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【原作】ブラウンシュガー

    〇その女狂暴につき。

     その死体は奇妙なものだった。
     用水路の側溝に打ち捨てられたいたそれは、著しく損傷していた。左の足首から先はまるで何か大きな力で無理矢理引っ張ったようにもぎ取られており、右足に至っては膝から下が無い。両腕の指は全て欠損し、まるでミトンの手袋のようだ。衣服の一部ははぎ取られ、覗いた腹の一部が削り取られている。大きなペンチで思い切り掴んだみたいだ。顔もまた例外なく、いやそれどころか破損具合が最も激しい。人体の構造を知っている者が、かろうじてそこが頭の位置だと分かるレベル。
     面倒な事になりそうだな。
     捜査一課所属の藤波光男はそう思った。
    「お前さんは何者なんだ?」藤波光男がそうつぶやく。職業上死体は見慣れているはずだが、吐き気がこみ上げてくる。こんなホトケは初めてだ。「〝リザード〟のヤツだな」
     振り向くと女がいた。
     デカイ女だ。細身の体に見えるのだが、身長は180を優に超えている。胸板や腕回り、ビジネススーツの上からも引き締められた筋肉が巻き付いているのが分かる。俺とは大違いだ。藤波は自身の膨らんだ腹を押さえてそう思った。歴戦の勇士か。頬に貼られた絆創膏、後ろ手に乱雑に結んだくすんだ亜麻色の髪、人を見下したかのようなアルカイックスマイル……。
    「あんたは確か……」藤波は女の名前を思い出す。「麻薬課のトキサトさんか」そしてすぐに、「知っているのか?」仕事の顔に戻る。それにつられて、鑑識や藤波光男の部下たちも一瞬手を止め、聞き耳を立てている。
    「胸のタトゥーを見てみろ」
     藤波はペンでTシャツを捲ってみる。原色がこびりついた趣味の悪いもの。
     トキサトの言う通り。二股に分かれた細い舌を出したトカゲの刺青が左胸に彫られていた。肌の表面はやはりなにかで引っかかれたような傷に覆われていた。
    「トカゲのガキどもか」
     このクソ田舎にも、イキッた輩が集まる場というものがある。大人は分かってくれないとか、誰も自分を理解してくれないとか、自分本位な自己顕示欲を満たすための場所を欲しがる若造ども。思春期真っただ中……。
     普通のガキなら普通に葛藤し普通に折り合いをつけて克服するものだが、そうでないヤツもいる。安易な方法で。楽な方向に逃げる者たち。
     不良、ヤンキー、チーマー……。時代によって言葉は変わるが、中身は変わらない。クズだ。そして、この日本の田舎と称されるH地方のK県でもそういった集団が生まれる。それが〝リザード〟だ。ネオヤクザの下部組織である半グレ反社グループの一つ。メンバーは決まって、身体のどこかにトカゲの刺青を彫っている。会員証みたいなものだ。
    「仲間の間でのトラブルか?」藤波はトキサトに訊いた。お前は何か知っているな?
    「かもしれん。こいつらを追いかけてきた身としてはそれは否定できない。が、このやり方は知らない。ここら辺に野生動物は? 熊とか」
    「ヤツらの制裁方法では?」
    「違うな。少なくとも今までとは違う。アイツらはとかく数が多いが、とにかく雑だ。シンプルな処理を好む。銃とかナイフとか……。こんな面倒な方法は思いもつかないし、やらないだろう」
    「バカだからな」
    「意見が一致したところで、さっきの答えは? あんた生まれも地元だろう?」
    「人を襲う物騒な野生動物なんかいないさ。少なくとも今までは」
     藤波は改めてホトケの姿を見る。
     「こいつは何をしたんだ?」それによって管轄が決まる。単なる殺人ならこっちが、そうでなければ、引き継ぐ事になるだろう。このデカ女に。
    「ヤクの取引とだけ言っておきましょう」
     口を挟んだのはハラダという刑事だ。このひょろ長いすましたヤサ男はトキサトの部下、相棒だと聞いている。
    「死後三日、と言ったところでしょうか」とハラダ。
    「やっぱり、あの時全員捕まえとけばよかったんじゃないのか?」
    「ブツの出所を探りたい、と言ったのはショウさんあなたでしょう。前にも話して了承したはずです」
    「話が見えない」藤波が口を挟む。「もしかして、三日前の大騒ぎに関係があるのか?」
     ハラダはええと答え、あごでショウを差した。「ブツの取引先に乗り込んでね」
    「一人わざと逃がして、ブツの工場かヤツらのボスの居場所を探ろうとした」ショウは肩をすくめた。頬に張られた数枚の絆創膏はやはり〝激戦〟の証か。
    「そんなに上手くいくものなのか?」
    「いかないから、こうなった。いや、途中までは上手くいってたんだ。各所の防犯カメラと連動して」
    「結局は失敗した」藤波はショウと同じように肩をすくめる。「で、話の流れからあんたらのヤマと言う事で?」
    「厄介事はこちらで引き受ける。そうした方が都合が良いだろう?」こちらを見透かしたようにショウは言う。そういいながら、彼女は絆創膏をはがす。傷口は綺麗にふさがっていた。
    「逃がしたヤツはこのホトケか」
    「このデザインのタトゥーからまず間違いないでしょう。我々が目を付けた理由は……」
    「いや、後でいいよ」今は知らない方がいいだろう。せっかく巻き込まれないよう気を使ってくれているのに。もっとも、ただ単に邪魔をされたくないかもしれない。
    「そうしてくれると助かります」
     これでよかったのか? 手柄を譲り渡す形になりかねない。しかし、藤波はすぐに思い直す。
    「さて、それはそうとどうします? 今後」
    「知るか。小細工なんかやめて、トカゲのヤツら片っ端からしょっ引けばいいんだ」
    「そんな乱暴な」
    「何を甘ちょろい事ほざいているんだ。そんな事だから、余計な犠牲者が出たんだ。気を引き締めろよ。ハラスメントを再開するぞ」
     そう言って、トキサトはハラダの股間を握りしめた。

     事実に基づく——。

     

     三日前。
     K県K市、このH地方の田舎町には隠れた名物がある。
     白金ラーメン。
     全国にも何件かFC展開している知る人ぞ知るチェーン店。
     このラーメンを知っている数少ないマニア——それも筋金入りの——は決まって白金ラーメンにこのような印象を持っている。
     自家製である麺はボロボロでぱさぱさ。箸で掴むとすぐに切れる。スープは家系だか、塩系だが不明だが非常に薄い。そしてたまに濃すぎる時もある。加えてスープの温度はぬるま湯より低い。
     要は、恐ろしくマズイ。
     こんな事で経営が成り立つのか? 客も入っていないようだし。しかもこの店は一店舗だけではない。
     マニアたちは首を傾げるが、それには理由があるのだ。彼らには、カタギには決して知られてはいけない理由が。
     普段は閑古鳥が鳴くこの店に、今日は珍しく客があふれている。
     カウンターをはじめ、店内に置かれたテーブルから20人は入るだろう。いずれも満席だ。
     中華料理特有の油の匂い。安物らしく機械油のそれに似ている。どのテーブルにもほこりや汚れが目立ち、とても衛生的とは言えない。
     しかしそれでもここには喧騒がある。
     この店のキャパぎりぎりの男たちが一心不乱に麺をすすっている。まずい飯を。
     ヤバイ、ヤバイ、マジ死ねる……。男たちは口々に嬉々としてそう喚く。弛緩した不愉快な笑顔。中にはよだれを一筋垂らしている者もいる。
     その光景を店主は満足そうに見渡している。仕事の成果だ。みんなが喜んでくれると働き甲斐があるというものだ。
     だが改めて店内を見渡すと、店主は違和感を抱いた。 
     一人だけ食べていない。店の一番端のテーブルに座った客は、ただどんぶりの一点をじっと見つめている。
     その様子を見て店主は気付いた。
    「姉さん。こいつを忘れているよ」店主は透明な小袋を片手でひらひらさせた。茶褐色の塊とその粉末。「〝トッピング〟が無ければ食えたもんじゃねえ」店主は食事中の男たちと同じ種類の笑みを浮かべた。前歯が数本欠けていた。
     女の視線はどんぶりの泡が浮かんだ泥沼のようなスープにむいたままだ。「あんたもこれが目当てで来たんだろう?」
    「まあそうだな」女は立ち上がった。デカい。店主は女のガタイのよさに少し驚いた。
    「ブラウンシュガーだな。使用済み医療用ナノマシンを特殊加工。そいつを体内に摂取すると、なぜかコカインみたいなヤクを打った時のように多幸感、陶酔感、万能感をもたらす」
    「難しい言葉を知っているんだな。いいから、こいつを振りかけろよ。一緒に気持ち良くなろうじゃないか。お安くしておくぜ。本当は一見さんにはこんな事はしないのだがな。姉ちゃんはいい女だから特別さ」
    「ハハ、そしてラリッた私をみんなで犯す。下心丸見えだな」「気持ちよくなりに来たんだろう? どこからここを知ったか知らないが」
     ウェーイ。男たちが女を見て拳を上げる。どうやら〝トッピング〟の効果が出てきたようだ。
     白金ラーメンがマズイのは理由がある。一般客を寄り付かせないためだ。ここは違法薬物、ブラウンシュガーの取引場。食事をしながら、このヤクの吟味をしているのだ。
    「お前ら何か勘違いしていないか。リザードのガキども」
     元々大きい女の身体が大きく見えた。彼女の余裕と薬物・ブラウンシュガーの影響だろうか。
    「お前たちが私を犯すのでない。私がお前らを犯すんだ。さあ、全員立て。ズボンを下ろせ。お前らのハリガネ、ビッグマグナムに変えてやるよ」女は舌なめずりをした。どこか淫靡な紅い口紅をしている。あっけにとられている男たちを尻目に、女は高々と片手を上げた。その手に平には見覚えのある輝きがあった。警察手帳だ。
    「警察だ。お前らに訊きたい事がある。もちろん逮捕するが、おとなしくこちらに従えば、娑婆での土産をくれてやる」女はもう一度舌を出し、蛇のように動かした。
     反社組織、リザード。身体の一部にトカゲの刺青を入れたこの輩たちは、近年K県K市を舞台に暗躍している。銃器や薬物の違法取引をはじめ、風俗店の経営などその活動は多岐に渡る。彼らのバック、いわゆるケツモチには指定暴力団カブラギグミが控えていると噂されている。暴対法によって表立って身動きができない〝大手〟に代わってシノギを行っているのだ。そしてこの店、白金ラーメンは彼らのたまり場なのだ。
    「まあ、落ち着け」女はいきり立つリザードのメンバーを挑発的になだめる。
    「こちらに協力すれば、すこしは罪が軽くなる。執行猶予がつくかもしれないぞ。人生をやり直せる。だがな。協力してくれなければちょっとお仕置きが必要になる。キツイやつだ。抵抗があるかもしれないが、ちょっと思い出して欲しい。お前らのようなクズにも、心配してくれたり愛してくれるありがたい物好きがいるだろう? そいつの顔を思い浮かべてみろ。これ以上、その人たちを悲しませるような事はやめるんだ。私にそんな事をさせないでくれ」
    「何が望みだ?」店主が言う。
    「なあに、ちょっとその小袋の出所を教えてくれればいい。お前たちは売人だろう? この集まりもブツの品評会だな。隠さなくてもいい。だから、少量の摂取にとどめている。傍から見ればラーメンのお食事会だ。考えたな。だが、脇が甘い。部外者である私の入店を許した。ヤクが回ってきた証拠だ。尿検査だと一発だ。だが、そいつの工場、できれば〝アズミ〟が何処にいるか教えてくれれば、そいつの検査は〝任意〟としてやる」
    「俺たちに仲間を売れ、というのか?」
    「そうだ。どうせ大した仲じゃないだろう。利害関係だ。〝アズミ〟もお前たちの事なんか消耗品の一つとしか思ってないだろう。お前たちの代わりはいくらでもいる」
    「サツになんかに魂を売らないぞ」店内の客、リザードのメンバーの一人が立ち上がって叫んだ。
    「無理するなよ、ケンジ。お前はいつも誰かのこしぎんちゃくだろう。これからはボスの〝アズミ〟よりも私に尻尾を振った方がいいぞ。お前らもそうだ」フー、ワンワンと女は吠えた。
     なめんじゃねえぞ。女の嘲笑が男たちに火をつけた。
    「かかったぞ」
    『では手はず通りに』
    「はいよ」
     ケンジと同席していた男が拳を振り上げる。ニキビが噴出した茶髪の男だ。筋骨隆々ではあるが、顔に知性は感じられない。
    「好みの面じゃないねぇ」
     顔に飛びこんでくる拳をかわし、箸を男の鼻に突っ込んだ。そして鼻からはみ出した箸の頭を蹴り上げる。革を破った鈍い音とともに鼻孔を突き破り露出する二本の棒。うずくまる男の後頭部目掛けてかかとを落とす。
    「あれ? 動かないぞ。殺したかな? まあいいか」
    残りのリザードのメンバーは、次々と懐から獲物を取り出した。ナイフ、メリケンサック……、そして銃。
     オートマチックの銃が女に向けられる。女は素早くスライドに手をやると、弾倉が落ち。そのまま銃は分解されてしまった。女の動作が素早くどのような手順でそれをしたのか。全く見えなかった。その困惑が周囲をの時間を一瞬止めた。わずかな時間だが、女にはそれで十分だった。銃を持ち出した男に彼女の拳が飛んでくる。折り曲げた人差し指の第二関節が男の眼球を刺した。その直後みぞおちと膝の関節に衝撃を受ける。拳と足技のコンビネーション。息が詰まり、足も折れた。これではもう戦えまい。
     女は辺りを一瞥し、それだけで戦意を喪失した者とそうでもない者を判別した。これで優先順位が決まる。
     女が床を踏む。
     カウンターに飛び乗り、厨房の奥でスマホを耳に当てた店主を見つけると、無造作に置かれた業務用の大きなお玉を取り上げ、そのまま店主を滅多打ち。彼のスマホは熱々の寸胴、スープの中に放り込んだ。
     銃声。そして背中に金属がはじかれる音。
     もう片方の手、手首だけで持ち上げた中華鍋を立て代わりにしたのだ
     女は中華鍋の盾を構え、お玉の剣を振り回して敵陣に突入する。
     弾丸は鍋で防がれ、お玉で銃を叩き落とされる。返す刀で脳天に打ち付けられたそれは、柄が曲がり使い物にならなくなった。未練なくお玉を投げ捨て、フリスビーのように中華鍋をクズどもの群れに放り投げた。
    「仕上げといきますか」
     一方的。その言葉に拍車がかかる。殴っては蹴り飛ばし、折っては宙に千切り飛ばす。
     リザードのメンバーにはケンカ慣れした百戦錬磨の者もいる。女よりも体格に優れた者がほとんどだ。裏社会で羽根を伸ばすために必要な力。グループを社会に認識させるための力。
     だがその力は、目の前の予想外の新たなる力によって叩き潰された。
    「よし。もういいだろう」
    『では突入させます』
     舞い上がった埃と腹の底から絞り出した唸り声が充満する店内に、警察官が次々と入店してきた。
     警官たちは倒れたリザードのメンバーを起こさないまま、権利を読み上げる。ミランダ警告。お前には黙秘権がある。お前には弁護士の立ち合いを求める権利がある。弁護士を雇う金がなければ公選弁護人をつける権利がある……。
    「お疲れ様です。さすがは元自衛隊のレンジャー部隊」両手を叩きながら女に話しかける。
    「ハラダ。からかっているのか?」
    「まさか。しかしまあちょっとやりすぎかもしれません」
     救急に連絡する警察官の声が聞こえた。
    「情報どおり武装していたからな」
    「確かにこちら側にもケガ人が出たかもしれません」ハラダと呼ばれた男はそっと絆創膏を差し出した。「その程度で済みました」女の頬には切り傷が一筋走っていた。いわば勲章の一つだ。
    「全員ここにいるのか?」
    「いえ。一人逃げました。打合せどおり、上手くいきましたよ。ショウさん」
    「上手くいくかね」ショウは顔の傷口に絆創膏を貼って腰に手をやる。
    「アズミなんて小者はどうでもいいが、届くか? 黒幕に?」
    「分かりませんよ」
    「おい」
    「しかし、この近くにいる、というネタは掴んでいます」
    「ヤクの売人よりも、製造元を潰さないとダメか」
    「その通り」
    「逃げたのはやっぱりケンジ?」
    「ええ。今、別の班が防犯カメラに張り付いています。これはヤクの工場を摘発するチャンスです。よく我慢してくれました」
     クズどもは全員ぶちのめしたかったのだがな。それでもショウは不満そうに口を尖らせた。

