
アダルトチルドレンの私―違和感を文章にして、距離を置く―
【これまで少しずつ綴ってきた記録を、一つの流れとしてまとめています。】
この文章は、私自身の体験をもとに書いています。
特別なことではなく、当時の私にとっては、
それが『当たり前』の毎日でした。
振り返ってみて初めて、それがどういうことだったのか、
少しずつ言葉にできるようになりました。
もし、読んでくださる中で、ご自身の体験と重なる部分があったなら。
それが、何かに気づくきっかけになれば、嬉しく思います。
捨てる自由さえ、なかった
着なくなった服を整理していると、
いつも思う。
私には、
捨てる自由もなかった、と。
実家にいた頃。
着なくなった服をまとめて捨てようとすると、
袋を漁られて、戻される。
「もったいない」と言って。
捨てるつもりのない本は、
勝手に捨てられていた。
「置いておいて」と伝えていたのに。
家を出るとき、
傷んだ洋服タンスを捨てようとしたら、
「使うから置いていって」と言われた。
ものを捨てられない人だということは、知っている。
でも——
私が買ったものを、どうするかくらい、
自由にさせてほしかった。
要らないものを捨てられないストレス。
必要なものを捨てられるストレス。
どちらも、ずっと抱えてきた。
だから今、私は
家族に必ず確認を取る。
相手の気持ちを、ちゃんと尊重できる自分でありたい。
最初の記憶は、家に入れなかった日
幼い頃の記憶を辿ると、
一番古いのは——
家に入れず、道端で泣いている記憶。
出かける用事があるからと、
勝手口から入るよう言われた。
でも、扉は重くて
幼い私には開けられなかった。
泣き続ける私を慰めてくれたのは、
通りすがりの、知らないおばさん。
帰ってきた母に、
謝られた記憶はない。
思えば、
人の気持ちを思いやることができない人だった。
今なら思う。
私なら、事前に一度
実際に扉を開けさせてみるのに、と。
すぐ近くに祖父母の家もあった。
そこへ帰るように言うこともできたはずなのに、と。
まあ、祖父母も毒ではあったけれど。
きっと母は、折り合いの悪い祖父母に
頼りたくなかったのだろう。
甘やかされて育った母は、
人を思いやることができない人だった。
そして——
愛されずに育った私は、
人を思いやれる人間でありたい。
「橋の下で拾った子」と言われ続けていた
幼い頃、
事あるごとに言われていた。
「灯は橋の下で拾った子やから」
別に、私だけじゃない。
兄たちも同じように言われていた。
だからといって、
傷つかなかったわけじゃない。
幼い子どもにとって、
「冗談のつもり」や「躾のつもり」は、通じない。
愛されていないと、
はっきり気づいていたわけじゃない。
でも——
親の自分への態度は、
「拾われた子だからなんだ」と、真剣に考えていた。
しゃくり上げるほど泣いたことも、何度もある。
だから今、私は
娘に同じことは一度も言っていない。
ずっと伝えている。
「お腹を痛めて産んだ、大切な子」だと。
母の生活を支えるのが『当たり前』になっていた
買い物に行くたびに、
当たり前のように言われていた。
「荷物は、お前たちが持ってあげなさい」
母は手に障害があったから、
小学生の頃から、それが普通だった。
でも今になれば思う。
——いや、父が持てよ、と。
車の免許を取ってからは、
それがさらに『当たり前』になった。
母は免許を持っていないから、
仕事が終わると、
パートの迎えに行って、そのまま買い物。
パートを辞めたあとも、
休日になれば、買い物に連れて行く。
気づけばずっと、
母の生活の一部を担っていた。
頼られている、という感覚もなかった。
むしろあの頃は、
それが『当たり前』だと思っていた。
でも——
それが当たり前じゃないと、
ずいぶん経ってから気づいた。
子どもは、
「親のために在るもの」じゃない
奪われ続けていた時間
買い物に行くとき、
よくついて行っていた。
ついて行けば、
お菓子を買ってもらえたから。
でも——
帰り道、母も私もいるのに、
父はそのままパチンコに行く。
何時間も、車の中で待たされる。
高校生の頃、
電車通学のために駅まで自転車で通っていた。
なのに、
駅のすぐそばに父の勤め先があるからと、
車で送ると言われた。
本当は、自転車で行きたかったのに。
車で送られれば、
帰りも当然、父の車になる。
仕事が終わるまで待たされる。
早く終われば、またパチンコで待たされる。
自転車で行って、
自分のタイミングで帰る。
ただそれだけのことが、できなかった。
私の時間は、
ずっと奪われ続けていた。
——だからなのかもしれない。
今でも、
時間に縛られる感覚が苦手だ。
電車の時間に合わせて動くことや、
出張で決められたスケジュールの中にいること。
うまく説明できなかったけれど、
ずっとどこかで息苦しさを感じていた。
自分の時間を、
自分で決められない感覚。
あの頃と、よく似ている。
だから今も、
自分の時間を奪われることが、どうしても苦手だ。
