
川底に眠る
・あらすじ(ネタバレを含みます)
恋人と同棲するため、川のそばに建つマンションに引っ越してきた”私”は、その日から川で恋人と心中する女の夢を見るようになる。死を繰り返す夢に追い込まれた私の感情は、女と同化しはじめる。その恐怖から女を拒絶していた私だったが、次第に人を呪うほどの恨みを抱えた女の生涯に興味を抱き、女の存在を受け入れていく。女の生涯に思いを馳せると、その思いに応えるように女は生前を語りはじめる。
女の過去を知り、マイノリティーとして生きる人間の苦しみと悲しみが、現代とそう変わらないことに気付く私。絶望の縁に立った私を生に繋ぎ止めんとする恋人の言葉は、川底に沈む女をも掬い上げてゆく。
小石をひとつ、またひとつと呑み込んでゆく。
これなら死んだ後、川の水面に上がってくることはないね、とその人は言った。
真冬の川はもうまるきり静まりかえっている。その姿はたいそう美しく、楽園があればこんなふうだろうと思った。天上から差し込む光は木漏れ日のようと言うべきか。蛍の光と言うべきか。
ねえ、見てちょうだい。夜の川というのはこんなにも美しかったのね。あたしたちは死ぬよりも悲しく、どうやってもいられない孤独に苛まれていたというのに、この川はこんなにも綺麗に光ってあたしたちを祝福するようだわ。今際の際の景色がこのような美しいものでいいのかしら。それをあなたと二人で見られるだなんて、もしかしたら神様が、あたしたちがあんまり可哀想だから、後生だと思われて、この楽園をくだすったのかしら。ああ、本当にそうならどんなに幸せなことだろう。死が二人を分かつとも、きっと来世で巡り合えるわ。死がこんなにも安らかなものだなんて、思ってもみなかった。
あたしは小石を呑んでキリキリと痛む喉で話す。うっすらと血の味がする。その人はあたしに微笑む。その笑顔が、夜の川に負けず劣らず美しくて、それでいてこれから訪れる悲劇をたたえているかのような儚さが、あたしの目に焼き付いて離れない。こんなに綺麗なあなたと、もう離れなくて良い。やっと二人は遂行する。これはあたしたちだけの祝言の儀だ。誰にも邪魔されず、誰にも引き裂けない。あたしたちは、あたしたちとだけ結ばれる。お父様やお母様にさよならを告げる。その人の細くて壊れそうな手を握り、恐ろしく冷たい川の水に足を浸してゆく。ざぶざぶと進んで、華奢な体のわたしたちは川の流れに負けそうになる。もう少し深いところへ行きましょうと言うあなたに、あたしは大きく頷く。足がつかなくなってきたところで、寒さからなのか、いよいよ死んでしまう恐怖からなのか、あたしの手が震える。するとその人は、病的なほどに細いその手でさすってくれる。
怖いね、とぽつりこぼすその人。あたしは、怖くなんかないと強がる。あなたと一緒なら。二人で見つめ合って、口づけをする。ふたりでゆこうね、約束よ。
あたしたちは川底に沈む。ああ、幸せだ。あなたと共に生きることのかなわないこんな世の中を捨て去って、一緒に死ねることが、とてつもなく嬉しい。幸せだ。
不意に、その人の手を探す。手のひらからこの思いを届けようとしたのだ。こんなにも満ち足りた幸せを分け合おうとしたのだ。だが、いくら探そうともそこにあなたはいない。とたん、今までの、何か熱いものが冷え切り、あんなにも美しかった川は、ただの真っ暗な穴の底に変身してしまった。息が苦しい、と気付く。死んでしまうのか。あなたと共に逝くならばどこだってよかった。極楽でなくても、地獄でも。だのに、一緒に逝けずに終わってしまうのか。伝えそびれた思いが行く当てもなく身体中で暴れのたうち回り、醜い虫のような脈がうぞうぞと皮膚を這う。胎の中の無数の小石が、あたし一人を地獄へ引き込んでゆく。
開かれた目があの人の屍体をとらえる。人であったものは、川の水面にぽっかりと浮かんでいる。名前を呼べば届く、いつもと同じあの優しい声色で「どうしたの。」とこちらを見てくれるはずなのに。多すぎる想いが冷え切った身体を、ふたたび苦しいほどに熱くする。身体を蝕まんとするその不快な熱は、吐けども、吐けども、喉元にからみついてキリキリと首を絞める。ああ、どうして声が届かないのだろう。何を伝えたかったのだろう。せめて、せめてそばにいてくれさえすれば、少しは救われたのに。死のほんとうの恐ろしさを知らず、冷たさを知らず、神はいると、必ず報われるときが来ると、夢を見ながら逝けたのに。
嗚咽。
夢から目が覚めた。仕事を終え、そのままソファーで眠ってしまったらしい。身体が川底に沈むように重く、水に溺れるように息苦しい。
女の身体が川底に沈んだままだからだろうか。浮かんでしまわないように二人で呑み込んだ小石が、少し足りなかったのか。本当は誰かに見つけて欲しかったのか。あなたは私をおいて声の届かない場所へ逝ってしまった。どこへいったの、伝えそびれた想いが首を絞めて、息ができない。
私はいまだ、川底の夢に取り憑かれ続けている。
この夢を見続けて早一ヶ月を過ぎた。誰の記憶か分からないけれど、記憶としか言いようがないほどに鮮明にたたきつけられる死の感触に毎日嫌な汗をかいて飛び起きる。異常な息苦しさと、夢の中で呑んだ石のせいか胎が重たく痛む。一ヶ月前、恋人との同棲のために新しいマンションに引っ越してきた。その日からこの川底の夢を見るようになってしまった。最初はただ溺れて苦しいというだけの夢だったのが、夢は日を追うごとに鮮明になってゆく。今日はなんだか、すべてを見てしまった、と思った。
私が寝てしまったからか、すぐそばのキッチンで夕食を用意してくれている恋人が、大丈夫?とリビングをのぞき込んでくる。
「またあの夢を見たの?」
寝ぼけ眼な私はああとかうんとか適当に返したあと、晩ご飯任せちゃってごめんねと謝った。
「いいんだよ、最近仕事でお疲れだったろうから。」
それに悪夢のこともあるでしょと付け加えて、恋人はテキパキと机に夕食を並べる。正直夢のせいであまり食べる気は起きなかったが、せっかく作ってくれたものを食べないという選択はとれなかった。部屋着に着替えて私も椅子に座る。
「いただきます。」
見るからにおいしそうな鯖の身をいつもより小さくほぐして、一口運ぶ。味噌の良い匂いがするその身を口に入れた途端、思わずむせてしまう。恋人がびっくりした顔で、あーあー大丈夫?とティッシュを数枚さっと取って私に差し出す。それを受け取って口元を押さえた。
「味付けまずったかなあ。ごめんね、大丈夫?」
「いや、おいしい、おいしいよ。違くて、いや、うん。」
