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つらつら椿みちづれに【創作大賞2026】

    あらすじ

    「——あなたがこの世界に生まれてきてくれて、ありがとう」
     だけど‥‥‥それは本当に、奇跡だったのか。死にたいと願っていた僕は、あなたから生きるための勇気を貰った。けれど、こうしてたった独り残されてみれば、どこが幸運だというのだろうか。
     八重咲の椿が島を覆う頃、坂門椿渚はとある私立高校の新任教師として赴任した。そこで出逢ったのは、かつての亡き妻と同じ名前をもつ少女——春野美沙姫。過去に囚われて他人を傷つけることを何よりも恐れる男女が、不器用にも心を開いていく。教師と生徒の背徳性、それでも手繰り寄せたいと願う、新たな幸せのカタチ。壊れてしまった愛を再び紡ぎながら、僕たちはこれからも生きていく。
     これは、あなたの幸せのための物語——。

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    自分はまだ愛を受けない
    自分はまだ触手されたことがない
    自分は正当に万人とともに孤独だ
    自分は庭へ出て
    草花に水をやったり
    柿の木の下に椅子を置いたり
    そこに座して風をきいたり
    高い空を眺めたりしている
    自分が草花に水をやるとき
    自分は新らしいものらの光の
    自分の心にのりうつることを知る
    凜然とした
    あれらのよき匂いと姿勢とは
    僕のゆがんだところを正しくする
    僕の心をいとやさしくする
    こなれて僕の英気となるのだ
    僕を活発にするものだ
    僕の顔いろをよくしてくれるものだ
    毎日毎日鷲のような孤独を感じ
    鷲のように凡てから離れ住んで
    いま此等の正しきものらに触手する
    しみじみ賛嘆する
    自分はいまの年齢によって初めて
    草木の値を知るのだ
    自分の知らなければならないものらは
    この世にどれだけ多くあることだろう
    あせりにあせり
    いま此処を通る

    室生犀星『愛の詩集』より「鷲の詩」


    一

     世の中は、自分よりも幸せそうな人間で溢れている。
     いまの僕には、この世界がそんなふうに見えている。
     ‥‥‥なんて、弱音を吐いてみたとしたら。貴女はどんなふうに思っただろうか。まだ僕には早過ぎると、嘆いてくれただろうか。いつか同じように思ってくれることを願うね、と微笑んでくれただろうか。或いは、いまの椿渚くんなら仕方がないね、と許してくれただろうか。
     朝六時半。
     間近に五島灘を臨む墓標の前で、僕は両膝をつき拝跪する。手向けの花は真白き百合。首元で瑪瑙質のペンダントを開けば、あの日々のままの貴女が微笑みを僕に向けている。
    「おはよう、未咲さん。今日から僕ね、聖福高校の先生になるんだよ」
     返事をしてくれる人はいない。
     当たり前だ。だって貴女はもう、この世界にはいないのだから。
     同じ空の下に二人、傍にいるはずなのに、同じ時間を生きていない。坂門椿渚(さかとつばさ)ひとりごちるように、呟いた。
    「‥‥‥ふぅ。また、独りになっちまったな」
     正面にくぎり正しい、雪白な霞を召した山の女王のましますばかり、眼下には見渡す限り紺碧の海が、朝焼けの光を吸って銀灰色をなして浮かび上がっている。浜に引き上げられた船や、畚や、馬秣のように散らばった搗布の如き、いずれも海に対して我々は顔を隠す必要がないから、固より馴れた目を遮りはしない。かつ人一人いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。この長閑さは野にも山にも増して、あらゆる白砂の俤は、あたかも暖かな霧に似ている。
     ふと見上げれば、鳩は蒼空を舞うのである。ゆったりした浪にも誘われず、風にも乗らず、おんなじ一処を——その友は館の中に、ことことと塒を踏んで、くくと啼く。しかしその羽音は、時として奈落の底から響く乱調の太鼓の如く、耳の根元で「主よ、わが罪を許させたまえ」と囁く老婆の断末魔を呼び醒ます。人はこういう処に、こうしていても、胸の雲霧の晴れぬ事は、寐られぬ衾と相違ないのである。
     僕は、久しぶりに帰還したこの島の土を踏みしめながら、徒らに足元の砂を握る。それはくぼみもせず、高くもならず、他愛なくほろほろと崩れると、また傍らからもり添えるばかり。まるで水を掴むようなもので、捜ればはらはらとただ貝が出る。渚には敷き満ちたが、何んにも見えない処でも、わずかに砂を分ければ貝がある。まだこの他に何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
     もし、この水の底を捜したならば、神がために死を選んだという殉教者たちの魂も、其処に健在であろうとも思われる。否、健在ならばという心で、君とその「みるめ」を追うべく、四方の海の水の底へも潜ろうと、ことづけをしたのであろうか。この歌は平安朝に艶名一世を圧した名媛が、その情に感じて詠んだものと聞き及ぶ。男は真先に世間外に、はた世間のあるのを知って、空想を実現せしめんがために身を以て直ちに幽冥に趣いたもののようであるが、坂門椿渚という存在もまた、貴女という幻影を求めて、この島という境界へ引き寄せられたのであろうか。
     やがて曉の水煙が薄青く流れて、東の天がようやくに明るくなると、半空の雲が焼けはじめて緋色に、また藤紫にと、狂気的なまでの色彩の氾濫が始まった。その時、一道の金光が漫々と涯無き浪路の尽頭から、閃くが如く、迸るが如く、火箭の天を射るが如くに発するのである。忽ちにしてその金光の一道は二道となり、三道となり、四道五道となり、奕々灼々として、火龍舞い朱蛇驚き、万斛の黄金の炉を溢れて、紅玉熔け爛れんとする大日輪が滄波の間から輾り出す。
     この眩耀たる光景は、単なる自然の推移ではない。それは木花開耶姫が一匙のクリームを天上から注ぎかけたような、甘ったるく、なまぬるい毒素を孕んだ大気であり、見る者の視覚を「朧」の中に狂わせてゆく魔性の兆しであった。この乳色のどろどろとした光の粒子に包まれるとき、人は自己という形態の境界を失い、羽化登仙の心地を覚えながらも、同時に底知れぬ奈落の淵に惹き寄せられるような倒錯した恐怖に襲われるのである。
     僕は鏡を見ずに日々を暮らせる人間の幸福を呪いながら、水面に映る己の陰を睨みつける。そこに映るのは、かつての僕ではない。血の重さを失い、羽毛のように軽く、白紙一枚の能面の如き、奇怪なる道化師の笑みである。あるいは、それは既に死相を湛えた、水底に沈む水草の如き往生際を見せぬ幽霊か。あるいは胡蝶が夢見る、血を塗った人魂の如き椿が落ち続ける、果てしない白昼夢の続きであろうか。蒼ざめた空の一片が、宛然涼しい水銀の鏡となって、僕の不完全な魂をどこまでも暴き立てるのである。
     なぜならば、僕はあの日に喪った、貴方という存在を——坂門未咲(さかとみさき)という幻影を求めて、この「境界の島」へと引き寄せられたのであるから。
     ふと視線をあげれば、籬に沿い、樹間を潜り辿りゆく道中に、一叢の椿がその身を崩すことなく、不吉なる赤を地面に滴らせる墓標の前で、一群の男女が花を捧げて回向する姿があった。それは最近、愛別離苦という避けがたい業火に焼かれたばかりの者たちであろうか。芳草年々緑なる盆ごとに、人は尽きぬ涙を墓前に灑ぐものであるが、その痛々しいまでの悲しみの情景を目の当たりにすれば、誠に浮き世は一人の憂き世ではないのだという、陳腐な、それゆえに拒絶し難い真理を突きつけられるのである。
     しかし耳を打つのは、まるで老人たちの同窓会でも開いているかのような、軽佻浮薄な言葉の羅列である。彼らは各々、紋切り型の弔意を舞台の口上のように述べ立て、生温かい涙を墓前に灑いではいるものの、その実、その視線は既に「それで、あのご自宅はどうなさるの?」「さあねぇ、お父つぁんは家を好かんとじゃったから、案外あっさり手放すかも知れんよ」といった、卑俗なる現実の打算へと注がれている。ある者は鼻声をわざとらしく震わせ、ある者は「徳義に適った立派な故人」を称えることで、おのれの良心を慰撫しようと試みる。
     どうにも、彼らの流す涙の温度を、今の僕は分かち合うことができない。他人の不幸はどこまでも生温かく、おのれの孤独は「冷酷」という名の誠実に塗り潰されているのである。孤独とは、人影絶えた深山にあるのではなく、こうして大勢の人間との「間」にこそ、真空の恐怖として実在しているのだという事実を、僕は彼らのすすり泣きの声の中に、冷徹な明瞭さをもって見出していた。彼らの喪失が共同体としての儀礼の中に回収されていくのを横目に、僕は僕という不完全な作品を抱えたまま、彼岸への金石がぽつぽつと遺される樹林の闇を独り、通り過ぎてゆくのである。
     すれ違いざま、一人の若い女が、にやにやと笑いながらパチパチと目を動かし、隣の若い男の袖を引いて囁く。
    「いや、失敬、失敬。——ええと、結婚しない理由……? そうだね。自由を束縛されるのはいやだから。兄さんたちで遺産相続なんかはじまったおかげで、四方八方束縛されてるのに、これ以上結婚で束縛されるのはいやだよ」
    「恋愛は……?」
    「目下していない。君は……?」
    「‥‥‥」
    「なんだか、していそうだね」
     莫迦々々しい質問だと、椿渚は聞いていて愛想が尽きた。若い男は続ける、
    「するなら、どんな恋愛をしたいの?」
    「そうね。プラトニックラヴね」
     女って皆そう言うと思った。儚い女の郷愁だろう。
    「プラトニックだけで済むかね」
    「ベーゼ……? ベーゼなんてくだらないと思うわ。そう思わない……?」
    「まア、そうだね」
     と、男はしぶしぶ相槌を打っていた。つまらぬ相槌を打ったものだ。
     話が途切れた。
     男はじっと女の顔を見詰めていた。女は、にやにやしていた。
    「どうして、にやついてるの……?」
    「どうして……?」
     にこっと笑って、眼をパチパチさせた。
    「どうしてだか判らない。何だか笑いたくてたまらないの」
    「照れてるんじゃない……?」
    「そうよ。あたし、物凄い照れ症なのよ。こりゃたまらない」
     本当に噴き出してしまった。
    「私があんまり見るから……?」
    「そうよ。あたし人に顔を見られると、すぐ照れちゃうの」
    「それでよく口説こうと思ったね」
    「振る方なら平気なんだけど」
     そしてまた笑いだすと、
    「あたし、失礼するわ」
     と、起ち上がった。男の方の顔は、やられたという感じだった。
    「じゃ、下まで送ろう」
     男は帽子を被り直した。それで女の手を引いて、駐車場の方へ歩き出した。
    「思えば、僕が現在空想しているようなこと、現在僕には有り得べからざる、到底この世のものではないように思われることの一切も、実のところは頗る平々凡々たる事柄にすぎないのだ」
     と坂門椿渚は、自動車のあとを追っかけて行く濛々たる砂塵を眺めながら考えるのだった。
    「何もかも頗る平凡な、人間なら誰にもあることなのだ。例えばあの棺桶に入ったばかりの老人にしたって、若い頃には恋をして、現在じゃ女房もあれば子供もあるというわけだ。さっきの男だってそうだ。あんなみっともない真赤な後頸をして、胴中ときたらまるで四斗樽みたいなずんぐりもっくりなくせに、ちゃんと女房があって、おまけに大事にされている。僕にしたってみんな同じ人間だ、おそかれ早かれみんなと同じ経験をするに違いないんだ‥‥‥」
     だが我らが主人公の目の前には、ありありと女の顔が見えている。その今際の顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出してゆきそうに思われる。彼は欲も得もいらないほどこわかった。
     ——ひゅう。山間を吹き抜ける風に煽られ、散香の花弁が舞い踊る。ただ毫という一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。
     他人の幸福と不幸を横目に、坂門椿渚は「自分」という不完全な作品を抱えたまま、彼岸への十字架がぽつぽつと遺される樹林の闇を独り、通り過ぎてゆく。そして自分だって世間なみの人間だ、自分の生活だって世間なみなんだという想念で、彼は嬉しくなって一寸勇気も出てきた。彼はもう思いっきり大胆に、例の女の面影や、やがて来るべき自分の幸福を心に描いて、なんの憚るところもなく想像の翼をひろげて行った。
     僕は自問する。僕は、貴女とともに幸せだったのだろうか——。
     
    「——忘れないで。私はいつだって、がんばってる椿渚くんを応援しているよ」​
     
     人生の意味。
     死を望んでばかりいる人間に対して何を言っているんだ。
     夢も希望も眩しすぎて眩暈がするんだ。
     そう、思いながらも。
    「愛は寛容なもの、慈悲深きものは愛。愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない——か。ねぇ、未咲さん。情けない男で、ほんとうにごめん。二年もかかってしまったけれど、これからなんだ。あなたと交わした約束を、果たしてみせるから‥‥‥」
     不意に、僕の脳髄の奥底から、あの日、貴女を失った瞬間の記憶が極彩色の絵図となって蘇ったのだ。あの日——未咲さんと初めて出逢った日の夕焼けは実に好かったと覚えている。その返照はいつまでも透明な黄の霞んだ青磁や水浅葱の西の空に、紅くあかく地平の積巻雲を燃え立たせた彼方から廊下を染め上げ、夢中に駆けていく少女の背が見えなくなるまで、僕は手を振って見送った。紫ばんで来た秀麗な山際の上に引き映えた吹き流し形の、天蓋の、華鬘の、金襴の帯の如き雲の幾流れは、緋に靡き、靡きて朱となり、褪紅となり、灰銀をさえ交えた柔らかな毛ばだちの樺となり、また葡萄紫となった。島内に点在する教会の尖塔の幽かに黄に輝き残る白鐘、そうして天の匂い深い色の推移。それが同じく緋となり、褪紅となり、柔らかな乳酪色となり、藤紫となり、瑠璃紺の上光となった、——その美しすぎる終焉の情景は、未来があるものと定まり、霊魂の行末が極まったら直ぐにあとを追おうと言った、坂門椿渚自身の鬱悶という名の誠実さを浮き彫りにする。ただその有耶無耶であるために、僕は貴女のあとを追うことも叶わず、生き長らえる効もないまま、この島で新しい「死」と「生」の交錯を見詰め続けているのである。
     きょうの告別は短かった。僕が幸福を祈ると、くれぐれも幸福を祈ると、彼女は黙って僕の背中を押してくれた気がした。胸を張って、僕は長い間太陽が昇ってくるのを、見送っていた。その眼には、深いまじめさがあった——そうして勝利が。
     僕はこの上、なにをいうことがあろう。——彼女は死んだ。出産の翌朝——いや、ほとんどその当夜に死んだのである。これはそうなるのが当然だった。彼女がこんなに長い間、死を征服してきたのは、ただひとえに意志の——幸福への意志のおかげではなかったのか。その幸福への意志が充足させられた時、彼は死ぬよりほかはなかった。争闘も抵抗もなく、死ぬよりほかはなかった。彼女は坂門椿渚という存在のせいで、もはや生きるための口実を失ってしまったのである。
     
    「——あなたがこの世界に生まれてきてくれて、ありがとう」
     
     彼女が遺した最期の言葉を、あるいは「生」という名の脱け出すことの出来ぬ呪縛として、この胸の深淵において不断に反芻する。凡そ「存在」という不条理な現象に対する、これ以上なく傲慢で、且つ至純なる肯定の一句。その一言一句が、真空の如き僕の胸中に、烈しい動悸を伴って響き渡るのである。
     椿渚は胸のポケットに忍ばせた、瑪瑙の輝きを失わぬ彼女の遺品を、運命という名の巨大な歯車に抗う唯一の錨として、指先でしかと愛撫する。指先に伝わる、凍てついたように冷ややかな硬質の感触は、あの日、彼の手の中で見る見るうちに温度を失い、死という名の静寂に屈していった、あの白皙の手の記憶を鮮烈に呼び起こす。
     朝日は今や山から空を仰ぎ見て、驚くほどの黄金色を海面に投げかけていた。その眩耀たる光の粒子は、あたかも死者の霊魂を導く来迎図の如き荘厳さを纏い、坂門椿渚という不完全な作品を、白日の下に曝け出す残酷な審判の如く降り注ぐ。
     僕は自動車にエンジンを噴かせ、一歩、新しい運命の地べたを踏みしめる。その足取りは、依然として危なかしく、自己嫌悪という名の泥濘に足を取られそうになりながらも、もはや後戻りのできぬ、必然の軌道に乗り上げている。
    「いってきます」
     男は亡き妻の微笑みに生かされながらも、その背後にポタリ、ポタリと落ちる椿の音を聴いていた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、固まったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちても形を保っているところは、何となく毒々しい。水面に落ちた椿は、あたかも血を塗った人魂のように浮かび、彼の記憶の澱みを赤く染め上げてゆく。
     八重咲の椿が島を覆い、崩れるよりも固まったまま枝を離れ、落ちてもなお毒々しく赤を保つ季節の中。坂門椿渚は再び、一人の教師として、あるいは一人のオトナとして。校門へと続くあの坂道を再び登り始めた。

    二

     五時三十分。
     スマホのタイマーが枕元で控えめに震えるのを止めて、わたしはゆっくりと瞼を上げた。カーテン越しに差し込む黎明の光が部屋を薄桃色に染め上げている。昨晩洗濯機に放り込んでおいた下着を取り出し、ハンガーに掛けられた白いブラウスとブレザーを順番に腕へ通していく。今年で二十一歳になるっていうのに、ふつうの女子高生と同じ制服に袖を通すことが許されている——ただそれだけの行為にも、わたしの身体は妙な律動を覚えている。キャミソールの紐が鎖骨の窪みに滑り込み、昨日のアルバイトでつくった擦過傷を軽く刺す。鏡に向かってシャツの襟を整えながら、ふと指が鎖骨のラインをなぞる。十八歳の春から三年間で五センチ伸びた背丈。最近Gカップへと育った双丘の頂がレース越しに微かに盛り上がる様子は、わたし自身が忌避していた「異性の欲望」そのものを可視化するようでいて——それでも確かに「ひとりのオトナになった」わたしの一部であるという事実が、奇妙な安堵を与えてくれた。
     今度は鏡台に置かれたヘアブラシを手に取り、腰まで伸ばした漆黒の髪を梳く。母譲りの癖毛をストレートアイロンで素直に伸ばし、左サイドだけをゆるく編み込みにして留める。髪を結い終えて次に手に取るのは、この首を覆う黒色のチョーカーで、——これはかつてわたしが「わたし」になる前の、最期の足掻きだった。首に残る消えぬ古傷を隠すために、肌触りの良い黒革のバンドを指でなぞりながら、わたしは自分自身に言い聞かせる。
    「よし。きょうも可愛い。大丈夫。今日もわたしは、ただの春野美沙姫(はるのみさき)。ちゃんと『わたし』になれる」
     このチョーカーには、以前からそれらしい言い訳を幾らでもしてきた。冬場には首が冷えやすいから、夏場には日焼け防止の一環で、あるいは季節を問わずアクセサリー感覚で──そして今日も「ただのファッション」と言って誤魔化すつもりだ。この下に隠している痕跡が、何であるのかを決して悟られないために。
     しかしそれは二十年間培ってきた自己暗示の重さであり、同時にそれはかつて「お前は人殺しだ」と罵られたとき、胸の奥底に焼き付けられた烙印なのだった。わたしはその翳りごと含めて、「わたし」であることを受け入れなければならない。そしてこの「わたし」という存在は、その欠損を笑顔の仮面で覆い隠しながら、高校三年生となったこの四月の日に世界へと繰り出していくのだろう。だがわたしは「笑う」ことでしか生きられない女なのだと、この傷痕が絶えず告げている。
    「‥‥‥うわァ。なんてぎこちない笑顔」
     鏡に映る少女は、どう贔屓目に見ても整っている。白磁の肌、切れ長の眦、控えめながらも高い鼻梁。唇は僅かに潤み、笑うと右だけにえくぼができる。だがその完璧な造形の中に、わずかながらも拭いきれない翳りが浮かんでいるのだった。
     わたしの名前は春野美沙姫。今でもたまに、その名を舌の裏で転がして確認することがある。生まれたときに授かったはずの本当の名前は、あの「事件」の記憶と一緒に靄がかかってうまく思い出せない。戸籍上のわたしは、十年前に児童養護施設に預けられた——つまり、事故で両親を喪った哀れな孤児となった存在として記されている。何故ならわたしには——三十秒前まで指が触れていたこの首には、薄く褐色に変色した痣がある。これは、十年前の大晦日の夜から消えない、絞め痕の残滓なのだから。
     
    「——来年も家族三人で、楽しく過ごせますように」
     
     誰もが夢みる、ありふれた、大したことのない、願い。​
     そんなものを、これほどまでに楽しみにしていた自分が妙に恥ずかしくなって‥‥‥ちっぽけな存在に思えた。
     自分を客観視するあまり、周囲と距離が開いていったのは、むしろそれが大きな理由だったのかもしれない。
    「おめでとう。よく頑張ったね。これからは他の子たちと同じように過ごせるよ」​
     新しい「お父さん」と「お母さん」にそう言われても、わたしは素直に喜べなかった。
     他の子たちと同じではないって、もう知っていたから。
     それに、その手の言葉は何度も聞かされた。またすぐに、誰かに見捨てられるかもしれない。どんなウワサをされていることか。その不安が消えることはなくて。それに、あの時に感じた血と肉の匂いと、矮小な自分に対する気恥ずかしさは、ずっと残ったままで。
     わたしは笑顔の仮面を被ったまま、周りとの距離を無理に埋めようとも思わなかった。幸いなことに、この島に引っ越して聖福高校に通い始めてからは、わたしの過去や身の上を詮索する人々は減っていったけど。そんな風に過ごすうちにわたしは色んなことに無関心になって、期待とかしないようになっていた。
    「‥‥‥っ!」
     朝のコーヒーを淹れるために席を立った瞬間、コップを持つ手元にピクリと痙攣が走って現実に引き戻される。そして一瞬、電灯の反射で刃物が煌めいたような幻覚を見る。
    「‥‥‥だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
     首筋を撫でる指先の熱が、じわりと滲む汗と混ざり合っていく。
    「わたし自身さ、わかってるつもりなんだけど。それでも割り切れないこともあるもんでしょ。だからいろんなことを諦めて‥‥‥自分を守ろうとしたんだと思う。まーよくある話じゃん?」
     相手の顔は見ず、質問のように、独り語のように、駱駝の膝掛に話しかけるように、立ん坊を繰り返しながら、ゆっくりと、鏡の中の自分と視線を重ねる。
    「もう誰も、赦してはくれないから。誰にも赦されないから‥‥‥わたしはここにいちゃいけないんだから。だからそう思って、この島に逃げてたんでしょ? 想い出さないように。過去に囚われないように。イヤなことは全部忘れて、未来のために、一人で暮らしてきた。だいじょうぶ‥‥‥わたしはもう、立派なオトナなんだから」
     十六になった美沙姫が養親の口から、近いうちに自分がその家から追い出されると仄めかされた時に、彼女の頭脳には、まだ何等の分明した考えも起こって来なかった。
     美沙姫はそのとき、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。のんびりとした暗碧なその水の面にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つ見えた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこにゆらめいていた。美沙姫の若い心も、この静かな景色を眺めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと立ち竦んでいるのであった。だが美沙姫はその場合、水を見ている自分の暗い顔の底に、或る恐ろしい惨忍な思いつきが潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯えた。おのれの顔には悔恨と懊悩の色が現われていた。
     美沙姫が今の聖福高校へ貰われて来たのは、数年を世話になった父親の、更に知り合いである神父の口入であった。ミッション系らしく孤児院や福祉施設も運営しているその高校では、五島列島有数の進学校でありながらも、行先の無い子供たちに高校教育を受けさせるための場所であるという性格を持っているという。またその神父はその頃不思議な利得があって、俄かに身代が太り、地所などをどしどし買い入れたという。美沙姫は引っ越しのころに寮監の口から、時々その折の不思議を洩れ聞いた。それは全然まるで作物語にでもありそうな事件であった。或る冬の夕暮れに、さすらいの旅に疲れた一人の六部が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或る幸いが、この一家を見舞うであろう由を言い告げて立い去った。その旅客の迹に、貴い多くの小判が、外に積んだ楮のなかから、二三日たって発見せられた。神父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは父なる神に自分の幸を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、ついにそれらしい人の姿にも出逢わなかった。
    「地上の富を天に積むことはできないが——はてさて。その六部が何者であったかな」
     神父は稀に説教を聞きに来る孤児などへ、厚く祝福をする折などに、その頃のことを想い出して、美沙姫に語り聞かせたが、美沙姫はそんな事には格別の興味もなかった。福江島へ来てからの美沙姫は、新たな親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。
     畢竟、これは当然の帰結であった。十字を結ぶこの手——かつて父という名の狂気から、おのれの身を守る術持たなかった無力な掌が、不意に突き立てた刃の重みを、今なお鮮烈に記憶しているのである。もはや、この世の誰がわたしを赦すというのか。赦免という名の甘美な福音は、わたしのような不具な余計者には、初めから用意されてはいないのだから。わたしは愛されなかった子だ——という内なる叫びが、不断にわたしの心臓を敲き続けている。だからこそ、わたしはこの五島という境界の地へ逃げ延びてきたのだ。過去という名の巨大な怪物が、忘却の靄霧の中から鎌首をもたげ、再びわたしを宿命の監獄へ引き摺り戻さぬように。しかし、おのれを欺きながら世界を欺き続けるという、この後ろめたい共犯関係——「道化」としての日常は、一から十まで造り物の感じを拭いきれず、鏡の中に映る自分は、血の重さを失った羽毛のように軽い存在に過ぎない。
     美沙姫は自分の感じていることを、誰にも、ようやく学友となったもっとも親密な人々にさえ、話すことができなかった。それをうるさく思われることに気付いていた。親愛なる神父でさえも、そういう執拗なうるさい苦悶には我慢しかねたであろう。また彼はそれを治癒してやるには自分があまり拙劣だと知っていた。実を言えば、彼は聖職者らしく寛大な心をもっており、またみずから苦しい試練に鍛えられてきたのではあるが、子らの苦しみをほんとうに感ずることはできなかった。人間の性質はそれほど偏頗なものである。善良で、情け深くて、怜悧であって、多くの死を悲しんできていながら、友の歯痛の苦しみをも感じられないことがある。もしその病苦が長引くおりには、病人は大袈裟な苦情を言うものだと考えたがる。殊にその病苦が魂の底に潜んでいて眼に見えない場合には、猶更のことである。その病苦の原因でない者は、自分に殆ど関係のない一つの感情のために、相手の人間がそんなにも苦しんでいるのを、煩わしいことだと考える。そしてついには、自分の良心を安めるためにみずから言うのだ‥‥‥。
     
     カーテンを開ける。四月の太陽は、二日酔にでもかかったように睡そうに懶けきっている。帛漉しに漉したようなその柔らかい光を浴びながら、わたしは八畳足らずの狭い自室を見渡す。そこには、女子高生の居室らしい華やぎは微塵もない。付箋の貼られた教科書や、端が擦り切れた問題集が並ぶ本棚、そして最低限の生活を維持するためだけの無機質な家具があるばかりだ。いつでも荷物をまとめてこの場所を去れるように私服さえも数えるほどしか持っていないという事実は、わたしの人生が常に逃走と隣り合わせであることを物語っている。
     ああ! 鏡を見ずに日々を暮らせる人間の、なんと幸福なことか。しかし、今のわたしにとって、この不完全な自分を装うためのルーチンこそが、唯一の生存戦略であった。朝の光が窓から差し込み、尖塔の白鐘を黄に輝かせるその瞬間に、わたしの内なる宇宙の深淵から、ある決然とした意志を感じるのである。なんというそれは気持ちのいいことだろう。定罰のような闇、膚を劈く酷寒。そのなかでこそわたしの疲労は快く緊張し、新しい戦慄を感じることができる。歩け。歩け。へたばるまで歩け。
     わたしはキッチンに向かい、冷めきった水を一口飲み込んだ。朝食を摂るほどには胃の腑は目覚めていない。ただ、指先で何度も黒革のチョーカーの感触を確かめ、そしてこの指先に残る血濡れた包丁の感触を想い出して、鏡の中の「完璧な女子高生」としての微笑みが崩れていないかを再確認する。この鏡が、いつか本当のわたしを写し出す日が来るのだろうか。あるいは、このまま一生、鏡の中に他人の影を見続けて終わるのだろうか。
    「いいんだ。これでいいんだ。この世はすべて一つの舞台。男も女も、ただの役者に過ぎないのなら、わたしは――」
     と、鏡の中の春野美沙姫に向かって、最後の一句を投げかける。 過去のイヤなことを全部忘れて、新しい夢の抱いて「普通の女」として暮らす——そんな、お伽噺にも劣る虚構を、わたしは今日という日の舞台装置として採用するのだ。おもてでは絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでも謂うべき危機一髪の、油汗流してのサービス、アンコールへの応酬を繰り返している。
     そんなわたしは、今、幸せなのだろうか‥‥‥。
     パチリ。チョーカーのホックが喉元で鳴る。  
     道化の少女は再び、白紙一枚の能面の如き「完璧な女子高生」としての微笑みを、白磁の肌の上に凝結させてみる。
    「いってきます」
     誰も居ない寓居に、ひとり別れを告げる。朝は七時十分。昨日までのバイト疲れが抜けきらない身体を叱咤して、美沙姫は自宅から学校までの道のりを早足で駆けて行く。
     校門へと続く坂道には、春の陽光が金粉をふりまいたように溢れていた。舞い散る山桜の花弁は、まるで死を祝う薄紅の紙吹雪の如く、わたしの肩に無遠慮に縋りついてくる。それを指先で払おうとしたとき、校舎の窓に反射した光がこの瞳をきつく射抜いた。
    「だいじょうぶ‥‥‥だよ。この一年を乗り切れば、わたしは高校卒業っていう資格を貰えるんだから。その後の未来だって、今日のわたしの努力についてくるはずなんだから。今日もわたしは、春野美沙姫」
     首元の黒革のチョーカーに触れ、いつものおまじないを呟く。この下にある不吉な傷痕を封じ込め、わたしは「ふつうの女子高生」という名の道化を演じ始める。
     教室の扉を引く。
     その瞬間、わたしの世界の色が、一変した。教室の中で桜が舞う、いや、蕾が一気に満開になるかのような華々しい情景が開かれた感覚に襲われて、その中に——ひとり佇む男の影があった。
    「‥‥‥おや? まだホームルームまで一時間もあるっていうのに。この学校の生徒たちがせっかちなのは、どうやら昔から変わらないみたいだね」
     わたしよりも背が低く、どこかもやもやした不透明さを纏っているその男。チョークを持っていた手を下ろして、ゆっくりと顔を上げた。その細長く切れた宵色の眸が、わたしの視線と真っ向からぶつかる。
     刹那、わたしの心臓は、かつて経験したことのない異常な律動を奏で始めたのである。
    「おはよう。僕は坂門椿渚だ。今日からこのクラスの担任を務めることになった。君の名前は?」
     坂門、椿渚。
     名が耳に届いた瞬間、鼻腔を擽ったのは、八重咲きの椿がぽたりと落ちる直前の、あの甘ったるくもなまぬるい、魔性の香気だった。
     それでも精一杯、いつもの優等生の微笑を浮かべて、問い返す。
    「‥‥‥ええっと。春野です。春野美沙姫」
    「春野、美沙姫‥‥‥。よりによって『ミサキ』か」 
     低く、落ち着いた声だと思った。しかし坂門先生は、ほんの少しだけ口角を上げ、自嘲気味にも見える不思議な笑みを浮かべた。
    「先生。わたしの顔、何かついていますか?」
     あまりに彼が真っ直ぐに見つめてくるので、わたしは道化の微笑を崩さぬまま、挑発するように首を傾げた。すると彼は、子供の率直単純な目ではない、半ば開いてまた俄かに閉じた神秘な淵のような眼差しで、
    「‥‥‥いいや。ただ、君の瞳が、あまりに純粋で、綺麗な色をしていたから。ちょっとだけ、昔を想い出してしまってね」
    「想い出? 何をですか?」
    「秘密だよ。女の子には秘密が多いと聞くけれど、オトナの男にだって、一つや二つの隠し事はあるものさ」
    「秘密があるって喋っちゃった時点で、それはもう秘密じゃなくなってると思いますけど」
    「さすがは進学校。言うねぇ」
    「あ。それとも何かやらしーことでも考えていたんですか~?」
     そう言って、わたしはまたしても完璧な女子高生の笑顔で応じる。この瞬間も、わたしの喉元には、あの忌まわしい記憶が疼いているというのに、この人は、いや、違う——坂門椿渚は、この「春野美沙姫」そのものを見透かしているのではないのか。その宵色の双眸は、確かにわたしの内面を抉って、深く静かに射抜いているようで。
     僅かに身を引いてしまった。
     顔が熱い。今、どんな表情になっている? 
     わからない。
     理解不能。
     首に手が伸びそうになる。
     違う。ここでボロを見せるわけにはいかないのだ。わたしは笑っている。わたしはただの美沙姫だ。わたしは笑う。わたしはただの、女子高生でいなければならない‥‥‥。
    「あはは、勘弁してくれよ。教師が生徒の個人情報を探ったりするのは禁止なんだからさ。僕の口から言えるのは‥‥‥その。僕もクラスにね、君みたいな女性がいると背筋が伸びるってことさ」
    「あらあら。光栄です、先生。それで、わたしは何をお手伝いしましょうか? 雑巾掛けですか? 机の掃除ですか?」
    「いやいや、春野さんに手伝ってもらうまでではないよ。今日からこの教室を担当することになったんだけどね、どうやらどこかの部活が昨日いろいろと散らかしたままでね? ようやく片付けが終わって、ホームルームの準備をするだけでも大変なんだ」
     まるで出来上がった小説の一文を声に出しているみたいな、上手くも下手でもない喋り方。埃被った机の上の埃を指先でなぞり、黒板に綺麗な文字を書き連ねていく。わたしは自分の机に荷物を置いて、正面から彼の姿を捉える。
    「‥‥‥君は、珍しい子だね」
     不意に、彼はそう呟いて、困ったように微笑んだ横顔が見えた。それには先刻までの雰囲気とは違う、少し人間味のある温もりが感じられた。
    「さて、と。これからよろしくね。ミサキ——いいえ。春野さん」
    「‥‥‥はい。よろしくお願いします」
     春野美沙姫はこのとき、確信していた、——この人だ。人生という丈夫そうな命の根を、知らぬ間にゆるませてくれる人は。破滅へと向かう幸福の導火線に、今、静かに火が点いたのを、美沙姫は感じていたのである。
     窓の外では、八重咲の椿が崩れるよりも固まったまま枝を離れ、落ちてもなお毒々しく赤を保っていた。