     
     息も絶え絶えに、足を引きずりながら薄暗い闇の中に逃げ込んだ。
     身体全体が悲鳴を上げている。もうどれぐらい走っただろうか。胸に激し痛み。肺が破れそうだ。いや、本当に破れているのかもしれない。その考えが脳裏を走ると、足取りが一層重くなる。
     もう歩けない。しかし、逃げなければならない。
     恐怖———。今、ケンジの意思を支えているのはそれだけである。捕まったらどうなる事になるだろうか。きっと、みんなを怒らせる事になるだろう。
     特にアズミ君の機嫌は。
     ケンジはそれ以上考えるのを止めた。他に頼りになるツテがないからだ。「おーい、アズミ君」ケンジは最後の力を振り絞って、その場で飛び跳ねた。噂によれば確かこの辺だ。街の外れの今では使っていない排水路が並ぶ。もちろん堅く蓋は閉まっている。が、その中の一つだけは……。
    『誰だ?』扉の上部のランプが赤く灯った。
    『なぜ、俺の名を知っている?』くぐもった声が聞こえてくる。どこかにスピーカーがあるのだろう。
    「俺はケンジだ。あんたの下で働いているんだ。あんたは知らないかもしれないけど。〝ブラウンシュガー〟を捌かせてもらっている」
    『声が大きい』
    「ごめん。だけど非常時だから勘弁してほしい」
    『非常時?』
    「サツの手入れだ。必死に逃げてきた。仲間もほとんどパクられた」
    『何時の話だ?』
    「一時間ほど前、白金ラーメンだ」
    「ラーメンパウダーか」
    「そう」ケンジは両手を合わせて拝みこんだ。「お願いだ。匿ってくれ。今、パクられるワケにはいかないんだ? 彼女にガキができた。俺のガキでもある。だから、金がいるし、そばにいなければならない」
    『入れ』扉が開いた。
    「ありがとう。アズミ君、ありがとう」涙と鼻水で顔を濡らしながら、ケンジは歩く。
    『非常灯にしたがって進め』
     ケンジが進んでいくと、光が開けてた。
     まるで手術室のような白い部屋。手術台のようなテーブルに、消しゴムぐらいの茶褐色の塊が銀色のトレーの上に並んでいる。その隣のトレーにはさらに一回り大きいトレーがある。何かが山盛りになっている。ケンジはそいつを知っている。使用済みの絆創膏だ。
    「新しいブラウンシュガーを作っているのかい。アズミ君」
     テーブルの端で背中を丸めながら顕微鏡をのぞいている男の話しかけた。スキンヘッドで頭頂部にトカゲの刺青が彫られている。
    「つけられなかったよな」顕微鏡をのぞきながら、アズミは言った。
    「もちろんだよ。ヤツらを巻いてきた」
    「そうか」アズミは顔を上げる。仏頂面で何を考えているか分からない。それでも、ケンジは愛想を振りまくしかない。
    「大変だったな。ケンジ、だっけ」
     ケンジはうんうんとうなずいた。
    「ほとぼりが冷めるまでここに好きなだけいるといい。だが、少しは働いてもらうぞ。働かざる者なんとやらってヤツだ」
    「ありがとう。何でもするよ。何をすればいい?」ケンジは鼻水を垂らしながら礼を述べる。
    「そうだな。俺たちの身の回り世話をしてくれないか」
     俺たち——。アズミと同じスキンヘッドをした男女がケンジの両脇から現れた。
     親衛隊か。噂ではアズミの両親だという話だ。それが事実だとすると何ともまあ過保護な話だ。二人はドアの両端に立っていたのだろう。動揺しているので気付かなかった。今日はついていない日だからな。
    「とりあえず、俺のペットに餌をやってもらおう……。案内してやれ」
     親衛隊の二人が両脇を抱える様にケンジをはさみ、部屋から出る様促す。「あいつを信頼できるかドクター」ケンジが出て行ったタイミングを見計らってアズミは言った。
    「つけられているのは間違いないでしょうね。むしろそのために見逃されたと考えるべきでしょう」どうです? ドクターと呼ばれた男——白髪の長髪を後ろに結んだ中肉中背の男——はアズミがのぞいていた顕微鏡を譲ってもらった。
    「いい出来ですね。ただもう少し時間がかかるようです」どうします?
    「サツが来る……」
    「証拠隠滅ですか」
    「そういうことだ」アズミは再び顕微鏡をのぞいた。「食べ方は汚いがな」

     
    「ここに入ればいいのかい」ケンジは親衛隊に話しかける。
     親衛隊の二人はただ無言でうなずいた。
    「アズミ君は何を飼っているんだい?」
     案内された部屋は先程とは違って薄暗い部屋だった。非常灯のような照明で、光が淡く室内の様子がいまいち把握できなかった。ひんやり、冷気がケンジの頬を舐めまわすように触れてくる。
     ガキのころ、金魚を飼っていた。ケンジはふと昔の事を思い出した。縁日の金魚すくいですくってきた和金。大はしゃきで金魚鉢を親に買ってもらって一日中眺めていた。
     だが、三日で飽きた。世話もおざなりになり、透明なガラスケースは藻やコケで緑に染まり、やがて水が腐ったような悪臭が漂うようになった。
     あの時と同じ匂いがこの部屋からもする。
     目がこの部屋の光に順応してきた。やはり、だ。目の前に水槽がある。金魚鉢とは大きさが桁違いのプールのような水槽だ。
    「アズミ君は何を飼っているの?」
    「覗いてみればいいさ」女のスキンヘッドが答える。アズミより頭一つ分大きい。
     ケンジはさらに尋ねる。
    「餌はなんだ?」
    「お前だよ」女よりもさらに筋骨隆々の男のスキンヘッドがケンジを持ち上げ、水槽に落とした。
    「何を……する…」
     片足が何かに引っ張られた。ケンジは水の中に沈む。必死にもがいていると、やがて水面に浮かぶ事ができた。少し体が軽くなった気がする。
     だが、それには理由があった。
     足をばたつかせてみる。だが、水の抵抗を感じない。
     数秒遅れてきた激痛がケンジに悟らせる。
     足が千切れた。
     片方の足がまた同じ力に引っ張られた。そしてまた水面を朱に染めながら浮かびあがる。
     今度は右腕だった。また水の中へ。何度もアップダウンを繰り返しているうちに、ケンジは痛みすら感じなくなった。
     薄れゆく意識の中でケンジはまたも子どもの頃を思い出していた。金魚と一緒にミドリガメもすくったな。聞いたところによると、あれはめっちゃ大きくなるらしい……。
     ぼんやりとだが、水中で見開いたケンジの瞳には、まだクズではなかった時代の光が灯っていた。


    〇打ち上げ花火はどこから見るか?


