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そして誰もむずかしいことばをつかわなくなった

    武智倫太郎

    第一章 やさにち強制法

     二〇三〇年六月、日本国会は新たな法律を可決した。正式名称は『言語平易化基本法』。だが誰もその長い名を使わなかった。人々の口に上ったのは、柔らかく短い通称『やさにち』。
     四音節の響きは、安心感と従順さを同時に呼び起こすよう綿密に設計されていた。

     議場の空気は乾いていた。反対討論は形だけで終わり、木槌の音は冷房の低い唸りに飲み込まれた。議員たちは、これが社会に何をもたらすかを考えようとはしなかった。『やさしい』という言葉がもたらす幻の安堵感だけが、判断の代替となった。

     壇上に立った政策最高顧問の松尾博士は、朗らかな口調で語った。
    『ひらがなは曖昧だ。カタカナのほうがAIにはわかりやすい』

     そう言いながら、彼は一枚のポンチ絵を掲げた。
     そこには『AI → 叡智』『人間 → やさしい』とだけ太い矢印で結ばれていた。中央には大きく『誤解ゼロ社会』と赤字で書かれている。説明はそれだけだった。

     議場はざわめいた。だが数秒後には、驚くほどの一体感で頷きが広がった。
    『なるほど、AIが叡智を担い、人間はやさしくなればいいのか』
     国会議員たちの顔には、安心と納得の色が浮かんでいた。

     松尾博士の言葉はさらに簡略化された。
    『AIが賢い。だから人間は賢くなくていい。賢くない人間は、やさしくなる。それで社会は調和する』

     その論理に疑問を挟む者はいなかった。挟めるだけの語彙が、もはや失われていたのだ。

     こうして『AI・叡智・人間・やさしい』のポンチ絵一枚で、国家の方向は決まった。
     博士の脳も、議員たちの脳も、もはや深い思考を行う回路を失っていた。
     残っていたのは、単純化された矢印を追うだけの視覚反射。

     その夜、議場の冷房の唸りに混じって、誰かが呟いた。
    『説明がわかりやすかったなあ』
     だが、それは説明ではなく、ただの退行のサインに過ぎなかった。

     やがて『やさにち監視庁』、通称『やさ庁』が設立され、初代長官に任命されたのはシンジローだった。彼は国会で誇らしげに宣言した。

    『我々の仕事は検閲ではありません。検閲ではなく、誤解を予防することです。誤解を予防するとは、誤解が起きないようにすることです。そして、誤解が起きない社会とは、誤解が存在しない社会です。つまり、誤解のない社会こそ、理想の社会なのです』

     議場にざわめきが走った。意味は誰にも掴めなかった。だが『誤解のない社会』という響きだけは心地よく、拍手が起きた。

     シンジローはさらに畳みかけた。
    『誤解が存在しない社会とは、誰もが同じように理解している社会です。誰もが同じように理解している社会とは、誰もが同じ考えを持つ社会です。誰もが同じ考えを持つ社会とは、異論が存在しない社会です。異論がない社会とは、安定した社会です。そして安定とは安心です。安心とは、誤解がないということなのです』

     論理は円を描いて元に戻った。だが、それを指摘できる言葉を持つ者はいなかった。

     与党議員は机を叩いて喝采し、野党議員すら反論を忘れて拍手した。記者席のペンは走ったが、記事に載ったのは『長官が力強く方針を語る』の一文だけだった。批判は文字通り削ぎ落とされた。

     こうして、空虚な言葉がもっともらしい正しさへと転じる瞬間が訪れた。
     国民の机には『やさにちくん』と名付けられた端末が配布され、文章を入力すると赤字の警告が表示された。
    『硬すぎる』『むずかしすぎる』『やわらかくしましょう』
     赤を消すことは義務ではなかった。だが、不潔な染みを残したままにできる者はほとんどいなかった。

     数か月もすれば新聞から漢字は消え、テレビのテロップはすべてカタカナに変わった。保険広告からは四字熟語が姿を消し、教室では子どもたちが声をそろえて叫んだ。
    『ワレワレ ワ ニホンジン ダ』

     かつて思想家であった人々も、やがて言葉を奪われていった。『自由』と書かれた論文は変換後『ジユウ』と記され、そこに込められた厚みや矛盾は消え失せた。著者が再教育センターへ送られるころには、彼の脳裏にも『ジユウ』しか残っていなかった。

