
短編小説『牛の願いを』
【あらすじ】
忙しい日々を送っていた坂本は、日頃の鬱憤を晴らすために仕事を終えた金曜日の夜に海沿いをドライブしていた。
いつもの慣れた道だったが、いつもとは様子が違うことに気が付く。カーブを曲がった瞬間、道路の真ん中に『牛』が現れたのだ。
驚くことに、その牛は言葉を話し、あろうことか坂本の旧友の『渡辺』だと名乗った。
坂本は疑いながらもその牛から放たれる圧倒的な同級生の空気に押し切られ「家まで送ってほしい」と言うその牛を助手席に乗せることにした。
その道中、牛は坂本の忘れていた『ネオワイズ彗星』を観に行った二人の思い出話を語り始め……。
1 再会
スピードを落とすことなく雑にハンドルを切る。その度に体に圧力がかかり、そこから一週間分の疲労が抜けていく。これを何度か繰り返すと、どこかで体がスッと軽くなるような気がする。濡れたスポンジを振り回すと、少しずつ水が抜けていくのと同じだ。
数年前から、金曜日の夜は毎週のようにこの海沿いをドライブしている。街から近いにも関わらず交通量が少ないお気に入りの道で、カーブは全部で十五。その先には公園があり、そこで缶コーヒーを買ってゆっくり飲むというのが、俺の数少ない、いやほとんど唯一の楽しみになっている。
この楽しみのおかげで、俺はどうにか仕事を続けられている。日々の上司からの叱責、同僚からの陰口、客からの罵声、カーブをひとつずつ曲がる度に、その声たちを置いていくのだ。
だが今日は何か様子がおかしい。いや、ハッキリと何がおかしいとわかるわけではないが、いつもと何かが違うということだけはわかる。だが、アクセルを踏む足は、休むことを知らず運動を繰り返している。
五つ目のカーブを曲がると、「それ」は唐突に現れた。
俺の脳は、それを認識するとありったけの反射神経に命令を出し、右足にブレーキを踏ませ、そして両腕にハンドルを切らせた。耳をつんざくような音を放ちながら、俺の車はそれの手前、一メートルの場所で静止した。
ライトが照らすそれは自ら光を発しているわけではなく、人工的な反射も行わずに、白を基調とした体に、黒い斑模様を乗せ、のしのしと道路を我が物顔で歩いている。「やっぱり牧場の牛乳って美味しいよね」「うん、濃厚ってまさにこのことだ」以前訪れた牧場の光景が浮かび上がる。
牛だ。
紛れもなく、それは牛だった。白い体に黒い斑模様。牛と聞けば想像するそのままの姿のものが、こちらのことを気にも留めずに歩いている。
いや、こっちを見た。そりゃそうか。あれだけのブレーキ音だ。いくら牛であっても(牛に失礼だが)気が付くに決まっている。牛がこっちを見るだけで済むのなら、俺はこの後も変わらずいつも通りのドライブを続けるのだが、どうもそうはいかないようだ。
牛は、俺の方へと足を踏み出してきている。地面に何か埋まっているのかを確かめるように、その足を一歩ずつ前へとゆっくり進める。正面から見た牛は馴染みがない。これは本当に俺が知っている牛か? 別の惑星の生物にも見える。
大きな体をゆさゆさと揺らしながらゆっくりと近づくにつれて、俺は捕食されてしまう動物の気持ちが徐々にわかってきた気がした。抵抗しても無駄だ、というより抵抗する気さえ起こす気になれずに、無力だと感じるだけだった。「人がこの世界を支配しているなんて戯言だ」どこかの環境団体の代表がカメラの前で叫んでいる姿が浮かび上がる。その通りかもしれない。牛がただ歩いているだけなのに、俺は車に守られているにも関わらず体を動かすことができない。
牛と俺との距離は着実に縮まっている。「コツコツすることが一番の近道です」と、先月受けたセミナー講師の声が聞こえてきた。牛のくせに何を堅実に進んでいるんだ、と恐怖のあまりその感情が怒りへと転化した。その怒りに任せ、気づけば俺は車のドアを開け、牛の前に立っていた。これから俺を殺すであろう、この牛のいる空気を直に味わいたくなったのかもしれない。
車から降りると、虚勢を張るかのようにドアを勢いよく閉める。どうだ、驚け、これは車だ、そして俺は人間だ、と言わんばかりの音が、俺と牛だけの空間に響く。だが牛は微動だにしない。それどころか足取りは軽くなり、リズミカルになってきている。まるでスキップでもするかのように、牛はトントントンと近づき息遣いまでもが聞こえてくる。
牛が近づいてきたことで、その牛が想像した大きさよりも二回りほど小さいことに気づいた。体高は低く、二足歩行で立ったしても人間の大人ほどの大きさしかない。だが仔牛という感じでもない。いや、はっきりとは分からないが、どしっとした体格やその動きからおそらく大人の牛だと思われる。
「よう、坂本。久しぶりだな」
耳を疑う出来事だった。聞こえてきたのは紛れもなく人間の声だ。低い声で三十代ほどの、疲れたサラリーマンのような、言うなれば、俺や俺の周りにいる、酷く馴染みのある声だ。俺は首を右に左にと振り周りを見渡す。だが人間の姿はない。この場所にいるのは、俺とこの牛だけだ。
頬を撫でるように冷たい風が吹き、波の音がそれに答える。
「なんだよ、水臭いな。俺だよ。渡辺だよ」
俺に向けて話している? だって名前を呼んだよ? 坂本って。
「ほら、小さいときから一緒だった。忘れちゃった?」
人間らしい笑みを浮かべた牛を見たのは人類で初めてではないだろうか。いや、まず考えないといけないのは、この牛が喋っているという事実だ。もう一度、周りを見渡す。間違いなく他には誰もいない。冷たい風は強くなり、前髪を跳ね上げると同時に目と頬にも容赦なくぶつかり、俺の意識を鮮明にさせる。
「あ、わかった。地元から離れたら、昔の友達を忘れちゃうタイプか」
さらに飛び出す、まるで地元の友達のような口調に、俺は驚くと同時に少し胸が苦しくなった。図星だと感じたからだ。仕草や言葉が人間よりも人間くさい。
「まぁ、わかるよ。そういうやつもいるよな。俺は肯定も否定もしないさ」
牛は「うんうん」と小さく小刻みに頭を振る。どちらかというと理解があるタイプの人間と同じ仕草だ。上司だとしたら信頼して何でも話してしまいそうな雰囲気を感じる。自分たちの世代の考えを押し付けることをせずに、若者の価値観にも理解を示すタイプだ。令和型の上司だ。
「とりあえずさ、乗せてくれよ。家まで帰ろうとしたら迷っちゃったんだよ」
牛が話している、という疑問は何も解決してはいないが、あまりにも人間くさい牛の言葉に親近感を覚えている自分がいる。この空気は地元の同級生そのものだ。
「しょうがないな、乗れよ」
同級生の空気が俺にそう言わせる。俺はこの状況を少しだけ受け入れてしまったみたいだ。この同級生、いや、渡辺と言ったか、その名前には少しだけ聞き覚えがある。俺のほとんど残っていない地元の記憶の片隅に、ほんの一枚のプリントが落ちていて、そこに渡辺の名前は載っているのだろう。本当にふわっとした、煙の中に映し出された映画のように、色も形もはっきりとしない記憶だけがある。
考えてみれば学校の校舎も教室も、廊下もグラウンドも体育館も、通った道の風景も何も覚えていない。それほど地元が嫌だったのだろうか。自分の心を保つために、意識してはいないが、自ずと記憶を消してしまったのだろうか。
その可能性はあるのかもしれない。
だが不思議なことに、地元を離れて就職してからの記憶は鮮明に残っている。これまで一緒に働いたことのある社員の顔も名前も仕事の内容も、嫌な記憶のはずなのに鮮明に残っている。
俺は運転席に戻った。牛の姿の渡辺は蹄を使い器用に助手席のドアを開けて、座った。さっきまで四足歩行だったのに、いつのまにか二本足で歩いている。その動作は、どう見ても人間のそれだった。「へぇー綺麗にしてるなぁ」と、息子の生活を確認する親のようなことを言いながらシートに体を預け「いいな乗り心地」とへへっと笑う。
牛の姿になった同級生が、自らドアを開けて助手席に乗ってきた。
そんな話をしても誰も笑わないだろう。笑うこともできないほどのネタだ。「聞いてくれよ。この前、海沿いを車で走ってたらさ、牛が目の前に飛び出してきてさ、危ないなーってよく見たら、そいつ地元の同級生でさ。いやまさか牛になってるとは思わなかったよ」なんて飲み会で話しだしたら、働きすぎだと心配されるだろう。いい精神科を紹介してくれる人間もいれば、「とりあえず飲んで発散しようぜ」と言う人間もいて、これを機に距離を置く人間もいるだろう。
そんな馬鹿なことを考えながら、俺は車のキーを回しエンジンをかけた。車は乾いた音を鳴らしながら震えだす。フットブレーキを踏み、シフトレバーをPの一に合わせ、アクセルを少しだけ踏み、車を前に進めた。さっきまで感じていた冷たい風が、温かい風に変わった。
「新車で買ったの?」
渡辺が車内を見渡しながら言う。ちょっとした知り合いでは言えない台詞だ。この空間に生み出された久しぶりに会ったという空気は、誰かが意図的に造った人工的なものではなく、実際に俺たち二人から滲み出たものだとわかる。
「いや、中古だよ。でも一括で買った。ローンってなんか嫌なんだよ。首輪付けられてるみたいで」
「へぇ~」と渡辺は、また車内を見渡す。自分で聞いたくせに、聞いているのか聞いていないのかわらないから腹が立つ。
ん? 腹が立つ? 俺は今腹が立ったのか?