うまく返せない。おいしいに決まっているのだ。こんなに良い匂いがするのだから。だけれども、期待して口に入れたその身は、泥のような味がして、おかしいと思うのに、恋人にそのことを伝えるのはよくない気がして伝えられない。
「鯖の骨が喉に引っかかっちゃったんだ。」
「ありゃあ。そういうときはお米を噛まずに呑み込むといいんだよ。これ、おばあちゃんの知恵。」
にかっと笑って恋人は鯖の骨を箸の先で器用に取っていく。言われたとおりにお米を呑み込もうとすると、その感覚に小石を呑み込んだ感覚が誘発されて、ぐにゃりと顔がゆがむ。
恋人は鯖の骨を取るのに集中していて、私の顔を見ていなかった。よかったと思った。なぜだか、今日の夢の話はしてはいけないと感じていたから。
風邪を引いた。季節の変わり目だからだろうか、冷房を付け始めた部屋で、涼しいはずなのに暑くて、布団を被れば寒くて、咳をするたび喉が血の味を広げた。珍しく会社を休み、昼間から寝室でぐったりとしていた。午前中病院に行って貰った解熱剤が効いてきたのか、いつの間にか眠りについていた。ふと玄関の扉が開く音がした、と思った。半覚醒した状態で締め切った部屋の扉の向こうに意識を向ける。足を擦るような、隠れるでもない足音が寝室の前の廊下を通り抜け、リビングに続く扉を開ける。恋人が帰ってきたのかな、と思った。時計に目をやれば十四時半。まだ帰ってくるような時間ではないけれど、なにか仕事中に忘れ物を取りに来たのかな。そう思い、だるい身体をもぞもぞと起こして、名前を呼ぶ。返事はない。寝過ぎてぼやけた身体の感覚が、あるひとつの妄想によってたたき起こされる。
「ねえ、どうしたの?」
さっきより情けないほど震えた小さい声が出る。またも、返事はない。私は泥棒とか不法侵入とか、そんな現実的な問題を通り過ぎて、あの女が来た、と直感した。寝ぼけているから現実と夢の区別がついていなかったのではないかと言われても、そんなはずはないと強く思うのだ。誰かが、確実にリビングにいる。そこで何かを物色しているようなガサガサという音が響いて聞こえる。足音を消して寝室をすり抜け、リビングに続く廊下を忍び歩く。喉から血の味がする。胎の中が酷く重い。変な汗が止まらなくて、音が鳴らないようにリビングのドアノブを握りたいのに、汗で滑って不気味な甲高い音が鳴った。物音は止まらない。扉のすりガラスに、思わず目を奪われる。見てはいけない、見てしまえば、それが恋人ではなくあの女だという確信に迫ってしまうから。そう思うのに、私の目はそれを捉えてしまう。座り込んでいる影が恋人にしては髪が長い、と気付いてしまった瞬間、自分の荒い息づかいと、女の影の動く音が、頭の中で水の中にいるみたいにこもる。心臓が乱雑な脈を大きくする。扉を開ける事より、この奇妙な現実が早く終わってどうにかなってしまったほうが楽だった。めちゃくちゃな脈が扉を開けた。
先には誰もいない。
私はドアノブを握った手を頼りにその場にへたり込む。汗で手が滑って扉に頭をぶつけてしまう。思わず目をつぶれば、まぶたの裏であの水面がきらきらと光る。息苦しくてそのまま横になる。必死に息を吸う音が、まだ水中にいるみたいにこもって聞こえて、そのまま眠ってしまった。
「やっぱり最近おかしいよ。」
そう切り出したのは恋人だった。
「この間だって風邪だったとは言え、床に倒れていたし、帰ってきてびっくりして起こしたらものすごく怯えていたし、何かあったんじゃないの。」
夕食の豚しゃぶを取り分けながら、恋人が心底心配そうに問いかける。
「ねえ、やっぱりあの変な夢が原因? あんまりオカルトとか信じない質だけどさ、明らかにこのマンションに引っ越してきてから変だよ。それとも、一緒に住んでいると疲れる?」
私はあの日の事を言い出せず、少しかじった豚肉を呑み込んでうつむく。
「そういうわけじゃないよ。一緒に住んでいるのは毎日楽しいし、何にも不満なんてないよ。私が体調悪そうだって最近は晩ご飯も任せきりになっているのに、文句ひとつ言わないでいてくれるし。そうじゃないんだ。ただ。」
と言って、やっぱり確信を切り出せない。私が変な夢を見て、変な人影を見ただなんて言ったら、心配性のこの人のことだから、違約金なんて気にしなくて良いからまた引っ越そうとか、お祓いに行こうとか、はたまた病院に行こうとか言ってくれるに違いないことが分かっている、なればこそ気軽には言い出せないのだ。
「じゃあやっぱり、あの夢が原因なの? 何かあったなら、遠慮しないで言って欲しいんだ。頭ごなしにオカルトだとかって否定したりしないから、言ってみてくれないかな。日に日に元気がなくなっていくのを見ていて、心配でさ。」
恋人はわかりやすくしゅんとする。こうして黙っていては要らぬ心配をかけて、それが不満になり、優しいこの人だって同棲を解消しようと言い出すかもしれない。
私はあのね、と意を決して話し始める。あの夢が日ごとに現実的な感触を持って近づいてくること、あの日の奇妙な体験のこと。うまく話せている自信はなかったが、恋人が頷きながら真剣に受け止めてくれていることを感じて、どうにか言葉にしてみる。一通り話し終わったと、ややあって恋人が口を開いた。
「その夢に出てくる川って、家のそばの川のことじゃないよね?」
これといって明確な理由があるわけではないのだけれど、と付け足して続ける。
「引っ越しする前、物件を決めるとき、ベランダから外を眺めたでしょ。その時にあなたがあの川をすごく気に入って、ここにしようって言っていたじゃない。なんか、言って良いのか分からないけど、自分にはそんなに綺麗な川には見えなくて、どっちかというとドブ川に近いように見えているんだ。でもあなたはすごく気に入っていたから、言い出せなくて。」
恋人が言い終わるやいなや、私は椅子から立ち上がり、すぐそばのベランダに続く窓をめちゃくちゃに開け、飛び出した。川。そうだ、あのとき私はこの川がすごく綺麗で、景色に風情があるように感じて家を決めたんだった。どうして忘れていたのだろう、あんなに綺麗なもの、忘れる方が難しいのに。
勢いよくベランダに飛び出した私を、恋人が焦った声で呼び止める。その声もまともに受け取れぬまま、私は呆然とその場に立ち尽くした。そこには、お世辞にも綺麗とは言い難い、都会の、下流のぼうぼうと草が生えて、手入れの行き届いていない、汚れた川があった。あっと思った。言ってはいけないような気がするのに、どうしてもその考えを脳みそから離すことができない。遅れて飛び出してきた恋人の手が私の背中に触れたとき、私はついにそれを口に出してしまった。
「女に呼ばれたんだ。」
