
50歳。日記を書いて40年 。10年日記のススメ。
50歳。日記を書いて40年になる。日記をつけ始めたのは10歳、小学5年生の頃。好きな男の子ができたことがきっかけで、廊下で目が合った、一緒に給食当番をした、など、忘れたくないことを書き留めるために始めたと記憶している。
そこから40年間、一日も欠かさずに書いた、というわけでは全くない。20代の頃は長期間書かない時期もあったし、数日おきにまとめて書いた時期もある。娘が生まれた23年前からこまめに書く習慣となった。
現在は10年日記帳を使っている。2015年1月1日から書き始めて10年間が終わり、2025年から2冊目の10年日記に突入した。

青は10年間使った日記帳。
10年連用日記のコンセプトは「去年の自分に出会える日記」。日記帳のカバーには「去年の今日、何をしていたかを、読みながら書ける日記です。」とある。
これがなかなかに面白い。ほとんど読み返すことのない通常の日記帳と違って、書き手と読み手の両方を味わえる仕組みだ。
辞書のような厚みがあり、見開き1ページが1日分で、1年につき4行だけ書くスペースがある。
この4行が、私の1日分としてちょうど良い分量である。

10年日記は過去の自分の思考と再会する場所。1年前の自分、2年前の自分が、今日、何をして何を考えていたのか。どんなことに喜び、どんなことに憂いていたのか。最大で過去10年間分の今日を一覧することができる。当然、10年目が一番面白い。自分も家族も10年分の年を重ね、生活環境や仕事はどう変わったのか。読み返してみると、鮮明に覚えていることもあれば全く記憶にないこともある。人の記憶とは当てにならない。人は忘れてしまうものである。
そもそもなぜ私はこんなにも日記を書き続けているのか。私は瞬時に消えてなくなってしまう感情や思考を忘れずにいたくて日記を書く。日記は感情の写メみたいなもの。景色が変わるよりももっと早いスピードで感情は変わってしまうから、どの感情もその流れごと記録するために日記に書く。
写真と日記が好きな私は、感情や記憶に関して貧乏性といえるかもしれない。消えてなくなることが怖い。薄く重なる感情のレイヤーがあり、レイヤーは1日1枚ではない。本当は毎秒でも書き足りない。表面に出ている今の自分だけでなく、過去のレイヤーも真空パックにして何千枚、何万枚でも保管しておきたいという強い願望がある。

書く時間は夜だったり、仕事の合間だったりさまざま。ルールを決めず、書きたいときに書きたいだけ書いてきたからこんなに長く続けられた。必要なのは書きやすいボールペンだけ。私には0.5ミリが最適。数年前に青色が気に入っていた時期もあったけど、現在は黒ボールペンに落ち着いている。粛々と書き留める日もあれば、感情が昂って書き殴っている日もある。筆が進んで4行からはみ出している日もある。手書きの文字や筆圧からもその日の勢いが伝わってくる。
内容は、家族や仕事のこと、嬉しかったこと、愚痴、悪口。決心や誓い、本や映画の感想、最近では推しについても書いている。日々に大きな事件はなく他愛もない日々の営みと感情の揺れを書き続けている。
その日の出来事より、何を思ったかどんな感情が芽生えたかについて書いていることが多い。嬉しい出来事は詳細に記録するが、悪い出来事は書き残さない。感情にフォーカスして書き留めている。

連用日記の面白いところは、過去の自分を振り返る視点だけでなく、未来の自分の視点を意識しながら書くことにある。本来日記とは読者のいないものであるが、連用日記は「一年後の自分」という読者がいる。
日記を開くと、一年前の自分、二年前、三年前と、どんどん過去の自分が息を吹き返して立ち上がってくる。全部繋がった一人の自分であるのに、それぞれが個々の思考を持ち、鮮度を保ったまま、喜び、悩み、苦しみ、足掻いている。
書き進めるに連れて、これを読むであろう一年後の自分が姿を現してくる。今の悩み苦しみを一年後の自分はどう見るのか。何を思うのか。悩んでいる私を笑うだろうか。それとも懐かしく、ときには誇らしく思うこともあるだろうか。悪い出来事の詳細を書き残さないのは、それを読むであろう一年後の自分への配慮であるように思う。
過去の自分、未来の自分。自分自分自分。日記帳の中で鮮度が保たれたままの様々な感情のうねりに飲まれながら、夢中で泳ぐようにペンを走らせる。これは10年日記でしか得られない快感といえるだろう。
日記を続けて良かったことは、自分の感情や思考を言葉で縁取ることが瞬時にできること。心や頭に絶え間なく沸々と湧き上がるマグマのような泡のような感情を素早くとっ捕まえて眺め味わうことができる。また過去の思考を日々眺めているから、思考はあくまで現在のものであると、すぐに変わってしまうものであると、どこか俯瞰した見方ができることは、10年日記を書き続けたおかげかもしれない。

日記を書く人が必ず一度は考えたことがある。自分の死後、この日記帳はどうなるのか。
24年前、結婚を機に段ボールに詰まった過去の日記帳を全て捨てた。箱を開けて懐かしい日記帳をパラパラと捲り、こんなものを残しては死ねないと強く思った私は、全ての日記帳を自分の手で細く切って処分した。自らの手で書き連ね真空パックで保存した過去の感情のレイヤーを、自分の手によって丁寧に細かく千切って燃えるゴミ袋に入れて捨て去った。
結婚後に書いた日記は手元にあり、これらは長女に託すことにした。現時点で23年分。私が死んだら、この日記帳を読むなり捨てるなり煮るなり焼くなり好きにしてほしいと伝えてある。棺に入れてもらっても構わない。読み物として公開してもらっても構わない。娘が私と同じ年齢になった時に、日付に沿って読み進めてもらえたら面白いかもしれない。
そういうわけで、10年日記の読者に未来の娘が追加された。未来の娘の視線をうっすらと意識しながら書き進める日記は意外に筆が進む。娘へのメッセージなどない。娘の役に立つことを書こうとは思わない。私はいつか消えていなくなるけれど、私の感情は確かに在った。現時点では娘に知られたくない感情もある。けれど書く。書く。どんどん書く。娘はいつかそれを読むかもしれないし読まないかもしれない。それはどちらでも良い。
一年後の自分と未来の娘、二人の読者に向けて書く日記。胸の内にマグマのように湧き出る泡のような感情を素早くとっ捕まえて、今日も4行だけ書き留める。
※日記帳
株式会社デザインフィル ミドリカンパニー
10年連用 扉 紺・えんじ
オシャレな色味とデザイン、フォントが気に入って使っています。