
もし簿価 ~ もしソドムバンクの女子インターンが簿価会計の教科書を読んだら ~(後編)
第十二章 固定資産台帳に載らないもの
それは、この一週間で最も信頼できる助言だった。
ごはんを食べる。
人類の叡智の一万倍より先に、ごはんである。
全知全能の神より先に、味噌汁である。
AI千手観音より先に、炊飯器の保温を切ることである。
乃嶺はその夜、母の言葉に従って、冷凍ごはんを温めた。電子レンジの回転皿が、ゆっくりと回っていた。世界を変える気はまったくなさそうだった。だが、冷凍ごはんは温まった。
すばらしい。
電子レンジは、少なくとも自分の仕事をした。
人類の幸福を語らない。
ASIを名乗らない。
ニューロン数で金魚を見下さない。
それでも、冷凍ごはんを温める。
乃嶺は思った。
もしかすると、文明とはこの程度でよいのではないか。
ごはんが温まり、請求書が届き、給料が振り込まれ、社債が償還され、Excelのリンクが切れていない。
それで十分ではないか。
少なくとも、二兆三兆を誤差として処理するよりは、人間の暮らしに近い。
食事を終えた乃嶺は、鞄から『簿価会計入門』を取り出した。
表紙は少し汚れていた。
ソドムバンクの倉庫から持ち出したときには、ただ古い本だった。今は、護符のように見えた。護符というより、資本主義の妖怪を退けるための鈍い道具である。いや、道具という言葉も少し違う。会計は物理で戦わない。会計は、帳簿の欄外から静かに人を冷やす。
乃嶺はページを開いた。
取得原価。
減価償却。
減損。
引当金。
継続企業の前提。
そこには、相変わらず地味な言葉が並んでいた。
だが、その夜だけは違って見えた。
ページの隙間から、金魚が見えた。
赤い金魚。
ぱくぱく。
乃嶺は目をこすった。
金魚はいなかった。
だが、いた。
会計の教科書の余白に、金魚本尊様の影が揺れていた。
ぱくぱく。
含み益は、餌ですか。
ぱくぱく。
社債は、水ですか。
ぱくぱく。
AI革命は、酸素ですか。
ぱくぱく。
金魚鉢の水は、誰が替えるのですか。
乃嶺は本を閉じた。
疲れている。
そう思った。
だが、疲れている人間ほど、企業の本質が見えることがある。元気なとき、人は企業理念を信じる。疲れたとき、人は請求書を見る。
一週間後、乃嶺のもとにインターン選考結果のメールが届いた。
結果は、保留だった。
正確には、早期選考への案内は見送り。今後の通常選考での応募は歓迎する、という文面だった。
就活における「今後の通常選考での応募は歓迎する」は、恋愛における「またみんなで会おう」に近い。完全な拒絶ではない。だが、二人で会う予定でもない。
要するに、会社は乃嶺を嫌いではなかった。
ただ、採用するほど好きでもなかった。
ちょうどよい距離感で、未来に置いた。
乃嶺はそのメールを読み、少し笑った。
「評価損、計上」
スマホを机に置いた。
その瞬間、画面が一瞬だけちらついた。
件名が変わったように見えた。
慎重に選考を重ねました結果。
南無人的資本。
誠に残念ながら。
南無カルチャーフィット。
早期選考へのご案内は。
南無サイレント不採用観音。
見送らせていただきます。
南無今後のご活躍。
心よりお祈り。
南無お祈りメール。
申し上げます。
乃嶺はスマホを伏せた。
祈られた。
正式には祈られていない。
だが、文面の奥で祈られていた。
就活の祈りは、明示されなくても漂う。寺の線香の匂いのように、文末に残る。
乃嶺は、自分が笑っていることに気づいた。
だが、その笑いは少しだけ硬かった。
彼女もまた、就活生だった。
どれほどNAVを疑っても、どれほどAI千手観音を見破っても、どれほど金魚本尊様のぱくぱくを聞き取っても、エントリーシートの志望動機欄には、それなりに前向きなことを書かなければならない。
御社の理念に共感しました。
成長環境に魅力を感じました。
若いうちから裁量を持って挑戦できる点に惹かれました。
南無御社が第一志望です真言。
