
エッセイ|視界が狭くなってもいい。丸くなった歌声が、今は聴こえるから。
王道でわかりやすく、鬱々とした展開もない。
重たくなりすぎず、相応のハッピーエンドを迎える。
そんな作品を消費したいわけではない。
ただ、そうでないと──耐えられない私がいる。
純文学やハードでアングラな作品を好む方からすれば、なんて「浅い」人間だと笑われるかもしれない。
おそらく、若い頃の私も同じことを考えただろう。
けれど、子どもを産んで変わった。
変わってしまった、といった方が感覚的に正しい。
守るべき存在ができた途端、あらゆる危険と精神的負荷に対して、どうしようもなく神経が尖るようになった。
流れてくるニュースで子どもが酷い目に遭えば、息子が同じ目に遭ったらと考え始める。そのシミュレーションで気が滅入るだけでなく、実際に気分まで悪くなる。
ニュースなのだから、息子とは関係ない。
作品なのだから、あれはフィクションだ。
そんなふうに言い聞かせた。
しかし、何度やっても、全身全霊で拒否し続けるのだ。
そうして心が動けなくなれば、家の灯りが消えていく。
大切な笑顔も声も、暗闇に飲まれていく。
◇
学生の頃、好きなバンドの音楽が、ある時期を境に急激に変わったことがあった。
そのバンドのボーカルは純文学に深い造詣があり、彼が書く曲と歌詞は、当時の私に強く刺さった。ヘッドホンをして毎日のように聴いていたのだが、それが違和感を覚えるほどに激変し、聴けなくなったのである。
消え失せた、歌詞のエッジィさ。
激情が鳴りをひそめ、丸みを帯びた声。
こうした変化は、ボーカルが結婚し、子どもが生まれた時期と見事に重なっていた。
家庭を持って丸くなってしまった。
〝not for me〟な音楽になってしまった。
唾棄すべき凡庸なセンスに落ちぶれてしまった──。
当時の私は裏切られたとすら感じ、以来、このバンドの音楽を聴かなくなった。
だが、今ならこう考えられる。
そうなってしまったのではないか、と。
あの頃は聴き流していた曲を、もう一度聴いてみた。
すると、ただ丸くなったと思っていた歌声の中に、守るべきものを得た人の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がった気がした。声の柔さも、噛み砕かれたシンプルな歌詞も、彼が歩む道の、変わりゆく景色の一部のように思えた。そんなふうに受け取り、感じるようになったのは、私も同じように〝顔〟がひとつ増えたからだろう。
父の顔。母の顔。追加インストールされた役割。
それは、世界を見つめるレンズを絞る要因になる。
◇
私は今、これまで「浅い」と決めつけてきたものを、丹念に鑑賞し直している。それは、あたたかく柔らかな手触りや、甘やかな幸福や心地よさの向こうにある、作り手が積み重ねた時間と変化を味わうためだ。
家族ができたから。病気になったから。誰かを失ったから。故郷を離れたから。何かを愛したから。
人が変化していく理由は、それこそ星の数ほどある。
たとえ視界が狭くなったとしても、少しでも物事を深く見られるようになるのなら、それは──受け入れてもよい変化なのかもしれない。
そう、思うことにした。