    三

    「ツバサせんせって変わってるよね~」
     そう明るい調子で笑いかけてくる少女の名は巨勢明日香(こせあすか)。ショートカットの髪に明るい茶色のメッシュが入り、如何にもギャルっぽい快活そうな雰囲気を纏っている。
    「んぇ? ああ——まあ、言われてみると変わってるといえば変わってるように見えるかもしれないけど、でも変わってる人っていうのは変わってると言われること自体が気に入らないと思ってるってことだと思うから、やっぱりこの場合でいえばその表現は適切ではないと思うんだよね」
    「もう、なんでいちいちややこしくするかなぁ美沙姫は! ヘンなところでオトナ・アピールしないでよ~」
    「え~? 明日香のほうがややこしくしてるんじゃん~!」
    「ちがーう! だって、だって! あたしはさっきの授業でのこととか恋バナとか、いろいろ話したいんだってば〜!」
    「もう、明日香ったら〜」
    「きゃははは! ねぇ美沙姫、ほっぺふにふにしないで~!」
    「もう。明日香のほっぺやわらか~!」
     三年二組になって以来、昼休みの時間になるとわたしはいつも彼女に手招きされる。相も変わらずわたしがふざけてからかっても、——女子高生ぶった「春野美沙姫」を演じていても。彼女は嬉しそうにくすぐったがる。まるで尻尾をぶんぶんと振る犬みたいで、此方の頬も自然に弛んでしまう。
    「美沙姫ってば、もう! 真面目な話なのに!」
    「ごめんごめん! でもそんなに怒らないでよ。うん、まあ‥‥‥確かに、ツバサくんって何考えてるかよくわかんないよね。自己紹介の時もさ、『僕は坂門椿渚。二年ぶりにこの島に戻って来て高校で教鞭を執ることになりました。担当科目は国語で、趣味は読書。好きな食べ物はうどんです』——って、一言一句ぜんぶ黒板に書いてたり。マイペースな不思議くんかと思えば、体育祭の時とかはさりげなくカッコつけてきたり。べつに百メートル走で一位だっただけなのに、『春野さんのおかげです。僕もすごくドキドキしちゃいました』——なんて言われたりさ。お世辞だってのはわかってるけど、つい勘違いしてしまいそうになっちゃうっていうか。ああいうオトナって‥‥‥ズルいよね」
     わたしはそう答えると、スティックパンを囓りながら明日香がケラケラと笑っているのを眺めた。この子は二歳年下なのに、彼女には不思議と大人びた色香と包容力があって、まるでお姉ちゃんのように慕ってしまう。それに彼女は、わたしの身の上話を全く詮索してこない珍しいタイプの人で、わたしがこれまで避け続けてきた青春という名の不健全な甘美さを、ごく自然に分け与えてくれる存在のひとりだった。
    「で? 美沙姫はあの人のこと好きなの?」
     明日香の恋バナは、唐突だった。わたしは思わず飲んでいたコーヒー牛乳を噴き出しそうになる。
    「は? なんで?」
    「だって美沙姫ってば、ツバサせんせの話する時は決まってぼーっとしてるし。あの人が教室に来るだけでテンション上がるじゃん?」
    「べ、べつに好きとかそんなんじゃないから。‥‥‥それは、たぶん。わたしにとってもそのほうが好いだろうから。それにわたしたち、今は受験に向かっていっぱいいっぱいでしょ? わたしは明日香といっしょの大学行きたいんだから、恋愛なんてしてるヒマなんて無いっていうか‥‥‥」
     冷静に否定したつもりだったが、内心ドキドキしていた。
    「なによ、その反応〜。耳が真っ赤じゃん。‥‥‥ああ、そうか。もしかしてさっきの『ツバサくん♡』って囁きは、やっぱり照れ隠しだったわけね?」
    「ち、ちがうし! 大袈裟に真似するのヤメテ! それに、あれは、その‥‥‥本当に違うからね! あくまでも自分の担任教師として気になってるだけでっ!」
    「それが恋愛感情だと思わないとおかしいんだけどなぁ〜♪」
     ニヤリと笑う、明日香の犀利な眼光は、時として道化の技巧がこの瞬間だけは通用しないような気がして、この心臓を抉ろうとするから、困ったものだ。美沙姫は首元の黒革のチョーカーに軽く指を滑らせ、その冷ややかな硬質の感触を、あくまでも脳髄の生理学的な作用の中で不断に反芻してみる。
     春野美沙姫がもしも恋に恋する乙女でなかったら——言い換えれば常住人間を探究し、世の中の出来事に興味以上の関心を持つことが常習になっていない、普通そこいらの常道的な生活を大事にしている女だったら、明日香にそれらしい相手ができた後までも、こうも執拗に彼女か恋の技法を探ろうとはしなかったであろうが、美沙姫はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰が来たのだし、自身の生活に立ち還かえるのに恰好の時機だと知って、心持ちの整理は八分どおりついていながら、まだ何かの匂いが体から抜けきらないような、仄かな愛執もあって、それからそれへと新らしいよすがを求めて行く自分自身を追跡したいような好奇心に駆られていた。確かにここ二ヶ月ほどは受験対策やらアルバイトやらが忙しく、不器用な美沙姫はぴったり心に錠を卸してしまっていたので、先週末なんぞはあの憂鬱な日常から解放された気易さで、庭へ出て花畑の手入れをしたり、蔓る雑草を刈り取ったり、読みさしの本を読んだりするのだったが、そうしているとまたつい独り身ものの気弱さというようなものにも襲われがちで、まだ記憶の新しい養父母家族の想い出を超えて、ずっとその奥の方にぼやけている亡き実父母の面影や、死の前後のことが不意に彼女を感傷の涙に誘うのであった。夜中に目がさめてその事件のことが浮かんで来ると、いつでも胸が圧されるようになって、病的な涙が限りなく滲み出て枕にまで伝わり落ちるのであった。そしてその次には、あの事件のせいで否応なく霧散してしまった、十歳のころの初恋の記憶がぼんやりと蘇って来て、この春野美沙姫が関心を抱き得た異性とはどういった存在であったのかを、例の如く客観的に吟味し出すのであった。そして最後には、文字通り死ぬまで、我が子の未来のために自ら死を選んだ母に詫びたいような弱さに引き入れられた。——だが母はといえば、十分愛したつもりの美沙姫には悔いるところもなかった。
     実のところ、あれほどの運命的な邂逅に楽しんだにもかかわらず、結局、美沙姫は椿渚に対して何ら具体的な行動を起こせずにこの二ヶ月間を過ごしてしまったのだ。明日香に誘われた休日などは昼間も床を延べさせて、うつらうつらとしているようなことも多かったが、美沙姫が椿渚に気があると妄想している彼女の誘いもあって、今一度彼にトクベツ話しかける機会を作りはしたが、体育祭が終わって教室のカギを渡して別れてしまってからは、急に遠い人になってしまった感じで、憑きものが落ちたような空虚な自身を見出すのであった。彼女はたとえ自身の恋路が順調に行くことを祈る気持ちになるかと思うと、どうにもこの春野美沙姫という人間が普通真面目な家庭に納まりきれない気質の持主だというところから、あるいはひた隠しにしている持前の浮気な熱情でせっかく飛びついて行っても、じきにまた破綻が来るであろうことを、ひそかに願っていたのも真実で、今後もし近く逢う機会があっても、もう今までのような気持ちでは逢ってもいられないだろうし、反動的な嫌悪の情が彼女の総身に寒気を立てさすであろうとは思ったが、それと同時に、何か腹いせに彼をさんざん弄んでやりたいような悪魔的な野心も芽生えないわけに行かなかった。
    「‥‥‥こほん。ていうかさ、ツバサく——先生とわたしが恋愛関係になるのって、ありえないでしょ。だって、わたしたち生徒と教師なんだよ? たとえ、仮に、もしも、万が一‥‥‥お互いの気持ちが赦したとしても。世間がそれを赦さないんだよ」
     喉に唾がつっかかる。美沙姫はしぜん焦躁になり、ちょっと自暴自棄な問答に陥る。だが明日香は即答して、
    「恋愛に出会いは関係ないよ! それにぃ、最近の少女漫画は性行為から恋人関係になる物語が過半数を占めてるって聞いたよ~」
     と言う。
    「うげっ。最近の女子高生怖すぎでしょ。ていうか‥‥‥マジですか?」
    「まじまじ!」
     およそ淑女の嗜みからは程遠い、思わず零れたわたしの本音に、明日香は「あははっ! 美沙姫、顔引きつってるよ!」と、鈴を転がすような高笑いを教室に響かせた。
    「これ以上はクラスにわたしの居場所がなくなるからヤメテ。ていうか‥‥‥なんなのその統計。偏りすぎじゃない? それに明日香みたいな、恋愛経験が特殊な人に漫画の内容を現実に当てはめてほしくないっていうか‥‥‥って、あれ? でも明日香、ちょっと待って。それは矛盾してない?」
    「え? どういうこと?」
    「だって、性行為から恋人関係になるなら、そもそも恋人同士になりたいから性行為をするはずでしょ。だったらその時点で既に相手を意識してるわけだし‥‥‥。もちろん、恋人になれたからって、スキンシップの強弱は人によるだろうけどさ。結果的に恋人関係になったとしても、最初の行動は『好き』って感情から来てるんじゃない?」
    「うっ。そう言われたら確かにそうかもしれないけど‥‥‥でもさ、美沙姫! 少女漫画もそうだし、さっきせんせが授業で教えてくれた『源氏物語』とかもそうだけど。恋愛関係の醍醐味って、そのギャップじゃない? いきなりドキッとさせられて、気づいたら好きになってた、みたいな!」
    「それは世間が赦してるっていうより、作者が設定に都合のいいご都合主義を使ってるだけだから」
     明日香は眼を丸くして此方を見つめた。「はぁ、まじまじ」とまた言った。美沙姫はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。向こうが大いに偉いか、大いに人を踏み倒しているか、そうでなければ恋愛にまったく縁故も同情もない少女に違いない。しかしそのうちのどっちだか見当がつかないので、この年下少女に対する態度もきわめて不明瞭であった。だがその眼は、溜息が出るくらいに美しく澄んでいた。盗んで、自分で気がつかぬ、という奇妙な心理も、俳句の天狗たちにはあり得る事かも知れない。美沙姫は考え直した。実に無邪気な罪人である。まさに思い邪無しである。
     笑いながら明日香がまた言う、
    「でも、そうした昔の話を読んだりすることがなければ退屈は紛れないんだろうね。この嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてあるところを見ると、物語であると知りながら興奮させられちゃう。あたしたちだって、まだまだ恋する乙女なんだから。可憐な姫君が物思いをしているところなんかを読むとさ、ちょっと身にしむ気もするでしょ? あるいは不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともあるし、はたまた、まずい文章だと思いながらおもしろさがある個所にあることを否定できないようなのもある。このごろツバサせんせが国語の授業で時々読ませているのを聞いていると、多弁な人間があるものだなぁ、嘘を上手に言い馴れた者が作るんだなぁって気が、あたしにはするけど。美沙姫はそうじゃないの?」
     と尋ねると、
    「そうかもしれないね。嘘を言い馴れた人がいろんな想像をして書くものだろうね、けれど、どうしてもほんとうとしか思われないものもあるよ」
     こう言いながら美沙姫はコーヒー牛乳を一気に飲み干した。
    「誰の伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽きない美しいこととか、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいことがある場合、そんな場合のことを一人でだけ思っていられなくなって、小説というものが書き始められたんじゃないかな。よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。シェイクスピアが書いたものはまた違うし、日本のも昔できたものと最近の小説とは相異していることがあるでしょ? 深さ浅さはあるだろうけど、それを皆嘘であると断言することは、わたしにはできない。だから好意的に言えば、確かに恋愛に出会いは関係ないかもしれない。小説だって何だって、みんな結構なものだということになる」
     と美沙姫は言って、小説が世の中に存在するのを許したわけである。
    「それにしてもね美沙姫。古いことの書いてある小説の中に、このあたしほどまじめな愚直過ぎる女の書いてあるものがあるものかな? それからまた人間離れのしたような小説の姫君だって、あんたのように恋する男へ冷淡で、知って知らぬ顔をするようなのはないでしょうに。だから恋のキューピッドであるこのあたしが、ありふれた小説の型を破った小説に、あんたと彼のことをさせましょう」
     近々と耳寄せして明日香はこう囁くのであった。
    「小説にならないでも、こんな奇怪なウワサは話になって教室へ広まるでしょ」
    「珍しいことだと言うんだ! そうよ。あたしの心は珍しいことにときめくんだから☆」
     ひたひたと寄り添って、こんな戯れを明日香は言うのである。
    「まあ、いいじゃん! とにかく、あたしは応援してるよ、美沙姫がツバサせんせと付き合えるように」
    「だから違うってば! もう〜」
     そうやって揶揄ってくる明日香の手を握り返し、わたしは「そういうのじゃない」と強く否定した。それを見て明日香はまた面白そうにケラケラと笑った。
    「これはあたしの経験則だけど、ああいうタイプのオトコって絶対ロリコンだよ。まあ、でも‥‥‥今は指輪もしてないみたいだし」
     明日香の視線の先には、教室の入口付近に立つ坂門椿渚の後ろ姿があった。ようやくこの高校の校風に馴染んできたらしい青年教師は、少し所在なさげにペンを持ち替える。女子生徒から古典の授業の質問を受けているのだろう、その手元が妙にぎこちなく、小さな体で支える資料集たちが若干ぐらついてしまうのが、なんだか初々しくも危なげだ。
    「それにもし彼氏にしたとしても、なんかこのままずっと尻に敷かなくっちゃいけなそうでしんどそう。あたしはね、甘やかすより甘えたい派なの! せんせのギャップは可愛いんだから、あれで高身長だったらタイプなのになぁ。あたしも美沙姫もスタイルは良いほうでしょ? だからハグしてもおっぱいのなかに潰しちゃいそうで‥‥‥。『あたしがしっかりして支えてあげなきゃ!』ってなって、男としては見られないかも」
    「そ、そんなことはないと思うよ‥‥‥?」
     わたしは慌てて否定したが、何をどう否定したかったのかは、我ながら判然としない。それにこの声音はどう聞いても引き攣っている。
    「な~んか、さっきからちょいちょい気になるんだけど。‥‥‥まっ、それはそれとして。ほらっ、質問も終わってフリーになったみたいだし! 行こっ!」
     明日香はわたしの手をぎゅっと握りしめると、廊下の方へ歩き出した。
    「ちょ、ちょっと明日香‥‥‥っ!」
    「ほらほら、せんせが来たよ。チャンス!」
     肩を落として一息ついた先生が、資料を整理して胸に抱え直していた。わたしは咄嗟にチョーカーのありかを探った。
    「せんせー!」
     明日香が大声で呼びかける。先生は驚いたように立ち止まり、わたしたちを見た。
    「巨勢さん。それに春野さんも。どうかしましたか?」
    「ちょうどよかった! 二人で今、恋バナしてたんですけどぉ」
    「えっ」
    「ほう。恋バナとな。それはずいぶんと直球な悩みだね」
     わたしは、びっくりした。なんてまあ、珍しい事を言うのだろう。ドキッとした。ひとりの女の子として彼の前に出たことが、まさか、こんな事態を招くなんて! きょうはどうも、明日香のあの笑い方には含みがあると思っていたが、さては、ほんものであったか、などと考えているうちに、そんな動揺を見逃すまいとすかさず畳み掛けられる。
    「ねぇねぇツバサせんせ! せんせってさぁ、今は彼女さんっているの? あ、もしかしてさっきの委員長みたいな、清楚でお淑やかな子がタイプ? それともぉ、あたしたちみたいな派手カワ長身巨乳女子のほうがぁ、あてられちゃったりする感じ~?」
     明日香は身をくねらせるような、媚びを売る体でそう訊ねた。先生は困ったような笑みを浮かべると、わたしの方に目配せをくれた。
    「こらこら。教室にまで声が響いているよ? あまり学校でそういうプライベートな話題は振って欲しくないんだけども。それに僕は、確かに君たちの一回り上だから年齢は近いかもしれないけど、ただの若手教師っていうだけで。そんなに珍しい生き物じゃないんだけどなぁ」
    「いいじゃんいいじゃん! なんか教えなさいよ~。あ、せんせは経験豊富なオトナだから、学生時代はモテたんじゃない? 好きな子とかいなかった? 初めてデートした時のエピソードとか、ぜひぜひ参考までに詳しく!」
    「こらこら。ちょっとした悪ノリは学生時代にだけは許されるかもしれないけど、それは僕の個人情報ですよ? 第一、そんな質問をして意味があるとは思えません」
     明日香の猫なで声に対して、先生はあくまでも平静な声で答える。
    「え~! せんせぇのいけずぅ! じゃあせめて、どんなタイプの女の子がタイプなのかだけでも!」
     明日香はそう言うと、わたしの腕に絡みつくように体を寄せてきた。先生はちょっと困ったように微笑みながら、前髪を払うと、
    「おいおい。急になんの話ですか。しかも質問が多くないかい」
    「えー、答えにくい? じゃああたしと美沙姫のどっちのほうが好み? あ、ちなみに美沙姫の方が背は四センチ高くて、おっぱいも一サイズはデカいです!」
    「ちょ、明日香!?」
     突然の暴露に美沙姫の顔が紅くなる。だがそんな羞恥に気付かないフリをして、明日香は猶も椿渚の瞳を覗き込んだ。
    「で。どっちです?」
    「はぁ。まったく‥‥‥。まぁ、そうだね。個人的には、見た目で人を判断するというのは、僕はあまり好きじゃないかな。人間性にはあまり関係のないことだと思うし、どちらかというと、その人と一緒にいて居心地が良いかどうか。その人のことを尊敬できるかどうか——というのが大切なのではないかと思う。人それぞれ好みはあるだろうけれどね」
     椿渚はまるで他人事のようにそう言うと、観念した顔つきで、軽く微笑みを浮かべて俯いた。
    「‥‥‥まあ、正直なことを言うと。ずいぶん前は、有難いことに、こんな僕にもそう思えるような人がいたんだけどね。ちょっと複雑な事情があって、別れてしまって」
     そう聞くと美沙姫の意気はいよいよあがった。いいや、この感情を恋心だと確信するにはまだ早いのだが、——「ツバサくんの年は三十手前だと思われる、たしかに所帯を持っている雰囲気ではない、それは毎日会わぬのでもわかるが、それにしてもどこへ住んでいるのだろう」と彼女は思ったが、その思ったのが既に愉快なので、眼の前にちらつくカジュアルスーツの色彩が言い知らず胸をそそる。「もう婿にでも行くんだろうか?」と続いて思ったが、今度はそれがなんだかわびしいような惜しいような気がして、「わたしも今少しだけ早く生まれていれば‥‥‥」と二の矢を継いでいたが、「なんだばかばかしい、わたしは今年で二十一だぞ、今更なにが恋愛だ、叶えていない夢もある」と思い返した。思い返したが、なんとなく悲しい、なんとなく嬉しい。
     やがて、美沙姫は、その焦がれ尽くした眸を持ち上げながら、何かを探るような眼付をした。
    「‥‥‥そういう先生は、今。誰かにそう思っているんですか。ツバサくんに好きな人は、いるんですか」
    「んー」
    「(ヒソヒソ声)おっ。美沙姫がようやくやる気になった」
     椿渚は小さく唸りながら思案する。美沙姫は眼を円くして彼の方を見上げた。彼はやや躊躇っていたが、その長い睫毛を、音のするようにぱちりと上げる。
    「いるよ。けど、その人の好きと僕の好きとは違うと思うんだ。なんていうか‥‥‥それは僕の一方的な憧れに近いのかな。僕の好きな人はね、すごい人だったんだ。目標があって、信念があって、いつでも可愛くてカッコよくって、弱音なんか見せない強さがある。でも本当は繊細な人で、すごく寂しがり屋で、悩みや不安を一人で抱え込んじゃう。僕はその全部を愛してるし、その人の力になりたいって思うけど、それは、たぶん——いいや。とにかく、この関係は変わってほしくない。変えてしまうのが、怖いんだろう。それがたとえ、僕の独りよがりだったとしてもね」
     ここまで言って、彼は儚げな表情をする。
    「ままならないね。気付いたときには、もう。遅いんだ」 
    「恋すれば、どんな気持ちになったって、もう。手遅れだってことですか」
    「そうだね」
     美沙姫は黙ってしまった。千切れた蟋蟀の片脚のように、頬を引きつらせながら、胸に一杯になっていた種々の思いが皆スーッと何処かへ飛び去ったような心地がした。そして、その後に神秘な興奮が残った。
     上から緑に染まった桜の葉が時々落ちてくる。その一つが教科書の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は晩春の中に立っている。
    「先生‥‥‥ツバサくんは」
     風が隣へ越した時分、美沙姫が椿渚に聞いた。
    「その人に頼まれて、この学校に来たのさ。僕もずいぶんと、手遅れな人間だね」
     と言ったが、現に年甲斐もなく恋バナに参加してぽかんとしていたところを見られたのだから、椿渚は自分でおかしくなった。代役を相手に、あのときの青春をいまこうして再現しようとしている自分にとって、凄まじいまでの胸のときめきを伴った、ひと目惚れによるほんの数分間の初恋は、もはや永遠に失われたのだと、彼は結論していた。
     すると美沙姫も笑いながら、
    「じゃあ、わたしも‥‥‥手遅れかも」
     と言った。流れるような瞳を廻らし、髪を滑らせて嫣然と笑う、ちょっと得意な顔色。さっき椿渚が言った通りをそのまま図に乗って述べ立てた。後から考えると、これはむしろ人が自分を評する言葉で、自分が自分を吹聴する文句ではなかった。そこで美沙姫は少し笑い出した。彼もまたクスリと笑った。明日香だけは一向平気でニヤニヤ顔である。
     こういう関係もアリかも知れないと、美沙姫は頬を掻いたが、しなければならないことが山ほどありながら、ふと自分を惹き止めたのは、一体何であろうかと、彼女は椿渚の顔から、あわてて眼をそらした。
     その拍子に、彼の帰りを待っているであろう或る人の顔がちらと浮んだ。この男の帰りを待っている、自分の知らない女の顔が。着物、髪、髪留め‥‥‥。
     廊下の生徒たちはもうとうに散ってしまった。時計が三時半を打った。
    「それじゃあ僕は次の教室に行くから。君たちもちゃんと授業を受けるように」
     立ち去ろうとするのを美沙姫は、
    「あっ。まだ訊きたいことがあるから‥‥‥」
     このまま彼が帰ってしまうことが、思いがけず寂しかった。
     が何故、そんなに寂しいのだろう。
     そのとき、明日香が、
    「はーい。‥‥‥あっツバサせんせ、ちなみにぃ〜、美沙姫は今フリーらしいですよ〜」
    「へ、ちょっ、あ、明日香っ!? そんなフォローは要らないから‥‥‥っ!」
     そうやって揶揄いながらも、さり気なく自分の背中を押してくれたのに気が付いた。
     それで聞き終わると、小さく手を振って椿渚はサッサと帰ってしまった。その影が廊下の反対側に消えていくまで、明日香は美沙姫の腕に絡みついて「脈ありなんじゃないの~?」などとキャッキャと言っていたが、しばらく眺めている間に美沙姫は思いついたように、
    「‥‥‥。あのさ、明日香」
    「どうしたの、美沙姫」
     と訊いた。明日香はそれで黙った。桜の高木の上に相変わらず鳩が何十羽も大まわりに輪を描いている。今度は美沙姫がまた口をきいた。
    「恋と愛の違いって、なんだと思う」
    「どうしたのさ急に」
    「いいから、可愛い友だちのためだと思って。教えてほしいな」
     明日香は騒がしい風の音を聴ききながら、美沙姫が自分の答えを待ち侘びているのを感じた。彼女は少し上気していた。明日香は、美沙姫に会うときはいつも快げに微笑んでいたが、いざ彼女自身の身の上を語るとなると唇をかたく結んで静かにやや陰鬱に顔容を乱さなかった。口もあまり利かない。こうした自由な女には不似合な無愛想な沈黙と威厳が、彼女を妙に寂しい美しさに洗い清めていた。美沙姫は自分と彼女を見比べながら明日香の本来の美しさを見たような気がして嬉しかった。一緒に話していてはそう一芸に秀でた女とも思えないが、緊張した彼女は、やはり年下の少女とは思えないほどの気象に凛としたひびくものがあるのだと、まるではじめて明日香を見たもののようなことを考えていた。とにかく、二人は午後の光を浴びて黙っていた。こうした場合に何か言い得るものは魂なき無生物のみである。
    「そう、だね」
     それで彼女は微笑を洩らした。そして友の心も慰められた。
    「これは恥ずかしいから、誰にも言わないでほしいんだけど。好きなひとのすべてを知るまでが恋で。すべてを知ってから、それを赦し続けるのが愛なんだよ。きっと、ね」
    「‥‥‥」
     明日香は実はそんなことには暗かったが、美沙姫もまたそう色々な世界を知っている訳でもなかった。しかし確信あるらしく好意を抱いている友人にそう言われると、恋に恋するこの少女もまた、巨勢明日香というひとりの女がその渦中へ乗り込んでしまったもののように思えても来た。
     ‥‥‥どうかそういう気持ちもさせずにわたしは異性と交際出来、またあの坂門椿渚先生と付き合えたならわたしはどんなに幸福であろうか。そうした男と女の友誼というものは世の中に無いのであろうか。娘ごころに恋とか愛とかいうものも、人生のうちで胸の痛むほど欲しくなるときは、あった。けれども、それらは中味の違ったものが擬装している形であり、もし誤ってそれに引っかかったならば突き詰めて行くほど、もどかしさに焦立たさせられるのでなければ、だんだん色を醜く更えて行き、遂に失望に身を枯す、その例をわたしは、わたしの憧れであり共に夢を追う相棒である友人——巨勢明日香のひとつの「夢」に対する執着を見ているだけに、時々は自分の中に起こる相手なしのその恋とか愛とかいうものの不受精卵を我ながら如何に可憐なものに思いながら、また努めて、それに脅えたりそれを憎んだりするように我と我が心を仕向けて来ていたのだろう。それで敢えて恋とか愛とかそんなものでなく、ただ頼もしい男性の友だちというものを得られたらわたしはどんなに嬉しいのだろうか。それなら「憧れの人」の一人が二人と三人になろうとお互いに抵触するものであるまい‥‥‥。
     首元の黒革のチョーカーの在り処を、指先で今一度確かめる。
     わたしはこの怜悧で人の良い友人に、わたしの人生の設計を話してみようか。

