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憧れの霞草とスターチス

    筆者は大学卒業後、フリーターとして10年間勤めた職場を退職し、これからの人生について考え始めた。すぐにこれまでの人生について振り返る事になる。気づけば他人軸で生き、苦しくも安全地帯だった場所にい続けた筆者のこれからを描く物語。



    仕事を辞めた。

    もらったプレゼントと花束を抱えて帰った。こんなにも沢山の花束を貰うことは人生でそう無いだろう。私をイメージして作ってもらった花束。嬉しかった。何種類もの花の中で、小さくも多くの人に愛されているであろう霞草は、どの花束の中にもあった。ふわふわした白い小さな花が可愛らしい霞草。そして霞草によく似たスターチス。霞草ほどではないが、こちらも花束ではよく見る気がする。


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    小学5年生の時、テレビアニメでプリキュアが始まった。
    これに私はどハマりし、キュアブラック=なぎさには憧れたものだ。メップルが可愛くて、いつか飼いたいとすら思ったほど。カードコミューンが発売された時には親にねだって買ってもらった。嬉しくてどこにでも持ち歩いた。同級生には言えなかった。なんだかみんなの中ではさほど流行ってないことを察していた。恥ずかしいことなんだと思った。それでも隠れて大好きでい続けた。ある時、兄の習い事が終わるのを待っている間に5歳年下の女の子がカードコミューンを持ってきていることに気がついた。やっぱり恥ずかしかった。自分は幼稚なんだ。こんなに小さな子と欲しいものが一緒なんだと、隠さなければならないことだと思った。


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    中学1年生の時、慣れない部活動での上下関係に疲れ果て、3ヶ月ほどで退部した。ほぼ同時に退部した子が2人いたが、その2人は小学生の頃からの仲で、気づけば家庭科部に入部していた。私はというと、そのもうすでに出来上がった組織に入ることに抵抗を感じ、結局卒業までどの部活にも入らなかった。同学年では数少ない帰宅部というやつだった。部活はしていないし、勉強もあまり得意では無かった。かといってどうしようもないほど成績が悪いわけでもなかったが。美術、国語、音楽、家庭科が好きだった。完全なる文化系。数学が大の苦手で、特に証明にはつまずいたし、大人になった今も全く理解できていない。なんとなく過ごしていたが、そうも言っていられない時期が来た。高校受験。進路についてなんて考えたこともなかった。「A高校に絶対行きたい!!!!絶対楽しそうじゃん!」と友達は大はしゃぎ。そのほかの子も、自宅からの距離や部活動、学科などを視点に、ほとんどの子がA高校かB高校を選択していた。次いでC高校。そして、第一希望とは別に滑り止めで受けるD高校。D高校は気づけば必ず受けることになっていたが、私には第一希望がなかった。強いて言うなら、1番上の兄が通ったB高校は、かなり厳しそうな印象を受けたので、部活の上下関係にも耐えられなかった私が耐えられる気がしなかったのでなし。2番目の兄はA高校に通っていたが、かなり楽しそうだった。だが問題なのは兄と私の差。2番目の兄はかなり努力家で勉強もスポーツも万能。おまけに性格も穏やかで、友達も沢山いて、モテてるイメージしかなかった。私は友達も少ないし、3人以上のグループは苦手で気づけばいつも話についていけずひとりぼっちになってしまう。気が強いと思われていたこととあったが、口が悪いだけで気はめちゃくちゃ弱かった。勉強もスポーツも中途半端で、部活もやっていなかったのでなんの取り柄もない自分に自信がなかった。気づけば少しでもキラキラしている男の子のことが怖くなっていて、比較的静かな男の子とは友達になれた。兄と真逆な自分が、A高校でやっていけるはずがないと思った。A高校を目指すと言った途端に、友達がキラキラして見えてきて、なんだか心の距離が開いたように見えた。
    そんな私が第一志望で選んだのは、ABCD高校よりも偏差値が少し高いE高校。勉強なんてしなかった。行きたかったわけじゃないから。受験当日、試験の大部分である証明がもちろん全て解けず、予想通り落ちた。涙が出た。行きたかったわけでも、努力したわけでもないのに。滑り止めのD高校には行ける。だが学費が高い。その事を親がちょくちょく言っていたのは知っていたが、聞こえないふりをしてきた。落ちた時、私はこれから迷惑をかける子どもなんだと思った。だから泣いた。失望しただろうな、この子のせいで苦しさが増える、そう思われたのではないか。一緒に合格発表を見に行った母は無く私に「そんなに泣くほど勉強してないでしょう」とどこかイライラした様子でその言葉を放った。苦しかった。私が悪い事は分かっている。出来損ないで申し訳ないと思った。