     ブラウンシュガー。
     この茶褐色の結晶の粉末は、氷砂糖によく似ている見かけからそう称される場合が多い。
     世間一般的にはMDMAやLSDといった合成麻薬の一種と認識されているが、正確には違う。
     ナノマシンだ。
     絆創膏の裏側に塗布されたナノ単位の微小機械群が、患部の周囲の正常な細胞等をコピーし人体に浸透させる。役目を終えた機械たちは、垢や瘡蓋といった形で体外に排出される。
     ナノマシンは人体に危険な影響を与えないよう設計されていた。空気に触れてから24時間以内に自壊するようプログラミングされている。極力、人体に影響が出ないように。万が一健康被害をもたらした場合、医療機関にはワクチンプログラムが打ち込まれたナノマシンが用意されていた。血清のように毒を中和する訳だ。そうでなければ、販売などできはしない。安全管理は徹底されているのだ。
     使用上の注意を守っていれば。
     絆創膏を口に含み、そのまま飲み込むという常識外れの行動に出た者がいた。おそらくはラリッたジャンキーの奇行なのだろうが、その際に放った言葉が拡散してしまった。
    「こいつはキクぜ」
     このたわごとには科学的根拠はない。中毒者の体内にまだ残っていた他の薬物の影響なのだろう。だが、ヤクに比べて絆創膏の方が安値だ。脳みそが壊れかけた者は安直なものに飛びつく。そして一時期、町中の薬局から絆創膏が消えた。
     中には本当に絆創膏を食べたり舐めただけで、天国に到着する者が現れた。
     プラシーボ効果というヤツだ。
     そして噂はますます広がり、裏社会の大手企業の目に止まる事になる。
     自分たちの食い扶持が減る事態があってはならない。裏社会の住人たちは必死だった。それまで自分たちの主力商品のシェアが著しく減った現状を調査、分析し、対処した。
     彼らが新たに設立した〝科学班〟は本物の違法薬物を産み出す事に成功した。
     既存の医療用ナノマシンのプログラムを変え、脳内で既存の薬物と同じ化学反応をさせるものを開発した。その際の精製によって色濃く濁ってしまったが、まともな医療用ナノマシンと区別するには都合がよい。材料の絆創膏も容易に手に入る。
     こうしてブラウンシュガーは市場を席捲するようになった。

     
    「さてこれからどうするか」ショウは捜査情報を乱雑に書きなぐったホワイトボードの前で腕を組んでいた。
     DNA判定により死体はやはりケンジだった。恐喝、窃盗といったワルのルーキーが良く受け持つケチな犯罪で何回かしょっ引かれている。全身多発外傷による出血性ショック。それが検視結果だ。
    「ヤツのカミさんはどうだ?」ショウはハラダに訊く。身内にはもう連絡しているはずだ。
    「遺体の引き取りを拒否しています。もう関係がないそうで。まあ、あの状態ではね」欠損部分が多く、顔の損傷も大きい。身内でも判別が難しい。「しかし、腹にガキがいるんじゃないのか?」
    「ケンジの子ではなく、今の彼氏が父親です」
    「浮気相手のか」
    「そのようで」
    「クズ周りにはよくある話だな」
    「そのようで」
     ハラダは反射的に、機械的に返す。

     K市警察署の麻薬課にはショウとハラダ、直属に上司の課長、三人しか所属していない。慢性的な人手不足に加えて、ブラックな警察のお仕事内容。リソースは人口密集地に集中すべき。偉大なる合理主義の前には、田舎町の事件などコスパの悪い戯言にしか映らないのだろう。黄ばんだ白い壁の狭い部屋。パイプ椅子と黒ずんだ汚れが目出つ安い机にパソコンが一台。事務仕事には不向きな調度類だ。
     厄介者にはちょうど良い環境。閑職だ。
    「何を見ている」タブレットペーパーに渋い顔を向けているハラダに言った。
    「次の手ですよ」
     ノック。
     誰もどうぞと返事をしていないのに、藤波が入ってきた。
    「課長さんは?」
    「呼び出しです。県庁支部へ。状況説明のためです」
    「大げさなんだよな」とショウ。
    「あの人の人脈と弁明や答弁の力は信頼のおけるものです」
    「まわりくどい言い回しがか?」
    「実際、あなたの首もつながっているでしょう。あれだけ派手に暴れているのに」メガネを押さえてハラダが言う。その目は冷たくモニターを見ている。
    「自分の保身も兼ねているからな。必死にもなるさ」
    「少し、話してもいいかな」まったくなんてヤツらだ。俺の存在を無視している。
    「ああ、失礼した」
    「まあいいけど。この間上がったホトケの件だ……。課長さんがご不在となると、あんたでいいのか」
     ショウは頷き、
    「おい、まさか」とショウ。嫌な予感がする。
    「俺はあんたらに任せたかったのだが、上がね。やはり殺しの可能性があるならうちの管轄だとさ。もっともホトケのあの様子じゃ、〝事故死〟の可能性も捨てがたいがな」
    「こんな田舎でも、縄張り争いか」ショウはあきれたとばかりに手を広げた。
    「こんな田舎、だからこそだよ。よそ者にデカイ顔をさせたくないのさ」「よそ者? どういう意味だ?」
    「そういきり立つなよ。あんたは転職組だろう? 前職がどこかの特殊部隊ということでエリート面していると思い込んでいるのさ」
    「別に私は誰も見下したりしていないぞ」
    「俺もそう思う。とにかく、今後は俺たち一課主導で捜査を進める。もちろん、ヤクが出てくればあんたらに報告する」
    「……。あなたがここに来たのはそれだけが目的ではないでしょう?」とハラダ。
    「俺はただの小間使いさ。ついでに情報収集をと思っている。何せ俺はこの年だからな。もう老害扱いさ。現実に若いヤツらの方が能力が高い。定年まで何とか勤め上げたいし、そのための点数稼ぎも出来る時にやっておきたい」
    「食えないな。交換だぞ」
    「もちろん、ただでとは言わないさ」
     ハラダ。とショウは言った。「何か教えてやれ」
    「まずはそちらからです」藤波が、一課が持っている情報によって差し出すものが決まる。
     藤波は頭を掻いた。しょうがないな、と言わんばかりの所作の後、
    「ヤツらの寝床が分かったかもしれない」
    「リザードのたまり場は繁華街のクラブとか飲食店だぞ」
    「雑魚ばかりだろう。幹部クラスは半年に一度くらいしか顔をださない。ラーメン屋もそうだっただろう?」
    「確かにな」
    「もしかしたら、あんたらが捜している工場とやらが見つかるかもしれない」
    「どういうことです? 我々の情報では……」
    「まずこれを見てくれ」藤波はタブレットペーパーを差し出した。「これは10年前の地図だ」ペーパーにインストールされた地図アプリをタップすると、建造物を表すスクエアをピンチアウト。
    「ただの民家にしか見えないぞ」とショウ「しかし、随分庭が広い……ここはケンジが見つかった場所とは?」
    「カンがいいな。500メートルほど北側だ。現在はほぼ更地となっている」
    「なるほど、だからこの前は家があるなんて気付かなかった」それで、とショウは藤波に話を進めるよう促した。
    「慌てるな。これは当時の新聞記事だ」
     少し小さな見出しには『無許可の動物園?』の文字が走っていた。
    「要約するとだな」藤波はスーツのポケットから老眼鏡を取り出して、さらにピンチアウト。
    「市の許可を得ず、市街区調整地域で爬虫類研究所と称した動物園を5年間営業していたそうだ。結構、デカイ建物で勝手に増設を続け、地下にも飼育施設をもうけたらしい」
    「いつの話だ?」とショウ。
    「何せ10年前の話だ。詳しい事は知らん。当時はここに配属されていなかったんでね」
    「当時の建物は行政指導による撤去命令で更地と化した、でいいですか」「実際には小屋のようなものが何棟か存在している。図面は手に入れたが精査はまだだ。その建物がが当時からあるものなのか、あいつらが勝手に建てたものなのかは調べがついていない。どこの業者が撤去したのか、誰がそれを確認したのかもまだ不明だ。土地の所有者はリザードのヤツらとは無関係の一般人だが、高齢だ。認知症を患っていて身寄りもなく市内の介護施設内で余生を過ごしている」
    「確かにいい隠れ場所になりますね。ブツを隠すのにも最適だ」
    「ケンジの死体が上がった場所からどのくらいの距離だ」
    「ガキのホトケか……。距離的にはそう遠くない」
    「何を考えているんです?」
    「ここはあいつらのアジトだ」
    「限りなく黒いですね」
    「ケンジを殺った凶器が分からん。藤波さん、動物はどうなった?」ショウが腕を組んだまま訊いた。
    「廃園の動物園のか? 主に蛇やトカゲが主だったらしいが、ほとんどは殺処分か業者に引き取られたんじゃないのか」
    「その時に逃げた動物とかは?」
    「10年前だぞ。確かに蛇とかワニなんかは人をかみ殺す可能性はあるが、寿命がある。たぶん、そんなに長く生きていられないろう.この10年間で目撃証言もない」
    「それにです」とハラダが補足する。「爬虫類は変温動物です」日照時間が短く、0度から氷点下2度くらいまで下がるこの地方の気候ではまともに動けないだろう。野生の爬虫類なら冬眠して過ごすかもしれないが、整った設備なしで、ここの冬を乗り切れるとは思えない。
    「その件はまた後で考えるか」
    「そうですよ。今、考える事ではありません」
    「そうだな。藤波さん、一課のメンバーは今どこに?」
    「ガサ入れだよ。令状も取った。殺しの容疑だからな」
    「あんたはなぜここにいる?」
    「俺も行きたかったさ。だが、俺は嫌われ者でね。特に課長とは折が合わない」
    「すぐに戻らせた方がいい」
    「できるか? 管轄外だぞ。口出しするんじゃねえ」
    「命に係わるかもしれん。一課の装備は何だ? 防弾チョッキは? ボディカメラはつけているか? 銃の扱い方は?」
    「普通のスーツだよ。俺と似たようなもの。銃なんてナンブのリボルバー、年に一回ぐらい訓練するぐらいかな」
    「急ぎましょう」ハラダはロッカーを開けて、ベストを二着取り出した。防弾ベストだ。
    「こちらからあんたらに渡す情報だ。リザードの連中が重火器を手に入れたという情報が入った。サブマシンガンや手りゅう弾といった物騒なものも含まれているそうだ。町場ならともかく、隠れ家で、しかも追い込まれているのなら使用をためらわないぞ」
    「どこからそんなものを」
    「カブラギグミ経由で入手していると思われます。彼らにとってリザードがもたらすヤク絡みの金は重要な資金源です」
    「ガキどもめ」貸せ。奪い取るようにベストを着る。「あんなやつらでも仲間だからな」
    「その調子だ。だが、まず一課の連中に連絡を取ってくれ。私が着くまで待機してろとな」
    「それは構わんが……」
     藤波はふと我に返った。あいつらが素直に言う事を聞くタマか。変人とも言えるよそ者に借りなど作りたくはないだろう。何しろ面子がある。体面の維持こそがなによりも大事。自分たちの命よりも……。歪んだエゴが警察本来の存在意義を覆い隠してしまう。これではトカゲのガキどもと大して変わらない……。だが、あいつらはそれに気づかない。気付こうともしないだろう。しかし、それでも。
     藤波は自分の上司、捜査一課の課長の不機嫌な顔を思い浮かべながら、スマホを取り出した。

     

     「おいオラ、開けろ。警察だ」
     怒号とともに捜査員たちは玄関代わりのシャッターを強く叩く。何してんだ。早くしろ。
    「こっちは札持ってんだぞ」札とは捜査令状の事である。表向きはケンジの殺人容疑だ。リザード内での粛清によるもの。しかし、死因からもそれと結びつけるのは強引である。捜査員たちも重々それは理解している。
     本丸は諸々だ。
     恐喝。窃盗。暴行。詐欺……。十代から二十代前半の男女、社会システムからあぶれた欠陥品がしでかす事は決まっている。新参者たちが着任した隣の課によると、最近は麻薬取引にまで手を出しているらしい。
     別に構わん。櫛引京子はひとりごちる。全部もらうから。摘発すればその数だけ手柄が増えるというものだ。
     そして——。捜査一課の課長は思いを馳せる。これを手土産に中央に帰る。私がこんな片田舎にいるのは納得がいかない。何かの間違いだ。それを証明して見せる。そのためには点数がいる。デカイ点数、目立つ点数。リザード壊滅がてらにカブラギグミへ切り込む事が出来れば……。
    「おじさんからか」
     皮算用から目を覚ましたのは、藤波からの電話であった。無視する。あのおじさんが何をできるというのだ。役立たずの老害め。いつも若いヤツらの文句ばかりたれている。せいぜい小間使いぐらいにしか役に立たない。よそ者の麻薬課の連中が何か掴んでいるとは思えない。あいつらいつも何しているのだ? それにだ。おじさんのためでもある。活きのいいガキどもを押さえるには、少なからず体力がいる。それにだ。緊急時なら電話でなくメッセージ機能を使うべきだ。
    「丸鋸を使っていいよ」捜査員の一人に指示を出す。
     電動鋸が火花を散らしながらシャッターに食い込んでいく。
     スマホからメッセージ。『ヤツらは武装している。注意』。金属をこすり合わせたような不快な音が年寄りの忠言をかき消した。

     

     「アズミ君。サツの連中が来たみたいだ」リザードのメンバーの一人が監視カメラを見つめながら言った。「どうする?」
    「兵隊は全員そろっているか?」
    「出来るだけ集めた。今ここにいない連中もすぐに集まるよう連絡した」「武器は持たせたのか」
    「もちろん」
    「よし、派手に遊べ」
    「分かった。でも……」
    「どうした?」
    「数が多いよ。今度は警察も本気みたい。いくら武器があっても……大丈夫かな」
    「心配するな。援軍が来る」
    「間に合うかな」
    「来ないヤツは後でヤキを入れる。それにだ」アズミは自信を持って言う。「すでに対策はしてある。ドクターを呼んで来い」
    「ここにいますよ」とドクター。「アレを頼りにするのはいかがなものかと」
    「かまわんさ。俺たちが逃げる時間を稼いでくれればな」
    「しかしですね……」
    「頼むよドクター」
    「大切なペットではなかったのですか」
    「ケダモノだよ。卵は美味いが」
    「ではカギを開けますが、動きが読めません。気を付けて」
    「そうするよ」

