台北の午後-会ってはいけない人
台湾台北。小籠包で有名な信義路「鼎泰豊」本店前はいつも日本人観光客で溢れかえっている。ゴールデンウィークの季節はなおのこと。地元住民はこの季節、店の前の道をまともに歩くことさえできない。
土曜日昼の仕事を終え、店の前に群がる日本人を掻き分けるようにして歩いていた美枝子はちょうど店から出てきた男を見て自分の目を疑った。正樹だ。見間違えるはずもない。今朝も出掛けに郵便ポストにエアメールを入れたばかりだった。どうしてあの人がここに? 三日と空けず美枝子が手紙を書き送っている東京の恋人。正樹も美枝子の姿を認め、言葉を失ったように立ち尽くす。
どうして?と口を開きかけた途端、後ろから出てきた女性に気がついた。
同い年かひょっとすると年上だろうか。ややぽっちゃり体型、花柄のチュニックに七分丈のレギンス。斜めがけのポシェットに歩き易そうなフラットシューズ。ブラウンに染めたショートカット。台北のここかしこで見かける典型的な中年日本人女性観光客の出で立ちだ。毎年観光シーズンにはこういう格好をした日本人の女性たちと何人も行きあうことになる。
「田所君?どうして台北に?」とりあえず取り繕った声で問うてみる。
怪訝そうな顔の女性に会釈する。「初めまして。村岡と申します。田所さんとは高校の同級生なんです。ここに住んでます。まさかこんなところでお会いするなんて」
「そうだったんですか。偶然ですね。初めまして田所の妻です。田所マサミと申します」
妻と名乗った女性も笑顔で改めて挨拶する。
「ご家族旅行か何か?」
「ええこの子が高校に入って初めてのお休みってことで」
続いて後ろから出てきた背の高い少年を振り返る。170センチ以上はあるだろう。
「息子さん?」
「ええ。末っ子です。上二人はもう社会人なんですけど」
「背が高いのね。何かスポーツを?」
「サッカーやってるんですよ」
「あらうちの子もです。息子さん背が高いからバスケかバレーだと思った」
若者が照れたように笑う。
正樹の高校時代の面影を残す細面の男の子だった。背丈は父親を優に越しているけれども顎と首の辺りにまだ幼さが残る。高校一年生と言えば16歳だろうか。正樹と初めて会ったのも16歳の時だった。
「やっと子育ても一段落したし台湾は美味しいものが多いって聞いて一度来てみたくて」
田所マサミが人懐っこく話を続けた。
「いかがでした?こちらの小籠包」
「もうすっごくおいしかったです。本場はやっぱり全然違う。大満足。ね?」
傍らの男たちに向かって微笑む。
「まだまだ台湾には他にも美味しいものがたくさんありそうで楽しみです」
「いっぱいありますよ。今からどちらへ?近くに有名なデザートの店もたくさんありますけど今日は仕事も終わったし、よかったらご案内しましょうか?」
気付いたらそんな言葉が口から飛び出していた。正樹が一瞬鋭くこちらを見た。視線がぶつかる。
「マンゴーかき氷とかですよね?タピオカミルクティーとか豆腐プリンとか、ガイドブックでは見たんですけどここまで食べちゃったからもう何も入らない」マサミは手の甲を首のところに当て、笑って見せた。
「じゃ腹ごなしにちょっと歩きます?うちの子が今ちょうど近くでサッカーの練習してるんです。歩いて10分ぐらいの大学のグラウンドなんですけど、毎週土曜日はいろんな国の留学生たちがボール蹴って遊ぶって感じでそんなにちゃんとした練習じゃないんです。息子さんいかが? 飛び入りも大丈夫よ。靴はそのスニーカーで十分だし。ええと、、?」田所の息子を振り返ると
マサミが「ヒロアキです。どうする?サッカーだって。やってみたい?」
ヒロアキが「うん」はにかんだように頷いた。
「じゃうちの子に言っとくわね。メッセージしとく。ええと今2時ね、ちょうど練習始まったばかりだしちょうどいいわ」
携帯を取り出し文字を打ち込みながら「うちの子はヒロシって言うの。同じヒロ君ね。うちは博士のひろ。18歳よ。大学一年生。上手かどうか知らないけど年数だけは長いの。幼稚園のときからやってるから。グラウンドはこっちです。今日はそんなに暑くないしよかったわ」
ちょっとしゃべりすぎだろうか。並んで歩きながら正樹のほうをそっと伺う。正面を向いて歩いている正樹の表情からは何も読み取れない。正樹は前回東京で会ったときと同じモスグリーンのジャケットを着ている。美枝子が見立てたものだ。似合うわよと襟を直してやると照れたように笑っていた。あのジャケットを着た正樹が何でここに妻と息子と一緒にいるのだろう。そして何で私はこの幸せそうな一家と一緒に台北の町を歩いているのだろう。美枝子は自分が今おかれている状況が信じられずにいる。