    四

     その帰りみちで、美沙姫はちょっとした椿事に出くわすことになったのである。アルバイトを終え、中途まで来て気がついてみると、方角をまちがえているらしかった。途中の公園で猫たちの夜会にお目にかからなければならない筈だということは、彼女もはっきり記憶しているが、五つ六つ路地を通り抜けても、彼らの姿は地へ潜ったか空へ翔ったか、杳として影も形もなかった。これは間違ったと気づいた美沙姫が、少し後戻りをして、あらためて右手へ曲ってみると、今度は薄暗い船溜まりへ踏み込んでしまった。普段の登下校時には見かけなかった場所である。ここにものの半分間ほど佇んでから、再び軽い足取りを進めると、突き当たりのバーには扉口の隙間が見え、そこからきららかな光が漏れ出している。その窓の向こうからは、もの悲しいマズルカの調べが鈍いひびきを伝えて来る。この通りも、彼女の旧家と同じように、地面という地面がいっぱいに花で埋め尽くされていて、ポプラや紫丁香花や紫陽花の匂いが馥郁と香っていた。
     雨上がり、五月末のとある夜べ。寮に辿り着いたのは二十一時を過ぎた頃だった。階段を昇る足音が妙に大きく響く。三階の奥——わたしの部屋は三〇一号室——につづく廊下には人影ひとつなかった。玄関ドアに鍵を挿した瞬間、
    「うん?」
     隣室——三〇二号室の扉がわずかに開き、そこから滑るように現れた人影が壁に背をつけた。見覚えのある痩躯に、あの宵色の瞳。カジュアルスーツではなくラフなシャツ姿の坂門先生だ。
    「おや」
     彼もまた、驚いたように瞬きをした。水滴が髪を伝う額、持っていたスーパーの袋がビニール越しに湿っている。
    「ここ‥‥‥先生の部屋だったんですか」
     思わず問いかけた声は掠れている。鼓動が急激に速まるのを感じた。
    「ああ。四月からここに住んでいたんだ。挨拶もせずにすまなかったね」
     先生は困ったように眉を寄せ、
    「生徒と同じ寮を使うのは、本来なら規定違反だけど。この寮は共有スペースがあるわけでもないし、実質的にはみんな自立して一人暮らしをしているから。生徒のプライバシーにあまり関わらないのなら——という条件でね。僕自身も助かってるんだ」
    「‥‥‥」
     沈黙が落ちた。雨水を含んだ空気が重い。何か言わなければ、と思いながら、喉の奥が塞がったように声が出ない。ややあってから、彼は咳払いをしてから尋ねた。
    「あのさ。春野さん。一応、注意しておくけど」
    「‥‥‥なんでしょうか」
    「こんな時間まで外出しているのは、あまり褒められたことじゃないよね。僕も担任教師として、君の事情はなんとなくは理解しているつもりだけれど」
    「あ、うん。その辺りはちゃんとしてますから安心してください」
     わたしは遮るように早口で応じた。この人に説教されたくない——いいや、違う。説教されるのが嫌なのではなく、この場から逃げ出したいのだ。そうしたらまたあの瞳に捕まるのではないか。
    「ほんとうに?」
    「‥‥‥はい」
     先生の目が細まった。信じていない。そう断言されたわけではないが、疑念を孕んだ沈黙が圧力をかけてくる。わたしは俯いたまま唇を噛む。すると唐突に——
     ——ぐうぐう。
     わたしたちふたりの腹が同時に、それに盛大に鳴った。咄嗟に手で覆ったが遅い。彼は小さく笑い、
    「まあ‥‥‥でも。バイト大変だったね。お疲れ様。ご飯、食べた?」
    「まだです。お腹ぺこぺこ」
    「僕も。中間テストの採点だけで、今日はもうヘトヘトだよ。このカップ麺が恋しい」
     先生が上げた袋の隙間からはカップラーメンと缶酎ハイが覗いている。
    「あはは」
     それから、互いに微妙な距離を保ったまま、しばらくの間、気まずい静寂が続いた。わたしは無意識に黒革のチョーカーに触れた。
    「えっと‥‥‥先生。夕食、まだなんですよね?」
    「ああ‥‥‥まだだけど」
    「それなら、わたしの部屋で食べていきませんか? お口に合うかはわかりませんけど、ちょっとした手料理くらいなら。きっとカップ麺よりは栄養的だと思いますよ」
     わたしは「完璧な女子高生」としての微笑みを白磁の肌の上に凝結させ、精一杯お道化た声で誘いかけた。わざとらしく袋を持ち上げて見せる。豆腐と葱、鶏肉とパック卵、それから少し萎びたエノキへと彼の視線が泳いでいる。
     ——誘ってしまった? 
     いや、この春野美沙姫に誘う勇気など持ち合わせてはいない。ただ彼をもう少しだけ廊下で呼び止めて、「いつもは何を食べているんですか?」ぐらいは訊けたら、とは思った。あの貧弱なカップラーメンではなく、きちんと炊いた米と味噌汁ぐらいなら、わたしぐらいにも‥‥‥。妄想は途方もなく空しく、しかし甘い。なにを話したいかは自分でもわからないが、とにかく話さないうちはおちつけないような気持ちであった。
     椿渚は驚いたような顔をした。教師が生徒の部屋に呼ばれることへの躊躇いが、その目に浮かぶ。美沙姫は思案に暮れて立ちどまってしまった。‥‥‥とそのとき、彼女が思いもかけなかったことには、気ぜわしげな足音とさらさらという衣ずれの音が聞えて、息はずませた男の声が囁やくように「それもそうだね」と呟いたかと思うと、「差し入れにうどんだけ持ってくるよ。ちょっと待ってて」と言って、ドアを開けたまま部屋の中に姿を隠してしまった。
     彼がもとの玄関へ戻って来たとき、彼女の心臓はどきどきいっていたし、手は手で人目につくほどひどく顫えていたので、美沙姫は大急ぎで両手を買い物袋を抱えるようにして隠してしまった。初めのうち美沙姫は、自分が今しがた男を誘い入れたという事実を満座の人々がちゃんと知っているような気がして、羞恥と恐怖の念に苦しめられ、小さくなっておどおどと俯いてばかりいたが、やがて彼と共に自室に入ってテレビをつけてみると、つまらない番組の中で人々が相も変らず暢気至極に踊ったり喋ったりしている様子を見遣ると、彼女はやっと安心がいって、今夜はじめて味わった感覚、生まれ落ちてこの方ついぞ一度も経験したおぼえのない感覚に、身も心もすっかり任せきってしまった。
    「散らかってますけど‥‥‥そのあたりに坐っていてください。この食材の組み合わせですし、今夜は簡単な鍋にしますね」
    「これはどうも。なにか手伝うことがあれば言ってね」
    「料理できるんですか?」
    「まあ、うどんを茹でたり目玉焼きを作ったり、簡単なものだけどね。一人暮らしの成人男性なんてこんな程度じゃないのかな」
     湯気の向こう、彼の冗談めかした口調が、妙に優しく胸に染みた。
    「へえ。ずいぶんと手馴れているんだね」
    「ええ。一人暮らしですから」
    「それにしても、だよ。その包丁さばきなんて僕には真似できそうにない」
    「‥‥‥。そんなことないですよ。あと、『美沙姫』でいいですから」
    「そう?」
     わたしの手つきを見つめる彼の視線が温かい。包丁を持つこの手が、不意に震える。──母が包丁を使った、あの日のことを想い出してしまうから。
     けど、今は違う。
     わたしは彼に食べさせるために包丁を使っているのだ。あの日とはぜんぜん違う意味で。
     ふたりっきりの部屋、しっとりした梅雨前の夜。最小限の家具だけがある生活、誰も訪れることを想定していない空間に、美沙姫は椿渚を迎えてしまっていた。
     このとき彼女には何やら不思議なことが起こっていたのである。‥‥‥つい今しがた、いい匂いのするふっくらと柔らかな異性にすれ違った彼女の頸筋は、香油でも塗られたような気持ちがしていたし、頬はというと、意中の相手へと無意識に微笑んでいる左の筋肉のあたりが、まるで薄荷水でも滴らしたように微かにいい気持ちにすうすうして、そこをこすればこするほど、そのすうすうした感じがますます強烈になってゆくといった始末で、春野美沙姫は全身、頭のてっぺんから足の先まで、ついぞ味わったことのない不思議な感じで一ぱいになってしまい、しかもその感じが刻一刻と増大してゆくのだった。‥‥‥彼女は踊りたくなった、喋りたくなった、庭へ駈け出したり、大声で笑ったりしたくなった。‥‥‥彼女は自分がそれなりに容姿も整っていて、女性らしい身体が蠱惑的に映る人間だということも、おまけに「あんたは幸薄そうに笑うところがエロいんだよ」(と或る時の明日香との会話の中で自分の風采が評されていたのを、実は彼はひょっくり立聴きしたことがあった)の持主であることも、きれいさっぱり忘れてしまった。平気そうに座蒲団に腰掛けている椿渚へ、美沙姫はすっかり普段の丁寧口調を崩して、にっこり笑いかけたが、それがいかにも闊達な愛嬌たっぷりの笑顔だったもので、相手は思わずドキリとして、ともすれば怪訝そうに彼女の顔をまじまじと眺めた。
    「なんかさ、ヘンな気分」
    「なにがだい?」
     知りませんという出鼻のわるい返辞だけれど、その響きは如何にも陽気であった。うどんを啜る音が一旦止まる。
    「ふつうはさ。誘われても生徒の部屋にあがってこないでしょ」
    「そ、それはそうかもしれないけど。僕は君を信用してるし、君がもう『オトナ』なのも知ってるから。まあもちろん、だからといって——」
    「ふふっ。何その口約束みたいなの? 説得力まるでゼロなんですけど」
    「うっ‥‥‥いや、それは確かにそうなんだけどさ。春野さ——美沙姫さんと同じ立場になったら、あまり線引きするのが苦手なんだよね」
     彼は苦笑しながら箸を置き、少し言い淀んだ。
    「ヘンなの。やっぱり先生って面白いね」
    「そうかな? 自分では寡黙な方だと思ってるけど」
    「そういった倫理観に欠けているところは、もしかしたら悪い大人かもしれないね~」
    「それを教師の前で堂々と言ってのける君は、やっぱりどうかしていると思うよ」
    「なにそれ。ちょっとひどくないですか~」
     うどんを啜る音が再び、部屋に響いた。熱い蒸気がふたりの間を漂う。美沙姫は鍋の蓋を片手にもちながら、斜め向かいに腰掛けた彼の横顔を、なんとなく見詰めていた。薄い蝋燭の灯りが、頬に投げかける影が、なんども揺れる。なんだか落ち着かない。
     夜食の卓についた椿渚はと謂えば、すすめられる料理を片っぱしから機械的に平らげ、飲物もぐいぐいと飲んで、人の話なんぞはてんで耳へ受けつけずに、つい先刻の事件をなんとか自分の得心のゆくように説明をつけてみようと一所懸命になっていた。‥‥‥なるほどこの事件は、神秘的なロマンティクな性質を帯びてはいるけれど、さりとて解釈をつけるのは別に難事ではなかった。察するところこの春野美沙姫にとっても、あの真暗な寓居で独り寂しい暮らしが続いていて、長いこと待たされた挙句に神経がいらいらしてしまって、ついこの坂門椿渚を一時の気の紛らわしに丁度いい相手と思い込んだものに違いない。ましてや椿渚は、数十センチの壁を挟んだ自室を通り抜ける数十歩の途中で、思案に暮れて立ちどまった、つまりこっちもやはり、何かを待ち設ける人のような様子をしたのであってみれば、この想像はますます的確さを加えるといわなければならない。‥‥‥と、そんな工合に椿渚は、今夜の逢瀬をわれとわが心に説明していた。
    「ありがとう。美味しかったよ」
    「ん、どういたしまして。ご期待に添えたようで何よりです。まあ、市販のスープの素で作った有り合わせのものなんですけどね」
    「いや、十分すぎるよ。ありがたい。‥‥‥なんだか久しぶりに、あたたかい食事をしたような気がするよ」
     彼は汗を拭きながらそう言った。にっと笑って、この寮には自分が学生の自分にも世話になったことがある、昔から家庭や経済事情に苦労している人たちが住んでいるんだと話してきかせ、さて話頭を転じて、君はこの寮生活に不便していないかどうか、この島の生活環境にも慣れたかどうか、クラスでの交友関係は上手くいっているのか、などと問いかけた。その問いに対する返事が一通り済むと、美沙姫はそのまま向こうへ行って皿を洗い始めてしまったが、彼女のほうでは椿渚と言葉を交わしてからは一段と愛想よくにこにこしはじめて、近頃のわたしはなんて飛切り上等の人たちに取巻かれているんだろうと考えていた。
     蛍光灯の白い明かりが、簡素な家具の配置や壁の冷たいタイルを露わに浮かび上がらせる。食器を片付け終えて戻ってくると、わたしは氷を入れておいた二つのコップに麦茶を注いで、座蒲団に腰掛けた。先生はわたしと向き合う形でテーブルに両肘をつき、そこに頬杖を突いている。艶々とした滑らかな前髪が伏せられ、切れ長な眸に憂いを孕ませながら、じっと此方を注視する。
    「さて、と。それでは進路相談をしましょうか」
    「えぇ‥‥‥? もしかして、わざわざ部屋にあがったのってこれが理由? ご飯も食べて片付けも終わったんだからさー、もう十分な奉公じゃない?」
    「だーめ。むしろこれが僕にとってのお返しでもあるんだから」
     そんな他愛もないやりとりが、湿気とともに不思議な温もりを連れてくる。まるで、ただの友人のように。ただの家族のように。ただの兄妹のように。
     美沙姫は簡単に自分の過去を語った。自分は小学生の自分に産みの親元から離れたことがある。十六歳になるまでは別の養親の元に暮らしたこともある。独りになってからは夜学に通い始めたこともある。だから昼間は工場労働者となり、針製造人となり、それから博多の方までも通った。ある不動産の会社にも雇われた。電池製造の技師ともなった。コンビニでアルバイトもしたし、ホテルでのウェイターもやった。その他自分で数えようとしても数え切ることの出来ないような種々様々の世渡りをして来たことが、今年で二十一歳になるとは思えない春野美沙姫の口から、引き継ぎ引き継ぎ出て来た。
    「そうそう。仕事は多忙で世間からの目もひどくって、ほとんど夜間高校は行けなかったから。聖福高校に来たのはそのやり直しってワケだよ。わたしの事情を聞いたうえで入学認めてくれたし、奨学金の返済にも相当な猶予を貰ってる。こんな寮にも住まわせてくれてさ。ほんとうにありがたい限りだよ」
     と美沙姫は想い出したように言って、そうした長いながい経験と、現に十八歳になってから聖福高校に通い始めたこと、今では教育者になるという新たな目標のために日々努力を重ねていること、その間には何等のかかわりも無いかのような無造作な口調でもって話し聞かせた。彼女の傍に、まだ坂門椿渚は若々しい眼付をしながら腰掛けていた。彼女の担任になったばかりの時分に、彼女を聖福高校に誘ったという神父を訪ねて見た時のことが胸に浮かんだ。
    「そういえば、中学卒業するまではイジメがひどかった気がするなぁ。あんまり憶えていないことも多いけど」
     美沙姫がバカのように高笑いをしたので、椿渚もその場に見切りをつけた。思いきりよく麦茶を胃に流し込んで、
    「‥‥‥そのイジメは、いまもあるのか」
     と言った。対面する女の上気したような顔は汗で光っていた。唇が接吻のあとみたいに濡れていて、いやに煽情的だった。異性の部屋にあがり込んだ椿渚は今ごろになって、かっと燃えてきて、美沙姫に挑みかかって行きたくなった。
    「それはない! ここはいい場所だよ」
    「それは‥‥‥よかった」
    「へぇ。なんか先生らしいこと言って鼻伸ばしてるじゃん、ツバサくん?」
    「まあ先生だからな。それに君は、諦めなかったんだろう?」
     と椿渚は問い反した。
    「この高校で上位の成績を維持していて、しかもその美貌。一人暮らしもしているから、人間としても充分自立できている証拠だ。君の将来は、これから希望しか無いんだよ」
    「うぅ〜。教師としてちゃんと仕事をこなしているツバサくんにそんな風に言われるのは、なんか照れくさいな。褒められるのは悪い気はしないけど!」
     美沙姫は頭を掻きながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
    「わたしにも希望なんてモノ、あったっけ。今までずっと走ってた気がする。でも、そうだね‥‥‥これからはもっと楽しいことが増えそう。だからね。わたしは、絶対に負けない。誰が何と言おうと、わたしは夢を叶えてやる」
    「ああ」
     美沙姫は彼の宵色の眼を見詰めてきっぱりと言う。すると椿渚は穏やかな眼付きをして、時分の話を聞いているのだから、ますます嬉しくなって、
    「そんなわけで、わたしには何も問題はありません! 教師としては鼻が高いでしょう、ツバサくん?」
     椿渚は肯いた。が、彼女の澄んだ瞳を見ることが出来ずに俯いてしまった。
    「二人きりのときならともかく‥‥‥その呼び方はやめてくれないか。君より十歳も年上なんだぞ、僕は」
    「へぇ? ツバサくん溜まってるね~」
     こんな押問答を小一時間重ねている中に、口を利くのが大変楽になって来た。これは思い切って、無理な言葉を、出にくいと知りながら、我慢して使った結果、おのずと拍子に乗って来た勢いに違いないんだから、まあ器械的の変化と見傚みなしても差し支えなかろうが、妙なもので、その器械的の変化が、逆戻りに自分の精神に影響を及ぼして来た。自分の言いたい事が何の苦もなく口を出るに連れて——ある人はある場合に、自分の言いたくない事までも調子づいてべらべら喋る。舌はかほどに器械的なものである。——この器械が使用の結果加速度の効力を得るに連れて、春野美沙姫はだんだん大胆になって来た。
     いや、大胆になったから喋れたんだろう、君の云う事はアベコベじゃないかとやり込める気なら、今夜だけはそうして置いてもいい。いいが、それはあまり陳腐で且つ時々嘘になる。嘘と陳腐で満足しないものは自分の言分を尤もと首肯くだろう。
     自分は大胆になった。大胆になるに連れて、妙な意地だか、負け惜しみだか、それとも行き倒れになるのが怖くって、帰り切れなかったためだか、——その辺は自分にも曖昧だが、とにかく自分は、もっとも熱心な語調で先生を口説きたくなった。いつもの様に、静かに道化染みた微笑を浮かべながら、わたしはこう続けた。
    「まあ‥‥‥でも。人に相談するって、難しいよね。誰かに聞いて欲しかったりするけど、そのせいで誰かから疎まれたり、心配されたり、変な目で見られたりするのがイヤで。結局、自分の中に押し込んだままにしちゃうことだって多い。それってなんだか、倍以上も苦しい気がするんだ。‥‥‥ええと、つまりね? わたしなんて人に言えないものたくさん抱えてるんだから、大丈夫だよ。ってことかな」 
    「だから僕にも、全部話せって?」
     椿渚は邪慳にする気でもなく、今度は目も放さず聴き入っていたが、
    「無理に聞き出すつもりはないよ。‥‥‥そう、だね。今日の昼も、ツバサくんがなんでもないような声でわたしに話しかけてくれたのが、嬉しかったから。そのお返し、かも」
     と、彼女が答えるに及んで、
    「ふぅん‥‥‥?」
     と、彼はまた眉間に皺を寄せた。
    「なにを言い出すかと思えば。僕が相談するのは僕が悩んでる時だけだし、僕が謝るのは僕が悪い時だけよ。君とは違って、僕は社会に出ている立派なオトナなんだから」
    「でも。いま意地を張っているのは、ツバサくんじゃないかな? 先生がわたしやみんなのことを想ってくれてるのは、わかるよ。‥‥‥それでもツバサくん、すごく寂しそうな顔をしているから」
    「‥‥‥っ!」
     椿渚は時々執務の手を休め、美沙姫を認めるたびに、想い付くひとつのことがあるのであった。自分と似た境遇のある彼女に向かっての同情であろうか、唐突に何かを言いかけようかと思うのである。美沙姫の執拗な意志も、あの邂逅に比べればすでに殆ど気掛りの気配がなかった。そして互いにそれを唐突に言い出すことにも、気持ちの不自由を覚えることが極めて希薄に思われ、自由に見えた。ゆとりとそして気楽さが、むしろ最も感じられた。美沙姫が一応断念したために、椿渚としてはその執拗な意志の負担を軽減されたのであろうか。恐らくしかしそれは理由の大きなものではあり得なかった。執拗なる彼の意志に絡まるところの暗さも、そして惨めさも、すでに美沙姫の想念自体が持つところの同じものの荒々しさに比べたなら、直ちに影の薄さのみが分かるのだった。そして椿渚は、そんな強くて弱竹な美沙姫をふと見るたびに、一緒に逃げようか、と、突然それを言いだすことの誘惑に駆られていたのだ。まるでその誘惑に駆られるために、美沙姫を見るかのように。
     けれども彼は少し頑固になって、
    「‥‥‥またそうやって。他人の気を遣うふりをして、誤魔化そうとする。君は随分と我武者羅なんだね。でもそれと同じくらい、神経が敏感すぎるよ。そんなに気を張ってばかりいると、自分が壊れてしまう。もっと楽に考えて、身近にある幸せを噛み締めることも大事なはずだよ。それに教師から教えられたことを素直に吸収してくれる生徒は、先生たちにとっては可愛いものなんだ」
     わざわざ口を尖らせて答えて、麦茶に少し濡れていた唇を舐めた。
    「まあ、いいですけど」
     と、春野美沙姫は急に溜息を吐きながら、
    「変わろうとは努力してるんだけどね。所詮わたしなんかは井の中の蛙だよ。水溜の世界しか知らないオタマジャクシが、クジラの肺呼吸を糾弾しているようなものだよ。馬鹿だから眼の前の事しか見えない。‥‥‥だからこそ、自分には何ができるかなって。いちいち立ち止まって考えちゃうんだ」 
    「それは強さだよ。強い人間だけが、他人に自分を打ち明けられる」
    「そうじゃないよ。夢を叶えた人間には責任があるんだ」 
    「それは、誰に対して‥‥‥?」
    「夢を見ていた頃の自分に、だよ。ツバサくんだって、知ってるんでしょ‥‥‥?」
    「それ、は‥‥‥っ」
     と坂門椿渚は言いかけて、自分で自分の口を遮るように顔を赤くして押し黙り、また何事かを言いかけるようにしてから口を噤み、そして再び開きかけるも、また口を閉じては顔を背けた。対手の女の、思案深げな双眸の下の頬を認めると、ウットリとした明るみが、懐かし気に忍び上がっていた。
     美沙姫は椿渚に、自分が聖福高校に入学するまでの手柄話をしてから、もうこのように自分の苦難は一旦の幕引きを迎えたのでこれからの人生の指針を考えねばと思いながら、一つはどうにも自分の精神が甚しく疲労しているのと、もう一つはその理由こそが椿渚に投げかけた今の告白にあるのだから、今夜ばかりはあなたと言葉を交わして気を晴らしたいと思った、と語った。実際そういう目に遭った経験のある人でなければ分からないが、当時は美沙姫も椿渚も、後から考えると滑稽な程、ひどい恐怖症に取り憑かれていて、眼前に空の晴れるのを見、新たな季節が来たのを見つつ、なおその煌めきの行く末を信じ切れず、容易に体じゅうの戦慄が止まらないといったふうであった。現に美沙姫は、椿渚がどんな行動を取ろうと、それは手から難れた風船玉が雲へ入ったように、もうどうにもならないものであり、これで沢山だという気もしたが、やはりこうして言葉を交わしていると何か腑におちないものもなくはなかった。気を落ち着けていると、風のない湖水のように、波も立たないのであったが、心が少し揺れ出すと限りなく波が立ち騒ぎ、北を指す磁石のように、好奇心が——お節介という方が適当かも知らん——自然に彼の深いところへ向いて行くのであった。多分もう彼も今夜は引き揚げる心構えだろうが、椿渚と話したら今まで知らなかった事実に触れることもできそうであった。
     一呼吸置いた美沙姫がちょっと顔の向きを換えると、汗を拭ったばかりの濡れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた香水の匂いと一緒になる。
     ほんの短い空白の後、
    「美沙姫さん、すごく自分勝手だよ」
     あの人だってそうだった——その一言を付け加えるのを躊躇いながら、椿渚はこの時はじめて積極的に美沙姫を遮った。問われて彼女は息を吸って、
    「自分勝手でもいいじゃない。他人のことばかり思いやってて、自分の幸せ逃がすよりよっぽど人間らしい。それにね、自分を否定しちゃったらなんにも始まらない。わたしはそれを、この島で。大切な友だちに教えてもらったよ」
    「それは、ステキなことだけれど‥‥‥。僕はいいよ、もう。オトナにとってはこれくらいのモヤモヤ、とっくに慣れてるから」
    「慣れてどうするんですか。大切な想いを馬鹿にされて何もしないのは、臆病だよ」
    「臆病‥‥‥?」
     婉曲に断わるつもりなのかと思ったが、そうでもなかった。とにかく頭脳を乱すのを恐れて今は追究しないことにした。一旦気持ちが揺れ出すと容易に止まらない若い頃からの癖があるので、椿渚はそうと決めておくよりほかなかった。
    「うん。ツバサくんの言うことも、理解はできる。時間の流れが解決することだって、きっと、あると思う。でもね? 我慢しているだけじゃ、ダメ。勇気なんてものは相手を威圧するためのものじゃないって、わたしは思いますけどね。武器や知識とおんなじで、大切なのはタイミング。それを抜くタイミングを見誤れば、わたしたちは一生臆病なままだよ」
    「何もせずに、ただ時が解決するのを祈るだけっていうのは——臆病と言い換えてもいい、と」
     不服そうな先生が追及する。
    「そう。誰かに相談する、悩みを打ち明けるっていうのは、まずはその人なりに、一歩でも勇気をふり絞ってみたってこと。だからそこは、もちろんツバサくん自身のペースで構わなけれど‥‥‥。相手の意志を汲んであげるってことも、大切じゃないかな。お互い意見言い合えた方がさ、ぶつかってるって感じがしない?」
    「‥‥‥あはは。君もまだまだ若いんだね。美しき理想論。人間はわかり合えないから人間なんだよ。もしそんな素敵なことを僕たちが出来るって云うんならイジメなんて起きなかっただろうし、人間は偶像を必要としなかったはず。エサウやヨブが不遇だったのを憶えているかな? 肩書きや立場だけ見比べてさ。あんな風にはなりたくない。」
    「美しいからこそ、まだわかり合えていないからこそ、求めようと藻掻くんじゃないかな。それに、昔のことは昔のこと。新しい夢は、未来のわたしたちが、創り上げていくものなんだからさ。‥‥‥まずは、ね? 仲良くしたい。その気持ちだけが、少しでもあれば、それだけで充分なんだと思う。わたしたちはいつだって、仲良くしたいだけなんだから」
    「‥‥‥」
     椿渚はミサキの瞳の中に、自分の心を見た。その眼は、椿渚を捉えて離さないのだ。この眼はきっと、僕を逃がさないだろう‥‥‥。椿渚は窓の外へと眼を逸らしながら、それが如何に女々しい態度であるかに想い及んで悔しくってならなかった。
     ——それがいい、それがいい、自分はまだミサキさんに恋している、また自分はミサキにも醜くありたくない。そうだ、これがいい、これでミサキが自分よりも信念や夢を選べば、もしくは選んでいるなら、自分は男としては残念かも知らんが、——と思い切るまでは自分に明言できなかった。しかし自分が醜いことをしなくてもすむという心安さはあったのだ。
     五月の日はとっぷり暮れてしまった。星が馬鹿に綺麗だ。地虫が啼いている。蚊が唸っている。遠くのほうで猫たちが互いに呼応する声。夜更けまで、何処かで木魚を叩くような音がしている。裏の一軒家の方からは、さっきとはちがった冴えた三味の調べが寥々としめやかな哀れ深いうちにも凜とした芸道の強味を響かせて聞えて来た。椿渚は「生きている、生きている、僕はまだ生きている」と呟かずにいられなかった。女を待つときの寂しさがやがて男の胸に充ちて来た。
    「ねえ、ミサキさん」
    「はい?」
     彼は此方を見て軽く眉を皺めた。
    「君は‥‥‥本当に強い人だね」
    「そんなことないですよ」
    「いや、強いよ。普通の人なら、もっと泣き言を言うだろうに。もちろん、そういう一面が見えたら驚くかもしれない。けど、それを見て幻滅することはないと思う。僕は、君の表面だけを見て『オトナ』だって言ってるんじゃないから」
     その言葉が、胸に刺さった。わたしはまた首元に手を遣って、何も答えられなかった。ただグラスに滴る水滴を見詰め続けた。先生は、深く息を吸って、また吐いた。
    「‥‥‥僕もね、昔はそうだったんだ。我慢してばっかりで、泣けなくて」
    「え?」
    「だから、君を見てると‥‥‥ちょっと懐かしいような、胸が締め付けられるような感じがするんだ。もう少し、自分に正直に生きていけたらとは思うんだけれど」
    「‥‥‥」
     美沙姫は一抹の陰翳を湛えた椿渚の微笑に、痛いところを突かれた思いも懐かざるを得なかった。否、彼女の内省はおのづから自己の急所を探りあて、恰もそれを意中の対手である坂門椿渚に見透かされ、突き当てられた思いに落ちざるを得ないのだった。しばしば彼の執拗な意志によって、自分の処世に何かと注文をつけられながら、その注文が一応常に的を外れていないことも認めざるを得ないのだ。この道化の仮面を剥がそうとするのは何故だ、たかが一応的を外れていないだけのことではないか。美沙姫は苛立たずにいられなかった。一応の道理は具えていることが、一層鼻持ちならないのだった。しかしこの愛情はそれを恋心とよび得たであろうか。とにかくひとつの仇心には相違なかった。美沙姫は彼の寂量感に心を打たれ、目覚める思いを懐くのだった。
    「ツバサくんも‥‥‥苦労したんだね」
    「まあね。でも、もう終わったことさ」
    「わたし、もっと聞きたいです」
    「何を?」
    「ツバサくんの話」
     美沙姫は後を言い得なかった。少し驚いたような表情を作ると、椿渚は気を取り直すように息を吐いた。美沙姫もまた、軽く微笑む。
    「ねぇ。なんで先生は先生になったの?」
    「ん。なんで、か」
     彼はちょっと考えて、
    「あの頃の僕には、どうしても叶えたい願いがあったんだ。そうしたらこの方法しかないと思った。‥‥‥って、ごめんな。つまらない答えになってしまったかも」
    「ううん、ちょっと意外かなって。その割には自分のこともあまり語らないんだね」
    「そう、だね」
    「‥‥‥やっぱり。お昼休みに話してた、昔好きだったっていう女の人のこと?」
     椿渚は頷いた。
    「そのひとは、夢を持ってた。ワガママで傲慢で自分勝手で、毎日が辛くって死にたがってた僕にも『笑え』なんて言ってくる、そんなとんでもない女の人だったけど‥‥‥。見てるだけの周りの人間を惹きつけるくらい、いつも楽しそうに笑っててさ」
    「ステキな人ですね」
    「‥‥‥だろ?」
     彼は穏やかに口許を緩めた。
    「だからさ。僕が叶えようと決めたのも、そういう夢だったよ。彼女の夢を追い続けてる姿を、もっと近くで見てて。叶えて欲しいと思った。もちろん自分でも追いかけたいと思った。それは、もう無理な願いだと思うけど。叶えてあげたいと思った」
    「叶えてあげたい?」
     美沙姫は首を傾げた。椿渚は口端を吊り上げて笑った。どこか哀しげで、淋しげで、それでいて穏やかで。
    「うん。僕はそのひとに救われたから」
    「救われた‥‥‥?」
    「高校生の頃の坂門椿渚は、今よりずっと不純だったんだよ。‥‥‥この学校の伝統や若者の才能には、恐縮するばかりだけれど。あの時代の僕の夢なんかは、てんで子供の夢物語でしかなくってね。人に聞かせられるような、大したものじゃない。これもまあ、好きだから‥‥‥僕の夢を『好き』だって言ってくれた人が、昔、ずっとむかしに、いたから。僕もね、こう、物好きで続けているだけだよ」
     彼は少しおどけたような口調で、それでも慎重に言葉を選んでいた。
    「それで結果的に、僕もそれになんだか惹かれるようにこの道に就いてしまったんだと思う。今思えば、恋は盲目っていうのかな。ただ、それだけだよ」
    「そっか‥‥‥」
     わたしは先生の顔を見ながら、彼の頬にふっと降りた影を感じ取った。悲しみと、どこか諦念を秘めた声で告げられた、そのひとの存在を聞いているうちに、胸の奥がきゅっと縮まるような痛みが走る。何かが、わたしの中で、ぐしゃりと折れそうになった。きっとこの人はもう誰かを愛したことある人なんだって思った。大人だから当たり前なのに、それがすごく羨ましくて、悲しくて、寂しくて、怒りみたいなものが湧き上がる。わたしには何もなかったのに。そんな風に優しく愛されることも、大切にされることも、手に入れることができなかった。涙が溢れそうになるのを堪えながら、わたしは得意の作り笑いを浮かべていた。そして自分がどれだけ残酷な問いを重ねているのか、ちゃんと自覚していた。
    「ねえ。ツバサくんの好きな人って、どんな人だったの?」
     彼はまたちょっと口を噤んだなり、じっと足もとを見つめていた。それから小声で、自信ありげにいった。
    「僕は幸福になるだろうと思っているよ」
     震える握り拳に力を入れて、彼は唐突に話題を変えた。実は内々、ある危惧を制することができなかったのだけれども。
    「いや、世間から何といわれても、君だって幸福だよ。ミサキさん」
     と続けてそっと呟いた。椿渚は、これもちょっと前に美沙姫が男子生徒の話題となっていて、何か彼らの親切な相談相手になって欲しいという雑談を聞かされたりしたけれど、それも何か微笑ましい感じで、いやな気持がしなかった。美沙姫も椿渚の問いに答えて、彼一流の雰囲気の含まれた言葉で、恋愛も恋愛だが、生活や家族愛の悩みもあって、今までの生活は行き塞まりが来るだろうことは明らかだったので、打開の道を求めようとしたのが、何といっても学問が生命なのだし、新しい恋愛問題がどうなるにしても、やはりこの学校に頼って行くよりほかないのだといった意味を述べていた。彼女は黒い制服で顔の輪廓がひとしお鮮かで、頬まで垂れた黒髪の下から、滑らかな黒耀石のような目が、長い睫毛の陰に大きく潤い輝いていた。
     彼女も「君はいま恋だってしているのかい」なぞと真面に訊かれて当惑した。
    「ううん、恋愛も大事だけれどまずは『夢』を叶えたいというのがわたしの本心なんだよ。清算するつもりだからこそ批判もしたので」
     美沙姫はこの恋愛の僅かに儚い虚栄にすぎないかも知れないと気付いてはいたが、それも惨めな未練の変装だかも知れなかった。
    「ツバサくんはそれで‥‥‥」
     と言ったが急につかえた。
    「それで?」
    「それで結婚をなさらないんですか」
     先生は笑い出した。
    「それほどロマンチックな人間じゃない。僕は君よりもはるかに散文的にできている」
    「しかし、もしその女の人が来たらおもらいになったでしょう」
    「そうさね」
     と一度考えたうえで、
    「もらったろうね」
     と言った。彼女は気の毒なような顔をしている。するとまた話し出した。
    「そのために独身を余儀なくされたというと、僕がその女のために不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生まれついて、結婚のできない不具もあるし。そのほかいろいろ結婚のしにくい事情を持っている者がある」
    「そんなに結婚を妨げる事情が世の中にたくさんあるでしょうか」
     先生はようやっと座蒲団に腰掛けた。空になったグラス越しに、じっと美沙姫を見ていた。
    「ハムレットは結婚したくなかったんだろう。ハムレットは一人しかいないかもしれないが、あれに似た人はたくさんいる」
    「たとえばどんな人です」
    「たとえば」
     と言って、先生は黙った。言葉ばかりが頻りに出る。
    「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某だれそれがしの世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。——まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」
    「そんな人はめったにないでしょうに」
    「めったには無いだろうが、いることはいる」
    「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」
     先生はハハハハと笑った。
    「ねえ、ツバサくん。その女の人は」
    「死んだよ」
     彼の土のように蒼くなった面の筋肉が、かすかに、動いたように思った。
    「僕の妻は二年前に死んだ」 

    五

     翌朝眼を覚ますと海は大荒れである。九州の南方に、台風が上陸したのだとニュースにも出ていた。畳を倒すように、高い大きな波が砂浜に幾重にも倒れてくる。沖の久賀島は波頭の飛沫の靄に、薄くかすんでいる。鴎の群は湾内深く避難して奥浦の港の前に浮かんでいた。白い波の上をまっしぐらに南へ走るのは、鮪船が港を指して逃げているのであろうか。
     坂門椿渚はこんな日にも学校に出て、校舎の新築四階建の三階角の部屋で、台風何号かが九州から日本本土か朝鮮方面かどっちへ抜けようかと、思案投げ首のもやもやに感応して、ただの仲夏よりも頭が重く、廻転椅子にぐったりして、うつらうつら昔を思い浮かべている。工場まがいのビルの連立に偉容を誇る内地の私立学園とちがって、この聖福高校では空をつく欅並木に沿うて並んだ建物の中、明治期のカトリック建築を誇る赤煉瓦のドッシリした独立建物があって、テニスコートやグラウンドの裏庭を挟んで、本館と屋根付き道路でつづく教室棟が二列にならんでいるが、今日は急遽登校日ではなくなったので人気がない。
     仕事は諦めだ。折角、作業が捗っていたのに——同僚三人で茶を飲んでいるところへ、漁家の家系であると聞く学年主任がやってきた。
    「残念です。これでは一両日出漁できないかも知れません」
     と、いう。けれど、この二、三日この方久賀島のまわりで、キントキとヒラスが大分釣れはじめたそうだ。一日に一人で十七、八匹もあげた釣人があったという。もう一週間もたてば、餌のヤリイカが網にかかるであろうから、そうなれば釣りは一層有望である。殊にこの時化の後、五島の魚たちは盛んに餌を求めて活動するから、それを楽しみにしていて下さい、と船頭は話すのである。
     僕はいつまでも雨雲が垂れている沖の白い波を眺めていた。
     校舎のある丘を下りて、人通りのない国道へと車を進める。どこもかしこも風と雨と水沫とでめちゃめちゃとなってしまった。こうなると暗くて、陰鬱で、蒸し暑くて、自分は一人で、他人は二人以上であるからやりきれない。ひとまず買い出しに寄ったが品ぞろえが悪くてかなわない、昼間から街を照らす家々の明かりが寂しく羨ましく退屈でしゃくで、イライラする神経と寄る辺のない不安やらいろいろから、如何にも我慢がならないので、といってこの暴風雨にどこへ飛び出すわけにも行かなかったから、おとなしく寮へと踵を返した。
     雨脚はいよいよ激しさを増し、寮の古い瓦屋根を叩く音が、まるで天鼓のように響いていた。風は低く唸り、ときおり稲光が青白い閃光となって、閉ざされた窓硝子に鋭く爪痕を残していく。椿渚は、そんな自然の暴力から守られているはずの安全な自室に佇みながら、何故だか自分のほうが雨の中に晒されているような錯覚に襲われていた。その刹那である。
     ——ガタン。
     ドアの向こうから慌ただしい足音が響いたかと思うと、濡れた靴底が廊下を滑るような音がした。そして不意に、甲高いノックの音が室内の静寂を破った。
    「‥‥‥まさかね」
     僕はソファから身を起こし、声を潜めるように尋ねた。この嵐の中、寮に残っている大人はほとんどいないはず。自分に用があるとすればせいぜい管理人ぐらいと油断していた。扉の向こうから、掠れた声がかすかに届く。
    「先生‥‥‥? ツバサくん、いるよね‥‥‥?」
     聞き覚えのある声色。嫌な胸騒ぎが喉の奥で膨らむ。
    「ミサ——春野さん!? まさか‥‥‥っ!」
     鍵を開けた瞬間、冷たい潮風と共に、濡れ鼠のような少女がふらりと室内に滑り込んだ。 長袖のシャツは雨粒を含んで肌に張りつき、裾まで泥濘を吸った制服のスカートから水滴がぽたぽたと床に落ちる。文字通り濡烏色の長髪は結い目も解けかけて額に貼り付き、頬は高潮のように紅潮している。それでも——いや、だからこそ——潤んだ瞳が僕を射抜くように見据えていた。
    「ミサキさん‥‥‥何があったの?」
     靴底から滲む雨水が絨毯を汚していく。美沙姫は息を詰まらせたように咳き込み、右手を胸元に押し当てた。その指の隙間からちらりと覗くチョーカーの鎖が、雨に濡れて妖しく光る。
    「バイト行った帰りに、スーパー‥‥‥行ったら」
     歯を食いしばるような低い声音。
    「警報鳴ってて‥‥‥車両通行止めに、なっちゃって」
    一歩踏み出すごとに足元がぬかるむ音を立てる。その細腕が無理矢理笑みを作る。
    「だから歩いて戻ろうって‥‥‥海岸沿いの道なら抜けられるかなって」
     ふと僕は気づいた。彼女の左手には空になったエコバッグだけがぶら下がっている。中身の保冷剤さえ溶け落ちて消えているのに——なぜだろう。何かを探すようにその掌が虚空を掴んでいる。
    「‥‥‥スマホがないんです」
     雷鳴が低く唸る。窓ガラスを穿つ雨粒の轟音の中でさえ、彼女の囁きは震えを帯びていた。
    「鍵も落としちゃってて‥‥‥いったん店まで帰ろうとしたけど、わたしが出たのと同時に店長もお店臨時休業にして、帰っちゃったらしいから。もうどうにも」
     僕は言葉を失いかけた。視線を彷徨わせながら、理性だけは無駄に働いている。教師としての立場と、この期に及んで疼く愚かさとのせめぎ合いが脳裡で火花を散らす。どうにも、こういう事態になると途端に彼女が頼りなく脆く見えるのが、可哀想でもあり、美しくもあり、また「女」というイキモノが憎らしくもあり‥‥‥。僕は自分の分まで濡れ鼠になった気分になる。
    「とにかく入れ」
     タオルを手渡し、給湯器を準備しながら命令口調になってしまう。
    「着替える物はあるか?」
     彼女は小さく首を振った。濡れた睫毛がまばたきの度に雫を跳ね飛ばす。
    「わかった。なんとかするから、とりあえず、温まれ」
    「うん‥‥‥ありがと。それと、ごめんなさい。ツバサくんには迷惑かけたくないってわかってたのに」
     掠れた声で礼を呟き、美沙姫はシャツの裾を絞った。濡れた布地が絞る度に濃い影を落とし、豊満な胸の曲線に沿って、白い肌に透けるラインがほんの一瞬だけ露出する。僕は咄嗟に視線を逸らした。が、脳裏にはすでに、淡い紅色の下着の影が焼き付いていた。
    「‥‥‥ツバサくんの、えっち。スマホがなきゃ警察にも通報できないね」
    「それは‥‥‥そうだね。もう、手遅れみたいだ」
     言い訳がましい口調が却って罪悪感を強調する。僕は乾いたバスタオルを投げ与え、バスルームへ押し込むように促した。
     