     

     「突入は少し待った方がいいと連絡を差し上げたはずだが」
     藤波は少し興奮気味に言った。
    「あんたは少し言葉を慎んだ方がいいと思うが」
     立場をわきまえろ。櫛引の代わりに取り巻きが言葉を返す。藤波よりも歳は問ってはいないが、若手とは言えない年齢だ。どこの世界にでもこうしたヤツはいる。藤波同様才がない事を自覚しているようだが、その分処世術にリソースを割いた神経質なガリ男。副官を気取っている。櫛引以上にそりが合わないヤツだ。
    「藤波さん。情報収集をお願いしたはずですが」
     櫛引は目も合わせずに、無線機に集中している。
    「ですから、ヤツらを甘く見ると痛い目にあうと」
     藤波は改めてリザードの危険性を説いた。
    「確かな証拠があるのか」取り巻きが言う。
     一人しかいない。いつもならこのキャリア組のこの女に取り入ろうとする輩に囲まれているはずだ。
    「すでに突入させたのか」
    「判断は妥当だ、もう一度聞くけど、証拠はあるの?」小ばかにしたような口調で返す。
    「あるよ」ショウが割り込んできた。無造作に片手で何かを放り投げた。
     それは人間だった。薄汚いタンクトップから見える肩口に爬虫類のタトゥーが彫られている。後ろ手に手錠を掛けられて失神している。
    「この男が持っていたものです」ハラダが櫛引に渡したものはサブマシンガンだった。
    「こんなヤツらがあと数人いるよ」振り返らず親指を後ろに向け、「車にすし詰めさ」
     櫛引の取り巻きが急ぎ確認。百メートルほど離れて駐車した警察車両を覗く。息を切らせながら両手を広げたゼスチャー出戻って来る。
    「どうやってヤツらを確保した?」
    「なに、ちょっとした暴力だよ」
     それなりに地位がある自分に敬意がない。あきらかに私を舐めている。我々がこいつらをそう思っている以上に。
    「さて、どうする?」とショウが訊いた。
    「捜査は続行だ。予定通りに。大体君たちは管轄外ではないのか?」
    「横やりを入れてきたのはそちらでは?」とハラダ。
    「殺しの疑いがある以上、我々が受け持つのスジだと思うが」
    「そんなに手柄が欲しいのですか? 点数稼ぎに。しかし、それは他のヤマでやってほしい。あなたは過去に自身の判断ミスで部下を失っていますね。あれは確か……」
    「そんなことはどうでもいい」とショウが口を挟んだ。
    「櫛引課長。どうする?」
    「麻薬課のあなたたちの出番は今の所ない」
    「違うな。そんな事は訊いていない。これをどうするか、だ」
     ショウはマイバックのような押収袋を開いて見せた。中には先程と同型と思われるサブマシンガンや拳銃が数丁入っている。
    「これを使っていいか?」
    「使う?」
    「本来は証拠品として保管しなければならないのだが、事態は切迫している。私は役に立つものは何でも使う主義だ」
    「あなたが捜査に加わると」
    「できるだけあんたの部下も助けてやるよ」
    「突入するのは彼女だけです。下手に援護に入ると足手まといになる可能性が大です」
    「私は許可しない」
    「関係ない。許可があろうがなかろうが勝手に中に入らせてもらう。礼儀として一応聞いたまでだ」
    「止めても無駄です。おそらくそうなります」
    「容疑者に万が一があったらどうなるんだ?」
    「その場合は、現場責任者のあなたが責任を取るでしょうね」
     まともじゃない。勝手にやってきて、責任は私が取るだと? こいつらの思考回路はどうなっているんだ?
     櫛引の困惑はさらに深まる。
     銃声。
     そしてショウが走り出した。

     
     銃弾がコンクリートの壁を抉る。
     警告も、脅し文句を吐くわけでもなく、こちらの姿を見つけるなり、ヤツらは発砲してきた。
     反射的に地に伏せたものの、突入した捜査一課の面々は混乱していた。
     何が起きている?
     殺風景の部屋の中には硝煙が漂う。警官人生の中でも経験のない〝量〟だ。射撃訓練とはけた違い。
     それもそのはず、こちらも銃を携帯しているが六連装のリボルバー一丁。しかし、リザードの連中はサブマシンガンや象でも倒せるかのような口径のデカイ銃。
     武器が違う。思考が違う。そして数が違う。こちらが四人に対して、向こうはおそらく倍以上——。
     ヤツらは人を殺す事を何とも思っていないのか。
     狩る側から狩られる側に回った事に気付き、彼らは恐怖する——。
    「撤退しな。援護するよ」背後から声が聞こえる。見上げると女が立ち尽くしている。自分にだけは弾が当たらないとでも言いたげな威風堂々とした姿だった。
     生温かい空気の流れが刑事たちの頬に当たる。香りを含んでいた。大量の綿菓子を焼いたかのような甘い匂い.鼻孔の粘膜に浸み込むように刺激すると、血液が刑事たちの下腹部に急速に流れ始めた。性的興奮に似た昂ぶりに、刑事たちは戸惑いを隠せない。そしてまた思考力が落ちる。
    「しかし、どうやって?」捜査一課の刑事たちは一斉に顔を上げる。何とか残った理性を奮い立たたせて。
    「次に銃声が止んだ時、後ろのドアに向かって走りな」
    「しかしな」
    「銃声をよく聞け。ヤツらは闇雲に乱射しているだけだ。弾数の事なんか考えていないからすぐ切れる。マガジンの扱い方も慣れていないから再装填に時間がかかる」
    「少し猶予が出来る、か」
    「だけど帰り道が分からない。慌てて逃げ込んだので、どこにいるのかよく分からない」
    「帰り道のドアの前にガキ一人ずつ置いておいた。お前たちが持ってきた証拠品を入れる段ボールの中だ。ガキを辿れば外に出られるはずだ。確保しながら逃げるのアリだろう。判断は任せる」
    「……何て目印だ」
    「しかし、あんたはどうするんだ?」
    「私はこのままボスのアズミを探す」
    「一人で?」
    「この状況であんたらはお荷物以外の何者でもない。さっさと引け。私が突っ込む。今度はあいつらをが痛い目にあう番だ」
    「どうやって?」
    「聞かない方がいいんじゃないか」ショウは不敵に笑う。「答えればあんたらも共犯者だぞ」
     銃声が止んだ。
    「さあ、行け」
     ショウが部屋を出ると、野太いうねり声が幾つか鳴って静かになった。

     
    〇お熱いのがお好き


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     時間がゆるやかに流れているようだった.
     銃はそんなに使った事はないが、それでも引き金ぐらいは引ける。
     だから、そうした。
     弾は確かに女の身体目掛けて飛んで行ったはずだ。
     しかし、女はわずかな動きでそれをかわし、こっちに迫って来る。
     慌てている様子も、急いでいる様子もない。一歩一歩、床を丁寧に踏み鳴らすかのごとく歩を進めている。埃が沸き立つ。その勢いに甘い香りが乗って来る。
     巨体を動かす女の行動に男は震えあがり、同時に見とれていた。
     撃たなければ。侵入者を始末しなければ、アズミ君から何をされるか分からない。アズミ君の命令は絶対。これがリザードの掟。その歪んだ義務感が恐怖感と劣情を押し殺し、何とか構成員の意地を見せる事に成功する。
     サブマシンガンの乾いた連続音がコンクリート張りの部屋に反響する。
     戦果を確認する前に、男の視界が衝撃と同時に暗くなった。
     ショウは男ののど仏を指で挟み持ち上げ、横の壁に叩きつけたのだ。壁は蜘蛛の巣のようなひびが出来た。
    『殺してはいないでしょうね』イヤホンからハラダの声。
    「まだだ。まだ誰も殺してはいない。……推測の域を出ないが」イヤホンは通信マイクも兼ねている。
    『勘弁してくださいよ。後々面倒くさくなる……で地図はあってますか』
    「多少、増築はしているようだが、今の所は問題ない」
     ショウの目に入れられたコンタクトレンズ上のモニターにこの元爬虫類館の地図がリアルタイムで送られてくる。
    「一課の連中はどうした?」
    『全員、無事ですよ』
    「あいつら藤波おじさんに感謝だな」
    『そうなんですけどね』
    「何か問題か?」
    『いえ、こっちで対処しますよ。他に私が出来る事は?』
    「そうだな。ヤツら別ルートでの援軍ポイントを予測してくれ」
    『わかりました。で、まだ進むおつもりですか?』
    「とりあえずアズミにはお仕置きするつもりだ」
    『そうですか。では、また何かあったら連絡してください』
    「ああ。そのつもりだ」


     ハラダはタブレットペーパーを広げて、地図アプリを起動。
    「奴らが集まりそうなのはここだろう」藤波がペーパーに指を触れる。
    「ここなら用水路経由で中に入れる。おそらく隠しルートだ。ケンジもここから出入りしたのだろう」
    「出る時は冷たくなっていましたがね……。自分もここが商品搬出口だと思います」
    「決まりだな。それじゃあ、先行して俺とまだ元気な俺の同僚で押さえておく」いいでしょう。藤波は櫛引に許可を求める。しかし、櫛引は何も答えない。何も反応しない。ただ腕を組んで施設跡を睨みつけている。気に入らないのは分かる。部外者ともいえるトキサトたちに仕切られ、責任という名のリスクまで押し付けられている。理不尽な理屈の下に行動するのは非常に腹立たしい。だが、それでも今は動かなければならない時だ。ヤツらを叩けるチャンス。薬物汚染を防ぐ機会、犯罪者とその予備軍を社会から排除する時期が来たのだ。不貞腐れている場合ではない。
    「手柄は全てそちらのものです。ウチらに協力して麻薬組織一つ潰すことが出来れば〝あなたの指示〟で行った事にしましょう。『あなたが臨機応変に私たちに指示を与え反社組織リザードを壊滅に追い込んだ』。いいストーリーでしょう? 現にあなたの直属の部下たちは誰も死んではいない。負傷した者はいてもね。その点は我々に借りがあると言える」ハラダはさらに続ける。挑発するように諭す。「リスクはうちのエースの〝生命〟になる。敵陣に飛び込んで死ぬか、後程処分されて刑事として死ぬか。先程申し上げた通り、失敗したら私たちはあなたに責任を押し付けるつもりですが、事後の処理はあなたの立ち回り次第で何とかなりますよ」
    「好きにしろ。だが、後で抗議はさせてもらう」櫛引はまた一段と不機嫌になった。
    「よし行くぞ」表面上とはいえ、許可が出た以上は動かなければならない。藤波は同僚に声を掛ける。命令するかのように。
    「ちょっと待ってください」ハラダが言った。「そのポイントには人は配置しないでください」
    「何を言っている? 援軍が来ないように押さえないと」
    「違います。可能な限り援軍が来て中に入って欲しいのです」
    「なぜだ?」
    「まとめて始末するためです」
     藤波と櫛引は絶句する。
    「正気か?」藤波は毒づく。これにはさすがに櫛引も、
    「私たちは法に基づき行動すべきです」
    「綺麗事を」ハラダは鼻で笑う。
    「あぶない橋を渡らないと手柄は立てられませんよ。それに我々の本来の役割は悪党を潰してナンボ。今こそ、できる時にそれをやるべきです。ヤツらを快く思っていない人たちは大勢います。私もそうです。あなたは違いますか?」
    「……ヤツらを潰してもしばらくたてばまた他のガキどもが後釜につくぞ」と藤波。
    「いいではないですか。私たちの仕事が途切れる事はない。生活の安定につながる。我々が主導権を握りコントロールするのです。適切な数を」
    「……お前ら、本当に刑事か?」
    「数……犯罪の量……、雇用の創出機関……」櫛引が呟くように言った。何かを思い出したようだ。「私が陣頭指揮を執る。藤波さん。あなたはここで待機」
    「課長。どうしたのです?」
    「私としてもそちらの方が都合がよいです。最前線で指揮を執っていた方が下の者からの印象もいいと思います。代わりに藤波さん、私のサポートをお願いします」
    「サポートだと?」
    「ええ。あなたはベテランだ。人生経験も豊富。色々アドバイスをしていただけるとありがたい」
     部下を引き連れ件のポイントに向かう櫛引。
    「やけにあっさり引く」非難と皮肉が入り混じった感情を声色に込めた。ハラダは意に介さず飄々とタブレットぺーバーに目を通した。
    「誰しも厄介事には首を突っ込みたがらないものです」
    「お前らの狙いは何だ? リザードの壊滅か? アズミはそれほどの大物なのか?」確かリザードはカブラギグミ傘下の反社組織だ。そしてお前たちは本当に〝麻薬課〟なのか? 今年麻薬課の人事が一新された理由、今まで地味に捜査活動をしてきたのに、行動が派手になってきた理由……。昔のマル暴、組織犯罪対策の匂いとも違う、きな臭い香り。
    「アズミなんてザコですよ。本名も分かりませんし、どうでもいい。アイツは猜疑心の強い小心者で、その地位を笠に着て威張り散らしているだけです。我々の目的はあくまでブラウンシュガー。新種のそれを設計したドクターと称される人物です」
    「ドクター? 聞いた事がないな。モグリの医者か? その筋ご用達の」
    「どちらかと言うと教授のようです。科学者系の」
    「そいつの名は?」
    「さあ、ドクターZと呼ばれる事もあるようです」
    「課長が漏らした『雇用の創出機関』とは何だ?」櫛引はその言葉の意味を理解している。危険なものだ。キャリア組である程度将来が保障されている自分にとっても。だからこそ、櫛引は〝見て見ぬ振り〟をする事に決めたのだ。出世第一の女にそうさせるパワーワード。
    「それはおいおいと。まずは目の前の、トキサト警部補のフォローに集中しましょう」
     ハラダは正論で緩やかに圧をかける。

