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減らしたあとに残るもの


    障子紙が破れた日


    「あーもぉ!やだー!」私は破れた障子紙を見ながら、口に出していた。

    和室とベランダを繋ぐ窓の障子戸の前。ここに、食卓でいまは使っていない2人がけベンチが置かれていた。窓の半分以上を、そのベンチが埋めている。
    人が座る変わりに、自然素材でできた大きなカゴが置かれていた。コロナ休校の頃によく遊んだ、オセロやドンジャラといったボードゲームが詰まって、カゴがきしんでいた。

    ベンチの前の畳の上には、プラスチック製のカゴが無造作にいくつか置かれていた。
    家族四人分のカゴは、それぞれ洗濯を終えた数日分の服をのせてギリギリバランスをとっている。
    収納カゴではない。クローゼットに運びやすくするためのカゴだった。

    役割は、ほかっておくと簡単に変わる。

    しらぬ間に、収納カゴの役割へと変わったとき、家族四人分の服がカゴの中に溜まりはじめる。
    こうなると決まって、入浴前や朝に、家族みんな自分のカゴから必要な服だけを抜き出し、持っていく。
    その結果、バランスが限界に達したときに、ようやく本来の役割を取り戻すようになってきていた。

    それが見慣れた光景になってきた頃だったか、夫はいつの間にか、その洗濯物のカゴの横に、自分の仕事用の服を収めるカゴを用意していた。
    そこで出勤の支度をするので、出勤用の鞄もその横に床置きされるのが日常になりつつあった。
    見映えはさておき、なんだか、とても便利そうなシステムが和室の一角で出来上がっていた。

    ベンチも元は仮置きだった。
    その証拠にそのベンチの横には小さめのタンスがある。そこには、手芸用品などの雑貨が収まっているが、ベンチをズラさないと、下の方の引き出しは開かない。
    出す予定もほぼないが、荷物が進出してくる感じが、私はとても嫌だった。

    最後に障子紙を張り替えたのは、確かコロナの時。数年張り替えていなかったので、障子紙の角が剥がれかけていたことに、最近うっすら気付いてはいたが、みないふりを続けていた。
    そんな中だった。
    ある日障子戸をあけたら、その剥がれかけていた障子紙が隣の障子に絡み、ダイナミックにビリー!といった。

    「あ…」

    我が家の限界だった。

    よく見ると、家のあちらこちらに似たような場所はあった。
    書類の仮置きだった場所。
    上着の仮置きだった場所。
    ストック類の仮置きだった場所。
    そんな仮置きの場所に、時にはカゴが置かれ、いつの間にか『いつもの場所』になっている。そのカゴもまた満タンになり、その隣にまたカゴが…。

    ちゃんと見渡すと、そんな地層がいくつか出来ていた。

    「物を半分に減らしたい…」

    口に出してから、そういえば、いつからか気付くとそんなことを無意識に呟いている自分を思い出した。

    すっごい散らかってるか?と言ったら、例えば、急な家庭訪問があるのならば、最低30分以上事前に知らせてくれ。と思う感じ。
    気心知れた仲の来客ならば、5分、10分ちょうだい。という感じ。
    ギリギリなんとかなっているというのか。ギリギリなってないというのか。

    でも、違う。
    私はそんなギリギリを攻めたいわけではない。

    いま、障子を張り替えようにも、場所が足りない。障子を寝かせ、張り替える新しい障子紙を置き、となると、六畳の和室がパンパンになる。
    そんなスペースを確保するには、まずは片付けからだ。
    ベンチも出さなきゃいけないかもしれない。そもそも、ベンチをどかさないと障子も外せない。