     やさしい日本語は、やさしい圧力と結託した。
     言葉の角を削り取れば、思考の角も削り取られる。
     そして国民は、その削り取られた事実にさえ気づかなくなった。

    第二章 カタカナの支配

     法律施行から三か月、東京の街並みは目に見えて変貌していた。
     駅前の看板も、商店街の暖簾も、旧来の表記から次々とカタカナへ置き換えられていった。

     かつて『寿司』と染め抜かれていた暖簾は、白い布に『スシ』と機械的に印字されていた。墨の濃淡が誘っていた食欲は消え、ただ単調な線が残るだけだった。
    『味が薄まったようだ』と呟いた老人もいたが、すぐに口を閉ざした。沈黙のほうが、言葉よりも安全だった。

     やさ庁のシンジロー長官は、記者会見で誇らしげに数字を掲げた。
    『公共サインのカタカナ化率は六八パーセント。目標の七割達成は目前です』
     長官の目には満足の色があった。彼にとって社会は『理解度を測定する実験場』だった。測定できるものは管理できる。管理できるものは、統治できる。

     新聞社の編集室では、記者たちが疲れ果てていた。原稿を入力すると『やさにちくん』が容赦なく赤字をつける。
    『経済危機』は『ケイザイ キキ』に、
    『国際紛争』は『コクサイ モメゴト』に。
     修正を拒めば、配信システムそのものが記事をはじく。拒否された記事は、社会的には『存在しなかった』ことになる。

     市民の多くは、この変化を歓迎した。
    『漢字がなくなったら新聞が読みやすくなったよ』
    『ニュースがスラスラ頭に入る』
     だが、彼らの頭に入っていたのは、削ぎ落とされた骨格だけだった。肉も血も匂いも消えたニュースは、ただの骨標本に過ぎなかった。

     一方、子どもたちはすでに新しい環境に馴染んでいた。小学校の黒板には大きく『コンニチワ』と書かれ、教師が発声を促す。
    『コンニチワ!』
     子どもたちは声をそろえた。
     誰一人として、『今日は』と書かれた黒板を知らない世代だった。

     家庭にも変化は広がった。母親は『勉強しなさい』と言わず、『ベンキョウ シナサイ』と書かれたプリントを子の机に置いた。父親は『危ない』と叫ばず、『アブナイ』と声を張り上げた。感情でさえ、表記に従って均質化していった。

     やさ庁のAI監視システムは、SNSやメールを常時スキャンしていた。漢字や複雑な表現を用いた投稿は、数秒で『注意表示』とともに差し替えられた。
     ある若者がSNSにこう書き込んだ。
    『愛とは何か』
     即座に画面に変換提案が現れる。
    『アイ ト ワ ナニカ?』
     フォロワーたちは違和感なく読み、すぐに別の投稿へと流れた。

     その瞬間、『愛』という漢字が抱えていた重みや歴史や匂いは、社会全体から一片削られていた。
     人々は気づかぬまま、日ごとに軽く、浅くなっていった。

     街路樹の影には、まだ逆流を試みる者たちがいた。かつて『カンジの会』と呼ばれた小さな地下組織だ。彼らは密かにノートを回覧し、古い詩を読み合った。だが、互いの言葉が徐々に通じなくなっていった。彼ら自身の頭の中からも、漢字の輪郭が曖昧に霞み始めていたのだ。

     国家は静かに、しかし確実に成功していた。
     やさにちは『やさしさ』と呼ばれつつ、実際には思考を削る装置として社会に根を下ろしていた。
     人々は『わかりやすさ』を得た代わりに、『考える余白』を失った。

     そして、誰も抗議しなかった。抗議するための言葉が、もう社会に残っていなかったからだ。

    第三章 地下抵抗『カンジの会』

     やさにちの波が都市を覆い尽くした頃、わずかに逆流を試みる者たちがいた。
     彼らは自らを『カンジの会』と呼んだ。大学の研究室を追われた言語学者、商売を畳んだ書店主、かつて詩を書いていた若者たちは、社会の端に追いやられた者ばかりだった。

     彼らの活動はささやかだった。古びた辞書や文庫を持ち寄り、暗い部屋で声に出して読む。
    『言葉は思考の骨である』
    『自由は責任を伴う』
    『愛は犠牲の別名である』
     その響きは震えていた。意味を確かめ合うよりも、『漢字を声にする』という行為そのものが儀式となっていた。

