連絡が取れないというのです。

    HさんとKさん(O夫妻)宅の近所に住む友人に、様子を見に行ってもらうことにしました。

    7月4日、その友人たちがO夫妻の自宅を訪ね、その日のうちに、Hさんがビクトリア州の隣にある南オーストラリア州で自死していることが分かりました。

    【第1部】起きたこと

    O夫妻の自宅に様子を見に行ってもらうことを依頼したのは、Hさんと13年間同じ職場で働いていたオーストラリア人のTさんと、彼のパートナーで、Kさんと親しくしていた日本人のRさんです。二人とも、私同様、O夫妻とは長年の友人関係にありました。

    二人が借家であるO夫妻の家を訪ねたところ、家には誰もいない様子でした。
    O夫妻が近隣住民と親しくしていたことを思い出し、近所の方を訪ねたところ、幸運にも、家を管理している不動産会社の名前を教えてもらえました。
    また、その週に警察がO夫妻宅に入っていくのを見た、という話も聞きました。

    不動産会社は、Tさんの知人が勤めている会社でした。
    Tさんが事情を説明して問い合わせたところ、「情報を共有してよいかどうか判断がつかないため、確認して折り返す」との返答がありました。

    その後、Tさんの携帯にビクトリア州警察から連絡が入りました。
    Hさんを探していると聞いたため、情報を共有したい、可能であれば指定の警察署に来てほしい、という内容でした。
    二人の自宅近くの警察署だったため、すぐに向かいました。

    そこで、Hさんが南オーストラリア州で自死していたことが伝えられました。

    警察官から説明された内容は、次のとおりです。

    • Hさんと思われる遺体と車両が、南オーストラリア州で発見された。

    • 状況から南オーストラリア州とビクトリア州の警察が関わっている。

    • ビクトリア州の警察がO夫妻宅で、「Kさんの後を追う」と書かれた英語のメモを発見した。

    その後、事情を詳しく知る人物を探す中で、不動産会社を通じてTさんとRさんの存在を知り、連絡が入ったという流れでした。

    Hさんの死に関する情報提供者として、Tさん、Rさん、そして私の3人が関わることになりました。

    二人の死にショックを受けている中で、O夫妻の亡くなった状況を整理してみると、なかなか複雑でした。

    • 夫と妻が別々の国で亡くなっている。

    • O夫妻に子どもはおらず、夫妻のご遺族は日本の離れた地域に在住している。

    • O夫妻は遺言を残しておらず、遺言執行人も指定していなかった。

    Kさんは私の母に近い年齢でした。
    さまざまな事情から、O夫妻に「同じ敷地内で別棟のような形で一緒に住む」という提案をしていました。
    O夫妻の年齢的に、いずれは私が見送る側になるのだろうと漠然と考えていました。

    こんなに早く、しかもこのような形で二人が亡くなるとは、まったく想像していませんでしたが、私の中では、後始末を引き受けることは特別な決断というより、自然な流れでした。

    両家のご遺族に対し、私とTさん、Rさんの三人で、後始末を手伝う意思があることを伝えました。
    本来であればご遺族自身がオーストラリアに来て対応すべきところ、諸事情によりそれが難しいとのことで、私たちが後始末を引き受けることについて異論はなく、謝罪と感謝の言葉を受けました。

    Tさん、Rさん、私の後始末チームは警察に依頼され、検視官向け報告書作成に必要な書類を探しにO夫妻の自宅を訪れました。
    友人として訪れたことのある家でしたが、警察の依頼とはいえ、二人が亡くなった後に、室内を確認することは複雑な作業でした。

    O夫妻が住んでいた家は借家だったため、賃貸契約の解除も進めました。

    検視事務所から、Hさんの遺体の引き取りについて確認がきたときは、Tさんが葬儀会社を調べて私が手続きを進め、Hさんの遺灰を受け取りました。

    後始末チームが日本に帰国した際、Kさんのご遺族にお目にかかりました。
    その時に、ほんの少しだけKさんの遺灰をいただいてきました。

    Hさんのご遺族には私がお目にかかり、Hさんの遺灰の一部をお渡ししました。

    後始末を続ける中で、どこか現実感が持てずにいた部分がありましたが、この旅を経て、ようやく二人の死を受け入れられたように感じました。

    O夫妻は、彼らがオーストラリアに移民して間もない頃、二人で釣り道具を持って泊まりがけで訪れたビクトリア州サウス・ギプスランド地方の海に還りました。

    Hさんの暫定死亡証明書が発行された後は、弁護士の選定を進め、後始末の手続きをお願いしました。
    こちらは予期していたことであるものの、一筋縄ではいかず、O夫妻が亡くなられてそろそろ1年が経つ現在でも(2026年6月)まだ継続中です。