    いやいや、私はそれくらいさっと貼って、さっと戻すスペースがある家にしたいのだ。

    整っているのに、満たされない

    あれは、何年前だろう。
    世の中では、『トキメク収納』がよく聞こえていた頃。100円ショップのすのこ収納やらも流行っていた。

    そんな時、私は「整理収納アドバイザー」の講座が、市内で行われることを知り、すごい勇気を振り絞って受講申込をした。

    初日から理論を学び、その帰り。その熱を持ったまま、鬼のように家中を片付け始めた。

    "片付けの基本は、全部出すこと。"
    理論の教えに習って、いわゆる『全出し』を始めた。
    床に広げて、いる・いらない・保留に分ける。

    "「もったいない」は、捨てることではない。「もったいない」は、使わないことですよ。"

    講師の言葉はたくさんメモしていた。
    けれど、まだまだ知らないことが多かった。

    『いる』も多すぎた。
    でも、そこに気付ける能力はなかったし、困らなかった。
    私はパズルゲームやテトリスが得意だったから。
    何の意味が?と思うだろうけれど、ちょっとした隙間や、扉の裏側、私はそういった空間を生かすのがかなり得意だったのだ。テトリスのように。
    隙あらば、100円ショップへ行き、カゴや収納グッズ、突っ張り棒や、S字フックを買い置きする。

    闇雲につめるのではない。グループ分けした『いるもの』を「使いやすく、分かりやすくしまう。さぁどうする?」と考えるとわくわくする。
    私は、子どもの頃から『工作』の成績がいい。とくに創意工夫に評価が集まっていたことは、ここでも存分に発揮していたと思う。

    お陰で、当時の部屋の中はかなりスッキリしていた。
    机の上やカウンターの上には物がなく、サーっと拭ける。
    掃除機も、物をどかす必要もないし、どかさなきゃいけないものは、全て台車に乗せたので、さささと終わってしまう。

    もう片付ける場所がなくなったとき、急にポッカリと穴が空いた。
    一日の家事が、一瞬で終わってしまうことに正直戸惑って、更に掃除の範囲を広げた。
    けれど、もともとズボラ気質の私には、楽しいものではなかった。片付けたのは、私なのに。
    せっかく綺麗にした部屋を、散らかしたくないから、物を増やしたくなくなった。
    すると、何を買うのも億劫になっていった。
    買い物は、少し前まであんなに楽しかったのに、急にやりたくないことになってしまった。
    自分がやりたいことが分からない。
    片付けの先に待っていたのは、窮屈な時間だった。

    『片付けて、どんな生活をしたいのか。』

    当時は分からなかったけれど、そこを考えるより、いつの間にか『使いやすさを残した、収納を増やす攻略ゲーム』になっていた。
    楽しかったけどね。
    ゲーム攻略したから、おしまい。でもあったんだろう。

    その後も、子どもの成長とともに増え続ける物を、多少は減らしているつもりだった。
    でも、『見直す』よりも、収納のワゴンを増やしたり、収納の稼働率を更に上げることで補っているところが大きかった。

    そんな状態が何年も続いた先に、あの障子紙が破れたのだった。


    片付けたい私と困っていない家族

    いまからちょうど一年前の、ゴールデンウィークが開けた頃だった。
    暦にハマって、季節感を大事にしていた私は梅雨が始まる前に、カビの原因となりやすい埃をしっかりと掃除した方がいい。と学んだのも、このタイミングだった。

    「掃除しにくいなー、やっぱ全部片付けよ!」

    私は意を決して、一気に動き始めた。
    家族からは不満が一気に溢れた。
    家族は、別に困っていないのだ。夫なんて、洗濯物をベランダから取り込んだ最短の導線上に最高のシステムが完成している。
    子どもたちも、別に生活できているから、不満はない。なんなら、場所変えられたら迷惑。だと言う。

    ブーイングが鳴り響くなか、私は押し入れを開けてコロナがやってくる直前の夏に使った浮き輪や、水遊びグッズを取り出した。明らかに我が子たちは、入れない浮き輪。
    コロナ終わったらまた行こうね。と話していたのが、ついこの間のようだが、小学生から中・高校生までの時間は大きい。

