
AI時代に考える、自由とジェンダー
「ジェンダー平等」という言葉について、最近政治でも、教育でも、企業でも、SNSでも
男女平等や多様性について語られる機会は、以前より確実に増えた。
けれど私は時々
“平等”そのものが目的になってしまっている議論に、少し違和感を覚えることがある。
ココ・シャネルの生き方
先日、ココ・シャネルの生き方を紹介する投稿を見た。
そこには
「"選ばれる側"である限り、人生は他人の都合で決まる」「依存は、飽きられる。可愛さは消費される。でも、この人じゃなきゃ困ると思わせる女は捨てられない」
といった、彼女の言葉が並んでいた。
彼女の強さを表す一方で
歴史的に賛否ある人物でもある。
それでも女性が「誰かの所有物」ではなく
一人の人格として生きることを強く打ち出した存在だったと私は思う。
コルセットから女性を解放し
「女性はこうあるべき」という窮屈さに風穴を開けた。
そして何より
“女性が自分で稼ぎ、自分で生きる”
という価値観を、時代の中で示した人物だった。
ただ、その投稿のコメント欄を見ていると、
さまざまな意見が飛び交っていた。
「現代女性は優遇されている」
「女性は自由を履き違えている」
「男性社会があったから女性が活躍できた」
「男性の方が責任を背負っている」
「レディファーストされるのだから女性は得をしている」
そんな声も少なくなかった。
その中で
「“女性が現在の世界情勢を考えれば優遇されている”というのと、“女性が納得するくらい優遇されている”では天と地ほどの差があります」
というコメントもあり、確かにそうだ、と思った。
私はこれまで
「女性はいいよね」
「レディファーストされるから得」
「女性は優遇されすぎている」
という声を、男性から聞くことが何度もあった。
実際に女性だから配慮される場面や
助けられる場面があることも事実だと思う。
例えば
重い荷物を持ってもらえること。
危険な作業から外されること。
外見を褒められること。
男性より柔らかく扱われること。
そうした“女性であることによる優遇”が、まったく存在しないとは思わない。
けれど同時に、
女性側にしか見えない負担や生きづらさも存在している。
出産や育児によるキャリア中断。
シングルマザーの貧困。
年齢や容姿で評価されること。
性被害への恐怖。
家事やケア労働が無意識に女性へ偏りやすいこと。
「愛嬌」を求められる空気。
そして仕事を頑張れば
「強すぎる」「可愛げがない」「誰かに教えてもらってる」と言われ
家庭に比重を置けば
「自立していない」
と言われるような、矛盾した視線。
逆に男性側にも別の苦しさがある。
「男なんだから養わなければならない」
「弱音を吐くな」
「長時間働いて当たり前」
「家族を守れ」
という圧力。
実際、日本の自殺率は男性の方が高い。
厚生労働省「令和5年自殺対策白書」によると、2023年の自殺者数は男性が女性の約2倍となっている。
つまり
どちらが得か損か
どちらが被害者か
という単純な話ではないのだと思う。
男性にも苦しさがあり
女性にも苦しさがある。
そしてその多くは
「男らしさ」
「女らしさ」
を固定しすぎた社会構造から生まれている。
だから私は
ジェンダー問題を“男女対立”として語るよりも
「自分自身で自分の人生を選べる社会になっているか」
という視点で考えることが大切なのではないかと思っている。
「自立」と「支え合い」は矛盾しない
ココ・シャネルの言葉を見ていると
「女性は自立しなければならない」
というメッセージが強調されがちだ。
けれど私は
本当の意味での自立とは、
“誰にも頼らず一人で生きることではない"と思っている。
シャネル自身もまた、多くの男性の支援や
時代の流れの中で生きていた一人である。
つまり、人は完全に一人では生きられない。
支え合いながら生きている。
だから私は
「依存するな」
とも
「女性は家庭に入るべき」
とも思わない。
誰かに支えられることも
誰かを支えることも
自立して働くことも
家庭を守ることも
全部“選べる”ことに意味があると思っている。
本来自由とは、誰かによって作られた“正しい生き方”を押し付けられないことのはずだ。
現代社会では
「キャリア女性こそ正しい」
「専業主婦こそ幸せ」
「男は稼ぐべき」
「女は優しくあるべき」
と
新しい“正しさ”が次々に作られていく。
そのたびに、人はまた苦しくなる。
私は
ジェンダー平等とは、
男性と女性を“同じ”にすることではなく、
それぞれが納得して人生を選択できること
なのだと思う。
AI時代に強まるルッキズム
AIの進歩もまた、著しい。
最近では人型のAIの動画や、対話型AIなどが増えてきた。
私が見た動画では
いわゆる“男性受けしやすい”ような、美しい女性型AIが、柔らかい声で案内役をしていた。
技術としては本当にすごいと思った。
自然な会話。
美しい映像。
人間とほとんど変わらない表情。
けれど私は
その動画を見ながら、
少し複雑な気持ちになった。
AIがここまで進化してもなお
「美しさ」
「愛嬌」
「優しさ」
「癒し」
といった、ある種の“女性らしさ”が
商品価値として使われ続けていることに気づいたからだ。
もちろん、それ自体が悪だと言いたいわけではない。
美しいものに惹かれる感覚は、人間の自然な感情でもある。
けれど、AIという最先端技術の世界ですら、
“好まれる女性像”が再生産されていく現実を見ると、
社会の価値観は、技術が進歩しても簡単には変わらないのだと思わされた。
そしてAI時代が進めば進むほど、逆に人間は、
「人間らしさ」をより求めるようになるのかもしれない。
見た目。
雰囲気。
愛嬌。
コミュニケーション能力。
安心感。
つまり、AIに代替されにくい要素ほど、
価値として強調されていく可能性がある。
だからこそ、ルッキズムやジェンダーの問題は、
これからさらに複雑になると思う。
便利さや効率化だけではなく
「人間をどう見るのか」
という倫理観そのものが問われる時代に入っているのだと思う。
本当の自由とは
ジェンダー平等を考える時
私は
「男性が悪い」
「女性が悪い」
という話にしたくない。
社会はもっと複雑だ。
歴史も
文化も
経済も
生物学的な違いも
全部絡み合っている。
だから、単純な正解はない。
ただ少なくとも私は
「こう生きなければならない」
を減らしていきたい。
女性だから
男性だから
母親だから
父親だから
こうあるべき。
そういう固定観念で、自分も苦しくなりたくないし、苦しくなる人を減らしたい。
仕事を頑張りたい人は頑張ればいい。
家庭を大切にしたい人は大切にすればいい。
支え合って生きてもいい。
一人で挑戦してもいい。
その全部を、本人が選べること。
それが本当の自由なのではないかと思う。
春口あかね