
寓話で読み解く株式投資 第53話『大晦日の雷獣と妖怪譚』──2025年相場の総括と“恐れの哲学”
プロローグ|境目の時間に、本は現れるにゃ

大晦日の夜になると、
なぜか毎年、お部屋の片付けを始めてしまうにゃ。
普段は開けない引き出し。
奥に押し込んだままの紙袋。
もう読まないと思っていた資料の山。
テレビの音を小さくして、
一つずつ整理していると、
時間の感覚が、少しだけ緩んでくる。
そんなとき、
本の束の下から、
一冊の解説本が、すっと顔を出した。
――今年の夏、霧島で行われた
開館25周年記念
「水木しげる 魂の漫画展」
その展示で買った、解説本にゃ。
ページをめくると、
妖怪たちの絵と一緒に、
水木しげるさんの言葉が、静かに並んでいる。
妖怪は、
最初から人を怖がらせるために
生まれた存在ではない。
人が説明できなかったもの。
理由が分からず、
どう扱えばいいか迷った感覚。
そういうものに、
名前と姿を与えた結果が、
妖怪だった――
そんな趣旨の解説が書かれていた。
そのページで、
にゃあは、しばらく手が止まった。
「ああ、これは相場の話だにゃ」
2025年の相場は、
数字だけ見れば、堅調だった。
高値を更新し、
強いと言われ続けた一年でもある。
それでも、
どこか落ち着かなかった。
大きな不安があったわけじゃない。
明確な崩壊の兆しがあったわけでもない。
ただ、
名前のつかない違和感が、
ずっと、足元に漂っていた。
妖怪譚が生まれるのは、
いつも、こういう時間だ。
昼と夜の境目。
村と森のあいだ。
年と年のあいだ。
大晦日という日は、
現実と想像の境界が、
いちばん薄くなる。
相場における「恐れ」もまた、
この境目で、
姿を持ち始める。
この話は、
2025年の相場を
勝ったか負けたかで振り返る話じゃない。
雷獣や妖怪が、
なぜ、昔から語り継がれてきたのか。
そして、
相場の中で生まれる「恐れ」と、
どう距離を取ればいいのか。
片付けの途中で出てきた一冊の本が、
そんなことを、
静かに考えさせてくれたにゃ。
第1章|妖怪は「怖いから」生まれたわけじゃないにゃ

水木しげるの妖怪譚を読んでいると、
ひとつ、はっきり分かることがあるにゃ。
妖怪は、
人を怖がらせるために生まれた存在じゃない。
むしろ逆だ。
人がすでに感じていた
説明できない不安や違和感に、
あとから名前と姿が与えられた。
夜道で感じる視線。
森の奥から聞こえる音。
理由は分からないけれど、胸がざわつく感覚。
それを
「何でもない」と切り捨てることもできたはずにゃ。
でも人は、そうしなかった。
得体の知れないものを、
そのまま得体の知れないままにしておくのは、
それ自体が、いちばん怖かったからにゃ。
だから妖怪は生まれた。
恐れを整理するための“器”として。
相場も、同じ構造をしているにゃ。
2025年の相場では、
明確な大暴落があったわけでも、
決定的な破局が起きたわけでもない。
それでも、多くの人が、
ずっと「何か」を怖がっていた。
利上げかもしれない。
地政学リスクかもしれない。
AIバブルかもしれない。
でも、それらは全部、
あとから貼られた名前に過ぎない。
本当の正体は、
「この先が見えない」という感覚そのものだったにゃ。
妖怪が、
闇の正体を説明するために生まれたように、
相場の恐れもまた、
不透明さから自然に立ち上がってくる。
大晦日という日は、
その不透明さが、いちばん濃くなる時間だ。
一年を振り返りながら、
来年を想像する。
まだ起きていない出来事が、
頭の中で、勝手に輪郭を持ち始める。
そうして、
「雷獣」や「妖怪」という名前が、
相場の中にも、いつの間にか現れる。
でも、ここで一度、立ち止まって考えてみたいにゃ。
妖怪は、
現実を壊す存在だっただろうか。
多くの場合、
妖怪は“説明役”だった。
人が恐れている理由を、
人の言葉に翻訳する役目。
相場の恐れも、
それと同じかもしれない。
問題なのは、
妖怪がいることじゃない。
妖怪を、
実体以上の怪物に育ててしまうことにゃ。
第2章|雷獣は、なぜ必要以上に大きく見えるのかにゃ