途端、さっきまで恋人が作ってくれたおいしい夕食の味がしていた口の中に、泥の味が広がる。胎の中で何か堅いものが重なっていく感覚がする。喉が焼けるように痛い、泥と混じって血の味がする。私の身体中を、虫のように這う血の流れをありありと感じる。その感覚があまりにもリアルで、気持ち悪さに思わず目を閉じる。まぶたの裏で、あの日夢に見た水面がぱちぱちと火花が弾けるように光る。息が苦しい、と思ったときには、全てを吐き戻していた。
秋、私は休職することになった。
あの後私と恋人は、様々な場所へ対処法を求め訪ねた。内科に、精神科に、お祓い。怪しいサイトですらすがりついた。だけれども、それらは私の問題を少しも解決してはくれなかった。ただお金が消えて、私はうつ病の称号を得ただけだった。毎日、毎日、ひとりでいることで何が起きるか分からず恐ろしくて、川が目に入ると途端に嘔吐するようになってしまい外にも出られない。たった半年ほどで目も当てられないほどに私は変わっていった。あの夢の女と、私との境界線が曖昧になって混じり合っているように感じる。日を重ねていけば、きっと私は自分が分からなくなってしまう、と思った。もう起きているのも眠るのも、何もかもがぐちゃぐちゃになってしまって、ただもう何も分かりたくなかった。
そんな日が続いて、やっと久しぶりに正しく眠れた夜のことだった。
少し固めの枕が気になって、半覚醒しているのか、夢の中から現実をぼんやりとしたモニターから眺めているようだった。天井からぶら下がる照明の電球に、半開きのカーテンから差し込む月の光か街灯の光が、部屋を青く照らしていた。静かな窓の外から、怒鳴り声のような、泣き叫ぶような声がもごもごと聞こえた。声は、あまり近くないところで発せられているようだった。何を言っているか聞き取れないが、ただ穏やかではないことだけが分かる。私はのんきに、こんな時間に迷惑だなあと思いながら、ぼやっと開いていたまぶたを閉じる。目を閉じて、せっかく眠れた今に集中する。しかしどうしても私の耳は外の声が気になるようだった。野次馬根性で、どんな喧嘩をしているのか聞き取ろうとより耳に意識が行く。
女の声のようだ、と思った。痴話喧嘩か?おぼろげな意識でわずかに聞こえる言葉を解読しようと試みる。ふとその声を知っているような気がした。誰の声だったっけ、と思い巡らせてみたけれど、この町で知っている女の人はマンションの大家さんくらいで、その人の声はこんなに高くはない。それにあの人はもっと穏やかに話す人だ。
この声の主はよほど耐えがたいことがあったのだろう、今にも喉が切れてしまいそうなほど叫び続けている。やはり内容は分からない。同時に、少し腹立たしくなる。せっかく眠れたのに。私が何日ぶりにこうやってまともに眠れていると思っているんだ。怒りでさらに覚醒が進んでしまう。もういっそのこと警察に通報でもしてやろうか、と手探りで携帯を手に取った時だった。
今まで聞き取れなかった女の叫び声が、「痛い」と言ったのがはっきりと聞き取れた。さっきまでのんきだった私の脳みそが、しっかりと覚醒する。そして気付く。この声は、あの女が私を呼んでいる声だと。途端に嫌な汗が噴き出す。私の喉が大きな声で叫び続けたみたいに血の味を発する。まるで、あの女の痛みが共有されているようだ。
寝室の扉が誰かにノックされる。恋人は寝息を立てている。これが夢なのか現実なのか分からずに、逃げ出したくて布団を被る。ノックの音はだんだん大きく激しくなる。怒りからか、恨めしさからか、今にも扉が破られそうなほどの音に、私はきつく目を瞑った。早く、早く終われ。早く諦めてくれ。私は消え入りそうなほど小さな悲鳴を繰り返す。
どれだけ耐えていたのか、その時間は酷く長く感じて、変な時間に起きてしまったことを恨んだ。ふと、恋人に揺すぶられた。ノックの音も、女の声も、いつの間にかと消えていて、さっきまで青白い光が差し込んでいた部屋には、眩しいほどの朝が迎えていた。
おはようとあくびをする恋人にしがみついた。
「どうしたの? また嫌な夢見ちゃった?」
私はいたって普通を装って、昨晩何か聞こえなかったか問う。案外情けない声を出した私の背中をさすりながら、恋人は特に何もと返した。
私は昨晩の事が夢だったのか現実だったのか判別できないまま、「そっか」と返した。
あの夜以降、奇妙な出来事は嘘のようにさっぱりと姿を消した。しかしながら私にはあの女と混じっていく感覚が絶えず感じられた。あの女の気配や奇妙な出来事が起こるたびに感じていたようなものたちが、何もなくとも常にある。泥と血が混じった味、胎の異物感、息苦しさ、不気味なほどに美しく輝く水面の幻覚。おかげで体重はとても健康とは言えないような軽さにまで減り、髪の毛は部分的に抜けてなくなってしまった。外見の変化は良い。一番耐えがたかったのは女の感情までもが私に混じりはじめたことだった。恋人と一緒に暮らしている中で、私自身にはないはずの“もう一度共に死にたい”という思いがわき上がってくるのだ。今度こそ完遂させたい、とも。私にそんな考えは微塵もなかった。今はつらくとも、恋人と共にまだ楽しいこと、悲しいこと、様々な出来事を共有してこれからも生きていたい。その私自身という指針を忘れぬようにと思うのに、少し気を抜いて感情に任せてしまえば、私はすぐ恋人に一緒に死のうとすがりついた。そんなことが何度もあって、私は自分が分からなくなる恐怖と共に、自身の感情や考えがあの女と同じになることを受け入れてしまう恐怖にも、同時に襲われていた。いや、女を受け入れるというよりも、あの女と同じものが私の中にも存在するのかもしれないと考えはじめていることを恐れていた。
私が死のうとうそぶくたびに、恋人は憔悴していった。最初は悪い冗談を言わないでと笑っていたのに、死がだんだんと私に染みついていっていることを悟ったのだろうか、笑いもせず、顔をゆがめてただ「やめて」とだけしか言わなくなっていった。そのたびに私は、恋人に負担を強いている情けなさと、もしいつか「いいよ」と言われてしまったらと焦る気持ちに苛まれた。だけれども、ゆがんでしまった私はその言葉を密かに待っているような気もする。それが恐ろしくてたまらない。そんなことがあってはならない、こんなことになっているのもすべてあの女のせいだ。私は恋人に一緒に死のうと言う代わりに自分を傷つけるという術を身につけた。恋人にばれては余計に心を消耗させてしまうから、傷が残るような方法ではなくて、私だけを苦しめることのできる方法を選んだ。そうして自らを罰することで、私の中にあるあの女の感情は満足するようだった。私はそうやって自分を保ち、女を強烈に拒絶し続けた。そうすれば、きっと亡霊のようなあの女の自罰的な欲望を満たしきる時が来て、私も解放されるだろうと思っていた。しかし、そうやって自傷行為を重ねていくごとに、女が私に植え付けた“もう一度共に死にたい”という感情がより切実なものになっていくのを感じていた。
