
海辺の町の岩のお話ー(母の初恋の人に40年間年賀状を送り続けた話)
「海辺の町の岩のお話」
太平洋に面した母の故郷の小さな海辺の町。
私は浜辺の岩に腰かけてキラキラ光る水面を見つめている。波もなく穏やかな春の海だ。
「お母さん、私お願いされたこと守ったよ」
岩からまっすぐ見える地平線と空の境界線に向かって語りかける。
「この岩は特別な岩。いつも誰かの運命を決めるの」
まだ病魔が母の体をむしばむ前の話だ。私が高校生になった頃のことだっただろうか。海辺を散歩している時、なだらかな砂浜にそこだけ突出している岩に腰を下ろすと母はそう言った。
「お見合い写真のスナップを撮ったのもここ。我ながらとってもよく撮れてたわ。お父さんとの初めてのお見合いですぐ結婚が決まったのはあの写真が決め手になったからなのかも」
そんな風に笑うと母は続けた。
「うんと昔の話だけどね、私のおばあちゃん,つまりあなたのひいおばあちゃんがひいおじいちゃんと初めて出会ったのもこの岩だったそうよ」
「へえなにその話。ちょっとロマンチックなんだけど」
当時何かと反抗的だったティーンエイジャーの私は珍しく興味を持って母と並んで岩に座った。
私のひいおばあちゃんに当たる人はカナといい、ちょうどその岩から続く階段を上ったところにある神社の娘だった。明治の時代、東京の侯爵の屋敷に2年間の行儀見習いに行ったカナは新しい時代に心を躍らせる好奇心旺盛で活発な娘だったらしい。
当時実家の神社では町の有力者の頼みで敷地内の離れに新潟出身の若者を預かっていた。その若者は新潟で医学を学ぶ学生だったが肺を患い、学業を中断して転地療養することになったらしい。療養地として選ばれたのが気候の温暖なこの海辺の町だったという。
カナは17歳の娘盛り。まもなく裕福な地元の商家に嫁ぐことになっていたのだったが、岩のところで休んでいた医学生の直吉を見かけ一目ぼれしてしまったのだという。
写真で見る丸顔のカナの隣に和服姿で立っている直吉は確かに細面のいい男である。カナがどうしてもこの人でなければ嫌と言い張った色白でハンサムな年下の医学生は、病気がよくなった後も結局新潟には戻らずカナと所帯を持ち医院を開業した。小さな漁師町に初めてできた内科医院は年寄りから赤ん坊まで、発熱や風邪、腹痛だけでなく、切り傷や虫刺されなどを診てもらいに来る患者さんでいつも一杯だったという。
直吉とカナの間に生まれた長男が私の祖父だ。直吉とカナは4人の子を設け、上の男の子二人はそれぞれ医者と歯医者になった。直吉を見送った後、長男が医院を継いだのを見届けてカナは夫のもとへ旅立っていった。夫の故郷とのつながりを断ってはいけないという思いがあったのだろうか。長男は新潟で医学を修め、新潟の娘を娶った。
「おじいちゃんは物静かでとっても優しい人だった。どんな時も声を荒げたのを見たことがない。おばあちゃんは仕切り屋でいつもチャカチャカ動き回っていたわ」というのは母の思い出の中の直吉とカナである。
「あの時代に下宿人の医学生と恋に落ちて婚約破棄だなんて自分のおばあちゃんながらすごいと思う。私にはそんな勇気とてもないもの」
保守的な時代に保守的な田舎町で愛を貫いて、夫を支え、子や孫に道を繋げた。曾祖母カナの覚悟を決めた生き方は生意気盛りの高校生の私にも強い印象を残した。
母が私に託したことについての話に戻ろう。
「私が死んでからもこの方には年賀状をお送りしてほしいの」と病床で母は言った。住所録の田中謙太郎という箇所にアンダーラインが引いてあった。それから私は言いつけを守って40年間欠かさずその人田中謙太郎氏に年賀状を送っていたのだ。
戦争中東京から疎開してきた田中氏と母は地元の中学で一緒だった。母の従兄弟と田中氏が中学高校の同級生だったことから従兄弟が幹事となり、東京在住の元同級生たちが集まって卒業後25年記念に東京駅付近で同窓会が開かれた。その時私は中学生だったと思う。カレーを作ってあるから御夕飯お願いねと言われていた。
その夜母が嬉しそうに帰ってきたこと、その時のポラロイド写真の説明をしていたことを覚えている。
「ほらこれが従兄弟の誠ちゃん、小さい時遊んでもらったでしょ、それからこれは近所に住んでた幼馴染のミヤちゃん、そしてこれが田中さん」
「田中さんってだれ?」という私の問いに母はこう答えた。