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    そんなこんなで高校生活が始まった。大人になった気分で、受験には失敗したが少し浮き足立つ毎日。友達もできた。部活にも入った。軽音学部。友達が入部したので私も入部を決めた。ベースがやりたいと思った。当時の推しがベースをしていたからだ。だが、コミュ障の私はバンドを組めなかった。気を利かせて先輩が掛け持ちしているバンドにベースがいないからと入れてくれた。ありがたかったが、プレッシャーを感じた。それでも何かしている感が欲しくて、安いベースを買ってもらい、ベース教室にまで通った。卒業まで、一度もライブの舞台に立つことはなかった。
    高校2年になった頃、初めての彼氏ができた。ハーフの彼は見た目こそ目立つが、性格は穏やかで静かな方だった。部活が一緒で、ある時から喋るようになって、SNSでのやり取りを続けるうちに付き合うことになった。何もないと思っていた高校生活は華やかになった。彼は部活もバイトもして、少し大人びた人に見える反面、いつも同等の立場で接することのできる、今考えるとかなり優しい人だった。趣味も合う方だし、嫌なところは一切なかった。大学1年まで付き合っていたが、マンネリ化が進む中で変わらずいてくれる彼とは反対に、私は変わり映えのない日々にめんどくさくなり、別れを告げた。顔も合わせず、声をきくこともなく、メールで別れを告げた。

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    高校生活も中盤。また進路の話が出てきた。やはりやりたいことなどなかった。強いて言うならば、メイクが大好きだったので、ビューティー系の専門学校に行こうとした。私の高校時代は、今とは違ってメイクをしている子の方が珍しかったので、まだ学校も少なかったように思う。でも親の顔が浮かんだ。母親の顔。母親の話も聞いた。極めるなら専門だけど、卒業後の進路が狭まる。初任給が4年制大学を卒業するよりも安い。その2つの意見であっさりと専門学校を目指すのは辞めてしまった。
    代わりに選んだのは心理学専攻で4年制大学。中学の時とは違い、高校2年の時からかなり勉強を頑張ったので成績が良かったことと、どうやら大学側が新学科を設立するとかなんとかで、比較的受かりやすい時だったらしく、AO入試であっさり合格。今度は受験に失敗しなかった。それだけが嬉しかった。

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    大学生になって初めて、ちゃんと活動するサークルに入った。入ってしまえば活動しないなんて事は絶対にできない、人数制限のあるサークルだった。これまで何もしてこなかった私にとっては勇気のある選択でもあったが、迷いはなく強い意志を持って入った。可愛くて、太陽みたいな憧れの先輩みたいになりたかった。そして、私には先輩という存在も今までまともにいなかったが、どこか憧れのようなものがあったと思う。どちらかといえば後者の方が入部の理由だった。かなりきつかった。それでも辞めるという選択肢はなかった。普通のサークルよりも期間が短く、2年間のみ活動し、その間かなりこん詰めて本気で取り組まなければならなかった。それでも楽しかったし、そのサークルの友達とは大人になった今も時々会うくらい、いい仲間に巡り会えた。だがそんな友達と過ごす時間は劣等感の塊だった。愛嬌があって、すぐにみんなの輪の中心にいる友達が2人。3人で居られることはステータスだった。でもある時から急に、わたしは1人になった気がした。仲間外れにされたわけではない。いや、一瞬そんなこともあったかもしれないが、嫌がらせのつもりではなく、ただ一瞬の諍いがあっただけ。でもすっかりひとりぼっちになった気がして、避ける日が増えた。だからと言ってまったく関わりが無くなったわけではなかったが、結局気づけば2人の仲はかなり良くなっていて、卒業後も3人で会ったことは一度もない。