     

     「どいつもこいつも役に立たねえな」
     パイプ椅子の上で足を組んでふんぞり返っていたアズミは、食べかけのチョココロネをモニターに叩きつけた。
    「落ち着け。イサム」スキンヘッドの女が言った。
    「うるせえ。これが落ち着いていられるか。相手はたった一人だぞ。しかも武器を持たせてやっているのに。結構高いヤツだそ」アズミは唾を飛ばしながら怒鳴りつける。
    「ママの言う通りだぞ。焦るな」男のスキンヘッドがなだめるように言う。
    「仲間はまだいる。もっと集まる」ママは居並ぶモニターを一つ一つ軽く叩いた。「だから安心しろ」
    「そうだ。ヤベエのは一人だけだ。しかもあいつ手持ちの銃を使っていない。何故だと思う?」
    「さあな」
    「使えないからさ。人権や何やらが邪魔をして簡単には撃てない。特に日本の警官は」
    「いちいち上にお伺いを立てないと、な。私たちから奪ったらしい銃を持っているみたいだが、まあ脅し程度だろう」
    「じゃあ、尚更一人で来た?」
    「囮だろう。逃げ道を塞ぐための。用水路へ抜ける非常口に人を集めるつもりなんだろうな」
    「だから、いまの内にここから逃げるんだよ」とママ。
    「そうだ、ドクターと一緒に」
    「何でアイツと?」
    「アイツはまだ金になるからさ。利用価値がある。ここを失っても、ブラウンシュガーの稼ぎがあればまたやり直せる」
    「それならもっと急がないと」ドクターが口を挟む。「それに彼女を甘く見ない方がいいですよ」白衣を叩くように埃を払う。
     モニターが次々とブラックアウト。この部屋——かつて空調管理室だった——へ向かうルート上の監視カメラを手早く銃器で破壊しているに違いない。
     ただ一つ生き残ったモニターがある。
     カメラの存在に気付いた女は笑みを浮かべてウィンクをした。他のカメラと違って排除されなかった。明らかな挑発だ。
    「舐めやがって」アズミがモニターを殴りつけようとするが、ドクターがそれを制した。
    「ここはどこのカメラです?」
    「第三飼育室だ」とママ。「昔、アナコンダとかデカイ蛇を飼っていた所」
    「味方は何人います?」
    「さあ、でも10人はいると思う」
    「一斉に襲えばなんとか……」
    「サツはこちらに警告しなければ発砲ができない。先手が打てるはず」アズミの声は少し震えていた。
    「彼らに期待したいのですが……」
     モニターにリザードの面々が映っている。部屋の中を巡回。十数人。例外なく銃器を装備している。
     小さいながらも激しい光の点滅がモニターに跡を残す。発砲時に生ずるマズルフラッシュだ。
     銃撃戦が始まった。
     先に撃ったのは女、警察側だ。事前の警告は無かったようだ。
     数で優っているのは間違いなかった。しかし、技量や経験値に明らかに差がある。
     リザードの面子はフルオートで闇雲に乱射するのに対し、女は数発ずつ細かくトリガーを引いている。
     数分もかからず、その部屋はたった一人の女に制圧された。
    『あの女のせいだ……』アズミはケンジの言葉を思い出した。コイツだ。ケンジがビビッていた刑事……。アズミはこの時初めてケンジの気持ちが理解出来た。女が倒れたメンバーの頭にトドメとばかりに拳銃を向けたのだ。そしてまたフラッシュ。
     女はまだ生きている監視カメラに投げキッス。
    「バレても別にどうでもいいようですね」とドクター。「さあ、早く逃げましょう」 差し伸べる彼の手をはらい、アズミは「残りのメンバーをこっちに向かわせろ。あいつらがやられている間に逃げるぞ」
    「そうだ。早くいけ」とパパ。
    「パパとママは?」
    「ここに残るわ」
    「一緒に行かないのか?」
    「残りのメンバーがここに来るにはまだ少し時間がかかる」
    「私たちが時間稼ぎをする」
    「でも…」
    「あの女を始末したら追いかける」
    「早く出なさい……。愛しているわ。イサム」パパも頷いた。
    「分かった。僕もだよ。パパ、ママ」
     ドアが開いた。
    「アズミさん。忘れものをお返しします」
     濃緑のボールが放物線を描いて放り込まれた。
     床に二、三度跳ねて転がるそれの正体を見極めるのに一瞬だが、永遠とも思える時間が流れた。
     手りゅう弾であった。

     「おい、起きろ」
     蹴り飛ばされて、アズミは目を覚ました。
     手りゅう弾が爆ぜると同時に襲い掛かる閃光と衝撃に気絶したのだった。「何時まで寝ぼけてるんだ?」早く起きろ。背中を踏みつけれられても、アズミの意識はまだもうろうとしていた。
    「しかし、まあ…」 アズミの側に人が横たわっている。「よく生きてたな。こいつらに感謝しろよ」
     アズミを挟むように人が横たわっている。まるで川の字だ。
    「パパ、ママ」アズミは二人の身体をゆすってみる。ようやく、意識が晴れてきたみたいだ。状況から察するに二人がアズミの身体に覆い被さって、手りゅう弾のさく裂から身を守ってくれたようだ。しかし、その代償は?
    「もう、死んでるよ」ショウは二人を足蹴にして言った。「泣かせるね。クズにでも親子の情はあるんだ」
     アワアワと茫然自失のアズミに追い打ちをかける。
    「念のため」ショウは二人の頭に銃弾を叩き込んだ。
    「なんて事を…」言い終える前に鼻っ柱に蹴りを叩きこまれた。スニーカーを模した安全靴だ。鼻は折れただろう。全身に広がる痛みもまだ取れない。そして、親を失った悲しみ……。
    「ドクターは何処だ?」アズミの股間を靴で押さえながらショウは問い詰める。
     空気が濃くなった、ような気がした。ショウの全身から醸し出るフェロモンのような湯気と絶対的捕食者の冷徹な意思。降りかかる理不尽からくる怒りをすべて忘れ、屈服しそうになる。
    「知るか。調子こくなよ。このビッチめ。もうすぐ仲間たちがくる。今までと数が違うぞ、いくらお前が少しばかり強いからと言ったって……」アズミは抗うように吠える。しかし、ショウ・トキサトはこんな時このように答える女だった。
    「仕方ない、全員殺そう」股間を踏みつける圧が強くなった。
     アズミは射精した。

     

     「ドクターは確保しましたか?」
    『まだだ。アズミを今締め上げている』
    「頼みますよ。逃げられては元も子もない」
    『その場合は排除の方向に切り替える』
    「分かりました。でも焦らないで。何度もこのような危機を逃れたヤツです」
    『おうよ。〝出口〟はどうなっている』
    「そうですね。そろそろ閉めましょう」
    『全員始末して、ゆっくりドクターでも探すとするか』
    「殺すのは最終手段にしてくださいよ」
    『……そっちは任せたぞ』
     ショウとの通信が切れた。
    「藤波さん、櫛引さんに連絡を。これ以上、リザードの連中を中に入れないように」
    「そいつは分かったが」藤波はスマホを手にハラダの要望を受けると、「お前ら、やはり刑事ではないな。少なくとも麻薬課ではない」と言った。独断専行がひどすぎる。ショウが持っているスキルからも明らかに警察機関のそれを越えている。
    「……刑事の真似事は楽しかった。本当です。何てやりがいのある仕事なんだろうと」
    「ドクターとは何者だ」藤波は改めて訊いた。
    「不明です……。ただ彼が設計したブラウンシュガーは単なる薬物ではない。新種のナノマシンです」
    「無許可のか?」
     ハラダは頷き、
    「暴走の危険がある代物です。ヤク中を増やすだけではない。世の中を全く変えてしまう恐れのあるもの」
    「その〝変えてしまう〟の意味は?」
    「世界を亡ぼす、と捉えても構いません」
    「大げさではないのか?」
    「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。それを調べるのが私たちの仕事の一つです」
    「お前たちは何者だ? 何処の部署、いや組織だ?」
    「部外者に話す事は厳しく禁じられています。私も組織の人間です。その点は察してください。ただ……」
    「ただ?」
    「あなたの下に試験官が訪れるかもしれません。詳しい経緯はその方が来たときに……」
    「試験官だ?」
    「仲間になってくれれば心強い」
    「気に入らんな」
    「友達を沢山ほしいタイプには見えませんが……。すいません。私の一存では全てを話す事はできないのです」「しがらみ、というヤツか」藤波は飲み込む事にした。今、それをするべき時ではない。もっとも、飲み込んだまま熱さを忘れ、そのまま過ぎ去った事象も多々ある。人は忘れる生き物なのだ。自分の身を守るために。
    『ドクターだぞ』ハラダのイヤホンが鳴る。

     

     「もう一度聞くぞ、ドクターは何処だ?」ショウは何度もアズミの顔を踏みつける。
    「知らない。さっきまでは側にいたんだ」
    「手りゅう弾でやられたなら死体があるはずだ。お前のパパとママのようにな。どこへ逃げた?」
    「……」
     こいつはここまでかな。赤く腫れあがったアズミの顔を見て思った。ほかに利用価値があるか考えてみる。無ければとりあえず処分するだけだ。まだ生きている他の連中に訊いていて見るしかない。その時に背中から撃たれれば厄介だ。ショウはホルスターに手を伸ばす。
    「私はここですよ」声が聞こえる。
     部屋の片隅で何やら蠢いている。
     それは下半身のない人形だった。美術の、デッサンの際に使う人形。大きさは人のそれだが、黒いワイヤーのものが巻き付いている。身体が半分なのは、ショウが手りゅう弾を投げて吹き飛んだ可能性が高い。
     ショウは試しに撃ってみた。弾丸が眉間の真ん中に命中すると、体中に巻き付いていたワイヤーが回転し始めた。
     胴体のあたりから、新たに肉の塊が飛び出してきた。こちらにはワイヤーが巻きついていない。ぬめりのある白い塊で、所々ひだがついてまるで芋虫のようにもぞもぞ動き、膨張を続ける。
    「ドクターだぞ」ショウはハラダに通信。「見たか」
    『見ました』コンタクトレンズのモニターが画像を送る。
     ドクターの身体に巻き付いていたワイヤーはいつの間にか消え、資料通りやせ型の中年男性の姿に戻っている。中肉中背の特徴のない男。正真正銘の〝人間〟に見える。
     ショウは再び発砲した。ドクターの肩口に命中したが、血はおろか傷口すら開かず、弾丸はそのまま体内に吸収されたようだった。
    『近づかないで。危険です』
    「分かっているが、近づかないと確保ができないだろう……。あいつは人間なのか?」
    『知りませんよ。現状で情報が少なすぎます』
    「それなら情報収集の必要がある」
     ドクターはショウが入ってきた反対側のドアから出て行った。
    「おい、あの扉は何処に続く?」ショウはアズミを踏みつける。
    「工場だ。ブラウンシュガーの」
    「確認してくれ」
    『地図をみるかぎり、飼育槽ですね。水棲型爬虫類の。この建物内で一番広いスペースです。工場や仕分けなどの使っているのでしょう……。まさかそのまま突っ込むつもりで? 銃の弾はあります? パイナップルは?』
    「現地調達になるな」壊れかけたモニターには監視カメラ経由で、十数人は下らない数が映っている。
    『やめてくださいよ』「まあ、やりようはあるさ……。おい、アズミ。案内しろ」
    「嫌だ。あそこはヤバいぞ。あそこは」
    「黙れ。早く立て」
    「嫌だ。嫌だ」アズミは体育座りで駄々をこねる。頑としてその場を動こうとしない。
    「よしよし、わかったよ」ショウはアズミの胸倉をつかみ、無理矢理立たせる。そしてみぞおちに拳を喰い込ませると、悶絶するアズミを片手で担いだ。
    「私が連れてってやるよ」