乃嶺は、自分のノートにそう書いて、すぐ二重線で消した。
だが、消した文字ほど、心には残る。
簿価で語れ。
現金で考えろ。
未来は、そのあとでよい。
そう書いた同じ手で、彼女は次の会社の志望動機を入力した。
人間は、帳簿ほど正直には生きられない。
乃嶺は『簿価会計入門』を開いた。
最終章には、継続企業の前提について書かれていた。
企業は、通常、予見しうる将来にわたって事業を継続することを前提として財務諸表を作成する。
乃嶺は、その一文を何度も読んだ。
企業は継続することを前提としている。
人も、そうなのかもしれない。
学生は、就職することを前提としている。
会社員は、会社が続くことを前提としている。
投資家は、償還されることを前提としている。
経営者は、未来が来ることを前提としている。
信者は、教祖が間違えないことを前提としている。
金魚は、水が替えられることを前提としている。
だが、その前提は、保証ではない。
ただの前提である。
乃嶺はノートを開き、インターンの最後に自分が作ったスライドの文言を書き直した。
簿価で語れ。
現金で考えろ。
未来は、そのあとでよい。
少し考えて、最後に一行加えた。
ただし、未来を語る者ほど、簿価を嫌う。
さらに、もう一行足した。
そして、簿価を嫌う者ほど、金魚に説教を始める。
彼女は笑った。
それは、就活に失敗した学生の笑いではなかった。
世界の見え方が少し悪くなった人間の笑いだった。
その悪さは、必要だった。
だが、悪さだけでは足りなかった。
なぜなら、社会は悪さをすぐに吸収するからである。
皮肉はバズる。
風刺は消費される。
怒りはコンテンツになる。
そして最後には、批判すらマーケティング部門に回収される。
「当社に対する厳しいご意見も、今後の企業価値向上に活かしてまいります」
この一文で、たいていの怒りは社内資料の一ページに封じ込められる。怒りはPDF化され、共有フォルダに保存され、翌年の改善施策リストに転生する。やがて誰も開かなくなる。
数か月後、乃嶺は別の会社の財務部門に内定した。
その会社は地味だった。
受付の床は光っていなかった。壁面ディスプレイもなかった。企業理念のフォントも古かった。会議室の椅子は少し沈んでいた。ウォーターサーバーはあったが、水の出が遅かった。社内システムは、一度ログインに失敗すると、こちらの人格まで否定してくるようなエラーメッセージを出した。
だが、面接で財務部長がこう言った。
「うちは夢を語るのが下手です。でも、現金は見ています」
その一文で、乃嶺は入社を決めた。
人間、最後は相性である。
ただし、相性にも財務内容がある。
入社初日、乃嶺は固定資産台帳の確認を任された。
機械装置。
建物附属設備。
工具器具備品。
ソフトウェア。
減価償却累計額。
取得年月。
耐用年数。
除却予定。
現物確認。
地味だった。
猛烈に地味だった。
ソドムバンクのインターンで見たAI投資資料とは、同じ資産という言葉を使っているのに、まるで違う生き物だった。あちらの資産は、画面の中で成長していた。こちらの資産は、工場の隅で油に汚れていた。
だが、乃嶺は思った。
本当の資産とは、汚れるものなのかもしれない。
使われる。
減る。
壊れる。
修理される。
償却される。
最後には除却される。
それでも、何かを生む。
一方で、きれいな資料の中にだけ存在する資産は、汚れない。汚れない代わりに、ある日突然、評価だけが消える。まるで最初から夢だったかのように。
財務部長が乃嶺の席に来た。
「どうですか、地味でしょう」
「はい。安心します」
「変わっていますね」
「前のインターンで、未来味の強い資料を見すぎました」
「未来味?」
「AI、NAV、指数関数、エコシステム、価値創造、社会実装。そういう調味料です」
財務部長は笑った。
「うちにはありませんね」
「ない方が胃に優しいです」
部長は台帳を見た。