周りに気を配りすぎてしまう
今から思えば、
異様なほど、周りに気を配っていた。
兄に、
「こんな嫁がほしい」と
言われるほどに。
同じ部屋にいた兄が、
何かを探すように視線を動かす。
私は、
すっとティッシュの箱を差し出す。
母が何かを落とせば、
母が拾うより先に、
それを手渡す。
父が「出かけるぞ」と言えば、
すぐ動けるように準備を済ませ、
父の様子に目を配る。
娘が生まれて、
私は『周りに気を配る』ことをやめた。
娘が、一番になったから。
それでも今も、
視線は自然に動く。
目に入った情報を、
無意識に拾ってしまう。
犬のトイレが汚れている。
足を引きずっている。
ご飯が空になっている。
猫の食欲がない。
くしゃみをしている。
夫の機嫌が悪い。
出かけたそうにしている。
今では、この感覚を
できるだけ『良い方向』に使うようにしている。
けれど、これもきっと、
『家族』の顔色を窺っていた名残だ。
気を遣って、
萎縮するのはやめた。
その代わり——
気を遣って、
今の大切な家族を守りたいと思っている。
経験の場を、奪われていた
点字の話を見て、思い出した。
昔、「点字を勉強しようかな」と言ったことがある。
母は即座に反対した。
「なり手が少ないから、使い倒される。やめておきな」
——今思えば。
そうやって行動を制限されたことは、たくさんあった。
中学、高校、社会人になっても、
自由に遠出やお泊りをさせてもらえなかった。
言えば止められる。
だから、黙って行く。
そして後日、
写真や年賀状を勝手に見られて、バレて怒られる。
——勝手に見たくせに。
そうして私は、
「経験の場」を奪われていった。
社会人になった私は、
JRの切符の買い方が分からなかった。
一人で利用したことがなかったから。
やらせてもらえなかったから。
だから今、私は
娘にはいろいろな経験をしてほしいと思っている。
中学生の頃から、友達と遠出していいと言っているし、
高校生のときには、友達の家へのお泊りもOKした。
社会人になれば、
彼氏と旅行に行ってもいいと思っている。
もちろん、最低限のルールは決めているけれど。
心配と過干渉は、違う。
経験の場を奪ってはいけないと思う。
親は、いつまでも側にいられるわけじゃないのだから。
「普通は親にプレゼントするものでしょ」と言われた日
最近、noteを見ていて、
ふと目に入った。
「初任給で、親にプレゼントしなきゃダメ?」
そんな記事だった。
読んでいて思い出した。
——これ、私もあったな、と。
そもそも私は、
「初任給で親にプレゼントをする」なんて風習、知らなかった。
親からも、誰からも教えられていないし、
今みたいに、どこでも見かける話でもなかった。
だから普通に、
自分のために使った。
そしたら言われた。
「普通は、親にプレゼントするものでしょ」
——いや、おかしくない?
プレゼントって、
感謝の気持ちでするものじゃないの?
そもそも、
感謝を向けられるような関係だった?
少なくとも私は、
娘にそんなことを期待しない。
なくても、責めたりしない。
『普通』って言葉で、
押しつけられるものじゃないと思う。
『普通の食卓』を知らないまま大人になった
実家の食事は、ずっと偏っていた。
兄二人が肉好きだったこともあって、
晩ご飯はいつも「肉+惣菜サラダ」。
それが二十年以上続いた。
ようやく
「食べたいものあったら言ってくれたら別に用意するで」と言われた。
——いや、もっと早く言ってほしかった。
その結果、
私はあまり肉が好きじゃない。
特に、安いゴムみたいな牛肉。
食べたことのないものも多すぎて、
結婚してから初めて食べたものがたくさんある。
そのたびに、夫に軽く掘り返される。
社会人になるまで、焼肉屋に行ったこともなかった。
油揚げの入った料理も、ほとんど出てこなかった。
秋刀魚でさえ、三十歳近くまで食べたことがなかった。
母が嫌いだという理由で。
思い返すと、
母の料理というものの記憶がほとんどない。
手に障害があることもあって、
基本は惣菜。
でも正直、
「作れない」より前に、そういう選択がなかっただけなのかもしれない。
気づけば私は、
『普通の食卓』を知らないまま大人になっていた。
それでも今は、
夫に教えてもらいながら、少しずつ料理をするようになった。
自分の苦手な食材も、使いながら。
付き合う人まで否定されてきた
ずっと、
付き合う人間にまで口を出されてきた。
小学生の頃、好きになった子。
「あの家の親は……」
中学生の頃、仲の良かった友達や彼氏。
「あそこの親は変な人だから」
「その苗字、差別地区じゃないの?」
高校の頃、友達になりたかったあの子。
「そこは差別地区だから……」
社会人になって再会した同級生。
「そういう付き合いをしてる家は……」
結婚を考えていた彼氏には、
「差別地区の人じゃない?戸籍を取ってきて」と言われた。
——どこまで口を出すんだろう。
うちも、
他人の家のことをとやかく言えるような家柄でもないよね?