    嫌なことというのは重なるもので、その少し前に家族の都合で祖父の家に引っ越すことになった。その都合というのも、結婚した子どももいた兄家族にお金がなく、実家を引き渡すためだった。父はその頃単身赴任で県外にいたので、母と私の2人暮らしだった。ものすごく嫌だった。ただでさえ環境の変化が苦手なのに。祖父の家は狭く、大学の近くではあったが住んだことのない土地に行くこと自体が私には苦しかった。嫌だと言っても決定事項だった。大学生にもなって駄々をこねる情けなさを感じつつ、それでも心がついていけない。着々と引越し準備が進み、気づけば祖父の家にいた。ボロボロのたたみ、ボロボロの壁。床に布団を敷いて狭い部屋で母と2人で寝た。プライバシーなんてあったもんじゃなかった。引っ越しに伴い、わたしはバイトを辞めた。初めてしたバイトだった。慣れないころ、パートのおばちゃんにいびられ、教えてもらってもないことでうまく対応できず、店長に理不尽に怒鳴られ、それでも辞めると言い出せずに気づけば慣れていったバイト。おばちゃんとも気づけば仲良くなった。理不尽に怒鳴ってくる店長は鬱病になって退職し、お客さんもあまりこない穏やかなバイト先だった。そこを辞めなければならない。でもバイトはしなけらばならない。この時点で慣れないことを2つもしなければならないことになった。どうしようかと悩んでいる最中、新しくアパレルのお店が開くということで、思い切って応募した。運良く採用してもらえた。東京から来た店長と副店長は、この地方には似合わないほどおしゃれで、オープン前にはメイク講座までしてもらったほど。街中がダサいと言われ、内心少しもやもやしつつも最先端にいられる気分になって嬉しかった。一緒に採用されたメンバーは、フリーターのお姉さんが3人。そのうち1人は当時SNSのフォロワー数万人、雑誌にも載ったことがある人。霞草を添えたコスメや洋服、時には頬に当たるように映った自撮りの可愛さが印象的だった。大学は違ったがおしゃれで有名だった同い年の子もいた。その2人と同じメンバーでいられることも私にはステータスになった。でもすぐに崩れ落ちた。お客さんに話しかけに行くことも、服を提案することも私は苦手なのだとここで初めて知ることになる。店長は顔がいいから採用したと言ってくれたが、お店の顔になるのはもちろんフォロワー数万人の彼女だし、もしかするとその子以上におしゃれな同い年の彼女は提案力が抜群だった。(後2人とはほとんど一緒に働くことがなかった)そこにいる私は浮いて見えて、自信は失うばかり。気づけば店長にはかなり嫌われていたので、あだ名すら、なぜか自分で決めさせてもらえなかった。あだ名は何かと聞かれたからそれぞれが答えたのに、私だけ苗字から汲み取ったお笑い芸人のようなあだ名を新たに付けられた。この時点で違和感はあったが、笑って済ますことしかできなかった。理不尽に叱られ、挨拶すら無視され、そんな中でわたしはミスをして更に怒られる。涙が出ない時が無かった。そのせいで悲劇のヒロインになるなと、何こいつって思っていると。私も悪かったが、言葉の一つ一つを受け止めるたびに心がすり減り、すぐに辞めた。その後すぐ、友達の紹介でカフェでのバイトを始めたが、どういうわけか手が震えて仕方がない。同期も店長も先輩もみんないい人なのに、いまいち溶け込めない。壁を作っているのは自分だと分かっていたのだが、踏み込むことが出来なくて、息が苦しくて、ほとんど飛ぶ形で辞めた。友達に申し訳なかった。
    結局わたしは祖父の家からはかなり距離のある、実家近くの元のバイト先に戻った。というより、たまたま社員の手続きがテキトーで、席が残っていたのでそのままそこに居座った。しかしそのバイト先すら潰れることになる。新しく大手チェーン店に建て替わるらしい。私には敷居が高く、絶対に働けないと思っていたのに、結局そこで働くことになるのだが。