私は自傷行為以外の選択をとらなくてはいけなくなった。それはこの行為が当初の目的からずれはじめたことだけでなく、恋人の確信に迫る言及が原因だった。私は恋人に心配をかけないことを理由にこの手段を選んだのに、気付かれてしまっては本末転倒だ。
そうして私は、あんなにも拒絶していた“あたしの悲しみ”を自分事として考えはじめることにした。あの女をただ怖がって否定することは、亡霊になってしまうほどの深い悲しみを、土足で踏み荒らすようで嫌だと思ったからだった。あの女の、悲しみや苦しみのどうしようもなさを理解した時、私は初めて女を彼女と呼んだ。彼女はどんな名前を持っていて、どんな人だったのだろう。どんな人生を生きたのだろうか。意外にも、彼女を受け入れる選択は、物事を良い方向に運んだ。彼女の激しい憎しみは、私が彼女を受け入れるごとに、深い悲しみに変わっていった。私は一日のあらゆる時間を彼女のために過ごした。心の中で彼女に問いかけ続けた。しかし、彼女は以前のような奇妙な出来事で言葉を返すことはしなかった。ある雪の日、彼女は私の問いかけに答えるように、夢で語ってみせた。
あたしと千代は女学校で出会った。ひとつ下の千代が入学してきたとき、あたしはその美しさに息を呑んだ。千代は身体が弱いせいか、周囲の同級生と比べて一段と儚く見えた。そんな彼女はすぐに学内で話題になった。彼女が身体の弱さに負けず、勉学にいそしむ姿はとても愛おしく映るのだろう、「千代さんを見たいわ」と大いにはしゃぐ女生徒の多いこと。しかし何を隠そう、あたしもそのうちの隠れたひとりだった。
次の年の春のことだった。あたしは寮に続く渡り廊下を、余裕なく歩いていた。その日の午後は風が涼しく心地良かった。ふと強い春風がわっと吹いた。散りかけていたわずかな桜の花弁がくるくると舞い上がり、思わず顔をそらした先に、千代はいた。千代は花壇のそばに腰掛け、本を読んでいた。ばらばらと急くようにページを進ませる風にあおられながらも、集中を切らさずに熱心に読み続けている。ひどくひたむきなその姿に吸い寄せられるように近づくと、千代は顔を上げてあたしに笑顔で挨拶をした。
「こんにちは。心地の良い風ですわね。」
「ああ、そういえば、大変涼しいこと・・・・・・。あなたは千代さんね。」
あたしが名前を呼ぶと、千代はびっくりした顔をして、そのあととても嬉しそうに微笑んだ。
「はい、わたしは千代です・・・・・・。あなたは、文さまでいらっしゃいますわよね。初対面で話すことではないかもしれませんが、実はわたし、この女学校に入ってからずっと文さまに憧れていましたの。一年生の間でも文さまは文武両道、眉目秀麗で有名でいらしたのですけれど、皆が寮へ帰った後も図書館で熱心に勉学に励んでいらっしゃる姿を偶然お見かけしたことがあって。文さまは才能だけでなく、努力の人であると知ってからずっと、密かに憧れておりましたの。わたしは身体が弱く、授業も休みがちで、勉学も武芸もあまり得意ではなくって。でも、文さまの努力を知ってから、そんなものはただの言い訳なのだと思いなおしました。それからは、どれほど授業を休んでも追いつけるように努力を重ねておりました。わたしも文さまのようになりたくて・・・・・・。だからこうして声をかけていただけて、嬉しいのです。でもまさか、文さまがわたしの名前まで知って下さっているなんて。」
あたしは驚いて、そして喜んだ。皆、あたしのことをもてはやしても、才や家柄に恵まれていらっしゃると言うだけで、努力の部分を見てはくれなかったから。もっとも、見られないようにしていたのもあるけれど。でもその努力をまっすぐに褒められるというのは、存外嬉しいことだった。
「あなたが正直に伝えてくれたから、あたしも正直に申し上げるのだけれど、そう言っていただけると、心が舞い上がるようですわ。同級生たちも、先生も、両親も、皆あたしの家柄や才能は見ても、あたし自身を見てはくれなかったから・・・・・・。初めてありのままの自分を認められたようで本当に嬉しい。ありがとう、千代さん。」
千代はそんな、と戸惑いながら、でも心底嬉しそうな顔をして言った。
「なんだか、憧れの文さまのほんとうを独り占めしているみたい。独り占めついでに、文さまのことを文ねえさまと呼んでも良いでしょうか?これも運命かと思うのです。どうか。」
恥ずかしくて言えはしなかったけれど、あたしも千代を気にしていたから、そんな奇跡のような提案を受ける以外の選択肢は見あたらなかった。
こうしてあたしたちは出会った。こんなにあっけない、ありふれたはじまりだったけれど、互いを知っていくほどあたしたちは離ればなれだった花の花弁のように、ぴったりと当てはまり、寄り添い合えた。会える日は毎日会った。会えない日も欠かさずノートを交換して、その日あったことや、お互いに伝えたいことを書いた。そうして過ごしていると、繊細なほどに千代の心根をよく知ることができた。儚いと思っていた表情が、面白いほどころころ変わること。案外気の強いこと。そのどれもが愛おしかった。千代は可憐さや儚さを求められていた。聡い彼女はそれを受け入れ、演じていた。あたしも、強くまっすぐな人間であることを求められ、演じていた。ふたりはお互いを、ただひとつの人間として見つめた。あたしは皆が思っているよりもっと、情けなくて強がりだった。だけれど千代といるときだけは、飾り気のない、ほんとうの弱いままのあたしでいられた。千代も、あたしといるときだけは、ただおてんばでまっすぐな少女だった。
あたしが女学校を先に卒業した後も、関係は続いた。手紙を送り合い、人目を盗んで会うこともあった。単なる女学生同士の憧れというものを超えて、あたしと千代は真に愛し合っていった。
ある日だった。お母様が、あたしと千代の恋文を見つけ、お父様に知らせた。お父様はエスである女学生二人が心中した事件を引き合いに出してあたしを激しく責めた。
「ただの姉妹関係のようなものだろう。」
お父様がそうであってほしいというように尋ねた。
あたしは千代への気持ちに嘘はつきたくなかった。
「いいえ、お父様。あたしは千代を愛しています。ただ流行に流されたのではありません。あたしは、あたしは千代を心から愛しております。」