正樹とは高校の同級生だった。それぞれ違う大学に入ってから同窓会で再会したのをきっかけに付き合うようになったのだが、正樹は北海道、美枝子は東京で大学卒業までの約3年間遠距離恋愛だった。通信手段は電話と手紙のみと言う時代である。長距離電話は学生たちには高すぎて、美枝子は毎日手紙を書き送った。多いときは一日3回ポストに走ったこともある。長い休みには美枝子がアルバイトで貯めたお金で北海道へ行った。美枝子の情熱を持て余し気味だった正樹は就職が決まって東京に出てくる直前、美枝子に別れを告げたのだった。
それから30年間、田所正樹の名前は美枝子の中で存在しないものとして封印されてきた。卒業と同時に美枝子も海外に仕事を求め日本から出てしまったし、共通の友達も含めて彼に関することを一切抹殺してきたから、生きているのか死んでいるのか、それすらもわからなかった。だから正樹からフェイスブックで「僕のことを覚えていますか」というメッセージが来たときは本当に過去の亡霊からの通信のような気がしてしばし呆然としたものだ。
その後何度かのメッセージやり取りの後、正樹が台北に会いに来るまでそんなに時間はかからなかった。
「君に会いに来た。あの時のことを謝りたい」
その言葉で永遠に深い海の中に沈めたはずの感情の箱の蓋がいとも簡単に開いてしまったのだ。理性ではあの頃の自分たちはもういない、今はお互いに家庭を持つ50代の大人だと分かってはいるものの、再び会ってしまったことを会わなかったことにすることはできなかった。
再び蘇った激しい感情の嵐の前では年齢も地位も道徳の観念も消え失せ、美枝子は次に正樹と会えるのはいつかと言うことばかりを考えるようになった。
夫は台湾人だったが、もともと中国大陸の出身で戦後に台湾に渡ってきた一族の子孫である夫は、台湾と中国の関係が緩和された時期にいち早く父祖の地でビジネスを始め、今では数か月に一度しか台湾へ帰ってこない。あちらに別の家庭があるのかもしれなかった。
それから数回正樹は週末に台北にやってきたが、大手企業で役職に着いている正樹は非常に用心深く、二人はフェイスブックもすぐに削除したし、ラインなども一切やらなかった。単身赴任先のマンションに美枝子が郵便で送った手紙に正樹がショートメールで短く返信する。そんなやり取りを続けている。
美枝子は正樹の妻と並んで歩きながら30年近く台北に住んでいること、台湾人の夫との間にできた1人息子を育てていること、こちらで通訳やコーディネーターなど日本語と中国語を話す仕事をして働いていることなどを話す。
今日は仕事の帰りでノースリーブの黒のハイネック、ベージュのタイトスカートにブリーフケース、足元はパンプスと我ながらまずまずのビジネスウーマン風の格好であることに安堵する。赤い口紅はさっき塗りなおしたばかりだし、先週美容室でカットしてもらった髪は母からの遺伝かいまだに真っ黒なままで、そのつややかさはいつも人に褒められる。ネギだのほうれん草だの抱えた所帯じみた格好の時じゃなくてよかったとひそかに自分を祝福する。
グラウンドに着くと博が待っていて「どうしたの急に?」と怪訝そうに傍らの日本人親子に会釈する。
「日本からいらっしゃった田所さん。お母さんの高校のお友達なの。偶然会ったのよ、息子さんがサッカーやってるって言うから。こちらヒロアキくん。高校一年生ですって」
「どうも」
「息子の博です。博、ヒロアキ君連れてってあげて」
男の子二人がグラウンドに消えると大人三人は日陰を探して座った。
「今日お着きになったんですか?」
「ええ私と息子は福岡から。主人は東京からです。自宅は福岡なんですけど主人は本社勤務になったので東京で単身赴任してもらってます。主人は海外も長くて私は子供3人それぞれ学校もあったからずっと福岡にいて。私がどうしてもこのゴールデンウィークは台湾に来たいって主人に頼んだんです。今朝台北で合流しました。実は主人と会うの久しぶりなんです。台湾で初めての食事がこんなおいしくてすごく嬉しい。村岡さんにもお会いできたし。ね、あなた。村岡さんとはしばらくぶりでしょう? 村岡さん、この人昔と比べて変わりました?」