     
    「皆さん。ここにあるブラウンシュガーのカプセルは全部差し上げます。一発キメて、サツの旦那をお迎えしましょう」
     ドクターはテーブルの上に置いてあった梱包前のカプセルの山を手で払った。一つかみ分が脇の水槽に落ちた。
     オイ、丁寧に扱え。不平をもらしながらも収集したリザードのメンバーはカプセルに群がった。
    「皆さん、後ろの扉は固く閉められています。サツの仕業です。我々が助かるには前へ進むしかありませーん。夜露死苦!」
    「夜露死苦!」
    「敵は強いですが、今の皆さんには問題ありません。夜露死苦!]
    「夜露死苦!」
    「一人はみんなのために。みんなは一人のために。夜露死苦!」
    「夜露死苦!」
     正面ドアがゆっくりと開いた。リザードのメンバーはサブマシンガンをはじめ銃器を構える。人影が見える。
    「パイナップル、手投げ弾はありません」ドクターが叫ぶ。それを合図に、リザードは銃身が焼けるまでトリガーを引き続けた。
     人影は倒れなかった。それどころか、こちらにゆっくりと歩を進めている。
     ショウは片手でアズミを盾代わりにして、反撃を開始する。彼女の体格に加え、その姿は重装備の警備隊のように思えた。実際の所、ショウは防弾チョッキの一枚も着用していない。普段通りのスーツ姿。
     ショウは冷たくなったアズミを捨てた。その代わりが目の前にあるからだ。リザードのヤク中の首を捻り、武器を奪い。また次の獲物に近づく。
     たちまちリザードの数が半数になった。
    「まだまだ。こちらの方が有利ですよ。銃器を集中させて」ドクターがひるんだメンバーに発破をかける。さらに、「カプセルを飲んで。多少の痛みは感じなくなります」
    「ラリったヤツが私を仕留められると思うなよ」ショウは鼻で笑う。
     しかし、銃口は全て彼女に向けられている。防ぐのに背いっぱいだ。盾は肉製のため、貫通した弾が彼女に刺さる。
    「痛ーな。クズども」ぼやいた所で状況は変わらない。ショウは眼光鋭く、周囲を見渡す。スキを作らなければな。
     水面を激しく叩く音が聞こえた。
     床から鈍い音がする。何かが落下して潰れたような音痛みと恐怖が入り混じった悲鳴にも似た唸り声。
     しかしそれは、ショウが与えたものではない。     
     飼育槽から何かが飛び出した。岩のような固形物。
     それには、手があり、足があり、顔があった。万力のような強靭な力を備えた顎がついていた。
     それは、獲物を、リザードのメンバーを見つけると、腕に噛みついた。発砲スチロールを折るかのように、簡単に腕がかみ砕かれ、千切れた。
    「ハラダよ。援軍がきたぞ」
     それは、巨大なカメだった。

     〇激突


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    自然動物館 東山動植物園2024・8-2
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     とにかく何もかもがでかく硬い。それが第一印象だった。目視だが体長は2メートル近い。山のように盛り上がったパネルが何枚も並べられたオリーブドラブの甲羅。幼児のそれぐらいある頭部に備わったくちばしのような顎は大きく開き、ピンクの牛タンのような舌の上に蛇のそれのような触手が2本波打っている。短いながらも野太い足はまるで象のそれで、歩を進める度に大地に足跡を深く残している。そに存在するだけで圧を与える岩のような塊だ。
     水槽から飛び出し、リザードのチンピラの一人を葬った巨大なカメは、湿った床をのっそりと歩きながら身体を震わせていた。その振舞は明らかに次の獲物を探しているようで、捕食対象は明らかに自分たちなのだ。
     来るな。来るな。
     恐怖に駆られたリザードのチンピラたちは、持っていた銃でカメを撃つ。DNAに刻まれた恐怖からくる反射運動。現に仲間の一人が足をもぎ取られて、出血がひどい。素人目にも助かる見込みはない。
     金属が金属を弾く音。カメはその甲羅によって弾を弾いたのだ。そして、その行為はカメに自分の場所をさらけ出すことになる。
     カメは口を大きく開きながら地を蹴る。舌がチロチロ蠢いていた。
     カメはチンピラの腕に噛みついた。枯草を踏んだ音がすると、サブマシンガンを持った上腕が残りの弾を一気に吐き出しながら、ポトリと落ちた。
     チンピラは腕を押さえ膝をついた。カメの口は異常なほどさらに大きく開き、チンピラの頭に噛みついた。スイカ割りが成功した時のように乾いた鈍い音がした。砕けたチンピラの頭から脳漿と血液が弾け、そのまま残りの脳みそごとカメの胃の中に飲み込まれた。その間、他のリザードのメンバーはバカの一つ覚えのごとく銃を乱射したが、甲羅がやはりそれを阻む。
     そしてカメは次を探す。次の餌を。
     戦意創出したメンバーの一部は逃げる事に決めた。外から入ってきたドアの前にはカメがいる。ならば時間はかかるが施設の中を通って外に出るしかない。幸い反対側にドアが見える。そのドアを目掛けて走る。
     だが、そこにはショウがいた。
     ショウは〝一番乗り〟を決めたチンピラに左ボディくらわした。うずくまるチンピラの頭を踏みつける。床とキスをしたチンピラはそのまま動かなくなった。波音の様に広がる血だまり。
     前門のショウに、後門のカメ。
     どちらを選ぶか。
     リザードの残りカスがショウに向かう。ショウは一人見せしめとして、眉間を撃った。たじろぐチンピラたちを尻目にショウはドアノブを足裏で蹴り飛ばす。コロコロ転がるドアノブ。
    「パーティはまだ続くぞ」ショウは天井に向けて撃った。
    「助けてくれ」チンピラの一人が懇願する。「アズミ君の命令には逆らえないんだ」
    「仲間を見捨てるヤツはスカン」ショウは言い放った。
     見捨てないで。後ろから両足を食いちぎられたチンピラが床を這って、命乞いをしたチンピラの足にすがる。
     足を失ったチンピラがカメに引きずられる。食事の再開だ。

    「ハラダ。あいつは何だ?」部屋の片側にあるテーブルの陰に隠れて通信。かつて飼育槽だったこの空間は、ブラウンシュガーの工場兼出荷場所のようだ。それは推測通りのようだが、どこかおかしい。テーブルの上にはブラウンシュガーのカプセルが乱雑に散らばっている。アルコールランプとアルミ箔。経口摂取のブラウンシュガーを火であぶるのは無意味だ。含まれるナノマシンが死んでしまう。薬物を生産する設備も見当たらない。そして、カメ。元々爬虫類の飼育施設だったとはいえ、潰れてから何年も経っている。かつていた動物もどこかに引き取られたか、処分されたはずだ。なぜここにいる?
    『あれはワニガメですよ。カメ目カミツキガメ科ワニガメ属に分類されるカメです。ケンジを殺ったのはコイツでしょう』
    「名前などどうでもいい。なぜアズミがこいつを飼っていたんだ?」
    『元々ここに居たのでは。カメは長生きだし。いたずら半分にブラウンシュガーを与えたとか。詳しい事はアズミが知っているんじゃないですか? 彼は?』
    「死んだよ、私の盾になって」
    『盾にしての間違いでしょう。本人に訊くのが手っとり早いのですがね』「惜しい事をした」
    『だから簡単に殺してはダメなんですよ。情報を引っぱり出せることができなくなる』
    「説教はいい。どうする? リザードのやつらは問題ない。カメがいなくてもな。対処は容易に可能だ。ただこの施設はどうもおかしい。ブラウンシュガーの出荷場所には違いないが、工場とはいいがたい」
    『ドクターですね、カギを握っているのは』
    「そうだ。あいつが死ななないのはどう思う?」ショウは思い出す。手りゅう弾で体の半分を吹き飛ばしても生きていた。しかも再生して。
    『そこにあるのはブラウンシュガーでしょう。しかし、我々が知っているそれではないのかもしれません』
    「では何だ?」
    『推測の域を出ませんが、ブラウンシュガーはブラウンシュガーではないのかも。例えば、新型のナノマシンとか』
    「新型? そいつの暴走とか?」
    『かもしれませんが』
    「ドクターを捕まえて吐かせるしかないか」
    『そうですよ。何度も言いますが、簡単に殺しちゃだめです』
    「これは私のカンだが、あいつは生かしておいてはいけないぞ」
    『しかしそれでも』
    「現場の判断にまかせてもらおう。どちらにせよ、あのカメは何とかしないとな」
    『……。Web情報によると、本来ワニガメは大人しい生き物らしいですよ』
    「大人しいね」
     リンゴをかじった時のような咀嚼音。リザードの生き残りの叫び声が聞こえなくなった。
    『肉食傾向の雑食ですが、自分から積極的に狩りに行くような性格はしていません。どちらかと言うと待ち伏せタイプのようです。水中にいる際は、その舌をちらつかせて疑似餌として魚やカエルなどを捕食』
    「積極的な殿方のようだぞ」
    『ヤク中は困ったものですね』
    「……。訂正する。彼女だ。卵を産んでいる」
     チンピラの死体を集め、その中に卵が数個確認できた。野球のボール大の大きさだ。
    『そのために捕食しているのでしょうか』
    「ガキを産むにはパワーがいるからな」
    『櫛引さんに頼んで出口を開けてもらいます。何とか逃げてください〝子連れ〟の生き物は危険ですよ』
    「爬虫類にそんな感情はないさ」
    『ただのカメではありません。ナノマシンという薬物の影響下にある新種の生物の可能性が高い。巣を作るという知恵がある。DNAごと作りかえられているかもしれない。なにせ極小のナノマシンの本分は分子や原子の組み換えにあります』
    「だったらなおのこと娑婆に出すわけにはいかない。自然界にどんな影響を与えるか分からん」
    『やめてくださいよ。撤退してください』
    「なあにやりようはあるさ。出産直後はエネルギーを喰う。動きが鈍るかもしれん」
    『希望的観測ですよ』
    「それにヤツは爬虫類だ。変温動物だ。空調か何かで気温を下げられないか。この部屋にも温度調節のパネルぐらいあるだろう」
    『これから探すのですか? そんな悠長な』
    「まさか。単なる思い付きだ。私は動きながらアイディアを出すタイプだ」『でも有効打はもうないのでしょう。拳銃弾は弾かれるのを目の当たりにした』
    「武器はその辺に落ちているし、パイナップルならあと一つある」
    『閉鎖空間での手りゅう弾の使用は危険です』
    「何とか使える方法を考えてみる。それよりハラダよ。外の天気はどうだ? 雨漏りがする」
     首筋に冷たいものを感じ、ショウは手のひらを天井に向けてみる。水滴が一滴落ちて来た。
    「この建物の構造を改めて調べてくれ。違法建築だからな他に隠し部屋があるかもしれないし」
    『ドクターの逃げ場所、ですか?』
    「そうだ。さっきから姿が見えない。どこに隠れているんだ」
    『分かりました。改めて精査します』
    「急いでくれよ。さもないと、私が暴走する」
    『慎重に行動を』
    「もう遅い」
     ショウは新たに出来た〝巣〟中にむけて投擲する。

      見慣れた放物線が弧を描いて巣に向かう。ワニガメは気付いていない。巣の向こう側で口を大きく開いて舌を動かしている。その様は飼い猫の前で猫じゃらしを振っている飼い主を連想させた。餌が近づくよう誘っているのだ。ショウはブラウンシュガーを梱包していたテーブルの陰に身体を縮める。身を守るには心もとない大量生産品の安物だが、それでも無いよりましだ。
     卵を囲うように重ねられたチンピラの残骸が渦を巻いた。各々の死体が繋がり一匹の蛇のようになった。渦巻きは卵を一回りして止まった。肉塊の一部がまるで屹立した陰茎のように天を突くようにもりあがり、すぐさま人の形になった。
     ドクターだ。
     ドクターは人を小ばかにした笑みを浮かべながら、両手を天井に差し出した。
    「先程は酷い目に遭いましたから。これであなたは虎の子の手りゅう弾を失った」
     キャッチしたドクターはそれをショウに投げ返そうする。
    「いやまだあるよ」ショウは左手の手のひらをドクターに見せた。中指にはまだピンが抜かれていない手りゅう弾がぶら下がっていた。
    「では……」自分は何を持っている?
     それはアルコールランプだった。ジャンキーがヤクをあぶる時に使うもの。
     ショウは拳銃を構えた。
     それは一瞬の炎だったが、さらに追い打ちをかけるべく、さらにランプを投擲する。全て机の上にあったものだ。
     ドクターは炎に包まれた。