    「うち、コロナで止まってるよ。」

    まさかの小さすぎる浮き輪の登場に、何も捨てたくなかった夫も驚き、それは捨てようか。と同意してくれた。

    『もったいない』と『違和感』

    障子の張り替えスペースを確保した勢いで、食品ストックを見直した。
    缶詰やレトルト食品のローリングストックが、キッチンからあふれ出た、リビングにあった。
    元々は、服の収納に使っていたプラスチックの引き出し家具。子ども部屋を作った時に、お役御免となったが、「捨てるのもったいない。」と、とりあえずリビングへやってきた。
    すっぽりと棚の下に収まった事を良いことに、そのまま使い始めたのだった。

    決して使い勝手が良いわけではない。
    あるから使っていただけだった。
    私はこれがずっとしっくりきていなかった。

    「この食品たち、キッチンの中にいれる。それで、この引き出し手放す。」
    長年抱いていた『もったいない』と『違和感』をようやく手放す決心をした。

    賞味期限を見逃さないようにしたい。
    でも、管理の手間は嫌だ。
    出し入れもしやすくしたい。

    今回は『片付けてどうしたい?』がちゃんとあった。
    あちこちに散っていた、他の"食べるもの"も集結させ、『どうしたい?』を叶えていく。

    そうだ、我が家がストックを使うときは、大体『何かないかなぁ~』と思って探す。
    ならば、ザックリさせればいい。
    『今年期限が切れるもの』と『来年以降のもの』で場所を分けたら、全てが叶った。

    生活が大きく崩れているわけではないし、どこに何があるか、おおよそは分かっている。
    でも、小さなストレスと小さな負のループを自然と産み出すくらいには、生活を圧迫していた。
    『もったいない』と『違和感』は、問題の先送りでしかなかったのかもしれない。

    いまの生活を送り始めたからこそ、見える景色もある。

    減ったのに、寂しくない

    『整理』のイメージが弱かった私に、『整理とは』という具体的な感覚を掴ませてくれたのは、ミニマリストさんの動画だった。
    物が多い人のお家に出向き、一緒に家中の物を減らしていく。その過程には、いろんなヒントがあった。

    例えば「洗濯頻度が、3日に1回なら3着あれば事足りる。」と言う。さすがにそこまでは減らせないが、極論はそこまで減らせるってことか。と理解した。
    最小基準を持つことは、片付けの極意だったかもしれない。

    お気に入りではない服から、どんどん手放していく。
    迷ったものは戻さずに、一旦紙袋に入れて生活してみた。

    お気に入りしか残っていないクローゼットは、なんとも使いやすくて仕方がなかった。減ったのに、寂しくない。
    形が気に入っているデニムや、パンツ。毎日はきたいくらい好きなやつ。
    それがいくつかある。それだけで満たされた。
    どれを着たって、『確実なお気に入り。』と言えるかどうか、時間をかけて磨き続けたくなっていた。

    紙袋へ入れた服は、しばらくしてから、リサイクルショップへ運んだ。そこで歓迎されたのは、トレンドな服だった。──なるほど。

    私は、少しだけ個性があるボトムスが好きだ。残っているボトムスは、そんなものが多い。
    滅多に利用しないけれど、ちょっと高い物を買うときの言い訳に、最後はリサイクルショップって手もあるか。と、どこか思っていた。

    買い物は『好き』を意識する時間になった。
    あのクローゼットの仲間に入れたい服。
    はき潰したくなる服。

    「なんだそういうことか。」と、無性に腑に落ちた気分だった。

    私の価値観が丁寧につみあがっていく。

    片付けを、おしすすめる

    私は動画を流しながら、自分の手も動かす。一緒に片付けをしている気分で、ものすごくはかどる。
    「本当にいるかな?」と疑っては、ごみ袋に詰め続けた結果、ごみの日の度に10袋ずつゴミを捨て続けた。

    さすがにそこまで減らしていくと、明らかな変化が家の中に起こり出し、家族でも分かるほど、生活がしやすくなった。

    私の本気度に、家族からのブーイングは聞こえなくなっていた。
    ただ、私が「これってさ〜」と一言言うだけで「え?何??捨てるの?」と、家族みんなから警戒心は常に持たれていた。