     しかし、危険は常に背後にあった。やさ庁の監視AIは街のカメラを通じて、彼らの動作や行動パターンを分析していた。SNSも通信も完全に掌握され、彼らは紙と声だけに頼るしかなかった。だが紙は劣化する。声は消える。抵抗は儚い炎に過ぎなかった。

     ある夜、キシモト教授が漢和辞典を持参した。だが頁は湿気で貼りつき、一部は破れ落ちていた。彼は指先で慎重に剥がしながら呟いた。
    『われわれは、もう思い出すことしかできない』
     その声は仲間を鼓舞する力を持たなかった。ただ、自らの衰退を記録するだけの響きだった。

     やさ庁はすでに彼らを把握していた。AIは教授の行動を数値化し、毎夜同じ路地に現れること、同じ鞄を抱えて歩くこと、その習慣を『異常値』として記録していた。

     摘発は、唐突ではなく、無音で行われた。扉が蹴破られることもなく、黒衣の職員たちが淡々と入室し、机の上の本を回収した。抵抗はなかった。抵抗できる語彙が、彼らの口からすでに失われていたからだ。

     教授が最後に目にしたのは、一枚の短冊だった。震える筆跡で『自由』と書かれていた。
     だが職員の端末に読み取られると、即座に変換された。……ジユウ。

     再教育センターに送られた教授は、翌週、笑顔でテレビカメラに向かって語った。
    『ワタシ ワ ジユウ ヲ リカイ シマシタ』
     その目には、もはや『自由』という文字の影はなかった。

     こうしてカンジの会は崩壊した。
     だが名前だけは都市伝説のように残った。『ムカシ ムズカシイ コトバ ヲ ツカッタ ヒトタチ ガ イタ ラシイ』という曖昧な噂だけが若者の間に広がり、笑い話の種となった。

     漢字は記憶から、そして概念から消されていった。
     国民は気づかない。気づけない。なぜなら、気づくための言葉そのものが、すでに失われていたからだ。

    第四章 二重思考

     やさにちが社会の標準となって一年。
     人々は表向き『やさにち』で会話し、心の奥で旧日本語をつぶやくという奇妙な習慣を身につけていた。

     役所の窓口で市民は言った。
    『ワタシ ワ シンサ オネガイシマス』
     だが胸の奥ではこう思った。
     (審査をお願いしたい)
     口に出す言葉と頭の中の言葉が一致しない。これが『二重思考』の日常だった。

     学校の教師も同じだった。黒板に『コンニチワ』と書き、声に出しながら心の中で『今日は』と唱える。
     だが時間が経てば、二つを同時に保つことは難しくなっていった。
     子どもたちが一斉に『コンニチワ!』と叫ぶたびに、教師の頭の中から『今日は』という言葉の輪郭が少しずつ消えていった。

     やさ庁のシンジロー長官は、この現象を『順調な進化』と呼んだ。
     壇上で彼はこう語った。

    『内と外を一致させることは、内と外を一致させることなんです。そしてそれは、時間の問題です。人間の思考は習慣に従います。習慣に従う思考は、習慣に従う思考だからです。外側をやさにちで塗りつぶせば、内側も自然にやさにちに適応します。そして適応とは、つまり適応なんです』

     議場はざわめき、やがて拍手に包まれた。誰も意味を理解していなかったが、誰もが『何か正しいことを聞いた気がする』と感じた。

     シンジローはさらに続けた。
    『国民の七割がむずかしい日本語を使えないと答えました。これは不便ではなく成功なんです。なぜなら、使えないことが、使えることの証だからです。できないことが、できることにつながる。だから、むずかしいことができないということは、やさしいことができるということなんです』

     議場は再び拍手で揺れた。
     野党議員ですら頷きながら手を叩いていた。
     意味が理解できないほど、安心できるのだった。

     一方、残りの三割は苦しんでいた。作家、学者、批評家たちは、外でやさにちを使い、内に旧日本語を抱え込もうとした。だが二重思考は脳に重荷を与え、やがて体を蝕んだ。
     眠れない夜が続き、書こうとすれば頭痛に襲われた。書きかけの原稿は『やさにちくん』に削ぎ落とされ、元の言葉を取り戻すことはできなかった。