     まずYシャツを脱いで畳む。するりと抜け出たのは九寸五分の白鞘かと思いの外、包み物のような菫色のキャミソールである。差し出した白い腕の下から、天鵞絨の滑らかな瞳がふらふらと揺れる。片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸に、紫の包。これだけの姿勢で充分画にはなろう。紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る女の体のこなし具合で、うまい按排につながれている。不即不離とはこの刹那の有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度であるとすれば、男は後に引かれた様子となる。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁はまとめられた紫の髪の尽くる所で、ふつりと切れている。紅白粉を拵えた肌、歩毎に女性を強調するその双丘がぷるんと揺れる。人間の肉体が斯くの如く美妙な調和を保っているというのは、彼女の唇一つに湛えられた未知なる表情と、胸が動悸し体内の血が歓び歌って居るその昂奮と、あくまで動と静の対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い、——苟も国語教師である坂門椿渚がこの女体を観察すれば、斯くの如く評価したかも知らん。
     中からカタンと響く物音と、微かな衣擦れの音がして、それからシャワーの流れる音と湯気とが扉の隙間を伝って漂ってくる。しばらく時間を置いてから此方も脱衣所に入る。丁寧に畳まれた彼女の衣服を一瞥しながら、ふと耳を澄ますと、湯気に混じって啜り泣くような息遣いが聞こえた。曇りガラス越しに彼女の輪郭が揺れ、くぐもった水音が響く。彼は咄嗟に両耳を塞ぎたくなる衝動に駆られ、代わりに浴室の扉の前で声を絞り出した。股下には熱い苛立ちを確かに感じている。
    「着替えを置いておくから。ゆっくり浸かるといい」
     その声に反応して、蛇口の水音が一瞬止まったように思えた。
     まだ雨はザアザア降っている。鼠色一色の空、庇に当たる雨の音。
     リビングに戻って来て、椿渚はソファーに沈み込む。
    「くっ、あの子に呑まれちゃダメだ。自信威厳尊厳だぜ、坂門椿渚‥‥‥っ!」
     と彼はまずは胸の裡で言った、
    「参ったな、ほんとうに。僕は‥‥‥いったいどうすればいいのかな。ミサキさん」
     今度は自ら気付かずしてその言葉を口にしていた。
     ひと月前の隣室での逢瀬以来、二人は言い合わせるかのように互いから離れていた。或る意味で二人の淡い恋心はこの時に潰えた筈だった。
    「恋愛感情を抱かれでもしたら大変だ。それは僕にとってだけじゃない、彼女の人生にとってもなんだから」
     彼は心の裡で何遍も同じ言葉を繰り返した。幸いにしてその言葉は徒労に繰り返されなかった。彼はどうかこうかノロケずに済んだ。
    「しかし今の自分はどうして出来上がったのだろう」
     彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と人生とを能く闘いおおせたものだという誇りも大分交じっていた。そうしてまだ出来上がらないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。
     彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑った。しかもその現在のために苦しんでいる自分にばかり注目して、過去のために未来の幸福を掴み得る自分自身が在ることにはまるで気が付かなかった。
     椿渚は今では確かに、前と異なった眼で美沙姫を眺めていた。彼は亡き妻の零した皮肉な一言を思い起こした。
     ——あなたと私とは、夫婦になるのにちょうどよいのに、愛し合わないなんてどうしたことでしょう?
     しかし彼女は、その理由を椿渚よりもよく知っていた。椿渚のような人物は、自分のためになり得る者を愛することはめったにない。むしろ自分の害になり得る者を愛することが多い。相反するものこそ互いに惹き合う。自然は自己の破壊を求める。自然は自己を節約する用心深い生活によりも、自己を焼き尽くす強烈な生活に好んでは知りたがる。できるだけ長く生きることではなくて、もっとも強く生きることを掟としてる、椿渚のような人物にとっては、それが至当である。
     共に五年の時間を過ごしても尚、椿渚は彼女ほどの明察力をもたなかったが、それでもやはり、恋愛は一つの非人間的な力だと思っていた。恋愛は互いに相いれ得ない人々をいっしょにする。同じ種類の人々を互いに排斥させる。恋愛が破壊するものに比ぶれば、恋愛が鼓吹するものはごくつまらないものである。幸いにも恋愛は意志を溶かす。不幸にも恋愛は心を破る。いったい恋愛はなんのためになるのか?
     そして、そういうふうに恋愛を罵っている時、彼の目には恋愛の皮肉なまたやさしい微笑が見えた。その微笑は彼自身にこう言っていた。
    「恩知らずめ! 僕にはもう、幸せになる資格なんて、無いっていうのに‥‥‥」
     二人の間には、ある因果の細い糸で、この詞にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、括り附けられている。因果もこの光の脚くらい糸が細いと苦にはならぬ。その上ただの糸ではない。空を横切る虹霓の糸、野辺に棚引く霞の糸、露に輝く蜘蛛の糸、夕陽を焦がす霧の糸。どれも切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは勝れて美しい。万一、この糸が見る間に太くなって井戸縄のように固くなったら? ——そんな危険は無いだろう。春野美沙姫は夢見る道化師である。それどころか恋する女であることを読者諸君らも知っている。ただの女とは違う。
    「すごい‥‥‥ピッタリです」
     そう言って鏡に自分の姿を映すミサキ。濡れた前髪を手櫛で撫でつけながら、少しだけ照れ臭そうに笑う。
    「どう? おかしくないですか?」
    「うん、大丈夫」
     僕は努めて平静を装った。が、内心ではまったく平静でなかった。僕の私物——亡き妻の遺品のひとつであるTシャツとスウェットパンツ——を羽織った美沙姫は、まるで別人のように見えた。いつもよりどこか幼く、それでいて妙な艶めかしさがある。襟元から覗く鎖骨の白さや、袖口からのぞく華奢な手首が、雨に濡れた後の体温を宿しているようで、異性という存在を久しぶりに意識させられてしまう。
    「この服、奥さんのですよね」
     突然の問いに、僕の心臓は烈しく動悸を打った
    「‥‥‥ああ」
    「やっぱり。なんだか、すごく温かい香りがする。洗剤じゃなくって‥‥‥奥さんそのものの匂いっていうか」
     彼女はそっと胸元の布を摘まんだ。湿り気の残る髪から滴る雫が、首筋を伝い落ちて、襟ぐりの広いTシャツの谷間に消えていく。
    「ありがとうございます。借り物だってわかってても、なんだか嬉しい。むしろ奥さんに許可もなく借りちゃって、なんだか申し訳ないくらいかも」
     先程とは打って変わって、美沙姫の声は控えめで柔らかい。まるで恋人の家に遊びに来た女の子みたいな口ぶりだった。椿渚は内心ざわつく。理性では抑え込まれていた欲望が、形を持った実存として目の前に現れたのだから。
    「‥‥‥いいよ。サイズも平気そうだし」
     平静を装い、彼は台所に向かってコーヒーメーカーのスイッチを入れる。わざと距離を取りたかった。‥‥‥美咲さんがかつて着ていた服を、美沙姫が纏う。それだけで不思議な感慨が湧き上がってくる。嫉妬でも羨望でもなく、ただ奇妙な懐かしさが胸を満たす。それが何よりも恐ろしかったのだ。
     だが背後から美沙姫が話し続けて来る。
    「でもこの服、わたしより少し大きいかも。肩回りとか、ちょっと余裕あるし‥‥‥。ツバサくんの奥さま、とってもスタイル良かったんですね。わたしもスタイルには結構自信ある方だから、ちょっぴり悔しい」
    「そう、だね‥‥‥。ほんとうに、僕にはもったいないくらいステキな女性だったよ」
     僕は努めて冷静な声で言った。だがミサキの無防備な姿は僕の理性を容赦なく削っていく。ソファーの隅で小さく膝を抱えて坐り込む年下の女性、濡れた髪が白い喉元に張り付き、淡い血色が浮かんでいる。鼻腔をくすぐるこの甘い匂いはコーヒーの香りでは決してない、この家のシャンプーの残り香だろうか。
    「ツバサくん」
     彼女が不意に僕を見上げた。チョーカーの留め具を弄っている。彼女の動作には媚びているところが全くなく、自然体で接している。それが却って男としての劣情を擽った。
    「ひどい人」
    「‥‥‥」
     言いかけて息が詰まった。
    「気づいてる? わたしがどういう目でツバサくんを見てるか」
     彼は黙ってカップにコーヒーを注いだ。手が僅かに震えている。カップ一つ分だけで注ぐのをやめて、彼女に背を向けながら冷蔵庫を開けて、ウィスキーを瓶のままあおった。目が眩み、頭蓋の中を激しく血管が脈打った。
    「ツバサくんの奥さん、羨ましいな。わたしもそんなふうに愛されてみたかった」
    「なにを言って——」
    「——ごめんなさい」
     彼女は笑った。濡れた睫が、頬に一粒の雫を落とす。
    「冗談、です。でも‥‥‥ちょっとだけ、ホント」
     そう言いながらミサキは髪をかき上げる。白い首筋に貼りついた髪の毛が、電灯の下で透けるように光る。しかしどうしてだか、その視線は彼を明らかに自身の隣に坐らせようと促している風に思われた。
     酔いに苦しみながら台所を出る、眼前に坐るのは見覚えのある衣服を身に纏った女、普段よりずっと無防備なその姿に、坂門椿渚は脳髄の奥から「抱き締めたい」という衝動が迸るのを必死に抑えた。これは彼女に対する同情心、恋慕の情なんかじゃない、と自制を続ける。それは決して許されないことだと、自分に言い聞かせる‥‥‥。
     サラサラと板屋を打つ雨の音が響く。薄明を頼りにした部屋がスーッと暗くなって、庇を叩く音がますます烈しく、それがやがて、数千万挺の鉄砲をうちこむような、おそろしい音になっていく。このとき男と女は互いに顔を見合わせ、頷き合い、意味ありげに目配せして、湿気を孕んだ前髪の間から二色の視線を重ねた。
    「わたしはね? ツバサくん。幸せになりたいの。あんまりこういう事言うのはキザかもだけどさ‥‥‥。私はさ、人よりもたくさい辛いこと経験してきたと思うの。それも全部耐えてきたし、時代や環境が悪かったんだー、なんて文句も言わなかった。いつか絶対あいつらを見返してやるってバネにして、今まで頑張ってきた。だからわたしは、自由になる。幸せを見つけたい。この島から出て都会の大学に行って、はやく親孝行もして。それで‥‥‥」
     と、ミサキは言い淀みながら言った。彼女は今や相手に語った言葉を改めて我が身に当て嵌めて考え出したのである。椿渚は頭を垂れて黙っていた。
    「‥‥‥やっぱり君は、強い子だね」 
    「そんなことないよ。誰だってさ、辛い過去を抱えながら生きてる。今日こうやって生きてるだけでも、みんなすっごく頑張ってるんだって、わたしは知ってる。そんな頑張ってるみんなが幸せになれないなんて、なんかさ。イヤじゃん? ツバサくんは‥‥‥それとも。幸せになりたくないの?」
     口中に注ぎ込まれた数滴のウィスキーが、利いたのか、それとも偶然そうなったのか、男の白く湿んでいた眸が、だんだん意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかった呻き声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。
    「そういうわけじゃない。僕にはね、幸せになる資格がないってだけだよ」
     椿渚は忽然油断なくなって来た。彼の髯の無い顎、いつもより前の方へ突き出された、しかし彼の凄い眼は大きく見開いていた。その瞳は二十年前の過去へと開かれていた‥‥‥。
     
     椿渚が「坂門」の苗字を名乗る前、或る梅雨の日のこと。
     数日のうちに、あらゆる没落が積み重なってきた、親愛なる人の死亡、全財産と全地位と世間の尊敬との喪失、家族だった二人の離反。それこそ全部の崩壊だった。彼を生かしていたものは何一つ残存しなかった。養父母はふたりとも、精神上の純潔さに対する一徹な感情をもっていただけに、自分らに責のない不名誉を殊にひどく苦しんだ。だが最もその苦悩に痛められたのは椿渚だった。何故なら彼は平素最も苦悶に遠ざかっていたから。もはや嘆くよりほかに能のないように見える母も、父に攻撃をされると気力を回復してきた。彼女は今や、どんなにか夫と実子の方の我が子を愛していたかを知ったらしい。そして彼女は、明日はいかになりゆくか少しも考えられなかったので、夫と心を合わせて、それからはもう椿渚を「人殺し」だと罵り続けた。血の繋がっていない方の我が子を再び孤児院へ送り返すと決めるのに、彼らには一週間もかからなかった。
     椿渚は生まれてすぐに教会の前に捨てられていた孤児だった。本土の孤児院にいた頃、博多に住む養親夫婦に引き取られて七歳頃まではまともに暮らしていた。だが養親夫婦の間に女子が生まれしばらくしたとある日、両親が不在で椿渚と赤ん坊の妹が留守番をしている最中、妹はベビーベッドの中でタオルに顔を埋め窒息死したのである。父親は母親を責め、母親は椿渚を責めた。
     まだ七歳だった椿渚は世間の醜悪さを一挙に見て取った。彼の眼は開けた。彼は本能的に人生を見た気がした。結局、家族だと思っていた養父母から人格を否定された。愛すべき家族だった大人達からの暴力が終わって、二人いっしょに泣いてる間に、彼は一人自分の苦悩の中に閉じこもった。彼の絶望した小さな頭脳は、過去現在未来を考慮した。そしてもはや自分には何も残っていないのを知った、なんらの希望もなんらの支持も無いのを。もはや頼りうる誰もいなかった。
     しばらくして悲しい恥ずかしい葬式が行われた。教会ははじめ嬰児の死体を受けることを拒んだ。寡婦と孤児たちとは卑劣な旧友らから見捨てられた。ようやく二、三の人たちがちょっと顔を出した。彼らの迷惑そうな態度は、他に会葬者がないことよりもさらにつらかった。彼らは会葬を一つの恩恵としているらしかった。その沈黙は非難と軽蔑的な憐憫との塊だった。親戚の方はさらにひどかった。ただに弔慰の言葉を寄せないばかりでなく、苦々しい非難を寄せてきた。嬰児の死は人々の怨恨を鎮めるどころか、自死にも劣らないほどの罪悪らしかった。中産階級は自殺者を許さない。もっとも不名誉な生よりもむしろ死を選ぶことは、もってのほかのことだと思われている。「諸君といっしょに生きることくらい不幸なことはない」と言うらしい人の上には、あらゆる峻厳な法の制裁が喜んで加えられる。
     最も卑怯な者こそ、もっとも激しく自殺を卑怯な行いだと非難する。自殺者が人生からのがれながら、おまけに彼らの利益と復讐心とを毀損するときには、彼らは狂人のようになる。——高校進学をきっかけに孤児院を出て、奨学金を貰いながら聖福高校で一人暮らしを始めていた椿渚は、不幸な我が養父母がいかに苦しんでからそこまで到達したかを、ちょっとも考えてみようとしなかった。なお誰かを——誰でもいい、幸せそうな誰かを千倍も苦しませたいほどだった。そして怒りの対象が判然としなくなると、その家族の者たちに非難の鋒先を向けた。彼はそれを自認してはいなかった。何故ならそれは不正なことだと知っていたから。けれどもやはりそうせずにはいられなかった。一つの犠牲者が彼には必要だったのである。
     
    「——死のうか。さっさと死のう。神さまだって赦してくれる」
     
     彼にとっては、死の考えは一つの避難所となっていた。今となっては殊にそうだった。彼は死を希望した。もちろんそれは痛ましい諦めには違いない。しかしながら、自信強く、幸福であり、生きることを愛しているのに、この底知れぬ絶望に、あるいは身の毛もよだつ死そのものに、突然行き当たった若人の反抗心に比べれば、それほど恐ろしいものではないのかも知れない、——おのれの行く末を思い、ぞっとして、居ても立っても居られぬ思いを抱いて、雨具をずるずるひきずりながら展望台まで歩いてみる。自分の入学祝いにと神父が贈ってくれた制服も、すでに季節はずれの感があって、お天道様の下におそろしく白く目立つような気がして、いよいよ悲しく、生きているのがイヤになる。東シナ海を拭って吹いて来る風は、なまぬるく、どぶ臭く、沼の蓮も、本当に仏さまの御花みたいに綺麗に咲き誇っていて、ぞろぞろ通る鳥たちも間抜け顔にさせていて、それでいて皆が疲労困憊の色が深くて、世界の終わりを思わせた。
     
    「——今日から一緒に考えよう。君の悲しみに、その『魔法』は本当に必要なのかな」
     
     彼の頭には理智の閃きが過った。
    「——そうだよ。きっとそうに違いないんだ」
     焦慮の不意な熱心をもって椿渚は叫んだ、
    「自分の不幸を呪ったことは何度だってある。それでも、僕は彼女に出逢えた御蔭で、これまでの人生でちょっとばかり幸せな目に遭ってきたんだから。これ以上何かを望むのはさ、欲張りみたいなもんじゃないかな? 今日もこうやって精いっぱい生きてる、死んでないんだなって実感してるだけで。僕には十分過ぎるくらい贅沢なんだよ」
    「死んでいないのなら‥‥‥」
    「ああ」
     それは、かすかな、僅かに唇を洩れるような声だった。
    「僕はこれからの人生を‥‥‥波風を立てない程度に、平穏に安全に。少しばかり誰かの役に立つ程度に生きていけるなら、それでいいんじゃないかって。そう思うんだ」
    「それじゃあ、ツバサくんが先生やっているのも?」
    「そうだね。誰かの夢を支えたい、叶えてあげたいって‥‥‥。あの人と約束したんだよ。 三十も手前になってこんな夢を語るのは恥ずかしいけどね」
     美沙姫は首を振った。なにか訴えるような目をしている。
    「それじゃあ、ツバサくんはいま幸せだね」
    「どういう意味‥‥‥?」
    「だってさ。わたしとこうやっておしゃべりしてるじゃん? ツバサくんのおかげで、わたしは今日一歩踏み出せたし。ツバサくんは少なくとも、春野美沙姫っていうひとりの人間は救えてるよ」
    「ははは‥‥‥ありがとう。そう言われるだけで嬉しいよ」
     無理に笑おうとすると、頬の筋肉が痙攣した。
    「だからね。奥さんとの約束を果たしたいのはわかるし、そのためだったらツバサくんは何でもしちゃうかもだけど。それはたぶん、自分の幸福を捨ててまで、無理してまですることじゃないよ。ツバサくんにはもう、奥さんの代わりにはなれないんだから。‥‥‥わたしたち人間が誰かの代わりになることなんて、できない」
     彼女は両手を重ねて祈りのポーズを作り、椿渚の方へ伸ばした。まるで祝福するみたいに。彼もつられて祈りのポーズを作ってみた。すると美沙姫彼の手を自分の両手で挟んで、きゅっと握りしめた。
    「ありがとう。おかげさまで春野美沙姫はすこぶる元気になりました。健康を取り戻しました」
     ミサキは椿渚の手に自分の体温を移すように、手のひらに温もりを込めてくる。
    「ツバサくんにはツバサくんの人生があると思うの。それこそわたしの知らない、奥さんの好きだったツバサくんもね。もちろん、わたしなんてツバサくんの『奥さん』の身代わりにすらなれない。でも、今は‥‥‥今だけは、傍にいてほしいなって。それにさ、これもちょっとワガママかもだけど‥‥‥。わたしは、もっとツバサくんに何かしたい。まだ出会って日が浅いけど、ツバサくんはわたしにとって『幸せ』なんだもん」
    「それは‥‥‥」
     椿渚は唾を呑んだ。彼女の顔は仄かに上気して、呼吸も浅くなり、その瞳には涙が滲んでいた。
    「ねぇ。わたしと一緒に、幸せになろ‥‥‥?」
     すると動き出そうとする彼の横腹を突かぬばかりに、美沙姫は前へ押した。追い被さるように、後から圧し掛かって来た女の顔が、男の耳のあたりまで着いたとき、
    「今日だけでいいから。わたしをあなたの‥‥‥トクベツにしてほしい。そうじゃないときっと‥‥‥『わたしたち』は前に進めないから。一緒なら、きっと怖くないから」
    「僕と、一緒に‥‥‥」
     その声は好かった。小降りになった雨は人に媚びるように聞えて来る。夏の夜の人を酔わせるような微温みがある。男はちょいと女の目を見た。その目の中には無限の愛情と好意とが耀いていた。そこで男は精一ぱい心を今の一刹那に集中しようと思った。過去をも未来をも、少しも思うまいと男は意志に最後の鞭撻を加えた。とにかく今だけでも幸福を感じていたい。少なくとも苦痛をぼかしていたい。そのとき忽然と、少しも予期しないのに、解脱したような、一種の新しい感じが出て来た。それは今死んでしまえば、心にへばりつく別な女の幻影だって、わけはないという感じであった。直ぐにやればなんでもない。今やらないところで、いつでもこの感じを起こして死ねるのならば、わけはないと思ったのである。雨音は聞こえる。ほろ酔い機嫌になっている。可哀らしい娘が傍にいる。こういう時に人間はやるのだなあ。女は春野美沙姫である。しかしやるならミサキでなくってはイヤだなぁと考えた。今すぐにミサキを女として抱きたいと思った。
    「美沙姫さん」
     ふと、彼女の名前を呼ぶ。
    「ツバサくん‥‥‥」
     今更ながらの初々しさが芽生えて、互いの瞳が、熱を孕んだまま、動きを止めた。僕はただ黙って、自分の元へその紅の色の美しい唇を寄せた。
    「‥‥‥ちゅっ‥‥‥んっ」
    「‥‥‥っ! ぁ‥‥‥っ」
     未咲さん以外の女性と初めて、唇を重ねた。
    「だから‥‥‥最後に、お願い。あなたがわたしに、『勇気』をください。そうすれば——」
     美沙姫は、震えた声で、そう言った。
    「——そうすれば、わたしは‥‥‥大丈夫。これから先、もしも何か悲しいことがあったとしても、つらいことばかりが終わらなかったとしても、耐えられる。がんばれる‥‥‥。わたそは最後まで諦めないで、わたしたちの未来を書き換えられるんだって、思えるから」​
     だから、お願い‥‥‥、と美沙姫は呟く。
    「恐がりな、わたしに‥‥‥あなたがいないと、だめなわたしに‥‥‥。あなたの『隣』にいないと、ほんとうに、心から笑ったりもできない、こんなわたしに‥‥‥どうか、お願い。最後に『勇気』をください」
     そう言い、震えていた美沙姫を‥‥‥。​
     僕は強く、ただただ強く、抱き締め返した。
    「あ‥‥‥んん、んっ‥‥‥ちゅぅ‥‥‥」
    「ちゅぅ、ちゅく、ちゅぷぷっ‥‥‥んっ‥‥‥ぷぁっ‥‥‥」
     抱きしめて、キスをした。ぬくもりの消えていく口唇を惜しみながら、何度もなんども。
    「んっ‥‥‥! はぁ、はぁっ‥‥‥」
     唇を離す。​
     勇気‥‥‥。
     美沙姫は僕に、これから先へ一歩、踏み出すための勇気がほしいと言った。その言葉の意味を考え、つい沈黙してしまう。そう思いながらも、視線が重なると互いに、少し照れたように笑い合った。おれの首筋に、柔らかな頬を押し当てて、彼女はおれを抱き締める。それはもう甘えるように、懐くように、情熱的な愛おしさを求めているように。肩から頤を滑り落して、彼女の長い髪が首筋に絡んでいる。
    「ねぇ。ツバサくんはいま、幸せ‥‥‥?」
     押し倒したまま、美沙姫は彼の股間を見下ろした。彼女の視線の途中に、仰角を大きくして突き立っている椿渚の勃起があった。美沙姫は彼の手を取った。その手を引き寄せられ、彼は美沙姫のかたわらに膝をついた。無言のまま互いに衣服を脱ぐと、美沙姫は彼を裸の胸に抱きとめ、彼は両膝を畳についた。美沙姫は腰を畳に降ろした。彼は美沙姫の両腕に抱きすくめられ、ふたりは畳に横たわった。
     背丈は自分よりも七センチほどは大きいだろうか、ガッチリした骨格にこの圧倒的なボリュームのおっぱい、——美沙姫のどこをどう抱けばいいのか、椿渚は模索した。ふたりの体が無理なく重なり合ったときには、美沙姫は彼の下にいた。片腕を上げて彼の頭のうしろをとらえ、自分に向けて引き寄せて、顔を重ねさせ、美沙姫は彼の唇をもう一度とらえた。ふたりは口づけをした。途中で美沙姫は唇を離し、
    「わたしは異性としてツバサくんが好きなの。好きでなければ、こんなことはしないんだよ」
     と言った。
     彼女の口調のなかに満ちている切迫感に引き寄せられて、椿渚は美沙姫に唇を重ねた。ふたりは口づけを交わし合った。頭のほんの小さな片隅で、勃起が邪魔だ、と椿渚は思った。どうすればいいか思案した結果、腰を浮かすことを彼は思いついた。開いた美沙姫の白い太腿のあいだで、彼は腰を浮かせた。上体を美沙姫に重ねた彼は、自分の背中を撫でる彼女の手の動きを知覚しつつ、顔を美沙姫の肩に伏せた。鎖骨の出来ばえを唇で感じ取り、彼女の喉元に口をつけ、頬を重ねた。
    「好きなの」
     美沙姫が囁いた。
    「‥‥‥僕もだ」
     という返答がもっとも正しいだろう、と彼は思った。だからそう答えた。
    「わたしが?」
    「ああ」
     美沙姫の指が彼の勃起をとらえた。導かれるままにしていると、柔らかく濡れた部分を勃起の先端は感知した。すると椿渚は美沙姫の温もりと匂いでドキドキして、スイッチが入ったのだろう。そのまま彼は彼女の唇を強引に奪った。
    「んんんっ! んちゅっ、ちゅっ、はぁっ、ツバサ、くん‥‥‥っ、もっと、もっとちょうだいっ‥‥‥」
    「ああ、んっ、ちゅっ、んっ、んっ、はぁ、はぁ、んっ、ちゅっ‥‥‥」
     それは決して洗練されたキスではなかった。嗚咽と涙と愛情がごちゃ混ぜになった、貪り合うような口付け。美沙姫の震える舌が椿渚の歯列をこじ開けようとするたびに、彼女の切羽詰まった想いがダイレクトに伝わってくる。男は驚きながらも優しく応えるてやるのだ。美沙姫の熱情を受け止めつつ、ゆっくりと手を背中に回し、その震える肢体をしっかりと抱きしめる。
    「ぺろっ、んっ、ちゅっ、んっ、んんっ、ちゅっ、ちゅっ、んん‥‥‥」​
    「はぁ、はぁ、せんせい、んっ、ちゅっ、んん‥‥‥ツバサくんっ、ツバサくん‥‥‥っ!」
     積極的に唇を重ねて、舌を絡ませる。美沙姫の細い背中の曲線が、椿渚の指の下で微かに蠢く。必死に息を求めながらも離れまいとする仕草がたまらなく愛おしい。
    「ぷはっ」
     長いながい接吻の時間が終わって、しばらく抱き合っていたあと、椿渚は彼女から少しだけ上体を離した。美沙姫の顔と両肩、そして胸板を視界のなかに入れ、その鎖骨に指先を触れた。そして無言のまま、脚をさらに開いて両膝を立てた美沙姫は、片肘を布団について上体を斜めに起こした。男性の勃起というものを彼女が初めて見たというのに、理にかなったその形状に対する全身での賛意の表現として、美沙姫は彼の肩に手をかけ、自分に向けて引き寄せつつ、自分もシーツに上体を降ろした。全身を開いて彼を受けとめ、彼の腕に両手を添え、美沙姫は至近距離の彼の顔を見た。
    「入って来て。わたしに入って来て」
     切迫して囁くその声とともに、美沙姫の左腕が彼の股間に白くのびた。彼女の手は椿渚の勃起をとらえた。導く彼女の手の動きに合わせて、彼は腰を進めた。彼の勃起が接した場所の正しさは、初めての彼女にも直感的にわかった。だから彼女は手を離し、両手を彼の肩にかけた。
    「入って来て。‥‥‥はじめては、ツバサくんがいいの」
     勃起の先端が接している濡れた柔らかさの奥行きを、彼は全身を貫く軸で感知していた。そのままの位置で水平に進めると、勃起は下向きに修正されつつ、亀頭だけが彼女の内部に入った。美沙姫が短く声を上げた。
    「う!? うっ、あ‥‥‥ああああぁっ、く、ん‥‥‥ううううぅぅぅぅ!」​
    「ミサキっ、ちょ、ダメだって‥‥‥!」​
     彼女の太腿で腰を引き込まれて、先端が膣口を割り開いた瞬間、ぶわっと全身から汗が噴き出した。無理やり剥がされた膣壁が躍起になって閉じようとしてるのを感じるから、胎内に少し食い込んだところで身動きできなくなってしまう。
    「変な声、だ、出して‥‥‥ごめん、平気。ちょっとびっくりしただけ」
    「ゆっくりでいいんだ。そんな無理しなくても」
     ペニスは絶対に動かさないように、美沙姫の背中に腕を通してしっかりと抱き締める。
    「ごめんな、僕は気持ちいいだけなのに、ミサキは痛いばっかりで」
    「‥‥‥(フルフルッ)」
     そのまま後頭部に手の平を移して、撫で下ろしながら頬にキスする。
    「い、今、すごく幸せ。だっこ‥‥‥こうやってくっつくの気持ちいい‥‥‥。キスっ、もっと、キスしたい」
     亀頭の先に走る締め付けに気をとられそうになりながら、美沙姫の舌に舌使いを返していく。
    「ちゅうっ、ん、ちろ、ぴちゃぴちゃ、は、はぁ、あむぅ、ちゅぱ」
     こうやって俺の舌をしゃぶってる間も、美沙姫は俺の腰を抱いている足に力を込めて、ペニスを胎内に埋めようと試みてくる。
    「や、やんっ、おちんちん逃げちゃダメ。もう大丈夫‥‥‥入るから」
    「無理、っあ!? ミサキ‥‥‥!」
    「う、うっ、く‥‥‥は、はああぁぁ、あ、あんっ! ん‥‥‥ふ、ふ、ふッ!」
     ぐいっと腰を抱え込まれるまま、行き場を見失っていたペニスが密集した肉をずぶりと貫く。その一瞬、亀頭を遮ろうとした引っかかりがぷつんと剥がれて。
    「あ!? ああああぁぁっ、く、んんんんん‥‥‥! は、はっ、あ‥‥‥ぁ、あううぅ、う~~~~、く、くふぅっ、ん、んっ!」
     ぴくん、ぴくんっと美沙姫の膣壁が閉じて、初めて迎え入れた異物の形を確かめようとする。ペニスに周りにじんわりと血が滲みはじめているのがわかった。彼女の呼吸も、声も、どこかうわずっているようにも感じた。
    「はあぁ、あ、入ったぁ‥‥‥?」
    「入ったよ‥‥‥根元までミサキに包まれてる」
     美沙姫の矯正に促されて、椿渚は腰を進めきった。しっくりしていないという判断に反射して、彼は腰を少しだけ引いた。そしてそこから進めなおすと、これ以上ではあり得ないと彼ですら思う状態となった。彼としてはそれ以上にはなにも出来ず、そのままその状態を保つほかなかった。だから彼はそうした。
     椿渚の下半身には余裕がなかった。下半身は動きを止めて位置を固定したまま、彼は両肘の位置を模索した。自分の体重を自分で支えるための、適正な位置だ。美沙姫の大きな胸をつぶさないよう、美沙姫の胸はごく軽く接しているよう、彼は自分の上体を保った。そのようにして上半身が安定したあと、彼は両膝の位置を修正した。両足の指のための足場を、シーツの上に彼は見つけようとした。これはいつもの自分のベッドのシーツだ、と彼は意識の遠い片隅で思った。そしてここは自分の寝室だ。ついさきほどまでは、美沙姫にコーヒーを入れてやっていた。そしていまは、おたがいに裸で、こうなっている。
    「そのまま前へ。ゆっくり、押して」
     言われたとおりにすると、柔らかく濡れた部分をなかば押し開き、なかばかき分けて、彼の勃起は美沙姫の内部へ入った。下腹が重なり合い、これ以上には進まなくなったとき、反射的に彼は数を数え始めた。顔を上げると、大きくのけぞって乳を揺らしている美沙姫の、顎の裏から喉にかけて、そして喉から胸へと落ちていく線と曲面、さらには頬の下をかいくぐってうなじへとつながるあたりの、素晴らしく美しい造形が彼の視界いっぱいにあった。彼の頭のなかにわずかに残って作動している冷静な部分が、その美しさを鑑賞した。
     冷静ではない部分は、ひたすら数を数えた。三十まで到達し、下半身のあらゆる部分に力を込めなおし、六十まで彼は数えた。濡れて柔らかく暖かい粘りから自分が受けとめている、複雑さをきわめた微妙な摩擦や圧迫による刺激の快感に、彼は正面から向き合おうと試みた。受けとめている刺激に対して、彼は自分の感覚を全開にしてみた。正面から受けとめる刺激に、彼のすべてはあっさりと飲み込まれた。次の瞬間、射精への強烈な反射が始まり、彼は声を上げて上体を反らせ、反射の急速な連続に耐えた。耐える作業のぜんたいが、そのまま、彼にとっては懐かしい快感だった。
     反射が治まってようやく、彼は美沙姫を自分の体の下に抱き込むことが出来るようになった。両肘と両膝で、彼は自分の体重を支えた。美沙姫の肩甲骨の下から手をまわし、肩を掌のなかにとらえた。頬を重ね合わせた。美沙姫は彼の脚に外から両脚をからめた。ふくらはぎで彼の太腿を自分に向けて引き寄せ、
    「まだ離れないで。そのままにしていて」
     と言った。甘い言い方のなかに、切迫感がまだ存分にいきわたっていた。彼女は彼の体のさまざまな部分を撫で、顔を自分に向けさせ、口づけをした。
    「ツバサくんが、私の中にいるんだって‥‥‥ハッキリとわかるよ」​
    「僕も。ミサキに包まれてるのが、わかるよ」​
    「熱くて、トロトロの粘膜が、ぎゅーって抱きしめてくれてる。ツバサくんも、気持ちいいの‥‥‥?」
    「とっても。気持ちよくて‥‥‥正直、動きたい」
    「え? あ、ん‥‥‥そうだよね。はぁー‥‥‥はぁー‥‥‥んっ、んだっ⁉」​
     試しに腰を一度動かしてみただけだったが、この反応だった。
    「今、凄い声出てたけど。難しいなら、僕はぜんぜん諦めるよ」
    「って言っても、いつまでもこのままってわけにもいかないでしょ。慣れては来てるから‥‥‥そっちで、動いてみてくれない?」​
    「わかった。なら‥‥‥動くよ?」​
    「う、うん。あっ、でも、ちょっとずつね? 様子を見ながら、ちょっとずつ」​
    「ああ」
     ベッドの上で跳ねるみたいに、僕はミサキの体を下から小突いてみた。​
    「んぎぃっ!? んっ、んんっ‥‥‥んぁっ、あっ、あっ」
    「強すぎるか?」
    「どうっ、だろ‥‥‥これ以上、弱くしたら‥‥‥動けない、よね?」
    「そうだけど。でもミサキが辛いのなら」
    「ちょっと痛いけど、辛くはないよ‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥幸せだよ。好きな人の温もり、お腹で感じられて‥‥‥すごく幸せ‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥っ」
    「じゃあ、続けるけど‥‥‥我慢し過ぎないでね」
    「平気だよ、多分‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥さっきツバサくんが、グチャグチャにしてくれたから‥‥‥ちゃんと我慢できる」
    「そういうことなら」
     椿渚は美沙姫の中を小突き続ける。内側の煮え滾った熱い粘膜をペニスでゆっくり擦っていく。
    「ひっ!? んっ、くっ‥‥‥ぅぅっ、ぅぁっ! あっ! はぁ‥‥‥はぁ‥‥‥んぃぃ!?」
     ニチャニチャと粘液と空気が混ざり合う音。布団が軽く動いて、その度に美沙姫が苦しそうな吐息を漏らした。
    「んっ、んぐぅっ、んぁっ! あっ‥‥‥はぁ、はぁ、はぁ‥‥‥あんっ!」
     その反応を見ていると‥‥‥少しずつ、わかってきた気がする。引っ掻くみたいに角度を付けようとすると彼女の顔と声が苦痛を訴えた。だが、感触を確かめるみたいに奥の壁をコツコツとノックする軽い動きだと‥‥‥意外とミサキの反応も悪くない。というか、声が艶めかしさを帯びていく。
    「んんぁあぁぅぅ‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥んっ、んっ、んん~っ!」
    「これくらいなら、平気そうだね」​
     何度も腰を動かし、小さな部屋には二人の嬌声が更に激しく溶け合っていく。傍らに彼は視線を向けた。壁に寄せて台があり、その上に化粧品やアクセサリーがあった。顔を上げて窓を見た。雨空が見えた。窓から室内に入って来る光や窓をザァザァと鳴らす音は、さきほどまでとおなじだった。自分たちの状態だけが激変している、と彼は思った。自分たち。ミサキという名の女、そしてこの坂門椿渚。
     椿渚は美沙姫を見下ろした。その瞬間、自分の感覚のすべてが彼女に向けて集中していくのを、彼は知覚した。それまではほかのことに気をとられていたが、たったいま、この瞬間から、美沙姫の内部へ引きずり込まれるかのように、彼の感覚の対象は彼女だけとなった。いまの自分の視線のなかにある美沙姫の美しさ、そしてその体の優しい端麗な量感に向けて、自分の感覚が急激に流れ始めることに対して、彼は完全に無防備だった。美沙姫の内部に入っている部分に向けてすべてが流れ込み、それは快感でふくれ上がり、抑制しきれない状態を甘美な瞬間として越えた。そしてすべては深いところから爆発した。
     入っている部分をさらに奥へ進める本能的な動きはどうにもならないとして、それ以外の部分で自分はどうすべきか、椿渚は頭の片隅で考え続けた。両肩から背中へ、そして背中のぜんたいから腰へ、さらに腰を経由して左右の太腿に、膝に、そして足指まで、可能なかぎりの力を込めることによって、椿渚は射精の感覚が込み上げてくるのを受けとめ、それに耐えた。
     ほどなくすべては治まった。美沙姫を両腕に抱え上げるようにして抱きなおし、その動きの連鎖的な一端として、
    「ミサキ」
     と、彼は名を呼んだ。
    「心配しなくていい。これでいいんだ」
    「うんっ‥‥‥んんんっ、んっ、んん‥‥‥ぷぁっ、はっ、はっ、はぁぁ‥‥‥からだ、うまく、うごかなぃっ‥‥‥! ひっ、あっ、あっ‥‥‥ぁぁぁ‥‥‥お、奥の方まで‥‥‥挿入っちゃってるからぁ‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥あっ、ぅっ、ぁっ‥‥‥ダメ、力、入らなくて‥‥‥ぁっぁっ‥‥‥む、むり‥‥‥ぁっ、あああああー‥‥‥ッ!」
     崩れ落ちるように、美沙姫の体が落ちる。ギリギリ浮かせていた尻が、ペタンと椿渚の下腹部とぶつかった。彼女の肩が上下する度に、くちゅり‥‥‥と音が響いた。肉ヒダから零れる愛液が、ペニスを伝い落ちていく。
     両腕にお互いを深く抱き込み、胸を合わせて顔を重ね、しばらくふたりはそのままでいた。美沙姫が体のわずかな動きで伝える意思表示に正しく反応して、彼女がもっとも強く反応するとらえかたを瞬時に的確に選び取り、優しく複雑微妙に、椿渚はぜんたいを愛撫した。美沙姫は彼の勃起を膣内でとらえ、彼を促して腰を上げようとしたが上手くいかない。結果、椿渚のペニスに貫かれたまま腰をくねらせて、尻を前後に揺らすようになった。
     薄明かりに照らされた二人の影が静かに烈しく絡み合う。外では首を垂れた藪椿が豪雨に吹かれて落とされていた‥‥‥。
     
