
推し活には、温度がある。
好きは、比べられるものなんだろうか
ライブに、全部行く人がいる。
遠征も当たり前のようにこなして、
グッズも迷わず揃える。
気づけば、
推しの誕生日には予定を空けている。
その隣で、
家で動画を見るだけの人もいる。
サブスクを流しながら、
晩ご飯を作る人。
ライブには行かないけれど、
新しい曲が出るたびに少し嬉しくなる人。
同じ「好き」のはずなのに、
見えている景色は、少しずつ違う。
そのことを考えたのは、
いつもの夜だった。
タイムラインには、
ライブ終わりの写真が並んでいた。
「最高だった。」
「泣いた。」
「今日も幸せだった。」
そんな言葉が流れていく。
私はその頃、
家で洗濯物を畳みながら、
サブスクを流していた。
ふと、
「私は、本当にファンなんだろうか。」
そんな言葉が頭をよぎった。
ライブにはあまり行かない。
グッズも、そんなに増えない。
それでも毎日、
推しの声を聞いている。
好きなはずなのに。
でも、
あの人たちほどの熱は、
自分にはない気がした。
もっと好きになるべきなんじゃないか。
もっと時間を使うべきなんじゃないか。
もっと、お金をかけるべきなんじゃないか。
そんな声が、
どこからともなく聞こえてくる。
でも。
考えれば考えるほど、
何かが引っかかった。
好きって、
そんなふうに比べるものなんだろうか。
ライブの回数。
グッズの数。
SNSにいる時間。
そういうもので、
「好き」は測れるんだろうか。
好きには、温度がある
しばらく考えて、
ふと。
お風呂みたいだと思った。
熱いお湯が好きな人もいる。
ぬるめのお湯で、
ゆっくり温まりたい人もいる。
肩までしっかり浸かる人もいれば、
足だけ入れて、
「気持ちいいな」と帰る人もいる。
どちらが正しい、
という話じゃない。
ただ、
浸かり方が違う。
もしかすると。
推し活も、
同じなのかもしれない。
足湯くらいの日がある。
流れてきた動画を見て、
「この人、いいな。」
そう思って、
また自分の日常へ戻っていく。
半身浴くらいの日がある。
SNSを開いて、
今日の更新を眺める。
全部追えなくても、
それだけで少し安心する。
お風呂くらいの日がある。
気づけば、
生活のリズムの中に推しがいる。
新しい供給を楽しみにして、
円盤を買って、
次のライブを考える。
もう、
好きでいることが習慣になっている。
銭湯くらいの日がある。
全部を追いたい。
その瞬間に、そこにいたい。
時間も、
お金も、
惜しくない。
「生きてる。」
そんな感覚になる日がある。
そして。
マグマみたいな日もある。
推しは、
趣味ではなく、
人生の一部になっている。
何かを選ぶときも、
何かを頑張るときも、
そこには、
いつも推しがいる。
外から見ると不思議でも、
本人にとっては、
それが自然な生き方なんだ。
あなたにちょうどいい温度
熱い方が、偉いわけじゃない。
ぬるい方が、浅いわけでもない。
熱いお湯が好きな人もいれば、
ぬるめが心地いい人もいる。
それだけのことなんだと思う。
そして、
同じ人の中でも、
ずっと同じ温度とは限らない。
夢中で追いかけていた頃もあれば、
少し距離を置いていた頃もある。
また、
ふと戻ってくる日もある。
今日ちょうどいい温度は、
来年の自分には、
少し熱いかもしれない。
その逆だってある。
だから、
誰かの温度を見て、
自分の「好き」を測らなくてもいいのかもしれない。
私はこれを、
「推し活の温度」と呼ぶことにした。
好きの大きさは、誰にも測れない。
でも、温度なら、
少しだけ想像できる。
あなたの好きは、
今、
何度くらいですか。