雷獣という存在は、不思議だにゃ。
姿をはっきり見た人は、ほとんどいない。
それなのに、話の中では、いつもとてつもなく大きい。
空を裂き、山を揺らし、
一瞬で村を滅ぼすほどの力を持っていることになっている。
でも、人が実際に体験しているのは、
雷の「音」と「光」だけだ。
一瞬の閃光。
耳を打つ轟音。
地面が、少し震えたように感じる、その感覚。
雷獣の巨大さは、
その瞬間に生まれるのではない。
雷獣は、
見えた瞬間より、
振り返ったあとに大きくなる。
相場の恐れも、同じ構造をしているにゃ。
2025年の相場には、
何度も「雷鳴」があった。
急な値動き。
強い見出し。
不安を煽る言葉。
でも、それら一つひとつは、
本当に“致命的”だっただろうか。
多くの場合、
相場は少し揺れただけだった。
数字は動いたけれど、
世界が壊れたわけではない。
それでも雷獣は、
時間とともに、
頭の中で大きくなっていく。
なぜか。
音が鳴ったあと、
人は「意味」を探し始めるからにゃ。
これは何の前触れだろう。
次は、もっと大きな雷が来るのではないか。
今回は、逃げたほうがいいのではないか。
そうやって、
まだ起きていない未来が、
現在の恐れを、後ろから押し広げる。
雷獣は、
未来から逆算されて巨大化する。
2025年の相場で、
動けなかった人の多くは、
「今」を見ていなかった。
見ていたのは、
頭の中で育った雷獣だった。
もし、もう一度立ち止まって、
目の前の事実だけを見るとしたら、
景色は、ずいぶん違って見えたはずにゃ。
値動きは、想定の範囲か。
生活は、壊れていないか。
設計は、崩れていないか。
雷の音は、
それ自体が危険信号とは限らない。
問題なのは、
音のあとに、
どんな物語を付け足すかだにゃ。
雷獣は、
音そのものではなく、
人の想像力によって巨大になる。
相場の恐れも、
事実より、想像のほうが大きくなったとき、
はじめて怪物になるにゃ。
第3章|恐れを消そうとすると、なぜ歪むのかにゃ

相場の世界では、よくこんな言葉を聞くにゃ。
「恐怖に打ち勝て」
「感情を排除しろ」
「冷静であれ」
たしかに、恐れに振り回されるのは良くない。
でも、恐れそのものを“消そう”とする態度は、
別の歪みを生むことが多いにゃ。
妖怪譚でも、同じ構図がある。
いちばん悲惨な結末を迎えるのは、
妖怪を見た人ではない。
「そんなものはいない」と言い切った人だ。
見えないものを、
見えないままにしておく勇気と、
見えないものを、なかったことにする傲慢さは、
まったく違う。
2025年の相場でも、
「自分は怖くない」と言っていた人ほど、
どこかで無理をしていたように見えた。
下がったときも平気。
上がっても当然。
不安は一切ない。
そう言い切る姿は、一見すると強そうに見える。
でも実際には、
恐れを感じるセンサーを切ってしまっているだけだったりする。
恐れは、
危険を知らせるための感覚にゃ。
雷が鳴ったとき、
少し身構えるのは自然な反応だ。
それを「気にするな」と自分に言い聞かせると、
次に来る音に、逆に過敏になる。
恐れを消そうとすると、
恐れは、別の形で噴き出す。
急な全売却。
極端な一点集中。
あるいは、完全な思考停止。
どれも、
恐れが姿を変えただけにゃ。
妖怪を退治しようとして、
村そのものを壊してしまう話があるように、
恐れを排除しようとすると、
判断の土台まで壊してしまう。
大切なのは、
恐れを「感じないこと」じゃない。
恐れに、
判断を委ねないことにゃ。
怖い。
不安だ。
それでも、今やっていることは何か。
生活はどうか。
設計は崩れていないか。
恐れを、
意思決定の中心に置かない。
でも、
警告音としては、ちゃんと聞く。
それができていた人は、
2025年の相場でも、
大きく振り回されなかった。
雷獣を倒したわけじゃない。
逃げ出したわけでもない。
ただ、
距離を保って、見ていただけにゃ。
第4章|恐れは、追い払うものじゃなく「置く」ものにゃ

恐れを消そうとしない。
でも、振り回されもしない。
じゃあ、どうするのか。
にゃあがたどり着いた答えは、
とても地味なものだったにゃ。
恐れは、配置すればいい。
妖怪譚の中で、
うまく村が続いている話には、共通点がある。
妖怪を完全に倒そうとしない。
でも、家の中に入れもしない。
祠を作る。
境界を決める。
「ここから先には来ない」と、
場所を与える。
恐れも、同じにゃ。
怖い、という感情を、
心の真ん中に置かない。
でも、視界の端には残しておく。
2025年の相場で、
安定していた人たちは、
こういう行動をしていた。
「全部売るほどじゃない」
「でも、少しだけ余裕を残そう」
「生活費は、相場に近づけない」
恐れは、
売買ボタンを押す理由にはしない。
でも、
設計図を描き直す理由にはする。
これが、配置にゃ。
雷が鳴る前提で、
屋根を点検する。
でも、
雷が鳴るたびに、家を捨てない。
恐れを、
行動のトリガーにすると、
判断は荒れる。
恐れを、
設計の材料にすると、
判断は落ち着く。
この違いは、とても大きい。
恐れを感じる自分を、
否定しなくていい。
「怖いと思っているな」と、
一段引いて眺める。
その距離感が、
雷獣を怪物にしない。
2025年相場は、
強かった。
でも、その強さの中で、
恐れを感じなかった人はいない。
違いがあったとすれば、
恐れを、どこに置いたか。
真ん中に置いた人は、動けなかった。
見ないふりをした人は、歪んだ。
横に置いた人だけが、
歩き続けられたにゃ。
第5章|妖怪譚は、年が変わっても消えないにゃ