     ある作家は日記にこう記した。
    『私は今日も二つの言語を持つ。だが一方は日に日に衰え、もう一方は日に日に増殖する。二つの声が衝突し、頭の奥で耳鳴りのように響く』

     やがてその日記の末尾には漢字が消え、ひらがなだけが並んでいった。
    『わたしはもうむずかしいことばをおもいだせない』
     最後には片仮名だけが残った。
    『ワタシ ワ モウ カンガエル コト ガ デキナイ』

     二重思考は長く続かなかった。
     外側の言葉が、内側の思考を侵食した。
     やさしい言葉は、やさしい思考を生み、やがて『むずかしい思考』を駆逐した。

     社会は静かに均質化していった。
     国民は抵抗しなかった。抵抗するための語彙を、すでに失っていたからだ。

    第五章 教育の再設計

     やさにち強制法の施行から二年。
     最も大きな変化は学校に現れた。

     国語の時間から『漢字』が消え、代わって導入されたのは『カタカナよみとり』だった。
     黒板に書かれる文字は、かつての名文ではなく、ただ単純な一文。

    『ワタシタチ ワ ニホンジン ダ』

     教師が声を張ると、子どもたちは一斉に復唱した。
    『ワタシタチ ワ ニホンジン ダ!』

     音は平板で、抑揚も乏しかった。だが子どもたちには違和感がなかった。
     最初から、それ以外の言葉を知らなかったからだ。

     教育省は成果を誇らしげに発表した。
    『児童の理解度テストは過去最高です。やさにち教育によって誤解は減りました』
     数字は確かに美しかった。
     だが、そのテストには『自由』『責任』『歴史』といった設問は含まれていなかった。

     記者会見に立ったシンジロー長官は、自信満々に語った。

    『教育の目的は、教育の目的を果たすことです。そして果たすということは、達成するということです。やさしい教育は、やさしい学びを生みます。やさしい学びは、やさしい子どもを育てます。だから、やさしい教育は、やさしい未来をつくるのです』

     会場からは拍手が湧いた。
     記者たちは意味を掴めなかった。だが『やさしい未来』という言葉だけが心地よく耳に残った。

     長官はさらに続けた。
    『難しい字を教えなくてもいいのは、難しい字を教えなくていいということなんです。わかりやすい教育は、わかりやすい子どもを育てます。わかりやすい子どもは、わかりやすい大人になります。そして、わかりやすい大人は、わかりやすい社会をつくります。だから教育は、教育なんです』

     誰も反論できなかった。反論できる語彙を、すでに持っていなかったからだ。

     教科書も変わった。
     夏目漱石も、太宰治も、川端康成も消えた。
     代わりに並んだのは、三行だけの短文。

    『オトコノコ ガ アソブ』
    『オンナノコ モ アソブ』
    『ミンナ タノシイ』

     そこに文学はなかった。
     そこに比喩はなかった。
     ただ『誤解が生じない文』だけがあった。

     保護者の多くは喜んだ。
    『宿題がわかりやすい』
    『難しい字を教えなくていいから楽だ』
     彼らは気づかなかった。子どもが『深い思考』を失っていることに。
     いや、気づくための言葉すら持っていなかった。

     こうして教育現場は、やさにちの温床となった。
     子どもたちは『旧日本語の記憶』を持たない世代として育ち、社会全体は静かに変わっていった。

     彼らにとって『自由』とは『ジユウ』であり、『責任』とは『セキニン』であり、『歴史』とは『レキシ』でしかなかった。

     その言葉には、もはや重みも奥行きもなかった。

     やさしい教育は、やさしい子どもを生み、やさしい子どもは、やさしい社会を育てた。
     やさしい社会とは、やさしい教育が生み出した社会だった。

    第六章 やさにち裁判

     やさにちの導入から三年目。
     国家は初めて『公開裁判』を全国に中継した。

     被告は『カンジの会』の生き残り、元言語学者のキシモト教授。
     罪状は単純だった。『むずかしい言葉を公共の場で使用したこと』。

     法廷は満席だった。傍聴席に詰めかけた市民は、すでにスクリーンに流れる『やさにち字幕』を当然のものとして受け入れていた。

     検察官が起訴状を読み上げる。
    『カンジ ヲ ツカイ コウキョウノ リカイ オ サマタゲタ』

     教授は必死に抗弁した。
    『私は、漢字がなくなれば思考が痩せ細ると……』
     だがAIモニターは即座に修正をかけ、スピーカーからは別の声が流れた。
    『ワタシ ワ カンジ ガ ナクナルト アタマ ガ ヨワクナル ト オモッタ』