言い終わらないうちに、お父様は右手を振り上げていた。次の瞬間、あたしの左頬に痛みが走り、床に倒れる。思わず涙が出てしまう。しかしそんなことで屈するようなあたしではいたくなかった。
「そうやってお父様はあたしを力で支配しようとするのだわ。たとえ千代と添い遂げることができなくとも、あたしは千代に心のすべてを捧げます。きっと何十年と長く生きさえすれば、遠い先には彼女と愛し合うことをとがめる人もいないはず。知らない殿方と結婚する気もございません。」
お父様はあきれたように天を仰いで、「お前は社会というものをわかっていない」と言った。
「周囲の人間がわが家をどういう目で見ると思う。若い女が結婚もせず、ましてや女同士で愛し合うだと?そんなこと、誰が認める。そんな未来など来ない。それにお前を貰ってくれる人はもう決まっている。お前がなんと言おうとも、結婚は取りやめない。」
そう吐き捨てて、お父様は部屋からあたしを追い出した。
お母様はあたしに寄り添って、お父様がああ言うのはあたしが心配だからだと言った。いっときの感情で女二人心中されてはたまらない、とも。
あたしだって、すべてをくだらないと吐き捨てたかった。お父様の言う社会や周囲の人間の目線なんてくだらない。お母様の言ういっときの感情だなんて決めつけるような言葉もくだらない。あたしたちのことを、なにも知らないくせに。どれだけ愛し合っているのかも、どれだけ固い意志であるかも知らずに。だけれども、二人が言うことは間違いではないことも分かっていた。今のこの世の中では受け入れられるのが難しいことも、好奇の目にさらされることも。そして、娘を心配する気持ちも。
虚栄心や反抗心が微塵もないわけではなかったと思う。それでも、恋というものも愛というものも、どんな人を見ても実感のなかったあたしが、千代と出会ってからはすべてが手に取るように分かった。それは嘘偽りなく、確かに愛だったのだ。
私はこれが最期と覚悟して、両親の目を盗み、千代に手紙を出した。私にはあまり時間は残されていないこと、こんなことになるならあなたと共に逝きたいということ。だけれども、千代の未来を無理矢理奪うことはしたくない、ということ。お千代の気持ちが聞きたいと書き添えた。私は正直、自分のこの気持ちが、千代と同じではないかもしれないと思った。拒絶されるとまで考えていた。ところが、予想に反して千代からの返事はすぐに返ってきた。
手紙にはこう記されていた。
「文ねえさまへ
文ねえさまのお気持ち、あなたひとりだけではありません。わたしも、ねえさま以外の人と添い遂げるつもりは微塵もございません。わたしと同じ気持ちでいらしてくださること、信じられないほどに嬉しいです。ねえさまとなら、どこへでも付き添い逝きます。
学期末に少し家へ帰りますので、その時に決行いたしましょう。
再来月の末日、夜にこっそりお迎えにあがります、その心積もりでいてくださいまし。
お慕い申しあげております。あなたのお千代より」
あたしはその手紙を抱きしめた。千代が同じ気持ちでいてくれていることがこんなにも嬉しいなんて。ああ、あたしたちはきっとこの愛を貫く。そうしてでも、この世界に抗って見せたかった。
小石をひとつ、またひとつと呑み込んでゆく。
これなら死んだ後、川の水面に上がってくることはないね、と千代は笑った。
真冬の川はもうまるきり静まりかえっている。その姿はたいそう美しく、楽園があればこんなふうだろうと思った。天上から差し込む光は木漏れ日のようと言うべきか。蛍の光と言うべきか。その美しい景色が、今はなぜか不気味にも思われた。あたし、死ぬのが恐ろしいのかしら。
あたしはそんな気持ちをごまかすように、あえて脳天気に言った。
「ねえ、お千代。見てちょうだい。夜の川というのはこんなにも美しかったのね。あたしたちは死ぬよりも悲しく、どうやってもいられない孤独に苛まれていたというのに、この川はこんなにも綺麗に光ってあたしたちを祝福するようだわ。今際の際の景色がこのような美しいものでいいのかしら。それをあなたと二人で見られるだなんて、もしかしたら神様が、あたしたちがあんまり可哀想だから、後生だと思われて、この楽園をくだすったのかしら。ああ、本当にそうならどんなに幸せなことだろう。死が二人を分かつとも、きっと来世で巡り合えるわ。死がこんなにも安らかなものだなんて。」
思ってもみなかった。あたしは小石を呑んでキリキリと痛む喉で話す。うっすらと血の味がする。千代はあたしに微笑む。その笑顔が、夜の川に負けず劣らず美しくて、それでいてこれから訪れる悲劇をたたえているかのような儚さがあたしの目に焼き付いて離れない。こんなに綺麗なあなたと、もう離れなくて良い。やっと二人は遂行する。これはあたしたちだけの祝言の儀だ。誰にも邪魔されず、誰にも引き裂けない。あたしたちは、あたしたちとだけ結ばれる。お父様やお母様にさよならを告げる。千代の細くて壊れそうな手を握り、恐ろしく冷たい川の水に足を浸してゆく。ざぶざぶと進んで、華奢な体のわたしたちは川の流れに負けそうになる。
「ここじゃあ、沈めませんわ。もう少し深いところへ行きましょう。」
千代が言う。
あたしは大きく頷く。足がつかなくなってきたところで、寒さからなのか、いよいよ死んでしまう恐怖からなのか、あたしの手が震える。すると千代は、病的なほどに細いその手でさすってくれる。
「怖いね、文ねえさま。」
あたしの心を見透かしたように千代が言う。
あたしは怖くないと強がって見せた。お千代と一緒なら。嘘をついたわけではなかった。紛れもなく本当の気持ちだった。あたしたちは二人見つめ合う。
「ふたりでゆこうね、約束よ。わたし、文ねえさまと、いいえ、文とこんな形でも一緒に終われることがとても嬉しいの。怖いのも本当だけれど、ねえさまがわたしの知らない方と一緒になる所なんて見られはしないから。わたし、そんな文ねえさまを見たらきっと出家でもして、一生他の誰かと結婚せずにいられるようにしてしまうと思うの。でもこんなの、わたしのお父様が許すはずがないわよね。」
そう言って、千代は目尻に涙をためて目を細めた。
「でもわたし、きっとこれから生きたとて、ねえさま以上に愛せる人は絶対に現われないって言えるの。未来を見たわけでもないのに、おかしいって思うかしら。それでもね、わたし、ねえさま以外とは手だって繋ぎたくないの。ずっと、恋だって愛だって何が何だか分からなかったわたしに、すべてを教えてくれたあなたと、誰が認めてくれなくたってずっと一緒にいたいの。」
そう言って千代はいよいよ泣き出してしまう。あたしはそんな彼女を水に抗って無理矢理抱きしめた。