    【第2部】引き受ける

    振り返ってみると、私は子供の頃から、
    気付くと問題ごとの真ん中にいることが多いタイプだったように思います。

    学生のときも、社会人になっても、変わりませんでした。
    何か問題が起きると「じゃぁ、どうする?」と考える側に回ることが多かったのです。

    仕事をする業界が変わっても、管理職や人事など職種が変わっても、そうでした。
    気がつくとそれを仕事にしていました。

    たぶん人の前に立ちたいというより、物事を整理するのが好きなのだと思います。
    問題の外にいるよりも、中に入って整理し、解決する方が好きなのです。

    今回も同じでした。

    O夫妻の死にショックを受けていました。
    それでも、私は自然とラップトップを開いていました。

    日本で亡くなったKさん。
    南オーストラリア州で亡くなったHさん。
    領事館、警察、検視事務所。
    日本の別々の地域にいらっしゃるご遺族。

    すべてが別の方向に向いているように見えて、
    どこから手をつければいいのかもわかりませんでした。

    遺言はありません。
    O夫妻に子供はいません。

    「じゃぁ、どうする?」

    そのときはまだ、「引き受けよう」と決めたつもりはありませんでした。
    ただ、今の状況と、私ができそうなことを確認しておこうとしただけでした。

    けれど警察から依頼が来たとき、

    「ごめんね」

    病床のKさんの声がよみがえりました。

    その言葉を思い出した瞬間、
    後始末を引き受ける覚悟は、もう決まっていました。

    【第3部】そのとき内側で起きていたこと

    その朝、いつものように自宅の裏のブッシュに犬の散歩に行きました。

    ユーカリやバンクシア、グラスツリーの深い緑。
    木々のあいだを通る、灰色と白のあいだの色をした砂地のトラック。

    七月のオーストラリアは冬です。
    数日前の雨で砂は少し湿っていて、足を取られます。
    ユーカリの匂いを含んだ風が、ときおり頬をかすめました。

    人の気配はありません。
    リードをつけずに好きな方向へ走る犬。
    それに反応する野鳥の声。
    木立の奥でワラビーが跳ねる音。

    家を出て十分ほどの、ゆるやかな上り坂に差しかかったときでした。

    「砂地を登るのってきつい!」

    ふいに、隣で彼女がそう言った気がしました。

    最後に彼女とここを歩いた日のことが、一瞬でよみがえりました。
    胸の奥がきゅっと縮み、涙があふれました。

    彼女は、もういません。

    歩きながら、涙が止まりませんでした。

    けれどその日、私は仕事を控えていました。
    散歩から戻って三十分後に、オンラインのコーチングセッションが入っていたのです。

    このままでは、クライアントに集中できない。
    少なくとも家に着くまでに、状態を整える必要があります。

    私は立ち止まりました。
    背筋を伸ばし、顔を上げ、ゆっくり息を吐きます。

    六つ数えながら吸い、六つ数えながら吐く。
    それを何度か繰り返しました。

    乱れていた呼吸が、少しずつ整っていきます。

    意識を自分のいる場所に戻します。
    湿った砂を踏む感触。
    頬をかすめる風。
    鳥の声。

    彼女のことから、いま自分が立っている場所へと思考の焦点を移します。

    空は青く、木々は静かで、世界は何も変わっていないように見えました。
    口の中にはまだ涙の塩味が残っていましたが、涙は止まっていました。

    家まであと五分。

    私は心の中で、コーチの“帽子”をかぶります。
    そう意識した瞬間、姿勢も、視線も、内側のスイッチも変わります。

    玄関へ続く階段の前で、最後にもう一度大きく息を吸い込みました。

    大丈夫。

    そう静かに確認して、家のドアを開けました。

    顔を洗い、メイクを整え直します。
    鏡の前で身なりを確認し、もう一度コーチの“帽子”をかぶり直します。

    仕事部屋に入り、眠っていた画面を立ち上げました。
    オンラインミーティングにアクセスすると、予約の時間まであと10分。

    画面の向こうでは、クライアントの日常が動いています。

    深く息を吸います。
    背筋を伸ばすと、窓の外の原生林の緑と青空が目に入り、ふいに彼女のことがよぎります。
    鼻の奥が、少しだけ熱くなりました。

    今は、コーチとしての私が前に立つ番。

    そう決めると、体が静かに従っていきました。

    もう一度、深呼吸。

    外のざわめきはそのままに、内側がすっと静まっていきます。

    目を閉じ、セッション後のクライアントの表情を思い描きます。
    晴れやかに笑っている姿。
    「これで進めます!」と前を向く声。

    そこに意識を合わせると、自然と口角が上がります。

    ほんの少しだけ心臓が速くなる。