     澄み切った純潔さ。純白な時間、ほとんど差別ない時間。この種の愛は、百合の花弁を集め鳩の羽を集めたものである。
     新たな季節を待つこの六月の雨の日、椿渚と美沙姫は限りない幸福を経験した。
     夢想的な彼らを幸福ならしむるにはそれで十分だった。美沙姫が抱いていた恋慕、忘れる暇のない燃ゆる思い、心を満たしている椿渚の姿、それらも彼女の美しい潔白な微笑める額の比類ない純潔さを少しも減じはしなかった。美沙姫の年齢はちょうど、天使が百合の花を持つような具合に処女が愛を持つ頃だった。それゆえ椿渚も安心して身を任せた。その上、ふたりの恋人が心を合わしさえすれば、世界は常に何事も都合よくゆくものである。ふたりの愛を乱さんとする第三者は、恋人がいつもするような少しの注意をさえすれば、まったく何事も知らずにいるものである。
     それに、臆病とも謂える貞節な愛にも絶対に媚びが欠けているものではない。愛する女に「やさしい口をきく」のは、愛撫の最初の仕方であり、半ば思い切った行いである。その会釈は、ヴェール越しの口づけにも似たものである。肉感は身を隠しながらそこにやさしい跡を刻む。肉感の前に心はなお深く愛せんために身を退く。椿渚の追従は、空想にまったく浸されていて、言わば空の色に染められたようなものだった。小鳥が美沙姫よりも高くたかく飛び行く時には、そういう言葉を聞くに違いない。けれどもそれには、生命と人情と、椿渚のなし得るすべての積極的なこととが含まっていた。それは洞穴の中で語られるべきものであり、寝所のうちで語られるべきものの序曲だった。叙情的な訴え、歌曲の一節と叙情短詩の交じったもの、 鳩のやさしい飾り言葉、花束に編まれて美妙な天国の香りを発する精練された欽慕の言葉、心より心へ伝える、得も言われぬ囀りであった。
     美沙姫の方も椿渚に会って以来一種の音楽のうちに浸ったような心地になって、不思議にも、過去のことは、最近の過去のことまでも、遠くおぼろげになってゆき、彼が語ったことだけで十分に満足した。それで、自分が語らなかった過去の記憶、彼に語った現在の夢のこと、未来にはこの関係が夢を拒むのではないかという懼れ、それにこれから自分たちがただの隣人関係に墜ちやしないかという不安なども、今日だって敢えて彼に語ろうとも思わなかった。美沙姫は一時それらのことを忘れてしまっていた。耳には楽しい歌声が聞こえて、他のことは一切わからなくなり、ただ椿渚に会っている時だけしか生きていないがようだった。椿渚とともにいる時、彼女はまったく天のうちにいたので、自然に地上のことは忘れてしまった。彼女らはふたりとも、この世を離れた快楽の名状し難い重荷をなよなよしくになっていた。世に恋人と呼ばれる夢遊病者らは、斯くの如くして日を過ごすものである。
     愛とは殆ど思索を追い出すものである。愛は他の悉くを全く忘却させるものである。情熱に論理を求めてみるがいい。天体の運行のうちに完全な幾何学的形状がない通り、人の心の裡には絶対的な論理の連絡はないものである。美沙姫と椿渚とにとっては、もはや椿渚と美沙姫との他は何物も存在しなかった。周囲の万物は全て穴の中に没してしまっていた。彼らは光り耀く黄金の瞬間に生きていた。前には何物もなく、後ろにも何物もなかった。椿渚に想い人がある可能性をも美沙姫は殆ど考えなかった。椿渚もまた同じである。彼の頭の中では眩惑のために全てが消されてしまった。それではこのふたりは何のことを語っていたか? それは花のこと、燕のこと、沈みゆく太陽のこと、上り行く月のこと、そういう大事なことばかりだった。彼らは全てを除いた全てのことを語り合った。恋人らの全ては無にすぎない。そして、愛のこと、現実のこと、あの友情、あの旧い家族、あの事変、それらが何の役に立つのか。またその悪夢が実際起こったことであるとどうして確言できよう。彼らはふたりであり、互いに欽慕し合っており、ただそれだけのことにすぎなかった。その他のことはすべて存在しなかった。そのように背後に地獄が消えゆくことは、おそらく天国に近づくの兆であろう。悪魔の姿を見たか、悪魔が実際にいたか、それに戦慄したか、それに苦しんだか、もう何も覚えてはいない。雨上がりの空には薔薇色の雲が上には棚引いているのみである。
     斯くて二人は、空高く、真実とも思えないもののうちに、幸福の残り香を味わっていた。地中でもなく中天でもなく、人間と天使との間、泥土の上、精気の下、雲の中であった。殆ど骨と肉とを失ったように、頭の頂から足の先までただ魂と歓喜とのみであった。地上を歩くにははやあまりに崇高となり、蒼空に消え去るには猶あまりに人間の性を帯び、震盪を待つ原子のように中間にかかり、見たところ運命の束縛を脱し、昨日と今日と明日との制扼を知らず、感激し、眩暈し、浮揚し、時には無限の境に飛び行かんとするほど軽く、永遠の飛翔を試みんとしているが様であった。
    「わたしを赦してくれて、ありがとう。ツバサくん」
     女は優しく男の髪を撫でてやって、顔には忍耐に慣れた、疲れた未練のある微笑を続けて、口を側に寄せて、親切に囁いた。美沙姫はしばらくしてから、椿渚の体温を確かめるようにその唇をちゅっと彼の額に当ててやる。そうしている内に頭がぼんやりして、彼と同じく夢見心地になって来た。
     畢竟この二人は、子守唄に揺られながら目を開いたまま眠っていたのだ。理想によって圧倒されたる現実の光輝ある昏睡であった。時とすると、美沙姫の美しさにもかかわらず、椿渚はその前に目を塞いだ。目を塞ぐのは魂を眺める最上の方法である。その罪は、椿渚も美沙姫も、斯くして終にはどこに導かれんとするかを自ら尋ねなかったことに存する。二人は既に到達したものとみずから思っていた。愛が人をどこかに導かんことを望むのは、人間の愚かなる願いであるというのに。

    六

     しばらくするうちに雨は小降りとなり、やがて夕日が少しずつ洩れるようになった。湿気を帯びた、新鮮な風がさっと吹いて来ると、ぐしょ濡れになって突っ伏していたそこらの木々は、やっぱり狗が身振るいして水を切るように、身体中の水気を跳ね飛ばして、勢いよく起き上がる。ひた泣きに涙を流した後の歓び——そういったような静かな快活さが辺りに流れた。日暮前のこんな時にしみじみと見惚れるのは合歓の花。
    「おはよう、ツバサくん」
    「ん‥‥‥。おはよう、美沙姫さん」
     彼女が挨拶すると彼も気だるげに起きて来た。互いに下着姿で肌は露わのままだ。
    「さっきは、その。‥‥‥ありがと。すごく、きもちよかった」
    「うん‥‥‥僕のほうこそ。最高に、その、きもちよかった。ありがとね、美沙姫さん」
    「ん」
    「ね」
    「‥‥‥」
    「‥‥‥」
     蒲団から出た彼は、ちゃぶ台の前で一服していたわたしの隣に座って肩を寄せた。そしてまたチューチューと雀の声。机の上には椿みたいな色の髪留めが二つ、重ね合うようにして並んでいる。
    「えへへっ」
    「んふふっ」
     二人はお互いの温もりを感じながら微笑み合った。こつんとぶつかった頭をこすり合わせた時、汗だけじゃない、なんだか懐かしいような甘酸っぱい匂いがしたのが可笑しかった。その後はしばらく何も言わずに寄り添って、机の上に広げられた紙片をなんの気も無しに眺めていたが、
    「ねえ。ツバサくんはさ、奥さんのどんなところが好きだったの」
     と、美沙姫はさっきの続きを話し始めた。椿渚は横を向いて、ちょっとだけ聞こえないフリをした。
     しかし彼には、なんだか、ぼんやりとわかりかけてきた。もっとも、美沙姫自身も、心のどこかで薄々うすうす感づいていたのであるはあるが。
     ただ、ミサキという名前の女が好きになったなどというのはあまりにも奇抜すぎる、というよりはそれこそ未練がましいので、坂門椿渚の心が、それを承認することを拒み続けていたのである。しかし、それもよく考えてみると、格別不思議だというようなことでもない。じぶんはこの女性に、いつか一度熱烈な出逢いをしたことがあって、そのとき強い印象を受けたまま忘れていたが、偶然、その女性の女性らしい姿に再会して、古い記憶が急に蘇ったのだと考えられないこともない。
     そういえば、これとよく似た配景をいつか一度見たような記憶がある。雁来紅の紅さも、夕陽の色も、おどんだような部屋の暗さも、このままの様子で心のどこかに残っている。それに最初、あの女陰を見たとき、その中へスルスルと入ってゆけそうに思ったのは、女体への性欲に因ることではなくて、それが、むかし、非常に親しかった風景だったからかも知れない。
     しかし、ひょっとすると、それは、夢のなかで見た景色だったようにも思われる。遠い丘の上で、夕陽を浴びて立っている城のような白い建物や、陰影もなく、碧一色に塗りつぶされた空の様子などは、なにか、とりとめなくて、夢の中の景色によく似ている。夢だったのか、事実だったのか、その辺のところが、どうも、はっきりしない。また、それが事実だったとしても、そこで、どんなことが起きたのか、この坂門椿渚をどんなふうに好きだったのか、まるっきり記憶に残っていないのである。
     それにしても、春野美沙姫は、確かに言い当てた。
     彼女もまた、なんとかして笑ってみようとする。ところが、思うように、うまく笑えないのである。じっさい、こんな感情に襲われたのは、生まれてからこれが最初の経験だった。その原因が正しく、椿渚の前だけでは、彼女が取り繕ってきた例の「道化の仮面」が剥がれてしまうからに違いなかった。
     微風も止んだ六月末の夕昏、ありやなしの霞を透かして夕陽の光が金色に耀いている。一面の草にも、海にも、恋に焦がれる男女の肩にも。彼は長机の縁に腰掛ながら少時光の流れを見ていたが、しばらくすると静かに此方へ振り向いて笑い、それから徐に歩き始めた。彼の綺麗な双眸が煌めいた時、彼女は思わず息を呑み込んだ。
     椿渚は、溜息を吐く。
     閉口して、両手でゴシャゴシャと髪を掻き廻しながら、椿渚は長い間なにか考えていたようだった。そのうちに、決心がついたように威勢よく背伸びをして、電灯をつけて戸棚の仕事道具を片付けているのだが、結局その重い口を開かない。しばらくして痺れを切らしたのか、聞いてもいないのに美沙姫の方から語り出した。
    「わたしはね? 面白いから好きになるって、思うんだ。ツバサくんのことも、退屈を紛らわしてくれそうで、わたしの日常を壊してくれそうだったからだよ。それで‥‥‥男の人に慰めてほしいし、その男の人をぐちゃぐちゃにしてやりたいとも思う。まあ、思春期の女の子なんてそんなもんだよ」
    「うわぁ‥‥‥。おっかねぇな」
    「あっははは! ツバサくんも先生なんだから、そのくらいは女子のキモチをわかってないとだめだよ? まあ、それでも‥‥‥わたしはまだ、ツバサくんがすっごくキラキラしてるみたいに感じるけど。だからツバサくんは、こんなわたしに付き合ってくれる、優しい大人なんだよ」
    「‥‥‥優しい、か」
    「うん?」
    「いや。僕には普通の人間みたいな、人を惹き付ける魅力なんて無いからさ。せめて優しくあろうとは思ってたんだけど」
    「そんなことない。ツバサくんは良い人だよ。わたしは信じてるもん」
    「良い人ってのは、悪い奴も兼ねてるって言うんだぜ?」
     椿渚が肩を竦めると、美沙姫は楽しげに笑った。
    「でもさ。どうしてそう思うの?」
    「僕は優しくないよ。今日までずっと自分の為だけに生きてるし」
    「でも優しいよ」
    「‥‥‥なんでだよ」
    「だってわたし、今日ツバサくんに救われたもん。それに‥‥‥優しくなきゃできないこと、シてくれたでしょ?」
    「‥‥‥」
     彼女はテーブルに肘をついたまま、長い睫毛を伏せて、ゆっくりと彼を見上げる。その姿は依然として雨に濡れた子猫のように儚く見えるのに、何故か抗えない威圧感を帯びている
    「ああ、いい風‥‥‥」
     と、美沙姫は頬を撫でる海風に、うっとりと眼を細めた。
     身体を重ねてから小一時間は意識を失っていたので、じっとりと汗ばんだ体に、夕凪を終わらせて吹き渡って来た風は、さすがに気持ちがよかった。
     しかし、ただ気持ちがよいだけではない。海風も生暖く夏めいて、ふと悩ましい。
     坂門椿渚は今、煽情的な異性のリズムに合わせて、胸と腰をぐっと引き寄せられながら、立て続けに踊らされて来たばかしなのだ。
     そのひどい疲労が、しかし二十八歳の彼の体の中に、何か満たされぬ後味となってやるせなく残っていた。
     しかし、これは、一旦結婚してから妻と死別してしまった男の、二十八という年齢から来るやるせなさであろうか。
     いや、それだけではなかろう。椿渚は奇怪な思いに悩まされながら話していたがその内に頭に余裕が出来て来て、今の世の中にそんな馬鹿気たことのある筈がない、神経の具合であんなに見えたものであろうと想い出した。しかしそれが神経の具合だとすると、自分は今晩どうかしているかも分からない、もしかすると発狂の前兆ではあるまいかと思い出した。そう思うと憂鬱な気持ちになって来た。
     確かに彼女の言う通り、男も女もその行動が肉慾に支配されてしまう瞬間は、ある。女たちが恋をしたい理由を「相手が良い人だから」とか「尊敬できるから」とか言ってしまうのは、畢竟お題目でしかない。女たちは面白そうな相手に興味を惹かれ、親密になりたい、結ばれたいと思って恋をしたいと思い始める。そして同時に色々と勘繰る。本当にこの人は良い人なのか? わたしのカネと時間を費やすに値する人間なのか? もしかして表向きの自分しか見ていないのでは無いか? この人もまた自分と同じ淫乱で、動物じみた興味本位で付き合ってるのではないか? ‥‥‥それならばとことん付き纏って、狂わせてみたい。恋とは斯くも自己中心的なものである。そしてこの春野美沙姫の精神は、清廉な処女であることをとっくに辞めていたらしい。
     すると椿渚はその憂鬱な気持ちの中で、偶然な機会から女を得たことも本当でなくて、やはり奇怪な神経作用から来た幻覚ではないだろうかと思った。と、彼の気持ちは少し軽くなって来た。軽い淡白な感懐を噛み締めている小鳥のような女が、片肱を突いて机の横に寄りかかってじっと耳を傾け、玄関の硝子戸の開く音を聞きながら、自分の言葉を待っている容が眼前にある。その姿態が浮かんで来るとともに、今朝同僚が相談して来た、島の女とそろそろ同棲しようとしているという話題が思われて来た。
     ——君もどうせ細君を持たなくちゃならないから、好い女ならもう一度だって結婚しても好いだろうが、それにしてもあまり疾風迅雷的じゃないか、——と云って笑った先輩の言葉が好い感じが伴って来た。
     年上の女なら知らないこともないがそうした素人の処女と交渉を持った経験のない彼は、女の方に特種な事情があったにしても手もなく女を得たということが、お伽話を読んでいるような気持ちがしてならなかった。
     一瞬間の深い沈黙——雨、風、そして陽が沈んでいく今日という一日。一線の眩しい残陽がこの眼を射貫く。だが、空も暗い。山も暗い。町も暗い。人顔もやはり暗い。日向の明るさというものも、空が雲って雨が降ると、やはり暗くなるのだなという単純な事実に降参したような気持ちであった。人間の小ささ、哀れさがなんとなく切なく感ぜられた。
    「美沙姫さん」
     名前を呼ばれた彼女は目をパチクリとさせて、「ん?」と疑問符を浮かべる。
     教師たるべき男は大きく息を吸ってから、改めて教え子たる女に向き直った。
    「ありがとう。美沙姫さんの気持ちを教えてくれて」
     先生は優しく微笑む。わたしは深く考え込みながら聴いていた。そしてまずは一言、こう教えてくれた。
    「それでも、僕は。誰かの——君の幸せだって、願っていたいよ」
     それを端緒に、ぽつり、ぽつりと。先生は少しだけ自分の過去を聴かせてくれた。‥‥‥ずっとむかしの話だ。おれと同じように思春期を経験した当時のツバサくんには、小さな夢があって。家族もいた。
    「僕も君と同じで、捨て子だったから。幼い頃からいろいろな家族の許を転々としてきた。大学はこの島を離れたけれど、妻と同じ夢である教師になることを目指した。大好きな人と同じ時間を積み重ねて、結婚をして‥‥‥子供もひとり、授かったんだ」
     教鞭を執っていた妻は、当時から花が似合うと評判の女性だった。生徒からも人気があったそうで、生徒と肩を並べながら笑顔で応じる若々しい彼女の、にひひっと微笑む太陽みたいな表情が、大好きだった。僕たちはこの島から青春を持って来たみたいに、毎日のように仕事帰りの校舎裏で待ち合わせをし、手を繋いで帰るのが日課だった。彼女と手を繋ぐことで感じる温もりが、彼女と暮らすことができる幸せを祈ることが、一度は世界に絶望し死を望んだ私にとって、何よりの幸福として君臨していた。——瑪瑙質のペンダントを胸元から取り出した先生は、細く静かな声で言う。
    「だけど。私たちの子が、この世界に生を享ける。そんな日のこと」
     それは、運命の恐ろしさだった。
    「どんよりと曇った夏の日だった。僕は走って病院に向かったよ」
     僕たちのかわいい子はこれからどんな人生を送るのかな。幸せになってほしいな。だがたぶん何もかもが上手くいくようなことはない。一筋縄にはいかないだろうことも多いだろう。それでも、幸せになることを諦めず生きていってほしいな。
    「そんなふうに祈ることが、僕にとって何よりも幸せだったんだ」
     でも、そんな幸せは、ちょっとした神さまの御機嫌にあっという間に足下を掬われた。
    「産褥熱感染症、というやつらしい。僕が病院に着いた時には、あの子は、もう…‥‥。妻のほうも、次の日には、そのまま」
     壁に背中を預け、静かに座っていた椿渚は、この時ゆるやかに頭を上げた。おのれの固く握りしめた拳が両方膝の上に揃った時、
    「私だけが、たったひとりで。この世界に残されてしまった」
     如何にも無雑作な調子で言う、この男の、はじめて見る、一人の父親としての表情を、わたしは真直に見上げた。
    「僕は、きっと。死ぬまであの夏を忘れられないんだろうね」
     
    「——世界には、これだけたくさんの人が居るっていうのに。私たちはこうして、巡り合うことができた。愛を育むことが、できた。それって、二人が出会えただけでも、すっごく幸せなことで。奇跡って、思わない? だから‥‥‥椿渚くん。ありがとう。わたしと、出会ってくれて。あなたがこの世界に生まれてきてくれて、ありがとう」
     
     それが、妻の——未咲さんの最期の言葉だった。
     ‥‥‥だけど。
     それは本当に、奇跡だったのか。死にたいと願っていた私は、彼女から生きるための勇気を貰った。けれど、こうしてたった独り残されてみれば、どこが幸運だというのだろうか。私は泣いて。泣いて。冷たくなったその手を握り返すことしか、できなかった。
     八百屋の店には萎えた野菜。病院の窓の窓掛は垂れて動かず。閉ざされた幼稚園の鉄の門の下には耳の長い白犬が寝そべっている。窓から覗く、湾を取り廻いた丘もそう大して高くなく、そこに生えた樹木もそう深く繁っていないので、割合に遠く地平線が連なって眺められる。樹、丘、人家、それに連なって、ところどころ雲切れのした淋しいこの夏の空気が、宛らそっと持って来て捺したように、静かに、錆びた沼の水の面に映っているのを二年前の坂門椿渚は目にした。如何にも沼が空とピタリと一緒になって、数千年前からここに横たわっていたという感じが、彼には堪え難い悠久な淋しさを誘った。彼はぼんやりと、そして深く眺め入った。遠くに重なって見えていた蘆荻の洲から、剖葦の鳴き声の断続して聞こえて来るのも、恰も他界から微かに漏れ出している音楽か何かのように思われた。そんな声を聴きながら——ふと。
    「ふと、思い出したんだ。学院の生徒たちが話していたことを」
     僕たち夫婦が勤めていた、長崎市内のとある私立学院の広い校内には、幾つもの不思議な噂がある。そのひとつに‥‥‥白椿の木だ。校舎の裏手、暗い森の中に遅咲きの白い花を満開にするという、大きなおおきな椿の樹。その根本には、この町で死んだ者たちの命が埋まってる。あの白い花は死者の命の悉くを吸い上げ、咲いていて。
    「最初その話を聞いたときは、今どきの子供たちは面白いことを信じるんだなあって思うばかりで。もちろん、信じてはいなかった」
     けれども坂門椿渚は落胆していた。彼女と出会ってからの八年間は希望に満ちた生活だった。大人達に捨てられた文字通り暗い孤独な境遇で育ったが、そのために密かに抱き締め育てた希望は大きかったし、愛おしかった。しかしそれが、今や全然ダラシなく足元から崩れているのだ。
    「そういう話を大人は信じちゃだめなんだって、どこかでそう思っていたんだろうけど。あの人に、会いたい。僕は‥‥‥信じなければと思った」
     それしかないような気がした。これさえあれば、とも考えた。彼女の指の冷めたさが、まだ掌に残っていた。それを想い出すと、彼女が死者とも何者とも知れないこと、地上の誰も経験したことのない痛たましい悲劇のように思われた。心が、真っ暗だった。意識していないと呼吸も忘れてしまいそう。たとえ幻みたいにあり得ないものでも、米粒一つでも、希望がないと。今にも全部が消えてなくなってしまいそうだった。そうでなければ心が死んでしまうと、思った。
     僕の焦慮はもはや一刻の猶予もできない。徒らに走るのみだった。枯れるくらいの汗を出して学校に辿り着いた私は、ここで初めて、森から北向きの斜面に小さな祠が鎮座しているのに気が付いた。それは簡単な小柴垣を大垣ふうにして連ねた質素な構えであって、丸木の鳥居などは流石に神々しい、なんとなく巫女でもない者を恥ずかしく思わせる威容があった。そこから夏の夜空を見上げれば——沙羅双樹の白い花だ。大きい木の多い森が暗い蔭がちになって、そこから少しだけ離れて一本だけ立ち尽くす橘の木が懐かしい香を送る。分けて今宵は月夜である。すらすらと立ち長く靡いて、しっとりと、黒ずんだ樹々の輪郭を繞って枝いっぱいに六花の如く咲かせた白色は、一片一片が眩く瞬いているようだった。
     小さな香炉が捧げられている祠の傍で、僕は樹の根元を掘り返し始めた。それと同時に四辺に漂っていたに違いない橘の花の匂がさっと立ってくるのを認めた。僕はその匂を認め出すと、急に自分の心の堰が壊れてしまったみたいに、一層激しく、唸り出した。
    「未咲さん、未咲さん! 未咲さんっ‥‥‥! ああっ! くそっ、クソっ! なんでっ、なんでなんだよっ!」
     大切な人。大好きな人。さよならをしてしまった人。取り戻したい人。僕に生きる歓びを教えてくれた人。何度も何度も名前を叫んだ。爪は剥がれ、血が噴き出して、指先の感覚が無くなってきた頃。
     涙が、あふれた。
     わかっていた。こんなことをしても意味がないことくらい。こんな子供の噂話を心から信じていられるほど、僕も子供ではなかった。理不尽な現実に立ち向かうための夢も希望も、どこか遠い時間の中に置き去りにしてきた。大人になるというのは、そういうことだ。
     どうして‥‥‥。
     どうしてこんなことになってしまったんだろう。幸せだったのに。それ以上のことは何も望んでいなかったのに。僕が彼女を愛してしまったせいで、彼女を。それに、幸せになるはずだったもう一つのイノチさえも、奪ってしまった。僕は、たった一つ‥‥‥たった一つ望みをもつことも、そんなにも、赦されないことなのだろうか。
     痛い。身体中が軋んだ。何もかもが、痛い。
     心がひび割れる音がした。このままここで消えてしまえたらどれだけ楽か。跪かなければならなかった。僕は立ってはいられなかった。けれど、なぜか、あの橘の樹を、もう一度見ないでは、どうしても気が済まなくなった、手繰りつけられるように。‥‥‥島で独り死のうとした、展望台の榎に、形がそっくりに見えて忍耐がならなかった。
     そう、思ったときだ。
     