    ある程度物量が減ったはずなのに、今度は収納グッツが恐ろしいほど溢れ、あのベンチがあった場所で、バランスゲームのような状態になっていた。
    これを家の中に収めていた私、すごくない?と昔の自分に感心すらした。

    片付けの流れは、波のようだった。
    ベンチが食卓で本来の目的を果たしたことで、波が引いたように畳の上が更地になった。
    それをうち壊すように、収納グッズが打ち寄せる。
    タイミングよく収納を引き取ってくれる所を見つけ、再び波はひく。
    そして次は、空いた家具が打ち寄せる。
    リサイクルショップに持っていき、再び波がひく。──そんな波のような状態を何度も何度も繰り返しながら、少しずつ暮らしが変わっていった。

    家具を引き取ってくれるリサイクルショップの存在は、せっかく買ったのに、捨てるのがもったいない。粗大ゴミの処分は大変。と、頑なに処分を嫌がる夫の気持ちにも、変化をもたらせた。

    「捨てるわけじゃないなら、まぁいらないものは手放してもいいかな。」と。
    そして、小さなものでも、気安く買わなくなっていった。

    掃除がしたい

    元々は、梅雨の前に埃を取りたくて始めた片付け。
    綺麗かと言ったら、「はい」とは言えないけれど、汚いかと言っても、「はい」とは言えない家だと認識していた。
    そこそこな家だと。

    ところが、家具をどかしたり、収納を片付けたりすると、想像以上に、とんでもない量の埃が出てきた。
    アレルギーが反応する。
    くしゃみは止まらないし、痒いし。はぁ。
    片付けと掃除は常にセットだった。
    「あなたたち、かくれんぼ上手ね…」埃にイヤミを言ってみた所で、埃が減るわけでもないけど、文句を言いながら掃除する。
    掃除したい意欲は、掃除しやすい部屋にしようという決意になっていく。

    目には見えないけれど、埃は確実に減っているはず。
    目には見えないけれど、家の中の空気は確実に心地よくなってきた。

    すると、何故か家族の会話が増えてきた。
    思春期の、チクチクしてそうな心も、ときほぐされているように見えた。

    目には見えないけれど、空気が変われば、そこにいる人の心持ちも変わるらしい。これが一番驚いた。


    季節と一緒に。少しずつ、我が家らしく。

    立夏頃に始めた片付けは、気がつけば秋分の頃になっていた。今年あまり着なかった夏服や、もうよれてしまった服に別れを告げる。来年もまた着たいものを残す。
    同時に、今年の秋冬に着たいものをクローゼットに並べた。「これは、この冬着なかったら捨てよう。」服を並べながら、区切りをつけたいけれど、決心がつかないものをいくつか見つけた。

    さすがにこの時期になると、夫もいままで頑なに拒んでいた服も見直すようになってきた。
    アイテムごとの数が分かるように並べると、足りないものと過剰なものが明確になった。

    変化は、子どもたちも同じだった。
    「片付けのやり方、教えて」と言うようになり、クローゼットの"全出し"から手伝った。

    子どもの1人は夫と同じで【捨てる】ということに強い抵抗があった。
    従兄弟に回せるものは回すということで、折り合いをつけていく。

    もう1人は、捨てることには抵抗がないが、どれが必要なのか判断するのが苦手だった。
    「このズボンにはこのトップス。」とセットアップを決めることで、必要なものとそうでないものの区別をつけられるようになった。

    当たり前だけれど、人それぞれ、基準も落としどころも違うんだな。と思った。

    服だけではない。
    掃除の度に、バスマットやキッチンマットといったものが、邪魔だなぁ。と感じるようになってきた。
    「捨てはしないけど、とりあえず一週間なしで生活してみていい?生活しにくかったら、元に戻すから。」と家族に聞くと、了解をもらう。