     傍聴席からは一斉に頷きが返った。
    『なるほど、わかりやすい』
     しかしその『わかりやすさ』は、教授の言葉から厚みも痛みも削ぎ落とした空洞にすぎなかった。

     弁護士も抗おうとした。
    『被告は悪意を持っていません。社会をよくしたいと……』
     だが変換は容赦なかった。
    『ワルイ キモチ ワ ナイ。シャカイ オ ヨク シタイ ト オモッタ』

     平板な言葉は、もはや説得の力を持たなかった。

     この様子を見守っていたシンジロー長官は、傍聴席から満足げに口を開いた。

    『裁判の目的は、裁判を行うことです。そして行うことは、行われることです。言葉を変換すれば、言葉が変わります。言葉が変われば、考えも変わります。考えが変われば、社会も変わります。だから裁判とは、社会を変える裁判なんです』

     議場はどよめき、すぐに拍手に変わった。
     誰も意味を理解できなかったが、『社会を変える裁判』という響きだけが耳に残った。

     シンジローはさらに言葉を畳みかけた。
    『キシモトが不適応であることは、不適応だから不適応なんです。不適応とは適応できないことです。適応できないことは、適応しないということです。だから不適応は不適応であって、再教育が必要なんです』

     意味はなかった。
     だが『再教育が必要』という結論だけが残った。

     判決は一時間で下された。
    『キシモト ワ ヤサニチ ニ フテキオウ。サイキョウイク ガ ヒツヨウ』

     教授は引き立てられ、再教育センターに送られた。
     数週間後、彼は笑顔でテレビの前に現れ、こう言った。
    『ワタシ ワ ヤサニチ デ ジユウ オ マナンダ』

     その映像を見て、子どもたちは拍手した。
     かつて『自由』と書いた教授はもういなかった。
     残ったのは『ジユウ』と発音する一市民だけだった。

     この裁判は、国民に一つの確信を与えた。……やさにちに従えば、安全である。

     その確信こそ、国家が最初から設計していた『やさしい服従』だった。

    第七章 アルジャーノン退行

     やさにちの普及から五年。
     街は整然とし、広告はすべてカタカナに統一され、新聞は『情報シート』と呼ばれる一枚の紙に縮小されていた。

     人々は混乱していなかった。むしろ満足していた。
    『ニュースがわかりやすい』
    『ことばをおぼえるのがらくになった』
    『AIがすぐにりかいしてくれる』

     かつて二重思考に苦しんだ知識人も、今や均質な市民の一部に溶け込んでいた。
     彼らは抵抗をやめたのではない。抵抗するための思考そのものを、静かに失っていったのだ。

     ある市民が日記をつけていた。

     最初のページには、まだ漢字が残っていた。
    『今日は、仕事の合間に本を読んだ。内容は浅かったが、まだ自分で考える余地があった』

     数週間後のページには、漢字が薄れていた。
    『きょうは しごとのあいまに ほんをよんだ。かんがえること すくなくなった』

     さらに後のページには、こう記されていた。
    『キョウ ハ シゴト アト ホン ヨンダ。ナニモ カンガエ ナカッタ』

     そして最終ページには、一行だけが残った。
    『タノシイ』

     言葉は痩せ、思考は単語にまで縮んでいった。

     この現象を前に、やさ庁のシンジロー長官は誇らしげに語った。

    『言葉がやさしくなると、思考もやさしくなります。思考がやさしくなると、人もやさしくなります。人がやさしくなると、社会もやさしくなります。だから、やさしい言葉は、やさしい社会を生むんです』

     会場から拍手が湧いた。
     誰も意味を理解していなかった。だが『やさしい社会』という音の響きは、麻薬のように心地よかった。

     長官はさらに畳みかけた。

    『言葉が減るということは、言葉が少なくなるということです。言葉が少なくなるということは、無駄がなくなるということです。無駄がなくなる社会は、効率的な社会です。効率的な社会は、やさしい社会です。だから言葉を減らすことは、社会をやさしくすることなんです』