    「——それはつまり、誰かを赦すってことだよ」
     
     大好きな人の、声がした。
     振り返る。
     だけどそこには何も居なかった。ただ鋭い三日月の光が、橘の根元にうずくまる僕を見下ろしている。忘却の深いふかい底の方から、その声だけがエーテルの一つの気泡のようにゆっくりと浮かび上がって来たのである。
     
    「——誰かに期待されたいのなら、誰かに消えて欲しくないと思うのなら。まず、君が自分自身に期待しなくっちゃ。‥‥‥あっ、そういうところだよ! 先生だから、なんて言い訳しちゃダメ。それに、自分をもっと大切にしなきゃダメだよ。椿渚くんは、誰かのためじゃなくて。まずは自分のために生きなさい。‥‥‥そんな君が笑ってくれる世界が、私は好きだよ」
     
     悄然として項垂れていた男は立ち上がった。顔を上げて赤い三日月を真向に見る。眸は例になく確乎と坐っていた。あの月が、月が、月が‥‥‥曇ったならば、未咲さん、あなたの椿渚はどこかであなたを想って、今夜のように泣いていると思ってくれ‥‥‥!
     自分の不幸を否定する斯かる強情さのうちには、ある悲壮なかつ滑稽なものが含まっていた。椿渚はそれに心を動かされ、また苦しめられた。自殺というものが如何に憐憫に価しまた嘆賞にさえ価するかを、彼は感じていた。そして彼は彼女とこの現世で二度と出逢うことは叶わない。——花の咲いた籬の間の道を辿りながら、椿渚はまた一度も逢った事の無い実の両親のことをも想い起こしていた。その眼は、多くの悲しみが前を通っても、それらを見ることを欲せず、厭な現実そのものを見ていないのであった。また彼は生まれてくる筈だった自分の子のことを思った。彼は闇に包まれながらその闇を否定し、あるものをないと信じたがり、ないものをあると信じたがっているのであった。ただ生命! ただ真理! 椿渚は嘘を吐く英雄とはなりたくなかった。その楽天的虚偽は、おそらく弱者にとっては生きるために必要であっただろう。それらの不幸な人々から支持となる幻影を奪い去ることは、椿渚もこれを罪悪だと見なしたかった。しかし彼自身は、そういう欺瞞に頼り得なかった。彼は幻影に生きるよりはむしろ死を望んでいた。しかるに、愛もまた一つの幻影ではないのか? ——否、愛は幻影たるべきではない。真理だ! 真理! 両眼を大きく見開き、全身の気孔から生命の強烈なる気を吸い込み、事物をあるがままにながめ、不幸をも正視し、そして笑ってやることだ。
     その後数秒にして彼は、自己の運命を自覚するに至った。
     月夜の朧を歩く、おのれの影が見えなくなるまで。沈黙、沈黙。沈黙の重いヴェールが一歩進めるごとに椿渚の上に被さってきた。それは灰の雨が降りかかってくるのに似ていた。もう自分の晩年に差し掛かったように思われた。しかし坂門椿渚という人間はようやく生き始めたばかりだった。彼はもう諦めようとは欲しなかった。眠るべき時にはなっていなかった。椿渚の魂は既に、彼だけのものではなくなっていたのだから。彼は生きなければ、ならなかった‥‥‥。
     
    「——少しはわかったかい。僕が君に拘る理由が」
     昔話を終えた椿渚がそう尋ねたあと、二人はまたしばらく黙っていた。彼はその間に二、三度咳をした。ちからのない声は、美沙姫をして面を背けさせた。
    「まあ、わからなくてもいいさ。親の気持ちなんて親になった時にでもわかればいい。とにかく、君も早く成人しなければいかん」
     そう言いながら、先生は温かいお茶を淹れてくれた。わたしはこの人の顔を凝視するごとに、この人もきっと世を去るときがあるに違いない、それも近いうちにあるに違いないという観念をもった。そしてなおつくづくと、薄い皺の浮かび上がってくる顔を眺めて悲しんだ。この人の立てた茶は温和にしっとりした味わいと湯加減の適度とをもって、美しい緑の香しさを湛えていたのである。それはこの人の——わたしを女として抱いてくれた、この坂門椿渚という男自身の歩んできた、苦い過去の記憶と優しい性格とが、そのまま味わい沁みて匂うているようなものであった。
    「わからないよ」
     と美沙姫は、年上の男に向かって恐縮し、言葉遣いも不自然なくらい丁寧に、ようやく口を開いた。
    「それじゃあどうして、わたしを。可愛がってくれたんですか。‥‥‥わたしは、どんなに頑張っても、奥さんの代わりになんて、なれません」
    「代わり? それは違う。君も僕も、誰かの代わりになんてなれっこない。これは、半分は教師としての意地であり、半分は‥‥‥僕の、男としてのエゴだよ」
     ツバサくんは格別可笑しくも無さそうに笑う。
    「いつの時代も、大人は子供の夢を支えるために生きているものだ‥‥‥なんて。言うのはカンタンで、如何にも大人っぽい方便だけれど。正直に言えば‥‥‥寂しかったんだよ。
    君からの好意を真面に受けて、それを無碍にしてしまうことが。ひとりの人間として、愛してもらえるということが。ただ純粋に、嬉しかった。どんなに理性では分かっていても、ひとりの男として、ひとりの女に抱きしめられたかった。要するに‥‥‥僕はもう一度だけ、信じてみたかったんだろうね。この坂門椿渚という人間が、誰かを愛して、幸せにしてあげる。そんな生き様を。それもまた、ひとつの恋のカタチなのかな」
     その口吻には自嘲めいた感情も含まれていたが、わたしはその言葉の裏にある葛藤を理解するためにそれほど時間が掛からなかった。
    「君の気持ちを確かめたかった。君からの愛情に報いることができれば、僕の知らない何かが待っているんじゃないかって思った。それに、君がどこまでも本気だってことを知って‥‥‥それで。踏み込んじゃった。この胸のトキメキだけは、失いたくない‥‥‥。そう心の底から思ったから。これが僕の本当の気持ちだよ」
    「ツバサくん‥‥‥」
     彼は自嘲気味に頷いた。
    「でも、駄目だなぁ。自分で言い出しておいて、覚悟は決めたつもりだったんだけど。今こうして、君と向き合ってるだけで‥‥‥まだまだ自分勝手に考えてしまったよ。このまま君と一緒に暮らしてしまえたら——どこかに逃げて終えるのなら。どんなに幸せなんだろう、ってね」
    「それは、どうして‥‥‥?」
    「君は幸せになるかもしれない。そのために、君が必死になって藻搔き続けているのを、僕は知っている。‥‥‥だけどこうして、君に触れられば触れる程に、君への気持ちが膨らんでいった。その手を掴み取りたい、掴み返してあげたい。それは、誰かに期待することが出来ない僕の、一方的な願いでもある」
     そうか。
     こういう大人になっているのか、ツバサくんは、奥さんを喪ったあの時と、何ひとつ変わっていないのだ。けれども、変わろうとしている。
     そして、わたしも‥‥‥?
    「君は——」
     声が掠れる。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。否定するつもりか、肯定するつもりか。あるいはただ困惑を表明したかっただけなのか。言葉は宙に浮いたまま、形を得る前に消えていった。美沙姫はふっと息をついた。茶飲みに唇を寄せる。白い喉がゆっくりと動く。椿渚の視線はそこに吸い寄せられるのを自制できない。
    「ままならないね。どうにも、人間の感情っていうのは。こういう時くらい、神さまがぜんぶ決めてくれると楽なんだけど」
    「ううん」
     美沙姫は決然と頭を打ち振ってから、
    「ツバサくんは、それじゃあ、今も‥‥‥わたしのことを好きだって、思ってくれてる?」
    「ああ。もちろん」
     椿渚は正直に答えた。だがそれがこれまでの生涯の中で最も心苦しい告白だった。
    「でも、君とは一緒に居られないよ。もう一度死のうと思ったりなんて、もう僕はしたくないからね。入水自殺なんてのは古い時代の文豪がやることさ。君だって、嫌だろう? いつまでも死にたいなんて考えている男と一緒に暮らすのは」
     美沙姫はしばらく返事をしなかったが、やがて少し口元を緩ませ、穏やかに言った。「確かに、ツバサくんには死んでほしくないな‥‥‥。わたしだって、大切な人が居なくなっちゃうのは、もう。こりごりだから」
    「‥‥‥ごめん」
    「いや、謝らないでよ。ツバサくんに死んでほしくないのは本当だし」
     わたしは胸に手を当て、深呼吸をしてから尋ねた。
    「ツバサくんの言ったこと。ぜんぶは分からないけど‥‥‥分かりたいとは思う。だから、ひとつ‥‥‥最後に、一つだけ教えて欲しい」
    「なんだい」
    「ツバサくんは奥さんの、どこが好きだったの」
     と、小さな声で訊いてみた。すると先生は気軽な笑い方をして、
    「ふむ‥‥‥ごはんが濃い味で、おいしいところだろうか。あとは、いつも明るく話すところだな。僕は話すの上手じゃないからな。わはははは」
     わたしもつられて、笑ってしまった。
    「ツバサくんにも、けっこう初心なところがあったんだね」
     先生は視線を逸らして、何も言わない。その横顔を見て、わたしは再び彼のことを好きになる。ついこのあいだまで、他人に裏切られるくらいなら期待しない方が良いって、ずっと「完璧な女子高生」の演技をしていたことなんか、全部忘れそうになった。
     だが外側から見れば、春野美沙姫にとってはこの複雑な恋仲が予期通りに発展したのだから、目出度いといわなければならない。彼女は如何にも幸福らしく見えた。対する椿渚も幸福だったである。けれども彼女の幸福には黒い影が随いていた。彼女はこの幸福が最後に自分を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと勘付いてはいた。
     二人の会話が再度途切れた時、その夜はいつになく空が晴れていた。薄雲を散らして冴え渡った大空に、青、赤、緑、紫の星の光が、ちょうど宝石の首飾りの如く耀いていた。
     ——がわがわ、がわがわ——
     護謨鬼灯を吹くような蛙の声が四方に起ると、涼しい風は哀しい歌をうたって森の上を吹いてあの学び舎にまで届く。蓮の池の畔では昨夜の雨蛙がぼんやりした眼をして空を見上げ、きょとんとしている。木々のこずえは身震いをして雨粒を墜とす。蛙はびっくりして、長く脚を伸ばして二三度飛び跳ねてゆくが、蝸牛がまばたきしている間に、どこかへ隠れてしまったのか、煙のように藪垣の方へ消えて行ってしまった。
    「美沙姫さん。僕からも最後に、聞いてほしいことがある」
     彼は再び訊いた。彼女は肯いた。否、肯くように、その重い頭を、動かそうとしたのだ。
    「今日は僕が悪かった。謝罪する。‥‥‥自首しようと、思うんだ」
     おどおどと、恐怖と後悔に満たされて、腰も抜けそうに見える意中の男、彼は彼女からの毒々しい視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、重ねて詫びた。
    「赦してくれ、とは言わない。でも僕が君にしたのは、そういうことだ。なんでもいいから償わせてほしいんだ。それか金でも。‥‥‥僕にできることならなんでも」
     子供はいつでも、大人に騙されている。
     善い女ほど、悪い男に捨てられている。
     おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
     だからこそ美沙姫の手は震えていた。
     それが伝わったらしくて、椿渚は困ったように微笑んだ。
    「美沙姫さんは、もう立派な大人の女性だよ。ほんとうに素敵な女性だ。だから、どうか君の未来が、君の歩みの足跡が、これ以上、僕という存在に踏み躙られることがないように、‥‥‥」
     わたしは、困惑した。世間にはこうした身勝手な男どもが溢れていて、相手が弱いと見ると、何かにつけて言いがかりをつけ、強引に関係を迫るはおろか時によると、急になよ竹になって責任逃れをしようとする故、気をつける方が好いとは聞いていたが、早くも、かような羽目に落ちて、どうさばきをつけたらよいか、途方に暮れた。
     それに、この人の唇から漏れた、「赦し」という一言がぐっと胸にこたえたので、平謝りに謝られるのも忌々しかったが、虫を押えて、一歩進み出た。
    「ツバサくん! なに言ってるの!? わたしが欲しいのは『償い』なんかじゃない!」 
    「えっ、美沙姫さん‥‥‥!?」
     抵抗する間もなく、美沙姫の体重が椿渚を畳に押しつける。長い黒髪がパサッと簾のように垂れ下がり、彼の身体を自分の檻の中に閉じ込める。
    「わたしが欲しいのはっ、ツバサくんの本当の気持ちなの!」
    「僕の、気持ち‥‥‥?」
     驚く先生の両手をガッと掴んだわたしは、そのまま彼を引き寄せた。勢いのまま自分の体が床に転がる音が聞こえ、同時に唇に柔らかな感触を感じる。それが彼の唇だと理解するまでに数秒かかった。
    「んふっ、んっ‥‥‥じゅる‥‥‥んむっ、んぐ、んぐ‥‥‥じゅるる‥‥‥」
    「‥‥‥っ! ぁ‥‥‥っ。」
     世界の時間が止まったような、感覚。
     そのまま強く引き寄せられたかと思うと——漏らす吐息を荒くしながら、わたしは触れた唇を更に彼方へと押し付ける。
    「んんんっ、ぷはぁぁ‥‥‥。えへへっ‥‥‥」
     彼は懇願するようだったが、一面彼女はなんとなく嬉しそうで、成功を疑わぬというような満足そうな微笑みさえを浮かべていた。美沙姫は更に乙女の優越感から気まぐれな情動に駆られ、
    「ちゅっ、ちゅる‥‥‥ちゅぷちゅく‥‥‥んん‥‥‥」
    「ん、ふぅっ、みさ、き‥‥‥っ! ちゅる、ちゅ‥‥‥んんっ‥‥‥!」
     そしてもう一度、いや二度三度と立て続けに、唇を奪った。今度はより深く、長い、恋人がするような口づけ。そして‥‥‥それ以上は何が何だかよくわからなかった。わかるのは、片思いしていた異性の温もりや香りが自分の体の中に広がって、支配されていく感覚だけ。唾液の混ざり合う音が静寂な室内を姦しく鳴らす。それは、とてもあたたかくて、気持ちよくって。不思議な感覚だった。
    「愛してる」
     やがて息苦しくなって唇が離れると、そんな告白と共に銀色の糸が燦然と照らされた。
     そして、長い沈黙。
     接吻を求める時が来てしまったのだと椿渚は思うのだった。まさしくそれは貧弱だと彼は思わずにいられなかった。その花車な項、紅い唇に、豊満な胸に、染み込んでしまう、彼自らの体臭を予想してみることすらも自然であった。二つの身体が触れたなら、各々の冷め果てた燃え上がる心を慰め合う他に、恐らく仕方が無かったのだろう。そして各々の永遠のような退屈を、刹那的な快楽を。やりきれない罪業だと椿渚は思った。涯もなく暗いものの静かな兆しを、その藤色の妖光に、凝視せずにいられなかった。ああ熱よ、この脳を干からびさせてくれ、涙の塩を増し、この目の感覚と力を焼き尽くしてくれ‥‥‥。
    「美沙姫さん‥‥‥ごめん‥‥‥」
     謝罪の言葉だけが先に出た。冷酷という誠実が分からなければ、既に仕方が無いのだろう。男は黙って静かに女を受け入れてしまった。女は男に飛びついていた。彼の胸に顔を押し当てて、泣きじゃくるように訴える。
    「いっちゃ、いや。お願いだから。最後の。可愛がってくれなくっても、いいの。どんなに冷めたくっても、好きなの。愛してるの。もう一生、はなしたくないの‥‥‥」
     彼はつぶしてやりたいほどだった。
    「僕は最低な男だ。結局僕は、未咲さんを失った喪失感を埋めるために、美沙姫さんという代替品を使おうとした。それがどれほど残酷なことか、分かっていながら‥‥‥」
     わたしは静かに首を横に振った。濡れた髪から滴る汗と涙が、枕カバーに染み込んでいく。
    「違うんだよ、ツバサくん」
     声は穏やかで、不思議な優しさに満ちていた。
    「わたしは誰かの代用品なんかじゃない。たとえ先生がそう思っていたとしても、わたしの体を通して感じたものは本物だったんだもの。痛みも、困惑も、嬉しさも、全部ぜんぶ。そして‥‥‥あの妙な安堵感も」
     彼はようやく顔を上げた。その瞳には涙が溢れんばかりに溜まっている。
    「わたしはただ、一人の人間としてあなたを愛したかった」
     わたしは彼のズボンに手をかけた。衣擦れの音が小さく響く。
    「バカなツバサくんに、教えてあげるから‥‥‥っ!」
     パンツを下げ、すでに硬くなったものを露出させる。
    「だから‥‥‥ちゃんと、責任、取ってよね」
     ぎゅっと抱き締めて、キスをする。最初はほんの一瞬、唇が触れ合うだけのキス。次第にそれは深くなり、美沙姫の舌が彼の唇を割って入っていく。驚いたように固まっていた椿渚だったが、やがてそれに応えるように自らも舌を絡めはじめた。美沙姫の心臓は早鐘のように打ち鳴らされているのに、身体の中は不思議と落ち着いている。ゆっくりと動かされた彼の腕が腰に回される感触にすら、ホッと安心してしまうほどに。
    「ちょっとごめん」
    「え‥‥‥美沙姫さん?」​
    「‥‥‥れるっ」
    「え!? あッ‥‥‥!!」
    「ふふ、わたしのこと二度と忘れられないように。もっとドキドキさせてあげる‥‥‥ん‥‥‥れる‥‥‥れるん‥‥‥れるれるれる」
     さして抵抗もなさそうに、美沙姫さんがペニスの先端に舌を乗せる。
    「んちゅ‥‥‥れるれるれるれるれる‥‥‥れろん、れろん、れろん‥‥‥れるーるる‥‥‥れるん‥‥‥」
     そのまま左右にスライドさせたり、裏の筋をなぞったりして、透明な粘液を舐め取っていく。
    「ちゅ、ちゅぅぅ‥‥‥んー? ちょっとしょっぱい。でも、嫌な味ってわけでも‥‥‥ないか」
    「はぁ、はぁぁ‥‥‥美沙姫さん、僕はっ‥‥‥」
    「顔真っ赤にしちゃって‥‥‥そんなに気持ちいいんだ」
     情けない声が出てしまいそうで、椿渚は黙って頷く他にない。
    「ちゅ、ちゅ、ちゅ‥‥‥れるれるれる‥‥‥こんなの、クラスのみんなが知ったら大変だな~」
    「想像させないでよっ‥‥‥!」
    「嫌だった? そのわりに、ココはヒクンヒクンしてるけど‥‥‥れるれるれる‥‥‥」
     正直すぎる下半身を、美沙姫の舌先が撫で回す。
    「んむ、んむ‥‥‥ちゅ、ちゅ、ちゅ‥‥‥これ、ちんちん動かしてるのは、わざと?」
     ぽーっとした頭を左右に振る椿渚。
    「ん? そうか、勝手に反応してるのかぁ。敏感だね‥‥‥れる、れる、れるるるるん‥‥‥れる、れるん‥‥‥ん、ちゅるるる‥‥‥ふふ、楽しいな‥‥‥ツバサくんがそんなに蕩けた顔をするなんて」
    「そんな顔になってないしっ‥‥‥! ていうか僕が言いたかったのは‥‥‥」
    「いまさらキリッとしても無駄。言い訳も聞かないから‥‥‥ちゅ、ちゅ、ちゅるるるん、はぁっ、ねぇ、気持ちいいんでしょ? ほら、こっち見て‥‥‥れるれるれる‥‥‥あなたのことだぁ~いすきな教え子に、ちんちん舐められるのはどんな気分?」
    「そんなの‥‥‥んッ‥‥‥! 知ってるくせに」
     美沙姫はあえて下品な言葉を選びながら、男性器に絡めた舌を休めようとしない。笑った拍子に漏れた鼻息が亀頭にかかり、なんとも言えない刺激を加えていく。その反応がまた愉しいらしく、美沙姫の舌が鈴口を穿つ。
    「んふふっ、もっと興奮するかと思って‥‥‥ちゅるる、んちゅ、ちゅ、れるれるれるれる‥‥‥はぁぁ‥‥‥っ。なんか‥‥‥うん‥‥‥れるれるれるれる‥‥‥私も、興奮する‥‥‥ちゅ、ちゅ、ちゅるる‥‥‥っ! はあ、はあ‥‥‥大好きな先生だから当然なのに、れるれるれる‥‥‥やっぱりすっごくいけないことしてるみたい‥‥‥ふふふ、なんでだろうね?」
     楽しそうにペニスを舐めながら、美沙姫が椿渚の様子を伺う。舌で亀頭を刺激しながら、巧みな上下運動。ぬるりと滑る唇がカリを擦り上げるたびに、彼の口からは苦しげな喘ぎが漏れる。
    「んッ‥‥‥あ‥‥‥! き、気持ちいいから、もうそろそろ止めてくれないかっ、んん‥‥‥ッ、美沙姫さんっ!」
    「あ、じっとしてて‥‥‥れるれるれる‥‥‥んー‥‥‥はぁむ」
    「んんーッ!」
     いきなり咥え込まれて、思わず背筋がのけぞった。
    「ぷは‥‥‥けっこう難しいな‥‥‥ちゅ、ちゅ、んむっ‥‥‥んぶぶぶ‥‥‥んー? ぷぁ‥‥‥なんか違うよね?」
    「いや、もう、気持ちよくてなにがなんだか‥‥‥」
    「ならいーけど‥‥‥んじゅる‥‥‥あ、こうかな? んむっ‥‥‥んじゅる‥‥‥んじゅるるるるっ‥‥‥?」
     椿渚を射精させようと、美沙姫が懸命に顔を上下させる。
     上手いとか下手とかではない。
     美沙姫にペニスを咥えられている——ただそれだけで、興奮が頂点に達していた。​
    「んっぷ、んっぷ‥‥‥いいよ‥‥‥んっ、んっ、んじゅっ、じゅっ、じゅっ、じゅるるっ、んじゅるるる‥‥‥ッ!」​
    「あ、あ‥‥‥出る、出ます!」
    「いいよ‥‥‥れるれるれる‥‥‥口の中で‥‥‥んーーーんん、んっぐ、んっぷ、んっぷっ、はあっ、飲んでみる‥‥‥んじゅるる! んッ、んッ、んッ、んッ‥‥‥んんッ! んじゅるるるッ!」​
     最後は抑えがまるできかなかった。意識が快楽の濁流に飲み込まれて、椿渚はなんの抵抗もできないまま美沙姫の口内に射精する。何度も、なんども、射ち出される精液を美沙姫は全て受け止めてやった。​
    「んっぐ‥‥‥‥‥‥ぷはぁぁ‥‥‥はぁ、はぁ、はぁ‥‥‥すごい‥‥‥こんな味なんだ。あっ、ぜ、全部? ‥‥‥飲めたけど‥‥‥美味しいって感じはしないね。でも、嫌ってほどでもないから‥‥‥好きな人のなら、飲めちゃうよ」​
     美沙姫の喉が鳴るたびに、何か大事なものを飲み込まれているようで、また新たなる悦びが湧き上がってくる。​
    「んふっ、本当に顔にすぐ出すんだから‥‥‥れる、れるん‥‥‥気持ちよくなれたのなら、いいけど。‥‥‥れるれるれる、ちゅ、ちゅ、ちゅ」​
     射精を終えたあとも、美沙姫は倦きずにペニスをお掃除してやる。​
     むくむくと起きかけたペニスを、美沙姫さんが舌先でチョンチョンとつつく。​
    「ん‥‥‥はぁむ‥‥‥んぷ‥‥‥んむっ‥‥‥んー‥‥‥ぷは、なんだ、まだヌルヌルしたの出てきてる。しっかり綺麗にしないとね‥‥‥んむ‥‥‥じゅるるる‥‥‥!」​
    「あっふ‥‥‥そこ‥‥‥あ、あ!」​
    「ここ吸われるの、いいみたいだね‥‥‥ちゅっ、ちゅるる‥‥‥んーちゅ、ちゅ、ちゅうぅうぅぅぅ‥‥‥!」​
    「あ、あ、あッ‥‥‥すごい、なんか口の中で蕩けそうな感じが‥‥‥」​
     彼の反応を見るのが愉しくなってきているのか。
     フェラの研究が面白くなってきているのか。
     わたしは思いつくままにペニスをしゃぶりはじめる。
    「んじゅるるっぷ‥‥‥んっぷ、んっぷ、んっぷ‥‥‥んむぅ、難しい‥‥‥ちゅるる‥‥‥んぐっ‥‥‥くぽっ、くぽっ、ぐぽぐぽっ‥‥‥ん、これかな? 良さそうだね‥‥‥くっぽ、くっぽ‥‥‥んじゅるるるっ!」
    「あ、あ‥‥‥ッ! んぐっ、気持ちいい、はあ、はあ‥‥‥って、美沙姫さん!」
    「んぇ?」
     甘い言葉で挑発して、今度は腰が浮くくらい絶頂させてやろうと咥え始めたところで——額を平手で押しのけられた。​
    「これ以上は‥‥‥やっぱりダメだよ」
    「どうして? あ、フェラじゃないほうがいいの?」
    「‥‥‥どうしても! 僕と美沙姫さんは、教師と生徒。それだけだ。これ以上、僕に優しくしないでくれ」​
     自分は卑怯者です、とばかりに俯いて顔を赤くしながら、ツバサくんが距離を取ろうと仰け反る。
    「ふふ、ダメって言われても止めたくないよ。ねえ、知ってる?」
    「‥‥‥え、なにを?」
    「わたしね、意外と根はしつこいんだよ」
     彼の目が呆気に取られて瞬く。わたしはそんな先生を可愛がるように、彼のお腹に馬乗りになってやる。
    「へ? えっ、なに‥‥‥えっ!?」
     乳首を触られて、慌てるツバサくん。けれどもそんなちっちゃな身体じゃわたしに敵わない。
    「ほらほら。逃げないで?」
     わたしはびしょ濡れになった股間を見せつけるみたいにして腰をくねらせる。
    「ふふ、どうしたの? ほんとはまだ、シたいんでしょ‥‥‥?」
    「あっ、ああ‥‥‥っ、み、美沙姫さんっ」
    「先生がいけないんだよ? わたしをこんな体にしちゃったんだから」
     妖艶に微笑みながら、わたしは彼のペニスを膣に擦りつける。ツバサくんが自分の体に溺れるところを見たいという欲求に身を委ねるわたしは、今、ひどく大胆になってしまったいた。
    「ねえ、ツバサくん。わたしはね? わたしと一緒にいたらきっと、この人を苦しめるんだろうなって思う人といると、幸せになることが出来るんだと思うの。だって、わたしと関わったら不幸になっちゃうのかなって思う人を幸せにすることがわたしの生きる理由なんだと思う。だからわたしは幸せなんだよ」
    「‥‥‥えっと。それはつまり」
    「うん。だって好きになっちゃったんだもん。好きになると相手の事を考えちゃうし、幸せにしたいって思うからね。優しくしてあげたい。気持ち良くなって欲しい。だから今日は、もう‥‥‥手遅れだってこと」
     美沙姫は椿渚におし重なって、耳元でうっとりするような好い声を響かせた。
    「でも誰かに優しくなろうとしてるってことは、わたしもツバサくんも、実は誰かの優しさに飢えているからだと思うんだ。だから優しくしてくれる人を探したり、周りに優しくしたくなるんじゃないかな。それって‥‥‥わたしたち人間には、とても当たり前の感情。優しくて当然でしょ? ツバサくんは寂しい時、他の人の優しさを知ってるから、それをあげることが出来るんだよ。だから邪魔になるなんてこと、ないよ。だいいちわたしたちの生活だって、そのためにちっとも変わることなんてない。わたしたちが教師と生徒なのは変わらない、わたしの気持ちだって、変わらない。それに諦めるつもりなんて、ないし、‥‥‥」 
     実際二人の生活は表面上では大して変わらなかった。まだ快楽が足りないという二人の嬌声が今夜はしばらくして聞かれた程度で、同じような生活だった。しかしそれこそ、何か変わったものがある明らかな証拠だった。彼等の感情が二転三転したのは事実であるが、何に悲しんで何に歓んだのかわからない間にそれが皆なくなっていった。以前どうしてこの二人の関係性で暮らしてゆけたかが怪しまれるほどだった。喜怒哀楽は皆いろんな新しい感情のために吸い取られて消えていった。それらの感情もすぐに習慣的となり欠くべからざるものとなった。美沙姫は自分の知らないところでおのれが想像以上に女として成長していることを知った。
     椿渚はと謂えば、彼は独りで戦えるほど、そして過去を乗り越えられるほど強くはなかった。しかし彼自身もまた変わっていた。教師として再びこの島で生きていくという夢を得て、もう何にも義務的な仕事をもつ必要はなかった。それでもやはり、彼に出来ることはただ遺された役目を全うすることばかりだった。生活の平衡はそのために変わってきた。たとえば、これまで彼は、芸術にすっかり没頭できないのを苦しんでいた。ところが今や芸術に身を委ねてしまうと、雲霧のなかに迷い込んだ心地がした。職責を分銅とせず強い実生活を支持としない芸術、おのが肉体のなかに日々の務めの針を感じない芸術、パンを得る必要のない芸術は、そのもっともよき力と現実性とを失うものである。それはもはや贅沢の花にすぎない。それはもはや人間の苦しみの神聖な果実——(もっとも偉大なる芸術家のうちに存するところのもの)——ではない‥‥‥。椿渚は「なんのためになるか」という懶惰さを感じた。もう何物も彼を促すものがなかった。彼はそのペンを夢想にふけらせ、あちらこちらへ彷徨し、道に迷ってしまった。おのが生の道筋を気長に孜々として掘っている同類の人々とも、接触することがなくなった。勝手は悪いがそれでも面白くなくもない異なった世界へ、陥ってしまった。気の弱い柔和な好奇な彼は、優雅は欠けていないが堅固さが欠けてるその世界を、楽しげに観察してみた。そしてしだいにその色に染められてることにはみずから気づかなかった。彼の信念は確固たるものではなかった。
     その変化は、彼にとっては彼女に於けるほど急速ではなかった。女は一挙に全然変わり得るという恐るべき天性をもっている。一身のうちに瞬間に起こるそれらの死滅や更生は、その一身を愛する人々をして駭然たらしむるものがある。けれども、意志の制御を受けない生気に満ちた者にとっては、明日はもはや今日と同じでないことも、自然の事柄であるに違いない。それは流るる水である。愛する者はその流れに従ってゆくか、あるいはみずから河となってそれをおのが流れの中に取り入れるか、いずれかの道しかない。そしていずれの場合においても変化を免れない。それは危険な試練である。人は恋愛に服従したあとでなければ、恋愛をほんとうには知り得ない。共同生活の初年に当たっては、恋愛の調和は如何にも微妙なものであって、二人のいずれか一方に些細な変調をきたすだけで、往々全体を破壊することがある。まして財産や環境の突然の変化は、如何に大なる影響を及ぼすかわからない。それに抵抗するためには、極めて強く——もしくは極めて無頓着で——あらなければならない。
     しかし椿渚と美沙姫とは、無頓着でもなく強くもなかった。彼らは二人とも今までと違った光のなかで顔を見合わした。そしてちょっと相手の顔が見知らぬものとなったような気がした。その悲しい発見をしたときに、彼らは愛の憐れみからして互いに自分の心を隠し合った。彼等はまだやはり愛し合っていたのである。椿渚は幸いにも過去という隠れ家をもっていた。規則的に道化〈教師〉を演じていると平静な気持ちになることができた。美沙姫には何にもなかった。何にもしてはいなかった。両親と死に別れたあの大晦日の日に零れ墜ちたままであった。椿渚と行為に及ぶにしても、幾時間も裸のままその口づけを味わうかのようにぼんやりとしていた。そして彼と肉体的にもひとつになった時、鈍い悲しみが一滴ずつ冷たい霧のように溜まってきた。彼女は愛という一念から気を逸らすことができなかった。‥‥‥愛! それが自我の寄与である場合には、人事のうちで最も崇高なものとなる。それが幸福の追求である場合には、最も愚かな最も瞞着的なものとなる‥‥‥。過去への愛着を欠いた今、美沙姫は現在の愛以外に生の目的を考えることができなかった。善意を抱いているときには、他人に、他人の悲惨に心を寄せようと試みた。けれどそれはうまくいかなかった。椿渚を除いては、他人の苦しみに対するとどうにも厭で仕方なかった。それを見ることも考えることも彼女の神経には堪え難かった。彼女は自分の良心を安めるために、母に似寄ったことを二、三度行なってみた。その結果はつまらないものだった。