もしも初めて会った人間に同じような反応をされても、おそらく怒りという感情は生まれてこないだろう。怒りというものは理想とのギャップによって生まれるはず。だからこそ仲がいいほど腹は立つものだ。
俺はこの渡辺と仲がよかったのか?
「運転ってさ。どんな感じなの? ほら俺は当然免許なんて持ってないからさ。というか、この手じゃハンドルも握れないし」
ハハッと渡辺は笑う。さらに俺の頭は疑問だらけになった。てっきり渡辺は自分が牛になっていることを理解していないのかと思っていた。いや、もしくはわざと理解しないようにしていたのかもしれないとも感じた。
でも違った。自分が牛だと認識しているのだ。さらっと混ぜてきた牛ジョークに触れるか迷ってしまう。とりあえず笑う気にはなれなかったが、俺の顔は自然と社会人生活で身に付けた愛想笑いをしていた。
「いや、笑うならちゃんと笑えよ。なに身に付けたんだよ。愛想笑いなんて、坂本らしくない」
渡辺は張りのある声で言う。この感覚。ドラマや映画で見て知っている。売れてきた芸能人に対して地元の友達が本気で怒ってくれたときと似ている。渡辺は本気で俺を怒っている、いや怒ってくれているのかもしれない。俺はどうしたらいいのだろうか。「お前はなに牛になってんだよ? 聞いたことないぞ。あいつ社長になったらしいぞ。えー! マジで! ってびっくりさせろよ。牛になるってなんだよ。笑えねーよ! ハハハッ」って言ってあげればいいのだろうか。わからない。わからないよ渡辺。
「とりあえず行こうぜ。家まで乗せて行ってくれよ」
渡辺はシートベルトを締める。俺の頭は混乱したままだったが、渡辺が自分からその話題に触れるまでは、そっとしておこうと思った。聞いてはいけない問題は友達でもある。友達だからこそ触れることを躊躇う問題もある。だが、このままでは注意力が散漫になり運転に支障をきたしそうだ。真相まではたどり着けなくてもいいから、少しだけ、少しだけでも牛になった理由を知りたい。安全のためにも。
俺は、その話題に優しく触れるように「最近どう?」と、アクセルを少しだけ踏み、車を進めた。
2 同級生
俺は同級生だと名乗る牛を助手席に乗せて、海沿いの気持ちのいい道を走っている。この愛車は二年ほどかけて貯めたお金と、運よく業績の上がった会社から出た初めてのボーナスをつぎ込み一括で買ったものだ。できることなら、晴れた日にキラキラと煌めく海を横目に観ながら、疾走感のある曲でも流して助手席に彼女でも乗せて走りたかったが、いま助手席にいるのは牛だ。しかも人間の言葉を操る牛。漫画で読んだことがある、それを魔獣と呼ぶと。
不気味になってきた。ようやく普通の感覚が戻ってきたのかもしれない。あまりにもこの渡辺…牛が慣れ慣れしく同級生かのように振る舞うものだから、その空気に乗せられていた。これはもしかすると、このまま巣に持ち帰られて、俺は食べられてしまうのかもしれない。
「どう、って、それはこっちの台詞だよ。どうなんだ? 都会の暮らしは」
俺の心配とは裏腹に渡辺の声は優しい。
「まぁ楽しいよ」
「まぁ、ってなんだよ」
「いや、楽しいよ」
「言い直してるじゃん。本当に楽しいのか?」
心配する様子は、同級生のそれだ。もっと言うと、田舎から都会に出て行った同級生を心配する地元の同級生のそれだ。
都会、と大げさに言っているが、飛行機で何時間とか新幹線で何時間とか、人生を賭けたような上京物語ではない。ただ隣の街に移っただけだ。
でも、田舎出身からするとそれは天の川とも思えるほどの大きな隔たりがある。田舎に住んでいるときは、都会は手の届かない空想の世界のようだと感じていた。漫画の世界やドラマの世界と変わらない、現実ではない空想の世界。
だけど都会に住み始めると、そこはただの現実へとなる。つまらない日常、ぶっ壊したいほどの平穏。
逆に田舎は思い出の世界なのだと感じてしまう。きらきらとした青空、頬を優しく撫でる暖かい風。
何のことはない。住んでいる場所が現実で、それ以外は空想だと考えてしまっているだけなのだろう。俺は今、思い出の世界にいる。
「本当だよ。仕事はやりがいがあるし、街は住みやすいし、やっぱりマンションの一階にコンビニがあるのがいいね」
そう言いながら速度を落とさずにカーブに侵入し、ハンドルを左に切る。カーブの中間に到達すると右側に体が振れ、それに抵抗するように体の左側に体重を寄せる。そのままカーブの出口付近でアクセルを少し踏み、落ちてしまった速度を元に戻す。カーブが来る度にそれを繰り返す。
体に少しずつ重力がかかる。
「坂本、鏡見てるか? 酷い隈だぞ」
渡辺にそう言われてルームミラーで自分の顔を見た。渡辺の言う通り、俺の目の下にはハッキリとした隈がある。これからデイゲームの外野でも守るのかと思うくらいだ。
「なんか自分を誤魔化してないか? 楽しいのか、本当に」
俺の方に蹄を向ける。この牛は魔獣なんてものではないかもしれない。人間のことをよくわかっている。俺を取って食おうとしているのなら、こんな苦言は呈さない。人望のある先輩のようなその台詞に、自分を顧みている俺がいる。
最近の稼働状況は普通じゃない。新しいプロジェクトが始まってから終電で帰ることが少なくない。土日はもちろん出勤するし、月の残業時間は二百時間に迫ろうとしている。ワークライフバランスが叫ばれている今の世の中に逆行しているような労働環境だ。
それでも俺たちは文句を言いながらも働き続けている。長時間労働にこそ疑問は持つが、それがあたりまえになってしまい、それを改善する方法を試すよりも、それを乗り切ろうと考えてしまう。残業代も出ないのに、目の前に仕事があるから頑張る、という条件反射で仕事をしている。これではニンジンをぶら下げた馬よりも酷いかもしれない。
皆、口々に愚痴を言っている。あれが悪い、これが悪い、あの人が悪い、あの人のせいだと口にするばかりで誰もそれを具体的に改善しようとはしていない。もしかすると、愚痴を言うことが目的になってしまっているのかもしれない。仕事を成功させよう、会社の利益を上げよう、お客さんの役に立ちたい、というような気持ちはすでに捨ててしまい、飲み会のネタになるものを探したくて仕事をしているのかもしれない。
何のために仕事をしているのだろうか。
よく考えてみると、そんなことを考える暇さえなかったなと自戒する。新入社員の頃はやる気があった。目に見えてやる気があった。当時も稼働状況は今とは変わらなかったが、あれは前向きな残業だった。早く戦力になりたい、早く一人前になりたい、と自らの意志で仕事を貰い、勉強に勤しんでいた。
それが、どうだ?
