
「かわいい」はどこにもないのに(『イン・ザ・メガチャーチ』読んで)
2026年の本屋大賞の発表前に、
候補作から一冊を探していた。
候補に入っていた湊かなえの『暁星』は、
すでに読んでいたので
それ以外でどれを選ぶかで少しだけ迷っていた。
以前、朝井リョウの『正欲』を読んだとき、
読み終わったあと、
自分の中の普通が変化した。
理解したとは言えないけど、読んだことで
世界が違って見えるようになった。
わたしはたぶん、心情を深く描く作品にとても惹かれる。
そういう“すぐに処理できないもの”を残す書き方が好きなんだと思う。
そんな基準で考えたときに、
もう一度この人の作品を読みたいと思った。
それで、朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を手に取った。
読み進めていく中で、
“推す側”と“供給する側”の両方の視点が描かれていた。
さらに、そこに深くのめり込んでいく人の内面まで踏み込んでいる。
自分自身も推し活をしているから、
ただ外側から見るだけではなく、
内側の動きとしても読んでしまう。
登場人物のアイドルの繊細さや、
推している側の女の子と自分の共通点も重なって、
距離を取ることができなかった。
推させる構造は、ある意味で“設計されたもの”として存在している。
それを分かっているのに、
それでもハマっていく心情も理解できてしまう。
その両方が同時に見えてしまうから、
少し複雑だった。
視野を広げて見えるものと、
あえて狭くすることで見えてくるもの。
その両方が、この作品の中にあった。
読んでいて、自分も同じように、
わざと視野を狭くしている場面があることに気づいた。
先日、推しのサッカーの試合を見に行ってきた。
サッカーをプレイしている彼の姿に、「可愛い」はどこにもない。
それなのに、わたしの中にはそれがある。
微かに見える揺れを感じ取って、物語にしてしまう。
止まらないまま、わたしは応援している。
それが、推し活の中にある。