    元のバイト先には同い年の男の子が2人いた。大手チェーンの雰囲気に合わないと勝手に決めつけていたが、なんとその2人が受かっていることが耳に入った。一歩遅れてしまったが、私も受けることにした。どんな不純な動機かと思われそうだが、高校受験の失敗を期に私は落ちるということにひどく敏感になっていたので、受かる確証が欲しかったのだ。確証にはならんだろ、とも思われそうだが、当時の私にとっては確証だった。これも運良く受かった。が、いざ仕事が始まって絶望した。誰よりも覚えるのが遅く、出勤日数も少ない方だったのでかなり遅れをとったと感じた。それでも新店オープンに向けて必死に頑張った。研修日、大人っぽく、可愛さも持ち合わせた一つ年下の女の子が一緒だった。一緒に頑張ろうね、とSNSを交換した。一番最初に霞草を持ってうつるその子の写真が目に飛び込んできた。美女はもれなく霞草を持ってるんだなぁ。そう思った。オープン時にも、オープンした後も、結局私ら置いていかれる一方だった。周りはどんどん昇格していくのに、私は進まない。研修日を共に過ごした年下の女の子や、元バイト先から一緒の2人の昇格は特に劣等感の対象になった。ミスも繰り返して何度も叱られたし、接客を大切にしていたがわたしはやはり話しかけることができず、これもかなり怒られた。ひどい時には出勤一発目のレジ対応で後ろに呼び出されるほど。なぜ話しかけないんだ、あなたには何が求められているんだと何度言われたことか。研修日が一緒だった年下の女の子は仕事ができたが、時に大きなミスをすることがあった。何故かその子のミスは当たり前のようにわたしが起こしたものだと決めつけられて怒られることもあった。ここでも涙が出る日ばかりだった。それでも辞めなかったのは、優しい言葉をかけてくれたり、どうやったらできるようになるのか一緒に考えてくれるただ寄り添ってくれる同期や社員に囲まれていたからだ。結局大学卒業まで続けた。最終出勤日、退勤した後、副店長に「どうだった?」と聞かれて私はしんどかったと涙を流した。自分でもびっくりした。もっと他に言うことがあるだろうと。でもしんどかった。それしか出てこなかった。「それでも成長したやん」と言ってもらえた。そうは思えなかった。みんなへの感謝の気持ちはすごく溢れていて、同期も後輩も、みんなのことが大好きだった。想いを込めて一人ひとりに手紙を書いた。女の子には、小さな霞草のドライフラワーを添えて。



    この大学2年の後半〜3年にかけて私は徐々に心が壊れていき、何も考えてなくても涙が出て止まらなくなかったり、朝は起きれない、夜は眠れない、と生活も崩れていった。ある時、ゼミの途中にいつも通り何でもない愚痴を言ってるつもりが、気づけば涙が出て止まらなくなった。心療内科に行けという教授の話を無視して意地でも行かなかったが、あの時行っていたら少しは違ったかもしれないと今も思う。



    大学を卒業する日、なんとも言えない気持ちだった。みんながグループでたくさん写真を撮り、卒業式の後のご飯の計画をたてるのを横目に、広く浅い友達たちに軽く挨拶をしてその場から空気が消えるように帰宅した。


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    就職先は化粧品会社。美容専門に行かなかったのに、結局就職したのは化粧品会社。なぜ私はよりにもよってこの会社を選んだのか。まあ理由は地元が本社のまだ大きく無い会社で、面接で答えたら受かるだろうというのが安易に想像できたからだ。受かるという確信があったので受けた。この一社のみで就活は終わり。入社する前からわかっていた。化粧品会社なんて接客の塊。案の定、続けられなかった。それどころか鬱症状はこの時悪化していたので、とても働ける状態ではなかった。当時の同僚や上司にとても申し訳なく思う。

    辞めた後、私はまたアパレルで働いた。接客はもちろんあるが、必ずしも話しかけないといけないという雰囲気ではなく、少し気楽に働ける場所だった。半年ほど続けたが、店長のパワハラ気質に耐えられなくなり辞めた。

    そして私が辿り着いたのは、しんどかったと辞めた大手チェーンへの再入社。正直店長とは仲良くなかったのでだいぶ気まずかったが、そのほかの人たちの心強さが上回った。再入社といっても面接が必要だった。面接官は一緒に働いたことのない副店長だった。正直店長が面接をしていたら採用されなかったと思う。そういえば思い出したことがあるが、1度目の入社の時も私は店長の採用ではなく、臨時の他店舗の店長の採用だった。それが理由なのかどうかは分からないが、私はなぜ採用されたのかふしぎなくらい、周りとの温度差をずっと感じていた。今回もまた店長ではない人の採用。それでもこの半年間、私はそれなりに接客もできるようになり、学生時代と違ってこの仕事に注力ができる。