「田舎の中学に東京から疎開してきた人でね、すごく頭がよくて物静かな人だった。今は大学の先生になってるって。中学校の運動会で私がリレーで最後に転んでしまって、クラスが優勝を逃したことがあったの。みんなに責められて、海岸の岩のところで座って泣いてたら田中さんが追いかけて来てくれた。私が泣き止むまで後ろでずっと待っててくれて。そのあと一緒に学校へ戻ってくれたんだけど帰り道で「足は大丈夫ですか」って。それが田中さんが私に話しかけてくれた最初で最後の言葉。そのあと田中さんは男子高校、私は女子高校に進んだからそれっきりになっちゃったけど」
「ふーん。じゃあこの人がお母さんの初恋の人ってわけ?」
写真を覗き込みながら言う私に
「やあね。そんなんじゃないわよ」
母は顔を赤くして必死に否定していたけれど、実のところ昭和一桁生まれのおじさんおばさんの写真なんて興味なかったし、私にとって田舎の中学生の初恋話なんてどうでもよかったからその話はそれきり忘れてしまっていた。
あの頃の主婦は本当に忙しかったと思う。家にはおばあちゃんがいたし、敷地内には父の妹である未婚の叔母もいた。昭和の高度成長期のサラリーマンの例にもれず、父は仕事第一のモーレツ社員で、家のことは母に任せっぱなし、嫁姑小姑問題の苦労に加えて、3人の子供の世話、掃除洗濯、3度の食事の支度、年寄りの世話、便利な家電もまだ普及しておらず、布団干しやアイロンかけから縫物まで、毎日の家事は本当に重労働だったと思う。おばあちゃんは転んでから寝たきりになってしまい、その介護で母はとうとう腰を悪くした。嫁いで以来、家事育児老人の世話に追いまくられてほとんど自分の時間なんてなかったのだろう。詩と歌と洋画が大好きで『風と共に去りぬ』や『哀愁』のビビアンリーのブロマイドを部屋いっぱいに飾っていた娘時代のことを思い出すことはあったのだろうか。
古いアルバムの中の母は家族旅行や子供の運動会などの場面でいつも明るい笑顔を見せている。台所ではいつも歌を歌っていた。でも妻でも母でも嫁でもない自分だけの楽しみを感じることは久しくなかったのではないだろうか。初恋の人との再会はそんな母の心に光と潤いを与えたに違いない。
田中氏は高校卒業まで疎開先で過ごし、そのあとは東京の大学、大学院と進んで、ある分野の教授になっていた。独身だった。
ロマンチックなことが大好きで夢見がちだった娘時代に母の心がたちまち戻っていったことが容易に想像できる。
もしあの時あの岩でお見合い写真を撮らなかったら。
田舎町の同窓会かなんかで田中さんと偶然再会できていたら。
もし田中さんと一緒になって教授夫人になっていたら。
同窓会にいらっしゃったのは私が参加するって聞いたから?
田中さんが独身でいらっしゃるのはもしかして私を忘れられなかったからなのかしら。
そんなことを思って一人妄想にふけっていたのではないか。
夫になった人、つまり私の父は丸顔で童顔、いかにも善良で真面目な勤め人という感じだが、同窓会の写真の田中さんは新潟の曾祖父をほうふつとさせる長身細面のインテリ顔であった。浮世離れしたような孤高の学者という感じの田中さんは母の妄想を膨らませるのに格好の相手だったと思う。
やっとつながった糸。何とか関りを持ち続けていたい。そう思ったのだろう。母は密かに策士と化した。同窓会のあとの挨拶状の葉書に書く数行の文のために何度も下書きし、鳩居堂の高級和紙の葉書を選んでものすごく丁寧にあて名と住所を書く。以来母の言うところの「文通」が始まっていくことになるのだが、どう見てもそれは母からの一方的な通信だった。暑中見舞い、同窓生や先生の消息、故郷の話題、同窓会の幹事をやった従兄弟の近況、使えそうな話題はなんでも使う。田中さんは学者らしく律儀な人で、数日後には家の郵便受けに返事が届いていた。お便りありがとうございます。お元気そうで何よりです。気候不安定の折お体御大切に、とか誰に見られてもいいようなありきたりの言葉が官製ハガキに右肩上がりの癖のある字で書かれていた。そんな定型文のような内容でも母はこのうえなく幸せそうな顔で何度も読み返し、千代紙を張ったお手箱に大事にしまい込んでいた。その後町の習字教室に通うようになったのも少しでもきれいな字を届けたいと思ったのかもしれない。
郵便屋さんが手紙を届けてくれるのは大体午後3時ごろと決まっていた。郵便受けがカタンと音を立てると母は一目散に郵便受けを覗きに行く。「あんただったわ」と一寸気落ちした様子で、私に郵便物を手渡す。当時私にも文通相手がいたのだ。田中さんからだった時はすぐわかった。何かを急いでエプロンのポケットに仕舞って足早に台所へ消えていくからだ。
文通は数年続いていただろうか。あんなに大切にしていた田中さんからの葉書が母の死後一枚も見つからなかったのは死期を悟った母が自分で全部処分したからだろうと思う。
