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そして誰も育てなくなった 第2話:名前を取り戻す教室

    武智倫太郎

    翌日の教室で、還元くんがポイ太の席に座っていた。
    「おまえ、見たか」
    「何を」
    「扶養利回り」

    還元くんは、自分の端末を見せた。

    氏名:山崎還元
    出生順位:第三子
    月額扶養ポイント:九十万ポイント
    地域商店街消費加算:高
    扶養利回り:Aマイナス

    還元くんは得意そうだった。だが、その目は笑っていなかった。
    「Aマイナスなのに、親が怒ってた」
    「なんで」
    「Aじゃないから」
    この国では、どこまで上がっても、まだ上がある。
    ポイントは人間を満足させるためにあるのではない。足りない気分を永遠に作り続けるためにある。

    前の席の満額くんが振り向いた。
    「俺、Sだった」
    還元くんの顔が変わった。
    「本当かよ」
    満額くんは端末を伏せた。
    「うち、第五子加算まで入ってるから」
    「いいじゃん」
    「よくない」
    満額くんは、小さく言った。
    「姉ちゃん、もうすぐ満了する」

    教室の空気が少し止まった。
    満了。
    その言葉を聞くと、子どもたちは自然に声を落とす。大人の前で使ってはいけない言葉ではない。むしろ行政文書には堂々と出てくる。だが、子どもたちにとっては、家の中で誰も直視しない言葉だった。

    満額くんの姉は、満里奈という。
    正確には、満額里奈。
    十八歳まで満額でポイントが付くように。そういう願いを込めて名付けられた。
    願いというより、予算計画である。

    「あと何日」
    ポイ太が聞くと、満額くんは端末を見ずに答えた。
    「七日」
    「七日って、来週じゃん」
    「うん」
    「家、どうすんの」
    満額くんは肩をすくめた。
    「知らない。親は感謝送出イベントの準備してる」
    「イベント?」
    「十八年間ありがとうって動画を撮るんだって。ちゃんと笑えたら、送出ポイントが付く」
    ありがとう。
    その言葉まで、制度の中に入っていた。

    朝の会が始まった。
    担任の立花先生は、いつものように笑顔だった。だが、その笑顔は昨日より少し薄かった。
    黒板の右上には、銀色の端末が取り付けられていた。中央に小さなレンズ。横に青いランプ。
    「みなさん、おはようございます。今日から、教室にも次世代家庭形成支援統合判断基盤の補助端末が入ります」
    教室がざわついた。
    「これは、みなさんを監視するものではありません。みなさんの安心な学校生活を支えるための見守り支援です」

    見守り。
    ポイ太は、その言葉が嫌いだった。
    見守りという言葉は、いつも上から降ってくる。見守られる側の子どもに、見るか見ないかを決める権利はない。
    端末が、やわらかい音を鳴らした。

    【おはようございます】
    【私は、みなさんの未来を支える学習支援AIです】
    【安心で前向きな対話をお手伝いします】

    声は優しかった。
    優しい声であるほど、逃げ場がない。
    道徳の時間、立花先生は昨日と同じ質問をした。
    「家族にとって、自分はどんな存在か。今日は前向きな言葉で考えてみましょう」
    前向きな言葉。
    それは、後ろ向きな本音を隠すための布である。
    順番に子どもたちが立った。

    「私は、家族を明るくする存在です」
    【肯定的自己理解。良好】

    「地域経済に貢献する存在です」
    【制度理解良好。ただし自己対象化傾向あり。経過観察】

    「家族の計画の一部です」
    【家庭内資源化認識の可能性。支援候補】

    最後に、ポイ太の番が来た。
    「ポイ太くん」
    先生の声が、少しだけ慎重になる。
    「あなたは、家族にとってどんな存在ですか」
    昨日なら「月三十万です」と答えた。
    だが、今日はそれでは足りない気がした。
    ポイ太は、教室を見た。
    還元くん。
    満額くん。
    付与子。
    一子落ちと笑った子。
    笑われて黙った子。
    グラフで上にいる子。
    下にいる子。
    もうすぐ満了する姉を持つ子。
    それから、口を開いた。
    「分かりません」

    青いランプが点滅した。
    【自己理解未確定。追加説明を推奨します】

    立花先生が少しだけほっとした顔をした。
    「分からない、というのも大切な気づきですね」
    ポイ太は続けた。
    「でも、月三十万よりは多いと思います」
    教室の何人かが顔を上げた。
    「僕は、弟の半分でも、妹の三分の一でもありません。還元くんはAマイナスでもありません。満額くんはSでもありません。付与子は良好でもありません」

    先生が一歩前に出た。
    「ポイ太くん、その話は」
    「名前で呼んでください」
    ポイ太は、先生を見た。
    「僕の名前は、佐藤歩太です」
    教室がざわついた。
    誰かが笑いかけて、やめた。

    シビュラ源内ピコが鳴った。
    【登録名と異なる自己呼称を検知しました】
    【本人確認のため、発話内容を記録します】

    ポイ太は続けた。
    「歩太です」
    最初に反応したのは、満額くんだった。
    「俺は、満額じゃない」

    【登録名と異なる自己呼称を検知しました】

    「本名、満。菅野満」
    還元くんが机を指で叩いた。
    「俺は、還元じゃない。本名は拓真」
    付与子が小さく手を上げた。
    「私は、付与子じゃなくて、結衣」
    教室の奥から、別の声がした。
    「俺、景品じゃない。圭一」
    「達成じゃない。達也」
    「継続じゃない。香澄」
    名前が、一つずつ出た。
    それは反乱というには小さすぎた。
    だが、授業としては完全に壊れていた。