    一週間経って、何か困ったかたずねるが、とくに困り事はなかったので、我が家からキッチンマットはなくなった。
    バスマットは、わんこのシャンプーしたあとにやっぱり欲しいという判断になり、洗いがえは捨てて、一枚だけわんこセットとして保管することになった。

    もうごみ袋が10袋も出ることはないが、色々な場面で、家族と折り合いをつけていく。

    我が家にとって、お気に入りではないけど、すごい便利で捨てられないやつ。の代表は、『いつもの取り皿』だった。

    食器を扱っている雑貨やさんに行ったとき、「おにぎりが2つのって、取り皿になって…。」という具体的なイメージを持って食器を眺めるようになった。
    あの取り皿のお陰で、ウィンドーショッピングが、いつの間にか家族との『宝探し』へと変わっていた。
    ある時、「あ。これ、素敵!」そんな食器を見つけ、『いつもの皿』と入れ換えた。

    こうして、いま持っているものを見直すのが楽しくなってきたのもこの頃。
    クローゼットだけではなく、家の中も『どこを見てもお気に入り』へとゆっくり向かっていくのは、自然な流れだったように思う。

    整っていく途中で

    常に順調に減らしてきた訳ではない。とびらを開けてみて、見ないふりして一旦閉じた場所もあるし、甘々に見て閉じた場所もまだまだある。
    片付けは、終わりそうにない。
    そもそも、生きている限り、終わらないものなのだろう。と思うようになってきた。

    減らしている途中で「絶対必要だ」と思って買ってみたものの、
    「あー、これは衝動買いだった。」「SALEに惑わされただけだった。」と反省することもあった。
    そんな時は、いままでみたいに"もったいない精神"で気持ちを誤魔化して使うのではなく、「失敗があったからこそ、価値観は磨かれている。そうだ、ありがとうだ。」と言い聞かせて手放そうと決めた。


    本当に大事なものは、多分そんなに多くはない。
    あれもこれもカバーしようとすると、本当に大事なものも、大多数の中に紛れてしまう。

    大事にしたい時こそ、引き算が必要なのかもしれない。
    植物も、間引きをすることで、大きく育つように。『なんとなく』を間引くことで、大好きが大きく育つ。
    そして気付けば、暮らしが整うループが始まるんだと思う。

    片付けても、買い物から帰ればカウンターの上は数日間、果物やパンの一時置場になる。

    洗濯を終えた服は、相変わらずカゴに入れて和室に並べる。

    ただ、いまは家族みんなが一時置場だと理解している。
    これは小さな積み重ね。
    1人で生活しているわけではないから、1人ではどうにもならない。
    まずは自分で行動してみたら、そのうち、なんとなく理解を示してくれた家族が私にはいた。

    「片付けて、どんな生活がしたい?」と聞かれたら、
    思い付いたときに、すぐに動き出せる生活。手に取ったものが、
    いつも『お気に入り』である生活。
    そんな風に答えられるいまは、片付けでポッカリと穴が空くことはない。
    片付け続けることで、満たされていく。

    まだまだ減らしたい場所はある。
    どう処分しようかと、先延ばしにしているものもある。
    例の場所に、近々処分予定の新たな空の衣装ケースが再び仮置きもされている。

    ものが減っても、生活感しかない。
    いや、生活感がある。

    余白は、心の余白──の言葉は好きだ。
    でも、ゴールの具体的なイメージはない。そして、ゴールするつもりもない。
    片付けは『終わらせるもの』ではなく、『私の価値を育てるもの』だったのかもしれない。

    大好きに囲まれる暮らしは、これからいくらでも深く、いくらでも広くできる。終わらなくていい。
    どんな『お気に入り』と一緒に、どんな余白をつくっていこうか。
    そして、そこでどんな生活を送ろうか───

    そう考える時間が、私をわくわくさせる。きっとこれが、暮らしを豊かにする。ということだろう。

    ピンと張った障子からこぼれる光は、遮られず和室に広がる。暖かく穏やかに。



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