今は、ただロボットのように目の前にある仕事を何も考えずにこなしていくだけだ。仕事に慣れ、できるようになってきたことで、頭を働かさなくても仕事ができてしまう。この仕事により、誰がどうなろうと関係がない。決まった日が来れば、通帳の口座の数字が少し多くなるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。そして、その数字が増えたとしても、それを使って何かをしようという気力も時間もない。
都会で暮らすという夢が叶ったはずなのに、あのときに抱いていたものは灰にでもなってしまったのだろうか。
「都会で暮らすのが夢だったんじゃないのか?」
そう言われても何も答えることができない。夢であったはずの都会暮らしを十分に楽しめていないということは自分が一番よくわかっている。でも都会に出てきたことを間違いにしたくなくて、正しかったという理由を探し出してきては、自分を納得させているのかもしれない。
「まぁ現実知った感じ?」
俺はよくわからない誤魔化し方をする。言った後に「なんだそれは」と自分で思う。
「ふ~ん。まぁ別にいいけど、昔はもう少し芯みたいなのがあったような気がするけどな。なんか抜け落ちたというか、丸くなったというか」
渡辺は少しがっかりとした表情をしている。がっかりした牛の顔を見たのはこれが初めてだ。
「だってさ、あのときだってそうだっただろ?」
渡辺の声のトーンがひとつ上がる。
「あのとき?」
「彗星のときだよ。ネオワイズ彗星」
渡辺は合言葉かのように彗星の名前を口にした。仲間内にだけわかるように。その言葉を使えば仲間の頭には共有されてきた同じ光景が蘇り、一瞬にしてその場に還る。そして、仲間以外は排除するかのように、そのときの自分たちのまま会話を続ける口ぶりだ。
俺は、また愛想笑いをしようと思ったが、数分前の渡辺の言葉が頭を過ぎり、左の頬がぴくっと動くだけに留まった。
「まさか、忘れたのか?」
渡辺はシートから背中を浮かす。
「門限破って見に行ったじゃないか?」
目いっぱい頭をフル回転させるが、門限があったことすら記憶にない。
「いや、行ったことは覚えてるけど、詳細は忘れたってことだよ」
嘘だ。俺の頭ににはそのなんとか彗星の記憶はひとつも残っていない。
「嘘だろ? 総理大臣の名前は忘れても、あのときのことは忘れちゃだめだろ」
牛の口から総理大臣という言葉が飛び出したギャップに笑いそうになるが、必死に堪え「総理大臣は覚えておこうよ。大人として」と、口にしてみる。
「あぁ、そういうこと言うようになっちゃったか」
背中をシートにどしっと落とし渡辺は頭を抱える。
「『大人として』なんて、坂本が言っちゃいけない言葉ベストファイブに入るぞ。熱血政治家の『政治家もいろいろあるんでね』と同じくらいに言っちゃだめだよ」
一瞬だけ考えて「例えが難しい」と口に出すと「おいおい。それくらいはわからなきゃ、大人として」と、上手いこと言ったぞ、という顔をしているのがわかる。その顔を見て「よかったな、俺が運転中で」という言葉が口から咄嗟に出ていた。
そういえば、昔はこうやって渡辺とふざけ合ったような記憶がある。ぼんやりとはしているが、この感覚には覚えがある。会社に入ってから、このような冗談を言う相手もいなかったのだ、ということに今更ながら気が付いた。
「お、なんか昔の坂本みたいになってきたな」
ちょうど赤信号で止まり、渡辺の方を見ると、案の定ニヤニヤとした顔をしている。信号の赤い光に照らされた渡辺の顔が不気味に輝く。
「やめろよ、気持ち悪い顔して」
ハハハッと渡辺は上を見て笑い「いいね、坂本らしいね。らしさでてきたね」と俺を見てさらに笑う。「俺らしさってなんだよ」と、俺は恥ずかしさを隠すように少し強い口調で言うと、渡辺は笑い過ぎて出てきた涙を拭きながら言った。
「じゃあ思い出すまで話してやるよ。昔話を」
3 思い出
「坂本、聞いたか?」
芝生が綺麗に敷かれた大きなグラウンドの隅で、渡辺が興奮気味に言った。
「なにを?」
「彗星が来るらしいんだ」
渡辺は真っすぐな目で俺を見る。「また渡辺が変なことを言い出したぞ」と、周りの連中は、渡辺から一定の距離をとりだすが、俺は渡辺の話が大好きだった。
謎の洞窟を見つけた、面白い食べ物を見つけた、新しい遊びを思いついた、と日常という何気ない日々に彩りを加えてくれる。その話をするときの渡辺の顔は本当にキラキラと輝いて見えて、体中から溢れる好奇心を抑えることをせずに、見えるものすべてにその好奇心をぶつけているような気がした。それが俺には眩しく、羨ましく思えた。
「彗星? あれか流れ星ってやつか?」
俺がそう言うと、渡辺は目を細めて「それ、本気で言ってる?」と怪訝な顔をする。
「え、違うの?」
ハーーーッと、渡辺は頭をがっくりと落としたと思うと、バッと顔を上げて喋り出す。
「いいか? 流れ星は地球に落ちてきて、大気圏で燃えているやつね。彗星はそれとは違って宇宙をずっと彷徨ってるやつ。ほらあの尻尾みたいなのが出るやつだよ。太陽によって溶けたものが…」
「わかった、わかった。いやわかってないけど、流れ星と彗星が違うことはわかった」
俺は両手で渡辺の肩を強めに抑えるが、物ともせずに迫ってくる。
「ハレー彗星とか知らない? ほら尻尾が掠めたときに酸素が無くなるって大騒ぎになったっていう」
「いや、いつの時代の話だよ」と俺が言うと、渡辺はわざとらしく驚いた顔をして「いつもすべてをわかったような顔をしていますが、実はバカですか?」と棒読みで言う。
「別にわかったような顔なんて…」
「常識ですよ。彗星ですよ? 知らない人の方が少ないですよ」
掛けてない眼鏡を上げるふりをしながら、きょとんとした顔で俺を見る。渡辺の得意な俺がムカつく顔だ。
「はいはい、ごめんなさい。私には常識がありませんよ」
「わかればいいんだよ」
いつものやりとりの後の渡辺の満足げな顔はなぜだか憎めない。渡辺は、いわゆる世間の常識なるものはあまり知らないが、妙なことはよく知っている。彗星のこともそうだが、普段の生活には全く役に立たない知識の引き出しが多い。
「で、その彗星がどうしたって?」
「あ、そうなんだよ。大事なことを言いそびれるとこだった」
手をポンと叩く。
「彗星が来るらしいんだよ。それも五千年に一度の」
「五千年に一度?」
「あぁ、地球に近づくのは五千年に一度。地球から見える期間は一ヶ月ほどらしい。この機会を逃したら、見られる可能性は限りなく低くなるんだ」
「いや、限りなくって、そりゃ無理だろ。五千年後だろ? 生きてるつもりかよ」
渡辺はくすりと笑いもせず「可能性はあるだろう?」と真っすぐな目でこっちを見る。俺は、この顔が好きだ。最初から俺たちを信じていない大人たちや、人生をわかった気でいる周りの連中とは違う、真っすぐに前を向いた目。この目を見ていると、俺は何でもできる気がしてくる。
「で、いつなんだ? そのネコイズム彗星が来るのは」
「なんだ、その猫大好きです、みたいな彗星は。ネオワイズ彗星な」
「…で、いつなんだよ、そのネオワイズ彗星が来るのは」
「明日からさ」
きらりと光る歯を見せる。口を開いた瞬間に、本当にきらりと音が鳴ったと錯覚するくらいに輝く笑顔だった。
「よし、じゃあ、行こう」俺はその笑顔を見て即答する。
「そうこなくっちゃ」
渡辺は退屈な毎日に刺激を与えてくれる。俺と同じ世界を見ているはずなのに、渡辺の目には何が映っているのだろうか。
壮大な景色も、人間も、動物も、小さな蟻やミジンコさえも、渡辺にはキラキラと輝いて見えているのだろうか?