「ええと半年ぐらい前に東京でちょっとした同窓会みたいなのがあったとき久しぶりにお会いしましたわね。少々お太りになられて」
「少々じゃないわ。メタボで赤信号よ。マー君これほんとどうにかしないとね。あ、私が言うなって?」夫の腹を叩いたあと自分の二の腕をつまんで笑う。
マー君。それに人前で夫の腹を触れるなんてやはり円満なのだ。
正樹は決して妻のことは口にしなかった。ねえ私を振ってどんな人と一緒になったのか教えてよ。私聞く権利あるでしょう?美枝子がいくら聞いても頑として口を割らなかった。
「あ、サッカーするなら水かなんかあったほうがいいですよね。あそこの自動販売機で買ってきます」
マサミが腰を浮かす。「あ、私が」と美枝子が続こうとするのを手で制し、「ついでにお手洗い」と向こうに見えるトイレのマークを指差す。
「驚いたわ。台北に来てたなんて。何も言ってなかったじゃない」
田所の妻がトイレに消えたのを目の端に納めてから美枝子は傍らの正樹の顔を見ないようにして言った。
「どうして台北なのよ。あなたが決めたの?」
「いや、それはカミさんが」
正樹が口ごもる。
「もう全部決めた後で伝えられたんだ。今年のゴールデンウィークは台北に行くって。もうお金も払い込んだからって言われてさ。まさかほんとに君に会っちゃうとはな。まずいとは思ったけど2泊3日だけだから大丈夫だろうと思った。君こそなんだよ。なんで誘ったりするんだよ」
「ごめん。自分でもわからない・・」
二人は黙ってグラウンドを見つめる。
美枝子の耳には正樹が口にした「カミさん」と言う言葉がボディブローのようにじわじわと効いてきている。奥さんのことそう呼ぶのね。その言葉はこれからも美枝子を長く苦しめるのだろう。マサミの存在感が急に多くくのしかかってくるのを振り払うように美枝子は口を開いた。
「奥さんいい人ね。明るくて。息子さんもいい子じゃない。いいご家庭。あなた、マー君なの?」
「やめろって」
マサミがこっちに向かって来るのが見え、美枝子は次に出しかけた言葉を引っ込める。
戻ってきた妻と交代するように正樹が立ち上がった。
「トイレ?あっちよ」
「いいやグラウンド。練習見てくるわ」
妻にそういい残し正樹は息子たちがプレイするグラウンドのほうへ歩み去る。
「さすがに暑いですね台湾。飛行機ですぐだけど福岡とはやっぱり全然違う」
タオルハンカチで汗を拭いながらマサミが言う。
「ええ、でもまだ暦の上では3月なんです。台湾社会は基本的には旧暦で動いていて、旧暦の端午節が来るまでは冬の布団をしまってはいけないと言ういいつたえもあります。まだ本格的な夏まで2ヶ月もあるんですよ」
「そんなに?もうこんなに暑いのに?」
マサミはまた汗を拭う。
「それにしても偶然ですよね。まさか田所君やご家族にここで会うと思わなかった」
独り言のようにつぶやいたのは美枝子の本音だった。
「偶然なんかじゃありません」
そのときだ。低い声ではっきりとマサミが言った。
美枝子は聞き違いかと思って思わずマサミの顔を見た。
「村岡さん。私あなたに会いに来たんです。主人と付き合ってますよね?」
マサミはまっすぐ美枝子を見る。
美枝子は息を呑む。
二の句が告げない。
それでも何か言おうとするのを遮るようにマサミは続けた。
「私台北に来たらあなたに会えるかなと思って。
あの人ああ見えてすごく慎重だから。あなたたちSNSもやってないし、あなたの写真も何もなくて、お会いしてもわかるかどうか心配だったけどすぐわかりました。お手紙の通りのイメージです」
「手紙って・・?」
「ええ、この間息子の受験で東京に行ったとき主人のマンションで偶然見つけたんです。本棚の掃除のときに何気なくファイルを手に取って。中にあなたからの手紙が全部入ってました。あの人用心深いくせに変なところ几帳面で。あなたの手紙全部日付順に入ってたからあなたたちの再会から今までのこと全部が手に取るようにわかりました」
ああ、だから一回一回処分するように言ったのに。
シュレッダー買ったほうがいいわ。読み終わった端から切り刻んでちょうだい。
私の言った言葉は冗談ではなかったのに。懸念がこんな形で現実になるとは。