「あたしもね、お千代。同じことを思っていたの。恋も愛も、分からなかったあたしに、お前が全部教えてくれた。お千代が笑えば嬉しく、お千代が泣けば悲しくて、同じの気持ちがたくさん生まれることが心から嬉しかった。好いてくれるお千代が愛おしかった。この気持ちを皆に認めさせたかった・・・・・・。あたし、どこへも行かないわ。ずっとずっと、千代と一緒。約束よ。愛しているわ。」
あたしたちは、最初で最期の口づけを交わす。初めての愛する人との口づけは、そこから溶け出してひとつになってしまえるような気がした。あたしはきっとこの瞬間を忘れない。千代の熱い唇も、この涙でいっぱいの茶色い瞳も。あたしたちは手を繋ぎ、最期の息を吸った。
川底に沈む。ああ、幸せだ。お前と共に生きることのかなわないこんな世の中を捨て去って、一緒に死ねることが、とてつもなく嬉しい。今この瞬間だけは、きっと世界でいっとう幸せなふたりに違いなかった。
不意に、千代の手の力が抜けて、あたしの手をすり抜ける。あたしは目も開けられなくて、手探りで千代を探すけれど、いくら探そうともそこに千代はいない。とたん、今までの、何か熱いものが冷え切り、あんなにも美しかった川は、ただの真っ暗な穴の底に変身してしまった。息が苦しい、と気付く。死んでしまうのか。千代と共に逝くならばどこだってよかった。極楽でなくても、地獄でも。だのに、一緒に逝けずに終わってしまうのか。伝えそびれた思いが行く当てもなく身体中で暴れのたうち回り、醜い虫のような脈がうぞうぞと皮膚を這う。胎の中の無数の小石が、あたし一人を地獄へ引き込んでゆく。
開かれた目が水面に浮かぶ屍体をとらえる。千代であったものは、冷たい川にぽっかりと浮かんでいる。名前を呼べば届く、いつもと同じあの優しい声色で「どうしたの、文ねえさま。」とこちらを見てくれるはずなのに。多すぎる想いが冷え切った身体を、ふたたび苦しいほどに熱くする。身体を蝕まんとするその不快な熱は、吐けども、吐けども、喉元にからみついてキリキリと首を絞める。ああ、どうして声が届かないのだろう。何を伝えたかったのだろう。せめて、せめてそばにいてくれさえすれば、少しは救われたのに。死のほんとうの恐ろしさを知らず、冷たさを知らず、神はいると、必ず報われるときが来ると、夢を見ながら逝けたのに。
嗚咽。
私はついに、すべてを見た。あの日、私がすべて見たと思っていた夢の、ゆがめられていないほんとうの姿を、彼女の恨み以外の感情を、見た。長いこと眠っていたようだった。恋人がキッチンで夕食を作る音がする。その音が愛おしくて、幸せで、だのに、文と千代のどうしようもなく悲しい終わりを見たためか、今でもあの頃となにも変わっていない社会のためなのか、言いようのない深い悲しみが襲う。どうしてあの二人はこんな悲しい結末を選ぶしかなかったのだろう。いや、時代に選ばされたのだろうと思う。だからとて、今も何も変わってはいないのだ。私たちだって、人目を気にするし、一緒に住む家を探すのだって苦労した。結婚だってこの国ではまだできやしないのだ。あの人たちと私たちの何が違ったのだろう。何も違わない、と思う。時代がこんなに違っても、置かれている状況は何一つ良くはなっていない。文と千代は未来に希望を託して死を選んだ、でも、こんな代わり映えのしない未来でごめんなさい。私たちだって、あなたたちと同じ道を選ぶかもしれない。すべてに絶望して。
すすり泣く私の声に気付いたのか、恋人が調理をやめてキッチンからリビングを覗いてきた。思っていたより私が泣きはらしていたためか、心配そうにこちらに寄って、その華奢であたたかい身体で、私を抱きしめる。
「どうしたの、冴。」
私はどうしようもなくなって、雪にすがりつく。こんなに幸せでいいのか、私は。ただ少し、生まれた状況が違っただけで、彼女たちを差し置いて、あたたかい部屋で、雪に抱きしめられて。
「雪、私、もうどうしたらいいのかわかんないよ。どうしてあの二人はこんな悲しい終わりを選ぶしかなかったのに、私たちは、今、すごく幸せなの。おかしいよ。どうして、何も違わないのに、どうして。」
明らかに支離滅裂だった。伝えたいことが山のようにあるのに、しゃくり上げてしまって、うまく伝えられない。だのに、雪は黙って頷いてくれた。
「私、川へ行きたい。」
夜の川は静まりかえっている。
小さくて寂れたこの川は、その水面の光に悲しみをたたえている。それが切なく、美しく見えた。今はこんなに寂しい川も、あの頃はもっと水も綺麗で美しい川だった。今のこの川は、あの二人の無念や怒りを呑み込んで濁ってしまったのだろう、となぜかそう思った。
ぼうぼうと草の生えた川縁を慎重に降りて、白い小石が敷き詰められた川辺を、ふたりでゆっくりと歩く。遠くから車の走る音が聞こえてくる以外は、とても静かな夜だ。
しばらく歩いて落ち着いた私たちは、その辺に座る。私は彼女に少しずつ、文が伝えてくれたことを話す。あの夢の主は文といって、彼女には愛する千代という女性がいたこと。二人はどんなひとで、どんなところに惹かれて、どんなふうな悲しみを抱えていたのか。そして、二人と私たちは何も変わらないと感じたこと。それなのに私たちがこんなにも幸せなのは不公平だと思ったこと。雪は、その綺麗な茶色い瞳で私を真っ直ぐ見つめて、話を聞いてくれた。
「そっか、そうだったんだね。」
繋いだ手を、雪がいっそう強く握る。
「私、あの子たちを差し置いて幸せな今に腹が立つ。あんなに大好きな人同士だったのに、時代や環境に心中を選ばされて、結局最期には一緒ではいられなくて、どれだけ無念だったろう。どれだけ絶望したんだろう。そう思ったら、今だって何にも変わっていなくて。どうして好きな人同士で愛し合うだけで、周りの目を気にしないといけないの。雪のこと、親にだって会社にだって、恋人だってごまかして言って、本当は、わたしの好きな雪はこんなに綺麗で優しい素敵な彼女だって、みんなに自慢して回りたいよ。どうしてあんな目で見られなくちゃならないの?私たちが社会に負けずに幸せになったって、いつもないがしろにされる。いつだっていないものと扱われる。これからもそんな日々が続いて行くと思ったら、私だって、もう雪と死んじゃいたい。」
黙って頷いていた雪が、急に私の腕を強く引っ張った。今までこんな風に触られたことがなかったから、驚いて涙がぴたっと止む。雪は怒っているのか、悲しんでいるのか、なんとも言い難い表情をしていた。