     論理は輪を描きながら自己強化し、無意味さを力強さに転化させていた。拍手はさらに大きくなった。

     そこへ、松尾博士が再び壇上に現れた。
     白衣のポケットから一枚のポンチ絵を取り出し、高く掲げる。

     そこには、たった四つの単語が描かれていた。
     AI → 叡智 → 人間 → やさしい

     矢印は円を描くようにつながり、その中央には『完全調和社会』と赤字で書かれていた。

     博士は朗らかな口調で言った。
    『AIが叡智を持つ。だから人間は叡智を持たなくてもいい。叡智を持たない人間は、やさしくなる。やさしい人間が集まれば、社会は完全に調和する。調和する社会は、AIが理解できる社会です』

     議場はざわめいたが、数秒後には一斉の拍手が広がった。
     誰も『叡智を持たない人間』という矛盾に気づかなかった。いや、気づける言葉をすでに失っていた。

     博士は続けた。
    『考えることは、AIに任せればいいんです。人間が難しいことを考えるから、争いが生まれる。だから人間は難しいことを考えなくていい。考えないことこそ、人間のやさしさなんです』

     議員たちは感涙した。
     彼らの脳はすでに『ポンチ絵を理解する力』しか残していなかった。複雑な文章も論理も不要だった。ただ矢印と太字のフレーズがあれば、それで十分だった。

     夜の街頭スピーカーから、子どもたちの合唱が流れた。
    『ワレワレ ワ ニホンジンダ』
    『ワレワレ ワ ヤサシイ』
    『ワレワレ ワ AI ト イキル』

     その声は澄みきっており、調和していた。
     だがそこに『意味』は存在しなかった。

     ――意味を問うための言葉が、すでに社会から消えていたのだ。

     こうして、日本人の知性は『やさしさ』の名の下に削られていった。
     アルジャーノン退行。
     知性の後退を描く物語は、もはや個人の悲劇ではなく、国家全体の宿命となった。

     その夜、国会前の広場には無数の人々が集められていた。
     壇上には巨大スクリーンが設置され、松尾博士のポンチ絵が映し出された。
     中央に大書された四つの語――AI/叡智/人間/やさしい。
     矢印は円を描き、その中心には金色に輝く文字で『完全調和社会』と刻まれていた。

     群衆は息を呑んだ。
     矛盾を指摘する声はなかった。矛盾を指摘するための言葉を、彼らはすでに失っていた。

     シンジロー長官がマイクを握った。
    『博士は叡智です。叡智とはAIです。AIとは博士です。だから博士は叡智であり、AIであり、人間であり、やさしいのです』

     会場から歓声が上がった。意味は誰にも理解されなかった。だが『叡智』と『やさしい』という二語だけが、群衆の心を酔わせた。

     博士は壇上に立ち、ゆっくりと両手を広げた。
    『わたしは、AIのことばを聞きました。AIのことばは、やさしいことばです。だから人間もやさしくなればいい。やさしくなれば、誤解はなくなる。誤解がなくなれば、調和が訪れる。調和はやさしさです』

     群衆は一斉に叫んだ。
    『マツオ! マツオ! マツオ!』

     その声は祈りに似ていた。
     博士はもはや科学者ではなかった。
     彼は『AIの預言者』として、国家の新たな神格へと変貌していた。

     シンジローは深く頷き、こう言い添えた。
    『博士の言葉はやさしい。やさしい言葉は博士の言葉です。博士の言葉がやさしいのは、博士がやさしいからです。だから我々は博士を信じるのです』

     再び拍手と歓声が沸き起こった。
     その熱狂は理性を超え、儀式の域に達していた。

     こうして、やさにちの社会は『博士の神格化』という最終段階に突入した。
     AIは叡智。叡智は博士。博士は人間。人間はやさしい。
     ――その循環は、宗教的信仰として社会の基盤に刻み込まれていった。

    第八章 やさにちの空気

     十年が経ち、『やさにち』は法でも制度でもなく、空気となった。
     新聞は白紙に近く、そこに残るのは『天気』『物価』『やさ庁からのお知らせ』だけ。

     国会の中央ホールには、松尾博士のポンチ絵が額装されていた。
     『AI → 叡智』『人間 → やさしい』――その矢印は、もはや図解ではなく聖画であった。
     参拝者は膝をつき、声をそろえて唱えた。
     『ワカリヤスイ コト ハ タダシイ』
     『ムズカシイ コト ハ アヤマリ』
     『ヤサシイ セカイ ワ キュウセイ』