「たくさんありましたわね。60通ぐらいあったかしら。週に2、3回ってすごいですよね。しかも便箋に手書きって。村岡さん暇なのかしらって思ったけどすごくお忙しくしていらっしゃるんですよね。過去のことから今の村岡さんの生活のこととか、詳しく書いてあってそれがすごく面白くてなんだかすごく興味を持ったんです。こんな手紙書く人ってどんな女性だろうって。うっかり村岡さんのファンになるところでした。手紙の中に毎週土曜日は鼎泰豊の本店の近くでお仕事だって書いてあったでしょ。もしかしたら会えるかなと思ったけどまさかこんなに首尾よく行くなんて思ってなかった。やっぱり神様っているんですね。神様が私にあなたを会わせてくれた」
そういってマサミは再び美枝子をまっすぐ見る。
美枝子は視線を受け止めることが出来ず思わず逸らしてしまう。
「マサミさん、私」
「下の名前で呼ばないで頂きたいです」
「すみません」
美枝子は深々と頭を下げた。
「奥さま。申し訳ありません」
「私、離婚はしませんよ。絶対に。だから村岡さん。主人にもう会わないでいただきたいんです」
マサミの目に力がこもった。
「私は彼より三つ年上です。彼が20代半ばの頃、東京から福岡に転勤で来たときすぐわかりました。この人は会社で偉くなる人間だって。私こう見えて地元の国立大学の理系出てます。入りたくて入った会社だったし仕事も出来たほうだと思います。でも当時は男女雇用機会均等法なんて制度はあっても現実は違っていたころで、私も総合職ではなく一般事務採用でした。同期で入った男性たちがどんどん活躍して出世していくのに、あの時代九州で働く女子社員の将来なんて知れてました。私は29歳ですでに嫁き遅れでした。私は彼を出世させることで自分の夢をかなえようと思ったんです。彼は絶対上へ行ける男だってわかってましたから。彼に自分の将来をかけてみようと思いました。1人暮らしの彼のところへご飯を作りに行ったりしてそこはまあ年頃の男と女ですから。で、結婚して。私は会社を辞めました。あの時代は社内恋愛して結婚ということになったら女が会社を辞めることになっていたんです」
マサミはそこで一息ついた。
「彼に思い切り仕事してもらうために子供のこともうちのことは全部私がやりました。子供の勉強も全部私が見ました。転勤族ですから子供が小さいうちは国内は全部付いて行きましたけど、上の子が小学生になって福岡で家を買った辺りから海外には付いて行かないことにしました。行けば足手まといになると思ったからです。私は言葉もできないし、赴任地は衛生状態も悪いし日本人学校もないようなところで家族が行ったら逆に主人の負担が大きくなるとわかっていましたからね。その代わり、家計のことやいろんな保険のこと、ローンの返済計画、資産運用など全部私が管理してきました。私理系だから数字は得意なんです。上の子たちは二人とも国立理系に入れたし、それぞれ一部上場企業に就職しました。今度末っ子の高校受験がようやく終わってほっとしています」
「彼の両親は札幌で私の実家は福岡。数年前主人の父親が倒れたときも私が全部対応しました。葬儀の段取りも何もかも。今主人の母は認知症で札幌の施設に入ってますけど施設探しから手続きからそれも全部私がやりました。海外にいる彼には無理ですから。福岡と札幌を何度も往復しましたよ。主人は一人っ子で他にやる人がいませんしね。主人の母親に何かあったときの緊急連絡先は私になってます。自分の両親も今や要介護だしほんとに大変・・。でもやるしかない。あなたさっき私を見たとき勝ったって思ったでしょ」
「そんな・・・・」
「わかりますよ。私おばちゃんですものね。あなたみたいに外国語を使うような仕事もしてないし刺激的な都会の生活をしてるわけでもない、あなたみたいに溌剌としていないことはわかっています。主人と映画や小説の話なんてしたこともないですし。でも私あなたに負けているとは思っていませんよ。
主人は今本社の部長です。もっと上に行くかもしれません。主人が今のポジションにいるのは私が陰で支えてきたからだと思ってます。同級生だか元カノだか知らないけどあなたがやってることはいいとこどりです。昔付き合っていた男が社会的に成功しているのはいい気分でしょうね。でも田所正樹をそこまでにしたのは妻である私です。私の30年をコケにするようなことはしないでください」
「私たち奥さまをコケにだなんて決して」
「してるじゃないの!充分!それに私たちとかって言わないで!」
マサミが声を荒げた。
「ずるいですよあなたたち。やってることは浮気より悪いです。
なによ同級生って。元カノって。私、入れないじゃないの。あなたたちの中に。一生懸命やってきたのに私。あなたが急に介入してきたのよ。ルール違反ですよ」