渡辺が羨ましい。
「そこで、頼みたいことがあるんだが…」
渡辺は申し訳なさそうな顔をして背筋を少し曲げる。渡辺の表情は本当に豊かだ。嬉しいときには笑い。悲しいときには泣き、怒りが湧いてくると眉間にしっかりと皺が寄る。
「わかってるよ。門限を破る方法を考えて、ってことだろ?」
「さすが坂本!」
「よし、じゃあ今日の夜、作戦会議だ。それまでに考えとく」
「助かる!」
そう言って、渡辺はくるっと回れ右をして走っていった。音符記号がうきうきと音を立てて渡辺の頭の上に浮かんでいるのが俺にはハッキリと見えた。
俺たちの宿舎には門限がある。午後八時には管理人が見回りを始め、そのときには部屋にいなければならない。
前に一度脱走しようとした奴がいたが、管理人とその他大勢に追いかけまわされ、引きずられながら部屋に戻されていた。その様子は今でも頭にしっかりと残っている。
ただ見回りは一度だけで、それ以外は管理人室に籠ってテレビを観ている。いい身分だ。俺が管理人の管理人ならば怒鳴り散らすだろうが、俺たちにとっては好都合だ。
管理人室の前をどうやって通るか。
それが唯一で最大の問題だ。
俺は数分考えてある方法を思いついた。
「…という訳で管理人室の前を気づかれずに通りさえすれば、彗星を観に行けそうだ」
「さっすが坂本! 俺はいい友達を持ったよ」
渡辺は、涙を拭くような動作をするが、どう見ても噓泣きなのはまるわかりだ。
「だから決行は、明日の午後十時だ。皆が寝静まったあとに部屋を出るぞ」「了解!」
次の日、皆が寝静まった午後十時。動いていることが分からないくらいに部屋のドアをゆっくりと開け、ドアの隙間から周りを確認しつつ、まさに忍び足で俺たちは部屋の外へと出た。しんと静まる廊下は新鮮で、ついつい早足になってしまいそうだが、その足を意識的に抑え込む。普段と違う行動をとっているからだろうか、感覚も研ぎ澄まされている気がする。
コツン、コツン。
研ぎ澄まされた聴覚が小さな音を捉える。本能的に体が反応してしまいそうになるが、それを理性で抑え、体に力を入れ静止する。しまった。まさか管理人か?
コツン、コツン、とまた聴覚は小さな音を捉えた。今日に限って二度目の見回りをしているのか? なぜだ。今日は何か特別な日だったか? いや、特に何かある日ではなかったはずだ。むしろ俺たちには好都合になる特別な日のはずだ。
コツン、コツンと音は途絶えない。
後ろからハッキリと聞こえている。
緊張が高まる。
管理人は部屋ででテレビを観ているはずだ。調べたんだ。今日は、年に一度のお笑いグランプリが開催される特別な日。お笑い好きの管理人がそれを観ないはずはない。俺は、もう駄目かもしれないと思いながら、恐る恐る振り返った。
「あ、悪い、足に土が付いてて…」
ヘヘッと渡辺は笑う。
渡辺の顔を殴りたくなったのは何回目だろうか。覚えられる回数ではないことだけは覚えている。「お前が、彗星を観に行きたいって言ったんだろ」と、俺は肩に手を回すようにして腕で渡辺の首を絞める。
「悪い、悪い、ちょっと足に土が付いているのが気持ちわるかったんだよ」
「外に出てからやれよ、そんなのはさぁ」
「知ってるだろ? 俺が思い立ったら止められない性格だって」
「そりゃそうだけどさぁ」
「喋ってないで、早く行こうぜ」と渡辺は俺の横を通り過ぎて前に出る。軽快な足取りで、今度は音を立てないように、慎重に、かつ迅速に足を前へと進める。
管理人室の前まで順調にたどり着くと、思った通り、管理人室には明かりが灯り、管理人はテレビでお笑いグランプリを楽しそうに観て、ゲラゲラと大声を出している。テレビの音が部屋の外にまで漏れるほどの大音量だ。
「よかった。これならバレないで出られそうだな」と渡辺に言うと、ヘヘッと笑い「楽勝だ」とポーズを決める。渡辺が管理人室の前を横切ろうと足を一歩踏みだそうとしたそのとき、『ど~も~』と、大人が出す声にしては元気で覇気のある声が聞こえてきた。
『そういえば、僕、高校時代は寮に入ってまして』
『へぇ~寮?』
『そうなんですよ。決まりも厳しくてね。よく隠れてお菓子食べたりしてましたよ』
『そっか~隠れて食べないといけないとか大変ですねぇ』
『そうなんですよ。よく脱走も計画しましてね』
『おぉ~脱走。なんかアメリカの刑務所ドラマみたいでかっこいいですね』
『管理人を騙したりしてね。気づかれずに管理人室前を通ったり…』
大笑いをしていた管理人の顔が一瞬だけ曇る。まさか漫才のネタで自分と同じ境遇が出てくると思わなかったのだろう。パッとこちらを見る。俺と渡辺は、体の反射神経をフル動員して体を仰け反らす。
見られたか。心臓の音が聞こえる。
『点呼も厳しくてね、あと面会もあったりして』
『凄いな、ほんとに刑務所みたいだ』
『でね、出所した後に…』
『いや、刑務所やないか』
ハハハハッと管理人は、また大笑いしながらテレビを指差す。俺と渡辺は、フーッと息を深く吐き、足音を立てないように、管理室の前を素早く通り過ぎた。
ドアを開けると、俺たちの脱走を祝うかのように満天の星が待っていた。
ゆっくりと星空を眺めることもなかったな、と夜空に煌めく星々を見ながら思う。身近にあるものなのに、いや、身近にあるものだからこそ見ようとしなかったのかもしれない。
夜になれば空には星が煌めく。それをあたりまえだと思い、特別なものだと思うこともなかった。いつでも見られると視界にも入らない。そうやって日々は過ぎていき、星を見上げる日は訪れないまま一生を終えていくのかもしれない。
キラキラと、大げさではなく、本当にキラキラと星は輝きを放ち、どこまでも続いているように思える宇宙が二人の頭の上に広がっている。
光でさえも何年もかけて届くというのに、俺たちの頭の上の宇宙はジャンプすれば届きそうなほどに身近に感じた。
「星を見るだけでも満足だな」俺は思わず呟いた。
「なに言ってるんだよ。今日の目当ては彗星だぞ。星くらい、いつでも見れるだろ」
「冷めたこと言うなよ…」と言いかけようとすると、渡辺が「こっちだ」と、走り出す。俺も続けて走る。
見えている星たちには手が届きそうなのに、追いかければ追いかけるほど遠ざかっているように感じる。近くにいるように見えるのに、その実態をまるで掴めそうにない。
あの星たちは本当に輝いているのだろうか。あの輝きはどこから見ても不変なものなのだろうか。もしかすると、実際に近づいてみると、目を背けたくなるような醜い姿であったりはしないだろうか。