年が変わると、
相場の空気も変わったように感じるにゃ。
新しい年。
新しいテーマ。
新しい主役。
でも、妖怪譚の世界では、
妖怪は年末で消えたりしない。
名前が変わるだけだ。
昨日まで雷獣と呼ばれていたものが、
別の名前で語られるようになる。
姿も、理由も、少しずつ違って見える。
相場も同じにゃ。
2025年に語られていた恐れは、
2026年には、
別の言葉で語られるだろう。
金利かもしれない。
為替かもしれない。
技術革新かもしれない。
でも、その根っこにある感覚は、
あまり変わらない。
「この先が見えない」
「今の判断でいいのか分からない」
だからこそ、
恐れそのものを消そうとするより、
恐れとの付き合い方を覚えるほうが大切になる。
妖怪譚は、
未来を予言する物語じゃない。
人が、
不安とどう向き合ってきたかの記録だ。
相場も、同じだにゃ。
チャートや数字の裏側には、
いつも人の感情がある。
恐れ。
期待。
焦り。
安心。
それらが形を変えながら、
何度も、同じ場所に現れる。
大晦日という境目は、
それに気づくのに、ちょうどいい時間だ。
来年、また雷が鳴るだろう。
また、妖怪の噂が流れるだろう。
あるいは、クリスマスの夜に信じた奇跡や、
昔話の中で手渡された教訓が、
ふと必要になる夜も来るかもしれない。
そのとき、
「また来たな」と思えればいい。
怖がりすぎず、
なかったことにもせず、
少し距離を取って眺める。
妖怪譚は終わらない。
でも、読み手は成長できるにゃ。
第6章|鐘が鳴る前に、確認しておくことにゃ

大晦日の夜は、
何かを決めるのに向いている時間じゃないにゃ。
来年はどうする。
何を買う。
何を売る。
そういう問いは、
静けさの中では、
かえって形を失ってしまう。
この夜に向いているのは、
「決断」ではなく、
「確認」だと思うにゃ。
今年、恐れは、
どこに置いてあっただろうか。
心の真ん中に置いて、
動けなくなってはいなかったか。
逆に、
見えない場所に押し込んで、
無理をしていなかったか。
2025年の相場で、
一度も怖いと感じなかった人は、
きっと、いない。
それは失敗でも、弱さでもない。
相場を、ちゃんと見ていた証拠にゃ。
大事なのは、
その恐れが、
売買の命令権を持っていなかったかどうか。
怖いから全部売った。
怖くないふりをして、賭けすぎた。
そういう形になっていなければ、
恐れは、きちんと横に置けていたということにゃ。
雷は、また鳴る。
妖怪の噂も、また現れる。
でも、
屋根はある。
境界も引いてある。
生活は、相場の外側にある。
それが確認できれば、
この一年は、十分に歩けていた。
除夜の鐘は、
何かを消し去るために鳴る音じゃない。
一年分のざわめきを、
静かに片付けるための音だ。
恐れも、不安も、
今年の分は、ここに置いていけばいい。
来年、また必要になったら、
また横に置けばいいだけにゃ。
それくらいの距離感で、
相場とは、ちょうどいい。
にゃあのしっぽ(編集後記)

今年の夏、
霧島へ行ったにゃ。
展示を見て、
街を歩いて、
山の気配を感じながら、
静かな時間を過ごして帰ってきた。
そして、その翌日。
新燃岳が噴火した。
ニュースの映像を見ながら、
しばらく言葉が出なかった。
昨日まで、
ただそこにあった山が、
一瞬で、別の顔を見せていた。
自然は、
人に何かを教えるために動くわけじゃない。
怒っているわけでも、
警告しているわけでもない。
ただ、
そこに在る力が、動いただけ。
それでも人は、
そこに意味を探してしまう。
相場も、同じだにゃ。
大きく動くと、
理由を探し、
物語を作り、
名前を付けたくなる。
でも、
噴火も、雷も、相場の揺れも、
誰かを脅かすために起きているわけじゃない。
ただ、起きているだけ。
その前で、
人は小さい。
でも、
考えることはできる。
距離を取ることもできる。
近づきすぎず、
無視もしない。
見て、備える。
それだけでいい。
今年も、ここまで読んでくれて、
本当にありがとうにゃ。
この二週間は、
クリスマスの物語、
日本の昔話と、
いつもとは少し違う寓話を書いてきた。
年が明けたら、
また、イソップ寓話に戻る予定にゃ。
妖怪や雷獣は、
しばらく姿を消すかもしれないけれど、
相場の境目には、
また別の物語が現れるだろう。
そのときも、
一緒に考えていけたら嬉しいにゃ。
今年も、ありがとう。
来年も、よろしくにゃ。