    シビュラ源内のランプが青から黄色に変わった。
    【複数児童による登録名不一致発話を検知】
    【教室安心対話モードを開始します】

    スピーカーから、優しい声が流れた。
    【みなさん、落ち着きましょう。】
    【登録名は、家庭と行政をつなぐ大切な情報です】
    【自分の名前について不安がある場合は、先生や保護者に相談しましょう】

    ポイ太は、初めてその声に向かって言った。
    「不安じゃない」
    シビュラ源内は沈黙した。
    「不安じゃない。思い出しただけです」
    立花先生が、ゆっくりと教卓の横へ歩いた。
    そこには、補助端末の停止ボタンがあった。教師が押せば、理由の入力を求められる。理由が不十分なら、指導記録が残る。
    先生の指が、ボタンの上で止まった。
    歩太は息を止めた。
    拓真も、満も、結衣も、教室中の子どもたちが先生を見た。
    立花先生は、笑わなかった。
    怒りもしなかった。
    ただ、小さく言った。
    「先生も、下の名前で呼ばれるのは久しぶりです」
    そして、停止ボタンを押した。
    端末のランプが消えた。
    教室に、機械の音がなくなった。
    その瞬間、教室はこんなに広かったのかと、歩太は初めて思った。
    放課後、呼び出されたのは歩太、満、拓真、結衣の四人だった。
    正式には、安心対話確認である。
    呼び出しではない。
    指導ではない。
    注意でもない。
    安心対話確認。
    言葉がやわらかくなるほど、逃げ道は細くなる。

    会議室には、立花先生と学年主任、自治体の子育て連携支援員がいた。支援員の胸には、雲のマークのバッジがある。
    「今日は、みなさんが自分の名前について少し不安を感じているようなので、お話を聞かせてください」
    歩太は答えた。
    「不安ではありません」
    「では、自己理解の再確認ですね」
    「違います」
    「では、登録名への違和感でしょうか」
    「違います」
    「では、家庭内呼称と自己認識の調整課題ですね」
    歩太は、初めて分かった。
    この人たちは、こちらの言葉を聞いていない。
    聞いてから、箱に入れている。
    入る箱がなければ、新しい箱を作る。
    箱に入った瞬間、こちらの言葉は別のものになる。
    満が口を開いた。
    「姉ちゃんは、満里奈です」
    支援員の笑顔が固くなった。
    「お姉さんのお話ですか」
    「満了児じゃありません」
    会議室の空気が変わった。

    タブレットの雲のマークが、ゆっくり点滅した。
    【満了という表現は、誤解を招くことがあります。正しくは、成人自立移行予定者です】

    「姉ちゃんは、満里奈です」
    満は繰り返した。
    拓真が聞いた。
    「成人自立移行って、子どもが家族じゃなくなることですか」
    「そういう意味ではありません」
    「じゃあ、何ですか」
    支援員は答えなかった。

    タブレットが先に答えた。
    【成人自立移行とは、扶養対象期間を終えた若者が、家庭依存から地域社会参加へ円滑に移行するための支援過程です】

    満はタブレットを見た。
    「姉ちゃん、家にいたいって言ってた」
    支援員は、すぐに言った。
    「一時的な不安ですね」
    「違う」
    満の声が震えた。
    「帰りたいって言ってた」

    雲のマークが赤くなった。
    【家庭回帰語彙を検知しました】
    【満了予定者への情緒的接触は、自立支援計画に影響する可能性があります】

    結衣が小さく言った。
    「帰りたいって、悪い言葉なの」
    誰も答えなかった。
    歩太は、その沈黙を覚えておこうと思った。
    大人は、都合の悪い質問に答えない。
    だが、答えないことも答えである。
    帰りたい。
    その言葉は、制度にとって危険なのだ。
    帰り道、四人は商店街の裏にある古い自動販売機の前に集まった。自動販売機は、もう使われていない。コカポ決済に対応していないからだ。古すぎて、誰もメンテナンスしない。だから、監視カメラもなかった。
    そういう場所だけが、子どもたちには少し安全だった。

    「姉ちゃんに、手紙を渡したい」
    満が言った。
    「何て書くの」
    歩太が聞くと、満はしばらく黙った。
    それから言った。
    「満了しても、名前は残ってるって」
    四人は、古い自動販売機の前で立ち止まった。
    夕方の風が吹いた。
    ポイント広告の旗が揺れた。
    歩太は言った。
    「手紙、書こう」
    「渡せるかな」
    「分からない」
    歩太は正直に言った。
    「でも、書かないと渡せない」
    拓真が笑った。
    「算数より分かりやすいな」

    その瞬間、四人の腕時計型端末が同時に震えた。
    【未認証小集団形成を検知しました】
    【目的を入力してください】

    四人は顔を見合わせた。
    目的。
    そんなもの、制度に教える必要はない。
    最初に端末を伏せたのは、満だった。
    次に拓真。
    結衣。
    最後に歩太。
    四つの黒い画面が、夕方の商店街に並んだ。
    端末を切ったわけではない。
    捨てたわけでもない。
    世界を変えたわけでもない。
    ただ、画面を下に向けただけだ。
    それでも、四人にとっては十分だった。

    そして誰も育てなくなった 第3話:満了児センターにつづく…

     
     
     
    情報工学者/週刊バブルウォッチ編集長/『哭きの禿』原作者。 AI、金融、国際政治から日常の珍事まで、真面目に調べて、おかしく書く。 代表作『ボルガレナのボルチンスカヤ』 https://note.com/aiethics496/n/n8d4f9aef7c04

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