    七

     十年前。僕がまだ聖福高校の一生徒だった、あの頃‥‥‥「妹殺し」の十字架を背負わされて独りになった、あの頃。
     あの頃の僕は。何もかもが小さく無力だった、この僕は。​
     どうしても。どう、しても‥‥‥。​
     自分のことが嫌いで。
     憎くて。
     許せなくて。​
     すぐにでも死んで、しまいたかった。​
     ——今すぐ死ねる方法を教えてください。​
     それが一番最初に、未咲さんへと投げかけた言葉だったように思う。​
    「今日から一緒に考えよう。君の悲しみに、その『魔法』は本当に必要なのかな」​
     ヒトという生きものが最後に与えられた、全てを終わらせることが出来る絶対の手段。その最後の魔法を——その奇跡さえあれば、この坂門椿渚の人生に立ちふさがる困難を一瞬でかき消すことができるはず。
     だけどその奇跡は君にとって本当に必要なモノなのか否か。
     そんな未咲さんへの返答が、その一言だった。​
     ‥‥‥今すぐ死ねる方法を教えてほしい。​
     言葉の選択はどこか細かく違っていたかもしれない。だが僕は、意味としてはそう遠くはないだろうはずのことを口にしたはずだ。
    「さあ、教えてほしい。君の願いはなんだろう。どうして君は、魔法を必要とするのかな」​
     という、未咲さんの問いかけに対して返したのだと記憶している。​
     ——できるだけ苦しんで死にたい。​
     ——その方法はないでしょうか。そのための魔法は、ないでしょうか。​
     ——教えてください。何でもします。できることなら、なんだって。​
     それが、あのときの僕の答えだった。​
     ——ぼくは苦しんで死にたい。できるだけ最悪な死に方を選びたい。僕の命は存在そのものが死神のようなもの。もはやこの世界のどこにも居場所はない。あってはならない。自分という命は消えてなくなって初めて、ようやく何かの役に立てるのだから。
    「‥‥‥はぁ」
     細いため息をつき、未咲さんはベンチの背もたれに深く身体を預けた。東シナ海を望む展望台にたった二人、大海原はどどんどどんと、大きな濤が人の世を威嚇しに来る。
    「なあ、少年。死にたがりの男の子。私から、君へ。問いかけたい。まずは教えてほしいんだ。どうして君はそんなにも死にたいと願うのか。まずは、そこからだよ。それがかなわなければお話にならない。それこそが、まず最初に、君がここで乗り越えるべき障害だ。そんな小さな柵を乗り越えてこの海に飛び込んだところで、いったい何が変わるというのか。よくよく考えてから答えてほしいんだ」
     しかしその問いにあの頃の僕は即答した。​
     ——この命そのものが疫病神だ。​
     その答えをひねり出すのにほんの少しの悩みもなかった。​
     ——周りの人たちを。何よりも大切だと想うすべての人たちを。ぼくは手当たり次第に不幸にしてしまう。この命は、この存在は、そういうふうにできてしまっている。だから死にたい。最大最悪の罰を受けてから、死んでしまいたい。
     ——嫌だ。もう、嫌だ。限界なんだ。死にたい。殺してほしい。身体も全部。心も、全部。​
     この島にたどり着いてからというもの、ずっとだ。ずっとずっと、眠れない夜が続いてた。するとたちまち脆弱な僕の心には後ろ向きな言葉が溢れてしまう。初対面の未咲さんが心配するようなことを‥‥‥家族〈大切な誰か〉が側にいると口にできない身勝手な言葉を、僕は、五歳年上の女性を相手に吐き散らし続けた。
    「答えは却下だな。君の答えは曖昧すぎる」
     それから僕たちは顔をつきあわせ、たくさんの言葉を交わした。長いながい時間が過ぎた。長いながい、言葉を分け合った。しかしどれだけ月日が流れても、僕の魔法〈死〉に許可は下りなかった。
    「君は死を望むには心があまりに足りない」​
     いつだったか、未咲さんは本をぱたりと閉じて、そう言った。​
    「君のすべてがあんまりに危なっかしいんだよ。何せ君は自身をもっとも最悪な方法で殺してくれる魔法を想像してる。そんなのは危なっかしいどころの話じゃない。いいかい? 忘れないでほしい。私たち人間の『魔法』は、誰にも負けない想像力だ」
     そう囁くように言った未咲さんの手には小説が。映画のDVDが。漫画本のシリーズが。穏やかでときに激しい音楽のレコードが。溢れんばかりのそれらを次々と渡された。​
    「ここにあるたくさんの物語と、たくさんの登場人物たちの言葉を見つめて心を磨けよ、さみしがり屋の男の子。ヒーローはきっと、ここにいる。夢も希望も‥‥‥魔法も全部、これらの中に詰まってる」
     そしてまた、一冊の本を差し出された。ぱらぱらとめくった。異世界に迷い込んだ少年が願いを叶えるために冒険し、いくつもの困難を乗り越え成長していく物語。
     その少年は自分と正反対のように思えて。その心は、あまりにも眩しく見えて。だが彼の迎えたエンディングにはとうてい納得できようはずもなく。目を、逸らした。
    「ほんとうはね、この世界は魔法で溢れかえってる」
     未咲さんはつらく悲しい物語こそ愛おしそうに扱った。
    「ここにある言葉たちはすべて、過去から現在へと届けられるエールなんだよ。その声に耳を傾けるように本を読み。共に心を締め付けるように映画を見。時に涙をこらえながら漫画を開き。いつか一緒に穏やかな音楽に心たゆたい、面白おかしく笑っていよう。だけど、どうしようもなく悲しいことがあったなら時には泣いてもいいし、落ち込んだってかまわない。そうできる心にだけ、やさしい『魔法』が宿る」
     そうして自分の人生の意味を想像するんだ、と未咲さんは言った。
    「忘れないで。私はいつだって、がんばってる椿渚くんを応援しているよ」​
     人生の意味——。
     死を望んでばかりいる人間に対して何を言っているんだ。夢も希望も眩しすぎて眩暈がするんだ。そう、思いながらも‥‥‥。
     あの頃の僕はどこにも居場所なんてなかった。やはり毎夜のようにここを訪れては、魔法使いの言うことに倣うほか、すべきことなど思いつけなかった。
     それに不思議と、彼女はどこかで見た人のような気がした。鷹揚な温かさが僕にはなつかしい気がした。こうした男の世話にくるような人柄でもないのにと思った。すると飛躍するように自分の今の身がこの人の前に恥ずかしくなった。僕は俯いて、「あなたのほうこそ」と小さく言った。未咲さんはちょっと黙ってしまった。
     こうして数年の時が経ち。死にたいばかりの心は意味もなく生き延びた。僕は魔法使いとふたりで本を読み。映画を見。夜の山の上で星々を見上げ。音楽にたゆたい。漫画を開く。二人で色々なことをしたように思う。色々な場所に出かけたように、思う。この島は、どこまでも広大で。彼女と一緒に居れば、どんなに冒険しても飽きることはなかった。
     楽しい。
     そう思ってしまったことも一度や二度ではないだろう。
     うれしい。
     そんな気持ちを拾ったのも、ひとつやふたつではなかったはずだ。​
     だからもう少し。あとほんの、少しだけ‥‥‥生きているのも、悪くはないかも。​
     そんなふうに願ったことも、きっとあったことだろう。
     そんな資格、‥‥‥そんな、権利。こんな自分になどあり得てはいけないのに。だけどそんな罪悪感にも似た感情は、ほんの少しでも抱いた端から、未咲さんの作る温かなご飯によってうやむやにされてしまうのだ。
    「今夜もたくさん遊んだな。さて、今日は何を作ろうか」
     二人で思い切り遊んだ夜は、最後にいつも彼女が美味しいご飯を作ってくれた。二人揃って「いただきます」と手を合わせて微笑み合った。彼女が作ってくれる美味しいご飯は、お腹だけではない、心までをも満たしてくれる。そんな気がしていた。​
     ‥‥‥あ。
     ダメだ。そんなこと、思ってはいけない。だから僕は、いつも「ごちそうさま」の代わりにこう言った。
     ——いつ死に方を教えてくれるんですか。この世で一番、凄惨で、苦しい死に方を。​
     そう問いかけるのも、いつからか挨拶のようなものに成り下がってしまっていたけれど。
    「そうだねぇ。君がその願いを忘れてしまったそのときが丁度いいかな。死に方を知るなんて。それくらいがちょうどいいよ。そして苦しみだなんて。もう、お腹一杯だって、その頃には、これ以上ないほど充分だって、そう思えてるはずだよ」​
     未咲さんは食器を片づけながらそう言った。
     ——それは、いつくらいになるのかな。​
    「さあね。きっと、ずっと先だ。君がおじいちゃんになるくらいずっとずっと先の話じゃないかな。‥‥‥ああ、そうだよ」
     そして魔法使いは歌うように、言う。​
    「食べる量もほんの少しでよくなって。一日の大半を睡眠にあてるようになり。細くなった身体も、ああ、中々動かしづらくなってしまって‥‥‥。ふと、自然に、柔らかな布団の中で、よく生きたな、そろそろかな、って、そう思えたとある夜のことじゃないかな」
     ——それは、寿命って言うんだよ。
    「ああ。そうだよ。‥‥‥よかったな。生きて。生きて。飽きるほど、生きて。ようやく死ねたな」
     未咲さんは微笑んだ。人間誰しもいつかは死ぬんだ、そう急ぐこともないじゃないか、と。
    「その日がやって来るまではやりたいことだけ選んで生きよう。思い切り楽しめばいいじゃないか。思い切り、泣いたり悲しんだり、すればいい。それが君という、ひとりの人間の特権だよ」
     その笑顔はあまりにも自然なものに思えた。
     だからだろうか。僕もつい、つられて、笑ってしまった。そんな僕に、彼女はとてもうれしそうな顔をしてくれた。
    「偉そうなことを言わせてもらうけど。‥‥‥ねえ、生き急ぐ少年。しぶとく生きるんだよ。勇敢に、生き抜きぬくんだ。人はきっと図々しく生きるくらいでちょうどいい。他人に好かれようと自分を殺してしまうより。大勢に嫌われてしまうくらいで、ちょうどいいんだ。‥‥‥だから、ほら。もう一度笑って見せてよ。君くらいの子はさ、もうちょっとだけでも無邪気で、生意気なくらいがかわいいぞ」
     そして僕は。
     あの頃の、ぼくは。​
     魔法使いが望んでくれたように、目論見通りに‥‥‥微笑んだ。​
     朝日が来ると、未咲さんは決まって僕の頭をやさしく撫でた。​
    「つらく悲しいことがあった日は、ほんの少しだけ早く眠ろう。そして私たちと話をしようか。椿渚くんの心が、ちょっとだけでも軽くなれるようにと祈ってる」​
     気づいたときにはもう遅かった。
     手遅れだった。
     僕の心は死について考えることもあまりなくなってしまっていた。
     ‥‥‥いや。そのための覚悟が、緩んでしまった。叶えるべきものは忘れず、失うことなく、ここ胸にあり続けている。だけどそのための方法がわからなくなった。​
     まるで迷子だ。
     僕は何を望むのか。
     道は多義に渡り広大で。​
     世界は相変わらず底意地悪く。
     しかし痛烈なさみしさだけは取り除かれた。
     それ以来ずっと、僕はこのひとの側を離れられずにいる‥‥‥。
     
     それからしばらくの時が経ち。
     僕は未咲さんと結ばれた。
     死にたがりの可哀そうな少年としてでなく、ひとりの男として彼女の前に立って。正式な告白をして、島を出て同棲を始めて、長崎市内の大学に通って、彼女の背中を追いかけて教師を目指した。
     辛いことは沢山あったけど、すぐ隣に彼女が居たから楽しく乗り越えることが出来た。
     無事に大学も卒業できて、また新たな生活が始まった。​
    「あっ、待って。ネクタイ、曲がってるから。——はい、これでカッコいい」
    「ありがとう未咲さん」
    「お安い御用だよ。今日の夕食、何か食べたい物はあるかな?」​
    「んー‥‥‥トンカツ?」
    「わかった。うーんじゃあ、準備しておきたいし今日は先に帰るね。椿渚くんはこのリストの買い出しよろしくー」
    「任された」
     手を繋いで同じ学校まで通勤して、今日も四年間の日常で何度も繰り返して来たような台詞を交わす。
     新米教師として慣れない仕事に精を出して、はや一ヶ月。
     ついに給料日を迎える。
     初給与が振り込まれてるのを確認した僕は、そのまま大切な物を買いに向かった。今時の新入社員の初給与では、なかなか厳しい高額商品ではあるが、躊躇う事なんてない。​
    「ただいま」​
    「はいおかえり。今日も一日お疲れ様。すぐに夕食の準備するからね」​
    「ありがとう。でもその前に‥‥‥ちょっといいか? 話があるんだ」​
    「うん? どうしたのさ改まって」​
     鞄から先ほど買ってきた物を取り出す。
     首を傾げる未咲さんに僕は、その指輪を差し出した。
    「僕と結婚してください」
     そう言って、僕は涙に咽んでしまった。彼女は指輪を取り、それを躊躇することなく薬指へと嵌めた。そしてふたりとも啜り泣き出した。泣くのは最上の幸福の一つの形である。
    「‥‥‥私たち、もう一緒に暮らし始めて五年目だよ。結婚ってさ、届けを出すだけだと思うんだ」
    「そういう考え方も、出来なくはないな」
    「でも‥‥‥嬉しいものだね。言葉では言い表せないくらい嬉しい」​
    「‥‥‥返事、この場で聞かせてもらえるかな」
    「はい。します、結婚します。どうか末永く、よろしくお願いします」​
     未咲さんは、まるで太陽みたいな、満面の笑みを耀かせた。
     
     数ヶ月後、僕たちは無事に式を挙げた。​
     だが、そうじゃなかった。​
     未咲さんがずっと教えてくれたように、幸せには上限がないらしい。​
     みんなに祝われながら、未咲さんは坂門未咲となった。​
     僕はその時が、幸せの絶頂の様に思えた。
    「あの‥‥‥できました」
    「出来たって、何が?」
    「だから、あの‥‥‥子供、です」
    「‥‥‥」
    「私たちの、子供が‥‥‥できたんだ」
    「こども‥‥‥お腹の中に、僕と未咲さんの子供が‥‥‥?」
    「うん‥‥‥いるよ」
     感動と驚きで、なんか思考が完全に停止してしまう。
    「‥‥‥。触ってみても、いいか?」
    「それは構わないけど、触ってわかる時期じゃないよ。さすがに、まだお腹が膨らむほどじゃないから」
    「そっか。そりゃそうだな」​
    「でも、間違いでもなんでもない。ちゃんと、います」
    「僕と、未咲さんの子供‥‥‥」
    「うん。産まれてきてくれるよ」
    「‥‥‥なんだか、信じられない」
    「信じて」
    「‥‥‥信じるよ」
     いつだって彼女の言葉は嘘なんかじゃない。紛れもない事実だ。
    「ありがとう。ありがとうな、未咲さん」
    「お礼はまだ早い気もするけど」
    「そっか。そうだな。大変なのはこれからだもんな。僕、頑張るよ! 未咲さんのために! これから生まれてくる子供のために! けど僕は結構鈍いところがあるらしいから、何かあったら教えて欲しい」
    「ああ。そこはちゃんとわかってるから、安心して」
    「なんか小馬鹿にされたような‥‥‥。でも‥‥‥嬉しい。うん、なんかもう、ありがとうって言葉しか出てこないくらい嬉しいな」
     確かに大変だったのは、そこからだ。
     夫としての支え。親としての勉強。出産後の手続きについて調べたり。
     半年以上の月日が、あっという間に過ぎたような気もする。
     そしてついに、その日が訪れた。​
     
    「——ごめんね、椿渚くん。赤ちゃん‥‥‥守れなかった」
     
     病院の廊下に足を踏み入れた瞬間、何故だか血の匂いがした。消毒液と、どこか鉄錆のような匂いが混ざって、呼吸が浅くなる。ここに来てはいけない。頭のどこかで警報が鳴っているのに、足は自然と奥へ奥へと進んでいた。未咲さんが待っているんだから、早く行かなくっちゃ。それだけを支えに、機械人形のように歩いていた。
     分娩室の前で看護師が待っていた。彼女の表情がすべてを物語っていた。
     僕たちの娘——になる筈だったひとつのイノチは産まれる前に死んだ、と聞かされた。産のための、ほとんどあっという間もない死に方だった。
    「妻は‥‥‥?」
     かすれた声で尋ねると、看護師は沈痛な面持ちで首を横に振った。
    「出血が多くて、危険な状態です。手術室に運びました」
     その瞬間、何かがぷつんと切れた。理性の糸か、自制心か。とにかく、僕は叫びながら走り出した。白衣を翻す医師たちの間を縫って、オペ室のドアまでたどり着く。
    「開けてください! 僕の妻です! 妻なんです!」  
     叫びながら叩くドアが、内側から静かに開いた。若い医師が僕を見下ろす。
    「ご主人ですね。今は中に入れません。集中治療が必要なので」
    「‥‥‥どれくらい?」
    「わかりません。全力を尽くしていますが」  
     医師の声が遠のいていく。
     ——未咲さんが死ぬ。
     その可能性が具体的に頭に浮かんだ瞬間、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
     しばらくして、医師が戻ってきた。疲労と無念さが滲んだ表情で。
    「手術は終わりました。一命はとりとめましたが‥‥‥意識は戻っていません。今晩が峠でしょう」
     ICUのベッドに横たわる未咲を見て、彼は言葉を失った。顔は蒼白で、管や機械につながれている。生命維持装置のピーッという電子音だけが、彼女の存在を証明していた。生命そのもの、活動そのものと云ったような椿渚の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云ったような未咲の青褪めた瀕死の姿とは、なんという不思議な、しかしあわれな、対照をしただろう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた六年来の恋人同士として、そこになんというおそろしい隔たりが出来たことだろう。
     椿渚は、何かしら心臓へぐっと、突き上げるものを感じた。彼は彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった、しかももう永久に会えないかも知れないのだ‥‥‥という想念、この苦々しい想念が、ひしと心に食い入って、うちしりぞけることのできない呵責の鞭を、力いっぱいふるうのだった。「今晩が峠!」と椿渚は、看護師の顔をぼんやり見詰めながら、鸚鵡返しに言った。そして、そっと往来へ出ると、どこへとて当てもなしに歩き出した。過去の一切が、一時に浮かび出て、この坂門椿渚の眼の前に立ち上がった。そうか、これがその解決だったのか! あの若々しい、燃えるような、きららかな生命が、わくわくと胸を躍らせながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか! ——僕はそれを思いながら、あのなつかしい顔だちや、あのつぶらな眼や、あのふさふさと巻いた髪が、あの狭苦しい箱の中に納められて、じめじめした地下の闇のなかに眠ってしまうところを心に描いた。それは、まだこうして生きている僕から、そう遠くない場所なのだ。そしてひょっとすると、僕の妻のいる場所からは、ほんの五、六歩しかないかもしれないのだ。‥‥‥僕は、そんなことを考えながら、想像のつばさを張りきらせているうちに、ふと「君が行く道の長手を繰り畳ね」という歌の文句が胸に響いた。
     ああ、青春よ! 青春よ! お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。悲哀でさえ、お前には似つかわしい。お前は思い上がって傲慢で、「われは、ひとり生きる——まあ見ているがいい!」などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々は駆けり去って、跡形もなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日向の蝋のように、渚の白波のように。‥‥‥ひょっとすると、お前の魅力の秘密はつまるところ、一切を成しうることにあるのではなくて、一切を成しうると考えることができるところに、あるのかも知れない。ありあまる力を、ほかにどうにも使いようがないので、ただ風のまにまに吹き散らしてしまうところに、あるのかも知れない。我々の一人々々が、大まじめで自分を放蕩者と思い込こんで、「ああ、もし無駄に時を浪費さえしなかったら偉いことができたのになあ!」と、立派な口をきく資格があるものと、大まじめで信じているところに、あるのかも知れない。
     さて、僕もそうだったのだ。ほんの束の間起ち現れた僕の幸福のまぼろしを、溜息の一吐き、うら悲しい感触の一息吹をもって、見送るか見送らないかのあの頃は、僕はなんという希望に満ちていただろう! 何を待ちもうけていたことだろう! なんという豊かな未来を、心に描いていたことだろう!
     しかも、僕の期待したことのなかで、いったい何が実現しただろうか? 今、僕の人生に夕べの影がこうして射し始めた瞬間になってみると、あのみるみるうちに過ぎてしまった朝まだきの春の雷雨の思い出ほどに、すがすがしくも懐かしいものが、ほかに何か残っているだろうか‥‥‥? 僕は、ついさっきの風を切る唸りと、彼女と出逢ったあの断崖で大波の打ち付ける音を同時に想い出して、おもわず震え上がった。
    「‥‥‥ごめんなさい」
     突然、微かに声が聞こえた。モニター越しではなく、かすれた声で。
    「未咲さん‥‥‥!」
     彼女は、やっと僕の方を見た。唇がかすかに動き、まるで子供のような拙い口調で話し始めた。
    「ごめんね、椿渚くん。赤ちゃん‥‥‥守れなかった」
    「どうして、謝るんだよ‥‥‥。あなたは、僕たちのために、がんばってくれたじゃないか‥‥‥」
     段々衰えかけている未咲の聴覚には、椿渚の声が容易には聞えなかった。
    「ごめんね‥‥‥」
    「っ、違う、違うよ! 未咲さんのせいじゃない! 僕はただ、君が生きてくれるだけで、それだけで‥‥‥いいんだ」
     未咲の土のように蒼い面の筋肉が、かすかに、動いたように思った。椿渚の声がようやく聞えたのである。美咲は、三度目に力を籠めて叫んだ。
    「私が死んでも‥‥‥あなたはまだ、死んじゃダメだよ‥‥‥。椿渚くんは、ぜったいに‥‥‥これから先の人生も、幸せにならきゃいけないんだから‥‥‥」
     ふと彼女の頬が、一日の間に青白く萎びてしまった頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まって行ったかと思うと、その落ち窪んだ二つの眼から、大粒の涙がほろほろと、止めどもなく湧き出た。と、今まで毅然として振る舞おうとしていた、椿渚の顔が、妙に引きつったかと思うと、彼の赤黒い頬を、涙が、滂沱として流れ落ちた。
     やがて、未咲は、その衰え果てた眸を持ち上げながら、何かを探るような眼付きをした。
    「ねえ、椿渚くん‥‥‥」
    「どうしたの‥‥‥未咲さん。僕はずっと、ここにいるよ‥‥‥」
     涙が溢れる。嗚咽が続く。細い指が宙を掴もうとしている。僕はその手を握ってやる。氷のように冷たい。
    「世界にはさ‥‥‥これだけたくさんの人が居るっていうのに。私たちはこうして、巡り合うことができたじゃない‥‥‥?」
    「‥‥‥ああ。そう、だね」
     椿渚も、激して来る感情に堪えないように叫びながら、未咲に掩い被さるように、その赭い顔を、妻の顔に触れるような近くへ持って行った。
    「だいすきだよ‥‥‥椿渚くん」
    「‥‥‥僕も。愛してるよ、未咲さん」
     瀕死の眼にも恋人の顔が分かったのだろう、彼女の衰えた顔にも嬉しげな微笑の影が動いた。
    「私たちはこうして‥‥‥愛を育むことが、できた。それって、二人が出会えただけでも、すっごく幸せなことで。奇跡って、思わない‥‥‥?」
     だが、それは本当に影に過ぎなかった。微笑む丈の力も、彼女にはもう残っていなかったのだ。
    「未咲さん!」
     彼女は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼったのだろう、が、しかし、それはかすかな、呻くような声として、唇を洩れたのに過ぎなかった。
    「何です? 何です?」
     椿渚は、未咲の去らんとする魂に、縋り付くように言った。
    「私は‥‥‥椿渚くんの奥さんになれて‥‥‥ほんとうに良かったって。ほんとうに幸せだって、そう、思ってる、か、ら‥‥‥」
     それだけ続けるのが、彼女には精一杯だった。
     椿渚は、心の底から叫んだ。
    「あり、がとう‥‥‥わたしと、出会ってくれて。あなたが、椿渚くんが、この世界に生まれてきてくれて、ほんとうに、ありがとう‥‥‥」
     そこまで、言ったとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたように、彼女はぐったりとなってしまった。この夜、未咲の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久に離れた。烈々たる炎の如く感情の動くままに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく何の悔いをも懐くことなく縹渺として天外に飛び去ったことだろう。
     周囲には医者や看護師達も集まっていた。そのとき、僕の頭には時間の感覚はなかったようだ。十二時の鳴るのも、一時の鳴るのも、僕は知らなかった。
    「御臨終のようですね」
     しかし妻の様子には、なんの変化も起こらなかった。それを見守っている彼らの顔にも、少しも苦痛の色は浮かんでいなかった。
    「こんなにも楽に、人間って死ねるものでしょうか」
     僕は思わず医師を見上げた。彼は妻の瞼を開いてみた。
    「御臨終です」
     僕はぼんやり妻の顔を眺めていた。そのときになっても、僕にはどうしても妻が死んだという実感は迫らなかった。それほど穏やかな死顔だった。が、僕の握っていた妻の手が、見る見る冷くなって行った。僕は急いで柱時計を見上げた。時計の針は、ちょうど二時を指していた。その僕の耳に、急に時計の音が鳴り響いてきた。
     だが未咲さんを失った僕の悲嘆は、限りもなかった。世の中のすべてを失うとも妻さえ永らえてくれればと、嘆き悲しんだ。
     彼女の亡骸が棺に納められた後、僕は涙の裡に彼女の身辺のものを片付けにかかっていた。そして最後に、彼女があの子を産んだ日に身に付けていた、白い肌襦袢に、手を触れなければならなかった。それには所々血が滲んでいた。僕はそれに手を触れるのが恐ろしかった。が、妻が身に付けたものを他人の手にかけるのは、厭だった。
     おそるおそるそれを手に取り上げた。そのときに、ふとその襦袢の胴のところに、布類とは違った堅い手触りを感じたのである。
     僕は驚いて見直した。そこには何か紙切れのようなものが、軽く裏側から別に布を掩うて、縫い付けられていた。僕はそれを見ようか見まいかと思いまどった。妻の秘密を、死後に暴くことになりはしないかと恐れたが、それが妻の大切な遺書か、何かのようにも思われたから、思い切って、おそるおそるそれを取り出して見た。意外にも、それは一葉の写真だったのである。写真は、絶えず妻の肌と触れていたために、薄れてはいたけれども、まぎれもなく坂門椿渚がまだ聖福学園に通っていた頃の、そしてまだ未咲さんから死ぬことを赦されていなかった頃の、じぶんたち二人を写した姿だった。
     僕はその写真を見たときに、未咲さんの本当の心が判ったように思った。
     亡き妻に対する新しい感激の涙に咽いで、溢れ出ずる涙が、写真の手前ちょっとまでは支えていたが、到頭堪えきれなくなったと見え、男泣きに泣き出してしまった。
     学園のウワサ話を想い起こして出奔したのは、この日の夜の出来事である。
      
     未咲さんの死から、一ヶ月後。
     白骨になった彼女を抱いて、僕は福江島に戻って来た。彼女は普段から無神論者ではあったが、教会のあるこの島の風景は好きだと折々に教えてくれたことがあったので、東向きに小高い丘の上にある、間近に五島灘を臨む教会に墓標を置かせてもらうことにした。年老いた神父と若い修道女は十字を切ってから、彼女の霊を迎え入れるのだった。
     庭には薄紅色の花をつけた大きな百日紅の樹があって、その樹の蔭のじめじめしたところに、雑草と交って薄荷が沢山生えていた。羊の料理を拵えたりウィスキーを作ったりする時にその葉を使うのだからと云って、蔓るままにしてあるのだが、白いハンケチを顔にあてながら黙って地べたを見詰める修道女は、薄荷の匂いがしみたかのように眼のふちを赤くしていた。
     不意に、悲しみが込み上げてきた。それにしても、妻は、妻の霊はこんな僕の姿をも宿して行ってくれたのか。
    「ゆるしてくれよ」
     しかし今度の僕は泣きはしなかった。愚かな僕は以前から、この期に臨んでの、しどろもどろの振る舞いを恐れていたのだが、不思議なほど涙は出なかった。しかしこのとき以来、瞼の奥に、たとえば涙ぶくろとでもいった、鈍い重みを持った袋のようなものが出来た感じで、もし一度この袋が破れでもしたら、最早涙は際限ないのではないかとも思われた。
     翌日も墓参りに来た時、ちょうど鐘の音が、教会から響いて来た。この天主堂は赤い明治煉瓦造りで、正面左右に数十メートルばかりの高さの鐘楼がそびえ、大小二つの鐘がつるしてあった。大きい方は毎日お告げの鐘に鳴らし、小さい方は祝日に大きい方といっしょに鳴らすことになっていた。小さい方は金を多く含んでいるとのことで、文字通り天満で届くかの如く、好い音を響かせるのだそうだ。今日はちょうど日曜日だったので、小さい方が二度馴らされた後に大きい方が一度鳴らされて、すると信者たちがぞろぞろと集まり、説教を聞き、讃美歌を唄い、神の言葉を聞いていた。そうしていると、高校生の時分に洗礼をうけて、それからも度々恩師と共に讃美歌を唄った、あの懐かしい教会にいるような気がしてならなかった。その神父の消息は今ではもう分からない。
    「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである、‥‥‥」
     ミサが終わると、ふたりの老婆が跪いてロザリオの祈りを唱えていた。
    「天にましますわれらの父よ」
     一声祈って、ガラ、ガラ、ガラ、と引く、引いては止めてまた祈る。
    「願わくば御名の尊まれんことを」
     祈りをとなえてさらに引く。鎖はぴんと張ってきた。
    「御国の来たらんことを」
     御国の存在をあまねく知らすこの鐘を空高く鳴らせよ、とロープを引く。
    「御旨の天に行なわれるがごとく地にも行なわれんことを」
     夏陽は海に落ちようとして赤光が墓標を照らす厳粛なひととき、ついに信仰の鐘は煉瓦の山の上に美しい姿を顕現していた。僕は身じろぎもせずその情景を見守っていた。
    「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン」
     右手を額にやり、胸にやり、左の肩から右の肩へ動かして十字架のしるしをする。
     ——カーン、カーン、カーン。
     うやうやしい祈りが僕の口からも漏れ出す。
    「主の御使いの告げありければ、マリアは聖霊によりて懐胎したまえり‥‥‥」
     ——カーン、カーン、カーン。
     神が人類を罪より救うため人の子となり給いし大いなる愛に対する感謝をこめて、
    「しかして御言葉は肉となり給い、われらのうちに住み給えり」
     鐘の音のひびく極み、僕は正午に昇った太陽へと祈りを捧げていた。
    「天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終の時も祈りたまえ、アーメン」
     どうやら僕は、いささか自分に辛く当たり過ぎているようだ。その頃——つまり妻と子を同時に喪って無気力になっていた、五島の島々で漂流生活を送った無分別なこの半年間にも、僕はあながち、僕に呼びかける悲しげな声や、墓穴の中から伝わってくる荘厳な物音に、耳を塞いでいたわけではない。忘れもしないが、教師に復帰すると決めた日から四、五日して、僕は自分でどうしてもそうせずにはいられなくなって、再び妻の墓標に挨拶に行ったのであるが、このとき、物乞いに落ちていた貧しい老婆の、臨終に立ち会ったことがあった。ぼろに身を包み、こちこちの板の上に横たわり、袋を枕代わりにした老婆は、苦しみ藻掻きながら息を引き取った。彼女の一生は、その日その日の乏しい暮しに、あくせく追われ通しで過ぎたのだ。喜びというものをついぞ知らず、幸福の甘い味わいも知らない彼女としては、まさに死をこそ、——そのもたらす自由を、そのもたらす憩いをこそ、喜び迎えるべきではなかったか? ところが、彼女の老いさらばえた肉体がまだ保っているうちは、その上に置かれた氷のように冷え果てた片手のもとで胸がまだ苦しげに波うっているうちは、まだその身から最後の力が抜けきらないうちは、老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、「主よ、わが罪を許させたまえ」と囁き続けるのであった。そして、これを名残りの意識のひらめきが、すっと消えると共に、彼女の眼の中でも、末期のおそれやおびえの色が、やっと消えたのである。忘れもしない、そのとき、その貧しい老婆の今際の床に付き添いながら、僕は思わず未咲さんの身になって、やっぱり死ぬのが、そら恐ろしくなってきた。そして僕は、未咲さんのためにも、悲しい運命のもとに生を享けた憐れな兄弟姉妹たちのためにも、そしてまた、自分の未来の幸福のためにも、しみじみ祈りたくなったのである。

    八

     あの頃は、わたしの家にも談笑の風景は存在していた。
     テレビのニュースを見ながら母が他愛もない冗談を口にし、父がそれに苦笑し、わたしが合いの手を入れる。皿から湯気が立ち昇り、醤油の匂いに混じって砂糖入りコーヒーの甘い香りが漂い、窓辺のプランターに植えたペチュニアの蕾が膨らむ頃の食卓は、きっと幸福に満ちていたのだろう。
     今年だって、クリスマスパーティーは楽しみだったけど仕方ない。お父さんがお仕事を辞めてしまってからは、贅沢をするという経験がなかった。だからそれはとても待ちわびたもので、とても楽しみにしてたけど。諦めるしかないことは知ってたから。ワガママを言えば困らせるだけだっていうのは、すでに経験したことだ。それよりも、自分が悲しい顔をすることで、家族の楽しい時間を邪魔したのだとしたら申し訳ないと思った。​
     お父さんとお母さんには楽しんでいて欲しい。だからせめて笑っていよう。
     そして、いつかは楽しい話を聞かせて欲しい。​
     そんな思いを馳せながら、十歳の美沙姫は日常生活を過ごしていた。
     でも——。
    「ごめん、ごめんなぁ美沙姫‥‥‥。つぎ生まれ変わったときには、もっとマシなお父さんのもとに生まれてくれよ‥‥‥」
     大晦日の冷え切った居間に漂っていた、年越し蕎麦とアルコールの入り混じった匂い。缶酎ハイがテーブルに並び、テレビからは歌合戦の賑やかな歌声が虚しく響く。ふと振り返った刹那、父がわたしの首を両手で絞めあげている姿があった。テレビの前でわたしが歌い踊っている最中の出来事である。驚愕に凍り付くわたしを、彼はただ静かに、憐れむように首を絞めていた。
     ——わたしは、ダメな子なんだ。
     息が、できない。
     意識が朦朧とする中、どこかから甲高い声が鳴り続けていた。お母さんが鬼気迫る表情で走ってきて、包丁を掴んだままお父さんの手を振り払ったようだ。しかし、お父さんは狂乱状態でさらに暴れ回り、その標的を母へと変えて押し倒した。虚ろな意識のまま視線を遣ると、母の唇は紫色に変わり、目には涙が滲んでいた。
     わたしのすぐ目の前で、大切な人が命を奪われようとしている。
     怖かった。辛かった——それなのに。
     その時、わたしは「どこか」にいて、父が母を絞め殺そうとしているのを冷静に眺めていた。
     ピクリ‥‥‥。
     その瞬間、右手が勝手に動き、床に落ちていた包丁を掴んでいた。
    「あッ!」
     刃先が脂肪層を割って肋骨を砕く鈍い音を聞いた気がする。何度もなんども、血が噴き出す前に時間がスローになった。倒れた父の身体が床を転がり、わたしは咳き込みながら這いずる彼の肉塊を追った。
     そこから先は曖昧だ。サイレンが近付き意識が遠のいていく中で、母がわたしを抱きしめてくれた体温と、そして、自身の首に刃物を突き立てた瞬間の、彼女の悲しげな笑顔だけは覚えている‥‥‥。
     