    「今度こそ認めてもらえるかもしれない」

    きっとその想いだけを持ったまま、再入社することになる。



    そういえば鬱症状だが、どう考えても治っていなかった。比較的落ち着いてはいたが、よく泣いた。よく泣いたので、副店長が「お前すぐ泣くのやめろ」とどストレートに言ってきたほどだった。でもこの一言から、私は泣かなくなった。理由は分からない。急に、何が起きても泣かなくなった。そして心は死んだ。楽しくもないけど笑えるし、まあ泣きそうになることはたまにあるけど、それ相応のことが起きた時くらい。趣味もなかったが、当時の彼氏がいつも外に連れ出してくれたことで紛れていた気がする。

    住まいだが、再入社と同時に私は兄夫婦に紛れて実家で暮らすことを選んだ。兄夫婦も肩身が狭かったのか、受け入れてくれた。時々兄の嫁から、ガソリン代がないからと500円をせびられたりもしたし、甥っ子が寝ぼけて玄関に向かって放尿し、私の新品の白い靴にかかったりもしたが、住ませてもらっていたのでギリギリ許した。そして気づけば2番目の兄夫婦とその子供2人まで一緒に住むことになっていた。とんでもない家族だなと今考えても思うが、当時のことは思い出そうとすると脳が拒否する。

    再入社をしてあっという間に数年が経った。フリーターということもあり、順調に昇格してもらえた。認められて嬉しい反面、苦しさも増した。そもそもこれは認めてもらえているのではなく、フリーターがいないからそうせざるを得なかっただけなのではないかと思うことも多々あった。いつまでたっても自信は無かった。

    そんなある日、新店舗への異動の声がかかった。嬉しかった。このところ認められている気もしないし、何も変わらないし、このまま年をとっていくんじゃないかと不安に駆られていたからだ。1度目の入社の時は何も分からないまま始まった新店での勤務だったが、今度は違う自分で新店を迎えられる。そう思って即提案にのった。そして迎えたオープンの日。想像以上に大変だった。忙しさ、責任、オープニングスタッフへの指導、新しい社員同士のひずみ、全てが苦しかった。笑うことしかできなかった。それすら否定された日もあった。笑えないほど忙しい中でも、ブランドの雰囲気を守ろうと、笑顔を保った結果、盛大に否定された。私が間違っているんだと思った。ほぼ毎日くるクレーム、飛び交う社員の罵倒、なんだここはと思った。何も上手く行かない。また心が壊れそうだった。悔しくて辛くて泣くことはあったが、前の鬱状態ほどではなかった。そうならないように心を殺した。多くの感情が浮かんだが、全てを感じ切る前に押し込んで、蓋押して、何も無かったことにした。作り笑いもできなかった。そんな崩壊した状態も変化の時が訪れる。きっかけは社員総入れ替えが起きたこと。こんなことは普通あり得ないがたまたまそうなった。雰囲気が変わった。懐かしかった。1回目の入社時のような雰囲気。働きやすいと思った。この人の元ならわたしは上手くやれると思った。





    それから1年。


    私は退職した。

    理由は簡単だった。
    認められるために頑張ってきたから。
    それを超える目的が無いと気づいたから。

    私は今、自分がやりたいことをしてないんだと思った。
    会社にも、仲間にも失礼だと思った。何も決まって無い、心の整理もつかないまま退職の意思を伝えた。

    あっという間に月日が過ぎ、最終日を迎えた。しんどかった。でも気づけなかったしんどさに気づかせてもらえた。ただただありがたかった。




    退職後、しばらくぼーっと考えた。
    これまで私は何度選択をしてきたんだろう。人は1日に35000回も選択や決断をするらしい。そのうち何回、私は私の意思で、私の軸をもって決断ができただろう。ほとんど無かったのではないかと思う。決断の対象が大きくなればなるほど、他人の意見を想像してきたように思う。そこにはいつも、「認められるためには」がつきものだった。プリキュアが好きな私は認めてもらえないと思った。だから隠せばいいと思った。彼氏が出来て、自慢できる大きなアクセサリーを手に入れた気がした。見せびらかして、羨ましがられることこそ、私には認められていると感じられる事だった。学校にどことなく居場所がないと思った。学校に居場所がないんじゃ無くて、ほかの居場所が大きすぎるんだと思いたかった。だから少し背伸びをして、人からみて分かりやすくキラキラしてそうな世界を選んだ。ここで働いてるんだって言えば、漏れなく褒め言葉が返ってくるような場所。そこで必死に頑張る私は充実していると思ってもらえてるように感じた。充実感を表現できれば、認めてもらえない自分を少し埋めることができた。認めてもらえら状態とは、褒められることや、昇格だった。でもどちらも、何も嬉しく無かった。認められたと思ったことはほとんどなかった。私が選んだはずの人生は気付かぬ間に全部他人に預けてしまったらしい。おかげでどんな結果も私の周りにふわふわ浮いて、それは私に起きたことではないような感覚で、でも確かな私ごとでなくちゃいけなくて。でもどんな選択も私の選択だった。そんな風に取り戻して、起きたことを私の中に戻して行った。戻して、悲しくなったり、悔しくなったりすることが多くあった。だからと言って、それは悪くない。むしろいいじゃんって。人生ちゃんと歩んでんじゃん、人間やってんじゃんって。そう思ったら、全部あったかくて、可愛くて、大切な宝物になった。一気に増えた宝物は本物で、輝いてないけどあたたかい。そしてこの先の選択は、私の外に置かない。いつも私の中に置いておく。