「こっちの方角のはずだ」
渡辺が北西の方角を指差す。俺たちは必死に走った。彗星を目指して、足を目いっぱいに動かした。その小さな一歩が彗星に近づくと思うと気持ちが高鳴った。
この高揚感。日常では味わうことのない、この気持ちを俺は待っていた。草を掻き分け、丘を登る。ハァハァと二人とも息遣いが荒くなるが、もう彗星のことしか考えられなかった。草ではない何かを掻き分けるように、必死に前へと進み、開けた丘の頂上にたどり着いた。
「どこだ?」と、どちらともなく口にすると、渡辺が「あれだ!」と空に向けて指を差す。
パッと顔をあげると、そこには五千年に一度、地球に寄り道をする彗星が輝いていた。
左下には明るい核が光り、そこから右上に大きな尻尾が伸びている。これが本当に宇宙空間を彷徨っているものだとはにわかには信じることができない。
知識と現実を少しずつ頭の中で繋げていく。五千年という長い期間、この彗星は太陽だけを目指して、宇宙空間を彷徨う孤独な旅をしてきたのだろう。何を頼りにすれば、その孤独な旅を乗り切れるのだろうか。進んでも進んでも何も見えず、目印となる太陽が見えるのは、五千年の間のほんの一瞬に過ぎないことだろう。小さな小さな太陽の引力を信じきり、疑うことなく進み続けなければ決して出会うことはない世界。
俺の目からは涙が溢れていた。
それは彗星の孤独な旅への同情だろうか、それともその美しさにだろうか、それとも自分の人生と照らし合してしまったのだろうか。目を離すことができない。いや、離すことは許されない、そう感じる。それが五千年の旅を超えてきた彗星に対してできる最大限の礼賛なのかもしれない。
俺たちは彗星を眺め続けた。どれだけの時間が経ったのだろう。徐々に彗星が見えなくなってきている。
「そろそろ戻るか」悲し気に渡辺が言う。
「あぁ、でも最後に」と俺は彗星を観ながら願いごとをした。「それは流れ星だろ!」と渡辺に突っ込まれる気がしたから言わなかったが、しっかりと三回、ゆっくりと頭の中で願いごとを唱えた。
渡辺が不思議そうにこちらを見ていたが「なんだよ」と無理やり誤魔化した。
「もう一度、一緒にこの彗星を観たいな」
渡辺が彗星をまっすぐな目で見つめながら言う。その目は、彗星を観ているのか、また一緒に彗星を見ている俺たちの姿を見ているのかはわからなかったが、渡辺とならもう一度見られるような気がした。
「そこは死んどけよ。生き物として」
「冷めたこと言うなよ、坂本」
東の空が明るくなる前に、俺たちは丘を降りた。彗星を観る前と後では、何も変わっているわけがないのに、何かが変わった気がした。
4 願い
相変わらず街灯の無い道を走っている。頼りになる明かりは、この車のヘッドライトだけで、数分に一度の間隔で対向車と出会い、お互いに「あなたはどこに行くんですか?」とでも思いながらも、その明かりに少しだけ安心感を覚え、すぐにまた不安の残るいつもの道に戻る、というのを繰り返している。
ただ、今日の不安は街灯の有無だけの問題ではない。俺の隣には牛が乗っているからだ。しかも、同級生だとその牛は言い張る。渡辺と名乗るその牛は、助手席にまさに同級生のごとく遠慮のない恰好で、昔話をしている。身振り手振りで、まるで昨日起きたできごとのように、その日の熱をそのまま今日へと持ってきたかのように話をしている。
真っ白の毛並みに、世界地図のような黒の模様が描かれ、蹄を器用に動かしながら、前髪のごとく毛もさっと整える。丁寧に尻尾も生えている。
どこからどう見ても、二足歩行をすることと日本語を流暢に話すことを除けば、紛れもなくただの牛だ。
「どうだ? 思い出したか? 俺たちの武勇伝」
ハハハッと渡辺は気持ちよく笑う。
「あぁ、少しずつだけだけど」
俺は、思ったままを口にした。本当に少しずつだが思い出してきた。とくにネオワイズ彗星の話は、はっきりと情景が浮かぶ。あの出来事を、なぜ今の今まで忘れていたのだろうかと疑問に思うほどだ。
草を掻き分け丘に抜け出たときの、あの晴れやかな気持ち。
毎日をただ平凡に過ごしていた俺に、起承転結の「起」を運んできてくれていたのは、この渡辺だった。つまらない日常を渡辺と一緒に壊してきたことをなぜ忘れていたのか。俺は都会に出るときに全て置いて行ってしまったのだろうか。生まれてから住み続けた街に、俺の嫌な気持ちだけでなく、楽しかった思い出も、曜日が来たからと捨てる燃えるごみのように、何も考えずに捨てていってしまったのだろうか。
気づけばタイヤと地面の摩擦音だけが車内に響き渡っている。
横目でチラチラと渡辺の方を見る。絶えず話し続けていた渡辺は、窓の外を見ながら遠い目をして、ドアに肘を置き頬杖を突いている。過去のことを話すことで昔の自分と今の自分を比較してしまったのだろうか。窓ガラスには牛の姿の渡辺がぼんやりと映っている。
間を埋めてくれていた音が赤信号で消える。
「なりたい自分にはなれたのか?」
静寂を破るように渡辺が口を開いた。渡辺の顔は窓の方を向いたままだ。また暫しの静寂が車内を包む。信号が青へと変わり、俺はアクセルを少しだけ踏んだ。
「どうだろう? わからないな」
どうして渡辺がそんな質問を俺にしてきたのかはよくわからなかったが、俺は正直に思いのまま答えた。
俺は自分がどうなりたいのかよくわかっていない。渡辺の話に出てくる自分と、今の自分が同一人物だと思うことすらできていない。渡辺は外見がまるっきり変わっているが、俺は中身が変わってしまっていると、渡辺と話すと痛感する。
昔の、田舎での生活は、まるでなかったかのようにここ十年は暮らしていた。忙しい毎日の中で自分が誰かなんて考える暇もなかった。「坂本さん」と呼ばれるが、その呼称に別に意味は無く、社員Aでも社員Bでもなんでもいいのだ。
「それはそうだ。自分なんてない、って俺も思うよ」
渡辺があっけらかんとした表情で答える。
「なんだよ。渡辺が聞いてきたんだろう?」
少しだけ苛ついたことに、また驚く。最近の自分は、なんでも無気力に過ごしていたみたいだ。上司や同僚の言葉を理解する気はなく、ただの記号だと捉え、その意味を考えることもしない。コンビニに寄っても決まったものを選ぶ。頭を使うことを忘れてしまっている。
こうやって人の言葉にむきになることもない。起きたことをそのまま受け取り、そのまま流す。そのときに自分の体に溜まるどうしようもない何かの粕みたいなものを、海沿いのドライブで捨てているのだ。