     

     「か、怪獣大戦争だ」タブレットペーパーを覗いた藤波は思わずこぼした。   ドクターと称する化け物と狂暴な性格に生まれ変わった恐獣ワニガメ。そいつらに対して平然と向かあうショウもまたモンスターであった。そして藤波は確信する。こいつらは、特にショウは警官ではない。警官のように容疑者を確保するという概念自体持ち合わせていない。自衛隊の特殊部隊出身。大げさではない。いやそれ以上かも。
    「藤波さん、違法建築の内容は?」
    「ああ、当時の捜査資料を再検索する」藤波はスマホで署のデータベースにアクセスする。やれる事をやるべき時にやらねば。ハラダもそしてショウも。藤波の常識からすると彼らのそれは歪なものではあるが、何か信念のようなものを感じていた。
    『ハラダ。ちょっと聞きたいことがある』タブレットペーパーからショウの声が聞こえる。冷静だ。
    「何です?」
    『あのカメ、一般的にワニガメの食道の長さはどれ位だ?』
    「何を言っているんです?」

    『これから一手を打ちたいが、それが失敗した時の保険を考えている』

    「答えるなよ」と藤波。「あの姉ちゃんは、カメの口の中に直接手りゅう弾を突っこむつもりだ。おそらく胃の中に放り込むつもりなんだろう。あるいは口の中で爆発させて脳髄ごと吹っ飛ばすか。タイミングがシビアだがな」「そんな」
    『いいじゃないか、腕の一本ぐらい』
    「言い分けないでしょう」
    『ジェイソン・ステイサムを相手にするよりはましだ』
    「ステイサム? 昔の映画の役者ですか? 今は軽口を叩いてよい状況とは思えません……ドクターは?」
    『今、交戦中』
    「ヤツから話は聞けそうもない」
    『始末するからな』
    「あと事情を知っているのはアズミ親子といった幹部ぐらい」
    『それはもう無理だ。ヤツらは死んだ。私が殺した。さっき報告しただろう』
    「後先考えずに」
    「戦闘は姉ちゃんに任せた方がいい」藤波が割り込んだ。
    『おっさんの方が話が分かるみたいだな。だが、もっと大きな声で話して欲しい』
     ハラダはイヤホンマイクの予備を藤波に渡した。
    「姉ちゃん。ついさっき櫛引おばさんから連絡が来た。助太刀に来たリザードのメンバーを拘束したそうだ。ヤクの売人も兼ねているガキだ。その建物の様子を聞き出したそうだ。最新の情報だ」
    「あなたの入れ知恵か」藤波は頷く。どうやら随分と前から密かに彼女たちと情報交換を進めていたようだ。気の抜けない男だ。
    『この欠陥住宅が何か?』
    「かつての捜査資料と照らし合わせても、相当ヤバイ。建築資材は当時から廃材だ」
    『歴史ある建物だと前に聞いた』
    「ぬかせ。あんたのいる部屋は地下一階に見えるが、実の所地下二階」
    『おお』
    「そんなに驚くことか? 薄暗い中で歪んだ建物の中で戦ったんだ。多少の錯覚は起きるだろう」
    『いや、違う。今ドクターが燃えているぞ』笑いながらショウが言った。タブレットぺーバーを覗いたがそんな様子はない。コンタクトレンズ型のカメラからの映像が乱れている。激しい戦いを繰り返したせいで機能が落ちているのだろう。
    「証言から、天井には水道管などが配管されているそうだ。雨漏りはそれが原因だ。撃ちまくったろう」
    『向こうが先に手を出した』
    「施工は素人のDIYに毛が生えたようなもので、当然あちこちボロが出る。天井からの水漏れしかり。証言によるといつも歩くと床からへんな音がしていたそうだ。推測だがべニア板を敷き詰めているだけなんじゃないか」『何が言いたい?』
    「証言はまだ続く。どうやら地下に続く道がどこかにあるそうだ。アズミが床板のようなものをはがして、降りていった様子が目撃されている。ブラウンシュガーのメイン倉庫の可能性が高いとそいつは睨んでいる。役に立つか?」
    『もちろん。地形を把握するのは戦いに必要だ……。そこでだあのカメをひっくり返してはどうかな?』
    「あの巨体だと自力では無理そうですね.100キロはある」とハラダ。
    「もし、それが出来るのなら、そのまま衰弱死を待つのも手か」
    『餓死を狙うのか?』
    「すくなくともすぐには起き上がれない。地下倉庫が本当にあるのなら、そこに落として隔離するのは十分にありだと思う」
    『ほお。驚いた』とショウが感嘆する。
    「どういたしまして」
    『違う。急展開だ』通信が消えた。

      ドクター燃やしていた炎が消えた。〝雨漏り〟が激しくなり、まるで降雨。白煙を吹き出した黒焦げのドクターは、がっくりと腰を落とし、同じようにゆっくりと立ち上がった。
     顔の部分がひび割れて、赤黒い筋肉繊維が飛び出した。ぬめりけのある人体模型が叫ぶ。
    「この程度で……」
    「知ってる。熱を帯びた新種のブラウンシュガーはさらに活性化するみたいだな……。ジャンキーはランプであぶってよりハイになるつもりだったのだろうがな。バカの考えそうな事だ。本来の目的は再生機能の向上……。これ以上考えるのは面倒くせえ。だから、お前の相手はもうしない」
     ドクターの腹からワニガメの頭が飛び出した。
    「凄いな、ブラウンシュガー。母性本能まで創り出すなんてよ」
     思い当たる節があり、ドクターは薄れゆく意識の中で自分の足元を見た。卵だ。幾つかそれを踏んで割ってしまっている。
    「リザードのチンピラ連中を卵の周りに置いたのはなぜか」
     餌だ——。産まれてきた子供のための。
    「そして、お前は親を怒らせた」
     後ろ手でワニガメの身体を必死に押したドクターは、床にボトリと倒れ込んだ。スナック菓子を一気に食べようとした時に鳴る乾いた咀嚼。足も、腕も、腰も、体も、ついには頭もワニガメの胃の中に落ち着いた。
    「これでサシで勝負できるな」ショウは手招きで煽る。カメを、爬虫類を、人外を。
     雨漏りがさらにひどくなる。天井の一部が崩れ落ちてくる。一つ大きな金属音が床をはねる。水道管らしい鉄パイプのようだ。水が滝のようにさらに落ちる。水たまりがあちこちにできて、ある臨界点を超えると移動するように流れ落ちる。
     どこかにくぼみがある。水の流れがそれを物語る。
     ワニガメが飛んできた。間一髪、ショウはかわす。壁の中にめり込むワニガメ。100キロの鋼鉄の塊、巨大な砲丸を投げ込まれたようだった。
     意外と機敏だな、カメのくせに。
     拳銃で撃ってみる。甲羅が弾をはじく。リザードのチンピラと同じ行為だが、目的が違う。
     ワニガメがこちらに気付き、短いがしなやかで頑丈な四本の脚をばねの如く地に溜める。
     ショウは部屋の中央に溜まった水たまりに向かって走った。手には散らばったパイプ椅子を持ち出して、開いて待った。椅子の座面を持って、背もたれをワニガメに向けた。
    「私は手癖が悪いんだよ、ドン亀」ショウは卵を水たまりの中へ転がした。
     ワニガメは大砲の弾のごとくこちらに飛んできた。しかしそれは想定の範囲内だ。
     タイミングを見計らって、ショウは手りゅう弾のピンを抜いた。パイプ椅子をたたみ、半身となって肩口で座面を押さえた。耳を塞いで爆発を待つ。 
     爆風でワニガメを仕留める事はできなかったが、その巨体を少し浮かせる事には成功した。ショウはそのわずかな時を逃さず、パイプ椅子を床との間にかませた。そのまま渾身の力を持って押した。
     ワニガメがひっくり返った。しかしなお、体をばたつかせ元に戻ろうとする。
     ショウはスーツの背中とシャツの間に隠し持っていた水道管を手にすると、カメの腹に飛び乗った。カメの喉元に全体重をのせて、水道管を押し当てた。
    「グッバイ、マミー!」
     その瞬間床が崩れ、ショウは落ちる。

    〇置かれた場所で咲く者たち

     ショウが落ちた先は水の中だった.
     身体が反射的に水面を求めている。空気!
     水を含んで重くなった衣服を物ともせず、水面に出るとまずは一呼吸。辺りを見渡し、何とか上がれそうな場所を探す。この空間が全部プールのような所だとマズイ状況になる。
     水中では、ヤツの、マミーの独壇場だ。ワニガメの死体が見つからない以上、反撃を警戒すべきだ。
     穴が開いた天井のからの光と壁面にいくつか備えられた非常灯の灯り。幸いな事に上陸できそうな場所はすぐに見つかった。
     壁面に近づくにつれ、底が浅くなった。体感2メートルほどあった水深から徐々に足がつくようになった。
     ショウは周辺を見渡す。
     足が滑るな。この空間には湿気があるせいか、壁や床にはカビや藻が覆われている。
     ブラウンシュガーの倉庫じゃなかったのか。
     飼育を放棄した金魚鉢の匂いの中に、どこか覚えのある刺激臭が混じっていた。
    「ハラダ、聞こえるか?」
    『ああ良かった。無事ですか?」
    「何とかな」
    『今、どちらに?』
    「床下に落ちたよ。マミーと一緒にな」
    『マミー? カメの事ですか。勝手に変なコードネーム付けないでくださいよ』
    「やはり推測通り、ここは倉庫であり工場だ」
    『工場?』
    「マミーの産む卵には二種類ある。白い卵と茶色の卵」
    『ニワトリのような?」
    「ああ、白いのはマミーの子供、茶色は中にブラウンシュガーが入っている」
    『本当ですか?」
     ショウは今しがた卵を踏んだ。茶色の卵。中から琥珀色の細かい塊が出てきた。
    「見えるか?」ショウはコンタクトレンズ型のカメラで凝視。
    『かろうじて——調子が悪いようではっきりとは——。確かに似ていますね。他には?』
    「匂いはまさにそれだ。水も茶色だ。汚れなのか、溶けているのか分からん」
    『卵の数はどのくらい?』
    「映画の〝エイリアン2〟なみだよ。うじゃうじゃだ。赤玉も白玉も交じっている、赤玉の方が多い」
    『大量じゃないですか。ちなみに大きさは?』
    「赤玉はダチョウの卵くらいある」
    『大量生産じゃないですか……。アズミはどうやってそこに?』
    「非常はしごがぶら下がっている壁がある。ちょうどその真下に卵がある。本来はそこが出入り口だったのだろう」
    『とにかく、そこを動かないで。急行します』
    「待て、まだ誰も来させるな」
    『なぜです?」
    「水位が低くなっている……」
    『どこからか水漏れ、ですか』
    「派手に暴れたからな。それにまだマミーと決着はついていない」
    『ひっくり返したのでは?』
    「落ちた先がプールみたいな水たまりだ。浮力で元に戻っているだろう」
     水位がますます低くなる。水面に動くものの気配はない。あのまま死んだとは思えんが。水の色が汚く、中が確認できない。ショウは腰を屈める。
     マミーが水面から飛び出した。低い体勢からショウはマミーの攻撃を正面から受けた。
     マミーはショウの左胸に噛みついた。足元が緩いせいか踏ん張れない。水の中に引きづりこもうとしている。ショウはマミーの頭に右フックを2発、左アッパーをぶち込んででようやく水の中に消えた。
    「ファーック!」咆哮。
    『どうしました?』心配そうなハラダの声。
    「やられた。食いちぎられた。OPだ」
    『大丈夫ですか? 状態はどうです?』
    「まだ動ける。食われたのは脂肪だけだろう。筋肉は無事みたいだ」ショウの左胸があらわになった。わずかに残った白色の脂肪の幕から赤い筋肉繊維が覗いている。
    『すぐに行きます。水際には近寄らないで』
    「来るんじゃねえ。あのヤローは直々に私がブチ殺す」
    『無理はしないで。頼みますから大人しくしてください』
    「うるさい。私のOPがやられて黙っていられるか。お前の大好きな左OPだぞ」
     