    「——さき。美沙姫さん?」
     春野美沙姫の夢は忽然として消えて、否応なしに現実に引き戻されてしまう。
    「‥‥‥えっ? ああ、どうしたのかなツバサくん!」
    「どうしたも何も。君が夕日を見たいっていうからここまで連れて来たんじゃないか」
    「あれ、夕日‥‥‥? あ、はははっ、ホントだ! ちょっとだけボーっとしてたみたい。あんまりいい景色でいいお天気だから」
    「そう? 別に怒ってはないけど」
     椿渚はやれやれとばかりに溜息を吐く。そして「またいつものだ」といったように苦笑いを浮かべる。納得していない様子だったがしかしそれ以上は何も追求しなかったので、美沙姫はホッと胸を撫で下ろしながら海岸へと降りて行った。

     読者諸君もまだお忘れになるまい、我らがヒロイン・春野美沙姫の身の上に、今までにもかつてなかった、おそらく今後にもあるまいと思われる恋愛事件の発生したのは、昨月の台風の日のことだったが、それは環境と年齢と柄合いから見て、二人にとってはおそらく自然の成り行きであり、魔の翅のような予感は前から薄々影を落としていた。だが椿渚はそれ以上の発展を望まないだけに、わざとしばしば擬装的な示唆を与えてみたのだった。
    「——僕はまだ未咲さんのことが好きなんだよ」
     しかし彼もまるきり否定しているわけでもなかった。どうせ離れて行くなら、つまらないものの掌に落ちるよりも、行きばえのする相手に落ち着いた方がいいという考え方もないわけではなかった。利己的である一方、自分の息のかかったものを泥に塗れさせたくないという気持ちもあった。それは鬩ぎ合うほど極端なものでもなかった。学校では生徒と教師として普段通りに顔を合わすし、家では稀に相手の部屋にあがり込んで仲の良い兄妹のような会話を交わす、肩の触れ合いから肌の愛撫へとエスカレートすることもある、だが再び肉体関係に墜ちれば危ういという理性もある‥‥‥。いずれも人間にありがちな感情だと言うよりほかなかった。

     さて、授業を終えて寮に帰った二人は、椿渚の運転で岐宿のまちを訪れていた。湾の向こう側、背骨のような小さな山を越して太陽が、ただこの一日を惜しむように、ゆっくりと沈みゆくばかりの光景、紫がかった薄絹の帷のみたいに、夕霧が一面に棚引いている。故郷の海はすでに半ば以上ぼかされて霞と海の見界はつかない。この霞の海の荘厳さはこれを何に譬えよう。それはただ一抹にぼかされた霞の海であるだけではない。海も、空も、太陽も、すべてが遠きも近きも、一様にその輪郭を消して、色彩のみをこの霞の中に現しているのだ。それがくっきりと濃い琥珀色であり、また紺青色である。鮮明に果てしのない霞海の裡に無言の交響楽を奏でている荘厳な光景は、これを現実と見るには余りに清浄であり、悲劇的であり、神秘的である。殊にまた右手を伸ばした霞の海の果てに、横線を隠して積雲の層が見事に現れていることが、この光景を一層浄化しているかに見える。
    「いい景色だね」
     椿渚は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。
    「‥‥‥」
     美沙姫は丸い頬に片靨を見せたばかりである。返事はしなかった。
    「ほんとうにどうしたのさ、美沙姫さん」
    「‥‥‥ん? あっ、いや‥‥‥ほんとうに綺麗だなあって思って。美しい絵を一枚も描いたことのないわたしでも、マリア様の像をみて美しいと思うことだってあるよ」
    「そうかい」
     美沙姫はそう言って、もう一度目の前に広がる茜色の空を見つめる。まるで宝石が砕けた欠片のように、海に落ちていく太陽。波間に漂う光が金色に煌めいて、それはとても幻想的な世界だった。
     だが波の音と共に少しこの風景を眺めていると、辺りの情景は何だか異様に凄くなって来た。無論如才ある土地柄故に懐かしいのだが、どこか凄愴とでもいう感じでもある。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われて懐いてしまって、この五島の観光名所などでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵に描かれ歌に詠まれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく人間の表情が発見せられるものだが、しかし今日のこの海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて点景人物でも置こうとすれば、菅笠を被った俳人でも借りて来なければならないだろう。ニヤケ顔の自称・女子高生なんぞは絵にも歌にもなりやしない。ただ光と、水である。大洋の激浪や砂漠の暴風に対してはどんな文学的な形容詞も思い浮かばないのと同様に、この春野美沙姫の旅路の極まるところの空も海も、ただ、なんとなくおそろしくて、彼女はそれらから眼を逸らしたくなって、自分の足元を見詰めていた。その後、さまざまな画題を脳裏に描いてみても想い出の中の逸品には遠くくとおく及ばず、自分は、胸がからっぽになるような、だるい喪失感を覚えたのだった。
    「‥‥‥なあ、美沙姫さん。美沙姫さんはさ、神さまを信じてるかい?」
    「うん‥‥‥? どうしたの、急に」
     二歩の空間を行き尽した少女の素足は、光る砂浜を回らして、棄身に細い体を大地に托した暗き影法師に問いかけた。
    「熱心に夕陽を眺めてるから、気になってね。いや、答えなくなかったら答えなくていいんだけど」
    「ううん、そういうわけじゃなくてね」
     美沙姫は夕陽の眩しさに目を窄めて、一度だけ瞑目して、そして自分自身の哀しき人生観を滔々と語り出した。
    「たとえば。ほんとうに、もしも、あるいは、そんなものが存在するとしても。神さまにとってわたしたち人間は、腕白小僧につかまった蝿のようなものでしかない。神さまは面白半分で、あたしたち人間を殺すに過ぎないから」
    「へー。なんか悲劇のヒロインみたいなこと言うじゃん」
    「この世はすべて一つの舞台。男も女も、ただの役者に過ぎないのです。それに、あるいは‥‥‥そうだね。正直なところ。神さまなんて、いまの世の中にはもう居ないんじゃないかな」
    「えっ?」
     胸元のブレスレットの在り処を探しながら、椿渚は声を詰まらせた。
    「神さまなんて、この世界にはもう居ないんです。神さまが居ないから、辛いことや哀しいことがたくさんある。もしも神さまが居るのなら——」
     美沙姫は苦しそうに顔を上げ、息を大きく呑み込みながら、手を伸ばす。
    「——この世界をもっと綺麗にしてほしい。嘘をつかなくてもいい世界を創ってほしい。辛いことなんてなんにもなくて、みんなが優しくて、誰も独りぼっちにならなくて、小さな夢くらいは満足に花咲ける。そんな世界を」
    「美沙姫さん‥‥‥」
     いつの間にか祈り手を合わせている美沙姫へ、椿渚はなんと答えていいか、さすがに青息吐息だった。すると彼女は笑った。海風に吹かれていて少し掠れているようだった。
    「でも。いま、わたしたちの世界は、運命を憎む人間たちで溢れかえってるんだ。神さまが居ても、とっくにその人たちに殺されてるよ」
    「‥‥‥ああ、そうかもね。もしほんとうに神さまが居たなら、僕も文句のひとつやふたつ言ってやりたいね」
     椿渚は瞑目のまま大海へと丁寧に会釈した。両手は十字を切って塞がっている。
    「ツバサくんでも、怒ることがあるんだ?」
    「ああ。僕だって、いつも優しい顔でお道化てるわけじゃない。誰もが、いくつもの顔を持って生きているものさ」
    「顔?」
    「ああ。仮面と謂ったほうがいいかも知れない。君なら、よくわかるだろう?」
    「成る程です。‥‥‥それで、先生もその仮面で何か隠してるんですか?」
    「ああ、もちろん。そのくらいミステリアスなほうが、大人っぽいだろ?」
     そして彼は、彼女を安心させるように、微笑んで言った。そしてなんの気も無しに、ちょっと背伸びしながらではあるが、彼女の頭を優しく撫でてやった。
    「まったく‥‥‥。相変わらずズルい大人だよ、ツバサくんは。わたしのほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうじゃないんだから、いけない」
     などと、美沙姫はちょっと恨み言を述べた。
     ‥‥‥わたしは、なるべくならば社会の隅に小さく、つつましく、あまり人目に立たないように、そして先祖の位牌にも傷をつけないようにして安穏に生きて行きたかったのだけれども、それでも、細やかな幸せだと信じる「それ」を求めて、只管藻掻き苦しんで無様にも生き続けて、他人の為だと騙りながら他人を——友人や恋慕の相手をも騙し続けて、今日も未だ道化の仮面を重ねて生きているおのれが、わからなかった。仮に自分は他人なぞの干渉を恐れるところはないにしても、一層誤解され易い「春野美沙姫」の立場を自ら庇ってやらなければ、結局わたしはどうにも身動きが取れなくなるのだから。
     自分はどういう理由から夏の小デートの目的地を、殊更自分にとって喜ばしい記憶も少ないこの夕焼けに選んだのか、我ながらも少しくその解釈に苦しんでいた。わたしは、ただ広々した大きな景色が見たかったのだと思った。自分は出来るだけ遠く、それでいて近くに在る、自分の住んでいる世界から離れたような心持ちになりたかった。人間から遠ざかりたかった。死人ならば、捨てた過去ならば、或いは——と。この目的のためには、汽車で行く内地の山間よりも、船をもって海洋に泛ぶに如くは無い。海は実に大きく自由である。実際に舟に乗ることはなくても、此岸を離れて水上に泛ぶを望めば身体の動揺と共に何とも言えない快感を覚え、陸地の世界とは全く絶縁してしまったみたいな慰安と寂寞とを感じることができるから。この慰安と寂寞を味わいたいがために、自分は目的なくあの学園を離れて海に漂ったのである。夏の大空に輝く強い日光、奇怪なる雲の峯、洋々たる波浪、悲壮なる帆影、生臭い漁港の匂い、凡て自由にして広大なるこれらの海洋的風景は、如何に自分の心を快活にしてくれたであろうか。ああこの一ヶ月間、自分はあまりに烈しく、社会的並びに人情的の圧迫に苦悩し過ぎたかも知らん。人間が誰でも持って得べき純朴温厚なる本来の感情さえ、自分は日に日に消滅して行くような情けない心持ちがしていた。自分は衰弱した身心の健康を、力ある海洋の空気によって恢復させ、もう少しだけ軟らかな、暖かな感情をもって、自分と自分の周囲を顧みることが出来るようになりたいと思ったのだと。ようやく気が付いて、なんだか乾いた笑いが漏れるのである。
    「ねえ、ツバサくん」
    「うん?」
    「——ちゅっ」
     そうやって、美沙姫は椿渚へそっと口付けをした。唇と唇が触れ合う感触には、少し酸っぱい後味があった。
    「‥‥‥。なんでキスしたんだ」
    「したいと思ったから。いけない?」
     潤んだ睫毛が陽炎のように揺れる。潮風が彼女の髪を梳きながら、あの忌まわしい過去に置いてきた筈の女の匂いを彼に運んでくる。
    「‥‥‥まったく。最近の子は大胆で困る」
    「あ、わたし先生以外にはこんなことしないよ? わたし一途だし」
    「そういう問題じゃない」
    「じゃあどういう問題? なんで? 人を好きになるってそういうもんでしょ」
    「わかったから‥‥‥胸を当てるな胸を!」
     椿渚は美沙姫を突き飛ばそうとしたが、美沙姫は抱きつくように体重をかけて椿渚へ寄っていく。それで彼の所在無げだった手を握って、自分の胸を揉ませた。ふたつに纏められた二房の肉塊、大きな乳房が揺れる。
    「あれれぇ‥‥‥? 先生のここも、大きくなってない? すごい、ギンギンに」
    「うっさい‥‥‥! さっさと離れなさいってば!」
    「とか言って、さっきからずっとわたしのおっぱいモミモミしてるし。イヤならさっさと振り解けばいいじゃん、ちびっこのツバサせんせ~?」
    「まったくまったく。人の身体特徴を笑っちゃいけないんだよ」
    「それって逆に、わたしの身長と体型のことイジってるよね~」
     そう言いながらも美沙姫はなお椿渚を解放せず、尻尾を絡ませてくる雌猫の如く、身体全体を使って彼を羽交い絞めにしようと試みてくる。いやむしろ、椿渚の方も力なくされるがままにされていた。というのも、
    「美沙姫さんをいじってるつもりは一切ない。僕はね、女性の背が高いのは個性だと思うんだよ、個性。‥‥‥気に障るようなこと言って、悪かった」
     と呟いて、ようやく彼女の胸から手を離して項垂れた。
    「うん‥‥‥? ああ、いや別にわたしはほんとうに身長のこと気にしてないからね! おっぱいも、たまにジャマだなぁって思う時はあるけど‥‥‥。いまはこうやって、ツバサくんにぃ、こうやって上からぎゅう~ってできるから! 個性だって思えてるよ」
    「‥‥‥そうかい。やっぱり強いね、君は」
     後ろから抱き締める力を強められた椿渚は、やはり照れた様子で俯いている。だが無理して彼女を引き剥がそうとするのはもう止めて、しばらくの間は一緒に夕日が沈むのを見ていた。そしてそのまま椿渚に抱きついたまま、美沙姫はぽつぽつと呟き始めた
    「あーあ。わたしだって、もう少し普通に生まれてきたかったな~」 
    「ああ‥‥‥。わかるよ、その気持ち」
    「でも先生はさ、わたしが『ふつう』じゃなかったせいで、いままで何回靴を隠されたか、体操着をゴミ箱に捨てられたか、わざと給食をこぼされたか‥‥‥知らないでしょ?」
     ところが、耳元で彼女の語調が僅かに荒くなったのを感じた時、椿渚ははっと胸をあつくして、思いがけぬ胸の痛みに同情を覚えた。
    「ああ。知らないよ」
     だが今の彼は、美沙姫が何かを言い訳する際に唇を引き結んでしまう癖を知っている。だから敢えて決然として引き離すのである。
    「あはは、自信満々に言ってくれるじゃんか~。女の子が寂しくしてるんだから、そういうのは男らしくフォローしてほしいかも」
    「所詮人間なんて、どんなに愛を語り合ったところで。わかり合ったつもりでなんとなく生きてるだけで、いつまでも仮面を被って踊るしかないもんなのさ。君だって、僕の——僕たちオトナの苦労は知らないだろう」
    「それでも——ううん。だからこそわたしは、知りたいと思うの」
     美沙姫は椿渚の背に縋るように寄りかかり、瞳に夕日の煌めきを映し、柔らかな波に流木の音が重なる浜辺にて、その頬を朱に染めた。それでちょっと言いにくそうに、四辺を見渡した後、
    「わたしね? なんか今日はモヤモヤしてて言いにくいんだけど、その。実は‥‥‥」
    「まさかとは思うけど。‥‥‥生理、遅れてるの?」
    「まさか! ぜんぜんそういうのじゃないんだけど、なんか、モヤモヤする日もあるっていうか‥‥‥。あっわかった、生理来てるかどうか確かめてほしいから、ちゃんと服脱いでエッチしよっか! わたしお掃除フェラもするし、お尻にバイブ入れて鳴らしておくし、犬みたいに四つん這いになって喘ぎ声出しながら騎乗位でもいいから。それにピルも飲んでるから妊娠しなくて平気だし、他のプレイがしたいなら頑張れるから。‥‥‥だから、ダメぇ?」
    「いやだめだろ!」
    「むぅ‥‥‥そんなに拒まなくてもいいじゃん。ツバサくんのイジワルー」
     美沙姫は唇を尖らせる。
    「まったく‥‥‥人の気も知らないで。とにかく今日はここまで。そろそろ帰るよ」
    「ちぇー」
     椿渚はようやく美沙姫の大きな身体から逃れることに成功して、ひらひらと手を振りながら車の方へ歩いていく。だが、彼女なかなかついていかない。
    「あっツバサくん、ちょっと待って。最後にやりたいことがある」
    「えぇ‥‥‥?」
     彼が振り向いた、そのとき。彼女は大きく深呼吸して、そして身体を反らすと——
    「あああああっっっ! わたしはぁー! 将来先生になってぇ、みんなを助けるんだあああ! ツバサくんのお嫁さんになるんだあああ! このぉぉぉぉおおおっ! 世界のぉぉぉぉおお! バカぁぁぁぁぁああああっ!」
     と大声で叫んだ。彼女は満足そうに頷いている。
    「よし! これでいいよ! ツバサくんも叫びなよ! スッキリするよ!」
    「‥‥‥ふふふ」
     これには流石の椿渚も面喰らった。クックッと腹を抱えて大笑い。
    「‥‥‥なんでニタニタ笑うのさ。そんなにおかしい?」
    「いや、おかしくなんかない。ただ、そうやって自分の理想を叫ぶ勇気を持っている君が羨ましくて、なんだか可笑しかったんだよ。とても可愛かった」
    「ほんとっ? わたし、ツバサくんに可愛いって思ってもらってる?」
     美沙姫はパッと顔を輝かせた。椿渚も釣られて微笑んでしまう。
    「そういう意味の可愛さじゃないよ。若いって良いなぁって、そういう意味の可愛げがあるってこと。まあ‥‥‥でもさ。自分より苦労してなさそうな奴が幸せそうな顔してると、ぶっ殺したくなるくらいにはムかつくじゃんか」
    「めっっっちゃわかるー! ほんとにムカつくよねー!」
     と、美沙姫はコロコロと鈴のように笑って、大きく手を振りながら追いかけてきた。だが次第に美沙姫の顔が曇り出した。その表情の変化は椿渚を悲しませるには充分だった。そして「殺す」だなんて言葉を軽々しく口にしたことを、心の底から悔やんだ。
    「そういう奴に限ってさぁ、苦労してるわたしたちをバカにしてくるの! 『自分は普通です』って言う奴に限って、自分とは違う他者をクソ偉そうに否定してかかる。普通の奴は人のイヤなことは人にしちゃダメって、普通に習わなかったのかなぁ?」
     急に、堪えていた感慨の堰が切れたように、美沙姫の右手は想い出の階段を駆け上がって、首元の締め痕に一つの風景を眺めるのだ。
    「小学生のころ!」
     美沙姫は唐突に切り出した。
    「『人殺しと教室でお勉強しなきゃ』って、クラスの女子に言われたの。病院から退院たとき、わたしの名字、いつの間にか『春野』に変わってた。それで久しぶりに学校行って、机に『お前の親は人殺し』って書いてあるの見つけたときは、もうどうしようもなかった。トイレから帰ったら、机の中のものはぜんぶゴミ箱に入っててね。替わりに『人殺しの娘』って紙切れがいっぱい入ってて。ふふふっ、あれは傑作だったなぁ」
     椿渚の喉が詰まる。けれど美沙姫は続ける。
    「それでね、わたしが何も抵抗しないのを見抜いた男子がいて、廊下で抱きすくめられて、無理矢理キスされたの! 最初は味が分からなかった。だってそれがわたしのファーストキスで、キスの味なんて知らないから。だけど、その男子が嗤ってた。『ママ味だ』って‥‥‥アハハはッ! 男ってさぁ、ほんとうに気持ち悪いよね!」
     その言葉に、椿渚は反射的に美沙姫の腕を掴んだ。
     細い。ほんとうはこんなにも軽いのに——彼女の肩には、見えない鉛の鎖が絡みついていた。
    「泣いたら負けだって思ってたの」
    美沙姫は笑う。眉尻だけ下げて、泣き顔のように歪んでみせる。
    「だから笑った。笑ったら——みんながもっと怯えて、遠くから石投げてくるだけになった。ねえツバサくん、知ってる? 人の嫌がらせってさ、直接肌に触れようとすると途端に臆病になるんだよ。だから言葉や空気で殺そうとしてくるの」
     彼女の告白が洪水のように押し寄せる。彼はすぐにでも膝を折って浜辺に蹲りたかった。
    「わたしが一番好きな数字、知ってる? 十六だよ。わたしが十六歳の誕生日に、自分で舌を噛み千切ろうとしたから。でも失敗して歯茎を裂いただけで終わった。血液検査したら肝臓までボロボロだった。皮肉なことにね、その傷跡のおかげで里親の家の子にいじめられてたの。あ、もちろん今ではその跡はないんだけどね? でももう一人の里子の子がとってもイジワルで、裏ではずっとわたしの悪い話をパパとママにウワサしてて、あげくには眼の前で『人殺しの唾液が臭い』って言われた。それでもわたし、必死で笑顔の練習したんだよ? 頬を指で引っ張って、鏡の前で延々と」
     椿渚は歯噛みした。
     何を言えばいい? 詫びる権利など——僕にはどこにもない。
     だが、指先がわずかに強く、彼女の肩を包んだ。
    「‥‥‥それでも」
    ようやく搾り出した声は、潮騒より頼りなかった。
    「君は耐えたんだ。今日も、ここで息をしてる」
     美沙姫は一瞬、目を見開いた。
     そして——初めて、彼の前で子供のように泣き出した。
    「ちがうよ」
     しゃくりあげる寸前のような、小さな声。
    「わたし‥‥‥耐えたんじゃない。逃げたの。逃げすぎて、帰り道が分からなくなってて‥‥‥気づいたら、この島に流れ着いてて、ツバサくんの袖掴んでた。いつからだっけ? この笑顔の『仮面』が剥がれなくなっちゃったのは。ねぇ、ツバサくん‥‥‥。貧しいことや寂しいことは、悪いことなの? わたしだって望んでそうしたわけじゃない。ほんとうは『ふつう』が良かった。『ふつう』の家に生まれ育って、『ふつう』にオトナになりたかった。少しでもみんなに近づきたくって仲良くなりたくって、普通になりたくって努力してきたのに、なんでわたしが馬鹿にされなきゃいけなかったの? なんでもっと苦しまなくっちゃいけなかったの? 先生なら、教えてよ‥‥‥」
    「美沙姫さん‥‥‥」
     椿渚はなんとか表情を取り繕いながら声を掛け続けた。けれどもこの少女の告白はあまりにも鋭すぎて、聞いているだけで胸が痛かった。
     しばらく彼女の顔を見守っていると偶然、ロランで読んだ覚えのあるような或る種の信仰深い女どもの一人のことを考えた。それは堕落した女工であって、利己的で不品行で真の愛情などはもつことができないのだったが、しかし苦しんでる者を見ると、それが一日の知人であろうと未知の人であろうと、必ずその人に対して母親めいた心持ちを起こすのだった。最も厭な世話をも辞さなかった。最も多くの献身的な行いを求める人々に対しては、不思議な喜びの情をさえも覚えた。彼女は自分でもそれがどうしてだかよく知らなかったという。おそらくは、おぼろな隠れた理想的な力の用途をそこに見出してたのであろう。彼女の魂は生活の他の場合には萎縮しきっていたが、そういう稀な折にだけは大きく呼吸していた。他人の苦しみを少し和らげてやると、彼女はある安楽を感じた、そのときの彼女の喜びは、ほとんど不相応なものであった。——利己的であるその女の温情は、そしてまた、元来親切である坂門椿渚の利己心は、共に美徳でも悪徳でもなかった。それが二人にとっては同類の摂生法だったのである。ただ女工のほうがいっそう健康であったかも知らん。
     椿渚は以前、共通な信念の上に築かれた人情の結合を、一緒に戦い苦しみ働くの幸福を、深く信じていた。しかしその信念たるや、それが愛の太陽に麗しく照らされるときにしか信じられなかった。太陽が沈んでゆくに従ってそれは、空虚な空の上にそびえてる不毛な陰暗な山のように思われてきた。そして彼は同じ道を辿り行くには、もうその力が無いような心地がした。頂に達したとて何になるものか。山の彼方に何が在るものか。なんという甚だしい欺瞞だったろう! ‥‥‥どうして美沙姫がやはりなお、生命を蚕食するその空想に欺かれてるかを、椿渚はおのれが「男」である以上は、もう理解することが出来ないのだと感じた。そして、自分が少しでも彼女の痛みに共感し得るかも知れないなどと思い上がってしまったことを、ひどく恥じた。
     正直なところ、椿渚はそのような苦悩のことを考えるとまいってしまった。だが肉体上の快楽よりは現の実艱難辛苦のほうが尚も好ましいほどだった。天職や信仰など、自分の喜びの源の一つを失うくらいなら、むしろ戦う方が望ましいほどだった。所有すべき権利があると思ってるすべての幸福を所有しないこと——彼は幸福を信じていて、幸福は彼に於いては全的な荒唐無稽な信仰であり、宗教的な信仰であった——自分が他人よりも多くの幸福を所有するということ、それは彼には最も恐ろしい不正のように思われた。幸福は彼にとってただに信仰であるばかりでなく、また美徳ででもあった。不幸であることは一つの宿痾とさえ思われた。彼の新たな全生活は次第にそういう原則に従って方向を定めてきた。人並みの性欲も再び顔を覗き始めて、おずおずした貞節さで身にまとっていた理想主義の覆面から、彼の真の性質が覗き出してきた。過去の理想主義に対する反動によって彼は、きっぱりした生々しい眼つきで万事を観察するようになっていた。するとあらゆる事柄はもはや、世人の意見と生活の便宜とに一致する点に於いてしか価値をもたなかった。そうなると彼にとっての春野美沙姫は、——亡き妻の代わりでも都合の良い愛人でもなかった。おのれと等身大の、倦怠を感じている憐れな女にすぎなかった。
     椿渚は此処でようやく口を開いた。
    「君の辛さは、僕にはわからない」
     美沙姫は俯いたまま、肩を震わせる。
    「それは僕が何年経っても理解できないものかもしれない。もしかしたら、それを全部理解する日は永遠に来ないかもしれない。君には君の気持ちがあって、僕には僕の気持ちがある。‥‥‥ただ。一つだけ、確信を持てることがある」
    「なに‥‥‥?」
     美沙姫は潤んだ瞳を椿渚へ向けて、唇を震わせた。その時の美沙姫は酷く幼い印象を受けて、まるで嵐の中を彷徨い歩いてきた幼子のようだった。その姿は確かに椿渚の心を強く揺さぶりはしたが、彼女の苦しみを理解できるほどの共感は得られなかった。
    「やっぱり君は、僕にこだわっていてはダメだということだよ。僕は教師で、君は生徒。それだけじゃなくって‥‥‥僕たちは住んできた世界が違い過ぎる。共感は出来たって、互いの過去を慰め合うだけの関係なんてのは健全じゃない。君の未来はね、春野美沙姫さん。君のためだけにあるんだから。ここで終わらせないと、僕たち‥‥‥一生ズルズル引き摺ることになるぞ」
     彼女はかすかに震える指で喉元のチョーカーに触れた。
    「だからわたしにも、忘れろって? 大好きなツバサくんのことを、イヤな想い出と一緒くたにして」
    「忘れろなんて言ってない。その重さを引きずって生きるのも生き方の一つだと、僕は思うよ。美沙姫さんにもそうしろとは、言わない。ただ、若い頃は誰だって一回くらいは異性関係で間違えるもんだ。君も今日までのことは忘れて、僕に拘ってないでそのまま前へ進みなさい。それに僕は‥‥‥君の父親には、なれないから」
     彼女は再び表情を険しくした。その双眸はもう乾ききっていて、色は早春の朝のように澄んで冷たく、初夏の宵の明星のようには熱っぽく耀いていた。
    「ねえ。それって同情のつもり? それでこの恋を忘れろってそう言うの? ツバサくんはそれ、自分の奥さんにも同じこと言えるの?」
    「同情じゃない、ただ素直にわかり合いたかったんだよ。いったいぜんたい、僕がなんのために君へ洗いざらい過去を教えてやったと思ってるんだ? 僕はっ、この坂門椿渚は‥‥‥親から愛されなかった孤児で、妹を殺したあげく育ての親に捨てられて、幸せになる筈だった妻も子供も殺した、どうしようもないクズ男。みんなクソみたいなセカイでクソなりに生きてるけど、そのなかでも特にこの坂門椿渚は、幸せになれそうもない男だって、そう教えてやったつもりだ。だから美沙姫さんが未来の幸せを願っているなら、その隣に相応しい人間が僕であってはダメなんだ」
    「それじゃあ別の聞き方をするね。それは先生として言ってくれてる? それとも、坂門椿渚っていう男として?」
    「ひとりのオトナとしてだよ」
     と、彼は迫ってくる美沙姫の唇を遮るように手をさし伸べた。
    「オトナって、ほんとうにズルいよ。でもさ、そのセリフ——」
     この刹那、坂門椿渚はミサキという女の中に魔性を見た。
     
    「——それはもし、わたしが男を一人殺してたとしても。同じことが言える?」
     
     そう告白した美沙姫さんは、僕の腕から離れると、ぽつんと立ち尽くした。長いポニーテールが少し汗ばんだまま、潮風に靡いている。
    「わかる? わたしがどれだけ壊れているか。誰かを好きになるとね、必ず失望されると思ってる。期待するのが怖いの」
     彼女は薄紅の舌を伸ばして、椿渚の伸ばした人差し指を唇で咥えて、濡れた睫毛の隙間から睨め付けた。一瞬、全身にゾッとするような妖気を感じた。僕が身じろぎしたのを見て、彼女は嬉しそうに口角を吊り上げる。あらゆる角度からの恋慕は、美沙姫さんを蝕んでいた。
    「ねえ、ツバサくん。これ観てよ」
     そういって彼女は、自身の首元のチョーカーに手を掛ける。
     パチン、と軽く金属の鳴る音。
     それを外すと、彼女の白い首筋に、細い痕が帯のように刻まれていた。浅黒く変色した線状の瘢痕。火傷のような痕は醜く爛れ、ところどころに皮膚が剥がれ落ちていた。
    「君は‥‥‥いったい、なにを‥‥‥?」
    「んふふっ。なんだと思う?」
     彼女は指で傷痕をなぞり、恍惚とした表情を浮かべた。まるで淫靡な儀式のように。
    「ほら、わたしが男を殺した話。あれ、実は少し嘘ついてたの。正確には、わたしが殺したのは『お父さん』なの。わたしと血の繋がってる、ほんとうの父親」
     その声に込められた感情は、誇張でも謙遜でもなく、ただ——事実なんだと思った。彼女の指先は、今もまだ血の気が引いて震えている。美沙姫の指が、彼女のチョーカーに触れる。布の内側から、何か黒いもの——否、空白が露わになった。
    「お父さんがね、わたしとお母さんの首を絞めて心中しようとしたの。わたしは殺されそうになったんだけど、お父さんがお母さんの首を締めてる間に、がんばってなんとかしなくちゃって思って。わたしが包丁を持って、それでお父さんを刺したの。お母さんもその後すぐ、わたしの罪を庇うために自殺しちゃった。だからこれはね、わたしが殺した痕」
     ——カァン、カァン、カァン。
     その瞬間、遠くの教会から鐘楼が鳴った。古い金属質を舐めるような音。僕はその音に重なるように、息を呑んだ。潮騒の音と、鐘の音と、女の甘い吐息が、心臓の奥底から煩わしいくらいの動悸を掻き鳴らした。
    「僕は‥‥‥」
     口を開きかけた刹那、ミサキさんが耳元で囁く。
    「ねえ。ツバサくんはもう一度、わたしを救える?」
     その言葉には希望ではなく、絶望的な依存が滲んでいた。真っ黒な瞳孔が視界いっぱいに広がる。それは底なし沼だ。踏み込めば自分も沈むと分かっていても、抗えない魅力がある。
    「‥‥‥やっぱり僕には、無理だ」
     彼女は笑った。海水が腰まで届き、互いの服が濡れて貼り付く。
    「正直だね。でもそういうところが好き」
     そう言ってミサキさんは突如、両手を広げる。
    「でもね、わたしたちやっぱり似てるよ。君だって大切な人を失って、世界に失望してる。だからもう嘘つく必要ないんじゃないかな? わたしたち二人で溺れればいい。きっと綺麗だよ、沈んでいく姿」
     渚に打ち寄せる波が月光を乱反射させ、僕らの影を海底へ引きずり込もうとする幻覚を見た。ミサキさんの濡れた髪が首筋に張りつき、その姿は女神と怪物の境界線上で揺れている。僕は震える手で彼女の顎を掬い上げ、夕闇の中で呟いた。
    「救えないかもしれないけど‥‥‥傍にいてもいいかな」
    「もちろん!」
     彼女の指が僕の鎖骨を滑り降りる。
    「どこまでも墜ちていこうね、ツバサくん」
     このとき渚の暗がりには八重咲きを散らせた椿が、不吉なまでの赤を湛えて沈殿していた。その葉は緑が深すぎて陽気さは微塵もなく、ただ一眼見た者をその魔力から金輪際、免れさせぬ執拗さを備えていた。墜ちた椿はやがて水に腐って泥になり、いつかこの海を赤く染め上げながら、ふたつの影と共に、永遠の静寂の底へと沈潜してゆくのである。

    『つらつら椿みちづれに』プロローグ
    終


    画像

    次回予告

     白椿が美しく咲く夏の五島列島、そして隣り合う孤独が同居する聖福高校。新任教師である坂門椿渚は、亡き妻と同じ名を持つ少女・春野美沙姫の中に赦されぬ救いを見出そうとして、足踏みをしてしまった。一方で首元のチョーカーに凄絶な過去を封印した美沙姫は、完璧なオトナになるための道化の仮面を脱ぎ捨て、教師への背徳的な執着を狂わせていった。
    「――どこまでも墜ちていこうね、ツバサくん」
     近付きすぎたが故に知ってしまった互いの孤独、逃れられなくなった肉慾への憧憬。重なり合う体温に混ざり合う罪の香り、互いの傷痕を舐め合うような背徳の愛の果て、――二人が辿り着くのは救済か、それとも心中か。

    『つらつら椿みちづれに』
    本編へ続く。


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