「いや、それは昔、坂本が言っていたことだ」
「俺が?」
「あぁ。自分の嫌いな部分も、好きな部分も、新しい自分になりたいと思っている自分も、それは全部自分でもあるし、自分でもない、って」
相変わらず渡辺は窓の外を見ながら話している。窓ガラスに映る自分の顔を見ながら自分に言っているのか、それとも、その向こうに映る俺に向かって言っているのか判断はつかない。
「なぁ坂本。昔のお前は、もっと自分の気持ちに正直だったんじゃないのか?」
俺はその問いに答える代わりにアクセルを少しだけ強く踏んだ。渡辺が俺の方を向いているのが分かる。蹄を器用に使って頬杖は付いたままだが、顔はこっちを見ている。
「坂本、自分の姿をよく見てみろよ」
渡辺の口調が強くなる。
いや、違う、それはお前に言いたいんだ渡辺。どう見たって姿をよく見なきゃいけないのはお前だろ。俺は、お前がどうしてそんな姿になったのかを知りたいんだ。
思い出に現れた渡辺は人間の姿をしていた。牛じゃない。それにもっと楽しそうに、悩みごとなんてなにひとつないという顔で笑っていた。その周囲一メートルを忽ち明るくしてしまうような、太陽のような明るさだった。
でも、今の渡辺にはそれを感じない。何かを気にしているような、何かを遠慮しているような、もうあれから十年は経つから、大人になってしまったと言われればそれまでかもしれないけど、あの頃の天真爛漫さを感じない。「この手じゃハンドルも握れないし」と、牛ジョークを言うくらいには、牛になったことを受け入れられたのかもしれないが、全てを受け入れることは到底できていないのだろう。
もし、自分が朝起きて突然牛になっていたとしたら、精神を保つことはできていないと思う。こうやって人前に出て、しかも知り合いに声を掛けるなんてことは絶対にできない。
あの渡辺だから、ここまで普通にしていられるのかもしれない。でも、あの頃とは明らかに違う。昔の友達と思い出話をすることで、人間だった頃の自分を取り戻そうとしているのかもしれない。が、俺はその部分に足を踏み入れる勇気が無い。
人の気にしている部分、つまりはコンプレックスに対して話を聞いてあげることも、相談に乗ることも、ましてや解決策を提案することも俺にはできない。俺はただそのコンプレックスを見て見ぬ振りをするだけのずるい人間だ。
「俺は心配だよ。坂本が」
その声は優しさと落胆がそれぞれ混ざり合ったような声だった。
俺が言いたい台詞だ。俺は、心配だよ、渡辺のことが。どう見たって普通じゃないのは渡辺の方だ。仕事の嫌な気持ちを週末のドライブで発散するなんて、ありふれていてなんの面白味もない話だ。わざわざ人に話すほどの行動でもない。
ただ渡辺、お前は違うじゃないか。どうやったら人間が牛になるんだよ。人間の言葉を理解し二足歩行で歩く牛に。お前に何があったんだよ。何かの気持ちをきっかけに牛へと変わったのか? 人間はイメージを強くするとその方向に自然と気持ちが動くと聞いたことがあるが、何がきっかけになれば、人間から牛の姿に変わるんだよ。
なぁ渡辺。教えてくれよ。どうして牛になったんだよ。
そう思いながらもそれを口にすることができなかった。俺は、憧れた都会に出ながらも自分を捨てて生きている。今の生活を受け入れ、希望も絶望もない、波風の立たない暮らしを続けてきている。そんな人間に、他人を変えることなんてできるはずがない。
車は小さな街を抜け、山間の道を進んでいる。小さなカーブが繰り返し向かってくる。ライトをハイビームに変え、対向車に気を付けながら先の見えないカーブを曲がる。カーブの入り口では大きな矢印に従いその方向へとハンドルを回し、先が見えてくるとそのハンドルを元の位置に戻す。その間も対向車が来る度に、ライトのレバーを手前に戻し、ロービームへと切り替える。ハイビーム、ロービーム、右、左、自動的に向かってくる小さなカーブをひとつずつ攻略していく。
対向車と見えづらいカーブに、徐々に意識が集中していく。シューティングゲームを続けていると、考えなくても勝手に手が動き、次から次へと敵を倒していける、あの感覚に似ている。
意識して手や足を動かすのではなく、目から入った情報が脳へと伝わらず、そのまま手と足へと伝わり勝手に動いている。意識はあるが、意識はない。何かを考えているが、何も考えていない。現実なのか想像なのか分からない状態が続いている。
「願いが叶ったのに、全然楽しくなさそうだ」
意識が一気に現実へと戻ってくる。対向車が来てレバーを引っ張り、ライトをロービームに変える。
「願い? 都会で暮らすってことか?」
「まぁ、それもそうだが、彗星にした願いだよ」
え? 中央線に乗ったタイヤが滑る。「おっ」と声が漏れ、ハンドルを握っていた手に力を入れ、左に少し切る。
今、何て言った? 彗星にした願い、って言ったのか?
「なんで知ってるんだ? 俺は、内緒にしてたはずだ」
「え? なんで、そんなの見たらわか……」
驚いた渡辺の顔を見ながらも、その口から発せられた言葉がなにひとつ理解できないほどに、頭の中はぐちゃぐちゃに絡まっていた。
「前! 前! 坂本、前!」
二つの光が目の前に迫り、ブーッと大きな音が鳴る。咄嗟にハンドルを左に切る。右に大きく体が振れ、体中の血液が右半身に寄る。ブレーキを踏む。キーッと音を立て、ガッタンと車が前後に大きく揺れて止まり、妙な静けさが広がる。血液が一気に体中へ巡り、鼓動が鳴りやまない。鼓動の音がいつもの数倍の大きさで聞こえている。呼吸も荒い。渡辺と目が合い「とりあえず、そこの路肩に停めるわ」と俺は言い、車を動かした。
路肩に停めてもまだ鼓動は大きな音を立て続けている。ロックバンドのドラムのように、大きな音を一定のリズムで叩き続ける。左手に手を当て心臓を抑えようとする。そんなことは無駄だとわかっても抑えている手を離すことができない。
「危なかった。ありがとう、声を掛けてくれて」
「いや、悪い。まさか秘密にしてるつもりだなんて思わなかったから」
やはり、聞き間違いではなかった。なぜ渡辺は俺の願いを知ってるんだ。恥ずかしい。俺はどうして何も覚えていないんだ。落ち着きかけていた鼓動がまた動き出す。
「なぁ、坂本」
「ん?」と、俺は渡辺の方を見る。
「人間になってよかったか?」
5 真実