「固定資産台帳は、会社の記憶です。派手な仕事ではありませんが、これが崩れると、会社は自分が何を持っているのか分からなくなります」
「自分が何を持っているか分からない会社は、何を失ったかも分からないですね」
「その通りです」
乃嶺は少し驚いた。
この会社には、会話が通じる大人がいる。
それは、かなり大きな福利厚生だった。
夕方、乃嶺は倉庫で現物確認をした。
古い機械があった。まだ使われているものも、使われていないものもあった。台帳には残っているが、現場ではすでに存在感を失っている備品もあった。逆に、現場では大事に使われているのに、台帳上では償却済みで簿価一円になっているものもあった。
簿価一円。
乃嶺は、その数字に妙な愛着を覚えた。
会計上は、ほとんど価値がない。
だが、現場ではまだ働いている。
これは人間にも似ている。
会社の評価制度では目立たない。
人事データベースでは高くない。
華やかなプロジェクトには呼ばれない。
社内報にも出ない。
だが、その人がいないと現場が止まる。
簿価一円の人間。
社会は、そういう人たちで動いている。
未来を語る経営者より、壊れた機械を直す係長。
AI戦略を語る役員より、請求書の金額違いに気づく経理担当。
人的資本経営を語る資料より、退職者の引き継ぎメモ。
パーパスより、月末締め。
エコシステムより、棚卸し。
情報革命より、未払金の消し込み。
会社は夢で動いているのではない。
会社は、誰かが面倒くさいことを逃げずに処理しているから動いている。
だが、その夜から、乃嶺は妙な夢を見るようになった。
夢の中で、固定資産台帳が開いている。
Excelのセルが無限に続いている。
A列には資産番号。
B列には取得年月。
C列には簿価。
D列には減価償却累計額。
E列には担当部署。
F列には、なぜか「金魚」と書かれている。
下へスクロールしても、下へスクロールしても、金魚。
金魚。
金魚。
金魚。
金魚。
そして最下行に、こう書かれている。
資産名称 金魚本尊様
取得価額 二兆三兆誤差内
耐用年数 十年以内にASI到来予定
償却方法 信仰定額法
減損兆候 酸素不足
備考 人類叡智一万倍の水槽に移行予定
乃嶺は夢の中で叫んだ。
「固定資産ではありません。生物です」
すると、どこからか声がした。
「生物ではない。ニューロンである」
別の声が重なる。
「ニューロンではない。人的資本である」
さらに別の声が言う。
「人的資本ではない。金魚本尊様である」
画面の奥から、AI千手観音が現れた。
千の手には、それぞれ違うものが握られていた。
PowerPoint。
GPU。
社債目論見書。
有価証券報告書。
ES。
内定承諾書。
退職願。
Excel。
COBOLの古いソースコード。
そして、なぜか冷凍ごはん。
AI千手観音は、荘厳な声で言った。
「悔い改めよ」
乃嶺は答えた。
「まず、勘定科目を確認してください」
千手観音は一瞬止まった。
「勘定科目とは何か」
「そこからですか」
「私は人類叡智一万倍である」
「では、借方と貸方を」
千手観音は沈黙した。
遠くで金魚本尊様が、ぱくぱくと口を開けた。
乃嶺は目を覚ました。
朝だった。
スマホには、会社からのメールが来ていた。
件名は、固定資産台帳差異確認のお願い。
現実だった。
夢よりひどい。
年度末、乃嶺は初めて決算作業に参加した。
月次決算とは違う緊張があった。営業部は数字を急ぎ、製造部は在庫を数え、経理部は未収金と未払金を追い、財務部は資金繰りを確認し、管理部は監査法人からの質問に備えた。
会社全体が、年に一度、自分の体重計に乗る。
ただし、その体重計は高性能すぎて、体重だけでなく、脂肪率、骨密度、血糖値、過去の暴飲暴食、隠していた間食まで見える。
決算とは、会社の健康診断である。
そして多くの会社は、健康診断の直前だけ生活習慣を整えようとする。
乃嶺は固定資産台帳の差異リストを見ていた。
現物あり、台帳なし。
台帳あり、現物なし。
部門移動未反映。