    最後にたくさんの花束をもらった。こんなにも沢山の花束を貰うことは人生でそう無いだろう。私をイメージして作ってもらった花束。嬉しかった。何種類もの花の中で、小さくも多くの人に愛されているであろう霞草は、どの花束の中にもあった。ふわふわした白い小さな花が可愛らしい霞草。そして霞草によく似たスターチス。霞草ほどではないが、こちらも花束ではよく見る気がする。
    霞草を好きな女の子が可愛いと思った。私も好きだと言おうと思った。そうすれば、少しその子達みたいになれると思った。いつも霞草に憧れた。霞草を見かければ、かわいいと言った。愛でて見せた。意識してないとその言葉はあっさり忘れてしまいそうなほどに感情は無かった。いつしか霞草によく似た花を見かけた。少しギザギザしていて、星みたいな形。星が弾けるような見た目で、頭の中に星が弾ける絵が浮かんだほど。雨の後の星空すら頭に浮かんだ。水たまりを踏むと、映っていた空の星がぱしゃっと弾ける様子まで想像した。スターチスっていうらしい。スターチスが好きなんだね、私は。

    憧れの霞草はきっともう買わないけれど、思い出の中に咲いている。スターチスを見るたびにわたしはそう思う。



    あとがき

    筆者の【ねい】と申します。

    「自分らしく生きる」
    私がそう思うだけかもしれませんが、今と、この先しばらく続く現代テーマのように思います。そこには大抵、他人軸、HSP、アダルトチルドレン、時には精神疾患。こういったものが付きものだとも思っています。私もまさにそのど真ん中にいる人でした。今もまだそうだと思います。

    ごく普通の家庭に生まれました。共働きの両親と兄2人の5人家族でした。長期休みには毎年家族で出かけたり、朝ごはんも夜ご飯も家族揃って食べるのが当たり前。兄とは少し歳が離れていましたが、2番目の兄は特によく遊んでくれました。土日は父親と過ごすことが多く、ほとんど毎週飽きもせず、同じショッピングモールや薬局に連れて行ってもらいました。そしてお決まりのコンビニで買うお昼ご飯とおやつ。ペペロンチーノが大好きで、ついでに生キャラメルもよく買ってもらってたなぁ。幸せは溢れていたと思います。

    ですが幼い頃から、気づけば自分の感情に蓋をするのが当たり前でした。日常生活で、人との間に生まれる感情はいつも私の息をつまらせました。家族にも、他人にも。息が詰まっていることすらも当たり前でそんなことには気づきもしませんでしたが、今思えばいつもどこか他人が羨ましかったと思います。成長する中で、いつしか自分が弱いとか、だめな人間だとか、そんなことを思うようになりました。大人になるに連れて強く思うようになっていきました。他人からの評価にかなり敏感でした。環境の変化にはいつも疲弊しました。他人が発する音にもかなり敏感でした。私がおかしいのだと思いました。私の横で、食事をしながらテレビを見ている母親への何とも言えない嫌悪感。その行動に対してではなく、咀嚼音、テレビドラマの会話、これらの音が全ての集中力を奪い、常にイライラしていたように思います。和室の一角に置かれた小さなカーペット。その上に勉強机。そこが私の場所でした。あってないようなものでした。


    続きます。

     
     

    寧葵

     
     
    寧葵(ねい)と申します たくさんの人が救われますように🍀

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