
【エッセイ】ヒッピーとスクエア
僕は気づいたんだ
僕は昔は確実にスクエア寄りだった。
過去の僕のスクエアはヒッピーを拒んでいた。
だからスクエアの気持ちは分かる気がするし、そのスクエアのナラティブは正論だし、間違ってもないし、そのナラティブに生きられること、それでいて幸せなことは、僕は羨ましいのかもしれない。
そしてなにより社会はスクエアの方が相性がよい。特に日本は。おそらくは…
でも、僕は変わってしまった
音楽はゲートウェイドラッグだった。
芸術は薬物だった。
決してスクエアの世界が悪いわけでない。
ただ単に、僕はスクエアの世界では絶対に見ることのできない、ヒッピー寄りな世界を知ってしまったんだ。
これは実に幸運なことであり、同時に不幸の始まりでもあったのかもしれない。
スクエア寄りかヒッピーに寄ること
これは不可逆的行為なんだ。
否、往復コストが高い。
ダメ絶対。スクエアの人間、辞めますか?
僕は中途半端だ、未熟なんだ
だって僕はスクエアを辞めてしまったんだ。
でも、心配しないでくれ
スクエア寄りかヒッピー寄りかなんて
普通の社会生活ではさして問題となることなんてないからね。
でも、深いところでは
スクエアとヒッピーは絶対に相容れない存在なんだ。
右左、リベラル保守みたいなものかな。
どっちも必要なんだ
でも、やっぱり分かり合えないんだ。
そもそも、僕は自身の中でも
ピッピ寄りとスクエア寄りが
日々葛藤しているから。
ヒッピーに魅了され、
スクエアであらなければならないと、
手綱を残す。
これはストレスなのかもしれない。
だからこそ僕は
実のところ、迷うことなくスクエアのナラティブで生きれることが羨ましいとも思ってるのかもしれない。
でも、それはヒッピーに魅了された自分を否定することともいえる。
僕は多分
スクエアにヒッピーの自分を認めて欲しくてたまらない、ガキなんだと思う。
とはいえだが、
結局これは、全ての人と人の間にある見えない壁の厚さの濃度の問題ってだけなわけだけど。
保守•リベラル、ピッピー•スクエア
の二元論的構造で見れば、その壁の厚さは分かりやすいってだけで
結局、ヒッピー同士、スクエア同士であっても厚さの濃度や質の違う壁は存在するわけなんです。
質や相性によって、その壁の濃度を下げやすいか否かでしかない。
それが、ラポールの形成のしやすさってことなんじゃあないんですか?
でもやはり、体験、経験としてのそれを
前提として持ち合わせてることで
言語という二次的伝達ツールによって
障壁なく共有それをできるってのは
国際的な文化の障壁をも吹き飛ばすぐらい重要で、簡単なことなんだよね。
結局人は己の信じるナラティブでしか生きられず、それと干渉する他者のナラティブは受け入れ難いんだ。
それはヒッピーもスクエアも双方の立場に等しく言えることだ。
なぜ人は、お互いの異なるナラティブを尊重することが出来ないのだろうか
それが1番の公益侵害なんじぁあなかろうか?
まぁ、これもコストの問題でしかないか…
しかし、
我々は客観的事実として
生を受けた瞬間から
その生をまっとうすることを強いられてる。
社会の中で正しく生きるべき
と
パラダイスで自由に生きるべき
これは
本当は同じ意味なのかもしれない
モチベーションの置く位置の違いでしかないのでは?
スクエア的思考に固執すると
「自由」と「放縦」の言語化の難しい領域の線引きにコストを掛けることは不合理だとして切り捨ててしまうのかもしれない。