除却漏れ。
資産区分誤り。
耐用年数確認。
金魚らしきもの、台帳なし。
乃嶺は最後の行で手を止めた。
「金魚らしきもの、台帳なし」
誰が入力したのか。
現場の冗談か。
それとも夢の残滓か。
財務部長に聞くと、彼は眉をひそめた。
「何ですか、それ」
「分かりません。現物確認します」
「お願いします」
乃嶺は倉庫へ向かった。
倉庫の奥には、古い備品、壊れた椅子、使われなくなったモニター、どの会議室のものか分からないホワイトボード、そして小さな水槽があった。
金魚が一匹、泳いでいた。
ぱくぱく。
乃嶺は立ち尽くした。
水槽には、ラベルが貼られていた。
管理番号なし。
取得年月不明。
所属部署不明。
備考 前任者より引き継ぎ。
乃嶺は思った。
これが会社である。
誰が買ったか分からない。
何のために置かれたか分からない。
誰が世話をしているか分からない。
だが、なぜか存在している。
そして、誰かが水を替えないと死ぬ。
会社には、そういうものが多すぎる。
システム。
規程。
慣習。
会議。
共有フォルダ。
Excel。
古いマクロ。
古い人間関係。
古い怒り。
古い夢。
古い金魚。
乃嶺は水槽を見た。
金魚は、ぱくぱくしていた。
餌を求めているのか。
酸素を求めているのか。
ただ習性で口を動かしているのか。
分からない。
資本市場と同じだった。
財務部長が後ろから来た。
「いましたか」
「いました」
「本当に金魚ですか」
「はい」
「台帳に載せますか」
乃嶺は少し考えた。
会計上、金魚は固定資産ではない。少なくとも、この会社の規模では重要性がない。資産計上するほどでもない。消耗品でもない。福利厚生でもない。研究開発費でもない。広告宣伝費でもない。宗教法人でもない。
だが、ここにいる。
存在している。
水を替えないと死ぬ。
乃嶺は言った。
「台帳には載せません」
「では、どうしますか」
「世話当番表を作ります」
財務部長は笑った。
「それが正解ですね」
会計には載らない。
だが、管理は必要である。
世の中には、そういうものがある。
いや、むしろ大事なものほど、会計には載らないことがある。
正気。
沈黙。
信頼。
違和感。
引き継ぎ。
現場勘。
そして、金魚の水替え。
乃嶺は水槽の前に、小さな紙を貼った。
金魚当番表
月曜 総務
火曜 経理
水曜 財務
木曜 製造
金曜 営業
土日 自動給餌器
備考 水が濁っていたら気づいた人が替えること
それは、会社の中で最も小さな内部統制だった。
だが、最も信用できる内部統制でもあった。
なぜなら、誰かが本当に見なければ、金魚は死ぬからである。
AI千手観音は見てくれない。
ASI如来も来ない。
人類叡智一万倍も、水槽の水は替えない。
全知全能の神がいたとしても、総務の給湯室にあるカルキ抜きの場所までは知らない。
だから、人間がやる。
面倒くさいことを、人間がやる。
それが仕事だった。
終章 未来には、いつも但し書きがある
その日の夕方、監査法人から追加質問が来た。
ソフトウェア資産の一部について、使用状況と減損兆候の確認を求めるものだった。
乃嶺は、画面の文面を見た。
減損兆候。
久しぶりに聞く言葉だった。
ソドムバンクの倉庫で拾った『簿価会計入門』から始まった言葉が、今、自分の仕事として戻ってきている。
対象システムは数年前に導入されたものだった。導入時には業務効率化の切り札とされた。社内説明会では、ペーパーレス、効率化、見える化、データ活用、DX推進といった言葉が踊っていたらしい。
だが、現在、そのシステムはあまり使われていなかった。
現場がExcelに戻っていたからである。
DXとは、Excelに敗北することで完成する社内巡礼である。
大企業も中小企業も、最後はExcelに帰る。Excelは資本主義の畳である。どれほど立派なシステムを導入しても、人は最後に畳へ座る。
乃嶺は現場担当者に確認した。
「このシステム、現在どの程度使っていますか」