それに——
「やくざでも、差別地区の人でも付き合ってた」って、
自分で言ってなかった?
「別に付き合うなとは言わない」って、言ってなかった?
相手が子連れだからと、
会うことすらしないと、即答された。
親として心配する気持ちは分かる。
それでも私は、
子どもがいる相手と結婚した。
そして、離婚を経て、
子どもを連れて、初婚の今の夫と再婚した。
あちらの両親は、
手放しで喜んでくれた。
血のつながりに関係なく、
孫として接してくれている。
その違いに、私は、
自分の両親を恥ずかしいと思った。
そして——
夫の両親を、心から敬愛している。
母が『親』でなくなった日
私の母は、
甘やかされて育った人だった。
母は2歳のときに実母を亡くし、
その後、実母の妹が継母になった。
母の父や祖母は、母を不憫に思い、
真綿で包むように育てたという。
祖母の家に入り浸ることも、
何度となくあったと聞いている。
そうして母は、
周りから「かわいそうな子」として扱われ、
親戚中から「あきちゃん」と呼ばれて育った。
けれど、父と結婚してからは、
父の両親に「あきこ」と呼び捨てにされるようになった。
それが嫌だったと、
母は何度も私に話していた。
きっと——
私が娘を産んだあと、
その話を最後に聞いたとき。
私は、思った。
「この人は、こどもだな」と。
それが、最後だった。
私は、母を「お母さん」と呼ぶのをやめた。
母方の親戚と同じように、
「あきちゃん」と呼ぶようになった。
このとき——
私の中で、母はもう
『親』ではなくなっていた。
アダルトチルドレンだと気づいた『瞬間』を、思い出せない
両親が毒親であり、
自分が、アダルトチルドレンであると
気づいたのはいつだったのか、考えてみた。
「愛されていなかった」と気づいたのは、
ヒプノセラピーを受けたときだった。
けれど、違和感はもっとずっと昔からあった。
いくら考えてみても、「家族」といて
楽しかった思い出が浮かんでこない。
思い出すのは、
家に入れなくて、家の前で泣いていた自分。
兄たちと従姉妹にプロレスごっこで泣かされて、
母親に泣きついても、取り合ってもらえなかった自分。
親や兄たちの世話をやく自分。
「あの人と付き合うな」と言われて、嫌な思いをしている自分。
保育園?
小学生?
ずっと昔から、嫌な思い出しか出てこない。
結局、いつ自分が
アダルトチルドレンだと気づいたのかは、思い出せない。
けれど、あの環境にいて、
よく「違和感」を感じられたなと思う。
今は、
「違和感を感じられた」
それだけでも自分を褒めてあげようと思う。
まだ、面会に行く気になれない
母親が倒れた。
そう連絡があったのは、
体調が悪くて早退した日だった。
軽度の脳梗塞。
普通に会話もできて、
左手に少し痺れがある程度。
投薬治療とリハビリで、
一ヶ月ほど入院。
先日、老人介護施設へ移ったと聞いた。
入院中、面会には行った。
数えるほどだけ。
倒れたと連絡を受けて
病院へ向かった日。
もともとの体調不良に加えて、
胃痙攣を起こして眠れなかった。
回復に二日かかった。
次の週末、面会に行くことを考えると
また胃が痛くなった。
倒れずに家にいてくれた間は、
必要最低限しか会いに行かなかった。
行かずに済んだ。
施設での面会方法は確認した。
けれど、まだ
行く気になれない。
私の体験が、どこかの誰かの中で、
ほんの少しでも言葉になるきっかけになればと思っています。