    けれど、それは不安ではなく、高揚感です。

    学生時代、演劇部だった頃。
    幕が上がる直前の、あの感覚に似ています。

    客席はざわめいている。
    でも、自分の内側は驚くほど静か。

    今から私は、クライアントの人生という舞台に立ちます。

    入室の通知が届きます。

    出番です。

    クライアントが問いに向き合い、言葉を探しているあいだ、ふと友人のことが浮かびます。
    同時に胸の奥がわずかに揺れました。

    それでも私は、目の前の表情の変化を追い、声のトーンを聴いています。

    悲しみは消えていない。
    ただ、今この場では前に出ないだけ。

    心のどこかで、小さくつぶやきます。

    わかっているよ。でも、今は楽屋にいてね。

    改めて姿勢を整えます。

    私のコーチングの師の姿を思い出します。

    あの落ち着いた間。
    柔らかなまなざし。
    言葉を急がない呼吸。

    それをなぞるようにして、問いを重ねていきます。

    子どもの頃に夢中になったごっこ遊びのように、
    けれどずっと真剣に。

    姿勢が変わる。
    声の深さが変わる。
    問いの質が変わる。

    やがてセッションは終わり、
    お互いに礼を言い合って画面を閉じます。

    静かな部屋に戻り、ほっと息をつきました。

    悲しみはなくならない。
    でも出番としての順番を決めることはできるのかもしれません。

    【第4部】二人の私の境界

    コーヒーを淹れようと紙のフィルターを取り出すとき、
    それを買ったときのことを思い出します。
    その場に、一緒にいたKさんの姿が浮かびます。

    フィルターを買ったお店は、市内にある日系の量販店でした。

    コーヒーを手に、キッチンに続く居間の大きな窓から外を眺めます。
    木立の向こうに海が見えます。
    あそこも、一緒に歩いた場所。

    桟橋をO夫妻と歩きながら、
    オーストラリアに来たばかりの頃、ここに釣りをしに来たという話をしてくれたことを思い出します。

    O夫妻が亡くなってから、海辺に行けるようになるまで半年かかりました。
    Kさんとよく立ち寄っていた市内の日系量販店に入れるようになるまでには、七か月かかりました。

    どちらも、別の友人が一緒だったことがきっかけでした。
    一人だったら、もう少し時間がかかっていたかもしれません。

    コーヒーのフィルターを買ったお店は、かなり改装していました。

    ホッとした自分がいました。
    同時に、少し悲しい自分もいました。

    店が変わったからなのか。
    時間が過ぎたからなのか。
    それとも私が変わったからなのか。

    よくわかりませんでした。

    日々を過ごしている中では、友人として悲しむ私と、
    コーチ/トレーナーとして仕事をする私がいます。

    どちらも私で、どちらも嘘ではありません。
    ただ、役割が違っているだけなのだと思います。

    警察から依頼があったとき。

    私は中途半端に関わるのは嫌でした。
    どうせ関わるのなら、最後まで。

    少し乱暴な言い方ですが、その時の気持ちは
    「毒を食らわば皿まで」
    に近かったかもしれません。

    友人夫妻の後始末を引き受けてから、別の問いが現れました。

    「どこまで関わるのか」

    Tさん、Rさん、私の後始末チームも、何度も

    「これ、私たちが決めること?」

    という問いを繰り返しています。

    【終わり】

    O夫妻が亡くなって、そろそろ1年が経ちます。
    後始末としてきちんと終わったことの方が、少ないように思います。

    結局、私はO夫妻の後始末をちゃんとできているのだろうか。

    多分彼らは、
    「もう十分だよ~。あとは放っておいて全然大丈夫!」
    と言う気がします。

    でも私は、まだ全然終わった感じがありません。

    どこが「終わり」なのか。
    「ちゃんと」というのは、具体的にどういうことなのか。

    答えてくれるはずのO夫妻はもういません。

    仕事部屋の窓から原生林を眺めます。

    後始末はまだ終わっていません。
    本当に終わる日が来るのかも、正直よくわかりません。

    窓の向こうで、風に揺れたユーカリの葉が光を反射しています。

    O夫妻が
    「とりあえず、おいしいもの食べて、おいしいお酒飲みなよ。
    生きてるうちだよ。」
    と言っている気がしました。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    オーストラリア在住。NLP(神経言語プログラミング)を使ったコーチ/トレーナー。人生や仕事が少し楽になる視点、体験談やリーダーシップの学びを発信しています。

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