担当者は困った顔をした。
「一応、使っています」
出た。
一応。
会社で最も危険な副詞である。
一応使っています。
一応確認しました。
一応共有済みです。
一応問題ないと思います。
一応とは、責任を薄めるための霧である。
乃嶺は聞いた。
「一応ではなく、実際にはどれくらいですか」
担当者は視線をそらした。
「月に数回です」
「主要業務では使っていない?」
「実際には、Excelの方が早くて」
「導入時の想定効果は出ていますか」
「出ていません」
言葉は短かった。
だが、これで十分だった。
夢が減損の扉を叩いていた。
乃嶺は報告メモを書いた。
導入時に想定された利用頻度および業務効率化効果に対し、現在の実利用は限定的である。主要業務は既存のExcel運用に回帰しており、当初見込まれた将来便益の一部について、回収可能性の再評価が必要である。
書いていて、少し笑った。
AIでも、DXでも、未来でも、最後はこの文体になる。
将来便益の再評価が必要である。
これほど地味で、これほど残酷な文章はない。
夢は死ぬとき、文学的に死なない。
会計的に死ぬ。
その夜、乃嶺は帰宅後、鞄から『簿価会計入門』を取り出した。
表紙は少し汚れていた。
ページの端には、自分の書き込みが増えていた。
夢が現金で回収できなくなったとき、会計は目を覚ませと言う。
開示とは、見せることではない。見たことにする制度である。
売れる範囲で説明する。
未来は資産ではなく仮説である。
会計は、見えるものを正確にする。だが、見えないものを救うとは限らない。
金魚は、台帳に載らなくても水を替えなければ死ぬ。
乃嶺は最後のページに、新しく一行を書いた。
仕事とは、夢を壊すことではない。夢が他人の財布を壊す前に、数字で止めることだ。
さらに一行。
全知全能の神が来ても、月末締めは人間がやる。
少し毒が強い気もした。
だが、消さなかった。
翌日、彼女は会社へ向かった。
受付の床は相変わらず光っていない。
観葉植物も少し元気がない。
ウォーターサーバーの水も遅い。
社内システムは今日も昭和の怨霊のような音を立てる。
金魚は、ぱくぱくしていた。
だが、その会社には、現金の匂いがあった。
夢は少ない。
だが、請求書はある。
入金もある。
支払予定もある。
固定資産台帳もある。
未払金もある。
減価償却もある。
金魚当番表もある。
人間が働くというのは、たぶんこういうことなのだ。
人類を幸せにする前に、まず今月の支払いを間違えない。
世界を変える前に、棚卸差異を潰す。
AI革命を語る前に、使われていないソフトウェア資産を見直す。
情報革命で人々を幸せにする前に、経理担当者を過労死させない。
全知全能の神を待つ前に、金魚の水を替える。
乃嶺は自席に座り、Excelを開いた。
セルが並んでいた。
無数の小さな箱。
その一つ一つに、数字が入る。
数字は、未来を語らない。
人類の幸福も語らない。
人類叡智一万倍も語らない。
金魚を恫喝しない。
だが、嘘をつかせない力がある。
もちろん、数字も嘘をつく。
正確には、人間が数字を使って嘘をつく。
だから、誰かが見る必要がある。
誰かが聞く必要がある。
その数字は何か。
その前提は何か。
その資産は回収できるのか。
その負債は返せるのか。
その未来は、誰の財布で買ったのか。
その水槽は、誰が管理するのか。
その質問をする人間は、嫌われる。
出世もしにくい。
面接にも落ちる。
だが、必要である。
大神乃嶺は、最初のセルに数字を入れた。
働くとは、未来を信じることではない。
未来を語ったあとに、帳簿を閉じずに残ることだ。
そして、誰も見ていないセルに、最後の数字を入れることだ。
その数字が、簿価だった。
その横で、金魚がぱくぱくした。
乃嶺は顔を上げた。
「水、替えた?」
誰も答えなかった。
だから彼女は立ち上がった。
Excelを保存し、金魚鉢へ向かった。
未来は、そのあとでよい。
(完)