    ショウは興奮状態にある。アドレナリンの異常分泌。空中に散布された形となったブラウンシュガー。水に溶けそれを飲み込んだり、皮膚が吸収したりなど、複合的な要素が左胸の痛みを消した。
     ショウは水辺に足を踏み込んだ。急激に水が抜けて今ではショウの足首ぐらいだ。
     スポーツブラの切れ端を両手に巻いてバンデージ代わりにした。
     両腕を顔の前で揃える。ボクシングのピーカーブースタイル。
     マミーが目の前にいる。口を開けて突進してくる。新型ブラウンシュガーが活性化したのか、またひとまわり大きくなっている。
     ショウは口の中目掛けて左ストレート。口が閉じる前に腕を引く。マミーの舌を握りながら。次に右アッパーを食らわすと、マミーの顎が強制的に閉められたせいで、舌が千切れた。
     それでもマミーは戦意は失わず、果敢にも噛みついてくる。
    「パターンが同じだ」舌を無造作に投げ捨てた。
     ショウはマミーの頭部に左アッパー、右フック。右アッパー、左フックのコンビネーションを何度が繰り返した。全てクリーンヒットで有効打だ。
     明らかに動きが鈍くなった所で、ショウはマミーの口の中に茶色の卵を押し込んだ。そしてアッパーで無理矢理口の中で割り、ブラウンシュガーがマミーの体内に吸収された。ショウはそれを何度もそれを繰り返し、事が十を超えるとマミーの体に異変が起きた。
     マミーは大量のよだれを出してそのまま眠りに落ちた。オーバードーズ。ブラウンシュガーの過剰摂取による過負荷状態。自分で産み出したものなのに皮肉な結果となる。
    「どうした? そのつぶらな瞳を開けてくれよ」
     ショウはマミーの頭に跨った。右手は上あご、左手は下あごを掴んだ。残った力を両腕に集める。身体中の血管と筋肉繊維が浮き上がり、震えた。
     マミーは二つに切り裂かれた。

     

     「ショウさん、返事をしてください。ショウさん」
     ハラダが現場に戦場に駆け付けた。リザードの根城だった場所。新型ブラウンシュガーの出荷場所。ハラダだけでなく、藤波も、櫛引とその部下たちもいた。
    「ショウさん」
    「うるさいよ」ハラダの後ろからショウが現れた。縄梯子を上って来たのだ。
    「櫛引のおばさんは?」
    「ここにいます」唖然とした姿でショウをまじまじと見つめている。
    「こいつを」茶色の卵を渡した。
    「下に沢山ある。茶色の卵の中にはブラウンシュガーが入っている。濃いヤツだ。多分。白い卵は見つけたらすぐに割って欲しい」
    「……モンスターが出たそうですね」
    「ああ。だがもう死んだ。私が殺した。白い卵はそいつの卵の可能性が高い。自然界に放してはいけないヤツだ。それから、ここに来たリザードのチンピラは、あんらが拘束したヤツらを除いて全員死んだ」
    「あなたが?」
    「事故とか不可抗力とか正当防衛とか、適当な理由をつけてくれ。あんたの部下も救ったんだからな。バチは当たらんだろう〝証拠〟を適当に集めてあんたの都合のいいように手柄としてくれ」
    「……大けがをしたそうですが、随分と元気なようで安心しました。
     その言葉に、ショウははっとなった。自分の胸を見て。
    「おい、ハラダ。再生してるぞ。お前の大好きな左OPが」
     どのような理由なのか不明だが、ショウの胸は再生していた。それはまだ元の大きさとは程遠く小さなものであったが、鼓動がするたびに大きくなっているような気がした。
    「まずは服を着ましょうよ」
     ハラダは自分の上着をショウに渡した。

     
     用水路の側溝から、激しく水が流れてくる。雨でも振ったのだろうか。天気予報が外れたようだ。
     側溝はゴミで溢れている。木材やコンクリート片といった廃棄された建築資材のようだ。その中に卵が二つ紛れていた。明らかに場違いと思えるものだ。白い卵と茶色い卵。白い卵が割れ、小さなカメのような小動物が孵った。カメは水の中に隠れて消えた。
     茶色の卵にもひびが入った。殻の中から小さな胎児、そう人の胎児が顔を覗かせていた。 
     そして、その目が開いた。

     

     一か月後。

     取調室にて。
    あんたとこうして向かい合うとはなあ」藤波は複雑な表情を浮かべている。目の前にショウがいる。後ろ手に手錠をはめられている。ショウはある事件の容疑者として拘束されているのだ。
    「だから、あれは事故なんだよ」ショウは弁明する。
    「あんたが嘘をついているとは思えない。だが、証言の信ぴょう性はない。あんたとハラダとの関係は?」
    「職場の同僚だ」
    「プライベートでは?」
    「セフレだ。身体の相性がいいんだよ」
    「身体だけ?」
    「他に何があるんだ? 男女との間に」
    「……なんでハラダを殺した?」
     ショウはハラダを殺した現行犯として逮捕された。しかも彼女自身の通報によって。証言通り、ショウの自宅にてハラダの死体が発見された。ショウのベッドの上で。数分前まで事にいそしんでいたそうだ。
    「事故だといっている」
    「彼の死体には首がない。どこへ隠した? 俺はあんたと一緒に仕事をした。だから分かる。あんたにはそうするだけの戦闘力がある」
    「もう一度言うぞ。私は殺してはいないが、それを止められなかったのは事実だ。あいつは私の左OPが大好きだ」
    「それは前にも聞いた気がする」
    「左OPをしゃぶりながら、ぶちこんで果てるのが好みだ。私もそれを楽しんでいる。いつものルーチンのはずだった」
    「はず?」「その日はいつもより興奮してな。激しい夜だったよ。私も久しぶりに我を忘れた。その時だよ。私の左OPが突然、マミーの、あの時のワニガメの頭になってハラダの頭をまるごとバクリ、と」
    「食った、というのが最初の証言だ。……信用できるか!」藤波は机を叩いた。
    「私は事実をそのまま話している」
    「おい」藤波は記録係として、同室している同僚に声を掛けた。「二人だけにしてくれ」
    「しかし……」
    「頼む。何とか説得して真実を自供させたい。それがせめてものの同僚への情けだ。お前もリザードのガキどもから助けてもらっただろう」
    「……分かりました。ただ5分だけですよ」同僚が部屋を出た。
    「助かる」
    「結構慕われているんだな」
    「それはいい。あんたラりっているんじゃねえだろうな。故意ではないにせよ、あんたは、あの時ブラウンシュガーを大量摂取した」
    「それだ。私はあの時マミーに左OPを食いちぎられた。その時にワニガメのDNAが付着してそれをブラウンシュガーが増殖させた。知っての通りブラウンシュガーの元はナノマシンだからな」
    「証拠は? それがないとあんたはラリったジャンキーだぞ。心神喪失で無罪を狙っているのか?」
    「あれからどう頑張っても、私のOPはカメの頭にならないんだよ」
    「……話を変えよう。俺には例の事件から一つ疑問がある。個人的なものだ。ハラダの兄ちゃんには前に言われた。『刑事の仕事は楽しかった』……何者だ? あんたは。元の麻薬課はどうなった?」
    「それは知らん。私の役割ではないからな。ただ、私はあんたらの敵ではない。一緒に仕事をしただろう」
    「ショウ・トキサト。ハラダ・三吉。いすれも本名ではないな。あんた、弟がいるだろう。プロレスラーの。何とか・ナグモとかいう……」
    「アブドラ・ナグモだ。……あんたのほうが心神喪失ではないのか。何で私の弟がプロレスラーなんだ?」
    「いい所まで行くんだ。ある一点まではたどり着く事ができる。……あの事件の後気になって調べたんだ」
    「何をだ?」
    「一般社団法人犯罪量制御研究会。通称、犯量研。犯罪の撲滅を目指すのではなく、あらかじめそれは発生するものと考え、どの地域に、どの種類の犯罪を、どの程度の量を配置するか。犯罪の発生をコントロールし、効率よく検挙を行う研究をする団体だ」
    「別にいいじゃないか。この国は思想の自由が認められている。それに頭の良すぎるヤツのことはよく分からん」
    「そうだな。問題はその団体が警察OBの定年後の再就職先としてあっせんされている事と、公安が新たに設立した部署によって運営されている事だ。実態はどんな団体なのかは不明だ。警察OBを巻き込んだのはカモフラージュとある種の防壁と睨んでいる。櫛引おばさんがあの時引いたのは感づいたからだ。藪の中をつつくのは危険だ。自分の過去も調査されているし。長いものには何とかというヤツで彼女は身を守る事を選んだ。そのおかげかどうかは知らんが、お望み通り中央復帰だそうだ」
    「ほお。おめでたい話じゃないか。で、その公安の部署とは何だ?」
    「俺が聞きたい。そこはどうしても分からなかった。しかもハラダは俺の前に試験官が現れるだろうと言った。どういう意味だ?」
    「知らんよ。……あんた、実の所ハラダが死んだ事なんてどうでもいいのだろう?」
    「まあな。死んだのは残念だが、バカなガキに殺されるよりはマシだ」
     ノックが鳴った。
    「まだ5分経ってねえぞ」藤波が怒鳴るがそれを無視をして、ドアを開けたのは先程の同僚ではなかった。
    「あんたは、日下部課長か」
     ショウとハラダの直属の上司だ。藤波より一回り年上で、白髪が目立つが毛量は多い。背筋は伸び同世代より筋肉量は多い。引き締まっている。歳の割には若く見られる確率は藤波より高いだろう。
    「今度は私が説得してみるよ」と日下部がいった。穏やかで落ち着いた声だ。
    「5分だけですよ」同僚の言葉を繰り返す事になった藤波は、ぶつぶつ愚痴をこぼしながら席を外した。
    「彼はどうだ?」
    「藤波さん? 優秀だよ。なんでこんな地方にいるんだ?」
    「では誘ってみるか」
    「どうかな。彼は結構繊細だよ」
    「ハラダからもそう報告を受けている……。災難だったな」
    「本当、どういう事なんだ? 私の身体に何が起きている?」
    「君の身体の事は詳しく調べる必要があるが、ここでは無理だ」
    「ではどこで?」
    「ここを出る事になる。今すぐ」
    「いくらなんでもそれは無理だろう」
    「いや、出てもらわなけれは」
     日下部はショウの手錠を外した。
    「何をさせるんだ?」
    「今から君は、私をこの銃で私を撃つ。その騒ぎに乗じて逃走する」
    「バカなのか?」
    「ドクターが現れた」日下部はタブレットペーパーを差し出した。画像は不鮮明ではっきりしなかったが、ショウは確信した。
    「生きていたのか?」
    「ああ。ドクターザップ・ガンは健在だ。我々は何としてでもヤツの正体を掴み、排除しなければならない。そうでなければ、我々は、この世界はヤツのおもちゃのままだ」
    「……。ここを出てどうすればいい?」
    「彼女と接触してくれ」日下部はタブレットぺーバーを渡した。
     受け取って表面をタッチすると、少女の姿が写っていた。ハイティーン、いやローティーンに見える。
    「彼女はパティ。パティ・スマイル」
    「まだガキじゃないか。大丈夫か?」
    「保障する。戦闘能力なら君に匹敵する。できる女だよ……。これは個人的な頼みでもある」
    「何です?」
    「彼女は娘なんだ。私の」
    「うそつけ」ショウはさすがに突っ込んだ。「娘というより孫だろう。そしてなにより、彼女は外国人じゅないか。見た感じは東欧系かな。それに何だ? スマイルって。笑いながら人を殺すのか?」
    「色々事情があるんだよ……。頼む。娘の力になってドクターを排除してくれ。人々を雑な造りのこの世界から解放したいんだ」
     一瞬の沈黙。永遠とも思える思考の回転。
    「……私がカメのマミーと戦っている時——バカでかい水槽の中だ——水が急激に引いた。あんたの仕業か?」
    「さあな。ただ君たちのバックアップが私の仕事だと心得ている」
    「おかげで助かった。水の中ではさすがにな……。おい、課長。何がなんだか分からんが、とにかくやるしかないようだな」
    「そうだ。結局、人は自分がいる場所でもがいてみるしかないのだ」
    「次の場所にたどり着くため、か」
     ショウは銃口を日下部に向けた。

     

    【了】

     

      ショウ・トキサトは帰って来る——。

     

     

     

     

     

     

                                      


     
     
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