「冴、あんた本当に死にたいだなんて思ってるの?わたしと過ごした日々はその程度だったの?何、負けるって。勝ち負けなんてないでしょ。冴が言いたいことは分かるけど、痛いほど分かるけど、分かりたくなんかないよ。わたしは冴と一緒に暮らせたこの一年は、人生で一番幸せだった。これからも一緒に生きていたいよ。周りに言えないから死ぬの?周りに認められたくてわたしと住んでるの?違うよね、そんなもんじゃないでしょ、わたしたちって。わたしは冴と好き同士になれて、こうやってなんでも話せて、ぶつかり合ったり、相手のこと全部分かるような気がしたり、全部が幸せだよ。周りがなんなの?ふざけないでよ!どこの誰か知らないやつにわたしたちの人生、口出しなんてさせないよ、否定だってさせない。認められたい気持ちはわたしにだってある。結婚だってして、冴と家族になりたいよ。だけど、だけどそんなことのためだけに、わたしとの生活、捨てるなんて言わないで。わたしとの生活が、一番大切だって言ってよ。未来だってどうなるか分からない、わたしたちが生きて、ここにいるんだって証明することで、変わることだって、あるかもしれない。勝ち負けとか認められたいって冴が言うんなら、言いたいこと言えずに死ぬことが、一番違うよ。それじゃ冴が望むもの、何一つだって手に入りやしないよ。ねえ、わたしと生きて、生きて認めさせてやろうよ。欲しいもの、全部手に入れて、もっと幸せになろうよ。わたしのわがままかもしれないけど、わたしが間違ってるかもしれないけど、お願い、死にたいなんて、言わないで、わたしを信じてよ。」
雪は、綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして、そう言った。
私は思い出す。雪と初めて出会ったあのキャンパスの、通りの木々の揺れる音を。雪を好きになった、あの言葉を。思いが通じ合った、あの夕暮れの真っ赤な空を。二人で行った、どれもこれもが美しい思い出の場所たちを。雪に貰った、たくさんの言葉たちを。全部がかけがえない瞬間だった。地元では、自分にも周りにも嘘をついて、生きている実感もないままだったな。もう、誰にも嘘をつきたくなくて東京に来たのだった。確かにつらいこともたくさんあった。唇をかみしめたことだって何回も。それでも、それでも。雪と過ごしたあの日々は、どんな一瞬も、幸せだった。つらいことに目をくらまされて、私は大切なことに見ないふりを続けていたのかもしれないね。
私の人生は、そんなに悪くはなかった。かけがえのない一瞬一瞬をかき集めて抱えたら、きっと悲しかったことなんて見えなくなるくらい、抱えきれないほどにたくさん溢れて、どうしようもなくなってしまうほど、幸せなのだった。
「雪、ごめん。ごめんね。私、本当は死にたいだなんて、言いたいわけじゃなかった。私も雪と一緒にこれからずっと生きていきたくて、でも悲しいことが多すぎて、全部諦めてしまいそうだった。未来に不安がないわけじゃない、でも、私、雪を信じたい・・・・・・。雪を信じてる。こんな世界だって生き抜いて、私たちのこと、認めさせたいよ。」
私のすべてが悲しみ一色でなかったように、文だってそうだったのじゃないか。亡霊となってしまったからと、文の人生のすべてが悲しく、むなしく、恨めしいものだったと決めつけていたのは、私自身じゃないか。私が文だったら、愛する千代が一人で苦しんで、誰にも見つけられないままで居続けなくてよかったと、思う気持ちもあったのじゃないか?
私たちひとの感情が、思いが、常にひとつではないように。ただ、様々な思いが、そこには確かにあったのだ。文の恨みも、悲しみも、幸福も、そこに存在した。私の気持ちがめちゃくちゃに混在してしまったように、文もそうだったのかもしれない。
文が亡霊になってしまった事実は変えられない。それでも、変えられなくとも、悲しみはどうにもならないとしても、文と千代というふたつの命が生きて存在していた、ということのかけがえのなさだって変わることはない。悲しくても、それがすべてだ。
「私、文のことも、千代のことも、忘れないよ。ずっと覚えている。ずっと想っているよ。だからって、あのふたりの悲しい事実は変えられない。ほんとうの意味では分かってあげられない。私たちは、同じようで違うから・・・・・・。だけど、それでも、分かりたいと思って、あの子たちのことを知ることができて、良かったと思うよ。」
雪が私を抱きしめる。それは強く、優しく、そしてとてもあたたかかった。
あたしの身体はずっと川底に沈んだまま、変わり果てたその姿を川の上から黙って見ていた。どれだけ経ったのだろう。それはそれは長い間そうしていた。あの日から、あたしの気持ちは絡まったままで、どうしてか恨めしかった。とっくの昔に、理由は忘れてしまった。
川も、町も、ずいぶん変わってしまったようだということだけが分かった。川は濁り、人は誰も近寄らなくなってしまった。あたしのことを、誰も彼も忘れ去ってしまったように感じて、孤独だった。
ある年の春、近くの家に女性ふたりが移り住んできた。ふたりは恋人同士のようだった。あたしはそのふたりがどうしても気になって、ひっついてまわった。なぜ気になったのか、自分でもその理由は明確には分からなかった。だけれども、どうしてもそのふたりの生活を見てみたかった。あの時よりずいぶんと進んだ先で、あたしのようなひとたちがどう生活しているのかを知りたかったのかもしれない。
ふたりは共に働き、疲れて帰ってくると、助け合って家事をこなし、共に食卓を囲んだ。そのすがたはあたしにはとても眩しくて、うらやましかった。今この国では、女ふたりだけでも立派に生きていけるのだ。あたしが生きたころとは見違えるほど、自由に、女性が生きていた。
あたしは、もし今のこの時代に生きることができていたら、どんなに幸福だろうと思った。目を閉じて、たくましく生きるあたしを想像する。したい仕事をして、好きなひとと支え合って、毎日を生きていく様を。なぜか心がじんわりとあたたかくなる。それと同じくらい、恨めしく思った。その気持ちは、恋人の片割れに伝わっていたようだった。片割れ、冴という名の女性は、日に日に衰弱していった。あたしには冴を傷つけるつもりなどなかったけれど、今のあたしは生きたひとには劇薬のように作用するのだと気付いた。そう分かっても、なぜか彼女たちから離れることは出来なかった。傷つけてしまってもなお、どうして川には帰らないのだろう。あたしは必死に呼びかけた。あなたたちを傷つけたいわけじゃない。こんなことは望んでいない。こうしていることは、あたしにとってもつらく、心が痛い。だけれども、あたしはまだ、ふたりを通してありもしないもしもを想像することがやめられないだけなのだ、と。これが未練というものなのか。あたしは自身を恨んだ。どうしてあの川に留められることになってしまったのだろう。どうしてずっと恨めしい気持ちを持ち続けているのだろう。