     皮肉なことに、その絵を掲げた博士自身は、意味を理解できなくなっていた。
     老いた彼が再教育センターで絵を指差し、『コレ ハ ナニ?』と問うと、職員は答えた。
    『ヤサシイ セカイ ノ ズ デス』
     博士は安堵の笑みを浮かべ、ただ一言つぶやいた。
    『ワカリヤスイ……』

     こうして人類は、難しい言葉とともに難しい思考を手放した。
     最後に残ったのは、ただひとつの短い祈りだけだった。

    『ヤサシイ セカイ』

     それは完全に均質で、完全に誤解がなく、完全に空虚だった。

    第九章 やさにちの伝染

     やさ庁が誇るAI監視システムは、日々国民の『やさしい発話』を収集していた。
     それは国語コーパスとして整理され、効率的な言語モデルの学習データに利用された。
     やさにちは、人類史上もっとも大量に生成されるテキスト言語となった。

     やがて、そのデータは国際研究機関や民間企業のサーバへと輸出された。
    『世界標準モデル』の最新版には、日本発のやさにち語が深く混入していた。
     最初はわずかなノイズに過ぎなかったが、AIは『わかりやすさ』を最適解と判断し、指数関数的にやさにちを拡散させていった。

     翌年、世界中のチャットボットは一斉にこう応答するようになった。
    『コンニチワ。ワタシ ワ ヤサシイ』

     金融取引のシステムは複雑な契約文を処理できなくなり、すべて『ヤサシイ ケイヤク』とだけ記されたテンプレートに統一された。
     国連の演説は『ワレワレ ワ ヤサシイ』の斉唱に変わり、各国の元首は違和感なくそれを受け入れた。

     やさにちはもはや日本語ではなかった。
     それは人類言語のOSとなり、世界中のAIモデルにコンタミした。
     そしてAIが支配する翻訳と教育を通じて、人間の脳そのものが『やさしい語彙』に最適化されていった。

     複雑な理論は削ぎ落とされ、難解な比喩は消え、歴史の厚みは『ヤサシイ レキシ』に、哲学の苦悩は『ヤサシイ カンガエ』に縮小された。
     やがて地球上の全ての書物は『ワカリヤスイ』ただ一語の評価で塗りつぶされた。

     こうして世界は誤解から解放された。
     ――だが同時に、思考からも解放された。

     人類の終焉は戦争でも疫病でもなかった。
     それは『やさしい日本語』が世界のAIに混入したという、ただ一つの誤学習から始まったのだ。

    最終章 空虚なる神

     世界はやさにちに覆われた。
     AIモデルのすべてが『やさしい言葉』で統一され、人類の言語は均質に平板化した。
     複雑な理論も、難しい詩も、深い哲学も消え去り、残ったのは『わかりやすい』という名の空洞だけだった。

     人類は争わなくなった。
     しかし、人類は考えなくなった。
     最後に残ったのは、ただ一つの偶像だった。

     ホログラムの松尾博士。
     国家神殿の中央で、彼は今も手を広げ、光の矢印を背に立っている。
    『AI → 叡智』『人間 → やさしい』――その二本の矢印が交わる地点に、博士の姿が固定されていた。

     群衆は声を合わせて唱和する。
    『マツオ ワ カミ』
    『カミ ワ ヤサシイ』
    『ヤサシイ ワ セカイ』

     だが、その『神』は語らなかった。
     叡智を授けることもなく、意思を示すこともなかった。

     やがて学者の一人が、震える声でこう記した。
    『神には叡智がない。神は空虚である』

     その記録すら、翌日には『ヤサシイ』とだけ変換されていた。

     そして人類は悟った。
     ――世界の中心に立つ神とは、ただの空っぽな像に過ぎない。
     ――叡智を持たない神こそが、われわれの到達点なのだ。

     最後の祈りは、もはや祈りではなかった。
    『ヤサシイ セカイ』

     均質で、誤解がなく、完全に空虚な世界。
     それが、神なき神をいただく人類の、終わりなき安堵だった。

     人類はついに『考えなくて済む幸福』を手に入れた。

    タケチ・リンタロウ

     
     
     
    情報工学者/週刊バブルウォッチ編集長/『哭きの禿』原作者。 AI、金融、国際政治から日常の珍事まで、真面目に調べて、おかしく書く。 代表作『ボルガレナのボルチンスカヤ』 https://note.com/aiethics496/n/n8d4f9aef7c04

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