山間の路肩に停めた車の中の時間が止まっている。ブォンと音を立て数台の車が通り過ぎていく。車が近づく度に、助手席に座る渡辺の姿は、車のライトが当たり徐々に見えていき、通り過ぎると一気に見えなくなるということを繰り返している。
ようやく渡辺の言っていた言葉を思い出した。
「さっき、何て…?」
「いや、人間になって楽しかったのかなー、って」
渡辺は少し照れくさそうに言う。
「いや、違う。人間に……なった?」
「え?」
「おい渡辺、何の話をしているんだ?」
「……なるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「……話が嚙み合わない気はしていたが、そういうことか」
渡辺は小さく何度も頷き軽い溜息を吐き、俺の方を見る。
「いいか。お前は牛だ」
牛だ、のタイミングで渡辺は蹄を俺に向ける。
「いや、それはお前だろ?」
俺は牛になった渡辺を前に、ついに言ってはいけない言葉を言ってしまった。牛になったことで精神が壊れてしまい、俺を仲間だと勘違いしてしまっているのかもしれない。
「そうだ。でも、お前もだ。いや、正確には『だった』だが」
だった、に力を込めて言う渡辺はいつになく真剣な顔をしている。
「いやいや、冗談は止めよう。そんな怖い顔するなよ。そりゃ昔のことを忘れたのは悪かったと思うけど、そんな冗談じゃ笑えないぞ?」
「冗談じゃない」
一切、表情を変えない渡辺にいつもと違う雰囲気を感じる。
「俺は人間だよ。見てわかるだろ。こんな牛はいないよ。お前との記憶も思い出したし、牛としてのじゃない、人間としてのな」
「いや、お前は牛だ。間違いなく」
「なんで言い切れるんだよ」
「見たからだ。俺が、この眼で」
「見た?」
「あぁ。一緒にネオワイズ彗星を見に行ったとき、お前は帰る直前に内緒で願いごとをした。そうだろ? そして、帰ろうとしたとき、お前の体が光ったんだ」
「光った?」
「光った」
真剣に「光った」という渡辺の顔を見ると「冗談だろ」と笑いそうになったが、渡辺から滲み出ている真剣さに、その感情は消え去った。
「俺は確かに見たんだ。お前の体は光って、徐々に牛の体から人間の体に変わっていった。今のその姿に、だ」
自分の喉が音を立てたのがわかった。
「何が起きたのかすぐにはわからなかった。夢でも見ているのかと」
渡辺の言葉に熱がこもる。
「俺たちは、小さい頃から人間になりたいと願っていたから、幻覚でも見たのかと思ったよ」
「人間に…」
渡辺の言った言葉をオウムのように繰り返すことしかできない俺を、渡辺はまっすぐとした目で見る。
「光が治まっても、お前は人間の姿のままだった。そして何ごともなかったように丘を降りていった。まぁ今思えば、お前はそのときから記憶があいまいになっていたのかもしれない」
思い出せない。俺の思い出した記憶は人間の姿の俺と渡辺だ。牛じゃない。
「だから断言できる。お前は牛だ。間違いなくな。そもそも俺の言葉が分かるんだろ? 人間に牛の言葉がわかるか? 俺と会話ができている時点でお前は牛確定なんだ」
「お前だって、俺の言葉が分かるじゃないか? 同じ人間だからじゃないのか?」
「そりゃそうだ。俺たちは人間の言葉がわからないと生活できないからな。でも人間は違う。俺たちの声は届かないんだ、普通はな。元牛のお前くらいにしか」
元牛という言葉に俺は視線を落とし両手の掌を見る。どう見ても人間の手だ。
「気づいてないかもしれないが、お前ずっと『人間』って呼んでるぞ。普通な、人間は自分たちのことを人間なんて呼ばないぞ?」
「そう言う人間だっているだろ?」
「ほら、また『人間』って言った」
奥歯を強く噛んでいるのがわかる。
「まだ牛の気持ちが抜け切れていないんだよ。お前は」
牛の気持ち。そんなものはないよ、渡辺。違う違う、俺は坂本だ。社員五百人の大きいとも小さいとも言えないIT企業に勤めるしがないサラリーマンの坂本だ。牛じゃない。違う。おかしなことを言っているのは、目の前にいるこの渡辺だ。俺じゃない。
「お前が人間から牛になったんじゃないのか? そもそも牛に名前があるなんておかしいだろ? 渡辺なんて名前は人間のそれじゃないか?」
俺はボクシングのチャンピオンにでもなった気分でカウンターパンチを繰り出す。
「いや、俺は牛だ。見てわかるだろ。俺の記憶ははっきりしている。お前は俺との思い出を語れるか?
俺はお前との思い出をあと百時間は語れるぞ? 聞かせようか? 生まれた牧場の話がいいか? 観光客に追いかけられた話にするか? それとも、お前が餌を盗み出して管理人に怒られた話がいいか? なんでもあるぞ? それに、牛にだって名前はある。名号ってやつだ」
クロスカウンターを食らった気分だ。俺の渾身のカウンターパンチを交わし、怒涛のラッシュを浴びせられている。しばらく立ち上がれる気がしない。俺がセコンドだったらタオルを投げている頃だろう。
「お前に記憶がないのは明白だ。まず自分を疑うんだ。自分がいつでも普通だと思うな」
ふと牛に説教をされている自分を客観的に感じ、じわりとした笑いが込み上げてくる。左目の瞼と頬、口角が同時にピクッと動いたのがわかった。
「いいか、坂本。もう一度聞く」
また息を飲む音が聞こえた。
「人間になってよかったか?」
今度はしっかりと聞こえた。一文字一文字の音を鼓膜が逃すことなく捉えている。人間になってよかったのか。人間の生活はよかったのか。俺のこの十年の暮らしはよかったといえるのだろうか。
毎日毎日仕事に追われ、自分の希望を言うこともなくなってしまった。上から降りてくる作業をただただこなしていくだけ。意思はいつしかいらなくなり、必要なのは体力と物ごとを考えない力だけだ。思ったことを口にすることもできない。何気ない一言が、周りの人間関係を容赦なく壊していく様子を何度も見てきた。
他の人間の行動を気にしながら暮らしていた毎日は本当に楽しかったのだろうか。
俺は何が楽しくて生きているのだろうか。
何のための、誰のための人生なのだろうか。
満点の星の中で、ひと際輝いていたネオワイズ彗星が浮かび上がる。
俺は何を願って人間になったのだろうか。牛として生まれて感じていた閉塞感を打破するためじゃなかったのか。人間になって自由に暮らしていく生活に憧れていたのではなかったか。なぜ、人間になれたのに、その生活ができていないんだ。どうして牛のときから変わっていない。俺は牛から人間に生まれ変わったんじゃないのか?