あたしがそうやって自分を責めはじめたころ、冴があたしに呼びかける声がおぼろげに聞こえてくるようになった。あたしはすがるように彼女の声に耳を傾けた。冴はあたしに問うた。あなたの名前はなんと言うの。あなたはどんなひとなの。あなたは、どんなふうに生きたの。そう尋ねられて初めて、あたしはあたし自身の生きた記憶を忘れていたことを悲しく思った。今まで忘れたことをなんとも思っていなかった。だけれども、彼女が問いかけてくれた問いに、どうしても答えたいと思った。
目を閉じ、束の間思いを巡らせる。ふと、ちよという言葉が思い浮かぶ。心地が良くて心の中で繰り返す。ちよ、ちよ・・・・・・。お千代。とたん、あたしは熱い唇を思い出す。茶色い瞳の、涙でいっぱいのあの子を思い出す。ずっとずっと忘れていた。あんなに大切なひとの名前を、唇を、瞳を。あたしは千代を愛していた。お千代、ごめんなさい。忘れないと心に誓ったのに、あれほど愛していたのに。あたしが愚かなばかりに、こんなに長いことあなたを忘れてしまっていた。千代が知ったら、どんなに怒るだろう。どんなに悲しむだろう。だけどきっと、どんなに怒っても悲しんでも、最後には千代は「酷いわ、うっかりさん」と笑って許してくれるのだろう。理由はないけれど、確信を持ってそう思った。
お千代、聞いてほしいの。今、この国で、こんなに幸せな恋人同士がいるの。そのひとたちは、冴と雪というの。女性が、好きな仕事をして、好きなひとと好きに生きて、支え合って寄り添い合うことができるの。冴の呼ぶ声が、ふたりの生き方が、千代を思い出させてくれたのよ。あなたと生きた日々をも。
あたしは、冴に語って聞かせる。あたしの名前は文と言うこと。あたしは見栄っ張りで、自分のやわい所を見せたくなくて、弱いなりにも周りに立派な人間だと認められたくて、嘘で塗り固める生き方をしていたこと。そんなふうに生きてきたあたしのほんとうを知ってくれたひとがいたこと。そのひと、千代の隣でだけは、なにひとつ飾らないただのあたしでいられたこと。そんな千代を、心から愛していたこと。ふたりで選んだ、悲しい最期のこと。
冴は黙ってそれを聞いていた。まっすぐにあたしの悲しみを受け取ってくれた。だけど、あまりにもまっすぐ受け止めたものだから、あたしという劇薬のために、冴は雪との死を望んでしまう。彼女は今この国であたしたちのように生きることで生じる苦しみに、心がいっぱいになってしまったようだった。こんなに自由に思えた時代でも、あたしが知らない苦しみがまだ存在することに、あたしも絶望する。こんなに先の未来でも、まだあたしたちは好きに生きられはしない。悲しみで溢れる。結局、どんなに未来に期待をしても、何も変わりはしないのね。
あたしと冴は、あの日最期を迎えた川で、共に涙する。共に心を塞いでいく。ああ、千代。未来に希望を託してひとり逝ってしまったお千代。やはり、お父様が言ったことは正しかったのだわ。誰もあたしたちを認めてくれはしない。きっと“いつか”なんて来ることはない。馬鹿なあたしをどうか許して。あの選択は、あたしの過ちで、そのせいであなたは、死ぬことはなかったのに死んでしまった。あたしの甘い考えで、死を選ばせてしまった。ごめんなさい。愛してしまった、あたしを許して。
とたん、雪が冴の腕を強く握る。雪は冴を生に繋ぎ止めようと必死に言葉を紡ぐ。その言葉は、冴の心の絡まった感情たちを、ひとつひとつほどいてゆく。雪の言葉が、冴の心の声が、あたしの感情の絡まりをもほどいてゆく。ああ、なんだ。生きて幸せになりたかったのか、あたしは。死を選ばずとも、誰にも認められずとも、どこかに逃げて、ふたりで生きていきたかったのか。それが叶わない願いだと分かっていても、もしかしたらそう生きられたかもしれない。そんな未来があったかもしれない。少しでも良かった。少しでもその希望に賭けて生き抜くことを選んでいたら。どんなにつらいことがあっても、このふたりのように、千代とふたりならどんなことでも乗り越えられたはずなのだ。あのときのあたしは悲しいことが多すぎて、心も頭もくらんでしまったがために、その先にあったかもしれない未来を選ぶことができなかった。なんと若かったのだろう。その若さで自分の未来も千代の未来も奪ってしまった。だけれども、千代がここに留められることはなくて本当に良かった。せめて千代だけは、美しいあなただけは、美しい場所にいてほしい。未来を奪ったあたしが言えたことではないが、そう思うのだ。
あたしが恨めしく思っていたのは自分自身、そしてあたしが選択した最期だった。そのためにこの川という地獄に留まっていたのだ。なにもあたしの人生すべてが悲しく恨めしかったわけではなかった。千代と過ごした幸福な日々は、人生の中ではたった数年だったかもしれない。だけれどもその日々は、千代がいなかった平凡な代わり映えのしない日常をすべて包み込んでしまうほどに大きな幸せだった。宝物のような日々の価値を見誤り、悲しんでいたあたし自身の、なんと自分勝手なことよ。
あたしひとりだけではほどけなかった感情の絡まりも、雪が冴を引き留めた声で、冴があたしを想ってくれた声で、こんなに簡単にほどけてしまった。ああ、あのときあなたたちがそばにいたのなら、こんなことにはならなかっただろうか。だけれど、どんなにもしもを唱えても、もうなにもかもが手遅れで、意味がない。あたしにできることは、こんなに大切な千代を思い出させてくれた、自分のほんとうに気付かせてくれたあなたたちの幸せを願うことだけだ。きっとあなたたちなら大丈夫。生き抜いて、世界に認めさせることができる。何十年も変われなかったあたしでさえ変えられた。ひとが変わるように、町が変わるように、少しずつ、少しずつ、これからもこの世界は変わってゆくのだろう。そう信じてもいいよね、お千代。
あたしは未だ川底に眠っている。あれからずいぶんと経った。町は変わり続け、ひとも変わり続けている。世界だって、目まぐるしいほどに変わり続けてゆく。川はかつての活気を取り戻し、あたしは孤独ではなくなった。毎日、川沿いを行き交ういろんなひとの人生を垣間見ていたから。ふと、身体を涼やかな風が吹き抜ける感覚がした。
「文ねえさま。」
あたしの耳に、待ちわびた、懐かしい声が聞こえる。目を開き見上げた先は、見たことのないくらいにきらきらと輝く青い空が、あの日の、千代に出会った日の、桜が舞い散る空があった。