いよいよ涙声になったマサミに「ごめんなさい」と美枝子は声にならない声で言って頭を下げる。
「家のローンもそろそろ終わります。3人の子供たちの学費は学資保険でまかなえたし、正樹の年収も確実に上がっていて老後の貯えも順調です。私は働いてないですけど、ちゃんと計画して人生設計を立てて正樹の稼いでくるお金をきちんと運用してきました。子供たちの勉強は私が見ましたから高額な進学塾にも行かせてません。要するに私の全面的な後方支援があったからこそ正樹は前線で思いっきり仕事が出来たんです。それをやっと収穫の時期になってあなたが横取りしようとしてるのよ」
マサミはハンカチを握りしめて声を震わせる。
「横取りだなんてそんな・・・」
「正樹はもうここ何年も私の体に触れていません。
私をもう女としては見れなくなっているんでしょう。
でも私たちは人生を一緒に戦ってきたパートナーです。家族です。定年退職後に彼と旅行に出かけるのはあなたじゃなくて私です。その資格があるのは今まで彼を支えてきた私なんですから」
「わかってます」
うなだれる美枝子。
「手紙を読んだら昔正樹があなたから一方的に離れていったってありました。あの人あなたに相当ひどいことしたみたいね」
「そんな。昔のことですから」
「この際はっきりと言っておきます。あなたは正樹から生涯を共にする相手として選ばれなかったんです。正樹が妻として選んだのは私だし、私はそれを精一杯勤めてきました。それ、わかってます?あなたなんか出る幕ないのよ。自分たちはどこにもない純愛のつもりでいい気になっているみたいだけど、世間から見たらやけぼっくいに火がついたっていうどこにでもある陳腐なものだし、やってることは薄汚い不倫よ」
マサミの激しい言葉に美枝子は身じろぎも出来ない。
「でもあなたといると正樹は楽しいんでしょうね。しゃれたレストランでワインなんか飲んでおしゃべりして。仕事のことも家のことも認知症の親のことも全然思い出さないでいられますものね。立派な肩書きの名刺を持って昔の女に会うのは彼にとっても気分のいいことだったと思いますよ。働いていらっしゃる村岡さん素敵ですもの。私といても正樹は全然楽しそうじゃない。それこそここしばらく二人きりで食事したこともない」
何度となく心に思い浮かべた光景がある。正樹へ思いが募るに連れ、いっそ全てを打ち明けて妻から正樹を奪ってしまいたい。そんな妄想に駆られたりした。妄想の中での美枝子は正樹の妻にこう告げるのだ。
正樹さんはもともと私に属していた男です。私に返していただけませんか?家も財産もみんな欲しいものはあなたに差し上げます。私は彼一人いればそれでいいですから。
現実はここまで違うのだった。外見は人のいいおばちゃんにしか見えない田所マサミの迫力ときたらどうだろう。これが九州女の芯の強さというものなのか。
タオルハンカチで目頭を押さえていたマサミは態勢を取り戻したように平静な声で続けた。
「国が違うからどういう法律が適応されるかわからないけど、当事者が日本人同士だし、一応弁護士さんには相談しようと思ってます。
あなたの手紙も重要だと思われるところはコピー取ってあります。
この半年間で3回会ってますよね。台北と東京のマンションと横浜のホテルにも行ったでしょう。
あなたの手書きの手紙が何よりの証拠になると思います。
ご自宅に内容証明が届くかもしれません。それからあなたに対して慰謝料請求させていただくことになるかも知れないけど、あとは弁護士の指示に従ってください」
法律、弁護士、内容証明、慰謝料、マサミの口から発せられる非日常的な言葉が上滑りして耳を通り過ぎていく。自分の身に起こっていることがとても現実のものとは思えない。
真夏の日差しを避けて座っている下半身が冷たく冷えていく。口の中がカラカラになっていて舌がぴったり上顎に張り付いているのがわかるが、バッグの中の水筒に手を伸ばすことも出来ず、美枝子はただマサミの前のペットボトルがしずくにまみれていくのをぼんやりと眺めていることしかできない。
グラウンドのほうからわっと歓声が上がった。
思わず目をやると誰かがゴールを決めたのだろう。博とヒロアキがチームメートらと肩を抱き合って喜んでいるのが見えた。正樹がこっちを向いてガッツポーズをしている。
「点が入ったみたいね」
マサミの声に美枝子は小さく震えたまま何も答えられないでいる。