牛の頃に見た景色が少しずつ頭の中に湧き上がってくる。
俺は変わることができなかった。俺が俺である以上、それはどこに行こうとも、牛が人間になろうとも変わらないのかもしれない。俺自身が変わるしかないのだ。
頭の中のもやもやとした不満が細胞分裂を繰り返すように増え続けていく。
「…かもと、坂本!」
「あ、すまん」
「いや、わかる。自分の置かれている状況を理解できなかったんだろう。急に自分が人間じゃないって言われると混乱くらいするさ」
本当に渡辺は人間くさいことを言う。昔からそうだった。
「とりあえず、行こう。連れていってほしい場所があるんだ」
「どこに?」と、俺は口に出さなかったが、渡辺には伝わったらしい。
「着いてからのお楽しみだ」
右の口角だけをニッと上げ、憎らしい笑顔になる。渡辺のこの笑顔を見ていると、昔の高揚感が思い出される。そうだった。渡辺といるといつもこの高揚感を味わえていたんだ。
人間になった俺は、その高揚感を一度も味わうことがなかった。気持ちが弾むことなんて、一度も。渡辺の思い出話に出てくる俺が今の俺と違うように感じたのは、渡辺がいたからだ。すべて渡辺のおかげだったのだ。
俺は今更ながらそのことに気が付いた。俺が楽しくないのは、環境のせいなのだと勝手に決めつけていた。俺がつまらない人間、いや牛なだけだった。
路肩に停めていた車を数十分越しに動かす。右にウインカーを出し、後ろから車が来ないことを確認し、俺はハンドルを右に切った。
車内は、また静寂に包まれた。と、いうより渡辺が気を使ってくれていたのだとやっと気が付いた。
「ここだ。着いたぞ、坂本」
シフトレバーをパーキングに入れ、フットブレーキを踏む。いつもより踏み込む力は心なしか強い気がする。シートベルトを外し、ドアを開け外に出ると、足元には好き勝手に伸びた雑草が我が物顔で這い、冷たくも気持ちのいい風が頬をさらりと撫でた。街灯もなく、今夜は新月で辺りは真っ暗だ。ドアを閉めた音が響き渡り、寂しさが増す。
俺はトランクに入れておいた懐中電灯を取り出し、明かりを点けた。
「どこなんだ? ここは」
渡辺は暗闇の方をじっと見つめている。
「俺たちの生まれた牧場だ」
6 選択
暗闇の中に、文字の読めなくなった看板が牧場主の気持ちを表すように斜めに倒れている。辛うじて「牧場」という文字が見えるだけで、その前の文字は見えない。
この牧場に込められていた想いは、この文字と一緒に失われてしまったかのように思える。柵はボロボロで、草は自由を手に入れている。本当に、ここに牧場があったのかと疑ってしまう有様だ。
記憶の曖昧な俺でさえ、この光景を見て胸が締め付けられている。渡辺の気持ちは俺なんかが理解できるものではないだろう。牧場に到着して、もう随分と口を閉ざしている。
「俺たちは、この牧場で生まれ育ったんだ」
渡辺はやっと振り絞ったような声で話す。その表情は穏やかだった。
「管理人のじいちゃんが数年前から寝たきりになっちゃって、ついに去年、牧場は離農したんだ」
楽しく漫才を見ていた管理人の姿を思い出す。
「いや、違うぞ。お前が想像してるのは、あのお笑い好きの管理人だろ? あれは息子。というかあの息子が牧場を潰しちゃったんだけど」
ハハッと悲しそうに笑う。
「少しは思い出したか?」
「少し…」
俺は視線を落とす。本当に少し、本当に少しだけ記憶はある。それは宇宙空間に漂う埃ほどではあるが、確かに存在する。
「だから、お前が生まれ育った牧場はもう無いんだ。ごめんな」
ボロボロの柵を見ていると胸が締め付けられる。俺の意思ではなく、体が、細胞が悲しんでいるのかもしれない。
「渡辺が謝ることじゃないよ。俺がここを出ていくって決めたんだ」
「俺のせいだ」と、口に出すことができず、心の中で小さく呟いた。
「あのネオワイズ彗星を観た日が、お前がここにいた最後の日だった。お前は宿舎に戻ったつもりかもしれないが、あれから帰って来なかったんだ」
「そうだったのか。彗星の後の記憶は何も思い出せない。気が付いたら俺は今の会社で働いていた」
「そうか」
「何にも疑問を持たなかった。どうして今の会社を選んだのかも、どうして働いているのかも、どうして人間になったのかも」
「仕方ないよ」
渡辺が同情するように言う。
「いや、考える暇はあったはずなんだ。でも俺は時間や環境のせいにして、考えようとしなかった。逃げてたんだ、今の生活から、全てを言い訳にして、せっかく人間になったのに」
自然と声に力が入る。そうだ、何も考えていなかった。口に出してみて、渡辺に気持ちをぶつけてみて、初めて気が付いた。俺は自分のことなんて何もわかっていなかった。
「いや、そんなもんだろう。俺だって、どうして自分は牛なんだ、ってなかなか考えない。自分を理解することが一番難しいんだよ」
静かな口調で渡辺は言う。
「じゃないと、自己理解の哲学者が有名になったりしないよ」
上手いこと言いましたよ、という顔を渡辺がする。懐かしい感じだ。俺がまだ牛の頃の空気。これを懐かしいと思えるということは記憶が少しずつだが戻ってきているのかもしれない。
「博識だな。牛のくせに」ハハッと俺は笑う。
「だからお前も牛だってのに」
怒った顔も懐かしい。
俺はどうして人間になったのだろうか。自分の生まれた環境に満足していなかったのだろうか。周りが羨ましく見えていたのだろうか。自分にはないものを持っている周りに憧れ、自分はダメだと殻に籠り、ただ周りを羨ましがっていたのだろうか。
何も変わっていないんだな、俺は。牛の頃から。
「いいこと教えてやろうか?」
渡辺は空を見上げながら言う。
「変わるのに過去のことは関係ない。今からでも変われるんだ。と、まぁこれは哲学者の受け売りだけどな」
「ホントに博識だな。でも、それは…」
「いや、ただの受け売りじゃない。今からでも本当に変われるんだ」
さっきまで寂しそうにしていた渡辺の表情が、昔の高揚感を運んできてくれたときの表情に変わる。
「言いたいことはわかってる。要は、気持ちの問題だろ?」
わかっている。そういう哲学者もいた。そういう本も読んだ。でも駄目だったんだ。渡辺、俺はお前が思っているよりもダメな牛なんだ。
「違う違う、俺が変われるって言ってるのは、これだ」
そう言い、渡辺は空を指差す。
空を見上げるが、輝く星空以外に見えるものは無い。俺は困惑した表情で渡辺を見ると、渡辺はいたずらな顔でと笑う。
「知らなかったか? 今日も彗星は見えるんだ」
「ネオワイズ彗星が? でも、あれは数千年周期だって……」
「いや、また違う彗星だ。でも、この彗星もまた数千年周期らしい」
「…偶然だな、いや運命か?」
「いや、実は偶然じゃない、運命でもない。彗星が見えるから坂本を探したんだ」
その言葉に俺は驚き「よく会えたな」と渡辺に言うと「牛の情報網なめるなよ」と渡辺はにやりと笑った。
また彗星が。あのときの光景が蘇る。宿舎から抜け出して、彗星を観ることに必死で、ただ前だけを向いていたあのときの光景が。何も難しいことを考えずに、自分の気持ちに素直だったんだ。今では、何をするにも理由をつけてしまっている。
「行くか? あの丘に」
渡辺の真っすぐな目だ。
それには「うん」以外の回答が思いつかなかった。
ボロボロの柵を飛び越える。牧場内は、あのときよりも雑草が増えて、灯りも無くなっているのに、輝いて見える。
雑草を掻き分け、小高い丘に登る。当時の記憶が蘇る。自分の手を見つめる。あのときとは指の数も色も形も違うが、気持ちは何一つ変わっていない。
俺は、この十年、一体何をしてきたのだろう。
丘は記憶のまま変わっていなかった。
宿舎から抜け出し、渡辺と二人でこの場所に来た。
空を見上げる。
煌めく星空に、長い尻尾を携えた星が見えた。
「あれか」
「あれだな」
それ以上の会話は必要なかった。
夜空に浮かぶ彗星は、あの日の彗星と同じ形をしていた。この彗星もまた、数千年をかけ、この地球を再び訪れたのだ。宇宙空間での孤独な旅は寂しくなかったのだろうか。その間に、彗星は何を考え、何を想い、何を見てきたのだろうか。数千年間で変わったことはあったのだろうか。
少なくとも、俺はこの十年間では何も変わることができなかった。容姿は変わっても、心は何一つ変わらなかった。自分のことを顧みることもなく、周りの環境のせいにして言い訳ばかりだった。たぶん、またこの彗星が数千年後に帰ってきても、俺は言い訳ばかりしているだろう。俺が自ら変わろうとしなければ、何も変わらない。時間や環境では解決できない問題なのだ。
自らの意志で、過去も未来も関係ない「今この瞬間から俺は変わる」そう思うことで少しずつ変わっていくのだ。今からでも遅くない。牛から人間に変わっても変われなかったが、それでも遅くない。たった今から変わるのだ。
夜空に浮かぶ彗星が輝きを放つ。
長く伸びた尾が広がっていくように見えた。
俺は、彗星を見つめ、静かに願いごとを唱えることにした。
<終>