私が初めて田中さんに会ったのは母の葬式の時である。40代の終わりにガンを患った母は50になるのを待たずに死んでしまった。私は大学を卒業したばかりの22歳だった。
大勢の参列者の中になぜ一度写真で見ただけの田中さんを見つけることができたのかわからない。でもひっそりとたたずむ田中さんが私には分かった。その時母の遺言めいた言葉を思い出し『お母さん、田中さん来てくださったよ。私きっと約束を守るからね』と心に誓ったのだった。
24歳で海外に出てから私は30年以上日本に戻らなかったが、その間も母との約束を守って、滞在する国から年賀状を送り続け、お返事も必ずいただいていた。年賀状には結婚、出産などの報告も書き添え、田中さんからはいつもお祝いの言葉とご家族のご健康をお祈りいたしますという一行があった。届いた葉書は必ず母の写真の前にお供えした。
そして40年目のある日、私の住む国に田中さんの訃報が届いた。88歳のお誕生日の後間もなく亡くなったという。差出人は妹さんで、近居の独身の兄の食事の世話などをしていたらしい。
数日してお電話をさせていただくと、ファイリングされていた年賀状を見て長くやり取りしていた方々にご通知させていただきましたということだった。亡くなった母に言われて年賀状をお送りさせていただいていましたというと大層びっくりされていた様子だった。
「てっきり大学関係の方だと思っていました。人付き合いもなく、物静かで感情を表に出さない兄でした。私の友達からはお宅の仙人さんて言われてたくらいです。疎開先の中学校の同級生だった方の娘さんでいらっしゃったんですか。研究一筋の兄にそんな人間関係があったなんて信じられません」
死因は老衰で穏やかに眠るように行かれたと言うことだった。
まだお遺骨がご自宅にある間にお線香をあげさせていただく約束をして電話を切った後、私は改めて手を合わせて田中さんの冥福を祈った。
田中謙一郎さま。長い間母のファンタジーの相手をしてくださって本当にありがとうございました。母は娘の私に年賀状を託すことで初恋の人に自分のことを忘れてほしくなかったんだろうと思います。これで母の長い初恋の物語は終わりました。長い間お付き合いいただきまして本当にありがとうございました。
滞在先の国から帰国し、母が眠る東京のお墓ではなく故郷の海岸の岩で田中さんが亡くなったことの報告をしたのはここに母の思いが残っているような気がしたからだ。
嬉しい時悲しい時、いろんな場面で母はこの岩に来ていたような気がする。東京へお嫁に行くのが決まった日ももしかしたらここへ来てあの運動会の日のことを思い出していたかもしれない。
母が娘時代を別れを告げるきっかけになったその写真は母のアルバムの中にあった。カメラが趣味の従兄弟に言われていろいろなポーズをとったのだろう。20歳の母は海を背景に岩に腰かけ、袖なしのサマードレスを着てはじけたような笑顔を見せている。手作りのシンプルなドレスに大ぶりのサンゴのネックレスとブレスレットがよく似合っている。海ばかりでなく波打ち際の砂浜までがキラキラと光って、その輝きは白黒の写真とは思えないほどだ。東京の下町で生まれ育った8歳年上の父が海辺の娘とのお見合いを決めるのに十分印象的な写真であっただろう。
現実の世界の中で父と母はいい夫婦だった。
病室のベッドで母が「お父さんと一緒になってよかった。幸せだった。ありがとう」といい父は「こっちこそありがとう」と母の頬をなでていた。
諸国の天女は漁夫や狩人を夫として
いつも忘れず想っている
底なき天を翔けた日を
この詩は母の本棚の中から出てきた永瀬清子さんと言う明治生まれの詩人の作品の一節である。
きずなは地にあこがれは空に
この一文に鉛筆で線が引かれており、それを見て私は激しく胸を衝かれた。
誰にも心の中に自分だけの宝物があって、それは現実のつらい場面を乗り越えていくうえで密かな支えになる。誰にも奪われることのない心の中のダイヤモンド。それを磨いて光らせて母は逝った。
神社と岩を結ぶ線の延長線上にキラキラ光る海が見える。海を見たことのない雪国の若者と雪を見たことがない海辺の娘が遠い昔にここで出会って結ばれた。そして、祖父が生まれ、母が生まれ、私が生まれた。海辺の町の小さな町で始まった家族は私の孫で6代目になる。この話がいつか忘れられてしまっても、浜辺の岩はいつまでもそこにあり続け海を見つめているだろう。
海に還した母のダイヤモンドを受け止めて春の海は一層光を増したようだった。